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征夷大將軍 - 维基百科,自由的百科全书

征夷大將軍せいいたいしょうぐん

封建ほうけん日本にっぽんてき事實じじつじょうてき軍事ぐんじ獨裁どくさいしゃ(1185-1868)

征夷大將軍せいいたいしょうぐんにち语:征夷大将軍せいいたいしょうぐんせいいたいしょうぐん Seii Taishōgun */?これ日本にっぽん历史うえてきたけ家政いえまさてき最高さいこうりょうしるべじんため武家ぶけ棟梁とうりょうにち武家ぶけ棟梁とうりょうはらため大和やまと王權おうけんため對抗たいこう蝦夷えぞじんところ設立せつりつてき臨時りんじてき高級こうきゅうぐんかん職位しょくいほんおう於停戰時せんじそくこうなり退すさ。「えびすゆびてき就是曾在本州ほんしゅう北海道ほっかいどう居住きょじゅうてき蝦夷えぞじん,而「はたいち词指军阶なかてき高階たかしなりょうしるべ職務しょくむ唐名とうみょうため大樹だいき征夷大將軍せいいたいしょうぐんてき衙門しょう幕府ばくふちゅうぶん俗稱ぞくしょう征夷大將軍せいいたいしょうぐんため幕府ばくふ將軍しょうぐん」,也常簡稱其為「將軍しょうぐん」。

日本 日本にっぽん征夷大將軍せいいたいしょうぐん
日本にっぽん国大こくだいくん
日本にっぽん国王こくおう
國家こっか君主くんしゅ
详情
开国君主くんしゅみなもと赖朝镰仓幕府ばくふ
末代まつだい君主くんしゅ德川とくがわ庆喜こう幕府ばくふ
建立こんりゅう1185ねん文治ぶんじ勅許ちょっきょにち文治ぶんじ勅許ちょっきょ
终结1868ねん王政おうせい复古
居所きょしょ镰仓
京都きょうと
こう
产生方式ほうしき天皇てんのうさつふう形式けいしきじょう
继承せいこと实上)
にちうつしほう
にち原文げんぶん征夷大将軍せいいたいしょうぐん
假名かめいせいいたいしょうぐん
平文へいぶんしき罗马Seii Taishōgun
にちきゅう字體じたい征夷大將軍せいいたいしょうぐん

12世紀せいきまつ幕府ばくふ將軍しょうぐんてんため所有しょゆう武士ぶしあずか軍人ぐんじんてき首領しゅりょう天下てんかじんにち天下てんかじん。1192ねんみなもと賴朝よりとも消滅しょうめつ把持はじ朝政ちょうせいてき武家ぶけ政權せいけん伊勢いせたいら東北とうほく豪族ごうぞく奧州おうしゅう藤原ふじわらにん征夷大將軍せいいたいしょうぐん創立そうりつ镰仓幕府ばくふ,一時間能夠統領各地諸侯しょこうあずか軍人ぐんじんいちちょく保留ほりゅうちょ將軍しょうぐんあたま以後いごてき幕府ばくふ將軍しょうぐんみな襲用しゅうよう征夷大將軍せいいたいしょうぐんてき名号みょうごうよし1192ねん开始,だい部分ぶぶん幕府ばくふ將軍しょうぐんある武家ぶけ政權せいけん家督かとくがわ日本にっぽん皇室こうしつてき天皇てんのうなり天下てんかどもぬし掌握しょうあく日本にっぽん實際じっさい政權せいけんちょくいた1868ねん明治めいじ维新ためどめ天皇てんのう元老げんろうじゅうしん掌握しょうあく實權じっけん

よし於將ぐんためくびてき幕府ばくふ掌握しょうあく實際じっさい政權せいけん明朝みょうちょう朝廷ちょうてい也封いち部分ぶぶん室町むろまち幕府ばくふはた军为“日本にっぽん国王こくおう”(れい足利あしかが义满)。而鎌倉かまくら幕府ばくふ江戶えど幕府ばくふ将軍しょうぐん受封日本にっぽん國王こくおう江戶えど幕府ばくふ将軍しょうぐんだいごう日本にっぽん國大こくだいくん”。ざいおうゆかり於將ぐんてき長期ちょうき世襲せしゅう統治とうちいた後來こうらいおうしゅうじん訪日ほうにちほん,一直誤以為將軍就是日本的皇帝;ちょくいた幕末ばくまつ美國びくにいた日本にっぽんてき特使とくし也還ぼつゆうろう清楚せいそ

概要がいよう

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征夷大將軍せいいたいしょうぐんため奈良なら時代じだいいたり平安へいあん時代じだい期間きかん派遣はけんいたり東國とうごくまとだかかい將軍しょうぐんてきいち稱呼しょうこ。其後,以武政權せいけんたたえてき幕府ばくふ成立せいりつ也有やゆう將軍しょうぐん公方くぼう大樹だいき[ちゅう 1][まいり 1]大樹たいきこう御所ごしょとう稱呼しょうこあずか相似そうじてき職位しょくいゆうせいえびすふく將軍しょうぐんにちふく将軍しょうぐんせい狄大将軍しょうぐんせい西にし大將軍だいしょうぐんせい東大とうだい將軍しょうぐんにちせい東大とうだい将軍しょうぐん

歷史れきし

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奈良なら平安へいあん時代じだい

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所謂いわゆるせいえびす」,就是「征討せいとうえびすぞくてき意思いし征夷大將軍せいいたいしょうぐん就是めいじ征討せいとうえびすぞくてき军事ゆび挥官,平安へいあん时代おこりりつりょう軍隊ぐんたい出征しゅっせい主要しゅようたいへいたいづけ抵抗ていこう京都きょうとてき大和やまと政權せいけんてき蝦夷えぞじん有史ゆうし記錄きろく以來いらいだい一任いちにん征夷大將軍せいいたいしょうぐんため大伴おおともおとうと麻呂まろざい平安へいあん時代じだいさいだしめいてき將軍しょうぐんため坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろざい桓武かんむ天皇てんのうてき名義めいぎおびりょう軍隊ぐんたい平定へいていえびすじんとう蝦夷えぞじん趕出本州ほんしゅうこれ征夷大將軍せいいたいしょうぐんてき名號みょうごういち棄用。

ちょくいた後期こうき伊勢いせたいら首領しゅりょう平清盛たいらのきよもり於擊はい源義朝みなもとのよしとも後任こうにん太政大臣だじょうだいじんはさみ天子てんし以令諸侯しょこう把持はじ國政こくせい建立こんりゅうだいいち武家ぶけ政權せいけんざい往後てき源平げんぺい合戰かっせんなか源義仲みなもとのよしなか以「朝日あさひすすむ军」,おもんみひさ就被源義經みなもとのよしつね源範賴みなもとののりよりしょはいこれざい近江おうみこく粟津あわづこん滋賀しがけん大津おおつどう源範賴みなもとののりよりてき部下ぶか交戰こうせんじんほろび

鎌倉かまくら時代ときよ

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鎌倉かまくら幕府ばくふだい1だい征夷大將軍せいいたいしょうぐんみなもと賴朝よりとも

ざいじゅういち世紀せいき早期そうき,受將ぐん保護ほごてき大名だいみょうひかえせいりょう日本にっぽんてき內政事務じむ。其中清和せいわはじめ伊勢いせたいらため兩個りゃんこさいゆう勢力せいりょくてき家族かぞくためりょうひかえせいやめけい衰弱すいじゃくてき京都きょうと朝廷ちょうてい兩家りょうけそう不斷ふだんざい1160いた1185年間ねんかん伊勢いせたいらひかえせいりょう局面きょくめん平清盛たいらのきよもり殁後,たいら最終さいしゅうざい壇之浦だんのうらこれせんはい於源政權せいけん瓦解がかいみなもと頼朝よりとも消滅しょうめつ奧州おうしゅう藤原ふじわらしたがえ京都きょうと貴族きぞく中央ちゅうおう政府せいふちゅう取得しゅとく政權せいけん受冊ふうため征夷大將軍せいいたいしょうぐんざい鐮倉建立こんりゅうりょう日本にっぽん史上しじょうだい一個以幕府將軍為首的封建ほうけん武家ぶけ政權せいけん鎌倉かまくら幕府ばくふれい自己じこ取得しゅとく實權じっけんまたれい天皇てんのうざい按照法律ほうりつてき情況じょうきょう繼續けいぞく保持ほじいち國之くにゆきくんてき地位ちいざい1192ねんみなもと頼朝よりとも天皇てんのうふうため征夷大將軍せいいたいしょうぐん發展はってんてき軍人ぐんじん政權せいけん人稱にんしょうため幕府ばくふみなもと頼朝よりともてき妻子さいし北条ほうじょう政子まさこ所屬しょぞくてき北条ほうじょう家族かぞくざいみなもと賴朝よりとも殁後取得しゅとく政權せいけんみなもと賴朝よりともてきみなもとよりゆき源實朝みなもとのさねともあいつぎころせ源氏げんじ家族かぞくめつ幕府ばくふ將軍しょうぐんやめなりため傀儡かいらいにんよし世襲せしゅう執權しっけんいちしょくてき北条ほうじょう家族かぞく廢立はいりつ實權じっけん落在北条ほうじょうとくむねいえしゅじょう

