(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ナイル川 - Wikipedia

ナイルがわ

アフリカ大陸たいりく河川かせん
ナイルから転送てんそう

ナイルがわ(ナイルがわ、アラビア: نَهْرُ النِّيلِ‎(nahr al-nīl(=nahr an-nīl), ナフル・アン=ニール/ナハル・アン=ニール)、英語えいご: the Nileフランス語ふらんすご: le Nil)は、アフリカ大陸たいりく北東ほくとうおおむきたへとなが地中海ちちゅうかいそそぐ、アフリカ大陸たいりく最長さいちょうきゅう河川かせんである。ながさは6650 km、流域りゅういき面積めんせきは2,870,000 km2およぶ。ナイルがわ流域りゅういきこくは10かこくである[1]

ナイルがわ
ナイル川
延長えんちょう 6650 km
平均へいきん流量りゅうりょう 2830 m³/s
流域りゅういき面積めんせき 2,870,000 km²
水源すいげん ルヴィロンザがわ英語えいごばん
水源すいげん標高ひょうこう 1134 m
河口かこう合流ごうりゅうさき 地中海ちちゅうかい
流域りゅういき タンザニアの旗 タンザニア
ブルンジの旗 ブルンジ
ルワンダの旗 ルワンダ
ウガンダの旗 ウガンダ
 コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく
南スーダンの旗 みなみスーダン
 ケニア
エチオピアの旗 エチオピア
スーダンの旗 スーダン
 エジプト
テンプレートを表示ひょうじ

エジプト口語こうごではそのおおきさゆえに بَحْرُ النِّيلِ(baḥr al-nīl(=baḥr an-nīl), バフル・アン=ニール/バハル・アン=ニール)すなわち「ナイルかい[2]ともばれている。

概要がいよう

編集へんしゅう
 
ナイルがわ衛星えいせい写真しゃしん上流じょうりゅう森林しんりんられるのにたいして、しも流域りゅういき乾燥かんそう地帯ちたい砂漠さばく目立めだ一方いっぽうで、河口かこう三角州さんかくすなどには植生しょくせい目立めだつ。
 
ナイルがわ上流じょうりゅう地図ちず
 
スーダンのハルツーム郊外こうがいでのしろナイルがわあおナイルがわ合流ごうりゅうてん

一般いっぱんにはヴィクトリア源流げんりゅうとするやく5760 kmの大河たいがおもわれているが、ヴィクトリアには多数たすう流入りゅうにゅう河川かせん存在そんざいし、一方いっぽうでヴィクトリアみずうみからの流出りゅうしゅつ河川かせんはナイルがわしか存在そんざいしないため、ヴィクトリアをナイルがわ水系すいけいふくみ、そこになが河川かせんながさもナイルがわながさに加算かさんするのが普通ふつうである。ヴィクトリアなが最大さいだい最長さいちょう河川かせんは、ルワンダみなもとち、ルワンダとブルンジやタンザニアの国境こっきょうし、さらにタンザニアとウガンダの国境こっきょうしたのち、タンザニアのブコバ北方ほっぽうでヴィクトリアみずうみながカゲラがわである。そのカゲラかわ最長さいちょう支流しりゅうは、ブルンジ南部なんぶブルリけん水源すいげんとするルヴィロンザがわ英語えいごばんRuvyironza)であり、これがナイルがわさい上流じょうりゅうとされる[3]

標高ひょうこう1134 mのヴィクトリアは、赤道あかみち直下ちょっか位置いちし、サバナ気候きこうで、ナイルがわ流域りゅういきとしては降水こうすいりょうおおい。ヴィクトリアみずうみから下流かりゅうヴィクトリアナイルともばれ、そのながさはやく5760 kmである。ヴィクトリアみずうみからのナイルがわ流出りゅうしゅつこうは、湖北こほくジンジャであり、流出りゅうしゅつこうには記念きねんてられ、またオーエン・フォールズ・ダムえい: Owen Falls Dam)を建設けんせつして水力すいりょく発電はつでんおこなっている。ヴィクトリアみずうみからやく500 km下流かりゅうくとキオガて、落差らくさ120 mのマーチソン・フォールズをり、標高ひょうこう619 mのアルバートなが[4]。アルバートには、にウガンダ南西なんせいジョージみずうみからカジンガ水路すいろと、エドワードとおってながれてきたセムリキがわそそいでいる。

アルバートみずうみから下流かりゅうアルバートナイルともばれる。みなみスーダンはいり、急流きゅうりゅうを1つえると首都しゅとジュバである。ジュバから下流かりゅうがわ勾配こうばい非常ひじょうゆるやかであり、すこきたのモンガラ周辺しゅうへんからはスッド影響えいきょうける。支流しりゅうバハル・エル=ガザルがわBahr el Ghazal)とはみずうみ合流ごうりゅうし、そこから下流かりゅうは、しろナイルがわばれる。このあたりはスッドとばれるだい湿原しつげん存在そんざいし、ここで河川かせんすい蒸発じょうはつして、しろナイルがわ流量りゅうりょう半分はんぶん以下いか激減げきげんする[5]帆船はんせん時代じだいにスッドは、複雑ふくざつりゅうと、繁茂はんもする水草みずくさのため、南北なんぼく河川かせん利用りようした交通こうつうはば障壁しょうへきだったが、蒸気じょうきせん登場とうじょう以後いご航路こうろ設定せっていされるようになった。

スッドの出口でぐちであるみなみスーダンのマラカルみなみソバトがわわせる。マラカルから、スーダン首都しゅとハルツームまでの800 kmの標高ひょうこうは、12 mにぎず、非常ひじょうゆるやかなながれである[6]しろナイルがわはハルツームで、エチオピアタナみずうみからながれてくるあおナイルがわ合流ごうりゅうする。ここからさき狭義きょうぎのナイルがわである。

ハルツームをぎて80 kmほどで、ナイルがわにはふたた急流きゅうりゅう出現しゅつげんする。これはきたからかぞえて6番目ばんめ急流きゅうりゅうナイルがわ急湍きゅうたん英語えいごばん〈きゅうたん〉)であり、だい6急湍きゅうたんばれる。ここからエジプトアスワンまでのあいだにある6つの急流きゅうりゅうは、エジプトとスーダンのあいだ舟運しゅううんこばみ、交通こうつう障害しょうがいであった。しかし、この急流きゅうりゅう区間くかんふるくからエジプトの影響えいきょうけ、ヌビアばれて独自どくじ古代こだい王国おうこくきずいていた。だい6急湍きゅうたんきた、200 kmほどのところには、古代こだいクシュ王国おうこくであったメロエMeroë)が形成けいせいされた。さらにそのきた、ハルツームからやく300 km下流かりゅうアトバラで、支流しりゅうアトバラがわ合流ごうりゅうする。

これより下流かりゅうがわ完全かんぜん砂漠さばく気候きこうであり、ナイル河谷こうだにのぞいて居住きょじゅうしゃは、ほとんどいない。また、これ以北いほくではナイルがわ常時じょうじ水流すいりゅうられる支流しりゅう存在そんざいせず、降水こうすいにのみみずながれるかわ点在てんざいするのみである。たとえばミルク・ワディや、ナイルがわ異名いみょうWadi Howarなどである。だい4急湍きゅうたん付近ふきんには、メロエ以前いぜんにクシュの首都しゅとであったナパタ(ゲベル・バルカル)が形成けいせいされた。この付近ふきんには2009ねんメロウェダムMerowe Dam)が完成かんせいし、だい規模きぼ水力すいりょく発電はつでん開始かいしした。

