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軍事貴族 - Wikipedia

軍事ぐんじ貴族きぞく(ぐんじきぞく)は、日本にっぽん平安へいあん時代じだい初期しょきごろより成立せいりつしていった軍事ぐんじせんもん貴族きぞく公家くげ堂上どうじょう殿上人てんじょうびと)・地下ちか地下ちかじん出身しゅっしんかんじんのことをいう。武家ぶけ貴族きぞくともばれ、成立せいりつ武家ぶけ武士ぶし)の母体ぼたいとなった。ためけんりゅう藤原ふじわらみなみじんりゅうしゅうきょうりゅう勧修寺かんしゅうじりゅう上杉うえすぎ藤原ふじわらきたくに香流かなれ桓武かんむたいら清和せいわはじめ広元ひろもとりゅう大江おおえ嵯峨さがはじめ渡辺わたなべ瓜生うりゅう赤田あかだ宇多うたはじめ佐々木ささき多々良たたらせい大内おおうち日下部くさかべせい[1]朝倉あさくら大蔵おおくらせい諸氏しょし中原なかはらせい諸氏しょしおもんみそうせい諸氏しょしなどが代表だいひょうてき軍事ぐんじ貴族きぞくである。

概念がいねん提起ていき

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軍事ぐんじ貴族きぞく概念がいねんは、戸田とだかおるによる軍制ぐんせい研究けんきゅうによってひろまったとされている。

この概念がいねん登場とうじょうした背景はいけいとして、1970年代ねんだい以降いこう王朝おうちょう国家こっかろんめぐ議論ぎろんなかで、在地ざいち農民のうみんそうから武士ぶしまれて公家くげ荘園しょうえん支配しはい打倒だとうしていったとする、それまでの解釈かいしゃくへの批判ひはんつよまったことがげられている。

こうした古代こだい中世ちゅうせい研究けんきゅうふかまりとともに、農民のうみんではなく公家くげ武家ぶけ起源きげんもとめる見方みかたまれ、両者りょうしゃつな概念がいねんとして提起ていきされたのが、軍事ぐんじ貴族きぞくである[2]

律令りつりょう国家こっか建設けんせつされる以前いぜん古墳こふん時代じだい飛鳥あすか時代ときよにおいても、軍事ぐんじ主務しゅむとする豪族ごうぞく存在そんざいした。当時とうじヤマト政権せいけんうちにおいて特定とくてい職務しょくむ担当たんとうする同族どうぞく集団しゅうだん、すなわちウヂ存在そんざいしており、そのなか軍事ぐんじ担当たんとうするウヂに物部ものべ大伴おおともきの平群へぐりなどがあった。

しかし、7世紀せいき後期こうき形成けいせいしていった律令制りつりょうせいは、官僚かんりょうせい原則げんそくとしており、ある氏族しぞく特定とくてい官職かんしょく世襲せしゅうすることを否定ひていした。律令りつりょうもとづいて各地かくち軍団ぐんだん設置せっちされると、物部ものべ大伴おおとも両氏りょうしわって軍団ぐんだん軍事ぐんじになうこととなった。

その軍団ぐんだん8世紀せいきすえから9世紀せいきにかけて廃止はいしされ、軍事ぐんじ動員どういん必要ひつようとするときは、国衙こくがから太政官だじょうかん上申じょうしんし、太政官だじょうかんから「はつへいみことのり」をうえで、国衙こくが国内こくない各戸かっこからへい徴発ちょうはつしたり健児けんじ動員どういんするという方式ほうしき対応たいおうしていた。常置じょうち国家こっか正規せいきぐん存在そんざいしておらず、必要ひつようのあるときのみ、臨時りんじ正規せいきぐん編成へんせいされる仕組しくみとなっていた。

