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はりつけ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Crucifixion of Jesus by Marco Palmezzano (Uffizi, Florence), painting c. 1490

はりつけ(はりつけ)とは、罪人ざいにんいたはしらなどにしばりつけ、やりなどをもちいてころ公開こうかい処刑しょけい刑罰けいばつのこと。磔刑たっけい(たっけい)。

はりつけ使つかわれるだいはりつけだい)の形状けいじょうとして、キリストの磔刑たっけい時代じだいげきられる十字形じゅうじがたほかぎゃく十字形じゅうじがた、I字形じけい、X字形じけい、Y字形じけい、IとXわせなどがあり、時代じだい場所ばしょによってことなる形状けいじょう使つかわれた。また、けい内容ないよう執行しっこう主体しゅたいによって使つかけられることがあった。

概説がいせつ

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はりつけ方法ほうほうとして、あたまうえにする方法ほうほうほかあたましたにする方法ほうほうさかはりつけ)、ブリッジなどの不自然ふしぜん体位たいいはりつけける方法ほうほうがあった。はりつけけたあと死亡しぼういたらしめる方法ほうほうとしては、やりなどを使つかってとどめを方法ほうほうほか重傷じゅうしょうわせて放置ほうちする方法ほうほうなにもせずに呼吸こきゅう困難こんなんぬにまかせる方法ほうほうがあった。

わったものとして、ドルイド信仰しんこう一種いっしゅとして、森林しんりん違法いほう伐採ばっさいした場合ばあい樹木じゅもくわせたきずおなきず犯人はんにんわせてしばけ、樹木じゅもくゆるしてくれるまではりつけにするという刑罰けいばつがあった。

十字形じゅうじがたはりつけだいキリスト教きりすときょうとともに日本にっぽんつたわったというせつがある。

日本にっぽんにおけるはりつけ

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江戸えど時代じだいはりつけ(『けいざい詳説しょうせつ』)。
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明治めいじ初期しょきはりつけにされた刑死けいしたい
フェリーチェ・ベアト撮影さつえい外国がいこくじんきゃくけの土産みやげよう写真しゃしんとしてられていたもの。

日本にっぽんにおけるはりつけは、『源平げんぺい盛衰せいすい』に養和ようわ元年がんねん1181ねん河野こうの通信つうしんがく入道にゅうどう西にしさびを「はちづけ」にしたとあるのと、『平治へいじ物語ものがたり』に屋島やしまたたかのちみなもと頼朝よりとも長田ながたただし父子ふしはりつけにしたとあるのがふるれいである[1]

はりつけ種類しゅるい

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日本にっぽん江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこうにおけるはりつけは、磔刑たっけいのこ場合ばあいおこなわれた。受刑じゅけいしゃ小伝馬こでんままちろう屋敷やしきからされ、付加ふかけいとしてまわにされた。はりつけしょされるつみしんころ主人しゅじんころし、関所破せきしょやぶりや贋金にせがねづくなどであった[1]

磔刑たっけい方法ほうほう

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処刑しょけい小塚原こづかはら鈴ヶ森すずがもり刑場けいじょう公開こうかいおこなわれたが、在方ざいかたつみおかした場合ばあいはそのおこなうこともあり、関所破せきしょやぶりをした場合ばあいにはそこではりつけにすることが規定きていされていた。ろうないつみみとめたのち獄死ごくししたものたいしても死体したい塩漬しおづにして保存ほぞんしておき、判決はんけつされたのちはりつけ執行しっこうされた[2]

まず、刑場けいじょうにおいて地面じめんいたはりつけばしらなわ手首てくび上腕じょうわん足首あしくびむね腰部ようぶかたばく衣類いるいり(やりげるためにりょう乳房ちぶさから脇腹わきばら露出ろしゅつするよう衣類いるい一部いちぶぎ、いだぬのからだ中央ちゅうおうたばねてしばる)、すうにんがかりではりつけばしらて、はしら下部かぶ地面じめんったあなれ、垂直すいちょくてた。はりつけばしら形状けいじょうは、男性だんせいようが「キ」の女性じょせいようが「じゅう」ので、男性だんせいよう股間こかんに、女性じょせいようあしした体重たいじゅうささえるだいがあった。このため男性だんせいだいかたちになり、女性じょせいじゅうかたちとなってはしら身動みうごきできないようにかたばくされた。