エジプトにはいると、アスワン・ハイ・ダムとそれによって出来できナセルがある。ナセルながさは550 kmにおよび、その南端なんたんはスーダンさいきたまちワジハルファえさらにみなみまでびている。アスワン以北いほくふるくからの「エジプト」であり、はば5 kmほどのナイル河谷こうだにに、居住きょじゅうしゃ集中しゅうちゅうしている。アスワンからカイロまではうえエジプトばれる。この区間くかんでナイルがわは、ほぼ1ほん河川かせんだが、北西ほくせいへとながれる支流しりゅうもあり、カイロ南西なんせいファイユーム・オアシスをつくってカルーンむ。それからさらにきたながれ、カイロからきた三角州さんかくす発達はったつしている。ナイルがわ三角州さんかくすしもエジプトともばれる。三角州さんかくすアレクサンドリアからポートサイドまでやく240 kmのはばち、ひがしのロゼッタ支流しりゅう西にしのダミエッタ支流しりゅうという2ほん主流しゅりゅうと、おおくの分流ぶんりゅうわかれ、地中海ちちゅうかいそそいでいる。

みずぶん

編集へんしゅう
 
さい上流じょうりゅうのルスモたき付近ふきん合流ごうりゅうするルブブがわとカゲラがわ
 
タナよりながあおナイルがわ
世界せかい主要しゅよう河川かせん比較ひかく
アマゾン川あまぞんがわ ナイルがわ ミシシッピがわ 長江ながえ ヴォルガがわ コンゴがわ
なが(km) 6,516 6,650 3,779 6,300 3,700 4,700
流域りゅういき面積めんせき
(100まんkm2)
7.05 2.9 3.2 1.8 1.3 3.7
平均へいきん流量りゅうりょう
(1000m3/s.)
297 2-3 18 21 8 39

上流じょうりゅうのアルバートみずうみ付近ふきんのアルバート・ナイルがわ流量りゅうりょうやく1048 (m3/びょう)であり、年間ねんかんつうじておおきな変化へんかい。しかし、ナイルがわ下流かりゅうかうにつれて、つまりきたかうにつれて、乾燥かんそうした気候きこう地域ちいきへとはいってゆく。みなみスーダンのスッドとばれる沼沢しょうたくにおいてはふけ発散はっさんにより、やく510 (m3/びょう)にまで流量りゅうりょう減少げんしょうする。つまり、ここで河川かせんすい半分はんぶん以上いじょううしなわれている。スッドの出口でぐち形成けいせいされた都市としのマラカル付近ふきんソバトがわ合流ごうりゅうする。ソバトがわ温帯おんたいなつ気候きこうのエチオピア高原こうげん源流げんりゅうつため、増水ぞうすいの3がつにはやく680 (m3/びょう)であり、渇水かっすいの8がつにはやく99 (m3/びょう)と、流量りゅうりょうおおきく変動へんどうする。増水ぞうすいには浮遊ふゆうぶつおおく、これがナイルがわながみ、しろナイルの語源ごげんである。ソバトがわ影響えいきょうにより、合流ごうりゅうてん付近ふきんしろナイルがわ流量りゅうりょうやく609 (m3/びょう)からやく1218 (m3/びょう)の範囲はんい変化へんかする。

その、ハルツームであおナイルがわ合流ごうりゅうし、ここからさき狭義きょうぎのナイルがわである。ナイルがわはアトバラで、アトバラがわ合流ごうりゅうする。アトバラより下流かりゅうでは、砂漠さばく気候きこうなかながれ、だい規模きぼ河川かせん合流ごうりゅうい。この地方ちほうのナイルがわは、乾燥かんそう地帯ちたい流下りゅうかするためにふけ発散はっさんによる影響えいきょうおおきくける。1月から6がつにかけての乾季かんきあいだあおナイルがわ流量りゅうりょうやく113 (m3/びょう)であり、ナイルがわ流量りゅうりょうのうち、しろナイルがわから供給きょうきゅうされるみずが7わりから9わりめる。

なお、アトバラがわ雨季うき以外いがいほとんど流量りゅうりょうい。アトバラかわあおナイルがわもエチオピア高原こうげん源流げんりゅうつため、高原こうげん雨季うきにはりょう河川かせん流量りゅうりょう大幅おおはば増大ぞうだいする。とくあおナイルがわ流量りゅうりょう増大ぞうだい非常ひじょう大幅おおはばで、8がつあおナイルがわ流量りゅうりょうやく5600 (m3/びょう)以上いじょうたっし、この時期じきはナイルがわ流量りゅうりょうの8わりから9わりあおナイルがわから供給きょうきゅうされるみずめる。また、とくあおナイルは標高ひょうこうやく1800 mのタナみずうみからみじか距離きょりあいだ急激きゅうげき高度こうどげるため、河床かしょう侵食しんしょくして土砂どしゃ運搬うんぱんし、大量たいりょう堆積たいせきぶつ下流かりゅうにもたらす。この肥沃ひよくであり、この氾濫はんらん堆積たいせきしていたエジプトにおいて、むかし農作物のうさくもつ豊作ほうさくをもたらしていた。

しかし、それはアスワン・ハイ・ダム建設けんせつされてわりをむかえた[注釈ちゅうしゃく 1]。アスワン・ハイ・ダム建設けんせつ以前いぜんアスワンにおける流量りゅうりょうは、渇水かっすい増水ぞうすいで15ばいたっしていた。それが1970ねんのアスワン・ハイ・ダム竣工しゅんこうも、電力でんりょく需要じゅようわせたアスワン・ハイ・ダムでの水力すいりょく発電はつでんなどのために人工じんこうてき流量りゅうりょう変化へんかきるものの、その下流かりゅうがわのアスワン・ロウ・ダムが調整ちょうせいダムとしての役割やくわりたすため、アスワン・ロウ・ダムより下流かりゅうのエジプトにおいて、年間ねんかん流量りゅうりょう変化へんかはほとんどくなり、年間ねんかんつうじておな水量すいりょうながれている。この結果けっか、アスワン・ロウ・ダムより下流かりゅうがわでは氾濫はんらんしなくなったものの、上流じょうりゅうから供給きょうきゅうされてきた肥沃ひよく農地のうち堆積たいせきしなくなって農業のうぎょう影響えいきょうあたえた[注釈ちゅうしゃく 2]。また、巨大きょだいなナセル出現しゅつげんによって、ここから蒸発じょうはつするナイルがわみず影響えいきょうなどで、周辺しゅうへん気候きこうわった。さらに、ビルハルツじゅう吸虫問題もんだいもある。

現在げんざいのナイルがわりゅうは、エチオピア高原こうげん隆起りゅうきしてきたはく亜紀あき以降いこう形成けいせいされたとかんがえられている。中新ちゅうしん以降いこう、その状況じょうきょうは5つの時期じき分類ぶんるいされる。中新ちゅうしんころりゅうナイルEonile)とばれ、侵食しんしょくけいであった。そのころ地中海ちちゅうかいうみぼん干上ひあがっており、この盆地ぼんちけて峡谷きょうこく形成けいせいされたとかんがえられている。ナイルによって形成けいせいされた峡谷きょうこくは、そのうめせきされ、現在げんざいではそれらの領域りょういき一部いちぶにガスられる。現在げんざいのナイルがわりゅうになったのは、更新こうしん末期まっきである[7]

