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金平正紀 - Wikipedia

金平きんぴら 正紀まさき(かねひら まさき、1934ねん2がつ10日とおか - 1999ねん3月26にち)は[1]日本にっぽんボクシング指導しどうしゃボクシングプロモーター[1][2]金平きんぴらジム(げんきょうさかえボクシングジム設立せつりつしゃ広島ひろしまけん広島ひろしま出身しゅっしん[1][2]豊田とよだぐん川尻かわじりまちげんくれ出身しゅっしん[3][ちゅう 1]身長しんちょう162cm、体重たいじゅう65kg(1980ねん8がつ[2]

金平きんぴら 正紀まさき
基本きほん情報じょうほう
階級かいきゅう フライきゅう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
誕生たんじょう (1934-02-10) 1934ねん2がつ10日とおか
出身しゅっしん 広島ひろしまけん広島ひろしま
死没しぼつ (1999-03-26) 1999ねん3月26にち(65さいぼつ
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長男ちょうなん代目だいめきょうさかえボクシングジム会長かいちょうで、2023ねん現在げんざいTMK GYM会長かいちょう金平きんぴらかつら一郎いちろう

来歴らいれき

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青年せいねん - ジム設立せつりつ

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川尻かわじり小学校しょうがっこう[3]川尻かわじり中学校ちゅうがっこう[3]くれにあったげいみなみ高校こうこう中退ちゅうたい[2][3][ちゅう 2]中学ちゅうがく時代じだいにケンカでけたくやしさから[4]げいみなみ高校こうこうでボクシングをはじめる[2][4][3]同校どうこうを1ねん中退ちゅうたい上京じょうきょう[1][2]野口のぐちボクシングジム入門にゅうもんフライきゅうバンタムきゅう活躍かつやくする[2]日本にっぽんチャンピオンにはなれなかったが、国内こくないランキングでは1[1]師匠ししょう同様どうようのブルファイターがたのボクサーとして目黒めぐろジムの四天王してんのうばれた。さんさこジム初代しょだい会長かいちょうさんさこ仁志ひとしおなどし兄弟子あにでし会長かいちょう長男ちょうなん野口のぐちおさむとはおなどし親友しんゆうだった。1958ねん引退いんたい[1][2]。プロボクサーとしての現役げんえき生活せいかつは5ねん戦績せんせきは、37せん15しょう19はい3[2]

しばらくはマネージャーとして活動かつどうするが、ボクシングからくことと決意けついし、ジムの後輩こうはいである山神さんじん淳一じゅんいちだい番頭ばんがしらに1958ねん4がつ[2]恵比寿えびすえきまえ[5]とんかつ「とんきん(とんかね)」を開業かいぎょうする[1][2][5]。8にんきゃくはいればいっぱいになるちいさなみせ[2]金平きんぴら現役げんえき時代じだいみではたらいた目黒雅叙園めぐろがじょえん仕込しこみの味付あじつけは[ちゅう 3]評判ひょうばんんだという[4]。ある新規しんきアルバイト募集ぼしゅうしたところ、応募おうぼしてきたのが19さい海老原えびはら博幸ひろゆきであった[2][6]求人きゅうじん広告こうこくには「特典とくてん:ボクシングおしえます」のいちぎょうくわえてあった[5]海老原えびはらとグローブをまじえ、天与てんよ才能さいのう見出みいだした金平きんぴら[5]繁盛はんじょうしていたみせたたよく1959ねん杉並すぎなみ永福えいふくに「金平きんぴらジム」(のちの協栄きょうえいジム)を設立せつりつする[2][4][5][7][8][9][10]練習れんしゅうせい海老原えびはら一人ひとりであった。海老原えびはら当時とうじ福生ふっさうちピザコックとしてはたらいていた[2]

