カザンという地名 ちめい の由来 ゆらい は定 さだ かでない。タタール語 ご でカザン(qazan )とは、文字 もじ どおりには「ボイラー 」「大 だい 鍋 なべ 」という意味 いみ である。
タタール語 ご で溝 みぞ を掘 ほ るという意味 いみ の「qazğan 」から転 てん じた可能 かのう 性 せい もある。また「qazan 」とはもともと中華 ちゅうか 鍋 なべ のように大 おお きく、より重 おも くより頑丈 がんじょう な、ある種 しゅ の大 だい 鍋 なべ を指 さ す言葉 ことば だった。カザンの町 まち はU字 じ 型 がた の低地 ていち の底 そこ に位置 いち するため、こうした地形 ちけい との共通 きょうつう 点 てん から大鍋 おおなべ に由来 ゆらい する地名 ちめい が付 つ いたとも考 かんが えられている。
よりロマンチックな地名 ちめい 説話 せつわ もある。タタールの王女 おうじょ であったスュユンビケ(Söyembikä)は、金 かね でできた大皿 おおざら (カザン)を洗 あら っていたときに川 かわ に落 お とし、その地 ち に現在 げんざい のカザンが建 た っているという。
さらに、チュヴァシ人 じん の伝説 でんせつ にはブルガール人 じん の王子 おうじ であるフサン(Khusan, Хусан , ハサンというムスリム の人名 じんめい のチュヴァシ語 ご 読 よ み)が登場 とうじょう しており、フサン王子 おうじ の名 な にちなんでチュヴァシ人 じん はカザンのことをフサン(Хусан )と呼 よ ぶとされる。
カザン・クレムリン
11世紀 せいき 初頭 しょとう にヴォルガ・ブルガール によって建設 けんせつ された。15世紀 せいき にはカザン・ハン国 こく の首都 しゅと として栄 さか えたが、1552年 ねん カザンはイヴァン4世 せい (イヴァン雷 かみなり 帝 みかど )に占領 せんりょう される。破壊 はかい されたカザン・ハン国 こく の城砦 じょうさい のあとにはカザン・クレムリン が建設 けんせつ された。1708年 ねん にカザン・ハン国 こく が廃止 はいし され、カザンはロシア帝国 ていこく の地方 ちほう 都市 とし 、カザン県 けん の県 けん 都 と となった。1774年 ねん 、プガチョフの乱 らん で破壊 はかい された。
20世紀 せいき になり、カザンはタタール文化 ぶんか の中心 ちゅうしん 都市 とし として復興 ふっこう した。ロシア革命 かくめい 後 ご の1920年 ねん タタール自治 じち 共和 きょうわ 国 こく の首都 しゅと となる。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう は疎開 そかい により各種 かくしゅ の工場 こうじょう が移転 いてん してきており、工業 こうぎょう が発展 はってん している。1930年代 ねんだい から1970年代 ねんだい にかけて都市 とし 改造 かいぞう が行 おこな われた。2005年 ねん には建都 けんと 1000年 ねん を記念 きねん して様々 さまざま な祭典 さいてん が催 もよお され、地下鉄 ちかてつ が開業 かいぎょう した。
市内 しない に広 ひろ がるカバン湖 みずうみ
カザンの初期 しょき の歴史 れきし については記録 きろく が乏 とぼ しいため、カザンはヴォルガ・ブルガール が中世 ちゅうせい に築 きず いたのか、あるいはジョチ・ウルス のタタール人 じん が15世紀 せいき 半 なか ばに築 きず いたのか、という論争 ろんそう が長 なが い間 あいだ 続 つづ いている。この論争 ろんそう の背景 はいけい には、ヴォルガ流域 りゅういき の民族 みんぞく のアイデンティティを巡 めぐ る問題 もんだい がある(ブルガール論争 ろんそう も参照 さんしょう )。もしこの地 ち にブルガール人 じん の都市 とし があったとすれば、カザンの歴史 れきし は11世紀 せいき 初期 しょき から13世紀 せいき 末期 まっき に遡 さかのぼ ることになる。ヴォルガ・ブルガールにとってこの地 ち はフィン・ウゴル系 けい 民族 みんぞく (マリ人 じん 、ウドムルト人 じん )との境界 きょうかい であった。もう一 ひと つ論 ろん 争 そう となっているのは、カザンの城塞 じょうさい はもともとどの場所 ばしょ に作 つく られたかである。考古 こうこ 学者 がくしゃ による発掘 はっくつ は、カザン市内 しない の三 さん か所 しょ に集落 しゅうらく の跡 あと を発見 はっけん してきた。ヴォルガ川 がわ とカザンカ川 がわ の合流 ごうりゅう 点 てん にある現在 げんざい のクレムリ の内部 ないぶ 、クレムリからはカザンカ川 がわ を挟 はさ んで対岸 たいがん にあたるジランタウの丘 おか (Zilantaw、[ 4] ジラントフ修道院 しゅうどういん がある)、クレムリの南 みなみ の市街地 しがいち 中心 ちゅうしん 部 ぶ にあるカバン湖 こ (Qaban)の近 ちか く、の三 さん か所 しょ である。うち最 もっと も古 ふる い集落 しゅうらく 跡 あと はクレムリン内部 ないぶ のもので11世紀 せいき に遡 さかのぼ る。
11世紀 せいき から12世紀 せいき にかけて、カザンの前 まえ を流 なが れるヴォルガ川 かわ はスカンジナビア からペルシャ 方面 ほうめん やギリシャ 方面 ほうめん へ向 む かう交易 こうえき 路 ろ であり、カザンはその水路 すいろ を守 まも る砦 とりで だった可能 かのう 性 せい がある。また交易 こうえき 拠点 きょてん であった可能 かのう 性 せい 、この地方 ちほう に入植 にゅうしょく してきたブルガール人 じん の大 おお きな都市 とし があった可能 かのう 性 せい もある。ただし、ブルガール人 じん の首都 しゅと は、当時 とうじ ははるか南 みなみ のブルガール (Bolğar、現在 げんざい のボルガル 市 し 付近 ふきん )にあり、カザン周辺 しゅうへん は彼 かれ らにとって辺境 へんきょう であった。