ざい1274いた1281ねん大元おおもとさん進攻しんこう日本にっぽん雖然みな失敗しっぱいつげおわり,卻使幕府ばくふ元氣げんきだいきず最終さいしゅう衰亡すいぼうざい1333ねん北条ほうじょう攝政せっしょうてき鐮倉幕府ばくふひがししょうてら合戰かっせんこう推翻。

皇室こうしつちゅうてき兩個りゃんこ家族かぞくいちため大覺寺だいかくじみつる,另一持明院じみょういんみつるあいそう帝位ていいけい鎌倉かまくら幕府ばくふてき協調きょうちょう兩個りゃんこ家族かぞく決定けってい以更がえ方式ほうしきりゅう即位そくいそくすべ迭立おもんみざい1331ねん大覺寺だいかくじみつる不滿ふまん此制,最後さいご後醍醐天皇ごだいごてんのうながれちょくいたり1333ねん足利尊氏あしかがたかうじため奪回だっかい皇位こうい建立こんりゅうおこり天皇てんのう親政しんせいてきたてたけし政權せいけん」。

しか天皇てんのうたい幕府ばくふ發動はつどうてき戰爭せんそう使つかい皇室こうしつ大量たいりょう用人ようにんしるべ分地ぶんちひとし,此問題もんだいえき惡化あっか使つかい足利尊氏あしかがたかうじ後來こうらいたおせほこ,1336ねん推翻後醍醐天皇ごだいごてんのう建立こんりゅうよし室町むろまち幕府ばくふりょうしるべてきしん政權せいけん進入しんにゅう室町むろまち時代ときよ

室町むろまち時代ときよ

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室町むろまち幕府ばくふだい1だい征夷大將軍せいいたいしょうぐん——等持院とうじいん足利尊氏あしかがたかうじ木像もくぞう
 
室町むろまち幕府ばくふだい3だい征夷大將軍せいいたいしょうぐん——鹿しかえんいん足利あしかが義滿よしみつ木像もくぞう

1335ねん足利尊氏あしかがたかうじ利用りようぜん往東國平くにへいらん時機じきざい鐮倉はん叛,1336ねん1がつおさむにゅう京都きょうと,3月退出たいしゅつ京都きょうと進軍しんぐん九州きゅうしゅう以後いご醍醐天皇だいごてんのうため代表だいひょうてき朝廷ちょうてい派遣はけん新田にった義貞よしさだぜん往平叛,りょうぐんあずか兵庫ひょうご湊川みなとがわ決戰けっせん新田にった義貞よしさだ大敗たいはい足利尊氏あしかがたかうじさいつぎおさむにゅう京都きょうと後醍醐天皇ごだいごてんのう逃,尊氏たかうじ擁立ようりつ光明こうみょう天皇てんのうなみはた後醍醐天皇ごだいごてんのう監禁かんきん

尊氏たかうじひかえせい京都きょうと自任じにん征夷大將軍せいいたいしょうぐん室町むろまち幕府ばくふ正式せいしき建立こんりゅう同年どうねん12がつ後醍醐天皇ごだいごてんのう逃至吉野よしの宣布せんぷじゅうひらき朝政ちょうせい京都きょうとてき光明こうみょう天皇てんのう朝廷ちょうていため北朝ほくちょう吉野よしのてき後醍醐天皇ごだいごてんのう朝廷ちょうていため南朝なんちょう日本にっぽん正式せいしき進入しんにゅう南北なんぼくあさ時期じき。1336ねん11月7にち室町むろまち幕府ばくふ公布こうふたてたけし式目しきもく》,しるべちょ足利あしかが幕府ばくふ統治とうちてき建立こんりゅう。1350ねん2がつ足利尊氏あしかがたかうじおとうと足利あしかが直義ただよし背叛はいはん北朝ほくちょう朝廷ちょうていとうもたれ南朝なんちょうなみあずか1351ねん1がつりつぐん大敗たいはい幕府ばくふぐん,2がつたかしあずか直義ただよし和好かずよしただしひさまたいん南北なんぼく統一とういつ主張しゅちょうてき不同ふどうさいつぎ反目はんもく。1353ねん2がつたかしころせ直義ただよし。1358ねん4がつ尊氏たかうじ殁,12月,足利あしかが義詮よしあきらつぎにんだいだい將軍しょうぐん。1367ねん11月,足利あしかが義滿よしみつ就任しゅうにんだいさんだい將軍しょうぐん,1392ねん北朝ほくちょう統一とういつ南朝なんちょう南北なんぼくあさ時代じだい結束けっそく

1467ねん幕府ばくふさん管領かんりょうちゅうてき細川ほそかわ勝元かつもとあずかよんしょくちゅうてき山名やまな宗全そうぜんひとし守護しゅご大名だいみょうてきそう鬥。其范かこえじょ九州きゅうしゅうとう部分ぶぶん地方ちほう以外いがい戰火せんかへん及其日本にっぽん國土こくどしょう應仁おうにんみだれ」。よし於此いち動亂どうらん使つかい日本にっぽん進入しんにゅうはたきんいち世紀せいきちょうてき戰國せんごく時代じだい室町むろまち幕府ばくふ將軍しょうぐんめいそんじつほろび。 1573ねん織田おだ信長のぶながながれ最後さいご一任いちにん將軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき室町むろまち幕府ばくふ正式せいしき滅亡めつぼう進入しんにゅう安土あづち桃山ももやま時期じき

織田おだ政權せいけん

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室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼう織田おだ信長のぶなが繼續けいぞく消滅しょうめつりょう淺井あさい朝倉あさくら兩家りょうけさこ使つかい伊勢いせ國司くにじ北田きただぼう將家しょうかとくゆずるきゅう信長のぶなが次子つぎこ織田おだ信雄のぶおかえ平定へいていりょう三好みよし長慶ちょうけい松永まつなが久秀ひさひでとうみなみ近畿きんき勢力せいりょく久之ひさゆき織田おだ信長のぶながざい近江おうみけんじょう作為さくい織田おだ政權せいけんてき象徵しょうちょう。1575ねん武田たけだ勝賴かつよりりつぐん攻擊こうげきさんかわ長篠城ながしのじょうあずか織田おだ德川とくがわれんぐんざい三河みかわ設樂したらげん展開てんかい交戰こうせんよし於織一方使用了鐵炮等新式武器,造成ぞうせい武田たけだ折損せっそん諸多しょた重臣じゅうしん長篠ながしのこれせん使つかい武田たけだはしこうおとろえ落,しるべ致後しゃ於1582ねん滅亡めつぼう

武田たけだ衰亡すいぼう信長のぶなが近畿きんきため核心かくしんこうよんしゅう快速かいそく擴張かくちょう。1582ねん織田おだ家臣かしん明智あけち光秀みつひでざい信長のぶなが支援しえん攻略こうりゃく西國さいごく中國ちゅうごく地方ちほうてきそう大將たいしょう羽柴はしば秀吉ひでよしてきたび途中とちゅうじゅう宿やど京都きょうと本能寺ほんのうじよる突然とつぜん叛變,信長のぶながかず長子ちょうし織田おだ信忠のぶただ先後せんご戰死せんしため本能寺ほんのうじへん