トレーナーとしての活躍かつやく

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べい倉庫そうこ改造かいぞうしたジムにロープを[2][5]海老原えびはら二人三脚ににんさんきゃくで"世界せかいチャンピオン"を目指めざし、5ねん1963ねんつい海老原えびはらWBAWBC世界せかいフライきゅう王者おうじゃみちび[5][6]。その西城さいじょう正三しょうさん(WBA・フェザー)、具志堅ぐしけんようだか(WBA・ライトフライ)[11]上原うえはらやすしつね(WBA・スーパーフェザー)、渡嘉敷とかしき勝男かつお(WBA・ライトフライ)、鬼塚おにづか勝也かつや(WBA・スーパーフライ)、いさむとしアルバチャコフ(WBC・フライ)、オルズベック・ナザロフ(WBA・ライト)、佐藤さとうおさむ(WBA・スーパーバンタム)、坂田さかた健史たけし(WBA・フライ)、と国内こくない最多さいた10にん世界せかいチャンピオンをそだてた[1][12]佐藤さとうおさむ坂田さかた健史たけし金平きんぴら死去しきょにチャンピオンになったが、高校こうこうアマボクシングで凡庸ぼんよう戦績せんせきだったかれらの才能さいのう見出みいだし、ジムに入門にゅうもんさせたのは金平きんぴらである。

4にん世界せかいチャンピオンになった上原うえはらやすしつねのチャンピオン獲得かくとく年齢ねんれい29さい9ヵ月かげつ[2]当時とうじ日本人にっぽんじんボクサーの最年長さいねんちょうだったが[2]上原うえはらには10ねんあいだ家賃やちん生活せいかつすべ[2]仕事しごとたせず、ボクシングに専念せんねんさせた[2]。これはボクシング以外いがい精神せいしんめんでの負担ふたんをさせないためだった[2]上原うえはらは「親身しんみになった選手せんしゅ面倒めんどうてくれた。この10年間ねんかん会長かいちょう期待きたいこたえたいという気持きもちだけでたたかった」とはなした[2]具志堅ぐしけんは「ボクシングは、選手せんしゅ会長かいちょうあいだに『信用しんよう』がないと出来できないんですヨ。ぼく会長かいちょうがいるだけで安心あんしんします」と[2]西城さいじょうは「ボクシングをはなれても面倒めんどうてくれるいいじんです。練習れんしゅうでもあたまごなしにうことはなかったし、試合しあいでも選手せんしゅをリラックスさせるコツをっていました。会長かいちょうは、日本にっぽん勿論もちろん世界せかいでも重要じゅうようされている偉大いだいひとです」などとはなした[2]海老原えびはらのときはマンツーマン指導しどうをするしかなかったが[2]金平きんぴらはジムの会長かいちょう選手せんしゅとは、一定いってい距離きょりきべきという持論じろんっていた[2]。「キャバレー選手せんしゅれてって、ホステスといちゃつくようなジム会長かいちょうではダメだ。選手せんしゅからは尊敬そんけいされなくてはならない」というかんがえがあった[2]。また西城さいじょうのいうように会長かいちょうがひとつひとつにくちすと選手せんしゅ委縮いしゅくすると、自身じしん指示しじはトレーナーをつうじて選手せんしゅつたえるようにした[2]。ガミガミ怒鳴どなっても練習れんしゅうはげみがるものではないとかんがえ、選手せんしゅあじ尊重そんちょうし、その個性こせいかして育成いくせいおこなった[2]。「"根性こんじょう"という言葉ことばしたら、試合しあいけます。いちにもにもトレーニング。それがすべてです」とはなした[2]上原うえはらまで4にんのチャンピオンをむまで、金平きんぴらスカウトした人数にんずうは1,000にんにのぼった[2]

具志堅ぐしけん防衛ぼうえいつづけるあいだに、金平きんぴら年収ねんしゅうは4,000~5,000まんになり[13]金平きんぴらまわりを何人なんにんもの関係かんけいしゃかこみ、日本にっぽんのボクシングかい先導せんどうしてざいした[13]地主じぬし共同きょうどうで、赤坂あかさか地下ちか1かい地上ちじょう1、2かいマンション建設けんせつした[13]。2かいには具志堅ぐしけんんだ[13]金平きんぴらかつら一郎いちろうは「ステーキとかスッポンとか、ありとあらゆる料理りょうりちいさいころからべた」「父親ちちおや威厳いげん松田まつだ聖子せいことも対面たいめんできた」などとはなしている[13]

一時期いちじき草加そうかにジムをかまえていたが、渋谷しぶや代々木よよぎえきちかくに移転いてん草加そうかのジムは所属しょぞく選手せんしゅ実父じっぷ実業じつぎょう有澤ありさわ二男じなん売却ばいきゃく草加そうか協栄きょうえいジム(げん草加そうか有沢ありさわボクシングジム)となった。