13世紀 せいき 前半 ぜんはん 、モンゴルの襲来 しゅうらい で、ブルガールおよびビリャル といったブルガール人 じん の都市 とし はことごとく廃墟 はいきょ と化 か し、北 きた のカザンに逃 のが れる人 ひと が増 ふ えた。ブルガール人 じん はジョチ・ウルス の支配 しはい 下 か に入 はい り、カザンはブルガール人 じん の諸侯 しょこう 国 こく の一 ひと つの中心 ちゅうしん になった。やがてブルガール人 じん はタタール化 か してゆき、ブルガール人 じん の諸侯 しょこう 国 こく もタタール人 じん が公 おおやけ 位 い を簒奪 さんだつ する事態 じたい も生 う まれた。タタール人 じん の中 なか にはヴィータウタス に招聘 しょうへい されてリトアニア大公 たいこう 国 こく へ向 む かった者 もの もおり(リプカ・タタール人 じん )、カザンのようなタタール人 じん の地 ち にもリトアニアの影響 えいきょう 力 りょく が及 およ ぶようになった。
ジョチ・ウルスの中央 ちゅうおう 政権 せいけん が崩壊 ほうかい に向 む かっていた1438年 ねん 頃 ころ 、ハーン の地位 ちい を巡 めぐ る争 あらそ いに敗 やぶ れたウルグ・ムハンマド (Olugh Mokhammad)はサライ から北 きた に逃 のが れてカザンに至 いた り、カザン・ハン国 こく を樹立 じゅりつ した。この時期 じき に城塞 じょうさい が再 さい 構成 こうせい され、カバン湖 みずうみ から城塞 じょうさい の下 した のカザンカ川 かわ までを南北 なんぼく に結 むす ぶボラク運河 うんが も掘 ほ り直 なお された。濠 ほり にもなる運河 うんが 建設 けんせつ によりカザンの城塞 じょうさい は守備 しゅび 力 りょく を増 ま し、内部 ないぶ には宮殿 きゅうでん や邸宅 ていたく 、クル=シャーリフ・モスクなどが築 きず かれた。カザンの大 だい バザールであるタシュ・アイク(Taş Ayaq)はこの地方 ちほう で最 もっと も重要 じゅうよう な交易 こうえき の中心 ちゅうしん 地 ち となり、特 とく に工芸 こうげい の伝統 でんとう を生 い かした家具 かぐ 取引 とりひき や、ロシアと中東 ちゅうとう を結 むす ぶ交易 こうえき で栄 さか えた。またカザン・ハン国 こく 滅亡 めつぼう 直前 ちょくぜん の16世紀 せいき 半 なか ばにはスュユンビケ女王 じょおう を中心 ちゅうしん とした宮廷 きゅうてい にイスラム文化 ぶんか が花開 はなひら いた。ロシア人 じん はカザン・ハン国 こく の内紛 ないふん に何 なん 度 ど も介入 かいにゅう し、何 なん 度 ど もカザンを攻 せ め市街地 しがいち を占領 せんりょう したが、1552年 ねん のカザン陥落 かんらく 以前 いぜん は占領 せんりょう が長続 ながつづ きしたことが一 いち 度 ど もなく、撤退 てったい を余儀 よぎ なくされていた。
ロシアによるカザンの陥落 かんらく
1552年 ねん の9月 がつ から10月 がつ 、ロシア・ツァーリ国 こく のイヴァン4世 せい (雷 かみなり 帝 みかど )は15万 まん の兵力 へいりょく でカザンを包囲 ほうい し(カザン包囲 ほうい 戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) )、砲撃 ほうげき と攻 おさむ 城 しろ 戦 せん の末 すえ 、ついにカザンを占領 せんりょう してカザン・ハン国 こく を屈服 くっぷく させた。住民 じゅうみん の多 おお くは虐殺 ぎゃくさつ され市街地 しがいち も城塞 じょうさい もすべて破壊 はかい された。カザン陥落 かんらく の功労 こうろう 者 しゃ でもある将軍 しょうぐん アレクサンドル・ゴルバーチイ=シュイスキー (英語 えいご 版 ばん ) (Алекса́ндр Бори́сович Горба́тый-Шу́йский )がカザン総督 そうとく となると、ハン国 こく 時代 じだい からのタタール人 じん 住民 じゅうみん は殺 ころ されたり鎮圧 ちんあつ されたりキリスト教 きょう への改宗 かいしゅう を迫 せま られたりした(カザンの反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) )。タタール人 じん は結果 けっか 的 てき にカザンを追放 ついほう されて50キロメートル離 はな れた場所 ばしょ に移住 いじゅう させられ、代 か わりにロシア人 じん の農民 のうみん や兵士 へいし が入植 にゅうしょく させられた。大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ であったタタール人 じん 貴族 きぞく や大 おお きなモスクも滅 ほろ ぼされるか追放 ついほう され、代 か わりにロシア人 じん が大 だい 地主 じぬし となった。16世紀 せいき 後半 こうはん にエルモゲン(ゲルモゲン) がカザン大 だい 主教 しゅきょう となった時期 じき の正 せい 教化 きょうか 政策 せいさく もモスクやマドラサ に打撃 だげき を与 あた えた。一方 いっぽう でタタール人 じん 兵士 へいし や貴族 きぞく の中 なか にはロシアに仕 つか えて独自 どくじ の地位 ちい を18世紀 せいき まで保持 ほじ した者 もの もいたが(勤務 きんむ タタール、タタール語 ご : йомышлы татарлар : Yomışlı Tatarlar ; ロシア語 ご : Служилые татары )、彼 かれ らも城内 じょうない に住 す むことはできず、市 し 壁 かべ の外側 そとがわ の集落 しゅうらく (Bistäse)に住 す んだ。後 のち にはタタール人 じん の商人 しょうにん や職人 しょくにん もここに住 す み、タタール人 じん 街 がい を形成 けいせい した。プスコフ からの職人 しょくにん たちが呼 よ ばれ、カザンの城塞 じょうさい 跡 あと に現在 げんざい のカザン・クレムリンが建設 けんせつ された。
