ナイル川 がわ (ナイルがわ、アラビア語 ご : نَهْرُ النِّيلِ (nahr al-nīl(=nahr an-nīl) , ナフル・アン=ニール/ナハル・アン=ニール)、英語 えいご : the Nile 、フランス語 ふらんすご : le Nil )は、アフリカ大陸 たいりく 北東 ほくとう 部 ぶ を概 おおむ ね北 きた へと流 なが れ地中海 ちちゅうかい に注 そそ ぐ、アフリカ大陸 たいりく で最長 さいちょう 級 きゅう の河川 かせん である。長 なが さは6650 km、流域 りゅういき 面積 めんせき は2,870,000 km2 に及 およ ぶ。ナイル川 がわ の流域 りゅういき 国 こく は10か国 こく である[1] 。
エジプト口語 こうご ではその大 おお きさゆえに بَحْرُ النِّيلِ (baḥr al-nīl(=baḥr an-nīl), バフル・アン=ニール/バハル・アン=ニール)すなわち「ナイル海 かい 」[2] とも呼 よ ばれている。
ナイル川 がわ の衛星 えいせい 写真 しゃしん 。上流 じょうりゅう 部 ぶ は森林 しんりん も見 み られるのに対 たい して、下 しも 流域 りゅういき は乾燥 かんそう 地帯 ちたい で砂漠 さばく が目立 めだ つ一方 いっぽう で、河口 かこう の三角州 さんかくす などには植生 しょくせい も目立 めだ つ。
ナイル川 がわ 上流 じょうりゅう 部 ぶ の地図 ちず 。
スーダンのハルツーム 郊外 こうがい での白 しろ ナイル川 がわ と青 あお ナイル川 がわ の合流 ごうりゅう 点 てん 。
一般 いっぱん にはヴィクトリア湖 こ を源流 げんりゅう とする約 やく 5760 kmの大河 たいが と思 おも われているが、ヴィクトリア湖 こ には多数 たすう の流入 りゅうにゅう 河川 かせん が存在 そんざい し、一方 いっぽう でヴィクトリア湖 みずうみ からの流出 りゅうしゅつ 河川 かせん はナイル川 がわ しか存在 そんざい しないため、ヴィクトリア湖 こ をナイル川 がわ 水系 すいけい に含 ふく み、そこに流 なが れ込 こ む河川 かせん の長 なが さもナイル川 がわ の長 なが さに加算 かさん するのが普通 ふつう である。ヴィクトリア湖 こ に流 なが れ込 こ む最大 さいだい 最長 さいちょう の河川 かせん は、ルワンダ に源 みなもと を持 も ち、ルワンダとブルンジやタンザニアの国境 こっきょう を成 な し、さらにタンザニアとウガンダの国境 こっきょう を成 な した後 のち 、タンザニアのブコバ市 し の北方 ほっぽう でヴィクトリア湖 みずうみ に流 なが れ込 こ むカゲラ川 がわ である。そのカゲラ川 かわ の最長 さいちょう の支流 しりゅう は、ブルンジ 南部 なんぶ のブルリ県 けん を水源 すいげん とするルヴィロンザ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) (Ruvyironza )であり、これがナイル川 がわ の最 さい 上流 じょうりゅう とされる[3] 。
標高 ひょうこう 1134 mのヴィクトリア湖 こ は、赤道 あかみち 直下 ちょっか に位置 いち し、サバナ気候 きこう で、ナイル川 がわ の流域 りゅういき としては降水 こうすい 量 りょう も多 おお い。ヴィクトリア湖 みずうみ から下流 かりゅう はヴィクトリアナイル とも呼 よ ばれ、その長 なが さは約 やく 5760 kmである。ヴィクトリア湖 みずうみ からのナイル川 がわ の流出 りゅうしゅつ 口 こう は、湖北 こほく 部 ぶ のジンジャ であり、流出 りゅうしゅつ 口 こう には記念 きねん 碑 ひ が建 た てられ、またオーエン・フォールズ・ダム (英 えい : Owen Falls Dam )を建設 けんせつ して水力 すいりょく 発電 はつでん を行 おこな っている。ヴィクトリア湖 みずうみ から約 やく 500 km下流 かりゅう に行 い くとキオガ湖 こ を経 へ て、落差 らくさ 120 mのマーチソン・フォールズを降 お り、標高 ひょうこう 619 mのアルバート湖 こ に流 なが れ込 こ む[4] 。アルバート湖 こ には、他 た にウガンダ南西 なんせい 部 ぶ のジョージ湖 みずうみ からカジンガ水路 すいろ と、エドワード湖 こ を通 とお って流 なが れてきたセムリキ川 がわ も注 そそ いでいる。
アルバート湖 みずうみ から下流 かりゅう はアルバートナイル とも呼 よ ばれる。南 みなみ スーダン に入 はい り、急流 きゅうりゅう を1つ越 こ えると首都 しゅと ジュバ である。ジュバから下流 かりゅう 側 がわ は勾配 こうばい が非常 ひじょう に緩 ゆる やかであり、少 すこ し北 きた のモンガラ市 し 周辺 しゅうへん からはスッド の影響 えいきょう を受 う ける。支流 しりゅう のバハル・エル=ガザル川 がわ (Bahr el Ghazal )とはノ湖 みずうみ で合流 ごうりゅう し、そこから下流 かりゅう は、白 しろ ナイル川 がわ と呼 よ ばれる。この辺 あた りはスッドと呼 よ ばれる大 だい 湿原 しつげん が存在 そんざい し、ここで河川 かせん 水 すい が蒸発 じょうはつ して、白 しろ ナイル川 がわ の流量 りゅうりょう は半分 はんぶん 以下 いか に激減 げきげん する[5] 。帆船 はんせん 時代 じだい にスッドは、複雑 ふくざつ な流 りゅう 路 ろ と、繁茂 はんも する水草 みずくさ のため、南北 なんぼく の河川 かせん を利用 りよう した交通 こうつう を阻 はば む障壁 しょうへき だったが、蒸気 じょうき 船 せん の登場 とうじょう 以後 いご は航路 こうろ が設定 せってい されるようになった。
スッドの出口 でぐち である南 みなみ スーダンのマラカル市 し の南 みなみ でソバト川 がわ を合 あ わせる。マラカルから、スーダン の首都 しゅと のハルツーム までの800 kmの標高 ひょうこう 差 さ は、12 mに過 す ぎず、非常 ひじょう に緩 ゆる やかな流 なが れである[6] 。白 しろ ナイル川 がわ はハルツームで、エチオピア のタナ湖 みずうみ から流 なが れてくる青 あお ナイル川 がわ と合流 ごうりゅう する。ここから先 さき が狭義 きょうぎ のナイル川 がわ である。
ハルツームを過 す ぎて80 kmほどで、ナイル川 がわ には再 ふたた び急流 きゅうりゅう が出現 しゅつげん する。これは北 きた から数 かぞ えて6番目 ばんめ の急流 きゅうりゅう (ナイル川 がわ 急湍 きゅうたん (英語 えいご 版 ばん ) 〈きゅうたん〉)であり、第 だい 6急湍 きゅうたん と呼 よ ばれる。ここからエジプト のアスワン までの間 あいだ にある6つの急流 きゅうりゅう は、エジプトとスーダンの間 あいだ の舟運 しゅううん を拒 こば み、交通 こうつう の障害 しょうがい であった。しかし、この急流 きゅうりゅう の区間 くかん は古 ふる くからエジプトの影響 えいきょう を受 う け、ヌビア と呼 よ ばれて独自 どくじ の古代 こだい 王国 おうこく を築 きず いていた。第 だい 6急湍 きゅうたん の北 きた 、200 kmほどの所 ところ には、古代 こだい のクシュ王国 おうこく の都 と であったメロエ (Meroë )が形成 けいせい された。さらにその北 きた 、ハルツームから約 やく 300 km下流 かりゅう のアトバラ で、支流 しりゅう のアトバラ川 がわ と合流 ごうりゅう する。