9世紀せいきすえごろになると、百姓ひゃくしょうらのにせせき浮浪ふろう逃亡とうぼう顕著けんちょとなり、軍事ぐんじ動員どういん対象たいしょうとなるべき百姓ひゃくしょう各戸かっこごとに把握はあくすることが困難こんなんとなった。さらに、東国とうごくにおいて群盗ぐんとう横行おうこう常態じょうたいするようになっていた。

軍事ぐんじ貴族きぞく成立せいりつ

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寛平かんぺい延喜えんぎ年間ねんかん9世紀せいき末期まっきから10世紀せいき初期しょき)になると、坂東ばんどうにおいて、中央ちゅうおうすすむおさめするかんぶつ強奪ごうだつするといった「群盗ぐんとう蜂起ほうき」が頻発ひんぱつした(僦馬のとう寛平かんぺい延喜えんぎ東国とうごくらん)。朝廷ちょうていはこれに対処たいしょするため、受領じゅりょう現地げんち国司こくし最高さいこうしゃ)に広範こうはん軍事ぐんじじょう裁量さいりょうけんみとめる制度せいど改革かいかくおこなった。具体ぐたいてきには、たんへい動員どういん許可きょかする「はつへいみことのり」にわって群盗ぐんとう積極せっきょくてき鎮圧ちんあつしようとする「ついかん」を発出はっしゅつするとともに、くに単位たんい押領使つい使つかい任命にんめいして、国内こくない武勇ぶゆうしゃ国衙こくが・押領使つい使つかい指揮しきはいることを義務ぎむづけたのである。この軍制ぐんせい改革かいかくは、地方ちほう権限けんげん移譲いじょうするという意味いみで、まさに当時とうじそのいとぐちについていた王朝おうちょう国家こっか体制たいせいへの転換てんかん改革かいかくいつにするものだった。

この時期じき群盗ぐんとう追討ついとうせたのが、藤原ふじわらためけん藤原ふじわらとしひとし藤原ふじわらしげるきょう平高望たいらのたかもちくに父子ふし源経基みなもとのつねもと臣籍しんせき降下こうか下向げこうした下級かきゅう貴族きぞくかんじん)である。かれらがこうした軍事ぐんじりょく発揮はっき出来でき背景はいけいには、かれらの父祖ふそ世代せだい受領じゅりょうにんぜられたさい狩猟しゅりょう文化ぶんか背景はいけい俘囚ふしゅう武芸ぶげいまなんでおり、それを基礎きそとした新式しんしき武芸ぶげいしていたとするせつした向井むかい龍彦たつひこ)がとなえられている。かれらは国司こくしや押領使として勲功くんこうげるとともに、赴任ふにんした地方ちほう土着どちゃくして国衙こくがから公田くでん経営けいえい公認こうにんされるなど、みずからの軍事ぐんじりょく維持いじ出来できるだけの経済けいざい基盤きばんきずいた。しかし朝廷ちょうていかれらにたいする処遇しょぐうかならずしもかれらが期待きたいしたほどではなく、かれらのあいだには次第しだい不満ふまん蓄積ちくせきしていった。940ねんてんけい3ねん前後ぜんこう発生はっせいしたうけたまわひらてんけいらんは、このような不満ふまん実体じったいであった。このらん叛乱はんらんがわ追討ついとうがわのいずれも、延喜えんぎ勲功くんこうげたものたちの子孫しそんであった。

うけたまわひらてんけいらん鎮圧ちんあつ追討ついとう勲功くんこうのあったもの、すなわちうけたまわひらてんけい勲功くんこうしゃ大半たいはんは、公家くげ血統けっとうぞくするとはいっても、きわめてひく官位かんいにあるなか下級かきゅうかんじんであった。しかし朝廷ちょうていはこのときかれらのあいだ不満ふまんらん原因げんいんになったとの認識にんしきのもと、かれらをろくといった受領じゅりょうきゅうなか下流かりゅう公家くげ昇進しょうしんさせた。この結果けっか、10世紀せいき後半こうはん公家くげ社会しゃかいにおいて、うけたまわひらてんけいらん勲功くんこうしゃとその子孫しそんたちは軍事ぐんじとくした家系かけい、すなわちへいいえ(つわもののいえ)として認知にんちされるようになった。