検使けんし与力よりきたま左衛門さえもん手代てだいから執行しっこう準備じゅんびととのったむね報告ほうこくけ、同心どうしんめいじて最期さいごひとあらためをおこない、受刑じゅけいしゃ本人ほんにんであることを確認かくにんさせる。

やりかまえた執行しっこうやく手代てだい合図あいず2人ふたりはりつけばしら左右さゆうならび、最初さいしょ受刑じゅけいしゃ目前もくぜんやり交叉こうささせた。これを「やり」としょうした。つぎに「アリャアリャ」というごえともに、やりでねじりむようにまずみぎ脇腹わきばらから左肩ひだりかたさきにかけて受刑じゅけいしゃ串刺くしざしにつらぬき(穂先ほさき肩先かたさきからいちしゃくるのが正式せいしきとされる)、つぎひだり脇腹わきばらからみぎ肩先かたさき貫通つらぬきとおさせ、その同様どうよう手順てじゅん左右さゆう交互こうごやり貫通つらぬきとおさせる。受刑じゅけいしゃおも出血しゅっけつ多量たりょう外傷がいしょうせいショックにより2・3かい貫通かんつう絶命ぜつめいしたが、死後しごもこれを30かいほどかえした。やりつたわらないよう、とおすたびにやりをひねり、わらやりいたぬぐう。脇腹わきばら傷口きずぐちからは鮮血せんけつし、内臓ないぞうくじられるので、ちょうなどの内臓ないぞう残留ざんりゅう消化しょうかぶつなどがされ、凄惨せいさん有様ありさまであったという。すなわち、西洋せいよう磔刑たっけいとはいた過程かてい方式ほうしきまったことなり、事実じじつじょうやりによる刺殺しさつけいといえる。消化しょうかからはいまで広範こうはん臓器ぞうき損傷そんしょうあたえるため、またしばしばやりほねにつかえたりする場合ばあいもあった。

最後さいごなが熊手くまで罪人ざいにんまげをつかんでかおうえかせ、やりみぎから左上ひだりうえにかけて受刑じゅけいしゃのどとおす。これを「めのやり」という。死体したいはその3日間にちかん放置ほうち状態じょうたいさらされたのちあなほうんで片付かたづけ、あとはがらす野犬やけんうにまかせた[1][2]

名和なわゆみつよしによると、祖父そふ大垣おおがきはん寺社じしゃ奉行ぶぎょう吟味ぎんみかた与力よりきであり、再三さいさんはりつけ検視けんしったが、はりつけはじめてものはあまりにも凄惨せいさん光景こうけいに、大概たいがい気分きぶんわるくしたという。

東京とうきょう品川しながわ鈴ヶ森すずがもり刑場けいじょうあとには、かつてはりつけばしらてるために使用しようされた礎石そせきのこされている。

映画えいがひと』では、岡田おかだ以蔵はりつけによってその生涯しょうがいじる場面ばめんがラストシーンにえがかれているが、史実しじつの以蔵は、はりつけではなく打首うちくびしょされている。また、昭和しょうわ時代じだいげきにおいてしばしば「はりつけ獄門ごくもん」という台詞せりふられるが、前述ぜんじゅつとおり、はりつけしょされた遺体いたい放置ほうちされ、あらためて斬首ざんしゅすることはないため、考証こうしょうじょうあやまった表現ひょうげんである。