これより下流 かりゅう 側 がわ は完全 かんぜん な砂漠 さばく 気候 きこう であり、ナイル河谷 こうだに を除 のぞ いて居住 きょじゅう 者 しゃ は、ほとんどいない。また、これ以北 いほく ではナイル川 がわ に注 つ ぎ込 こ む常時 じょうじ 水流 すいりゅう の見 み られる支流 しりゅう は存在 そんざい せず、降水 こうすい 時 じ にのみ水 みず の流 なが れる涸 か れ川 かわ が点在 てんざい するのみである。例 たと えばミルク・ワディ や、黄 き ナイル川 がわ の異名 いみょう を持 も つWadi Howar などである。第 だい 4急湍 きゅうたん 付近 ふきん には、メロエ以前 いぜん にクシュの首都 しゅと であったナパタ(ゲベル・バルカル )が形成 けいせい された。この付近 ふきん には2009年 ねん にメロウェダム (Merowe Dam )が完成 かんせい し、大 だい 規模 きぼ な水力 すいりょく 発電 はつでん を開始 かいし した。
エジプトに入 はい ると、アスワン・ハイ・ダム とそれによって出来 でき たナセル湖 こ がある。ナセル湖 こ の長 なが さは550 kmに及 およ び、その南端 なんたん はスーダン最 さい 北 きた の町 まち ワジハルファ を越 こ えさらに南 みなみ まで延 の びている。アスワン以北 いほく は古 ふる くからの「エジプト」であり、幅 はば 5 kmほどのナイル河谷 こうだに に、居住 きょじゅう 者 しゃ が集中 しゅうちゅう している。アスワンからカイロまでは上 うえ エジプト と呼 よ ばれる。この区間 くかん でナイル川 がわ は、ほぼ1本 ほん の河川 かせん だが、北西 ほくせい へと流 なが れる支流 しりゅう もあり、カイロ南西 なんせい にファイユーム ・オアシスを作 つく ってカルーン湖 こ に注 つ ぎ込 こ む。それからさらに北 きた へ流 なが れ、カイロ から北 きた は三角州 さんかくす が発達 はったつ している。ナイル川 がわ 三角州 さんかくす は下 しも エジプト とも呼 よ ばれる。三角州 さんかくす はアレクサンドリア からポートサイド まで約 やく 240 kmの幅 はば を持 も ち、東 ひがし のロゼッタ支流 しりゅう と西 にし のダミエッタ支流 しりゅう という2本 ほん の主流 しゅりゅう と、多 おお くの分流 ぶんりゅう に別 わか れ、地中海 ちちゅうかい に注 そそ いでいる。
最 さい 上流 じょうりゅう のルスモ滝 たき 付近 ふきん で合流 ごうりゅう するルブブ川 がわ とカゲラ川 がわ 。
タナ湖 こ より流 なが れ出 だ す青 あお ナイル川 がわ 。
世界 せかい 主要 しゅよう 河川 かせん の比較 ひかく
アマゾン川 あまぞんがわ
ナイル川 がわ
ミシシッピ川 がわ
長江 ながえ
ヴォルガ川 がわ
コンゴ川 がわ
長 なが さ (km)
6,516
6,650
3,779
6,300
3,700
4,700
流域 りゅういき 面積 めんせき (100万 まん km2 )
7.05
2.9
3.2
1.8
1.3
3.7
平均 へいきん 流量 りゅうりょう (1000m3 /s.)
297
2-3
18
21
8
39
上流 じょうりゅう のアルバート湖 みずうみ 付近 ふきん のアルバート・ナイル川 がわ の流量 りゅうりょう は約 やく 1048 (m3 /秒 びょう )であり、年間 ねんかん を通 つう じて大 おお きな変化 へんか は無 な い。しかし、ナイル川 がわ は下流 かりゅう へ向 む かうにつれて、つまり北 きた へ向 む かうにつれて、乾燥 かんそう した気候 きこう の地域 ちいき へと入 はい ってゆく。南 みなみ スーダンのスッドと呼 よ ばれる沼沢 しょうたく 地 ち においては蒸 ふけ 発散 はっさん により、約 やく 510 (m3 /秒 びょう )にまで流量 りゅうりょう が減少 げんしょう する。つまり、ここで河川 かせん 水 すい の半分 はんぶん 以上 いじょう が失 うしな われている。スッドの出口 でぐち に形成 けいせい された都市 とし のマラカル付近 ふきん でソバト川 がわ と合流 ごうりゅう する。ソバト川 がわ は温帯 おんたい 夏 なつ 雨 う 気候 きこう のエチオピア高原 こうげん に源流 げんりゅう を持 も つため、増水 ぞうすい 期 き の3月 がつ には約 やく 680 (m3 /秒 びょう )であり、渇水 かっすい 期 き の8月 がつ には約 やく 99 (m3 /秒 びょう )と、流量 りゅうりょう が大 おお きく変動 へんどう する。増水 ぞうすい 期 き には浮遊 ふゆう 物 ぶつ が多 おお く、これがナイル川 がわ に流 なが れ込 こ み、白 しろ ナイルの語源 ごげん である。ソバト川 がわ の影響 えいきょう により、合流 ごうりゅう 点 てん 付近 ふきん の白 しろ ナイル川 がわ の流量 りゅうりょう も約 やく 609 (m3 /秒 びょう )から約 やく 1218 (m3 /秒 びょう )の範囲 はんい で変化 へんか する。
その後 ご 、ハルツームで青 あお ナイル川 がわ と合流 ごうりゅう し、ここから先 さき が狭義 きょうぎ のナイル川 がわ である。ナイル川 がわ はアトバラで、アトバラ川 がわ と合流 ごうりゅう する。アトバラより下流 かりゅう では、砂漠 さばく 気候 きこう の中 なか を流 なが れ、大 だい 規模 きぼ な河川 かせん の合流 ごうりゅう は無 な い。この地方 ちほう のナイル川 がわ は、乾燥 かんそう 地帯 ちたい を流下 りゅうか するために蒸 ふけ 発散 はっさん による影響 えいきょう を大 おお きく受 う ける。1月から6月 がつ にかけての乾季 かんき の間 あいだ 、青 あお ナイル川 がわ の流量 りゅうりょう は約 やく 113 (m3 /秒 びょう )であり、ナイル川 がわ の流量 りゅうりょう のうち、白 しろ ナイル川 がわ から供給 きょうきゅう される水 みず が7割 わり から9割 わり を占 し める。
なお、アトバラ川 がわ は雨季 うき 以外 いがい ほとんど流量 りゅうりょう は無 な い。アトバラ川 かわ も青 あお ナイル川 がわ もエチオピア高原 こうげん に源流 げんりゅう を持 も つため、高原 こうげん の雨季 うき には両 りょう 河川 かせん の流量 りゅうりょう は大幅 おおはば に増大 ぞうだい する。特 とく に青 あお ナイル川 がわ の流量 りゅうりょう 増大 ぞうだい は非常 ひじょう に大幅 おおはば で、8月 がつ の青 あお ナイル川 がわ 流量 りゅうりょう は約 やく 5600 (m3 /秒 びょう )以上 いじょう に達 たっ し、この時期 じき はナイル川 がわ の流量 りゅうりょう の8割 わり から9割 わり を青 あお ナイル川 がわ から供給 きょうきゅう される水 みず が占 し める。また、特 とく に青 あお ナイルは標高 ひょうこう 約 やく 1800 mのタナ湖 みずうみ から短 みじか い距離 きょり の間 あいだ に急激 きゅうげき に高度 こうど を下 さ げるため、河床 かしょう を侵食 しんしょく して土砂 どしゃ を運搬 うんぱん し、大量 たいりょう の堆積 たいせき 物 ぶつ を下流 かりゅう にもたらす。この土 ど は肥沃 ひよく であり、この土 ど が氾濫 はんらん 時 じ に堆積 たいせき していたエジプトにおいて、昔 むかし は農作物 のうさくもつ の豊作 ほうさく をもたらしていた。