羽柴はしば秀吉ひでよしせいざい中國ちゅうごく地方ちほうあずか毛利もうり作戰さくせんざい政變せいへん5てん內急行軍こうぐんやく200公里くりしょう中國ちゅうごくだい返還へんかん),聯合れんごう織田おだ其他重臣じゅうしんげきはい明智あけち光秀みつひでため山崎やまざきこれせんまたたたえ天王山てんのうざんこれせんざい決定けってい織田おだ繼承けいしょうじんてき清洲きよす會議かいぎうえ秀吉ひでよし支持しじ信忠のぶただ之子ゆきこ織田おだ秀信ひでのぶつぎにち秀吉ひでよし逐步げきはい反對はんたいてき其他織田おだ舊臣きゅうしん最終さいしゅう織田おだ信長のぶなが建立こんりゅうてきもとぎょう基本きほんじょうかむ豐臣とよとみ秀吉ひでよし完全かんぜん繼承けいしょう織田おだ政權せいけんはしこう灭亡。

豐臣とよとみ政權せいけん

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1585ねん秀吉ひでよし擔任たんにん關白かんぱくいちしょくねん正式せいしきたまもの豐臣とよとみなみ就任しゅうにん太政大臣だじょうだいじん,奠定豐臣とよとみ政權せいけん通過つうか紀州きしゅう四國しこく九州きゅうしゅう征伐せいばつ長宗我部ちょうそかべ島津しまつくだ。1590ねんざい小田おだ原之はらのせんちゅう消滅しょうめつりょうこう北條ほうじょうなみ使東北とうほく大名だいみょう降服こうふくなりため完成かんせい統一とういつ日本にっぽんたけし舉的だい一人ひとり

つぎねん豐臣とよとみ秀吉ひでよしはた關白かんぱくいちしょく讓與じょうよ養子ようし豐臣とよとみ秀次しゅうじ自稱じしょう太閤たいこう,以世襲せしゅうてき方式ほうしきせんしめせ豐臣とよとみ政權せいけんてき穩定。政治せいじじょう通過つうかふとかく檢地けんちへいのう分離ぶんりそう無事ぶじれいとう政策せいさく為之ためゆき江戶えど幕府ばくふてき發展はってん做了一定いっていてきしき墊。1593ねん秀吉ひでよし獲得かくとくりょう次子じし豐臣とよとみ秀賴ひでより秀吉ひでよしためりょう掃除そうじ秀賴ひでよりつぎてき障礙しょうがい,於1595ねん以涉いや謀反ぼうほんてき罪名ざいめい秀次しゅうじたまもの同時どうじぞくめつりょう秀次しゅうじいち家老がろうしょう

1598ねん豐臣とよとみ秀吉ひでよし殁後,政權せいけんよし秀頼ひでより繼承けいしょう秀頼ひでよりざいつぎねん僅6さい無力むりょくひかえせい家臣かしんあいだてき矛盾むじゅんじょうざい朝鮮ちょうせんこれやく期間きかん便びんやめけい開始かいし萌芽ほうがてき加藤かとう清正きよまさ福島ふくしま正則まさのりとう武功ぶこうあずか石田いしだ三成みつなり小西こにし行長ゆきながとう文治ぶんじてき對立たいりつ表面ひょうめん使つかい豐臣とよとみ家臣かしんだん徹底てってい分裂ぶんれつ同時どうじ在朝ざいちょう鮮之やくぼつゆう出兵しゅっぺい保存ほぞんりょうだい部分ぶぶん實力じつりょくてき徳川とくがわ家康いえやすたい天下てんか蠢蠢よくどうなみ無視むし秀吉ひでよし生前せいぜん禁令きんれい開始かいしあずか各地かくち大名だいみょうれん姻,使つかいとく豐臣とよとみ政權せいけん急速きゅうそくおちいにゅう混亂こんらん。1599ねん秀吉ひでよし生前せいぜん委託いたく監護かんごじん前田まえだ利家としいえやまいじゅうはなれ間接かんせつ使德川とくがわ家康いえやすなりためさいゆう政治せいじ影響えいきょうりょくてき大名だいみょう,也使家康いえやす基本きほんじょう壟斷ろうだんりょうたい豐臣とよとみ政權せいけんてきはなしけん。另一方面ほうめんたい家康いえやすせんせい極度きょくど不滿ふまんてき其他家臣かしん石田いしだ三成みつなり上杉うえすぎ景勝かげかつ毛利もうり輝元てるもととうひとれんどう其他仍然盡忠じんちゅう於豐しんてき大名だいみょう,於1600ねん發動はつどうりょう關原せきはらこれせんあずか家康いえやす決戰けっせん。這場決定けってい天下でんかだれぞくてき戰役せんえき結果けっか以石三成主導的西軍落敗,三成被處斬,かく西にしぐん大名だいみょう領地りょうち改易かいえきげんふう結束けっそくいたり此,日本國にっぽんこく內反徳川とくがわてき勢力せいりょくいくきん消滅しょうめつ天下てんかてき主導しゅどうけん落入徳川とくがわ家康いえやす手中しゅちゅう

江戶えど時代じだい

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江戶えど幕府ばくふだい1だい征夷大將軍せいいたいしょうぐん——あずまあきらだい權現ごんげん安國やすくにいん殿どの德川とくがわ家康いえやす木像もくぞう

ざい關原せきはらこれせんてき戰後せんご處理しょり結束けっそく徳川とくがわ家康いえやす於1603ねん朝廷ちょうてい任命にんめいため征夷大將軍せいいたいしょうぐんなみ開設かいせつこう幕府ばくふいたり此豐しん政權せいけんたい日本にっぽんてきかん正式せいしき結束けっそく進入しんにゅう江戶えど時代じだいざい開設かいせつ江戶えど幕府ばくふ日本にっぽん各地かくち本來ほんらい臣從しんじゅう豐臣とよとみてき大名だいみょう紛紛ふんぷん轉向てんこう臣服しんぷく德川とくがわちょくいた1614ねんただあました淀殿よどどの豐臣とよとみ秀賴ひでより母子ぼしぼつゆうたい幕府ばくふ表示ひょうじ臣服しんぷく最終さいしゅう徳川とくがわ家康いえやすざい同年どうねんふゆ天和てんわ1615ねんなつたかし發動はつどうりょう大坂おおさかふゆなつりょうやく使つかい豐臣とよとみ徹底てってい滅亡めつぼう,奠定德川とくがわりょうひゃくろく十多年的基業直到1868ねん大政奉還たいせいほうかん結束けっそく

歷史れきしじょう存在そんざいてき逸事いつじ

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黑船くろふね事件じけんきさき孝明天皇こうめいてんのう幕府ばくふ不能ふのう攘夷じょうい,曾质问时にんせいえびす大将たいしょう德川とくがわ家茂いえもちなに才能さいのうせいえびす

あずか天皇てんのうてき關係かんけい

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天皇てんのうさつふう征夷大將軍せいいたいしょうぐん

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征夷大將軍せいいたいしょうぐんゆかり天皇てんのう任命にんめい表面ひょうめんじょう天皇てんのうてき臣子しんし天皇てんのう任命にんめいてきぐん政府せいふ領袖りょうしゅう,雖名どう現代げんだいてき防衛ぼうえい大臣だいじん事實じじつじょうため全日本ぜんにほんてき實際じっさい最高さいこう領袖りょうしゅう實權じっけん相當そうとう於其專制せんせい國家こっかてき僭主せんしゅ地位ちい相當そうとう近代きんだい統制とうせいひかえせいてき軍部ぐんぶ天皇てんのうただこれ傀儡かいらい君主くんしゅ宗教しゅうきょう領袖りょうしゅうなみよし征夷大將軍せいいたいしょうぐん支配しはい及控せい