1まん2500ねんまえには最終さいしゅうごおりわった影響えいきょうによって、それまで閉鎖へいさみずうみであったヴィクトリア水位すいい急激きゅうげき上昇じょうしょうし、湖水こすいきたのナイルがわ水系すいけいへとあふれした[8]。 このときに、ヴィクトリア現在げんざいのナイルがわ水系すいけい接続せつぞくされた。

 
ナイルがわヒエログリフ発音はつおんIteru である。
 
メロエのピラミッドぐんを、上空じょうくうから撮影さつえいした写真しゃしん
 
紀元前きげんぜん6世紀せいきころ作成さくせいされた、アナクシマンドロスによる世界せかい地図ちず再現さいげん
 
紀元前きげんぜん450ねんころ作成さくせいされた、ヘロドトスによる世界せかい地図ちず再現さいげん

ちゅう流域りゅういきより下流かりゅうがわ

編集へんしゅう

ナイルがわ流域りゅういきとく下流かりゅうのエジプトは、世界せかいもっとふる文明ぶんめいおこった土地とちとしてられている。エジプトでは「おおきなかわ」という意味いみIteruばれた。紀元前きげんぜん3800ねんごろにはすで古代こだいエジプト文明ぶんめい成立せいりつしており、紀元前きげんぜん3150ねんごろには統一とういつ国家こっか形成けいせいしてエジプト王国おうこく成立せいりつし、以後いご肥沃ひよくなナイルがわ流域りゅういき基盤きばんとして独自どくじ文明ぶんめいきずいた。そのみなみ地域ちいきであるヌビアにおいても、エジプト文明ぶんめい影響えいきょうけて王国おうこく形成けいせいされ、紀元前きげんぜん2200ねんころにはクシュ王国おうこく建国けんこくされた。クシュはエジプトしん王国おうこくトトメス1せいによってほろぼされたものの、紀元前きげんぜん900ねんころに、ナイルだい4急湍きゅうたんかたわらに形成けいせいされた都市としであるナパタ(ゲベル・バルカル)において再興さいこうし、紀元前きげんぜん747ねんにはぎゃくだい3ちゅうあいだのエジプトにんでエジプトだい25王朝おうちょう建設けんせつした。その50ねんアッシリアアッシュールバニパルやぶれてだい25王朝おうちょうはエジプト支配しはいうしなったが、ナパタの王朝おうちょうはそのまま存続そんぞくし、紀元前きげんぜん6世紀せいきころみなみメロエ遷都せんとながさかえた。メロエは鉄鉱てっこうせき樹木じゅもく豊富ほうふであり、さかんに製鉄せいてつおこなわれた。

やがて下流かりゅうのエジプトはペルシア帝国ていこく支配しはいされ、アレクサンドロス帝国ていこく支配しはいされたのち、ギリシアけいプトレマイオスあさもと独立どくりつ回復かいふくした。しかし紀元前きげんぜん30ねんクレオパトラ7せい時代じだいに、アクティウムの海戦かいせんによってマ帝国まていこく支配しはいされ独立どくりつうしない、皇帝こうてい直轄ちょっかつアエギュプトゥスとなった。

一方いっぽうでヌビアの独立どくりつは、この時代じだいたもたれた。メロエの王国おうこくほろぼされたのは350ねんごろで、エチオピア北部ほくぶ本拠ほんきょとするアクスム王国おうこくによってとされているが、異説いせつもある。メロエ滅亡めつぼう、ヌビアはきたのノバティア、ドンゴラを首都しゅととする中部ちゅうぶのマクリア、ハルツーム周辺しゅうへん本拠ほんきょとするみなみのアロディアの3王国おうこくかれた。

395ねんにはマ帝国まていこく東西とうざい分裂ぶんれつし、エジプトはひがしマ帝国まていこくりょうとなった。4世紀せいきから5世紀せいきにかけてはエジプトでもヌビアでもキリスト教きりすときょうれられたが、639ねんイスラム帝国ていこく侵攻しんこうによってエジプトは征服せいふくされ、以後いごイスラムした。なお、そのもヌビア地域ちいきではキリスト教きりすときょう王国おうこくなが命脈めいみゃくたもったものの、きたのイスラム勢力せいりょくからのあつりょくによって徐々じょじょ弱体じゃくたいし、最後さいごまでのこったアロディアも14世紀せいきころには滅亡めつぼうして、イスラム教徒きょうとによるフンジ王国おうこく英語えいごばんなどが建国けんこくされた。19世紀せいきはいるとエジプトでオスマン帝国ていこくからはん独立どくりつ王朝おうちょうつくげたムハンマド・アリーがヌビアへと侵攻しんこうし、フンジ王国おうこくほろぼし、さらにそのみなみ居住きょじゅうするヌエルじんディンカじんシルックじん征服せいふくして、現在げんざいのスーダンの版図はんといたなか流域りゅういきをエジプトの支配しはいれた。イスマーイール・パシャ時代じだいにはさらに南下なんかして、1869ねんにはスーダン南端なんたんのゴンドコロ(現在げんざいジュバ)まで侵攻しんこうして支配しはいにして赤道あかみちしゅう設置せっちし、1874ねんにはチャールズ・ゴードンを初代しょだい総督そうとく任命にんめいしてウガンダ方面ほうめんへの進出しんしゅつはかった。

うえ流域りゅういき

編集へんしゅう

うえ流域りゅういきにおいては難所なんしょ急流きゅうりゅうによってちゅう流域りゅういきとは断絶だんぜつされ、ほとんどたがいに無関係むかんけい歴史れきしあゆんだ。15世紀せいきごろにはヴィクトリア湖畔こはん領域りょういき国家こっか出現しゅつげんし、19世紀せいきはいってモンバサなどのインド洋いんどよう沿岸えんがんスワヒリ文化ぶんかけんからのキャラバン・ルートがうえ流域りゅういき到達とうたつして、ブニョロ王国おうこくブガンダ王国おうこくなどが、インド洋いんどよういとなまれていたアラブじんによる交易こうえきけん遠距離えんきょり交易こうえきおこないながら繁栄はんえいした。

源流げんりゅう探索たんさく

編集へんしゅう

ナイルがわ源流げんりゅう一体いったいどこなのかをさぐ調査ちょうさは、古代こだいよりおこなわれていた。しかし、スッドの沼沢しょうたくなど、ナイル川上かわかみ航路こうろ難所なんしょえられず、源流げんりゅうながらく不明ふめいのままであった。古代こだい地理ちり学者がくしゃもナイルのみなもとについてはらず、推測すいそくによって地図ちずえがくしかなかった。紀元前きげんぜん5世紀せいきのヘロドトスは、ナイルがわ西にしアフリカから東進とうしんしたのち北上ほくじょうしてエジプトにながんでいるのだろうとかんがえていた。1世紀せいきにはギリシアのディオゲネスという船乗ふなのりが、インド洋いんどよう交易こうえき帰途きとひがしアフリカの海岸かいがんから内陸ないりくはいみ、25日間にちかんにわたってナイルの源流げんりゅうもとめて奥地おくちたびをしたとされる。かれ報告ほうこくもとづき、2世紀せいき地理ちり学者がくしゃクラウディオス・プトレマイオスは、「つき山脈さんみゃく」とそのふもとの2つのみずうみがナイルがわ水源すいげんであるとかんがえた。