カザンの生神 うるかみ 女 おんな のイコン
カザンでは何 なん 度 ど も大 だい 火災 かさい が起 お きて市街地 しがいち が破壊 はかい された。1579年 ねん の大火 たいか の後 のち には「カザンの生神 うるかみ 女 おんな 」のイコン が市内 しない の地下 ちか から発見 はっけん されている。このイコンは後 のち に神聖 しんせい なものとされ、モスクワ やサンクトペテルブルク をはじめロシア国内 こくない 各地 かくち に「カザンの生神 うるかみ 女 おんな 」イコンに捧 ささ げられたカザン大 だい 聖堂 せいどう が建 た てられている。ボリス・ゴドゥノフ がツァーリ になった時代 じだい 、ロシアが大 だい 動乱 どうらん と呼 よ ばれる内戦 ないせん と混乱 こんらん に落 お ち込 こ むと一時 いちじ 的 てき にカザン・ハン国 こく は独立 どくりつ を取 と り戻 もど すが、1612年 ねん にクジマ・ミーニン の国民 こくみん 軍 ぐん により鎮圧 ちんあつ された。
カザン(1630年 ねん )
カザン庁 ちょう (приказ Казанского дворца )が管轄 かんかつ していたカザン・ハン国 こく は1708年 ねん には正式 せいしき に廃止 はいし され、カザン県 けん が代 か わりに置 お かれてカザンがその県 けん 都 と となり、カザン・クレムリン内 ない には知事 ちじ 公邸 こうてい 、行幸 ぎょうこう 御殿 ごてん 、軍 ぐん 司令 しれい 官 かん 官舎 かんしゃ など行政 ぎょうせい ・軍事 ぐんじ ・宗教 しゅうきょう の中枢 ちゅうすう が立 た ち並 なら んだ。ピョートル1世 せい のカザン訪問 ほうもん 後 ご 、ロシア海軍 かいぐん のカスピ海 かすぴかい 艦隊 かんたい の造船 ぞうせん 所 しょ がカザンに建設 けんせつ されることになった。プーシキン以前 いぜん の大 だい 詩人 しじん であるガヴリーラ・ロマーノヴィチ・デルジャービン は1743年 ねん にタタールの末裔 まつえい である貧 まず しい郷士 ごうし の息子 むすこ としてカザンに生 う まれた。デルジャービン自身 じしん はロシア人 じん としてのアイデンティティを持 も ち、ロシア文学 ぶんがく の歴史 れきし に大 おお きく貢献 こうけん している。
エカチェリーナ2世 せい の時代 じだい にあたる1774年 ねん 7月 がつ 12日 にち 、カザンはドン・コサック のエメリヤン・プガチョフ が率 ひき いる農民 のうみん や辺境 へんきょう 守備 しゅび 兵 へい らの反乱 はんらん 軍 ぐん によって包囲 ほうい され、皇帝 こうてい 軍 ぐん は敗 やぶ れ市街地 しがいち は破壊 はかい ・略奪 りゃくだつ された。しかしカザン・クレムリンは陥落 かんらく せず、その日 ひ の夕方 ゆうがた に皇帝 こうてい 軍 ぐん の増援 ぞうえん が到着 とうちゃく し、7月 がつ 13日 にち から15日 にち にかけての戦 たたか いでプガチョフの軍 ぐん は大敗 たいはい を喫 きっ した。これがプガチョフの乱 らん の転換 てんかん 点 てん になったカザンの戦 たたか いである。エカチェリーナ2世 せい はカザン市街 しがい を再建 さいけん し、同時 どうじ にそれまで禁 きん じられていたモスク 建設 けんせつ を許可 きょか した。マルジャーニー・モスクがこの時 とき に建設 けんせつ された最初 さいしょ のモスクである。タタール人 じん 商人 しょうにん もエカチェリーナ2世 せい の庇護 ひご の下 した で活動 かつどう を活発 かっぱつ にし、ロシアと中央 ちゅうおう アジア間 あいだ での商 しょう 取引 とりひき を掌握 しょうあく した。タタール商人 しょうにん の中心 ちゅうしん の一 ひと つであるカザンは物資 ぶっし の集散 しゅうさん 地 ち として栄 さか えた。しかしタタール人 じん の文化 ぶんか や宗教 しゅうきょう に対 たい する抑圧 よくあつ はなおも続 つづ いた。
19世紀 せいき のカザンの地図 ちず 。ソ連 それん 時代 じだい のヴォルガ川 がわ のダム建設 けんせつ により、川幅 かわはば はこの時 とき よりも大 おお きくなっている
19世紀 せいき 初頭 しょとう 、アレクサンドル1世 せい はカザン大学 だいがく と印刷所 いんさつしょ をカザンに創設 そうせつ した。1801年 ねん はカザンで最初 さいしょ にクルアーン が印刷 いんさつ された年 とし で、カザンはロシアにおける東洋 とうよう 学 がく 研究 けんきゅう の拠点 きょてん となった。19世紀 せいき 末 まつ までにカザンはヴォルガ中流 ちゅうりゅう の産業 さんぎょう の中心 ちゅうしん に発展 はってん し、周囲 しゅうい の農村 のうそん から職 しょく を求 もと める人々 ひとびと がカザンに集 あつ まった。1875年 ねん には馬車 ばしゃ 鉄道 てつどう が市内 しない を走 はし り、1899年 ねん に市電 しでん が開通 かいつう した。一方 いっぽう でクリミア半島 くりみあはんとう に始 はじ まったムスリム知識 ちしき 人 じん の改革 かいかく 運動 うんどう ・ジャディード運動 うんどう もカザンに達 たっ し、カザンはロシアにおけるイスラーム の復興 ふっこう 運動 うんどう や改革 かいかく 運動 うんどう 、政治 せいじ 運動 うんどう の拠点 きょてん ともなった。1905年 ねん のロシア第 だい 一 いち 革命 かくめい 以後 いご 、ようやくタタール人 じん はカザンをタタール文化 ぶんか の中心 ちゅうしん として復興 ふっこう させることを許 ゆる された。タタール劇場 げきじょう にタタール語 ご 新聞 しんぶん もこの時 とき に出現 しゅつげん した。ミールサイト・スルタンガリエフ のようなムスリム社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ も活動 かつどう し、1920年代 ねんだい 初頭 しょとう まで、ソ連 それん の政治 せいじ において大 おお きな役割 やくわり を果 は たした。