プロモーターとしてまとめた世界せかいタイトルマッチきゅう試合しあいは100を[14]米国べいこくドン・キングになぞらえ「日本にっぽんのドン」[14]、あるいは「顔役かおやく」などの異名いみょう[15]みずからは「業界ぎょうかいあばれんぼう」を自称じしょう、「つよいヤツがつんじゃない。ったヤツがつよいんだ!」という言葉ことば信念しんねんとした[16][17]日本にほんテレビとの衝突しょうとつけとして東京とうきょう12チャンネル(げんテレビ東京てれびとうきょう)の運動うんどう部長ぶちょう白石しらいしつよしたち接近せっきん1971ねん、『KO(ノックアウト)ボクシング』を放送ほうそう開始かいしさせる[18]テレビ局てれびきょくからすうせんまんえん放映ほうえいりょう手法しゅほうにいちはやけたのも金平きんぴら[15]具志堅ぐしけんを「100ねん一人ひとり天才てんさい」というキャッチフレーズすなど[2][19][20]、「めい伯楽ばくろう」といわれる一方いっぽう[21]錬金術れんきんじゅつたくみさと、すさまじいヤリしゅぶりでもられた[22][23]1970年代ねんだいから1980年代ねんだいにかけてのボクシング世界せかいタイトルせんのテレビなま中継ちゅうけい視聴しちょうりつ30~40%[13]今日きょうのボクシングを環境かんきょうとはおおきなへだたりがあった[13]。チャンピオンの防衛ぼうえいせん挑戦ちょうせんしゃめるには、海外かいがい海千山千うみせんやませんのプロモーターを相手あいてにし有利ゆうりえらぶという手腕しゅわん必須ひっすとなるが、金平きんぴら口八丁くちはっちょうしゅはちちょうあるいは手練しゅれん手管てくだ交渉こうしょうじゅつ[2]、またたたかいやすい相手あいてつけてくるという手腕しゅわんにもけていた[22]海老原えびはらけたホセ・セベリノのマネージャーは「カネヒラの笑顔えがおだまされた。最初さいしょサンパウロでやろうというはなしだったんだ。カネヒラがサンパウロにもけないいいところがあるからとうから、てみたら試合しあい札幌さっぽろ試合しあい前日ぜんじつにはゆきったんだ。それでてるわけないだろう!」と激怒げきどした[2]。1968ねんに「きょうさかえプロモーション」という会社かいしゃつく[1]、ボクシング先進せんしんこくであるメキシコや、アメリカロスハワイ駐在ちゅうざいいんいて、情報じょうほう収集しゅうしゅう現地げんちでの交渉こうしょうたらせた[2]。また軽量けいりょうきゅう海外かいがいではビジネスとして成立せいりつしないから[22]防衛ぼうえいせん全部ぜんぶ日本にっぽんでやるというビジネスを確立かくりつさせた[22]。そのヤリしゅぶりはすさまじく、さき防衛ぼうえいせんをどんどんんでおかねさきる「金平きんぴら商法しょうほう」は、しばしばチャンピオンに「(無理むり日程にっていまされ)ころされる!」などとトラブルをこした[24]。まずホラをき、たか目標もくひょうかかげることで自分じぶん暗示あんじをかけ、それに選手せんしゅみ、いくつもの王座おうざ掌中しょうちゅうにした[2]。ボクシング評論ひょうろん郡司ぐんじ信夫しのぶは「ふるさをて、この世界せかいでいちはや近代きんだいげたひとです」とたか評価ひょうかした[2]

1972ねんには王座おうざわたした西城さいじょうようして、キックボクシング興行こうぎょうにも[25]1976ねんアントニオ猪木いのきたいモハメド・アリせんにも関与かんよ[9][26]同年どうねん日本人にっぽんじん女子じょしプロボクサーだい1ごうとなったこうちく正子まさこ女子じょしプロボクシングが解禁かいきんされた米国べいこく渡航とこう手引てびきする[27]1978ねんTBSで『ガッツファイティング放送ほうそう開始かいし全日本ぜんにほんボクシング協会きょうかいから利敵りてき行為こういだと除名じょめいされ、同名どうめいの「だい協会きょうかい」を結成けっせい協会きょうかい会長かいちょう木村きむら七郎しちろうらと対立たいりつした(くろきり事件じけん)が、1980ねんりょう協会きょうかい和解わかいともな会長かいちょうせんで2ねらっていたもと同僚どうりょうさんさこ仁志ひとし退しりぞけて当選とうせん全日本ぜんにほんボクシング協会きょうかい会長かいちょう就任しゅうにんした。