征夷大將軍せいいたいしょうぐんてき鐵則てっそく天皇てんのう不可ふか废黜」

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日本にっぽん天皇てんのう早期そうき世俗せぞく權威けんい宗教しゅうきょう象徵しょうちょうてき結合けつごうたいしたがえ大約たいやくこうもと9世紀せいき開始かいし天皇てんのうてき世俗せぞく權威けんい開始かいしおとろえ落,いた鎌倉かまくら時代ときよてきうけたまわ久之ひさゆきらんこう基本きほん淪為幕府ばくふてき附屬ふぞくさいいた室町むろまち時代ときよ完全かんぜんなりため擺設。ただし天皇てんのうてき神道しんとうきょう法統ほうとう意義いぎざい這一過程かていちゅうただしぼっゆう弱化じゃっか,甚至へんてきさらため重要じゅうようりょう天皇てんのうなりためりょうしん权的らいげんにんなんいちてのひらけんしゃわかよう保證ほしょう自己じこ權力けんりょくてき正當せいとうせいある正統せいとうせい,就必須要しゅよう確保かくほ自己じこあずか天皇てんのうあいだてき關係かんけいある經過けいか天皇てんのう象徵しょうちょうせいてき認可にんか,如:平安へいあん時代じだい攝關せっかんよう維持いじ自己じこてき外戚がいせき地位ちい太上天皇だじょうてんのうのりよう確保かくほ自己じこ血統けっとうてきおとこ嗣成ため天皇てんのう安土あづち桃山ももやま時代じだい右大臣うだいじん織田おだ信長のぶなが需要じゅよう藉由天皇てんのうてき權威けんい發出はっしゅつきゅう敵對てきたい勢力せいりょくてき征伐せいばつある和談わだん敕命以正當せいとう合理ごうり自己じこてきごと一次行動並樹立自己大一統的威信,ため此信ちょう尊重そんちょう天皇てんのう信長のぶなが死後しご政權せいけん逐漸移轉いてんいたり豐臣とよとみ秀吉ひでよしじょう秀吉ひでよし選擇せんたく公卿くぎょう太政大臣だじょうだいじんけん關白かんぱくてき統治とうち天下でんか,也採取さいしゅりょう利用りよう天皇てんのうてき態度たいどじゅうしんしょう權力けんりょく核心かくしん遷回朝廷ちょうていてき體制たいせい內,使つかい天皇てんのう權威けんいひさげだかなみ恢復かいふく皇宮こうぐうてき修理しゅうりあずか各項かくこう朝廷ちょうてい儀式ぎしき。於是織田おだ豐臣とよとみ政權せいけんあずか天皇てんのう雙方そうほう,互相なりためいちしゅ依賴いらいあずか利用りようてき關係かんけい江戶えど幕府ばくふはつけんまた需要じゅよう朝廷ちょうていてき權威けんい做為たて,而朝廷則需要じゅよう幕府ばくふてき金錢きんせん援助えんじょただこう屈從くつじゅう幕府ばくふ威勢いせい總體そうたい而言,ゆかり於「いんため天皇てんのうてんあきら大神おおがみてき後代こうだい」,這種份賦りょう權力けんりょく正當せいとうせい

足利あしかが義滿よしみつてき野心やしんあずかふとしじょう法皇ほうおうかず日本にっぽん國王こくおう

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1367ねん足利あしかが義詮よしあきら逝世,ねん10さいてき足利あしかが義滿よしみつつぎにん將軍しょうぐん

1368ねん舉行評定ひょうじょうはじめ陰曆いんれき4がつ元服げんぷく,以管りょう細川ほそかわよりゆきこれため烏帽子えぼしおやつぎねん正式せいしき授予征夷大將軍せいいたいしょうぐんてき稱號しょうごうよし於義滿まんとしよう細川ほそかわ一門獨攬了室町幕府的大權。細川ほそかわよりゆき實施じっしおうやす大法たいほう強化きょうかりょう土地とちてき支配しはいなみたい京都きょうと鐮倉てき五山ごさん制度せいど進行しんこう整備せいび強化きょうかりょうたい宗教しゅうきょうてき統治とうち同時どうじこう南朝なんちょうてき勢力せいりょくけん九州きゅうしゅうとう派遣はけん今川いまがわ貞世さだよ了俊りょうしゅん)、だい內義ひろし弱化じゃっかりょう南朝なんちょうざい這些地區ちくてき統治とうち足利あしかが義滿よしみつむかい日野ひのぎょうため妻室さいしつためりょう強化きょうかたい京都きょうとてき支配しはいけん,1370ねんおうやす3ねんきゅうりょう朝廷ちょうていたい山門やまかど公人きみと延曆寺えんりゃくじ及其支配しはいてきしょ勢力せいりょくてき取締とりしまりけん。1378ねん遷往室町むろまちてきはな御所ごしょ居住きょじゅう人稱にんしょう室町むろまち殿どの。1385ねん參拜さんぱい東大寺とうだいじ興福寺こうふくじ,1388ねん遊覽ゆうらん富士山ふじさん,1389ねん參拜さんぱい安藝あきてき嚴島いつくしま神社じんじゃ等地とうち。這一系列視察同時增強了自己的威信。

1378ねん陰曆いんれき3がつ兼任けんにんみぎ近衛このえ大將たいしょう個月かげつ兼任けんにんけん大納言だいなごん,受到りょう關白かんぱく二條にじょう良基よしもとてき支持しじ積極せっきょく參加さんか朝廷ちょうていてき事務じむ翌年よくねん就發せいりょう興福寺こうふくじそう眾抬ちょ春日大社かすがたいしゃてき神木しんぼく入京にゅうきょう強訴ごうそてき事件じけんよし於春日大にちだい社是しゃぜ藤原ふじわらまとてらちょうちゅうてき藤原ふじわら公卿くぎょうじゅうふんかしこ懼,敢入みやきょうしょく義滿よしみつみとめため自己じこ源氏げんじ後人こうじんきゅう出仕しゅっし如前。此後義滿よしみつ扶持ふち朝廷ちょうていたい寺社じしゃ勢力せいりょく進行しんこうげん厲打げき

1379ねん反對はんたい細川ほそかわよりゆきこれてき守護しゅご大名だいみょう斯波しばよししょう土岐とき賴康よりやす包圍ほういりょう義滿よしみつてき邸宅ていたく要求ようきゅう罷免ひめんよりゆきこれよし此賴まぬかれりょう管領かんりょういちしょく,以斯波しばよししょうだい。(かんれき政變せいへん)此後幕府ばくふちゅうてき人事じんじぜん斯波しば一派いっぱだい斯波しばよししょう下達かたつりょう討伐とうばつよりゆきこれてき命令めいれいただし足利あしかが義滿よしみつ卻在翌年よくねん以賴元老げんろうためよし赦免しゃめんりょうゆずる細川ほそかわかず斯波しば兩派りょうは並存へいそん互相牽制けんせい,藉此增強ぞうきょうりょう將軍しょうぐんてき權力けんりょく。1390ねん土岐とき賴康よりやす美濃みのこくてき土岐ときおちいにゅうりょう內亂,義滿よしみつれい討伐とうばつ土岐とき土岐とき康行やすゆきみだれ)。

1391ねん足利あしかが義滿よしみつまた介入かいにゅうりょう山名やまなてき內部紛爭ふんそう當時とうじ山名やまな兼任けんにん11こく守護しゅごしょく人稱にんしょうためろくふんいち殿どの」。義滿よしみつ巧妙こうみょうゆずる山名やまな氏清うじきよおこりへい同年どうねん12がつ派兵はへい討伐とうばつしょう明德めいとくみだれ

義滿よしみつちょうこしりょう祖父そふ尊氏たかうじ父親ちちおや義詮よしあきら先後せんご昇任しょうにん大臣だいじん左大臣さだいじん。而1382ねんこう圓融天皇えんゆうてんのう退位たいいおや義滿よしみつてきこう小松こまつ天皇てんのう即位そくいこう圓融えんゆう名義めいぎじょう開設かいせつ院政いんせいただし實權じっけん義滿よしみつてのひら。1383ねん擔任たんにん源氏げんじ長者ちょうじゃ兼任けんにん淳和じゅんな獎學兩院りょういん別當べっとう,受封「じゅん三后さんこうてき稱號しょうごうなりためりょう公家くげ武家ぶけ雙方そうほう勢力せいりょくてき首領しゅりょう朝廷ちょうていちゅういく乎沒ゆう反對はんたい義滿よしみつてき勢力せいりょく

1392ねん南朝なんちょうてき勢力せいりょく不斷ふだん衰退すいたい南北なんぼくあさすべ一已成為必然發生的事情。ざいだい內義ひろ的中てきちゅうかい足利あしかが義滿よしみつあずか南朝なんちょう談判だんぱん最終さいしゅう持明院じみょういんみつる大覺寺だいかくじみつる交替こうたい繼承けいしょう帝位ていいため條件じょうけん南朝なんちょうてきこう龜山天皇かめやまてんのう退位たいいなみしょうさん神器じんぎ交給小松こまつ天皇てんのう南北なんぼくあさ統一とういつしか而,北朝ほくちょうてき小松こまつ天皇てんのういたさん神器じんぎ宣布せんぷよし自己じこてき皇子おうじじつじん親王しんのう繼承けいしょう皇位こういだつりょう神器じんぎてき南朝なんちょう也只のう屈服くっぷく於北あさてき統治とうち