1917年 ねん 8月 がつ 14日 にち にはカザン火薬 かやく 工場 こうじょう で火災 かさい が発生 はっせい し、爆発 ばくはつ も起 お こり市内 しない に被害 ひがい が広 ひろ がった。工場 こうじょう は完全 かんぜん に破壊 はかい され火 ひ は24日 にち まで消 き えなかった。ロシア革命 かくめい 後 ご のロシア内戦 ないせん では、1918年 ねん にタタール人 じん らによりイデル=ウラル国 こく がカザンを首都 しゅと として樹立 じゅりつ されたが、まもなくボルシェヴィキ 軍 ぐん により滅 ほろ ぼされた。1918年 ねん 8月 がつ にはチェコ軍団 ぐんだん がカザンを占領 せんりょう している。1920年 ねん 、タタール自治 じち ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく がカザンを中心 ちゅうしん に建設 けんせつ された。
上空 じょうくう からのカザンの夜景 やけい
1920年代 ねんだい から1930年代 ねんだい にかけてカザンは重工業 じゅうこうぎょう の拠点 きょてん となったが、同時 どうじ に多 おお くのモスクや聖堂 せいどう が破壊 はかい された。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、国際 こくさい 的 てき な孤児 こじ となったドイツの軍部 ぐんぶ (ヴァイマル共和 きょうわ 国軍 こくぐん )は、同 おな じく共産 きょうさん 主義 しゅぎ 国家 こっか として国際 こくさい 的 てき に認 みと められないソビエト連邦 れんぽう と秘密 ひみつ 協定 きょうてい を結 むす び、カザンに戦車 せんしゃ の開発 かいはつ ・訓練 くんれん 基地 きち (Inspektion 6 Kraftfahrwesen) を設 もう け、赤軍 せきぐん と共 とも にヴェルサイユ条約 じょうやく が禁止 きんし する戦車 せんしゃ の研究 けんきゅう 開発 かいはつ を1933年 ねん まで継続 けいぞく した。これはナチス体制 たいせい 下 か のドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の急速 きゅうそく な軍備 ぐんび 拡大 かくだい の種子 しゅし となっている。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん ではロシア西部 せいぶ から多 おお くの工場 こうじょう がカザンへも避難 ひなん しており、軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう の中心 ちゅうしん となって戦車 せんしゃ や戦闘 せんとう 機 き などの製造 せいぞう がおこなわれた。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご は、第 だい 97収容 しゅうよう 施設 しせつ (ラーゲリ )が設置 せっち され、シベリア抑留 よくりゅう の対象 たいしょう となった日本人 にっぽんじん 捕虜 ほりょ が送 おく られてきた。過酷 かこく な労働 ろうどう と環境 かんきょう の中 なか で倒 たお れた者 もの のための日本人 にっぽんじん 墓地 ぼち も作 つく られた。冷戦 れいせん 終了 しゅうりょう 後 ご は日本 にっぽん 政府 せいふ の手 て により戦没 せんぼつ 者 しゃ 慰霊 いれい 碑 ひ が建立 こんりゅう されている[ 5] 。
カザンは戦後 せんご も軍需 ぐんじゅ 産業 さんぎょう や重工業 じゅうこうぎょう の中心 ちゅうしん となり、爆発 ばくはつ 的 てき に人口 じんこう が増加 ぞうか しアパートが立 た ち並 なら ぶようになった。
1980年代 ねんだい 末 すえ から1990年代 ねんだい 、ペレストロイカ とソビエト連邦 れんぽう の崩壊 ほうかい により、カザンは再 ふたた びタタール文化 ぶんか の復興 ふっこう を見 み たが、一方 いっぽう でタタールスタンの独立 どくりつ 宣言 せんげん によりロシア連邦 れんぽう とタタール分離 ぶんり 主義 しゅぎ 者 しゃ との間 あいだ の緊張 きんちょう も発生 はっせい した。2000年 ねん より市内 しない は大 だい 規模 きぼ な修復 しゅうふく 作業 さぎょう が進行 しんこう した。特 とく にカザン・クレムリンでは、1552年 ねん のカザン陥落 かんらく で破壊 はかい されたクル=シャーリフ・モスクと、1562年 ねん に完成 かんせい したものの1930年 ねん にソ連 それん 当局 とうきょく により破壊 はかい された生神 うるかみ 女 おんな 福音 ふくいん 大 だい 聖堂 せいどう (ブラゴヴェシェンスキー大 だい 聖堂 せいどう )の双方 そうほう が再建 さいけん された。2005年 ねん 7月 がつ 29日 にち にはカザンカ川 がわ に架 か かる長 なが さ831メートルの斜 はす 張 はり 橋 きょう ・ミレニアム橋 きょう が開通 かいつう し、同年 どうねん 8月 がつ 27日 にち には地下鉄 ちかてつ も開業 かいぎょう した。これらは2005年 ねん のカザン建都 けんと 1000年 ねん に合 あ わせた大 だい 事業 じぎょう であった。しかし「建都 けんと 1000年 ねん 」の年号 ねんごう は恣意 しい 的 てき に決 き められた部分 ぶぶん もある[ 6] 。
2024年 ねん 6月 がつ には、BRICS が主催 しゅさい する総合 そうごう 競技 きょうぎ 大会 たいかい であるBRICS Games をカザンで開催 かいさい した[ 7] 。同年 どうねん 10月 がつ に行 おこな われた第 だい 16回 かい BRICS首脳 しゅのう 会議 かいぎ (2024 BRICSサミット)の開催 かいさい 地 ち にもなった[ 8] 。サミットでは「カザン宣言 せんげん 」が採択 さいたく された[ 9] 。