軍事ぐんじ貴族きぞくないし武家ぶけ母体ぼたいとなったのは、こうしたへいいえものたちであったというのが、現在げんざいもっと有力ゆうりょく学説がくせつである。ただし、かれらの子孫しそんすべてが軍事ぐんじ貴族きぞく武士ぶし成長せいちょうしたわけではない。当時とうじはまだ家業かぎょう継承けいしょう固定こてい成立せいりつしておらず、へいいえとしての認知にんちはいまだ流動的りゅうどうてきでもあった。

11世紀せいきはいると、ある家系かけい特定とくてい官職かんしょく世襲せしゅうする「家業かぎょう継承けいしょう」またはかん請負うけおいせい公家くげ社会しゃかいない次第しだい確立かくりつされていった。こうしたながれのなかで、へいいえなかから軍事ぐんじせんもんとして従事じゅうじする家系かけい固定こていしていった。かれらのおおくはろくどまりのさむらい身分みぶん技能ぎのうかんじんであったが、上層じょうそうものしょ大夫たいふ身分みぶん一角いっかくめてよん階級かいきゅうまで昇進しょうしんして、受領じゅりょうきゅう官職かんしょく任命にんめいされるようになった。これが軍事ぐんじ貴族きぞく成立せいりつである[3]

軍事ぐんじ貴族きぞく態様たいよう

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軍事ぐんじ貴族きぞくなかでも、高位こういよんじょされたのは、ためけんりゅう藤原ふじわらみなみじんりゅうしゅうきょうりゅう藤原ふじわらきた清和せいわはじめくに香流かなれ桓武かんむたいらかぎられていた。うちせいよんまでのぼったのは、清和せいわはじめの6めい桓武かんむたいらの2めいのみである。当初とうしょ源頼光みなもとのよりみつ源頼信みなもとのよりのぶをはじめとして清和せいわはじめ相次あいついでせいよんじょされ、清和せいわはじめ武家ぶけ棟梁とうりょうとして認識にんしきされていたが、源義家みなもとのよしいえみなもと義親よしちかだい失脚しっきゃくすると、わって平忠盛たいらのただもりせいよんのぼった。これは武家ぶけ棟梁とうりょう清和せいわはじめから桓武かんむたいらうつったことのあらわれだとかんがえられている。

軍事ぐんじ貴族きぞく官職かんしょく

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軍事ぐんじ貴族きぞくは、当然とうぜんながら軍事ぐんじめん朝廷ちょうてい貢献こうけんすることがもとめられた。かれらは滝口たきぐち北面ほくめん武士ぶし)をつとめたのち宮中きゅうちゅう警護けいごにあたる蔵人くろうどきょうちゅう警察けいさつである検非違使けびいしなどの武官ぶかんにんじられた。武官ぶかんとしての功績こうせきんだのちは、しょ大夫たいふ階層かいそう技能ぎのうかんじんそうぞくするなか下級かきゅう貴族きぞく家業かぎょう功績こうせきんだのと同様どうように、受領じゅりょうとして諸国しょこく赴任ふにんするれいおおかった。当時とうじ太政官だじょうかんから発給はっきゅうされた「ついかん」を根拠こんきょに、国司こくし国内こくない武士ぶし軍事ぐんじりょくとして編成へんせいし、「きょうとう」のついたるという国衙こくが軍制ぐんせい成立せいりつしており、軍事ぐんじ貴族きぞくの「武家ぶけ」としての職能しょくのうはこの国衙こくが軍制ぐんせいなかじゅうふん発揮はっきされたのである。