1393ねんあずか足利あしかが義滿よしみつ不和ふわてき圓融えんゆう上皇じょうこう逝世,義滿よしみつてき權力けんりょく完全かんぜん鞏固きょうこつぎねん義滿よしみつはた將軍しょうぐんしょくゆずるきゅうりょう足利あしかが義持よしもち自己じこそく隱居いんきょ繼續けいぞくてのひら政治せいじ同年どうねんのぼりしたがえいち太政大臣だじょうだいじん翌年よくねん出家しゅっけ法號ほうごう道義どうぎ義滿よしみつ出家しゅっけためりょうさら有力ゆうりょくひかえせい寺社じしゃ勢力せいりょくざい義滿よしみつ出家しゅっけさい,以斯波しばよししょうたいあたましょう武家ぶけ公家くげてきあたまめん人物じんぶつ追隨ついずい出家しゅっけ

1395ねん足利あしかが義滿よしみつ罷免ひめんりょうのう獨自どくじてのひらかん地方ちほう政務せいむてき九州きゅうしゅう探題たんだい今川いまがわ貞世さだよ。1399ねんだい內義ひろしざい西國さいごく舉兵,義滿よしみつはつへい鎮壓ちんあつおうながみだれ)。此後義滿よしみつ徹底てってい排除はいじょりょう西日本にしにほん地區ちくてき反對はんたい勢力せいりょく

足利あしかが義滿よしみつ在任ざいにん期間きかん,一直非常期望同明朝進行貿易。1374ねんおこりすうむかい明朝みょうちょう派遣はけん使節しせつ。1374ねん1380ねん足利あしかが義滿よしみつ以「日本にっぽんせいえびす將軍しょうぐんみなもと義滿よしみつてき名義めいぎこう明朝みんちょう朝貢ちょうこう要求ようきゅうあずか明朝みょうちょう貿易ぼうえきしか而明あさ拒絕きょぜつりょう室町むろまち幕府ばくふてき要求ようきゅう理由りゆう明朝みょうちょうみとめため大覺寺だいかくじみつる南朝なんちょうてき日本にっぽん國王こくおうふところりょう」(あるつくなつけなつけ親王しんのうざい日本にっぽん正統せいとう君主くんしゅ,而持明院じみょういんみつる北朝ほくちょう皇室こうしつそく亂臣らんしん足利あしかが義滿よしみつ北朝ほくちょうけいてきぐんかんさらおうあずかこれ通交つうこうよし此在明太めんたい在位ざいい期間きかん明朝みんちょう拒絕きょぜつりょう同室どうしつまち幕府ばくふてき貿易ぼうえき

1401ねん足利あしかが義滿よしみつまた以「日本國にっぽんこくじゅん三后さんこうみなもと道義みちよしためめい博多はかたてき商人しょうにんこえとみそうじんおもね明朝みょうちょう當時とうじなつけ親王しんのう勢力せいりょくおとろえ落,けんぶんみかどふう義滿よしみつため日本にっぽん國王こくおう」,なみ要求ようきゅう足利あしかが義滿よしみつ取締とりしまりやまと寇。ざい使者ししゃかえしかい日本にっぽんさい明朝みんちょう發生はっせいりょうつばめおうしゅだつてきやすしなんへん

明成めいせいしゅ奪取だっしゅ帝位ていい派遣はけん使臣ししんぶん四方しほう。1403ねん琉球りゅうきゅう日本にっぽん暹羅しゃむ各國かっこく使節しせついた中國ちゅうごく朝貢ちょうこう建立こんりゅうりょうむねはんあずかさつふう關係かんけい。1404ねん足利あしかが義滿よしみつまた使つかい赴明,冊立さくりつ皇太子こうたいし當時とうじ對馬つしま壹岐いき一帶的倭寇騷擾明朝沿岸,明成めいせい要求ようきゅう足利あしかが義滿よしみつ進行しんこうつめ義滿よしみつはつへい殲滅せんめつやまと寇,けんじやまと寇首りょう20にん足利あしかが義滿よしみつ頻頻ひんぴん入貢にゅうこう同時どうじ受明あさふうしょうあずか明朝みょうちょう正式せいしき建立こんりゅうりょう外交がいこう關係かんけい明朝みんちょうたい日本にっぽん頒發勘合かんごう(一種類似存物牌的證明),日本にっぽん以屬こくてき名義めいぎたい明朝みんちょう進行しんこう朝貢ちょうこう貿易ぼうえき明朝みんちょうたまもの足利あしかが義滿よしみつ日本にっぽん國王こくおうきむしるしいちまい足利あしかが義滿よしみつかいしょ自稱じしょう日本にっぽん國王こくおうしんみなもと義滿よしみつ」。

死後しご朝廷ちょうてい追贈ついぞう鹿しかえんいんふとしじょう法皇ほうおうてき稱號しょうごう足利あしかが義持よしもちざい斯波しばよししょうてき強烈きょうれつ反對はんたい辭退じたいりょう這個稱號しょうごうただし相國寺しょうこくじのり接受せつじゅりょう這個稱號しょうごうしょうため鹿しかえんいん太上天皇だじょうてんのう」。

德川とくがわ家康いえやすてき神格しんかくあずまあきらだい權現ごんげん

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1616ねん德川とくがわ家康いえやすななじゅうさい高齡こうれいびょう殁。はん個月かげつまえ垂死すいしてきかんすすむ本多ほんだ正純まさずみ南光なんこうぼう天海てんかい金地院こんちいん崇傳すうでんとうひとさけべいた枕邊まくらべ,以遺言ゆいごんたくづけ天海あまみひとしじん處理しょりゆうせき葬禮そうれいてき儀式ぎしきびょうごう家康いえやすせつ:“遺體いたい暫存久能山くのうざん葬禮そうれいいた增上寺ぞうじょうじ舉行,靈位れいいきょうざい三河そうご大樹寺だいじゅうじまち一周年忌日時移往日光山,けん一座いちざしょうどう供奉ぐぶえいためせきはちしゅう鎮守ちんじゅ。”德川とくがわ家康いえやす殁後,江戶えど幕府ばくふなずらえはた神格しんかくためあきら如何いか祭祀さいし家康いえやすてき問題もんだい天台宗てんだいしゅうあずか禪宗ぜんしゅう展開てんかい爭論そうろん天海あまみ主張しゅちょう家康いえやす作為さくい權現ごんげん”以“山王さんのう一實かずみ神道しんとうらいさいはい崇傳すうでんぬしちょう家康いえやすてきびょうごう作為さくい明神みょうじん”以“吉田よしだ神道しんとうらいさいはいよし於無ほう確定かくてい兩方りょうほう意見いけんだい將軍しょうぐん德川とくがわ秀忠ひでただ於是詢問天海あまみ,而天海あまみ以“明神みょうじん作為さくい豊國とよくに大明神だいみょうじん而被豐臣とよとみ秀吉ひでよしところ採用さいようてきびょうごうただしこれてき豐臣とよとみ卻因此滅亡めつぼう所以ゆえん相當そうとう不祥ふしょう建議けんぎ秀忠ひでただ考慮こうりょ,於是秀忠ひでただみとめどう天海てんかいてきほう,就把家康いえやすてきびょうごう以“あずまあきらだい權現ごんげんらい命名めいめい