カザンは湿潤 しつじゅん な大陸 たいりく 性 せい 気候 きこう の都市 とし である。ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん では亜寒帯 あかんたい 湿潤 しつじゅん 気候 きこう (冷 ひや 帯 たい 湿潤 しつじゅん 気候 きこう 、Dfb)に属 ぞく し、長 なが く寒 さむ い冬 ふゆ と暑 あつ く乾燥 かんそう した夏 なつ が特徴 とくちょう になっている。一 いち 年 ねん で最 もっと も暑 あつ い7月 がつ の平均 へいきん 気温 きおん は20.2度 ど になり、しばしば30度 ど を超 こ える。最 もっと も寒 さむ い1月 がつ の平均 へいきん 気温 きおん はマイナス10.8度 ど で、時 とき に気温 きおん はマイナス30度 ど 以下 いか まで冷 ひ え込 こ むこともあり、過去 かこ にはマイナス46.8度 ど (1942年 ねん )を記録 きろく している。
カザンの気候 きこう
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年 とし
最高 さいこう 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
3.8 (38.8)
5.2 (41.4)
11.0 (51.8)
29.5 (85.1)
33.8 (92.8)
37.5 (99.5)
38.9 (102)
39.0 (102.2)
32.3 (90.1)
23.4 (74.1)
15.0 (59)
6.1 (43)
39.0 (102.2)
平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん °C (°F )
−7.2 (19)
−6.7 (19.9)
−0.2 (31.6)
10.2 (50.4)
19.0 (66.2)
23.5 (74.3)
25.5 (77.9)
22.9 (73.2)
16.3 (61.3)
8.1 (46.6)
−1.0 (30.2)
−5.8 (21.6)
8.7 (47.7)
日 にち 平均 へいきん 気温 きおん °C (°F )
−10.4 (13.3)
−10.2 (13.6)
−4.0 (24.8)
5.5 (41.9)
13.3 (55.9)
18.1 (64.6)
20.2 (68.4)
17.6 (63.7)
11.7 (53.1)
4.8 (40.6)
−3.4 (25.9)
−8.5 (16.7)
4.6 (40.3)
平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん °C (°F )
−13.5 (7.7)
−13.3 (8.1)
−7.3 (18.9)
1.6 (34.9)
8.2 (46.8)
13.3 (55.9)
15.5 (59.9)
13.3 (55.9)
8.2 (46.8)
2.2 (36)
−5.6 (21.9)
−11.4 (11.5)
0.9 (33.6)
最低 さいてい 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
−46.8 (−52.2)
−39.9 (−39.8)
−31.7 (−25.1)
−25.6 (−14.1)
−6.5 (20.3)
−1.4 (29.5)
2.6 (36.7)
1.6 (34.9)
−5.4 (22.3)
−23.4 (−10.1)
−36.6 (−33.9)
−43.9 (−47)
−46.8 (−52.2)
降水 こうすい 量 りょう mm (inch)
40 (1.57)
33 (1.3)
32 (1.26)
31 (1.22)
41 (1.61)
63 (2.48)
65 (2.56)
60 (2.36)
51 (2.01)
53 (2.09)
46 (1.81)
43 (1.69)
558 (21.97)
平均 へいきん 降水 こうすい 日数 にっすう
10
8
7
7
6
9
9
8
9
10
10
10
103
% 湿度 しつど
84
81
79
68
59
66
68
71
75
81
86
85
75
平均 へいきん 月間 げっかん 日照 ひでり 時間 じかん
49.6
89.6
148.8
204.0
273.0
294.0
291.4
254.2
159.0
83.7
42.0
34.1
1,923.4
出典 しゅってん 1:Pogoda.ru.net,[ 10] World Meteorological Organization (precipitation days only)[ 11]
出典 しゅってん 2:Hong Kong Observatory (sun only)[ 12]
カザンの「全 ぜん 宗教 しゅうきょう 寺院 じいん 」
カザンの生神 うるかみ 女 おんな 修道院 しゅうどういん 。イコン 『カザンの生神 うるかみ 女 おんな 』が発見 はっけん された地 ち に建 た てられ、1904年 ねん に盗難 とうなん され行方 ゆくえ 不明 ふめい になるまで『カザンの生神 うるかみ 女 おんな 』が収 おさ められていた
市 し で一番 いちばん 多 おお い民族 みんぞく はタタール人 じん で人口 じんこう の52%と過半 かはん を占 し める。次 つぎ に多 おお いのは人口 じんこう の43%を占 し めるロシア人 じん である。少数 しょうすう 派 は の民族 みんぞく にはチュヴァシ人 じん 、ウクライナ人 じん 、アゼルバイジャン人 じん 、ユダヤ人 じん などがいる。
ゾルタン・モスク
主 おも な宗教 しゅうきょう はイスラム教 いすらむきょう スンニ派 は と正教会 せいきょうかい 。無 む 神 かみ 論 ろん 者 もの も少 すく なからずいる。少数 しょうすう 派 は の宗教 しゅうきょう はカトリック教会 きょうかい 、プロテスタント 、ユダヤ教 きょう 、クリシュナ教 きょう 、バハイ教 きょう など。