しかし、それはアスワン・ハイ・ダム が建設 けんせつ されて終 お わりを迎 むか えた[注釈 ちゅうしゃく 1] 。アスワン・ハイ・ダム建設 けんせつ 以前 いぜん のアスワン における流量 りゅうりょう 比 ひ は、渇水 かっすい 期 き と増水 ぞうすい 期 き で15倍 ばい に達 たっ していた。それが1970年 ねん のアスワン・ハイ・ダム竣工 しゅんこう 後 ご も、電力 でんりょく 需要 じゅよう に合 あ わせたアスワン・ハイ・ダムでの水力 すいりょく 発電 はつでん などのために人工 じんこう 的 てき な流量 りゅうりょう 変化 へんか は起 お きるものの、その下流 かりゅう 側 がわ のアスワン・ロウ・ダムが調整 ちょうせい ダム としての役割 やくわり を果 は たすため、アスワン・ロウ・ダムより下流 かりゅう のエジプトにおいて、年間 ねんかん の流量 りゅうりょう 変化 へんか はほとんど無 な くなり、年間 ねんかん 通 つう じて同 おな じ水量 すいりょう が流 なが れている。この結果 けっか 、アスワン・ロウ・ダムより下流 かりゅう 側 がわ では氾濫 はんらん しなくなったものの、上流 じょうりゅう から供給 きょうきゅう されてきた肥沃 ひよく な土 ど は農地 のうち に堆積 たいせき しなくなって農業 のうぎょう に影響 えいきょう を与 あた えた[注釈 ちゅうしゃく 2] 。また、巨大 きょだい なナセル湖 こ の出現 しゅつげん によって、ここから蒸発 じょうはつ するナイル川 がわ の水 みず の影響 えいきょう などで、周辺 しゅうへん の気候 きこう が変 か わった。さらに、ビルハルツ住 じゅう 血 ち 吸虫 の問題 もんだい もある。
現在 げんざい のナイル川 がわ の流 りゅう 路 ろ は、エチオピア高原 こうげん が隆起 りゅうき してきた白 はく 亜紀 あき 以降 いこう に形成 けいせい されたと考 かんが えられている。中新 ちゅうしん 世 よ 以降 いこう 、その状況 じょうきょう は5つの時期 じき に分類 ぶんるい される。中新 ちゅうしん 世 よ の頃 ころ の流 りゅう 路 ろ は古 こ ナイル (Eonile )と呼 よ ばれ、侵食 しんしょく 系 けい であった。その頃 ころ は地中海 ちちゅうかい の海 うみ 盆 ぼん は干上 ひあ がっており、この盆地 ぼんち に向 む けて峡谷 きょうこく が形成 けいせい されたと考 かんが えられている。古 こ ナイルによって形成 けいせい された峡谷 きょうこく は、その後 ご に埋 うめ 積 せき され、現在 げんざい ではそれらの領域 りょういき の一部 いちぶ にガス田 た が見 み られる。現在 げんざい のナイル川 がわ の流 りゅう 路 ろ になったのは、更新 こうしん 世 よ 末期 まっき である[7] 。
1万 まん 2500年 ねん 前 まえ には最終 さいしゅう 氷 ごおり 期 き の終 お わった影響 えいきょう によって、それまで閉鎖 へいさ 湖 みずうみ であったヴィクトリア湖 こ の水位 すいい が急激 きゅうげき に上昇 じょうしょう し、湖水 こすい が北 きた のナイル川 がわ 水系 すいけい へとあふれ出 だ した[8] 。
この時 とき に、ヴィクトリア湖 こ は現在 げんざい のナイル川 がわ 水系 すいけい に接続 せつぞく された。
ナイル川 がわ を指 さ すヒエログリフ 。発音 はつおん は Iteru である。
メロエのピラミッド群 ぐん を、上空 じょうくう から撮影 さつえい した写真 しゃしん 。
紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき 頃 ころ に作成 さくせい された、アナクシマンドロス による世界 せかい 地図 ちず の再現 さいげん 図 ず 。
紀元前 きげんぜん 450年 ねん 頃 ころ に作成 さくせい された、ヘロドトス による世界 せかい 地図 ちず の再現 さいげん 図 ず 。
ナイル川 がわ 流域 りゅういき 、特 とく に下流 かりゅう のエジプトは、世界 せかい で最 もっと も古 ふる い文明 ぶんめい の興 おこ った土地 とち として知 し られている。エジプト語 ご では「大 おお きな川 かわ 」という意味 いみ の Iteru と呼 よ ばれた。紀元前 きげんぜん 3800年 ねん 頃 ごろ には既 すで に古代 こだい エジプト文明 ぶんめい が成立 せいりつ しており、紀元前 きげんぜん 3150年 ねん 頃 ごろ には統一 とういつ 国家 こっか を形成 けいせい してエジプト古 こ 王国 おうこく が成立 せいりつ し、以後 いご も肥沃 ひよく なナイル川 がわ 流域 りゅういき を基盤 きばん として独自 どくじ の文明 ぶんめい を築 きず いた。その南 みなみ の地域 ちいき であるヌビア においても、エジプト文明 ぶんめい の影響 えいきょう を受 う けて王国 おうこく が形成 けいせい され、紀元前 きげんぜん 2200年 ねん 頃 ころ にはクシュ王国 おうこく が建国 けんこく された。クシュはエジプト新 しん 王国 おうこく のトトメス1世 せい によって滅 ほろ ぼされたものの、紀元前 きげんぜん 900年 ねん 頃 ころ に、ナイル第 だい 4急湍 きゅうたん の傍 かたわ らに形成 けいせい された都市 とし であるナパタ(ゲベル・バルカル )において再興 さいこう し、紀元前 きげんぜん 747年 ねん には逆 ぎゃく に第 だい 3中 ちゅう 間 あいだ 期 き のエジプトに攻 せ め込 こ んでエジプト第 だい 25王朝 おうちょう を建設 けんせつ した。その50年 ねん 後 ご にアッシリア のアッシュールバニパル に敗 やぶ れて第 だい 25王朝 おうちょう はエジプト支配 しはい を失 うしな ったが、ナパタの王朝 おうちょう はそのまま存続 そんぞく し、紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき 頃 ころ に南 みなみ のメロエ へ遷都 せんと 後 ご も長 なが く栄 さか えた。メロエは鉄鉱 てっこう 石 せき と樹木 じゅもく が豊富 ほうふ であり、盛 さか んに製鉄 せいてつ が行 おこな われた。
やがて下流 かりゅう のエジプトはペルシア帝国 ていこく に支配 しはい され、アレクサンドロス帝国 ていこく に支配 しはい された後 のち 、ギリシア系 けい のプトレマイオス朝 あさ の元 もと で独立 どくりつ を回復 かいふく した。しかし紀元前 きげんぜん 30年 ねん のクレオパトラ7世 せい の時代 じだい に、アクティウムの海戦 かいせん によってロ ろ ーマ帝国 まていこく に支配 しはい され独立 どくりつ を失 うしな い、皇帝 こうてい 直轄 ちょっかつ 地 ち のアエギュプトゥス となった。
一方 いっぽう でヌビアの独立 どくりつ は、この時代 じだい も保 たも たれた。メロエの王国 おうこく が滅 ほろ ぼされたのは350年 ねん 頃 ごろ で、エチオピア北部 ほくぶ を本拠 ほんきょ とするアクスム王国 おうこく によってとされているが、異説 いせつ もある。メロエ滅亡 めつぼう 後 ご 、ヌビアは北 きた のノバティア、ドンゴラを首都 しゅと とする中部 ちゅうぶ のマクリア、ハルツーム周辺 しゅうへん を本拠 ほんきょ とする南 みなみ のアロディアの3王国 おうこく に分 わ かれた。