歷代れきだいせいえびす大将たいしょう

编辑
  • たい於在みなもと賴朝よりともこれまえてき蝦夷えぞ征討せいとう使長官ちょうかん,其性質せいしつ類似るいじ征夷大將軍せいいたいしょうぐんまた收錄しゅうろく
歷代れきだい 肖像しょうぞう 就任しゅうにん 退任たいにん 備註[ちゅう 2]
  巨勢こせ麻呂まろ 和銅わどうねんさんがつはつ
(709ねん4がつ19にち
鎮東將軍しょうぐん
ひだりだいべんせいよん 
多治比たじひ县守 養老ようろうよんねんきゅうがつじゅうきゅう
(720ねん11月3にち
養老ようろうねんよんがつ
(721ねん5がつ
ぶしせいえびす將軍しょうぐん
播磨はりま按察使せいよん 
  藤原ふじわら宇合 かみひさし元年がんねんよんがつはつなな
(724ねん5がつ4にち
かみひさしねんうるう正月しょうがつ
(725ねん3がつ
ぶし大將軍だいしょうぐん
式部しきぶきょうせいよんじょう
  藤原ふじわら麻呂まろ 天平てんぺいきゅうねん正月しょうがつ
(737ねん2がつ
ぶし大使たいし
參議さんぎしたがえさんけん兵部ひょうぶきょう
  藤原ふじわらつぎなわ たからひさしじゅういちねんさんがつじゅうはち
(780ねん5がつ7にち
せいひがし大使たいし
中納言ちゅうなごんしたがえさんけん兵部ひょうぶきょう
  藤原ふじわら小黑おぐろ麻呂まろ 寶龜ほうき11ねんきゅうがつじゅうさん
(780ねん10がつ25にち
てんおう元年がんねん8がつ
(781ねん9がつ
ぶしせいひがし大使たいし
參議さんぎせいよんけんみぎ衛士えじとく
  大伴家持おおとものやかもち のべれきさんねんがつじゅうよん
(784ねん3がつ19にち
のべれきよんねんはちがつじゅうはち
(785ねん10がつ5にち
ぶしせいひがし將軍しょうぐん
中納言ちゅうなごんしたがえさんけん春宮とうぐう大夫たいふ陸奧むつ按察使同左どうさ
きの佐美さび のべれきななねんなながつはつろく
(788ねん8がつ11にち
のべれきはちねんきゅうがつはつはち
(789ねん10がつ1にち
せい東大とうだい將軍しょうぐん(《公卿くぎょう補任ほにんさく征夷大將軍せいいたいしょうぐん
參議さんぎひだりだいべんせいよんけん春宮とうぐう大夫たいふ同左どうさ
大伴おおともおとうと麻呂まろ のべれきじゅうねんなながつじゅうさん
(791ねん8がつ17にち
のべれきじゅうよんねん正月しょうがつじゅうきゅう
(795ねん2がつ23にち
はつためせいひがし大使たいしのべれきじゅうさんねんゆう(794ねん征夷大將軍せいいたいしょうぐん
したがえよんしたがえさんくんとう
  坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ のべれきじゅうろくねんじゅういちがつはつ
(797ねん11月27にち
のべれきじゅうねんじゅうがつじゅうはち
(801ねん12月7にち
征夷大將軍せいいたいしょうぐん
のべれき15ねん1がつ25にち授陸奧出おくではね按察使したがえよんけん陸奧むつまもるのべれきじゅうろくねんじゅういちがつはつにん征夷大將軍せいいたいしょうぐんぜん銜「征夷大将軍せいいたいしょうぐん近衛このえけん中将ちゅうじょう陸奥みちのく出羽いずは按察使したがえ四位上兼行陸奥守鎮守将軍」→ 大納言だいなごんせいさん
おくしたがえ
重任じゅうにん のべれきじゅうさんねん正月しょうがつじゅうはち
(804ねん3がつ13にち
大同だいどうねんきゅうがつはつじゅう
(810ねん10がつ11にち?)
  文室ふむろ綿めん麻呂まろ 大同だいどうねんきゅうがつはつじゅう
(810ねん10がつ11にち
ひろしひとしねんよんがつじゅうなな
(811ねん5がつ12にち
せいえびす將軍しょうぐん
參議さんぎせいよんじょう大藏おおくらきょうけん陸奧みちのく出羽いずは按察使參議さんぎしたがえさん
重任じゅうにん ひろじんよんねんがつさんじゅう
(813ねん7がつ1にち
ひろじんねん
(814ねん
  藤原ふじわら忠文ただふみ てんけいさんねん正月しょうがつじゅうきゅう
(940ねん2がつ29にち
てんけいさんねんがつじゅう
(940ねん6がつ23にち
せい東大とうだい將軍しょうぐん
參議さんぎせいよん修理しゅうり大夫たいふけんみぎ衛門えもんとく
  源義仲みなもとのよしなか ことぶきひさしねんじゅういちがつはつじゅう
(1183ねん11月28にち
ことぶきひさしさんねん正月しょうがつじゅう
(1184ねん3がつ4にち
せい東大とうだい將軍しょうぐん
したがえよん伊予いよもり
鎌倉かまくら:1   みなもと賴朝よりとも たてひささんねんなながつじゅう
(1192ねん8がつ21にち
たてひさじゅうねん正月しょうがつじゅうさん
(1199ねん2がつ9にち
壇之浦だんのうらこれせん消滅しょうめつだいいち武家ぶけ政權せいけんたいら政權せいけんなりためくびにん架空かくう朝廷ちょうていてき幕府ばくふ將軍しょうぐん一作いつさくけんひさねん退任たいにん
せいまえけん大納言だいなごん同左どうさ
鎌倉かまくら:2   みなもとよりゆき たてひとしねんなながつじゅうさん
(1202ねん8がつ12にち
たてひとしさんねんきゅうがつはつなな
(1203ねん10がつ13にち
したがえ左衛門さえもんとくせい
鎌倉かまくら:3   源實朝みなもとのさねとも たてひとしさんねんきゅうがつはつなな
(1203ねん10がつ13にち
たてたもつななねん正月しょうがつじゅうなな
(1219ねん2がつ13にち
したがえ右大臣うだいじんせいひだり近衛このえ大將たいしょう
にん內大けん執權しっけん北條ほうじょうとく宗家そうけ篡奪。
鎌倉かまくら:4   藤原ふじわらよりゆきけい
九條くじょうよりゆきけい
よしみ祿ろくねん正月しょうがつじゅうなな
(1226ねん2がつ25にち
ひろしもとねんよんがつじゅうはち
(1244ねん6がつ5にち
攝家せっけ將軍しょうぐん九條くじょう道家どうか之子ゆきこ實權じっけんよし幕府ばくふ執權しっけん北条ほうじょうとく宗家そうけ掌握しょうあく
せいみぎ近衛このえけん少將しょうしょうせいまえけん大納言だいなごん
鎌倉かまくら:5   藤原ふじわらよりゆき
九條くじょうよりゆき嗣)
ひろしもとねんよんがつじゅうはち
(1244ねん6がつ5にち
けんちょうよんねんがつじゅう
(1252ねん3がつ31にち
攝家せっけ將軍しょうぐん藤原ふじわらよりゆきけい之子ゆきこ實權じっけんよし幕府ばくふ執權しっけん北条ほうじょうとく宗家そうけ掌握しょうあく
したがえじょうみぎ近衛このえけん少將しょうしょうしたがえさんひだり近衛このえ中將ちゅうじょう
鎌倉かまくら:6   宗尊親王むねかたしんのう けんちょうよんねんよんがつはついち
(1252ねん5がつ10日とおか
ぶんひさしさんねんなながつじゅう
(1266ねん8がつ21にち
みや將軍しょうぐんこう嵯峨天皇さがてんのうこれ皇子おうじ實權じっけんよし幕府ばくふ執權しっけん北条ほうじょうとく宗家そうけ掌握しょうあく
三品みしな一品いっぴん中務なかつかさきょう
鎌倉かまくら:7   おもんみかん親王しんのう[あらため 1] ぶんながさんねんなながつじゅうよん
(1266ねん8がつ25にち
せいおうねんきゅうがつじゅうよん
(1289ねん9がつ29にち