また、田中たなか敏朗としろうともにパブリック・マネージャー制度せいど導入どうにゅう尽力じんりょく。ボクシングのみならず、「きょうさかえコンツェルン」の総帥そうすいとしておおくの事業じぎょうした[24]。パチンコてんほか[24]競泳きょうえい選手せんしゅ育成いくせい中心ちゅうしんとした)きょうさかえ町田まちだスイミングスクール(1980ねん7がつオープン)の経営けいえいにも側近そっきん愛弟子まなでし若林わかばやし敏郎としおきょうさかえスポーツクラブじゅうにち市場いちばオーナー)をもちいてんだ[24][28]。1976ねん4がつ広島ひろしまレジャーセンター社長しゃちょう就任しゅうにん[1][2]かつら一郎いちろうに「ほかに収入しゅうにゅうげんさがせ」と指示しじして健康けんこう食品しょくひん事業じぎょうもさせた[29]歌手かしゅふじ圭子けいこをカムバックさせたい道楽どうらく藤原ふじわらしげるきょうたのまれ[30]1981ねん8がつ芸能げいのうかいにもかおがきく金平きんぴらが、ふじのかつての所属しょぞく事務所じむしょ芸能げいのうかいでも迫力はくりょくのある新栄しんえいプロダクション社長しゃちょう西川にしかわ幸男ゆきお西川にしかわあきら西川にしかわけんちち)を説得せっとくふじをカムバックさせた[30][31]金平きんぴらふじ圭子けいこカムバックげきのフィクサーだった[30]。このため芸能げいのうかいはズブの素人しろうとである藤原ふじわら社長しゃちょうとする芸能げいのう事務所じむしょ・ニュージャパンプロダクションの会長かいちょうとして経営けいえいにも関与かんよした[24][30]

薬物やくぶつ投与とうよ事件じけん

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名声めいせい一方いっぽうで「きょあく」のかげいてまわったが[32]1982ねん世界せかいせん具志堅ぐしけん渡嘉敷とかしき対戦たいせん相手あいて選手せんしゅもの毒物どくぶつれる薬物やくぶつ投与とうよ事件じけん発覚はっかく[7][8][33][34]永久えいきゅう追放ついほうとなった(ジムが新宿しんじゅくしん大久保おおくぼえきちかくに移転いてん民事みんじ裁判さいばんあらそっていた文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ裁判さいばん両者りょうしゃ撤退てったいかたち和解わかいとなったこともあり1989ねん解除かいじょ[7]事件じけんほうじた「週刊文春しゅうかんぶんしゅん」をはじ[8][33]他誌たしやスポーツ、テレビのワイドショー後追あとお報道ほうどうひろ[35]国会こっかいでもげられるなど、ボクシングかい醜聞しゅうぶんにしては異例いれい過熱かねつぶりでおおきな騒動そうどうになった[8][35][36]戒厳かいげん当時とうじ韓国かんこくソウル山中さんちゅう拉致らちされながら命懸いのちがけの取材しゅざい敢行かんこうした木俣きまたただしつよしもと週刊文春しゅうかんぶんしゅん編集へんしゅうちょうは「あれが"文春ぶんしゅんほう"の原点げんてんです」とべている[33]金平きんぴら政治せいじになる野望やぼういていたが[34]、この事件じけんによりついえた[34]。ボクシング寄席よせというもよおしでは、オレンジに注射ちゅうしゃはりさった図柄ずがら羽織はおりるなど、みずからをシャレにするいちめんもあったという[34]

晩年ばんねん

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こうした挫折ざせつをものともせず[37]、その再起さいきをかけていちはや世界せかい戦略せんりゃく構想こうそう[14]長男ちょうなんかつら一郎いちろうロシア[14]おいマック金平きんぴらメキシコ語学ごがく留学りゅうがくさせ、ソビエト連邦れんぽうペレストロイカるや、アントニオ猪木いのきんでロシアじんボクサーの輸入ゆにゅう実現じつげん[29]ユーリ・アルバチャコフオルズベック・ナザロフ輸入ゆにゅうは、ロシア流暢りゅうちょうかつら一郎いちろう留学りゅうがくかされた[14][29]晩年ばんねんには北朝鮮きたちょうせんからオリンピックきむメダリストちぇてつ招聘しょうへいした[38]