カザンには合計 ごうけい 29の市 し の墓地 ぼち がある[ 13] 。 中央 ちゅうおう にあるのはアルスコエ墓地 ぼち (英語 えいご 版 ばん ) で、アレクサンドル・アルブーゾフ 、科学 かがく 者 しゃ ニコライ・ロバチェフスキー とその子供 こども たち、作曲 さっきょく 家 か ナジーブ・ジガーノフ が埋葬 まいそう されている[ 14] 。
ロシア語 ご とタタール語 ご が市内 しない で広 ひろ く使用 しよう されている。ロシア語 ご はタタール人 じん の高齢 こうれい 層 そう 以外 いがい 、市民 しみん のほぼすべての人口 じんこう が理解 りかい できる。タタール語 ご は主 おも にタタール人 じん の間 あいだ で話 はな される。自分 じぶん たちの文化 ぶんか や言語 げんご を恥 は ずかしがるタタール人 じん のことは、「маңҡорт 」(Mankurt)と呼 よ ばれ攻撃 こうげき されている。
カザン・ハン国 こく の都 と であった1550年 ねん 頃 ごろ は5万 まん 人 にん を数 かぞ える都市 とし だったが、モスクワ国家 こっか により征服 せいふく された後 のち の1557年 ねん には7,000人 にん に減少 げんしょう したとみられる。しかし1800年 ねん 頃 ごろ には4万 まん 人 にん 程度 ていど に回復 かいふく し、19世紀 せいき 後半 こうはん には人口 じんこう が伸 の び1897年 ねん に13万 まん 人 にん に達 たっ した。ロシア革命 かくめい の年 とし である1917年 ねん には人口 じんこう は20万 まん 6600人 にん であったが、その後 ご の内戦 ないせん と混乱 こんらん で1926年 ねん には17万 まん 9000人 にん に減 へ っていた。しかし重工業 じゅうこうぎょう 化 か などで人口 じんこう は爆発 ばくはつ 的 てき に伸 の び、1939年 ねん には39万 まん 8000人 にん 、1959年 ねん には66万 まん 7000人 にん 、1979年 ねん には98万 まん 9000人 にん 、1989年 ねん には109万 まん 4400人 にん と100万 まん 人 にん を超 こ えた。1980年代 ねんだい 以降 いこう は伸 の び悩 なや んでいるが、ロシアの多 おお くの都市 とし の人口 じんこう が減少 げんしょう している21世紀 せいき に入 はい ってもカザンの人口 じんこう は増加 ぞうか している。
2009年 ねん 、市 し の人口 じんこう は113万 まん 717人 にん で、ロシア第 だい 7位 い だった[ 15] 。
カザン市庁舎 しちょうしゃ
ヴォルガ川 がわ を使 つか った水上 すいじょう 交通 こうつう 、陸上 りくじょう 交通 こうつう の要衝 ようしょう として、タタールスタン共和 きょうわ 国 こく の経済 けいざい の中心 ちゅうしん 地 ち である。機械 きかい 工業 こうぎょう 、化学 かがく 工業 こうぎょう 、石油 せきゆ 化学 かがく 工業 こうぎょう 、皮革 ひかく 工業 こうぎょう が盛 さか んである。その他 た 、建設 けんせつ 、食品 しょくひん なども多 おお い。
カザンの主 おも な大 だい 企業 きぎょう には、TAIF、Tatenergo、Kazanorgsintez、Transtechservice、Vamin のようなロシアの500大 だい 企業 きぎょう に名 な を連 つら ねる企業 きぎょう も多数 たすう ある。Kazanorgsintez はロシアのポリエチレン の38%を生産 せいさん するほか、化学 かがく 製品 せいひん 、石油 せきゆ 化学 かがく 製品 せいひん を製造 せいぞう する大 だい 工場 こうじょう を構 かま える。カザン国立 こくりつ 製粉 せいふん 所 しょ は1788年 ねん 創立 そうりつ の古 ふる い企業 きぎょう である。カザン・ヘリコプター工場 こうじょう は軍用 ぐんよう などのヘリコプター 多数 たすう を造 つく ってきた。カザン航空機 こうくうき 製造 せいぞう 合同 ごうどう (KAPO)はTu-214 旅客機 りょかくき 、Tu-160 戦略 せんりゃく 爆撃 ばくげき 機 き などを製造 せいぞう しているほか、Tu-334 旅客機 りょかくき 、Tu-330 輸送 ゆそう 機 き の製造 せいぞう を計画 けいかく している。
カザンは歴史 れきし 資産 しさん も多 おお く、商 しょう 工業 こうぎょう 都市 とし としてビジネス客 きゃく も多数 たすう 訪 おとず れる。2004年 ねん に345,000人 にん がカザンを訪 おとず れたが、2007年 ねん には800,000人 にん に増加 ぞうか した[ 16] 。カザン・クレムリンは毎年 まいとし 20万 まん 人 にん 以上 いじょう の観光 かんこう 客 きゃく が訪 おとず れる[ 17] 。こうした需要 じゅよう にこたえるため40以上 いじょう のホテルが市内 しない にはある。
カザン旅客 りょかく 駅 えき
カザン地下鉄 ちかてつ ゴーリキー駅 えき
かつて水運 すいうん の中心 ちゅうしん だったボラク運河 うんが
カザン市内 しない のバス
カザン国際 こくさい 空港 くうこう は都心 としん から26キロメートル離 はな れた場所 ばしょ にあり路線 ろせん バスで結 むす ばれている。タタールスタン航空 こうくう のハブ空港 くうこう であり、その他 た 10以上 いじょう の航空 こうくう 会社 かいしゃ が乗 の り入 い れている。カザンには他 ほか にも、カザン・ボリソグレブスコエ飛行場 ひこうじょう があり、大 おお きな航空機 こうくうき 工場 こうじょう を併設 へいせつ している。
カザンの中央 ちゅうおう 駅 えき はカザン旅客 りょかく 駅 えき で、都心 としん に位置 いち している。駅舎 えきしゃ は1896年 ねん に建 た てられた赤 あか レンガの建物 たてもの で、北側 きたがわ に比較的 ひかくてき 新 あたら しい橋上 はしがみ 駅舎 えきしゃ や通勤 つうきん 列車 れっしゃ ターミナルなどの建物 たてもの が並 なら んでいる。
