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おん兰·达扎きょう

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重定しげさだこう马重えい
おん兰·达扎きょう
出生しゅっしょう
吐蕃彭域(いま西藏にしくら自治じちはやしあまね
逝世
吐蕃
职业吐蕃はた军、だい贡论

おん兰·达扎きょうぞうངན་ལམ་སྟག་སྒྲ་ཀླུ་ཁོང་转写ngan lam stag sgra klu khongTHLNganlam Takdra Lukhong),吐蕃著名ちょめい大将たいしょうきさきかんはいだい贡论。曾与はた·なお杰斯しゅうていなおいき一起かずき平定へいてい吐蕃内乱ないらんきさきりつ军入おかせからあさうらない长安,拥立宗室そうしつうけたまわひろし为帝。あかとくざいひしげ竖立“おん兰·达札きょう纪功”以纪ねん其功绩。

名称めいしょう

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名字みょうじざいおん兰·达札きょう纪功ちゅうまたうつしさくおん兰·きょうངན་ལམ་ཀླུ་ཁོང་あるみちきょうཀླུ་ཁོང་),《王者おうじゃ遗教さくだい论达热路きょうབློན་པོ་ཆེན་རྟ་ར་ཀླུ་གོང),而在敦煌とんこう出土しゅつどてきぞうぶん文献ぶんけんちゅうまたたたえ其为论达扎བློན་སྟག་སྒྲ)。ゆう学者がくしゃすえ敦煌とんこう文献ぶんけんちゅうてきརྨ་གྲོམいちめい,认为达扎きょう就是《资治どおりちゅう记载てき马重えい[1][2]

生涯しょうがい

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おん兰·达扎きょう出生しゅっしょうざい彭域いま西藏にしくら自治じちはやしあまねてき贵族おん兰氏家庭かてい。达扎きょうざいあかとく时期就出にんはた军一职。736ねん曾带领吐しげる军队讨伐突厥大破たいは[3]755ねんあかとく赞在亚著贝擦じょうぞうཡ་འབྲོག་ས་ཚལ)赛马时,大臣だいじんろう·うめしょくぞうལང་མྱེསཟིགས།すえ·东则ぬの二人ふたりがい[4]二人ふたり勾结苏毗おうぼつ庐赞举兵はん叛。达扎きょうりつ平定へいていりょう这个叛乱はんらん,拥立王子おうじ赤松あかまついさお即位そくいずいきさきたてまついのちどうはた·なお杰斯しゅうていそくなおいき)诛杀りょう两位大臣だいじん,并查しょう其家产。[5][6]达扎きょういん此在せい上平かみひらあゆみあおうんなり为仅于摄せいしゃ玛祥なかともえてき重臣じゅうしん

同年どうねんからあさ发生やすみだれ。达扎きょういたりょうからあさてき衰弱すいじゃく,于763ねん10がつはた·なお杰斯しゅうてい二人ふたりりつじゅう万大军攻陷唐朝首都长安并洗こうりょう这座城市じょうしとうだいむね出奔しゅっぽん陕州。吐蕃拥立金城きんじょう公主こうしゅてき兄弟きょうだい广武おううけたまわひろし皇帝こうていひさかくとうとうあさてき勤王きんのう势力逼近长安,吐蕃便びん于占领じゅう五天之后撤军回国。[2][7]

765ねん,吐蕃联合かい吐谷浑とうやつとう,以及からあさてき叛将仆固怀恩一起かずき进攻からあさ。达扎きょうなおいきなおゆいいきさんみがけなおいきひがしさんとうりつ吐蕃军队从邠州进军长安じょう附近ふきんてき奉天ほうてんいま陕西いぬい),为唐しょう浑瑊击退,吐蕃军伤ほろびいちまんせんにん。时天くだだいあめ,吐蕃军由于行军不便びん,转而进攻醴泉こん陕西れいきた),掳数まんにん而归;经邠しゅう会同かいどうかい纥军队围おさむ泾阳こん陕西泾阳县)。かくすえじょう避免战。ひさ仆固怀恩病死びょうしかく仪同かい纥统帅药かずら罗结めいとうかい纥联军反はた吐蕃击溃,成功せいこうかいりょう长安围。[7]

769ねん[8]赤松あかまついさお赞联あい大臣だいじん墀桑まさはじめひしげとうひと发动せい变,杀死りょう玛祥なかともえ杰并亲政。赤松あかまついさお任命にんめい墀桑まさはじめひしげだい贡论,并派じん天竺てんじく请来りょう佛教ぶっきょう高僧こうそうさびひろ扬佛ほうざい此期间,达扎きょうどう其他いち支持しじ苯教てき大臣だいじん联合,坚决はん赤松あかまついさお赞弘扬佛教ぶっきょうてき计划,さこ使つかい赤松あかまついさお赞将さび护礼送出そうしゅつさかいただしひさはんふつ事件じけんひらいき以后,赤松あかまついさお赞又はたさび护和密宗みっしゅうだい莲花せいせっいたりょう吐蕃。莲花せいとうそうじんざい吐蕃建造けんぞう佛寺ぶつじ,遭到りょう苯教大臣だいじんてき强烈きょうれつはん对,认为一个国家决不能有两种不同的官方宗教信仰。莲花せいつつみ议以辩论てき方法ほうほうらい决定两个宗教しゅうきょうてき地位ちいざい赤松あかまついさお赞的主持しゅうもち,莲花せいどう支持しじ苯教てき达扎きょうとう大臣だいじん进行りょう辩论。结果莲花せい获得りょう胜利,赤松あかまついさお赞下れい全国ぜんこく废除苯教信仰しんこうあらためしん佛教ぶっきょう全体ぜんたい大臣だいじん必须为吐しげる建立こんりゅう佛寺ぶつじさく贡献;废止苯教てき祭祀さいし并将苯教てき经书丢入河中かわなか。一些苯教的大臣在恩兰·达扎きょう带头,坚决こばめ建造けんぞう佛寺ぶつじ,并抵せい佛教ぶっきょう。于是赤松あかまついさお赞命れいはた达扎きょう用草もちくさ绳捆むちいち顿,しかきさきりゅう北方ほっぽう。此后支持しじ苯教てき大臣だいじんただとくふく命令めいれい[9]