1997ねんにはナゴヤドームでのK-1 JAPAN GP参戦さんせん表明ひょうめいし、シュートボクシング初代しょだい全日本ぜんにほんカーディナルきゅう王者おうじゃ大村おおむら勝巳かつみ専属せんぞくトレーナーに招聘しょうへいK-1キョウエイジム看板かんばんかかげていた。

1966ねんきた袴田はかまだ事件じけんの「無実むじつのプロボクサー袴田はかまだいわおすくかい」の発起人ほっきにんになる[39]

1992ねん女性じょせいファンのおおかったミッキー・ローク来日らいにちさせて試合しあいをさせたが、ロークのかるくかすったようなねこなでパンチ一発いっぱつ相手あいてたおれ、ロークの1ラウンドKO[34][40]。この試合しあいをメインにして、ソ連それんのペレストロイカでれていさむとしアルバチャコフせん前座ぜんざにしたため批判ひはんされた[29][34]

不動産ふどうさん投資とうし失敗しっぱいし30おくえんちか負債ふさいのこし、1999ねん大腸だいちょうがんで死去しきょ。65さいぼつ協栄きょうえいジムの経営けいえい長男ちょうなんかつら一郎いちろういだ。

金平きんぴら最後さいご弟子でし坂田さかた健史たけし苦節くせつ10ねん2007ねん3月19にちWBA世界せかいフライきゅうチャンピオンとなった。

  • 自身じしんがプロモートした試合しあい最高さいこうのファイトが、1971ねんルーベン・オリバレスVS金沢かなざわ和良かずよしのWBA世界せかいバンタムきゅうタイトルマッチだったという。同年どうねん年間ねんかん最高さいこう試合しあいにもえらばれた。
  • 情報じょうほうもうひろく、1975ねんTBS運動うんどう部長ぶちょうだったもり忠大ただひろ盲腸もうちょう入院にゅういんしていると、家族かぞくしからせていないはずなのに「直接ちょくせつ営業えいぎょうをかけるチャンス」とばかりに病院びょういんみ、「こんウチにすご新人しんじんがいるんですけどませんか」とみをはかった。退院たいいん具志堅ぐしけんようだかスパーリングもりは「カネさん、これはものだぞ」と、すぐ試合しあい中継ちゅうけい独占どくせん放映ほうえい契約けいやく即決そっけつきょくられては大損おおそんすると、2ねん更新こうしん手付てつけの契約けいやくきんは100まんえん金平きんぴら評判ひょうばんわるくTBS社内しゃないでも反対はんたいはあったがもり独断どくだんった[41][42]具志堅ぐしけんは「金平きんぴら会長かいちょうのことは、いろいろひともいるけど、りかえれば、協栄きょうえいジムの看板かんばんはすごかったなとおもうよ。現役げんえきとき文句もんくったり、愚痴ぐちうけど、指導しどうしゃ経営けいえいしゃとしてはNo.1ですよ」とべている[43]
  • 金平きんぴら広島ひろしまカープ後援こうえん会員かいいんだった関係かんけいで、元々もともとプロ野球やきゅう選手せんしゅこころざしていた具志堅ぐしけん毎年まいとし、カープの日南にちなんキャンプにれてき、これをけに、具志堅ぐしけん山本やまもと浩二こうじ仲良なかよしになり、山本やまもといのあった野球やきゅう選手せんしゅ芸能人げいのうじんとのいがはじまり、具志堅ぐしけん引退いんたいのタレント活動かつどうつなげた[44][45]。また具志堅ぐしけんころもりゅう祥雄よしおアートネイチャーのCMで共演きょうえんもしている。
  • 中学ちゅうがく卒業そつぎょう横浜よこはまでケンカ、ケンカの毎日まいにちおくっていたジョー山中さんちゅううでっぷしのつよさをきつけみずか出向でむいて1962ねんにスカウトし、そののうちに上京じょうきょうさせ協栄きょうえいジムりさせた。ジョーは3年間ねんかん、きついトレーニングとアルバイトを両立りょうりつさせ頑張がんばったが、プロテスト新人しんじん戦前せんぜん無理むり減量げんりょう脱水だっすい症状しょうじょうこし棄権きけん、そのままジムもボクシングもめてしまった。横浜よこはまもどって友人ゆうじんさそわれほどなくして音楽おんがくはじめたという[46][47][48]
  • 作家さっか百田ひゃくだ尚樹なおきは「あしたのジョー矢吹やぶきたけ丹下たんげ段平だんびらのコンビのモデルは、海老原えびはら金平きんぴらだとおもう」とべている[49]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 金平きんぴらかつら一郎いちろうは、金平きんぴら広島ひろしまけん豊田とよだぐん川尻かわじりまちりょういとなんでいた家系かけい自身じしんのブログ、2007ねん6がつ9にちぶん言及げんきゅうしている(金平きんぴらかつら一郎いちろうブログ「興行こうぎょうのひとりごと」)。三輪みわ義弘よしひろ著書ちょしょ世界せかい勝負しょうぶ めいトレーナー金平きんぴら正紀まさきまなぶ』では川尻かわじりまちまれ(同書どうしょ9ぺーじ)。