395年 ねん にはロ ろ ーマ帝国 まていこく は東西 とうざい に分裂 ぶんれつ し、エジプトは東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう となった。4世紀 せいき から5世紀 せいき にかけてはエジプトでもヌビアでもキリスト教 きりすときょう が受 う け入 い れられたが、639年 ねん のイスラム帝国 ていこく の侵攻 しんこう によってエジプトは征服 せいふく され、以後 いご イスラム化 か した。なお、その後 ご もヌビア地域 ちいき ではキリスト教 きりすときょう 王国 おうこく が長 なが く命脈 めいみゃく を保 たも ったものの、北 きた のイスラム勢力 せいりょく からの圧 あつ 力 りょく によって徐々 じょじょ に弱体 じゃくたい 化 か し、最後 さいご まで残 のこ ったアロディアも14世紀 せいき 頃 ころ には滅亡 めつぼう して、イスラム教徒 きょうと によるフンジ王国 おうこく (英語 えいご 版 ばん ) などが建国 けんこく された。19世紀 せいき に入 はい るとエジプトでオスマン帝国 ていこく から半 はん 独立 どくりつ の王朝 おうちょう を作 つく り上 あ げたムハンマド・アリー がヌビアへと侵攻 しんこう し、フンジ王国 おうこく を滅 ほろ ぼし、さらにその南 みなみ に居住 きょじゅう するヌエル人 じん やディンカ人 じん やシルック人 じん を征服 せいふく して、現在 げんざい のスーダンの版図 はんと に至 いた る中 なか 流域 りゅういき をエジプトの支配 しはい 下 か に組 く み入 い れた。イスマーイール・パシャ の時代 じだい にはさらに南下 なんか して、1869年 ねん にはスーダン南端 なんたん のゴンドコロ(現在 げんざい のジュバ )まで侵攻 しんこう して支配 しはい 下 か にして赤道 あかみち 州 しゅう を設置 せっち し、1874年 ねん にはチャールズ・ゴードンを初代 しょだい 総督 そうとく に任命 にんめい してウガンダ方面 ほうめん への進出 しんしゅつ を図 はか った。
上 うえ 流域 りゅういき においては難所 なんしょ や急流 きゅうりゅう によって中 ちゅう 下 か 流域 りゅういき とは断絶 だんぜつ され、ほとんど互 たが いに無関係 むかんけい な歴史 れきし を歩 あゆ んだ。15世紀 せいき 頃 ごろ にはヴィクトリア湖畔 こはん に領域 りょういき 国家 こっか が出現 しゅつげん し、19世紀 せいき に入 はい ってモンバサ などのインド洋 いんどよう 沿岸 えんがん のスワヒリ文化 ぶんか 圏 けん からのキャラバン・ルートが上 うえ 流域 りゅういき に到達 とうたつ して、ブニョロ王国 おうこく やブガンダ王国 おうこく などが、インド洋 いんどよう で営 いとな まれていたアラブ人 じん による交易 こうえき 圏 けん と遠距離 えんきょり 交易 こうえき を行 おこな いながら繁栄 はんえい した。
ナイル川 がわ 源流 げんりゅう が一体 いったい どこなのかを探 さぐ る調査 ちょうさ は、古代 こだい より行 おこな われていた。しかし、スッドの沼沢 しょうたく 地 ち など、ナイル川上 かわかみ の航路 こうろ の難所 なんしょ を越 こ えられず、源流 げんりゅう は長 なが らく不明 ふめい のままであった。古代 こだい の地理 ちり 学者 がくしゃ もナイルの源 みなもと については知 し らず、推測 すいそく によって地図 ちず を描 えが くしかなかった。紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき のヘロドトスは、ナイル川 がわ は西 にし アフリカから東進 とうしん した後 のち に北上 ほくじょう してエジプトに流 なが れ込 こ んでいるのだろうと考 かんが えていた。1世紀 せいき にはギリシアのディオゲネス という船乗 ふなの りが、インド洋 いんどよう 交易 こうえき の帰途 きと に東 ひがし アフリカの海岸 かいがん から内陸 ないりく 部 ぶ に入 はい り込 こ み、25日間 にちかん にわたってナイルの源流 げんりゅう を求 もと めて奥地 おくち へ旅 たび をしたとされる。彼 かれ の報告 ほうこく に基 もと づき、2世紀 せいき の地理 ちり 学者 がくしゃ のクラウディオス・プトレマイオス は、「月 つき の山脈 さんみゃく 」とその麓 ふもと の2つの湖 みずうみ がナイル川 がわ の水源 すいげん であると考 かんが えた。
アラブ人 じん もナイル川 がわ の源流 げんりゅう の場所 ばしょ は知 し らず、1355年 ねん に出版 しゅっぱん されたイブン・バットゥータの著書 ちょしょ 『諸 しょ 都市 とし の新奇 しんき さと旅 たび の驚異 きょうい に関 かん する観察 かんさつ 者 しゃ たちへの贈 おく り物 もの 』でも、ニジェール川 がわ を「ナイル」と記 しる し、ニジェール川 がわ はナイル川 がわ の支流 しりゅう だと考 かんが えていた記載 きさい が残 のこ る[9] 。
16世紀 せいき 頃 ころ からエチオピアとヨーロッパとの交流 こうりゅう が始 はじ まった結果 けっか 、青 あお ナイル周辺 しゅうへん の地理 ちり は判明 はんめい し始 はじ め、1615年 ねん にはポルトガルのイエズス会 かい の修道 しゅうどう 士 し であったペドロ・パエス (英語 えいご 版 ばん ) がタナ湖 みずうみ を発見 はっけん した。1770年 ねん にはスコットランド人 じん の探検 たんけん 家 か のジェームズ・ブルース が探検 たんけん を行 おこな い、彼 かれ によって青 あお ナイル川 がわ の源流 げんりゅう がタナ湖 みずうみ であるとヨーロッパ人 じん にも知 し られるようになった。
しかし、白 しろ ナイル川 がわ の源流 げんりゅう については不明 ふめい のままであった。
19世紀 せいき 初頭 しょとう には北 きた のエジプトの総督 そうとく がスーダン進出 しんしゅつ と同時 どうじ にナイル川 がわ の源流 げんりゅう 探査 たんさ を行 おこな い、1842年 ねん にはゴンドコロまで達 たっ したものの、その南 みなみ までは進 すす めなかった。19世紀 せいき 中盤 ちゅうばん に入 はい るとヨーロッパ人 じん のアフリカ探検 たんけん が盛 さか ん行 おこな われ、ナイル源流 げんりゅう の探索 たんさく も、その主要 しゅよう なテーマの1つであった。1858年 ねん にイギリス人 じん の探検 たんけん 家 か のジョン・ハニング・スピーク が、ヴィクトリア湖 こ を発見 はっけん した。彼 かれ はリチャード・フランシス・バートン と共同 きょうどう でナイル川 がわ の水源 すいげん を探 さが す探検 たんけん を行 おこな い、まず2人 ふたり でタンガニーカ湖 こ を発見 はっけん した。その後 ご 、体調 たいちょう 不良 ふりょう でタンガニーカ湖畔 こはん に残 のこ ったバートンを置 お いてスピークは探検 たんけん を進 すす め、1858年 ねん 8月 がつ 3日 にち に、ムワンザでヴィクトリア湖 みずうみ を「発見 はっけん 」した。この湖 みずうみ をナイル川 がわ の水源 すいげん だと信 しん じたスピークは、時 とき のイギリス女王 じょおう ヴィクトリア の名 な を取 と り「ヴィクトリア湖 こ 」と命名 めいめい した。しかし、スピークの探検 たんけん では、ヴィクトリア湖 こ がナイル川 がわ の水源 すいげん だとは確認 かくにん できなかったため、タンガニーカ湖 こ がナイル川 がわ の源流 げんりゅう だと考 かんが えたバートンと、ヴィクトリア湖 こ がナイルの源流 げんりゅう だと考 かんが えたスピークによる大 だい 論争 ろんそう が勃発 ぼっぱつ した[10] 。この論争 ろんそう に決着 けっちゃく を付 つ けるべく、スピークは1860年 ねん 9月 がつ よりジェームズ・オーガスタス・グラントと一緒 いっしょ にザンジバルを出発 しゅっぱつ して再 ふたた び探検 たんけん を行 おこな い、1862年 ねん 7月 がつ 28日 にち に、ヴィクトリア湖 こ 北岸 ほくがん のジンジャから大 おお きな川 かわ が北 きた へと流 なが れ出 だ していると確認 かくにん した[11] 。スピークはこの流出 りゅうしゅつ 地点 ちてん にある滝 たき をリポン滝 たき (英語 えいご 版 ばん ) と命名 めいめい し、これで謎 なぞ は解明 かいめい されたと考 かんが えて帰路 きろ に着 つ いた。ただ、この探検 たんけん でも謎 なぞ は残 のこ ったままで、論争 ろんそう はさらに続 つづ いた。1864年 ねん 9月 がつ には両者 りょうしゃ の討論 とうろん 会 かい が予定 よてい されていたが、その前日 ぜんじつ にスピークは銃 じゅう の暴発 ぼうはつ 事故 じこ で死亡 しぼう した。この死 し には不明 ふめい な部分 ぶぶん が多 おお く、さらに論争 ろんそう の一方 いっぽう の当事 とうじ 者 しゃ が死去 しきょ してしまったため、ナイル源流 げんりゅう 論争 ろんそう はさらに混乱 こんらん した。その上 うえ 、サミュエル・ベーカーとフローレンス・ベーカーのベーカー夫妻 ふさい が1864年 ねん 3月14日 にち にアルバート湖 こ を発見 はっけん し、1866年 ねん にその結果 けっか を発表 はっぴょう したため、混乱 こんらん は頂点 ちょうてん に達 たっ した。