みや將軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのう王子おうじ實權じっけんよし幕府ばくふ執權しっけん北条ほうじょうとく宗家そうけ掌握しょうあく
したがえよんひん
鎌倉かまくら:8   久明ひさあき親王しんのう せいおうねんじゅうがつはつきゅう
(1289ねん10がつ24にち
德治とくじさんねんはちがつはつよん
(1308ねん8がつ20日はつか
みや將軍しょうぐん後深草天皇ごふかくさてんのうこれ皇子おうじ實權じっけんよし幕府ばくふ執權しっけん北条ほうじょうとく宗家そうけ掌握しょうあく
三品みしな一品いっぴん式部しきぶきょう
鎌倉かまくら:9   まもりくに親王しんのう 德治とくじさんねんはちがつはつじゅう
(1308ねん8がつ26にち
せいけいねんがつじゅう
(1333ねん7がつ4にち
みや將軍しょうぐん久明ひさあき親王しんのう王子おうじ實權じっけんよし幕府ばくふ執權しっけん北条ほうじょうとく宗家そうけ掌握しょうあく
しょうひん
たてたけし:1   護良親王もりよししんのう 元弘もとひろさんねんろくがつじゅうさん
(1333ねん7がつ25にち
元弘もとひろさんねんきゅうがつ
(1333ねん10がつ
みや將軍しょうぐん後醍醐天皇ごだいごてんのうこれ皇子おうじ
ひん兵部ひょうぶきょう同左どうさ
たてたけし:2   成良親王なりながしんのう たてたけしねんはちがつはついち
(1335ねん8がつ19にち
たてたけしさんねんがつ
(1336ねん3がつ
みや將軍しょうぐん後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじ
上野うえの太守たいしゅよんひん同左どうさ
  足利尊氏あしかがたかうじ[あらため 2] たてたけしねんはちがつはつきゅう
(1335ねん8がつ27にち
たてたけしねんじゅういちがつじゅうろく
(1336ねん1がつ9にち?)
せいひがし將軍しょうぐん
ちゅう先代せんだいみだれこう追認ついにん就任しゅうにん
室町むろまち:1   足利尊氏あしかがたかうじ たてたけしねんはちがつじゅういち
(1338ねん9がつ24にち
のべぶんさんねんよんがつさんじゅう
(1358ねん6がつ7にち
せいけん大納言だいなごん同左どうさ
おくしたがえいち太政大臣だじょうだいじん
南朝なんちょう   きょうりょう親王しんのう のべもとよんねん
(1339ねん
みや將軍しょうぐん護良親王もりよししんのう王子おうじ
ひん兵部ひょうぶきょう
南朝なんちょう   宗良親王むねながしんのう 正平しょうへいななねんうるうがつはつろく
(1352ねん3がつ22にち
みや將軍しょうぐんあるせいひがし將軍しょうぐん),後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじ
一品いっぴん式部しきぶきょう同左どうさ
室町むろまち:2   足利あしかが義詮よしあきら のべぶんさんねんじゅうがつはつはち
(1359ねん1がつ7にち
貞治さだはるろくねんじゅうがつはつなな
(1367ねん12月28にち
參議さんぎしたがえさんひだり近衛このえ中將ちゅうじょうせいけん大納言だいなごん
おくしたがえいち左大臣さだいじん
室町むろまち:3   足利あしかが義滿よしみつ おうやす元年がんねんじゅうがつさんじゅう
(1369ねん2がつ7にち
おうひさし元年がんねんじゅうがつじゅうなな
(1395ねん1がつ8にち
したがえひだり馬頭めずじゅんさんみやしたがえいちまえ左大臣さだいじん
退任たいにん將軍しょうぐんため太政大臣だじょうだいじん
南朝なんちょう   いんりょう親王しんのう もとなか3ねんはちがつはつはち
(1386ねん9がつ2にち?)
みや將軍しょうぐん宗良親王むねながしんのう王子おうじ
なみ未見みけん於同時代じだいてき史料しりょう,其真實しんじつせい存疑そんぎ
室町むろまち:4   足利あしかが義持よしもち おうひさし元年がんねんじゅうがつじゅうなな
(1395ねん1がつ8にち
おうながさんじゅうねんさんがつじゅうはち
(1423ねん4がつ28にち
せいひだり近衛このえ中將ちゅうじょうしたがえいちまえ大臣だいじん
おく太政大臣だじょうだいじん
室町むろまち:5   足利あしかが義量よしかず おうながさんじゅうねんさんがつじゅうはち
(1423ねん4がつ28にち
おうながさんじゅうねんがつじゅうなな
(1425ねん3がつ17にち
せいみぎ近衛このえ中將ちゅうじょう參議さんぎせいよんみぎ近衛このえ中將ちゅうじょう
おくしたがえいち左大臣さだいじん
室町むろまち:6   足利あしかが義教よしのり[あらため 3] せいちょうねんさんがつじゅう
(1429ねん4がつ18にち
嘉吉よしきち元年がんねんろくがつじゅうよん
(1441ねん7がつ12にち
參議さんぎひだり近衛このえ中將ちゅうじょうしたがえよんしたがえいちまえ左大臣さだいじん
おく太政大臣だじょうだいじん
ため赤松あかまつ滿祐みつすけ弒殺,引發嘉吉よしきちみだれ
室町むろまち:7   足利あしかが義勝よしかつ 嘉吉よしきちねんじゅういちがつじゅうなな
(1442ねん12月19にち
嘉吉よしきちさんねんなながつじゅういち
(1443ねん8がつ16にち
せいひだり近衛このえ中將ちゅうじょうしたがえよんひだり近衛このえ中將ちゅうじょう
おく左大臣さだいじんしたがえいち
ゆかり管領かんりょう細川ほそかわ擁立ようりつ、輔政。
室町むろまち:8   足利あしかが義政よしまさ[あらため 4] ぶんやすろくねんよんがつじゅうきゅう
(1449ねん5がつ21にち
文明ぶんめいねん十二月じゅうにがつじゅうきゅう
(1474ねん1がつ7にち
せいひだり馬頭めずじゅんさんみやしたがえいちまえ左大臣さだいじん
おく太政大臣だじょうだいじん
即位そくいはつゆかり管領かんりょう畠山はたけやま持國もちくににち畠山はたけやま持国もちくにあずか細川ほそかわ勝元かつもと先後せんご輔政
發生はっせい應仁おうにんみだれ大權たいけんつくり落於管領かんりょう細川ほそかわ勝元かつもと
室町むろまち:9   足利あしかが義尚よしなお[あらため 5] 文明ぶんめいねん十二月じゅうにがつじゅうきゅう
(1474ねん1がつ7にち
ちょうとおるさんねんさんがつじゅうろく
(1489ねん4がつ26にち
したがえひだり近衛このえ中將ちゅうじょうしたがえいち大臣だいじんみぎ近衛このえ大將たいしょう
おく太政大臣だじょうだいじん
室町むろまち:10   足利あしかがよしざい[あらため 6] 延德えんとくねんなながつはつ
(1490ねん7がつ22にち
あかりおうねんろくがつじゅうきゅう
(1493ねん8がつ11にち
したがえよんみぎ近衛このえ中將ちゅうじょう參議さんぎみぎ近衛このえ中將ちゅうじょうしたがえよん
發生はっせいあかりおうへん將軍しょうぐんにんゆかり管領かんりょう細川ほそかわまさしもと廢立はいりつ
室町むろまち:11   足利あしかが義澄よしずみ[あらため 7] あかりおうさんねん十二月じゅうにがつじゅうなな
(1495ねん1がつ23にち
えいただしねんよんがつじゅうろく
(1508ねん5がつ15にち
せいひだり馬頭めず參議さんぎしたがえさんひだり近衛このえ中將ちゅうじょう
おくしたがえいち太政大臣だじょうだいじん