市 し の北部 ほくぶ には第 だい 二 に のターミナル駅 えき があるが、都市 とし 間 あいだ 列車 れっしゃ が一 いち 便 びん 運行 うんこう されているのみで、再 さい 開発 かいはつ 計画 けいかく は凍結 とうけつ されている。
カザンは長距離 ちょうきょり 列車 れっしゃ でニジニ・ノヴゴロド 、モスクワ 、ウリヤノフスク 、ヨシュカル・オラ 、エカテリンブルク と結 むす ばれている。
2020年 ねん までにモスクワへの高速 こうそく 鉄道 てつどう 敷設 ふせつ 計画 けいかく (モスクワ・カザン高速 こうそく 鉄道 てつどう )があり[ 18] 、中国 ちゅうごく の国有 こくゆう 企業 きぎょう である中 ちゅう 鉄 てつ 二院 にいん 工程 こうてい 集団 しゅうだん が受注 じゅちゅう した。
川 かわ 沿 ぞ いの船舶 せんぱく ターミナルには、ヴォルガ川 がわ 沿 ぞ いの都市 とし を結 むす ぶ船便 せんびん や通勤 つうきん 用 よう のフェリーなどが発着 はっちゃく する。水中翼船 すいちゅうよくせん がヴォルガ川 かわ 沿 ぞ いを結 むす び、冬季 とうき にはホバークラフト も運航 うんこう される。
バスターミナルはデヴヤテヴァ通 どお りに位置 いち し、タタールスタン各地 かくち やウファ 、サマーラ 、トリヤッチ 、ウリヤノフスク などへの定期 ていき バスが発着 はっちゃく している。
高速 こうそく 道路 どうろ や国道 こくどう はサマーラ 、オレンブルク 、ウファ 、チェボクサル や、タタールスタン国内 こくない のナーベレジヌイェ・チェルヌイ (Naberezhnye Chelny /Yar Çallı)、アリメチエフスク (Almetyevsk /Älmät)、ブグリマ (Bugulma /Bögelmä)、チストポリ (Chistopol /Çístay)、ゼレノドリスク (Zelenodolsk /Yäşel Üzän)などを結 むす ぶ。
カザンカ川 がわ (カザンス川 がわ 、Kazanka /Qazansu)には5つの橋 はし が架 か かっており、ヴォルガ川 がわ の対岸 たいがん とを結 むす ぶ長大 ちょうだい 橋 きょう も1つある。
カザン地下鉄 ちかてつ は1路線 ろせん のみであり、2005年 ねん 8月 がつ 27日 にち に開業 かいぎょう した。その後 ご 、延伸 えんしん 開業 かいぎょう しており、16.8km、11駅 えき となった。
カザン市電 しでん は1899年 ねん に開業 かいぎょう した。路線 ろせん 数 すう は8つあり総 そう 延長 えんちょう は187kmに達 たっ する。1948年 ねん に開業 かいぎょう したトロリーバス は10路線 ろせん 350kmを結 むす ぶ。また市内 しない バスは91路線 ろせん あり、2007年 ねん に大 おお きな改革 かいかく を行 おこな った。車両 しゃりょう はすべて赤色 あかいろ で、ロシア製 せい だけでなく日本 にっぽん 製 せい のバスも走 はし る。市内 しない バスの運賃 うんちん は均一 きんいつ (日本円 にほんえん で50円 えん 程度 ていど )で,車内 しゃない で車掌 しゃしょう が切符 きっぷ を発行 はっこう している.
カザン国立 こくりつ 大学 だいがく
カザンには、他 た の都市 とし の大学 だいがく の分校 ぶんこう も含 ふく めて55の高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん がある。また49の音楽 おんがく 学校 がっこう 、10の美術 びじゅつ 学校 がっこう 、43のスポーツ学校 がっこう もある。
1804年 ねん に創立 そうりつ されたカザン大学 だいがく では、トルストイ やニコライ・ロバチェフスキー 、レーニン も学 まな んでいる。ロバチェフスキーによる非 ひ ユークリッド幾何 きか 学 がく の研究 けんきゅう 、カール・クラウス によるルテニウム 発見 はっけん 、アレクサンドル・ブートレロフ による化学 かがく 構造 こうぞう の概念 がいねん の提唱 ていしょう 、イェフゲニィー・ザヴォイスキー による電子 でんし スピン共鳴 きょうめい 研究 けんきゅう などの傑出 けっしゅつ した業績 ぎょうせき がここで生 う まれた。14の学部 がくぶ 、4つの研究所 けんきゅうじょ 、2都市 とし に分校 ぶんこう も構 かま え、1万 まん 6千 せん 人 にん の学生 がくせい が学 まな んでいる。
カザン国立 こくりつ 工科 こうか 大学 だいがく (Kazan State Technological University, KCTI)はロシア有数 ゆうすう の大 おお きさの教育 きょういく 機関 きかん で、1890年 ねん に科学 かがく ・技術 ぎじゅつ などを学 まな ぶ中等 ちゅうとう 学校 がっこう として開校 かいこう した、タタールスタンやロシアにおける技術 ぎじゅつ 教育 きょういく のさきがけとなった学校 がっこう である。2万 まん 7千 せん 人 にん 以上 いじょう の学生 がくせい が11の学部 がくぶ で学 まな ぶ。
カザン国立 こくりつ 技術 ぎじゅつ 大学 だいがく (Kazan State Technical University, KAI)は1932年 ねん に開校 かいこう した。航空 こうくう 工学 こうがく 、ロケット工学 こうがく 、エンジン製造 せいぞう 、計算 けいさん 機 き 科学 かがく などの分野 ぶんや ではロシアを代表 だいひょう する大学 だいがく のひとつ。
その他 た にはカザン医科 いか 大学 だいがく 、カザン金融 きんゆう 経済 けいざい 大学 だいがく 、カザン・エネルギー工学 こうがく 大学 だいがく など多 おお くの優秀 ゆうしゅう な大学 だいがく が集 あつ まる。