これらの論争 ろんそう を受 う けて、デイヴィッド・リヴィングストン がこの地域 ちいき を探検 たんけん した。彼 かれ はベーカーよりもさらに南 みなみ のルアラバ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) と、その源流 げんりゅう のザンビア 領内 りょうない のバングウェウル湖 こ がナイルの源流 げんりゅう であろうと考 かんが え、探査 たんさ を行 おこな った。この探検 たんけん の途中 とちゅう でリヴィングストンはヨーロッパとの連絡 れんらく が一時 いちじ 途絶 とだ え、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の新聞 しんぶん 社 しゃ が派遣 はけん したヘンリー・モートン・スタンリー と、ウジジ の村 むら で邂逅 かいこう するなど困難 こんなん を重 かさ ねたが、源流 げんりゅう の確定 かくてい には至 いた らず客死 かくし した。その跡 あと を継 つ いだヘンリー・モートン・スタンリー は1875年 ねん に、リポン滝 たき を確認 かくにん した後 のち で湖 みずうみ を周遊 しゅうゆう し、これによってヴィクトリア湖 みずうみ がナイル川 がわ の源流 げんりゅう であると確定 かくてい された[12] 。
ただ、その後 ご も、ヴィクトリア湖 こ に流 なが れ込 こ む川 かわ の探検 たんけん が続 つづ けられ、カゲラ川 がわ やその支流 しりゅう のルヴィロンザ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) などが、ナイルの源流 げんりゅう とされるようになってきた。
しかし、真 しん の源流 げんりゅう の探索 たんさく は21世紀 せいき に入 はい っても依然 いぜん として続 つづ けられており、2006年 ねん にもブラジルとニュージーランドの探検 たんけん 家 か が新 あたら しい源流 げんりゅう を発見 はっけん した。
ナイル川 がわ の源流 げんりゅう がほぼ確定 かくてい されると、イギリスなどのヨーロッパ列強 れっきょう が、この地域 ちいき に手 て を伸 の ばし始 はじ めた。特 とく に最下 さいか 流 りゅう のエジプトに強力 きょうりょく な利害 りがい を持 も つイギリス が熱心 ねっしん であった。もしナイル上流 じょうりゅう が他 た の列強 れっきょう によって支配 しはい された場合 ばあい 、ナイルの水 みず に頼 たよ っているエジプトが甚大 じんだい な被害 ひがい を被 こうむ る可能 かのう 性 せい があったからである。こうした中 なか 、エジプトの圧政 あっせい に耐 た えかねた人々 ひとびと の中 なか からムスリムのシャイフ であるムハンマド・アフマドが、1881年 ねん にマフディー戦争 せんそう を起 お こした。1882年 ねん にエジプトを保護 ほご 国 こく 化 か したイギリスはチャールズ・ゴードン を派遣 はけん したものの、1885年 ねん にはハルツームが陥落 かんらく し、ゴードンも殺害 さつがい されて、マフディー国家 こっか は、ほぼ現在 げんざい のスーダンの領域 りょういき まで領土 りょうど を拡大 かくだい させ、イギリスは一時 いちじ スーダンからの撤退 てったい を余儀 よぎ なくされた。
しかし、その南 みなみ 、当時 とうじ はエジプト最南端 さいなんたん であった赤道 あかみち 州 しゅう には総督 そうとく のエミン・パシャ (英語 えいご 版 ばん ) が残留 ざんりゅう し、孤立 こりつ しながらも何 なに とか独立 どくりつ を保 たも っていた。このエミン・パシャの扱 あつか いが、その後 ご 、イギリスとドイツ の間 あいだ で争点 そうてん になった。エミン・パシャは本名 ほんみょう をシュニッツァーというドイツ人 じん であり、彼 かれ を救出 きゅうしゅつ すると称 しょう して、イギリスとドイツがそれぞれ軍 ぐん を派遣 はけん したのである。この救出 きゅうしゅつ 作戦 さくせん はヘンリー・モートン・スタンリー 率 ひき いたイギリス隊 たい が成功 せいこう させ、1889年 ねん にエミン・パシャは「救出 きゅうしゅつ 」されて赤道 あかみち 州 しゅう 政府 せいふ は滅亡 めつぼう した。これに対 たい して出遅 でおく れたドイツ隊 たい は、ブガンダ王国 おうこく と友好 ゆうこう 条約 じょうやく を締結 ていけつ したりして、この地域 ちいき に進出 しんしゅつ を図 はか ったが、結局 けっきょく 1890年 ねん 8月 がつ 10日 とおか に、ヘルゴランド=ザンジバル条約 じょうやく により南緯 なんい 1度 ど 線 せん に両国 りょうこく の境界 きょうかい 線 せん が引 ひ かれ、ナイル上 じょう 流域 りゅういき は全域 ぜんいき がイギリスの勢力 せいりょく 範囲 はんい に置 お かれた。この条約 じょうやく に基 もと づいて、ナイル最 さい 上流 じょうりゅう 部 ぶ のヴィクトリア湖 みずうみ 周辺 しゅうへん にもイギリスの触手 しょくしゅ が伸 の びた。イギリスは、ブガンダ王国 おうこく やブニョロ王国 おうこく 、トロ王国 おうこく 、アンコーレ王国 おうこく といった国々 くにぐに と条約 じょうやく を締結 ていけつ し、1894年 ねん にはウガンダ保護 ほご 領 りょう が成立 せいりつ した[13] 。
この頃 ころ に、アフリカ最南端 さいなんたん のケープ植民 しょくみん 地 ち の首相 しゅしょう に就任 しゅうにん したセシル・ローズ は、カイロ からケープタウン までのケープ・カイロ鉄道 てつどう の敷設 ふせつ と、電信 でんしん 網 あみ の構築 こうちく を、イギリスの政策 せいさく として実施 じっし するよう提唱 ていしょう した。これを受 う けて、アフリカをイギリス植民 しょくみん 地 ち で南北 なんぼく に縦断 じゅうだん させるアフリカ縦断 じゅうだん 政策 せいさく が、3C政策 せいさく の一環 いっかん としてイギリス政府 せいふ によって採 と られていった。これに伴 ともな い、再 ふたた びナイル川 がわ 流域 りゅういき にイギリスの目 め が向 む けられた。1898年 ねん にイギリスは再 ふたた びスーダンに侵攻 しんこう し、同年 どうねん のオムドゥルマンの戦 たたか い によってホレイショ・キッチナー の指揮 しき の元 もと で、マフディー国家 こっか を事実 じじつ 上 じょう 滅亡 めつぼう させた。
一方 いっぽう 、この頃 ころ にフランスは、アフリカ大陸 たいりく 最 さい 西端 せいたん のダカール からサヘル 地帯 ちたい を次々 つぎつぎ と植民 しょくみん 地 ち 化 か し、フランス植民 しょくみん 地 ち によるアフリカ横断 おうだん (アフリカ横断 おうだん 政策 せいさく )を狙 ねら っていた。