にん內由管領かんりょう細川ほそかわまさしもと細川ほそかわきよしこれにち細川ほそかわきよしこれあずか細川ほそかわきよしもと執政しっせい

室町むろまち:10
重任じゅうにん
  足利あしかが義稙よしたね[あらため 8] えいただしねんなながつはついち
(1508ねん7がつ28にち
だいひさし元年がんねんじゅうがつじゅう
(1522ねん1がつ22にち
足利あしかがよしざい重任じゅうにん
したがえさんけん大納言だいなごんしたがえけん大納言だいなごん
おくしたがえいち太政大臣だじょうだいじん

ゆかり管領かんりょう細川ほそかわだかこくにち細川ほそかわだかこく扶植ふしょくひかえせいため其所はい

室町むろまち:12   足利あしかが義晴よしはる だいなが元年がんねんじゅうがつじゅう
(1522ねん1がつ22にち
天文てんもんじゅうねん十二月じゅうにがつじゅう
(1547ねん1がつ11にち
せいひだり馬頭めずしたがえさんけん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大將たいしょう
おくしたがえいち左大臣さだいじん

先後せんごよし管領かんりょう細川ほそかわだかこくにち細川ほそかわだかこく細川ほそかわ稙國にち細川ほそかわ稙国細川ほそかわはるもと執政しっせい

室町むろまち:13   足利あしかが義輝よしてる[あらため 9] 天文てんもんじゅうねん十二月じゅうにがつじゅう
(1547ねん1がつ11にち
えい祿ろくはちねんがつじゅうきゅう
(1565ねん6がつ17にち
したがえよんひだり馬頭めず參議さんぎひだり近衛このえ中將ちゅうじょうしたがえよん
おくしたがえいち左大臣さだいじん
天文てんもんじゅうはちねん(1549ねん),三好みよしあずか松永まつなが久秀ひさひでがわ細川ほそかわ掌握しょうあく幕政ばくせいえい祿ろくななねん(1564ねん三好みよし長慶ちょうけい歿,家督かとくゆかり三好みよし義繼よしつぎつぎにんえい祿ろくはちねん(1565ねん)5がつ19にち松永まつながひさ秀和しゅうわ三好みよしさんにん以及家督かとく三好義繼叛亂弒殺將軍。
室町むろまち:14   足利あしかが義榮よしひで[あらため 10] えい祿ろくじゅういちねんがつはつはち
(1568ねん3がつ6にち
えい祿ろくじゅういちねんきゅうがつ
(1568ねん10がつ
したがえひだり馬頭めず同左どうさ
にんしょく期間きかん三好みよしさんにん擁立ようりつてき傀儡かいらい
室町むろまち:15   足利あしかが義昭よしあき[あらため 11] えい祿ろくじゅういちねんじゅうがつじゅうはち
(1568ねん11月7にち
天正てんしょうじゅうろくねん正月しょうがつじゅうさん
(1588ねん2がつ9にち
參議さんぎひだり近衛このえ中將ちゅうじょうしたがえよんしたがえさんけん大納言だいなごん
織田おだ信長のぶなが扶植ふしょくため其所はい
將軍しょうぐん解任かいにんじゅんさんみや
江戶えど:1   德川とくがわ家康いえやす[あらため 12] 慶長けいちょうはちねんがつじゅう
(1603ねん3がつ24にち
慶長けいちょうじゅうねんよんがつじゅうろく
(1605ねん6がつ2にち
したがえいち右大臣うだいじんしたがえいちぜん右大臣うだいじん
關原せきはらこれせんがわ豐臣とよとみ政權せいけんこれ政治せいじ權力けんりょく
將軍しょうぐん解任かいにんため太政大臣だじょうだいじんおくせいいちあずまあきらだい權現ごんげん
江戶えど:2   德川とくがわ秀忠ひでただ 慶長けいちょうじゅうねんよんがつじゅうろく
(1605ねん6がつ2にち
元和がんわきゅうねんなながつじゅうなな
(1623ねん8がつ23にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょうしたがえいち右大臣うだいじんみぎ近衛このえ大將たいしょう
解任かいにん將軍しょうぐんため太政大臣だじょうだいじんおくせいいち
江戶えど:3   德川とくがわ家光いえみつ 元和がんわきゅうねんなながつじゅうなな
(1623ねん8がつ23にち
慶安けいあんよんねんよんがつじゅう
(1651ねん6がつ8にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょうしたがえいち左大臣さだいじんひだり近衛このえ大將たいしょう
辭去じきょ太政大臣だじょうだいじんおく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:4   德川とくがわ家綱いえつな 慶安けいあんよんねんなながつじゅうろく
(1651ねん9がつ10日とおか
のべたからはちねんがつはつはち
(1680ねん6がつ4にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう右大臣うだいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:5   德川とくがわ綱吉つなよし のべたからはちねんなながつじゅうはち
(1680ねん8がつ12にち
寶永ほうえいろくねん正月しょうがつはつじゅう
(1709ねん2がつ19にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう右大臣うだいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:6   德川とくがわ家宣いえのぶ[あらため 13] 寶永ほうえいろくねんよんがつにち
(1709ねん5がつ11にち
正德まさのりねんじゅうがつじゅうよん
(1712ねん11月12にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう同左どうさ
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:7   德川とくがわ家繼いえつぐ 正德しょうとくさんねんさんがつよんにち
(1713ねん3がつ29にち
正德しょうとくろくねんよんがつさんじゅう
(1716ねん6がつ19にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう同左どうさ
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:8   德川とくがわ吉宗よしむね[あらため 14] とおる元年がんねんなながつじゅうはち
(1716ねん9がつ3にち
のべとおるねんきゅうがつじゅう
(1745ねん10がつ20日はつか
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう右大臣うだいじんせい
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:9   德川とくがわ家重いえしげ のべとおるねんじゅうがつはつなな
(1745ねん10がつ31にち
たかられきじゅうねんがつじゅうさん
(1760ねん6がつ25にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう右大臣うだいじんせい
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:10   德川とくがわ家治いえはる たかられきじゅうねんなながつはつ
(1760ねん8がつ12にち
天明てんめいろくねんきゅうがつはつはち
(1786ねん9がつ29にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう右大臣うだいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:11   德川とくがわ家齊いえなり 天明てんめいななねんさんがつはつろく
(1787ねん4がつ23にち
天保てんぽうはちねんよんがつにち
(1837ねん5がつ6にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょうしたがえいち太政大臣だじょうだいじん
おくせいいち
江戶えど:12   德川とくがわ家慶いえよし 天保てんぽうはちねんはちがつはつ
(1837ねん9がつ4にち
よしみひさしろくねんろくがつじゅう
(1853ねん7がつ27にち
したがえいち左大臣さだいじんひだり近衛このえ大將たいしょう同左どうさ
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:13   德川とくがわ家定いえさだ[あらため 15] よしみながろくねんじゅうがつじゅうさん
(1853ねん11月23にち
安政あんせいねんなながつはつろく
(1858ねん8がつ14にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう → 內大臣從しんじゅういちみぎ近衛このえ大將たいしょう
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:14   德川とくがわ家茂いえもち[あらため 16] 安政あんせいねんじゅうがつじゅう
(1858ねん11月30にち
慶應けいおうねんなながつじゅう
(1866ねん8がつ29にち
大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょうしたがえいち右大臣うだいじんみぎ近衛このえ大將たいしょう
おく太政大臣だじょうだいじんせいいち
江戶えど:15   德川とくがわ慶喜よしのぶ[あらため 17] 慶應けいおうねんじゅうがつはつ
(1867ねん1がつ10日とおか
慶應けいおうさんねんじゅうがつはつきゅう
(1868ねん1がつ3にち
せいけん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大將たいしょう → 內大臣だいじんせいみぎ近衛このえ大將たいしょう
明治維新めいじいしんこうふうしたがえいち公爵こうしゃく貴族きぞくいん議員ぎいん

おく勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
おく勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう

おく征夷大將軍せいいたいしょうぐん死後しご追贈ついぞう征夷大將軍せいいたいしょうぐんてき人物じんぶつ
追贈ついぞう   德川とくがわ綱重つなしげ 寶永ほうえいななねんはちがつじゅうさん(1710ねん9がつ16にち追贈ついぞう 甲斐かい甲府こうふはんおも江戶えど幕府ばくふ6だい德川とくがわ家宣いえのぶこれちち
參議さんぎせいさんおくけん中納言ちゅうなごんしたがえさんおく太政大臣だじょうだいじんせいいち
改名かいめい
  1. ^ おもんみやすしおうみなもとおもんみやすしおもんみかん親王しんのう
  2. ^ こう尊氏たかうじ
  3. ^ 義宣よしのぶ義教よしのり
  4. ^ 義成よしなり義政よしまさ
  5. ^ 義尚よしなおよし
  6. ^ ざいよしいん義稙よしたね
  7. ^ 義高よしたかよし遐→義澄よしずみ
  8. ^ ざいよしいん義稙よしたね
  9. ^ ふじ義輝よしてる
  10. ^ 義親よしちか義榮よしひで
  11. ^ 義秋よしあき義昭よしあき
  12. ^ 松平まつだいら元信もとのぶ松平まつだいら元康もとやす德川とくがわ家康いえやす
  13. ^ つなゆたか家宣いえのぶ
  14. ^ 松平まつだいらよりゆきかた德川とくがわ吉宗よしむね
  15. ^ いえさち家定いえさだ
  16. ^ 慶福けいふく家茂いえもち
  17. ^ あきら致→慶喜よしのぶ

註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ かんちょう馮異ほまれため大樹たいき將軍しょうぐん以「大樹だいきぞう
  2. ^ ため該將ぐん就任しゅうにん退任たいにん官位かんい。及死しょ贈官ぞうかん

參考さんこう文獻ぶんけん

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  1. ^ えらあきら. ちゅうしき政治せいじ彙在德川とくがわ日本にっぽんてき改造かいぞうあずか使用しよう. 九州きゅうしゅう學林がくりん. 2013, (32): 123ぺーじ. 

まいり

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