カザンにはロシア科学 かがく アカデミー 傘下 さんか の研究所 けんきゅうじょ が5つあるほか、1991年 ねん にタタールスタン科学 かがく アカデミーが創設 そうせつ された。研究所 けんきゅうじょ が集 あつ まる一大 いちだい 科学 かがく 都市 とし でもある。
市内 しない には美 うつく しいクレムリ (要塞 ようさい )であるカザン・クレムリン があり、2000年 ねん には世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく された。クレムリ内部 ないぶ には5つのドームを頂 いただ く生神 うるかみ 女 おんな 福音 ふくいん 聖堂 せいどう (ブラゴヴェシェンスキー聖堂 せいどう 、1561年 ねん -1562年 ねん )、建設 けんせつ 時期 じき が謎 なぞ に包 つつ まれたスュユンビケ塔 とう (カザン・ハン国 こく 最後 さいご の女王 じょおう の名 な に由来 ゆらい する)などがあり、市 し のランドマークとなっている。
カザン・クレムリン 内 うち のブラゴヴェシェンスキー(生神 うるかみ 女 おんな 福音 ふくいん )聖堂 せいどう
またクレムリを取 と り囲 かこ む塔 とう や城壁 じょうへき は16世紀 せいき から17世紀 せいき にロシア人 じん が再建 さいけん し、後 のち に修復 しゅうふく をされたものである。クレムリ内部 ないぶ にそびえるクル=シャーリフ・モスクは1552年 ねん のカザン陥落 かんらく 時 じ に破壊 はかい され、21世紀 せいき になって再建 さいけん された。16世紀 せいき の美 うつく しい修道院 しゅうどういん 建築 けんちく であった救世主 きゅうせいしゅ 修道院 しゅうどういん (スパースキイ修道院 しゅうどういん )はボリシェヴィキ政府 せいふ によって破壊 はかい されたが、その名残 なごり であるスパースカヤ塔 とう は今 いま も白 しろ く美 うつく しい姿 すがた を残 のこ す。1843年 ねん から1853年 ねん にかけて建 た てられたコンスタンチン・トーン 設計 せっけい のカザン県知事 けんちじ 公邸 こうてい は、現在 げんざい もタタールスタン共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう 官邸 かんてい として使用 しよう されている。
クレムリの近隣 きんりん には、ペトロパヴロフスキー大 だい 聖堂 せいどう がQawi Nacmi 通 どお りにあり、マルカニ・モスクがQayum Nasiri 通 どお りに立 た つ。
カザンの中心 ちゅうしん 街 がい
カザンの古 ふる くからの中心 ちゅうしん 部 ぶ は、ヴォルガ川 がわ に平行 へいこう して南北 なんぼく に長 なが く伸 の びるカバン湖 こ (Lake Qaban)と、その北 きた をカザンカ川 かわ まで延 の びるボラク運河 うんが (Bolaq canal)によって二 ふた つの地区 ちく (パサード Posad、あるいはビスタ Bistä)に分 わ かれている。カザンスキー・ボサド (Qazan Bistäse / Kazanskiy Posad)はボラク運河 うんが の東 ひがし の丘 おか の上 うえ にある都市 とし で、古 ふる くからロシア人 じん 街 がい であった。スタロ=タタールスカヤ・スロボダ (İske Tatar Bistäse / Staro-Tatarskaya Sloboda)はボラク運河 うんが とヴォルガ川 がわ に挟 はさ まれた地区 ちく で、タタール人 じん が住 す まわされていた集落 しゅうらく である。Nurullah, Soltan, Bornay, Apanay, Äcem, Märcani, İske Taş, Zäñgär などのモスク が古 ふる いタタール人 じん 地区 ちく に建 た つ。ロシア人 じん 地区 ちく にはブラゴヴェシチェンスカヤ聖堂 せいどう 、ヴァルヴァリンスカヤ聖堂 せいどう 、ニコルスカヤ聖堂 せいどう 、チフビンスカヤ聖堂 せいどう などのロシア正教 せいきょう の聖堂 せいどう が建 た つ。カバン湖 みずうみ はカザン市街 しがい の憩 いこ いの場 ば で、伝説 でんせつ では1552年 ねん のカザン陥落 かんらく の際 さい にタタール人 じん の貴人 きじん や裕福 ゆうふく な商人 しょうにん らが貴重 きちょう な金銀 きんぎん 財宝 ざいほう をロシア人 じん に渡 わた すまいと投 な げ入 い れた場所 ばしょ とされる。
1990年代 ねんだい 初頭 しょとう 、カザン中心 ちゅうしん 街 がい の大半 たいはん は2階 かい 建 だ ての木造 もくぞう 建築 けんちく で埋 う められていた。これらはカザンの伝統 でんとう 的 てき な町並 まちな みの要素 ようそ であったが住民 じゅうみん にとっては住 す み辛 から く、タタールスタン共和 きょうわ 国 こく の老朽 ろうきゅう 住宅 じゅうたく 一掃 いっそう 計画 けいかく でほとんどが取 と り壊 こわ され住民 じゅうみん は郊外 こうがい のアパート地区 ちく などへ移動 いどう させられた。この計画 けいかく により引越 ひっこ しをした住民 じゅうみん は10万 まん 人 にん 近 ちか くに上 のぼ る。歴史 れきし 的 てき な商店 しょうてん や邸宅 ていたく の一部 いちぶ はホテルとなり現在 げんざい に残 のこ っている。
右 みぎ はカザンカ
川 がわ 左岸 さがん のカザン・クレムリン、
左 ひだり はカザンカ
川 がわ 右岸 うがん の
新 しん 市街 しがい 。
中央 ちゅうおう のピラミッド
上 じょう の
建物 たてもの は1552
年 ねん のカザン
包囲 ほうい 戦時 せんじ のロシア
軍 ぐん 戦没 せんぼつ 者 しゃ を
記念 きねん する
記念 きねん 碑 ひ
また、トルコ とイラン の領事館 りょうじかん が市内 しない にある。
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カザン に
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