このイギリスとフランスの政策 せいさく は、オムドゥルマンの戦 たたか いから1週間 しゅうかん 後 ご に、スーダン中央 ちゅうおう 部 ぶ (現在 げんざい の南 みなみ スーダン北部 ほくぶ )の白 しろ ナイル川 がわ 沿 ぞ いの都市 とし 、ファショダ にて衝突 しょうとつ した。フランス領 りょう 赤道 せきどう アフリカ 首府 しゅふ のブラザヴィル から出発 しゅっぱつ したジャン・バティスト・マルシャン将軍 しょうぐん の軍 ぐん が、2年間 ねんかん かけてファショダに到達 とうたつ し、マフディー国家 こっか 消滅 しょうめつ の混乱 こんらん を突 つ いてファショダを占領 せんりょう したのである。これはファショダ事件 じけん と呼 よ ばれる[注釈 ちゅうしゃく 3] 。キッチナーの軍 ぐん はファショダに急行 きゅうこう して両 りょう 軍 ぐん は対峙 たいじ したものの、フランスが譲歩 じょうほ して撤退 てったい し、ナイル川 がわ 流域 りゅういき のイギリスの覇権 はけん は、これで確立 かくりつ された。この1898年 ねん には、イギリスとエジプトの共同 きょうどう 統治 とうち 領 りょう の英 えい 埃 ほこり 領 りょう スーダン が成立 せいりつ し、こうして、マフディー国家 こっか は滅亡 めつぼう し、ナイル川 がわ の流域 りゅういき のほとんどはイギリスによって一体 いったい 的 てき に統治 とうち された。
その後 ご 、1922年 ねん にエジプトが、1956年 ねん にスーダンが、1962年 ねん にウガンダがイギリスから独立 どくりつ し、この地域 ちいき は全域 ぜんいき が植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい から脱却 だっきゃく した。しかし、ウガンダやスーダンにおいては内乱 ないらん や紛争 ふんそう が絶 た えず、特 とく にスーダンにおいては北部 ほくぶ に住 す むアラブ人 じん のイスラム教徒 きょうと と、南部 なんぶ に住 す む黒人 こくじん 系 けい のキリスト教徒 きりすときょうと との紛争 ふんそう が激化 げきか して、1955年 ねん から1972年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ スーダン内戦 ないせん 、1983年 ねん から2005年 ねん にかけての第 だい 二 に 次 じ スーダン内戦 ないせん が起 お きた。これにより、この地域 ちいき の産業 さんぎょう は衰退 すいたい し、開発 かいはつ も遅 おく れ、多 おお くの死傷 ししょう 者 しゃ が出 で た。結局 けっきょく 、2005年 ねん の和平 わへい 合意 ごうい に基 もと づいて、2011年 ねん に南部 なんぶ スーダン独立 どくりつ 住民 じゅうみん 投票 とうひょう が実施 じっし され、圧倒的 あっとうてき 多数 たすう の支持 しじ を受 う けて、2011年 ねん に南 みなみ スーダン共和 きょうわ 国 こく がスーダンから分離 ぶんり 独立 どくりつ した。
ローダ島 とう に設置 せっち されたナイロメーター。これでナイル川 がわ の水位 すいい を計測 けいそく していた。
ナイル川 がわ の流域 りゅういき の肥沃 ひよく な土壌 どじょう は、世界 せかい 四 よん 大 だい 文明 ぶんめい の1つに数 かぞ えられるエジプト文明 ぶんめい を育 はぐく んだ。古代 こだい ギリシア の歴史 れきし 家 か ・ヘロドトス は「エジプトはナイル川 がわ の賜物 たまもの 」という言葉 ことば を、彼 かれ の著書 ちょしょ 『歴史 れきし 』に記 しる した。ナイル川 がわ は7月 がつ 中旬 ちゅうじゅん に、季節風 きせつふう の影響 えいきょう を受 う けて、エチオピア高原 こうげん に見 み られる温帯 おんたい 夏 なつ 雨 う 気候 きこう の影響 えいきょう で、氾濫 はんらん を起 お こしてきた。この氾濫 はんらん の際 さい に、上流 じょうりゅう より肥沃 ひよく な土壌 どじょう を、ナイル川 がわ の河畔 かはん にもたらしていた。しかも、水位 すいい の上下 じょうげ は起 お きても、鉄砲水 てっぽうみず のような急激 きゅうげき な水位 すいい 上昇 じょうしょう は発生 はっせい せず、毎年 まいとし 決 き まった時期 じき に穏 おだ やかに増水 ぞうすい が起 お こった。砂漠 さばく 気候 きこう で少雨 しょうう であるエジプトにおいて、この洪水 こうずい は文明 ぶんめい の屋台骨 やたいぼね とも言 い える要素 ようそ の1つであった。この洪水 こうずい の時期 じき を知 し るために世界 せかい 最古 さいこ の暦 こよみ ともいわれるシリウス暦 れき が作 つく られた。また、洪水 こうずい の収束 しゅうそく 後 ご に農地 のうち を元通 もとどお り配分 はいぶん するため、測量 そくりょう 技術 ぎじゅつ と幾何 きか 学 がく が発達 はったつ した。
古代 こだい エジプト崩壊 ほうかい 後 ご も、エジプトの歴代 れきだい の統治 とうち 者 しゃ はナイルを重視 じゅうし し続 つづ けた。ナイルの水位 すいい を知 し るための水位 すいい 計 けい であるナイロメーター が各地 かくち に設置 せっち された。例 たと えば、カイロのローダ島 とう には716年 ねん に、ナイロメーターが建設 けんせつ された[14] 。さらに、アスワンのエレファンティネ島 とう などに現在 げんざい でも数 すう 基 き が残存 ざんそん している[15] 。
アスワン・ハイ・ダム
19世紀 せいき に入 はい り、産業 さんぎょう 革命 かくめい により、綿布 めんぷ の生産 せいさん 効率 こうりつ が飛躍 ひやく 的 てき に向上 こうじょう し、原料 げんりょう としての綿花 めんか 栽培 さいばい が盛 さか んになっていった。
従来 じゅうらい の浅 あさ い水路 すいろ を掘 ほ って、洪水 こうずい 時 じ の水 みず を貯水 ちょすい していた、ベイスン灌漑 かんがい 方式 ほうしき に代 か わり、夏 なつ 運河 うんが と呼 よ ばれる通年 つうねん 灌漑 かんがい 用 よう の深 ふか い水路 すいろ が掘 ほ られ、通年 つうねん での耕作 こうさく を可能 かのう にした[16] 。夏 なつ 運河 うんが からは水車 みずぐるま などを用 もち いて水 みず を汲 く み上 あ げ、農地 のうち へと水 みず を供給 きょうきゅう した。これによってエジプトにおいて洪水 こうずい は農耕 のうこう に不可欠 ふかけつ ではなくなり、逆 ぎゃく に洪水 こうずい を起 お こさないようコントロールする必要 ひつよう に迫 せま られた。そこで水害 すいがい を防 ふせ ぐためにアスワン・ロウ・ダム が建設 けんせつ され、1902年 ねん に竣工 しゅんこう した。これによって治水 ちすい 能力 のうりょく は大幅 おおはば に向上 こうじょう したものの、ダムの堤 つつみ の嵩上 かさあ げを幾 いく 度 ど か実施 じっし して、最終 さいしゅう 的 てき に堤 つつみ の高 たか さは元々 もともと のナイル川 がわ の河床 かしょう から36 mの高 たか さにされた[17] 。しかし、それでも、完全 かんぜん に洪水 こうずい を無 な くすには至 いた らなかった。そこで1952年 ねん にエジプト革命 かくめい によって政権 せいけん を握 にぎ ったガマール・アブドゥル=ナーセル 大統領 だいとうりょう は、アスワン・ハイ・ダム 計画 けいかく を推進 すいしん し、1970年 ねん に完成 かんせい させた[18] 。アスワン・ハイ・ダムの竣工 しゅんこう によるナセル湖 こ の出現 しゅつげん と、その調整 ちょうせい ダムとしてアスワン・ロウ・ダムが機能 きのう するようになった結果 けっか 、これより下流 かりゅう 側 がわ でのナイル川 がわ の洪水 こうずい を完全 かんぜん に防 ふせ げるようになり、これまで洪水 こうずい 期 き には使用 しよう できなかった広大 こうだい な農地 のうち が使用 しよう 可能 かのう となった。さらに、新 あら たな農地 のうち の大 だい 規模 きぼ な開発 かいはつ も進 すす められ、例 たと えば、ナセル湖 みずうみ からワーディー・ゲディード県 けん などへの送水 そうすい によって、2250 km2 の農地 のうち 開発 かいはつ を目的 もくてき としたトシュカ・プロジェクトが1998年 ねん に着工 ちゃっこう され、2003年 ねん に完成 かんせい した[19] 。