アラブじんもナイルがわ源流げんりゅう場所ばしょらず、1355ねん出版しゅっぱんされたイブン・バットゥータの著書ちょしょしょ都市とし新奇しんきさとたび驚異きょういかんする観察かんさつしゃたちへのおくもの』でも、ニジェールがわを「ナイル」としるし、ニジェールがわはナイルがわ支流しりゅうだとかんがえていた記載きさいのこ[9]

16世紀せいきころからエチオピアとヨーロッパとの交流こうりゅうはじまった結果けっかあおナイル周辺しゅうへん地理ちり判明はんめいはじめ、1615ねんにはポルトガルのイエズスかい修道しゅうどうであったペドロ・パエス英語えいごばんがタナみずうみ発見はっけんした。1770ねんにはスコットランドじん探検たんけんジェームズ・ブルース探検たんけんおこない、かれによってあおナイルがわ源流げんりゅうがタナみずうみであるとヨーロッパじんにもられるようになった。

しかし、しろナイルがわ源流げんりゅうについては不明ふめいのままであった。

19世紀せいき初頭しょとうにはきたのエジプトの総督そうとくがスーダン進出しんしゅつ同時どうじにナイルがわ源流げんりゅう探査たんさおこない、1842ねんにはゴンドコロまでたっしたものの、そのみなみまではすすめなかった。19世紀せいき中盤ちゅうばんはいるとヨーロッパじんのアフリカ探検たんけんさかおこなわれ、ナイル源流げんりゅう探索たんさくも、その主要しゅようなテーマの1つであった。1858ねんにイギリスじん探検たんけんジョン・ハニング・スピークが、ヴィクトリア発見はっけんした。かれリチャード・フランシス・バートン共同きょうどうでナイルがわ水源すいげんさが探検たんけんおこない、まず2人ふたりタンガニーカ発見はっけんした。その体調たいちょう不良ふりょうでタンガニーカ湖畔こはんのこったバートンをいてスピークは探検たんけんすすめ、1858ねん8がつ3にちに、ムワンザでヴィクトリアみずうみを「発見はっけん」した。このみずうみをナイルがわ水源すいげんだとしんじたスピークは、ときのイギリス女王じょおうヴィクトリアり「ヴィクトリア」と命名めいめいした。しかし、スピークの探検たんけんでは、ヴィクトリアがナイルがわ水源すいげんだとは確認かくにんできなかったため、タンガニーカがナイルがわ源流げんりゅうだとかんがえたバートンと、ヴィクトリアがナイルの源流げんりゅうだとかんがえたスピークによるだい論争ろんそう勃発ぼっぱつした[10]。この論争ろんそう決着けっちゃくけるべく、スピークは1860ねん9がつよりジェームズ・オーガスタス・グラントと一緒いっしょにザンジバルを出発しゅっぱつしてふたた探検たんけんおこない、1862ねん7がつ28にちに、ヴィクトリア北岸ほくがんのジンジャからおおきなかわきたへとながしていると確認かくにんした[11]。スピークはこの流出りゅうしゅつ地点ちてんにあるたきリポンたき英語えいごばん命名めいめいし、これでなぞ解明かいめいされたとかんがえて帰路きろいた。ただ、この探検たんけんでもなぞのこったままで、論争ろんそうはさらにつづいた。1864ねん9がつには両者りょうしゃ討論とうろんかい予定よていされていたが、その前日ぜんじつにスピークはじゅう暴発ぼうはつ事故じこ死亡しぼうした。このには不明ふめい部分ぶぶんおおく、さらに論争ろんそう一方いっぽう当事とうじしゃ死去しきょしてしまったため、ナイル源流げんりゅう論争ろんそうはさらに混乱こんらんした。そのうえ、サミュエル・ベーカーとフローレンス・ベーカーのベーカー夫妻ふさい1864ねん3月14にちアルバート発見はっけんし、1866ねんにその結果けっか発表はっぴょうしたため、混乱こんらん頂点ちょうてんたっした。

これらの論争ろんそうけて、デイヴィッド・リヴィングストンがこの地域ちいき探検たんけんした。かれはベーカーよりもさらにみなみルアラバがわ英語えいごばんと、その源流げんりゅうザンビア領内りょうないバングウェウルがナイルの源流げんりゅうであろうとかんがえ、探査たんさおこなった。この探検たんけん途中とちゅうでリヴィングストンはヨーロッパとの連絡れんらく一時いちじ途絶とだえ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく新聞しんぶんしゃ派遣はけんしたヘンリー・モートン・スタンリーと、ウジジむら邂逅かいこうするなど困難こんなんかさねたが、源流げんりゅう確定かくていにはいたらず客死かくしした。そのあといだヘンリー・モートン・スタンリーは1875ねんに、リポンたき確認かくにんしたのちみずうみ周遊しゅうゆうし、これによってヴィクトリアみずうみがナイルがわ源流げんりゅうであると確定かくていされた[12]

ただ、そのも、ヴィクトリアながかわ探検たんけんつづけられ、カゲラがわやその支流しりゅうルヴィロンザがわ英語えいごばんなどが、ナイルの源流げんりゅうとされるようになってきた。

しかし、しん源流げんりゅう探索たんさく21世紀せいきはいっても依然いぜんとしてつづけられており、2006ねんにもブラジルとニュージーランドの探検たんけんあたらしい源流げんりゅう発見はっけんした。

植民しょくみん

編集へんしゅう

ナイルがわ源流げんりゅうがほぼ確定かくていされると、イギリスなどのヨーロッパ列強れっきょうが、この地域ちいきばしはじめた。とく最下さいかりゅうのエジプトに強力きょうりょく利害りがいイギリス熱心ねっしんであった。もしナイル上流じょうりゅう列強れっきょうによって支配しはいされた場合ばあい、ナイルのみずたよっているエジプトが甚大じんだい被害ひがいこうむ可能かのうせいがあったからである。こうしたなか、エジプトの圧政あっせいえかねた人々ひとびとなかからムスリムのシャイフであるムハンマド・アフマドが、1881ねんマフディー戦争せんそうこした。1882ねんにエジプトを保護ほごこくしたイギリスはチャールズ・ゴードン派遣はけんしたものの、1885ねんにはハルツームが陥落かんらくし、ゴードンも殺害さつがいされて、マフディー国家こっかは、ほぼ現在げんざいのスーダンの領域りょういきまで領土りょうど拡大かくだいさせ、イギリスは一時いちじスーダンからの撤退てったい余儀よぎなくされた。