国衙こくが軍制ぐんせいにおいて国司こくしは、つぎかかげるものを「武士ぶし」として名簿めいぼ(「武士ぶし交名」という)に登録とうろくした。それは、うけたまわひらてんけい勲功くんこうしゃ子孫しそんさむらい身分みぶん技能ぎのうかんじんいえ認知にんちされ、武芸ぶげい家業かぎょうとしている郡司ぐんじ富豪ふごう百姓ひゃくしょうまけめいらである。いざきょうとうおいさいには、国司こくし武士ぶし交名をもとにこれらのもの軍事ぐんじりょくとして編成へんせいしていた。軍事ぐんじ貴族きぞくは、うけたまわひらてんけいより継続けいぞくてき在地ざいち郡司ぐんじ富豪ふごう百姓ひゃくしょうまけめいそうとの関係かんけい構築こうちくしていたため、国内こくない軍事ぐんじりょく編成へんせいかんしては、通常つうじょう受領じゅりょうよりも格段かくだん有利ゆうりであった。またかれらは受領じゅりょうとして地方ちほう赴任ふにんしたさいには、在地ざいち有力ゆうりょくしゃたちとの関係かんけいさらふかめるのが通例つうれいであった。こうして軍事ぐんじ貴族きぞく在地ざいち豪族ごうぞくとのあいだには、主従しゅうじゅう関係かんけい徐々じょじょきずかれていった。ただし、当時とうじすでに強固きょうこ主従しゅうじゅう関係かんけいられたわけではなく、流動的りゅうどうてき側面そくめん主従しゅうじゅう関係かんけいだったことに注意ちゅういする必要ひつようがある。

軍事ぐんじ貴族きぞくたちはこのようにして受領じゅりょうつとめたのちふたたべつくに受領じゅりょうとなったり、あるいは衛門えもんじょう刑部おさかべすすむなどの武官ぶかんてき官職かんしょく補任ほにんされることがおおかった。

いん宮王みやおうしんとの関係かんけい

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軍事ぐんじ貴族きぞく技能ぎのうかんじんそうなか下級かきゅう公家くげ同様どうよう摂関せっかんなど有力ゆうりょく公家くげいえてんきみいんとして、私的してき奉仕ほうしするという側面そくめんっていた。清和せいわはじめ源満仲みなもとのみつなか以来いらい藤原ふじわらきた摂関せっかん)のいえとして代々だいだいつかえ、同家どうけによる排斥はいせきさいには藤原ふじわらきたいえとして積極せっきょくてき関与かんよした。また清和せいわはじめ摂関せっかん私兵しへいとしてつかまつ伺したり摂関せっかん多大ただい成功せいこう(じょうごう)をおこなうなど、摂関せっかん権勢けんせい維持いじおおきな役割やくわりたした。

一方いっぽうくにさだもりりゅう桓武かんむたいら藤原ふじわらきたきゅうじょうりゅうさだもりおとうと繁盛はんじょう藤原ふじわらさだもり維衡藤原ふじわら道長みちながなど)以外いがいにも藤原ふじわらあらわこう藤原ふじわらみのるいえとしてつかえたが、清和せいわはじめくらべるとおくれをとっていた。

摂関せっかんへの貢献こうけんによって清和せいわはじめ優遇ゆうぐうされるようになり、源頼光みなもとのよりみつみなもとよりゆきおや兄弟きょうだい源頼義みなもとのよりよし源義家みなもとのよしいえ父子ふしせいよんという軍事ぐんじ貴族きぞく最高さいこう相次あいついでじょせられ、武家ぶけ棟梁とうりょうというべき立場たちばるにいたった。ここで注意ちゅういしなくてはならないことは、清和せいわはじめ武家ぶけ棟梁とうりょうという地位ちいたのは、その武勇ぶゆうによってというよりも、摂関せっかんへの奉仕ほうしという中央ちゅうおう公家くげ内部ないぶ事情じじょう起因きいんするというてんである。軍事ぐんじ貴族きぞくたしかに在地ざいち有力ゆうりょくしゃとの主従しゅうじゅう関係かんけい構築こうちくすすめてきてはいたが、その存立そんりつ基盤きばんはやはり中央ちゅうおう政界せいかいにあったのである。