そのはりつけ

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上記じょうきはりつけ江戸えどまち奉行ぶぎょうしょおこなうもので、奉行ぶぎょうしょはんでは細部さいぶことなっていた。また江戸えど時代じだい前期ぜんき以前いぜん磔刑たっけい方法ほうほうはさまざまで、はん大名だいみょうによりかなりのがあった。「串刺くしざしけい」などの名称めいしょう記録きろくのこっているものも、実際じっさいにははりつけであった場合ばあいもある。また鎌倉かまくらには地面じめんいた戸板といた手足てあしくぎづけにするかたちおこなわれた。

長倉ながくら美徳みのり覚書おぼえがき』の記述きじゅつとして、水戸みと那珂なかむらおっと殺害さつがいした女性じょせい当初とうしょ溺死できし偽装ぎそうされていたがきず発覚はっかく)が「ぎゃくはりつけ」のけいにされ、全身ぜんしんあたまがり、苦痛くつううなごえ村中むらなかこえたすえ、2、3にち絶命ぜつめいしたという記述きじゅつがあり、時間じかんをかけたせしめの意味合いみあいがあった。

生類しょうるいあわれみのれいたいする反発はんぱつから千住せんじゅ宿やど路地ろじにおいて、「このいぬ公方くぼうをかり、諸人もろびとなやます。よってかくのごとおこなうものなり」のさつかかげられた状態じょうたいで、私刑しけいで2ひきイヌはりつけにされた[3]動物どうぶつはりつけにする故事こじは、紀元前きげんぜん中国ちゅうごくにもられ、ちょう幼少ようしょうネズミはりつけられる(「動物どうぶつ裁判さいばん#文献ぶんけん」も参照さんしょう)。

小説しょうせつなどでは肛門こうもんやり方法ほうほうえがかれることがあるが、現実げんじつには技術ぎじゅつてき相当そうとう執行しっこう困難こんなんであったとおもわれる。

海岸かいがんにおいて、満潮まんちょうにはあたま海中かいちゅうぼっするようにあたましたにしてはりつけけることを「みずはりつけ」とったが、これは「さかつるし」の一種いっしゅで「はりつけ」とは別物べつものである。

ギリシア・ローマの磔刑たっけい

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ジェームズ・ティソによるこされる十字架じゅうじか

ナザレのイエスけた磔刑たっけいについてはキリストの磔刑たっけい参照さんしょう十字架じゅうじかけいともばれる。ギリシア・ローマでは不名誉ふめいよつみたいするばちとして磔刑たっけいおこなわれた。とくにローマでは国家こっか裏切うらぎものたいしておこなわれた。ユダヤぞくしゅうにおいて、なぜナザレのイエスが磔刑たっけいけることになったか、その経緯けいいについては諸説しょせつある。

磔刑たっけい受刑じゅけいしゃむちたれることになっていた。このむち強力きょうりょくなもので、たれたもの皮膚ひふ出血しゅっけつするほどである。場合ばあいによってはたれたもの死亡しぼうすることがある。しかし、むちちで死亡しぼうさせるとこののち死刑しけい執行しっこう無意味むいみになってしまうので、程々ほどほどたれたものであろう。鞭打むちうちののち磔刑たっけい受刑じゅけいしゃ刑場けいじょうまで自力じりき十字架じゅうじか横木よこぎはこぶことになっていたとされるが、受刑じゅけいしゃさきおこなわれたむちちで横木よこぎはこべない状況じょうきょう場合ばあいとおりかかったもの徴用ちょうようしてはこばせた場合ばあいもあったようである。 刑場けいじょう到着とうちゃくすると、かされた状態じょうたいで、まず受刑じゅけいしゃ十字架じゅうじかくぎ固定こていされる。衣服いふくうばわれはだかにされる。けいはじめから十字架じゅうじかがたになっている場合ばあいと、たて横木よこぎ分離ぶんりされている場合ばあいがあり、後者こうしゃ場合ばあいはまず横木よこぎ受刑じゅけいしゃひろげられたりょう手首てくびくぎちされ、その状態じょうたい横木よこぎげ、あらかじ垂直すいちょくてられたたてまれて十字じゅうじがたしくはTがたにされた。そのあしくぎちされた。磔刑たっけいでは、よくのひらをくぎはりつけだいけた姿すがたえがかれるが、のひらにくぎつと、体重たいじゅうささえきれずけてからだちてしまうので、手首てくび橈骨(とうこつ)としゃくこつ(しゃっこつ)とのひらこつ(しゅこんこつ)とのあいだくぎたれた。この位置いちであれば自重じじゅうささえることが可能かのうであり、骨折こっせつもなく、出血しゅっけつ比較的ひかくてき少量しょうりょうむ。この位置いちくぎつと正中せいちゅう神経しんけい破壊はかいされ、うで麻痺まひする。さらあしを45げた状態じょうたいあしける。これによりくいこされてからは、受刑じゅけいしゃ不自然ふしぜん姿勢しせいらざるをなくなり、自重じちょうささえるのが困難こんなんとなる。