  2. ^ 荒廃こうはいこうとして有名ゆうめいであったが、現在げんざい廃校はいこうとなっている。そのわりに私立しりつ幼稚園ようちえんとして運営うんえいされている(だい11かいア式蹴球あしきしゅうきゅう全国ぜんこく優勝ゆうしょう大会たいかい#概要がいよう)。
  3. ^ 皿洗さらあらいが本職ほんしょくだったがひまなとき、板場いたばはいんで、おぼえたもの(『世界せかい勝負しょうぶ めいトレーナー金平きんぴら正紀まさきまなぶ』16ぺーじ)。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j 金平きんぴら正紀まさき - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al 管理かんりしょく必読ひつどく! 4にん世界せかいチャンピオンをそだてた金平きんぴら正紀まさき人間にんげん操縦そうじゅうじゅつ/個人こじんファイル 金平きんぴら正紀まさき」『週刊しゅうかん読売よみうり』1980ねん8がつ24にちごう読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、158–161ぺーじ 
  3. ^ a b c d e 短期たんき集中しゅうちゅうしん連載れんさい東京とうきょうなか郷土きょうど】(1) 広島ひろしまけんまきこの30にんはなとりそよぐふう 金平きんぴら正紀まさき」『週刊しゅうかん読売よみうり』1975ねん11月1にちごう読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、38ぺーじ 
  4. ^ a b c d 世界せかい勝負しょうぶ めいトレーナー金平きんぴら正紀まさきまなぶ』 9-19ぺーじ
  5. ^ a b c d e f g 最高さいこう天才てんさい海老原えびはら 金平きんぴら会長かいちょう著書ちょしょ太鼓判たいこばん- 東奥ひがしおく日報にっぽう(Internet Archive)
  6. ^ a b 今日きょうなん?】〝カミソリパンチ〟海老原えびはら博幸ひろゆき世界せかい王者おうじゃに!(Internet Archive)
  7. ^ a b c 協栄きょうえいジムが休会きゅうかいへ…金平きんぴら会長かいちょうがオーナーと「金銭きんせんトラブル」国内こくないジム最多さいた世界せかい王者おうじゃ13にん輩出はいしゅつ. スポーツ報知ほうち (報知新聞社ほうちしんぶんしゃ). (2019ねん12月8にち). オリジナルの2023ねん10がつ3にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20231003103131/https://hochi.news/articles/20191207-OHT1T50256.html?page=1 2023ねん10がつ3にち閲覧えつらん 
  8. ^ a b c d 世界せかい王者おうじゃ13にん輩出はいしゅつ協栄きょうえいジムが活動かつどう停止ていし オーナーとトラブル 金平きんぴら会長かいちょう不当ふとう解雇かいこだ」”. スポーツニッポン (スポすぽツニッポン新聞社つにっぽんしんぶんしゃ). (2019ねん12月8にち). オリジナルの2019ねん12月8にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20191208050751/https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2019/12/08/kiji/20191208s00021000010000c.html 2023ねん10がつ3にち閲覧えつらん 
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  11. ^ 別府べっぷ育郎いくお (2022ねん5がつ14にち). 拳闘けんとうしま 沖縄おきなわ復帰ふっき50ねん(13)上原うえはら兄弟きょうだい 沖縄おきなわげただい金星きんぼし. 産経さんけいニュース (産業経済新聞社さんぎょうけいざいしんぶんしゃ). オリジナルの2022ねん5がつ14にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220514014141/https://www.sankei.com/article/20220514-6L3BD7RAHNJLDL4TYZ6OWQ7F4Q/ 2023ねん10がつ3にち閲覧えつらん 
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参考さんこう文献ぶんけん・ウェブサイト

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外部がいぶリンク

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