ただしひさきさき达扎きょう就转为崇ふつ,并为くわ耶寺建造けんぞうりょうくろとう供奉ぐぶ如来にょらい佛祖ぶっそてき遗骨。[10]よし于此转变,并且达扎きょう战功赫赫かくかくたてこく赤松あかまついさお赞召かい并委以重任じゅうにんきさきらいまたはた·なお杰斯しゅうていこれきさき担任たんにんりょうだい贡论これ职。よし其功勋卓ちょ赤松あかまついさお赞特ざい逻些じょう为其竖立りょう达扎きょう记功”,以表彰ひょうしょう其功绩。赤松あかまついさお赞下れい给予其后だいはん重罪じゅうざい处以死刑しけいかん衔永远世袭、私有しゆう财产なが没收ぼっしゅうとうとうとく权。[1][5]

778ねん,达扎きょうりつ军攻とうあさてき灵州庆州盐州银州泾州[7]790ねん,达扎きょうりつ军北大破たいは支援しえん西域せいいきから军的かい主力しゅりょくかい鹘走こうおとろえ落。ざい792ねん,吐蕃完全かんぜんうらない领了西域せいいき地区ちくはたからあさあずかかい鹘的势力彻底驱逐。[11][12]

792ねん天竺てんじくそうじん莲花戒あずか禅宗ぜんしゅうそうじんこらえぬの诃衍ざい逻些じょう进行顿渐,长达さんねんてき激烈げきれつ辩论ちゅう墀桑まさはじめひしげ支持しじ莲花戒,而恩兰·达扎きょう则支持堪もちこたえぬの诃衍。ざい辩论间,双方そうほうてき支持しじしゃ各自かくじ携带武器ぶき,气氛じゅうふん紧张。赤松あかまついさお赞下れい没收ぼっしゅうりょう所有しょゆう武器ぶきさい终莲はな戒一派获得了胜利。[13]ただし莲花戒不ひさ就被じんくら杀,此事件じけん可能かのうあずか达扎きょうゆう一定いってい关联。

あい传达扎路きょうきさき变成いちだい非人ひにんしょうさくかつらなみ达热”(ぞうརྒོད་པོ་ཏ་ར意思いし达热”);きさきらいまた委任いにんはたうらぞうམཆིམས་ཕུひしげ东南,まさ鲁藏ぬのこう北岸ほくがんくわ耶寺东侧[14]てき护法しん[15]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 1.0 1.1 《贤者えん》182~183页
  2. ^ 2.0 2.1 《资治どおり鉴·まき223》
  3. ^ 西藏王にしざおう统记》205页,脚注きゃくちゅう593。
  4. ^ 《贤者えん》113页,脚注きゃくちゅう23
  5. ^ 5.0 5.1 达扎きょう记功
  6. ^ 《贤者えん》182页~183页
  7. ^ 7.0 7.1 7.2 しんから书·吐蕃传》
  8. ^ 西藏王にしざおう统记》记载,玛祥なかともえ杰禁ふつ时曾はた逻些しょうあきらてらてき觉阿たからぞうおく往芒いきざいさと放置ほうちりょうじゅうよんねんひさちょくいた赤松あかまついさお赞亲政之まさゆききさきざいむかえかいすえ推断すいだん赤松あかまついさお赞的亲政应为即位そくいきさきてきだい14ねん,也就769ねん。(《西藏王にしざおう统记》,だい119页)
  9. ^ 《贤者えん》132~133页
  10. ^ 《贤者えん》138页
  11. ^ 《贤者えん》140~141页。原文げんぶん为“ཧོར་ཡུལ་”(霍尔いき),ゆび西藏にしくら北方ほっぽうゆうまき民族みんぞくてき地区ちく颢译为“突厥地区ちく”,此时实际统治てきこれかい鹘。
  12. ^ 《吐蕃稿こう》157~160页
  13. ^ 《贤者えん》207页脚注きゃくちゅう86。
  14. ^ 《贤者えん》87页
  15. ^ 《贤者えん》140~141页

参考さんこう文獻ぶんけん

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相關そうかん條目じょうもく

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おん兰·达扎きょう
(马重えい
前任ぜんにん
はた·なお杰斯しゅうてい
なお结息)
吐蕃だい贡论
782ねん—783ねん
つぎにん
囊·なお·杰擦ひしげ
なお结赞)