また、2つのアスラン・ダムでの水力 すいりょく 発電 はつでん 量 りょう は、当時 とうじ のエジプトの発電 はつでん 量 りょう の半分 はんぶん 近 ちか くにも及 およ んだ。さらに、ナセル湖 こ の出現 しゅつげん によって、この湖 みずうみ では漁業 ぎょぎょう も盛 さか んとなった[20] 。
一方 いっぽう でアスワン・ハイ・ダムの建設 けんせつ に伴 ともな い、アブ・シンベル神殿 しんでん やヌビア遺跡 いせき などの貴重 きちょう な古代 こだい エジプトの文化 ぶんか 遺産 いさん がダム湖 みずうみ に沈 しず む為 ため 、遺跡 いせき の高台 たかだい への移設 いせつ を余儀 よぎ なくさせた[20] 。また、ナイル川 がわ が上流 じょうりゅう から運 はこ んで来 く る肥沃 ひよく な土壌 どじょう が、アスワン・ハイ・ダムより下流 かりゅう 側 がわ の農地 のうち には届 とど かなくなったため、肥料 ひりょう の大量 たいりょう 投入 とうにゅう によって地力 じりき を維持 いじ せざるを得 え ない状況 じょうきょう に変化 へんか した。逆 ぎゃく に、このような肥沃 ひよく な土壌 どじょう が流 なが れ込 こ んで溜 た まるナセル湖 こ は富 とみ 栄養 えいよう 化 か し、2005年 ねん の時点 じてん でも、緑藻類 りょくそうるい が大 だい 繁殖 はんしょく して湖水 こすい は濃 こ い緑色 みどりいろ の状態 じょうたい が常 つね であった[20] [注釈 ちゅうしゃく 4] 。さらに、現在 げんざい 、上流 じょうりゅう からの土砂 どしゃ の供給 きょうきゅう が減少 げんしょう した結果 けっか に伴 ともな う河岸 かわぎし 侵食 しんしょく や[20] 、ナイル川 がわ 下流 したる 地域 ちいき では灌漑 かんがい による地下水 ちかすい 位 い の上昇 じょうしょう に伴 ともな う塩害 えんがい の発生 はっせい などに悩 なや まされており、エジプト政府 せいふ は、これらの対策 たいさく を迫 せま られている。
なお、エジプトのアブドルファッターフ・アッ=シーシー 大統領 だいとうりょう は、アシュート での水力 すいりょく 発電 はつでん 所 しょ ・灌漑 かんがい 整備 せいび など、ナイル川 がわ の開発 かいはつ に500億 おく エジプト・ポンド 以上 いじょう を投 とう じる計画 けいかく に着手 ちゃくしゅ した。これは政権 せいけん への支持 しじ 獲得 かくとく と同時 どうじ に、失業 しつぎょう 者 しゃ が過激 かげき 派 は に参加 さんか しないようにする狙 ねら いがある[21] 。
メロウェダム
また、スーダンにおいても、1920年代 ねんだい から開始 かいし されたゲジラ計画 けいかく や、1966年 ねん のロセイレス・ダム (英語 えいご 版 ばん ) などの建設 けんせつ によって、水 みず 利用 りよう と開発 かいはつ が進 すす んだ[22] 。特 とく にゲジラ計画 けいかく は、青 あお ナイル川 がわ のセンナール・ダム (英語 えいご 版 ばん ) から大 だい 規模 きぼ な幹線 かんせん 水路 すいろ を引 ひ き、肥沃 ひよく なハルツーム南 みなみ のジャジーラ州 しゅう の灌漑 かんがい を目指 めざ した。白 しろ ナイル川 がわ の水系 すいけい にも1937年 ねん にジェベル・アウリア・ダム (英語 えいご 版 ばん ) を建設 けんせつ して水 みず を引 ひ き、最終 さいしゅう 的 てき には灌漑 かんがい 水路 すいろ の総 そう 延長 えんちょう は4300 km、灌漑 かんがい エリアは8800 km2 に及 およ ぶ大 だい 規模 きぼ な開発 かいはつ であった。この完成 かんせい によってスーダンは、1930年代 ねんだい に世界 せかい 有数 ゆうすう の綿花 めんか の生産 せいさん 国 こく になった[23] 。それと同時 どうじ に、コムギ などの収穫 しゅうかく 量 りょう も向上 こうじょう して「アフリカのパン籠 かご 」と呼 よ ばれるまでになった。
しかしながら、1956年 ねん にスーダンがイギリスから独立 どくりつ した後 のち は、内戦 ないせん が頻発 ひんぱつ し、産業 さんぎょう は衰退 すいたい していった。
それでも、ナイル川 がわ の開発 かいはつ は続 つづ けられ、1970年代 ねんだい 後半 こうはん にはスッドにてナイル川 がわ の水量 すいりょう を増 ま すためのジョングレイ運河 うんが の建設 けんせつ が進 すす められた。ただ、結局 けっきょく は内戦 ないせん による政情 せいじょう 不安 ふあん によって、この計画 けいかく は放棄 ほうき された。1989年 ねん にクーデターで実権 じっけん を握 にぎ ったオマル・アル=バシール 大統領 だいとうりょう は、2009年 ねん に白 しろ ナイル川 がわ と青 あお ナイル川 がわ の合流 ごうりゅう した先 さき 、ハルツームの北 きた にメロウェダム を建設 けんせつ した。ただ、こちらもアスワン・ハイ・ダムと同様 どうよう に、考古 こうこ 学者 がくしゃ から貴重 きちょう な古代 こだい クシュ王国 おうこく の文化 ぶんか 遺産 いさん への影響 えいきょう を懸念 けねん する声 こえ も出 で た[24] [25] 。
ナイル川 がわ の水 みず は周辺 しゅうへん 諸国 しょこく にとって貴重 きちょう であり、激 はげ しい争奪 そうだつ 戦 せん の的 まと となってきた。特 とく にエジプトは国土 こくど 全域 ぜんいき でほとんど降雨 こうう が無 な く、エジプト南部 なんぶ では5年間 ねんかん 連続 れんぞく で一切 いっさい 降雨 こうう が観測 かんそく されなかった地点 ちてん も記録 きろく されたほどである[26] 。このようなエジプトにおける1996年 ねん 時点 じてん での外国 がいこく からの流入 りゅうにゅう 地表 ちひょう 水 すい への依存 いぞん 率 りつ は、97パーセントにも達 たっ する[27] 。エジプトに流入 りゅうにゅう する河川 かせん はナイル川 がわ しか存在 そんざい しないため、この依存 いぞん 率 りつ はそのままナイル川 がわ への依存 いぞん 率 りつ であり、ナイルの水 みず 無 な しでは、エジプトが存立 そんりつ し得 え ないことが示 しめ されている。
このことは昔 むかし から知 し られており、1929年 ねん にはエジプトとイギリスとの間 あいだ で[注釈 ちゅうしゃく 5] 、水利 すいり 協定 きょうてい [注釈 ちゅうしゃく 6] が結 むす ばれた。この協定 きょうてい において、両国 りょうこく 間 あいだ の水 みず 配分 はいぶん が決定 けってい され、エジプトは自 みずか らの水 みず の利用 りよう に影響 えいきょう する上流 じょうりゅう での河川 かせん 開発 かいはつ 事業 じぎょう において、拒否 きょひ 権 けん を保持 ほじ すると定 さだ められた。