白河しらかわいんによる院政いんせいはじまると、平忠盛たいらのただもりいん近臣きんしん郎党ろうとうとなって白河しらかわいん接近せっきんしてゆく。いんとなり、せいよんじょせられて軍事ぐんじ貴族きぞく最高さいこうしゃ、すなわち武家ぶけ棟梁とうりょうとして台頭たいとうしていった。武家ぶけ棟梁とうりょう地位ちいみなもとからたいら移動いどうした背景はいけいには、中央ちゅうおう政界せいかい中心ちゅうしん摂関せっかんから院政いんせいてんきみ移動いどうしたという事情じじょうがある(みなもと摂関せっかん権威けんい背景はいけいに、平家ひらかいん権威けんい背景はいけい台頭たいとうしたことによる)。これは、武家ぶけ棟梁とうりょう地位ちい、ひいては軍事ぐんじ貴族きぞく地位ちい中央ちゅうおう政界せいかい動向どうこう制約せいやくされていたことの証左しょうさとされている。

解消かいしょう

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12世紀せいき中期ちゅうきもとらん平治へいじらんは、朝廷ちょうてい内部ないぶ政争せいそう軍事ぐんじ衝突しょうとつによって解決かいけつされた画期的かっきてき事件じけんである。これを契機けいきとして、軍事ぐんじ貴族きぞく最高さいこうしゃである平清盛たいらのきよもりとその一族いちぞくは、宿敵しゅくてき源義朝みなもとのよしともたおして、朝廷ちょうてい内部ないぶ台頭たいとうしていった。清盛きよもりは、1160ねんにそれまでの軍事ぐんじ貴族きぞくきえなかったせいさん参議さんぎになると、1167ねんには太政大臣だじょうだいじんにまでのぼめ、もはや軍事ぐんじ貴族きぞくとしてのわくはるかにえてしまった。 清盛きよもり一族いちぞくはさらに権力けんりょく強化きょうかし、ついにたいら政権せいけん樹立じゅりつした。これは軍政ぐんせいかん派遣はけんするなどのてんで、最初さいしょ武家ぶけ政権せいけんとしての性格せいかくゆうしている。

1180年代ねんだいになると、たいら政権せいけん打倒だとう名目めいもくとした内戦ないせんうけたまわ寿ことぶきひさしらん)がこり、軍事ぐんじ貴族きぞく出自しゅつじし、関東かんとう在地ざいち領主りょうしゅそう武士ぶしそう基盤きばんとするあさであるみなもと頼朝よりとも武家ぶけ政権せいけん後世こうせい鎌倉かまくら幕府ばくふばれる政権せいけん)が最終さいしゅうてき勝利しょうりした。朝廷ちょうていは、頼朝よりとも軍事ぐんじ貴族きぞく最高さいこうしゃとして処遇しょぐうしようとし、けん大納言だいなごん近衛このえ大将たいしょう任官にんかんするも、頼朝よりともはこれをかん関東かんとう武士ぶしそう権力けんりょく基盤きばんとする頼朝よりとも軍事ぐんじ貴族きぞくとしての地位ちい否定ひていし、鎌倉かまくら殿どのというあらたな武家ぶけ棟梁とうりょう地位ちい確立かくりつした。しかし頼朝よりともは9ヶ国かこく[4]知行ちぎょうこくおもであり、まだ軍事ぐんじ貴族きぞくとしての性格せいかくつよっていたが、頼朝よりとも血統けっとう断絶だんぜつにより、軍事ぐんじ貴族きぞくぶべき実態じったい発展はってんてき解消かいしょうされていった。