しかし、そのみなみ当時とうじはエジプト最南端さいなんたんであった赤道あかみちしゅうには総督そうとくエミン・パシャ英語えいごばん残留ざんりゅうし、孤立こりつしながらもなにとか独立どくりつたもっていた。このエミン・パシャのあつかいが、その、イギリスとドイツあいだ争点そうてんになった。エミン・パシャは本名ほんみょうをシュニッツァーというドイツじんであり、かれ救出きゅうしゅつするとしょうして、イギリスとドイツがそれぞれぐん派遣はけんしたのである。この救出きゅうしゅつ作戦さくせんヘンリー・モートン・スタンリーひきいたイギリスたい成功せいこうさせ、1889ねんにエミン・パシャは「救出きゅうしゅつ」されて赤道あかみちしゅう政府せいふ滅亡めつぼうした。これにたいして出遅でおくれたドイツたいは、ブガンダ王国おうこく友好ゆうこう条約じょうやく締結ていけつしたりして、この地域ちいき進出しんしゅつはかったが、結局けっきょく1890ねん8がつ10日とおかに、ヘルゴランド=ザンジバル条約じょうやくにより南緯なんい1せん両国りょうこく境界きょうかいせんかれ、ナイルじょう流域りゅういき全域ぜんいきがイギリスの勢力せいりょく範囲はんいかれた。この条約じょうやくもとづいて、ナイルさい上流じょうりゅうのヴィクトリアみずうみ周辺しゅうへんにもイギリスの触手しょくしゅびた。イギリスは、ブガンダ王国おうこくブニョロ王国おうこくトロ王国おうこくアンコーレ王国おうこくといった国々くにぐに条約じょうやく締結ていけつし、1894ねんにはウガンダ保護ほごりょう成立せいりつした[13]

このころに、アフリカ最南端さいなんたんケープ植民しょくみん首相しゅしょう就任しゅうにんしたセシル・ローズは、カイロからケープタウンまでのケープ・カイロ鉄道てつどう敷設ふせつと、電信でんしんあみ構築こうちくを、イギリスの政策せいさくとして実施じっしするよう提唱ていしょうした。これをけて、アフリカをイギリス植民しょくみん南北なんぼく縦断じゅうだんさせるアフリカ縦断じゅうだん政策せいさくが、3C政策せいさく一環いっかんとしてイギリス政府せいふによってられていった。これにともない、ふたたびナイルがわ流域りゅういきにイギリスのけられた。1898ねんにイギリスはふたたびスーダンに侵攻しんこうし、同年どうねんオムドゥルマンのたたかによってホレイショ・キッチナー指揮しきもとで、マフディー国家こっか事実じじつじょう滅亡めつぼうさせた。

一方いっぽう、このころにフランスは、アフリカ大陸たいりくさい西端せいたんダカールからサヘル地帯ちたい次々つぎつぎ植民しょくみんし、フランス植民しょくみんによるアフリカ横断おうだん(アフリカ横断おうだん政策せいさく)をねらっていた。

このイギリスとフランスの政策せいさくは、オムドゥルマンのたたかいから1週間しゅうかんに、スーダン中央ちゅうおう現在げんざいみなみスーダン北部ほくぶ)のしろナイルがわ沿いの都市としファショダにて衝突しょうとつした。フランスりょう赤道せきどうアフリカ首府しゅふブラザヴィルから出発しゅっぱつしたジャン・バティスト・マルシャン将軍しょうぐんぐんが、2年間ねんかんかけてファショダに到達とうたつし、マフディー国家こっか消滅しょうめつ混乱こんらんいてファショダを占領せんりょうしたのである。これはファショダ事件じけんばれる[注釈ちゅうしゃく 3]。キッチナーのぐんはファショダに急行きゅうこうしてりょうぐん対峙たいじしたものの、フランスが譲歩じょうほして撤退てったいし、ナイルがわ流域りゅういきのイギリスの覇権はけんは、これで確立かくりつされた。この1898ねんには、イギリスとエジプトの共同きょうどう統治とうちりょうえいほこりりょうスーダン成立せいりつし、こうして、マフディー国家こっか滅亡めつぼうし、ナイルがわ流域りゅういきのほとんどはイギリスによって一体いったいてき統治とうちされた。

その1922ねんにエジプトが、1956ねんにスーダンが、1962ねんにウガンダがイギリスから独立どくりつし、この地域ちいき全域ぜんいき植民しょくみん支配しはいから脱却だっきゃくした。しかし、ウガンダやスーダンにおいては内乱ないらん紛争ふんそうえず、とくにスーダンにおいては北部ほくぶむアラブじんイスラム教徒きょうとと、南部なんぶ黒人こくじんけいキリスト教徒きりすときょうととの紛争ふんそう激化げきかして、1955ねんから1972ねんだいいちスーダン内戦ないせん1983ねんから2005ねんにかけてのだいスーダン内戦ないせんきた。これにより、この地域ちいき産業さんぎょう衰退すいたいし、開発かいはつおくれ、おおくの死傷ししょうしゃた。結局けっきょく2005ねん和平わへい合意ごういもとづいて、2011ねん南部なんぶスーダン独立どくりつ住民じゅうみん投票とうひょう実施じっしされ、圧倒的あっとうてき多数たすう支持しじけて、2011ねんみなみスーダン共和きょうわこくがスーダンから分離ぶんり独立どくりつした。

開発かいはつ

編集へんしゅう
 
ローダとう設置せっちされたナイロメーター。これでナイルがわ水位すいい計測けいそくしていた。

産業さんぎょう革命かくめい以前いぜん

編集へんしゅう

ナイルがわ流域りゅういき肥沃ひよく土壌どじょうは、世界せかいよんだい文明ぶんめいの1つにかぞえられるエジプト文明ぶんめいはぐくんだ。古代こだいギリシア歴史れきしヘロドトスは「エジプトはナイルがわ賜物たまもの」という言葉ことばを、かれ著書ちょしょ歴史れきし』にしるした。ナイルがわは7がつ中旬ちゅうじゅんに、季節風きせつふう影響えいきょうけて、エチオピア高原こうげんられる温帯おんたいなつ気候きこう影響えいきょうで、氾濫はんらんこしてきた。この氾濫はんらんさいに、上流じょうりゅうより肥沃ひよく土壌どじょうを、ナイルがわ河畔かはんにもたらしていた。しかも、水位すいい上下じょうげきても、鉄砲水てっぽうみずのような急激きゅうげき水位すいい上昇じょうしょう発生はっせいせず、毎年まいとしまった時期じきおだやかに増水ぞうすいこった。砂漠さばく気候きこう少雨しょううであるエジプトにおいて、この洪水こうずい文明ぶんめい屋台骨やたいぼねともえる要素ようその1つであった。この洪水こうずい時期じきるために世界せかい最古さいここよみともいわれるシリウスれきつくられた。また、洪水こうずい収束しゅうそく農地のうち元通もとどお配分はいぶんするため、測量そくりょう技術ぎじゅつ幾何きかがく発達はったつした。

古代こだいエジプト崩壊ほうかいも、エジプトの歴代れきだい統治とうちしゃはナイルを重視じゅうしつづけた。ナイルの水位すいいるための水位すいいけいであるナイロメーター各地かくち設置せっちされた。たとえば、カイロのローダとうには716ねんに、ナイロメーターが建設けんせつされた[14]。さらに、アスワンのエレファンティネとうなどに現在げんざいでもすう残存ざんそんしている[15]

産業さんぎょう革命かくめい

編集へんしゅう
 
アスワン・ハイ・ダム

19世紀せいきはいり、産業さんぎょう革命かくめいにより、綿布めんぷ生産せいさん効率こうりつ飛躍ひやくてき向上こうじょうし、原料げんりょうとしての綿花めんか栽培さいばいさかんになっていった。