さらに1959年 ねん にはスーダンとエジプトの間 あいだ に新 あら たな水利 すいり 協定 きょうてい [注釈 ちゅうしゃく 7] が結 むす ばれ、ナイルの年間 ねんかん 水量 すいりょう 840億 おく トンのうち、蒸発 じょうはつ 分 ぶん 100億 おく トンを除 のぞ いた、555億 おく トンがエジプトの利用 りよう 分 ぶん 、185億 おく トンがスーダン利用 りよう 分 ぶん と決定 けってい された[1] 。
しかし、この配分 はいぶん や既得 きとく 権 けん はエジプトにとって非常 ひじょう に有利 ゆうり であるため、特 とく に上 うえ 流域 りゅういき 諸国 しょこく において不満 ふまん が高 たか まっていた。そこで1999年 ねん 2月 がつ にナイル川 がわ 流域 りゅういき イニシアティブ(Nile Basin Initiative 、NBI)が流域 りゅういき 9カ国 かこく によって結成 けっせい され、ナイル川 がわ の総合 そうごう 開発 かいはつ や水 みず 資源 しげん の配分 はいぶん について、総合 そうごう 的 てき に話 はな し合 あ う場 ば が形成 けいせい された。ただ、それでも上 うえ 流域 りゅういき 諸国 しょこく の不満 ふまん は強 つよ く、2010年 ねん 5月には「ナイル流域 りゅういき 協力 きょうりょく 枠組 わくぐ み協定 きょうてい 」という新 しん 協定 きょうてい が提案 ていあん された。これは他国 たこく に影響 えいきょう を与 あた えない範囲 はんい で自国 じこく 内 ない の水 みず 資源 しげん を自由 じゆう に使 つか えるようにするための協定 きょうてい で、上 うえ 流域 りゅういき 諸国 しょこく の広 ひろ い支持 しじ を得 え たものの、下流 かりゅう に当 あ たるエジプトとスーダンは水 みず の割当 わりあて 量 りょう 減 げん につながるとしてこれを拒否 きょひ した。一方 いっぽう で上 うえ 流域 りゅういき のエチオピア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニアは、この協定 きょうてい に署名 しょめい を行 おこな い、さらにナイル川 がわ の水量 すいりょう を上流 じょうりゅう で最 もっと も支 ささ えているエチオピアはグランド・エチオピア・ルネサンス・ダム の建設 けんせつ を推 お し進 すす め、両 りょう 陣営 じんえい 間 あいだ の対立 たいりつ が表面 ひょうめん 化 か した[28] 。
カイロ市内 しない のナイル川 がわ 。
ナイル川 がわ の流 りゅう 路 ろ の概要 がいよう 。2本 ほん の赤 あか い線 せん が交 まじ わる場所 ばしょ がハルツームで、ここで西 にし から合流 ごうりゅう してくるのが白 しろ ナイル川 がわ 、東 ひがし から合流 ごうりゅう してくるのが青 あお ナイル川 がわ で、ここより下流 かりゅう 側 がわ が狭義 きょうぎ のナイル川 がわ である。
ナイル川 がわ 、特 とく に白 しろ ナイル川 がわ は全般 ぜんぱん 的 てき に勾配 こうばい は緩 ゆる やかなものの、何 なん か所 しょ か急流 きゅうりゅう や滝 たき が存在 そんざい するため、河川 かせん 全域 ぜんいき を通 つう じての通航 つうこう は不可能 ふかのう である。しかしその部分 ぶぶん を除 のぞ けば、船舶 せんぱく の航行 こうこう は可能 かのう であり、河口 かこう からアスワンの第 だい 1急湍 きゅうたん までの間 あいだ は、古来 こらい より交通 こうつう 路 ろ として非常 ひじょう に重要 じゅうよう な地位 ちい を占 し めてきた。古代 こだい エジプト文明 ぶんめい の時代 じだい より、エジプト人 じん はナイル河畔 かはん に居住 きょじゅう していた。特 とく に第 だい 1急湍 きゅうたん までの間 あいだ は河川 かせん 交通 こうつう によって密接 みっせつ に結 むす ばれており、河口 かこう からここまでが「エジプト」として認識 にんしき されていた部分 ぶぶん であった。
その後 ご 、エジプト文明 ぶんめい が強力 きょうりょく になるにつれて、その影響 えいきょう 力 りょく は徐々 じょじょ に上流 じょうりゅう 側 がわ の急流 きゅうりゅう の場所 ばしょ にまで伸 の びていった。エジプト中 ちゅう 王国 おうこく 期 き のエジプト第 だい 12王朝 おうちょう 時代 じだい には、第 だい 2急湍 きゅうたん のすぐ下流 かりゅう にまでエジプトの南限 なんげん が達 たっ した[29] 。急流 きゅうりゅう 部分 ぶぶん には町 まち が作 つく られ、交通 こうつう の結節 けっせつ 点 てん として機能 きのう した。こうしてナイル川 がわ を河川 かせん 交通 こうつう 路 ろ として利用 りよう したことにより、エジプト文明 ぶんめい の影響 えいきょう 力 りょく は最盛 さいせい 期 き には現在 げんざい のエチオピアなど上流 じょうりゅう 部 ぶ にまで及 およ んでいた。また、冬季 とうき においては季節風 きせつふう を利用 りよう して、帆掛舟 ほかけぶね により、川 かわ の遡行 そこう が可能 かのう であり、これも利用 りよう された。現在 げんざい でも、ファルーカ と呼 よ ばれる帆船 はんせん が、交通 こうつう 手段 しゅだん として利用 りよう されており、観光 かんこう 船 せん の運航 うんこう も行 おこな われている。
アスワンの南 みなみ の第 だい 1急湍 きゅうたん にはアスワンハイダムが建設 けんせつ され、できたナセル湖 こ にはアスワンとスーダン最 さい 北 きた の街 まち ワジハルファ の間 あいだ に定期 ていき 船 せん が就航 しゅうこう している。ナセル湖 こ にはアブ・シンベル神殿 しんでん などの観光 かんこう 遊覧 ゆうらん 船 せん も就航 しゅうこう し、多 おお くの観光 かんこう 客 きゃく を集 あつ めている。
スーダンにおいても、ナイル川 がわ の河川 かせん 交通 こうつう は重要 じゅうよう である。白 しろ ナイル州 しゅう の南部 なんぶ にあるコスティ市 し から南 みなみ スーダン の首都 しゅと ジュバ に至 いた る1436 kmの水路 すいろ は、道路 どうろ 交通 こうつう の発達 はったつ していないこの地域 ちいき においては、重要 じゅうよう な交通 こうつう 路 ろ である[30] 。この間 あいだ には、ナイル川 がわ の河川 かせん 交通 こうつう の難所 なんしょ として知 し られていた、南 みなみ スーダンのスッド湿地 しっち がある。この区間 くかん には多目的 たもくてき 利用 りよう のジョングレイ運河 うんが (英語 えいご 版 ばん ) 建設 けんせつ 計画 けいかく があったものの、生態 せいたい 系 けい への影響 えいきょう や、スッドを通 とお り抜 ぬ ける風 ふう が湿度 しつど を失 うしな ってスーダン北部 ほくぶ の砂漠 さばく 化 か の進行 しんこう が加速 かそく する懸念 けねん 、流域 りゅういき の政情 せいじょう 不安 ふあん などから、計画 けいかく は1985年 ねん 以来 いらい 、凍結 とうけつ されたままである。
ウガンダにおいては、過去 かこ に蒸気 じょうき 船 せん 航路 こうろ が開設 かいせつ された時期 じき もあったものの、現在 げんざい では定期 ていき 航路 こうろ は開設 かいせつ されていない。
太字 ふとじ は最 さい 長流 ちょうりゅう 路上 ろじょう の河川 かせん である。斜体 しゃたい は涸 か れ川 かわ であり、普段 ふだん は表 おもて 流水 りゅうすい が無 な い。下流 かりゅう 側 がわ より記載 きさい している。
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