一方いっぽう頼朝よりとも政権せいけん確立かくりつ大内おおうち惟義これよしみなもとよりゆきしげる藤原ふじわら秀康ひでやすなど一部いちぶ軍事ぐんじ貴族きぞく頼朝よりとも主従しゅうじゅう関係かんけいむすびながらも、従来じゅうらいのようにてんきみである後鳥羽上皇ごとばじょうこうによって検非違使けびいし北面ほくめん武士ぶしにんじられて朝廷ちょうてい京都きょうとちゅう警固けいごにあたるとともに朝廷ちょうてい軍事ぐんじりょく基盤きばんになっていた。だが、かれらのおおくが上皇じょうこうこした承久じょうきゅうらん連座れんざして滅亡めつぼうまれ、姿すがたすことになった[5]

たいら政権せいけん滅亡めつぼうは、在地ざいち農民のうみんそう武士ぶし起源きげんとする見解けんかいからは、たいら武家ぶけとしての本分ほんぶんわすれて公家くげまれてしまったのが原因げんいんとされた。しかし、公家くげ武家ぶけ起源きげんとする見地けんちかられば、むしろたいら軍事ぐんじ貴族きぞくとしての従来じゅうらい立場たちば武家ぶけとしての本分ほんぶん忠実ちゅうじつであったとえる。たいら打倒だとうしたみなもとそくが、軍事ぐんじ貴族きぞくとしての立場たちばより、その軍事ぐんじりょくみなもとである在地ざいち領主りょうしゅそう基盤きばんとする立場たちば移動いどうするという、しん路線ろせんあゆんだのである。

また、南北なんぼくあさ時代じだい初代しょだい美濃みの守護しゅごとなった土岐ときよりゆきさだをはじめ、室町むろまち幕府ばくふひらいて征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなった足利尊氏あしかがたかうじも、広義こうぎてき意味いみ軍事ぐんじ貴族きぞくとなるも、応仁おうにんらんによって足利あしかが将軍家しょうぐんけ軍事ぐんじ貴族きぞく機能きのう喪失そうしつして下剋上げこくじょうむかえ、同時どうじ土岐とき家臣かしん斎藤さいとう道三どうさんくにうばわれたたことから、完全かんぜん軍事ぐんじ貴族きぞく意義いぎ途絶とだえてしまった。

国外こくがい軍事ぐんじ貴族きぞく

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フランスにおいては法服ほうふく貴族きぞくたいして帯剣たいけん貴族きぞく英語えいごばんを、イギリスにおいてはいちだい貴族きぞくたいして世襲せしゅう貴族きぞくとき軍事ぐんじ貴族きぞくばれることがある。また、オスマン帝国ていこくティマール軍事ぐんじ貴族きぞくとされることがおおい。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 日下部くさかべ三嶋みしま大社たいしゃによる関係かんけいせいから伊豆いず北条ほうじょうふくまれるせつもある。
  2. ^ せき幸彦さちひこ東北とうほく争乱そうらん奥州おうしゅう合戦かっせん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2006ねん
  3. ^ たいら源氏げんじ藤原ふじわらなど中央ちゅうおう名門めいもん末流ばつりゅう軍事ぐんじ貴族きぞくしていくこうしたながれのほか地方ちほう土着どちゃく豪族ごうぞく軍事ぐんじ貴族きぞくしたながれもあったのではないかとの指摘してきもあり、それぞれの一族いちぞくなかから鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん輩出はいしゅつしている。
  4. ^ 武蔵むさし相模さがみ上総かずさ下総しもうさ伊豆いず駿河するが信濃しなの越後えちご豊後ぶんご
  5. ^ 木村きむら英一ひでかずろく探題たんだい成立せいりつ公家くげ政権せいけん」『鎌倉かまくら時代じだい公武こうぶ関係かんけいろく探題たんだい』(清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2016ねんISBN 978-4-7924-1037-7はら論文ろんぶん:2002ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 野口のぐちみのる武家ぶけ棟梁とうりょう条件じょうけん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1994ねんISBN 4121012178
  • した向井むかい龍彦たつひこ日本にっぽん歴史れきし07 武士ぶし成長せいちょう院政いんせい講談社こうだんしゃ2001ねんISBN 4062689073

関連かんれん項目こうもく

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