従来じゅうらいあさ水路すいろって、洪水こうずいみず貯水ちょすいしていた、ベイスン灌漑かんがい方式ほうしきわり、なつ運河うんがばれる通年つうねん灌漑かんがいようふか水路すいろられ、通年つうねんでの耕作こうさく可能かのうにした[16]なつ運河うんがからは水車みずぐるまなどをもちいてみずげ、農地のうちへとみず供給きょうきゅうした。これによってエジプトにおいて洪水こうずい農耕のうこう不可欠ふかけつではなくなり、ぎゃく洪水こうずいこさないようコントロールする必要ひつようせまられた。そこで水害すいがいふせぐためにアスワン・ロウ・ダム建設けんせつされ、1902ねん竣工しゅんこうした。これによって治水ちすい能力のうりょく大幅おおはば向上こうじょうしたものの、ダムのつつみ嵩上かさあげをいく実施じっしして、最終さいしゅうてきつつみたかさは元々もともとのナイルがわ河床かしょうから36 mのたかさにされた[17]。しかし、それでも、完全かんぜん洪水こうずいくすにはいたらなかった。そこで1952ねんにエジプト革命かくめいによって政権せいけんにぎったガマール・アブドゥル=ナーセル大統領だいとうりょうは、アスワン・ハイ・ダム計画けいかく推進すいしんし、1970ねん完成かんせいさせた[18]。アスワン・ハイ・ダムの竣工しゅんこうによるナセル出現しゅつげんと、その調整ちょうせいダムとしてアスワン・ロウ・ダムが機能きのうするようになった結果けっか、これより下流かりゅうがわでのナイルがわ洪水こうずい完全かんぜんふせげるようになり、これまで洪水こうずいには使用しようできなかった広大こうだい農地のうち使用しよう可能かのうとなった。さらに、あらたな農地のうちだい規模きぼ開発かいはつすすめられ、たとえば、ナセルみずうみからワーディー・ゲディードけんなどへの送水そうすいによって、2250 km2農地のうち開発かいはつ目的もくてきとしたトシュカ・プロジェクトが1998ねん着工ちゃっこうされ、2003ねん完成かんせいした[19]

また、2つのアスラン・ダムでの水力すいりょく発電はつでんりょうは、当時とうじのエジプトの発電はつでんりょう半分はんぶんちかくにもおよんだ。さらに、ナセル出現しゅつげんによって、このみずうみでは漁業ぎょぎょうさかんとなった[20]

一方いっぽうでアスワン・ハイ・ダムの建設けんせつともない、アブ・シンベル神殿しんでんヌビア遺跡いせきなどの貴重きちょう古代こだいエジプトの文化ぶんか遺産いさんがダムみずうみしずため遺跡いせき高台たかだいへの移設いせつ余儀よぎなくさせた[20]。また、ナイルがわ上流じょうりゅうからはこんで肥沃ひよく土壌どじょうが、アスワン・ハイ・ダムより下流かりゅうがわ農地のうちにはとどかなくなったため、肥料ひりょう大量たいりょう投入とうにゅうによって地力じりき維持いじせざるをない状況じょうきょう変化へんかした。ぎゃくに、このような肥沃ひよく土壌どじょうながんでまるナセルとみ栄養えいようし、2005ねん時点じてんでも、緑藻類りょくそうるいだい繁殖はんしょくして湖水こすい緑色みどりいろ状態じょうたいつねであった[20][注釈ちゅうしゃく 4]。さらに、現在げんざい上流じょうりゅうからの土砂どしゃ供給きょうきゅう減少げんしょうした結果けっかともな河岸かわぎし侵食しんしょく[20]、ナイルがわ下流したる地域ちいきでは灌漑かんがいによる地下水ちかすい上昇じょうしょうともな塩害えんがい発生はっせいなどになやまされており、エジプト政府せいふは、これらの対策たいさくせまられている。

なお、エジプトのアブドルファッターフ・アッ=シーシー大統領だいとうりょうは、アシュートでの水力すいりょく発電はつでんしょ灌漑かんがい整備せいびなど、ナイルがわ開発かいはつに500おくエジプト・ポンド以上いじょうとうじる計画けいかく着手ちゃくしゅした。これは政権せいけんへの支持しじ獲得かくとく同時どうじに、失業しつぎょうしゃ過激かげき参加さんかしないようにするねらいがある[21]

 
メロウェダム

また、スーダンにおいても、1920年代ねんだいから開始かいしされたゲジラ計画けいかくや、1966ねんロセイレス・ダム英語えいごばんなどの建設けんせつによって、みず利用りよう開発かいはつすすんだ[22]とくにゲジラ計画けいかくは、あおナイルがわセンナール・ダム英語えいごばんからだい規模きぼ幹線かんせん水路すいろき、肥沃ひよくなハルツームみなみジャジーラしゅう灌漑かんがい目指めざした。しろナイルがわ水系すいけいにも1937ねんジェベル・アウリア・ダム英語えいごばん建設けんせつしてみずき、最終さいしゅうてきには灌漑かんがい水路すいろそう延長えんちょうは4300 km、灌漑かんがいエリアは8800 km2およだい規模きぼ開発かいはつであった。この完成かんせいによってスーダンは、1930年代ねんだい世界せかい有数ゆうすう綿花めんか生産せいさんこくになった[23]。それと同時どうじに、コムギなどの収穫しゅうかくりょう向上こうじょうして「アフリカのパンかご」とばれるまでになった。

しかしながら、1956ねんにスーダンがイギリスから独立どくりつしたのちは、内戦ないせん頻発ひんぱつし、産業さんぎょう衰退すいたいしていった。

それでも、ナイルがわ開発かいはつつづけられ、1970年代ねんだい後半こうはんにはスッドにてナイルがわ水量すいりょうすためのジョングレイ運河うんが建設けんせつすすめられた。ただ、結局けっきょく内戦ないせんによる政情せいじょう不安ふあんによって、この計画けいかく放棄ほうきされた。1989ねんにクーデターで実権じっけんにぎったオマル・アル=バシール大統領だいとうりょうは、2009ねんしろナイルがわあおナイルがわ合流ごうりゅうしたさき、ハルツームのきたメロウェダム建設けんせつした。ただ、こちらもアスワン・ハイ・ダムと同様どうように、考古こうこ学者がくしゃから貴重きちょう古代こだいクシュ王国おうこく文化ぶんか遺産いさんへの影響えいきょう懸念けねんするこえ[24][25]

水利すいりあらそ

編集へんしゅう

ナイルがわみず周辺しゅうへん諸国しょこくにとって貴重きちょうであり、はげしい争奪そうだつせんまととなってきた。とくにエジプトは国土こくど全域ぜんいきでほとんど降雨こううく、エジプト南部なんぶでは5年間ねんかん連続れんぞく一切いっさい降雨こうう観測かんそくされなかった地点ちてん記録きろくされたほどである[26]。このようなエジプトにおける1996ねん時点じてんでの外国がいこくからの流入りゅうにゅう地表ちひょうすいへの依存いぞんりつは、97パーセントにもたっする[27]。エジプトに流入りゅうにゅうする河川かせんはナイルがわしか存在そんざいしないため、この依存いぞんりつはそのままナイルがわへの依存いぞんりつであり、ナイルのみずしでは、エジプトが存立そんりつないことがしめされている。