くいこされてられて固定こていされると、受刑じゅけいしゃりょううで自重じちょうがかかり、受刑じゅけいしゃかた脱臼だっきゅうする。その結果けっかむね自重じちょうがかかり横隔膜おうかくまく活動かつどうさまたげられる。受刑じゅけいしゃ呼吸こきゅう困難こんなんになり、ちゅう酸素さんそ濃度のうど低下ていかする。ちゅう酸素さんそ濃度のうど低下ていかにより心臓しんぞう心拍しんぱくすうたかめ、これがちゅう酸素さんそ濃度のうど低下ていか拍車はくしゃをかける。やがて受刑じゅけいしゃ全身ぜんしん筋肉きんにく疲弊ひへいし、はいはい水腫すいしゅこし、さらに酸素さんそ欠乏けつぼうし、心筋しんきん疲弊ひへいくして機能きのう停止ていしし、受刑じゅけいしゃ絶命ぜつめいいたる。この過程かてい相当そうとう苦痛くつうともなうものであるため、まわりでている人々ひとびと受刑じゅけいしゃ苦痛くつう軽減けいげんするためにぶどうしゅなどをあたえることもゆるされたようである。こののちけい受刑じゅけいしゃやり死亡しぼう確認かくにんすることがあったという[注釈ちゅうしゃく 1]

また、こしあししたささばんがあったり、どうをロープなどでしばけることにより絶命ぜつめいまでの時間じかんばし、苦痛くつう増大ぞうだいさせることができた。ぎゃく処刑しょけいいそぎたい場合ばあいは、あしほねった[注釈ちゅうしゃく 2]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ イエスの処刑しょけいについての聖書せいしょ記述きじゅつにも、イエスの脇腹わきばらけい吏であったローマへいやりしたという記述きじゅつがある。このときイエスをしたやりロンギヌスのやりであるとされている。
  2. ^ 受刑じゅけいしゃいたるプロセスについては、1930年代ねんだいにピエール・バルビー博士はかせおこなった一連いちれん研究けんきゅうくわしい。ただし、監察かんさつのフレデリック・ズージベは、ボランティアをかわひもを使つかって十字架じゅうじかにくくりける実験じっけん呼吸こきゅう困難こんなんおちいった被験者ひけんしゃがいなかったことを理由りゆうにバルビーの研究けんきゅう否定ひていしている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 刑務けいむ協会きょうかい 1943, pp. 719–721.
  2. ^ a b 石井いしい 1964, pp. 53–57.
  3. ^ 水戸みとけい江戸えどだい誤解ごかい』(いろどりしゃ、2016ねん)p.67.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 石井いしい, 良助りょうすけ江戸えど刑罰けいばつ』(2はん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1964ねん3がつ15にち 
  • 刑務けいむ協会きょうかい へん日本にっぽん近世きんせい行刑ぎょうけい稿こうじょう刑務けいむ協会きょうかい、1943ねん7がつ5にちdoi:10.11501/1459304 (よう登録とうろく)
  • 名和なわゆみつよし拷問ごうもん刑罰けいばつ雄山閣ゆうざんかく、1987ねん、191ぺーじ

関連かんれん項目こうもく

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