このことはむかしからられており、1929ねんにはエジプトとイギリスとのあいだ[注釈ちゅうしゃく 5]水利すいり協定きょうてい[注釈ちゅうしゃく 6]むすばれた。この協定きょうていにおいて、両国りょうこくあいだみず配分はいぶん決定けっていされ、エジプトはみずからのみず利用りよう影響えいきょうする上流じょうりゅうでの河川かせん開発かいはつ事業じぎょうにおいて、拒否きょひけん保持ほじするとさだめられた。

さらに1959ねんにはスーダンとエジプトのあいだあらたな水利すいり協定きょうてい[注釈ちゅうしゃく 7]むすばれ、ナイルの年間ねんかん水量すいりょう840おくトンのうち、蒸発じょうはつぶん100おくトンをのぞいた、555おくトンがエジプトの利用りようぶん、185おくトンがスーダン利用りようぶん決定けっていされた[1]

しかし、この配分はいぶん既得きとくけんはエジプトにとって非常ひじょう有利ゆうりであるため、とくうえ流域りゅういき諸国しょこくにおいて不満ふまんたかまっていた。そこで1999ねん2がつにナイルがわ流域りゅういきイニシアティブ(Nile Basin Initiative、NBI)が流域りゅういき9カ国かこくによって結成けっせいされ、ナイルがわ総合そうごう開発かいはつみず資源しげん配分はいぶんについて、総合そうごうてきはな形成けいせいされた。ただ、それでもうえ流域りゅういき諸国しょこく不満ふまんつよく、2010ねん5月には「ナイル流域りゅういき協力きょうりょく枠組わくぐ協定きょうてい」というしん協定きょうてい提案ていあんされた。これは他国たこく影響えいきょうあたえない範囲はんい自国じこくないみず資源しげん自由じゆう使つかえるようにするための協定きょうていで、うえ流域りゅういき諸国しょこくひろ支持しじたものの、下流かりゅうたるエジプトとスーダンはみず割当わりあてりょうげんにつながるとしてこれを拒否きょひした。一方いっぽううえ流域りゅういきのエチオピア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニアは、この協定きょうてい署名しょめいおこない、さらにナイルがわ水量すいりょう上流じょうりゅうもっとささえているエチオピアはグランド・エチオピア・ルネサンス・ダム建設けんせつすすめ、りょう陣営じんえいあいだ対立たいりつ表面ひょうめんした[28]

河川かせん交通こうつう

編集へんしゅう
 
カイロ市内しないのナイルがわ
 
ナイルがわりゅう概要がいよう。2ほんあかせんまじわる場所ばしょがハルツームで、ここで西にしから合流ごうりゅうしてくるのがしろナイルがわひがしから合流ごうりゅうしてくるのがあおナイルがわで、ここより下流かりゅうがわ狭義きょうぎのナイルがわである。

ナイルがわとくしろナイルがわ全般ぜんぱんてき勾配こうばいゆるやかなものの、なんしょ急流きゅうりゅうたき存在そんざいするため、河川かせん全域ぜんいきつうじての通航つうこう不可能ふかのうである。しかしその部分ぶぶんのぞけば、船舶せんぱく航行こうこう可能かのうであり、河口かこうからアスワンのだい1急湍きゅうたんまでのあいだは、古来こらいより交通こうつうとして非常ひじょう重要じゅうよう地位ちいめてきた。古代こだいエジプト文明ぶんめい時代じだいより、エジプトじんはナイル河畔かはん居住きょじゅうしていた。とくだい1急湍きゅうたんまでのあいだ河川かせん交通こうつうによって密接みっせつむすばれており、河口かこうからここまでが「エジプト」として認識にんしきされていた部分ぶぶんであった。

その、エジプト文明ぶんめい強力きょうりょくになるにつれて、その影響えいきょうりょく徐々じょじょ上流じょうりゅうがわ急流きゅうりゅう場所ばしょにまでびていった。エジプトちゅう王国おうこくエジプトだい12王朝おうちょう時代じだいには、だい2急湍きゅうたんのすぐ下流かりゅうにまでエジプトの南限なんげんたっした[29]急流きゅうりゅう部分ぶぶんにはまちつくられ、交通こうつう結節けっせつてんとして機能きのうした。こうしてナイルがわ河川かせん交通こうつうとして利用りようしたことにより、エジプト文明ぶんめい影響えいきょうりょく最盛さいせいには現在げんざいのエチオピアなど上流じょうりゅうにまでおよんでいた。また、冬季とうきにおいては季節風きせつふう利用りようして、帆掛舟ほかけぶねにより、かわ遡行そこう可能かのうであり、これも利用りようされた。現在げんざいでも、ファルーカばれる帆船はんせんが、交通こうつう手段しゅだんとして利用りようされており、観光かんこうせん運航うんこうおこなわれている。

アスワンのみなみだい1急湍きゅうたんにはアスワンハイダムが建設けんせつされ、できたナセルにはアスワンとスーダンさいきたまちワジハルファあいだ定期ていきせん就航しゅうこうしている。ナセルにはアブ・シンベル神殿しんでんなどの観光かんこう遊覧ゆうらんせん就航しゅうこうし、おおくの観光かんこうきゃくあつめている。

スーダンにおいても、ナイルがわ河川かせん交通こうつう重要じゅうようである。しろナイルしゅう南部なんぶにあるコスティからみなみスーダン首都しゅとジュバいたる1436 kmの水路すいろは、道路どうろ交通こうつう発達はったつしていないこの地域ちいきにおいては、重要じゅうよう交通こうつうである[30]。このあいだには、ナイルがわ河川かせん交通こうつう難所なんしょとしてられていた、みなみスーダンのスッド湿地しっちがある。この区間くかんには多目的たもくてき利用りようジョングレイ運河うんが英語えいごばん建設けんせつ計画けいかくがあったものの、生態せいたいけいへの影響えいきょうや、スッドをとおけるふう湿度しつどうしなってスーダン北部ほくぶ砂漠さばく進行しんこう加速かそくする懸念けねん流域りゅういき政情せいじょう不安ふあんなどから、計画けいかく1985ねん以来いらい凍結とうけつされたままである。

ウガンダにおいては、過去かこ蒸気じょうきせん航路こうろ開設かいせつされた時期じきもあったものの、現在げんざいでは定期ていき航路こうろ開設かいせつされていない。

主要しゅよう支流しりゅう

編集へんしゅう

太字ふとじさい長流ちょうりゅう路上ろじょう河川かせんである。斜体しゃたいかわであり、普段ふだんおもて流水りゅうすいい。下流かりゅうがわより記載きさいしている。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ これ以前いぜんにもアスワン・ロウ・ダムつくられていたものの、それはダムよりも下流かりゅうがわ氾濫はんらん完全かんぜんくすほどの影響えいきょうなかった。これにたいして1970ねん竣工しゅんこうしたアスワン・ハイ・ダムは、完全かんぜんにナイルがわ増水ぞうすいめた。上流じょうりゅうからはこばれてきた土砂どしゃは、ナセル堆積たいせきしてきた。なお、2009ねんには、さらに上流じょうりゅうがわのスーダン領内りょうないメロウェダム竣工しゅんこうし、ここにもダムみずうみ形成けいせいされた。
  2. ^ アスワン・ロウ・ダムは、ダムみずうみうずたかすな放流ほうりゅうする機能きのうそなえ、時々ときどき放流ほうりゅうしていた。
  3. ^ ファショダ事件じけんでの激戦げきせんだったファショダは、その戦乱せんらん記憶きおくすべく、1904ねんにイギリスによってコドク改名かいめいされた。
  4. ^ ナセル上流じょうりゅうがわに、メロウェダムだ完成かんせいしたのは、2009ねんである。この緑色みどりいろであること、漁業ぎょぎょうさかんであることにかんする出典しゅってんの「さん推社出版しゅっぱんへん)『極地きょくちマニア!』 さん推社・講談社こうだんしゃ ISBN 4-06-102884-7」は、その発行はっこうが2005ねん10がつ28にちであるてん注意ちゅうい
  5. ^ 1929ねん当時とうじは、スーダンをエジプトとイギリスとで共同きょうどう統治とうちしていた。
  6. ^ 29ねん協定きょうていともいう
  7. ^ 59ねん協定きょうていともいう

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b 日本人にっぽんじんらない国際こくさい河川かせんみず問題もんだい。ナイルがわ平等びょうどうみず協定きょうてい背景はいけいにあった英国えいこく思惑おもわく橋本はしもと淳司あつし) - 個人こじん - Yahoo!ニュース”. Yahoo Japan. 2023ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  2. ^ 現代げんだいにおいておもに「うみ」を意味いみするのに使つかわれるアラビア名詞めいし بَحْر(baḥr, バフル/バハル)は、元々もともと海水かいすい淡水たんすいわずおおきくふか水域すいいきかたり。そのためだい河川かせんを نَهْر(nahr, ナフル/ナハル, 「かわ」の)ではなく بَحْر(baḥr, バフル/バハル)と命名めいめいする慣習かんしゅう元々もともと存在そんざいした。
  3. ^ 二宮にのみや書店しょてん編集へんしゅう 『Data Book of The WORLD (2012年版ねんばん)』 p.301 二宮にのみや書店しょてん 2012ねん1がつ10日とおか発行はっこう ISBN 978-4-8176-0358-6
  4. ^ 水野みずのいちはれ自然しぜん」/ 吉田よしだ昌夫まさお白石しらいしたけし一郎いちろう編著へんちょ)『ウガンダをるための53しょう明石書店あかししょてん 2012ねん pp.21-23
  5. ^ 二宮にのみや書店しょてん編集へんしゅう 『Data Book of The WORLD (2012年版ねんばん)』 p.282 二宮にのみや書店しょてん 2012ねん1がつ10日とおか発行はっこう ISBN 978-4-8176-0358-6
  6. ^ 朝倉あさくら世界せかい地理ちり講座こうざ アフリカI』初版しょはん、2007ねん4がつ10日とおか朝倉書店あさくらしょてん)p.197
  7. ^ http://www.aber.ac.uk/quaternary/tana/geology.htm
  8. ^ いし弘之ひろゆき 『キリマンジャロのゆきえていく―アフリカ環境かんきょう報告ほうこく』 p.17 (岩波いわなみ新書しんしょ、2009)
  9. ^ イブン・バットゥータ(ちょ前嶋まえじま 信次しんじわけ)『さん大陸たいりく周遊しゅうゆう』 p.316 角川書店かどかわしょてん、1961ねん6がつ28にち初版しょはん発行はっこう
  10. ^ 吉田よしだ昌夫まさお世界せかい現代げんだい14 アフリカ現代げんだいII』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1990ねん2がつだい2はん。pp.32-33
  11. ^ アンヌ・ユゴン『アフリカ大陸たいりく探検たんけん』p.59 そうもとしゃ、1993ねん ISBN 4422210793
  12. ^ 『アフリカを事典じてん』p.309、平凡社へいぼんしゃISBN 4-582-12623-5 1989ねん2がつ6にち 初版しょはんだい1さつ
  13. ^ 宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)『新書しんしょアフリカだい8はん、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p.308
  14. ^ 農林水産省のうりんすいさんしょう/伝統でんとうてき農業のうぎょう水利すいり施設しせつ(エジプト ナイロメーター) 2012ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん
  15. ^ エジプト観光かんこうちょう アスワンのナイロメーター(水位すいいけい 2012ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん
  16. ^ 加藤かとうひろし 『ナイル 地域ちいきをつむぐかわかたなすい書房しょぼう 2008ねん7がつ1にち 初版しょはんだい1さつ  pp.42-48
  17. ^ V. Novokshshenov 『Laboratory studies of the stone masonry in the Old Aswan Dam』(Archived August 26, 2011, at the Wayback Machine.)、Materials and Structures 1993、Vol. 26、pp. 103-110
  18. ^ The First Aswan Dam”. University of Michigan. 2011ねん1がつ2にち閲覧えつらん[リンク]
  19. ^ [1]
  20. ^ a b c d さん推社出版しゅっぱんへん)『極地きょくちマニア!』 p.66 さん推社・講談社こうだんしゃ 2005ねん10がつ28にち発行はっこう ISBN 4-06-102884-7
  21. ^ 読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2017ねん3がつ10日とおか「ナイル上流じょうりゅう 開発かいはつ本格ほんかく/エジプト大統領だいとうりょう 再選さいせん意識いしき発展はってんおくれ テロの温床おんしょう
  22. ^ 『ビジュアルシリーズ世界せかいさい発見はっけん2 きたアフリカ・アラビア半島はんとう』p.75 ベルテルスマンしゃ、ミッチェル・ビーズリーしゃへん 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん 1992ねん5がつ20日はつかだい1はんだい1さつ
  23. ^ 吉田よしだ昌夫まさお世界せかい現代げんだい14 アフリカ現代げんだいII──ひがしアフリカ』p.108 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1990ねん2がつだい2はん
  24. ^ Sudan’s Merowe requests to stop excavating reservoir area”. Sudan Tribune. 2018ねん6がつ14にち閲覧えつらん
  25. ^ Ancient Gold Center Discovered on the Nile”. National Geographic News. 2018ねん6がつ26にち閲覧えつらん
  26. ^ さん推社出版しゅっぱんへん)『極地きょくちマニア!』 p.58 さん推社・講談社こうだんしゃ 2005ねん10がつ28にち発行はっこう ISBN 4-06-102884-7
  27. ^ 高橋たかはしひろし地球ちきゅうみずあぶない』 p.49 岩波書店いわなみしょてん 2003ねん2がつ20日はつかだい1さつ
  28. ^ ナイルがわ流域りゅういきこくあいだみず資源しげん問題もんだい | みず管理かんり改善かいぜんプロジェクト2(農民のうみん水利すいり組織そしき能力のうりょく向上こうじょう) | 技術ぎじゅつ協力きょうりょくプロジェクト | 事業じぎょう・プロジェクト (JICA) 2012ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん
  29. ^ ビル・マンリー(ちょ) 古田ふるたみのる牧人ぼくじんしゃわけ)『地図ちず世界せかい歴史れきし 古代こだいエジプト』 p.43 浜島はまじま書店しょてん 1998ねん7がつ15にち増補ぞうほばんだい2さつ
  30. ^ 田辺たなべひろし島田しまだ周平しゅうへい柴田しばたただしひらめ世界せかい地理ちりだい百科ひゃっか事典じてん2 アフリカ』 p.290、朝倉書店あさくらしょてん 1998ねん ISBN 4254166621

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう