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八島 (能) - Wikipedia

八島やじま (のう)

のう演目えんもく
八島やじま
作者さくしゃ年代ねんだい
世阿弥ぜあみ室町むろまち時代ときよ
形式けいしき
複式ふくしき夢幻むげんのう
のうがら<上演じょうえん分類ぶんるい>
修羅しゅらのう番目ばんめぶつ
現行げんこう上演じょうえん流派りゅうは
観世かんぜ宝生ほうしょう金春こんぱるきむつよし喜多きた
異称いしょう
屋島やしま観世かんぜりゅう
シテ<主人公しゅじんこう>
源義経みなもとのよしつね
そのおもな登場とうじょう人物じんぶつ
たびそう(ワキ)
ぶし
はる
場所ばしょ
讃岐さぬきこく屋島やしま
ほんせつ<典拠てんきょとなる作品さくひん>
平家ひらか物語ものがたり
のう
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八島やじま』(やしま)は、『平家ひらか物語ものがたり』に取材しゅざいしたのう作品さくひん観世かんぜりゅうでは『屋島やしま』。成立せいりつ室町むろまち時代ときよ作者さくしゃ世阿弥ぜあみ複式ふくしき夢幻むげんのう修羅しゅらのう名作めいさくといわれる。『平家ひらか物語ものがたり』のまき11「ゆみながしのこと」などから取材しゅざいされ、屋島やしまたたかにおける源義経みなもとのよしつね主従しゅうじゅう活躍かつやく修羅しゅらどうちた武将ぶしょうくるしみがえがかれている。

概要がいよう

編集へんしゅう

のうのあらすじはつぎのとおりである。からたびそう(ワキ)が、讃岐さぬきこく屋島やしま八島やしま)のうらく。りょうおうぜんシテ)と漁夫ぎょふ(ツレ)が塩屋しおやかえってきたことから、そうは、りょうおきな一夜いちや宿やどりる。りょうおきなは、そうもとめにおうじ、かつての屋島やしまでの源平げんぺい合戦かっせんで、みなもとかたさん保谷ほや四郎しろう平家へいけかたあく七兵衛しちべえけいきよし一騎打いっきうち(錏き)をした様子ようすなどを物語ものがたる。りょうおきなは、義経よしつね亡霊ぼうれいであることをほのめかして、姿すがたす(中入なかいり)。そこに塩屋しおや本当ほんとうあるじ(アイ)がかえってきて、そうに、屋島やしまたたかいの様子ようすあらためて説明せつめいする。そうけていると、義経よしつね亡霊ぼうれいこうシテ)が甲冑かっちゅう姿すがたあらわれる。義経よしつねは、屋島やしまたたかいでなみながされたゆみてきられまいとひろげた「ゆみながし」の逸話いつわかたり、修羅しゅらどうでのないたたかいにくるしむ様子ようす再現さいげんするが、はるよるけると、たたかいはとおくへり、うらかぜおとこえるだけとなった(進行しんこう)。

申楽さるがくだん』にほんきょくへの言及げんきゅうえ、世阿弥ぜあみ作品さくひんかんがえられる(作者さくしゃ沿革えんかく)。

修羅しゅらのう番目ばんめぶつ)のひとつであり、『田村たむら』、『えびら』とともにかち修羅しゅらばれる。完成かんせいされた複式ふくしき夢幻むげんのうであり、『平家ひらか物語ものがたりまき11を典拠てんきょとする「錏き」や「ゆみながし」の合戦かっせんばなしはいしながら、けいめい名誉めいよ)にこだわる義経よしつね心情しんじょうや、「せいにの海山みやま」で妄執もうしゅうくるしむ義経よしつねえがいている(特色とくしょく評価ひょうか)。

進行しんこう

編集へんしゅう

作品さくひん典型てんけいてき複式ふくしき夢幻むげんのう形式けいしきをとり、(1)たびそうワキ)がりょうおうまえシテ)に出会であ前場まえばまえば、(2)りょうおきなえたのちそうがその不思議ふしぎ土地とち住人じゅうにんたずねる間狂言あいきょうげん部分ぶぶん、(3)主人公しゅじんこう義経よしつねこうシテ)が生前せいぜん姿すがたあらわれる後場ごばのちばさん構成こうせいをとる。

そう登場とうじょう

編集へんしゅう

そう(ワキ)が、したがえそう(ワキツレ)とともに登場とうじょうし、たび途中とちゅう讃岐さぬきこく屋島やしま八島やしま)のうらいたことをげる。

ワキ「これはかたみやこがたよりだしでたるそうにてこう、われいまだ四国しこくこうほどに、このたびおも西国さいごくさいこく行脚あんぎゃこころざこう
中略ちゅうりゃく
ワキ「いそこうふほどに、これははや讃岐さぬき国屋くやとううらきてこうにちれてこうへば、これなるしおり、一夜いちやかさばやとおもこう[1]

そうわたしからそうです。わたしはまだ四国しこくたことがありませんので、このたびおもち、西国さいこくへの行脚あんぎゃこころざしたのです。
中略ちゅうりゃく
そういそぎましたので、はやくも讃岐さぬき国屋くやとううらきました。れましたので、ここにある塩屋しおやしおいえ)にり、一夜いちやかしたいとおもいます。

りょうおきな漁夫ぎょふ登場とうじょう

編集へんしゅう
 
能面のうめん朝倉あさくらじょう」。ぜんシテは漁師りょうしであるため、おも朝倉あさくらじょう三光さんこうじょうわらいじょうなど人間にんげんてきじょうめんもちいる[2]

りょうおう(シテ)ときょう漁夫ぎょふ(ツレ)が、りょうえて屋島やしまうらかえってくる。シテのめん朝倉あさくらじょう(またはわらいじょう)、釣竿つりざおかたけた漁師りょうし姿すがたである[1]

シテ「面白おもしろつき海上かいじょうかいしょうかんでは、なみはとうよるやかたり
ツレ「りょうおきなぎょおうよるよる西岸せいがんせいがん沿うて宿しゅく
シテ・ツレ「あかつき湘水をんですわえちくそちくやきくも、いまにられてあしかげ、ほのえそむるものすごさよ[注釈ちゅうしゃく 1][3]

りょうおきな面白おもしろいことだ、つきうみうえかび、なみがきらめいてよるのようだ。
漁夫ぎょふ]「りょうおきなよる湘江西にしいわかべふねまらせ……
りょうおきな漁夫ぎょふ]……夜明よあけに湘江のみずんでたけいてかす」という[注釈ちゅうしゃく 2]情景じょうけいがまさにこれかとおもこされる。いまあし火影ほかげがほのかにえてきた、ものさびしいことよ。

そう宿やどもと

編集へんしゅう

りょうおきな漁夫ぎょふ塩屋しおやもどってきたことから、そうは、一夜いちや宿やどしてほしいと、漁夫ぎょふつうじてねがる。りょうおきなは、あまりに見苦みぐるしいのでと、いったんはそのもとめをことわる。しかし、そうが、自分じぶんもので、このうらはじめておとずれたが、にちれたので、なにとぞ一夜いちや宿やどしてほしいとかさねてたのむと、りょうおきなはこれを承諾しょうだくした。

シテ「なに旅人たびびとひともうすか
ツレ「さんこうぞうろう
シテ「げにいたはしきおんことかな、さらばお宿やどもうさん
中略ちゅうりゃく
地謡じうたい〽さてなぐさみはうらめいの、さてなぐさみはうらめいの、づるたずをごらんぜよ、などか雲居くもいくもいかえらざらん、旅人たびびと故郷こきょうふるさとも、けばなつかしや、われらももとはとて、やがてなみだにむせびけり、やがてなみだにむせびけり[4]

りょうおきな]なに、旅人たびびとひとだというのか。
漁夫ぎょふ]そのとおりです。
りょうおきなまことどくなことだ。それではお宿やどをおししよう。
中略ちゅうりゃく
さて(この侘住わびずまいでの)なぐさみといえば、牟礼むれうらという地名ちめいつうじる、れているづるをごらんください。づる雲居くもいそら、あるいは)にかえるものです。旅僧たびそう故郷こきょうだとくとなつかしいことです。我々われわれももともとは……と、(りょうおきな漁夫ぎょふは)そのままなみだにむせんでしまった。

りょうおきなによる物語ものがたり

編集へんしゅう
 
錏(しころ)はかぶと左右さゆう後方こうほうらしくびおお部分ぶぶんで、の14ばん
源平げんぺい合戦かっせん絵図えず』錏きの場面ばめん(『平家ひらか物語ものがたり』では平景清たいらのかげきよよしじゅうろう)(ひだり)、義経よしつねかた佐藤さとうつぎしん平家へいけかたきく王丸おうまる最期さいごみぎ)。

そうは、この源平げんぺい合戦かっせんだとききおよんでいるとって、その物語ものがたりかせてほしいともとめる。りょうおきなは、おやすいことだとって、屋島やしまたたかさまかたってかせる。

シテ「いでそのころもとこよみ元年がんねんさんつきがちじゅうはちにちのことなりしに、平家ひらかうみめんおもていちまちばかりにふねかめ、みなもとはこのなぎさみぎわにうちでたまふ、大将軍だいしょうぐんのおん出立しゅったついでたちには、赤地あかじにしき直垂ひたたれに、むらさき裾濃すそごむらさきすそごのおん着背長きせながきせながあぶみあぶみくらかさに突つがり、一院いちいんのおん使みなもと大将たいしょう検非違使けびいしけんぴいしじょうみなもと義経よしつねと 〽名乗なのりたまひしおん骨柄こつがらこつがら、あつぱれ大将たいしょうやとえし、いまのやうにおもでられてこう[5]

りょうおきな]さてときもとこよみ元年がんねん3がつ18にちのことであったが[注釈ちゅうしゃく 3]平家ひらかうみいちまちほど沖合おきあいにふねかべ、みなもと海岸かいがんってた。大将軍だいしょうぐん出立いでたちは、赤地あかじにしき直垂ひたたれに、むらさきいとおどしたよろい姿すがたで、あぶみってくらがり、「一院いちいんこう白河しらかわ上皇じょうこう)の使つかいみなもと大将たいしょう検非違使けびいしじょうみなもと義経よしつねである」と名乗なのられた[注釈ちゅうしゃく 4]風格ふうかくは、立派りっぱ大将たいしょうだとおもわれたのが、いまのことのようにおもされます。

まず、このように義経よしつね出立いでたちについてかたられたのちは、みなもとかたさん保谷ほや四郎しろうと、平家へいけかたあく七兵衛しちべえけいきよしとが一騎打いっきうちし、けいせいよんろうかぶとしころきちぎったという「錏き」の場面ばめんが、りょうおきな漁夫ぎょふいでかたられる。いで、義経よしつね腹心ふくしん佐藤さとうつぎしん平教経たいらののりつねたれる一方いっぽうきょうけいわらわであるきくおうたれたことがみじかかたられる。

ツレ〽そのとき平家へいけほうよりも、言葉ことばたたかひことおわりはり、兵船へいせんひょうせんいちそうせて、波打なみうちぎわつて 「りくくがてきかたきちかけしに
シテ「みなもとほうにもつづへいつわものじゅうばかり、なかにも三保さんぼうみほたによんろう名乗なのりつて、まつさきかけてえしところに
ツレ「平家へいけほうにもあく七兵衛しちべえけいきよし名乗なのり、三保さんぼうたにをめがけたたかひしに
シテ「かのさんたにはそのときに、太刀打たちうおりつてちからなく、すこなぎさ退すさしりぞきしに
ツレ〽けいきよしおいつかけさんたに
シテ「たるかぶとしころをつかんで
ツレ〽うしろへけば三保さんぼうたに
シテ〽のがれんとまえ
ツレ〽たがいにえいやと
シテ〽ちから
地謡じうたいはちづけはちつけいたよりきちぎつて、左右さゆうそうへくわつとぞ退すさきにける、これをごらんじて判官ほうがんほうがん、おうまなぎさにうちせたまへば、佐藤さとうつぎしんつぎのぶ能登のと殿どの矢先やさきにかかつて、うまよりしたしもにどうとつれば[注釈ちゅうしゃく 5]ふねにはきくおうたれければ、ともにあはれとおもえおぼしけるか、ふねおきりくくがじんに、そうきにしおの、あとはときこええて、いそ波松なみまつふうばかりの、おとさびしくぞなりにける[6]

漁夫ぎょふ]そのとき平家へいけかたからも、言葉ことばでのいいがわり、兵船へいせんいちそうせ、武者むしゃ波打なみうちぎわち、りくかたてきかまえていたところ、
りょうおきなみなもとかたからもじゅうほどの武者むしゃつづいたなかに、さん保谷ほや四郎しろう名乗なのって、さきけてったところに、
漁夫ぎょふ平家へいけかたにもあく七兵衛しちべえけいきよし名乗なの武者むしゃさん保谷ほうやがけてたたかうと、
りょうおきな]かのさん保谷ほうやはそのとき太刀たちってしまい、すこなぎさ退しりぞいたが、
漁夫ぎょふけいきよしいかけ、三保さんぼうだに
りょうおきな]かぶっているかぶとの錏をつかんで
漁夫ぎょふうしろへくと、三保さんぼうたに
りょうおきなのがれようとして、かぶとまえった。
漁夫ぎょふたがいに「えいや」と
りょうおきなちから
――はちづけいた(錏の一番いちばんじょうさつばん)からきちぎられて、二人ふたり左右さゆうへくわっと退のけいた[注釈ちゅうしゃく 6]。これをごらんになった判官ほうがん義経よしつね)が、おうまなぎさすすめると、その部下ぶか佐藤さとうつぎしんが、能登のと殿どの平教経たいらののりつね)のにかかって、うまからしたにどうとちてしまった。一方いっぽう平家へいけかたふねでは、きょうけいわらわであるきくおうたれた[注釈ちゅうしゃく 7]りょうぐんともこれをおあわれみになったのか、平家へいけふね沖合おきあいへ、りく源氏げんじかたじんに、それぞれしおのようにいてった。そのかちどきこえこえなくなって、いそなみ松風まつかぜおとが、さびしくこえるだけとなった。

りょうおきな正体しょうたい暗示あんじ

編集へんしゅう

そうは、漁師りょうしにしてはあまりにくわしいと不審ふしんおもい、りょうおきなたずねる。すると、りょうおきなは、ただちには名乗なのらないで、姿すがたす(中入なかいり)。そのさい、「よしつねの」という詞章ししょうから、正体しょうたい義経よしつねであることが暗示あんじされる。

シテ〽はるよる
地謡じうたいしおうしおつるあかつきならば、修羅しゅらときになるべし、そのときは、わが名乗なのらん、たとひ名乗なのらずとも名乗なのるとも、よしつねの、ゆめばしましたまうなよ、ゆめばしましたまふなよ[7]

りょうおきなはるよる
――しおがたとなれば、修羅しゅらどうくるしみのときとなるでしょう。そのときには名乗なのりましょう。しかしたとえ名乗なのらなくても名乗なのってもどちらでもよい、義経よしつねにとってはつねにつらいゆめまされませんように。

間狂言あいきょうげん

編集へんしゅう

塩屋しおや本当ほんとう主人しゅじんアイ)がかえってくる。そうは、主人しゅじんに、源平げんぺい合戦かっせん様子ようすについてかたってほしいと所望しょもうする。主人しゅじんは、そうらが無断むだん塩屋しおやはいったのではないかといぶかしみながらも、けいきよしさん保谷ほや四郎しろうとの「錏き」の逸話いつわなどを、口語体こうごたいかたる。そうが、主人しゅじんあらわれるまえこった出来事できごとはなすと、主人しゅじんは、逗留とうりゅうすすめて退場たいじょうする[8]

そうまちうたい

編集へんしゅう

そうは、塩屋しおや一夜いちやかし、りょうおきな正体しょうたいあらわすのをつ。

ワキ〽ごえうらふうの、こえうらふうの、まつまくらそばだてて、おもひをのべぶるこけむしろこけむしろかさねてゆめたり、かさねてゆめたり[9]

そう](ゆめまさずにまててという)老人ろうじんこえこえたが、うらふういてきて、よるけてきた。まつまくらとし、こけをむしろとして、あらためてゆめっているところだ。

義経よしつね登場とうじょう

編集へんしゅう
 
能面のうめん平太へいた」。赤平あかひらふとしもちいる場合ばあいおおいが、観世かんぜりゅう小書しょうしょゆみりゅう」でははく平太へいたもちいる[2]

義経よしつね亡霊ぼうれいこうシテ)が登場とうじょうする。めん平太へいたへいだ(またはこんわか)で、くろたれ梨子なしご烏帽子えぼし法被はっぴ半切はんせつ太刀たちけた武者むしゃ姿すがたである。


ワキ〽不思議ふしぎやな、はやあかつきにもなるやらんと、おもさとしまくらより、甲冑かっちゅうたいえたまふは、もし判官ほうがんにてましますか
シテ「われ義経よしつね幽霊ゆうれいなるが、瞋恚しんにかるる妄執もうしゅうにて、なほ西海にしうみさいかいなみに漂ひ 〽生死せいししょうじうみ沈淪ちんりんせり[10]

そう不思議ふしぎなことだ。はやがたにもなろうかとおも寝覚ねざめの枕元まくらもとから、甲冑かっちゅうけておあらわれになったのは、もしや判官ほうがん義経よしつね)でいらっしゃいますか。
義経よしつねわたし義経よしつね幽霊ゆうれいだが、瞋恚しんにいかりの煩悩ぼんのう)のために執心しゅうしんのこり、いまでも西国さいこくうみなみただよい、輪廻りんねくるしみのうみしずんでいるのだ。

そうは、しんかたによって生死せいしうみともえ、真如しんにょつきともえるのだとさとすが、義経よしつねは、合戦かっせん有様ありさまわすれることができないとう。

ワキ〽むかしをいまにおもづる
シテ〽せんりくくがとの合戦かっせんかせんみち
ワキ〽しょからとて
シテ〽わすれえぬ[10]

そうむかしいまおも
義経よしつねふねじんりくじんとの合戦かっせんみち
そう]この場所ばしょがらとあって
義経よしつねわすれることができない。

義経よしつねによる物語ものがたり

編集へんしゅう
 
源平げんぺい合戦かっせん絵図えず義経よしつねゆみながしの場面ばめん

義経よしつね亡霊ぼうれいこうシテ)は、屋島やしまたたかいの様子ようす回想かいそうし、物語ものがたる。義経よしつねが、波打なみうちぎわうますすめてたたかううちにゆみとしてしまい、ゆみしおながされたので、てきふねちかくまでうまいかけてゆみもどしたという「ゆみながし」の場面ばめんである。義経よしつねは、危険きけんおかしてまでゆみりにったのは、ゆみしんだのではなく、ゆみてきられて名誉めいようしなうのをおそれたからだとべる。

シテ「そのときなになにとかしたりけん、判官ほうがんゆみおとし、なみられてながれしに
地謡じうたい〽そのをりしもはしおにて、はるかにとおながくを
シテ「てきゆみられじと、こま波間なみまおよがせて、てきせんてきせんちかくなりしほどに
地謡じうたいてきかたきはこれをしよりも、ふね熊手くまでくまでけて、すでにあよおえたまひしに
シテ「されども熊手くまではらえひ、つひにゆみかえし、もとなぎさにうちがれば
地謡じうたい〽そのとき兼房かねふさもうすやう、くちくちおしのおん振舞ぶるまいひやな、渡辺わたなべにてけいもうししもこれにてこそこうへ、たとひ千金せんきんべたるおんゆみなりとも、おんいのちにはだいへたまうべきかと、なみだながさるしければ、判官ほうがんこれをこしし、いやとよゆみしむにあらず、義経よしつね源平げんぺいに、弓矢ゆみやつてわたしわたくしなし、しかれども、けいめいかめいはいまだなかばならず、さればこのゆみてきられ義経よしつねは、小兵こひょうこひょうなりとげんはれんは、無念むねん次第しだいなるべし、よしそれゆゑにたれんは、ちからなし義経よしつねが、うんめとおもふべし、さらずはてきわたさじとて、なみかるる弓取ゆみとりの、末代まつだいにあらずやと、かたりたまへば兼房かねふさ、さてそのほかのひとまでも、みな感涙かんるいながしけり[11]

義経よしつね]そのとき、どうしたことか、判官ほうがん義経よしつね)はゆみとし、ゆみなみられてながれていった。
――おりしも、しおであったので、ゆみははるかとおくにながれてったのを
義経よしつね義経よしつねてきゆみられまいと、うま波間なみまおよがせて、てきせんちかくまで近付ちかづいたところ、
――てきはこれをるや、義経よしつねふね近付ちかづけ、熊手くまでけて、もはや義経よしつねあやういようにおえになったが
義経よしつね]しかし義経よしつね熊手くまではらい、ついにゆみかえし、もとなぎさがった。
――そのとき義経よしつねしん兼房かねふさが、「残念ざんねんなお振舞ふるまいです。摂津せっつこく渡辺わたなべ梶原かじはら景時かげときもうげたのも、このことでございます[注釈ちゅうしゃく 8]。たとえ千金せんきんべてつくったゆみであっても、おいのちえることはできません。」と、なみだながしてもうげた。すると、判官ほうがん義経よしつね)は、これをおきになり、「いや、ゆみしんだのではない。義経よしつね源平げんぺい合戦かっせん弓矢ゆみやってたたかってきたが、自分じぶんのためではない。そうはいえども、わたし武名ぶめいはまだ半分はんぶんにもたっしていない。そこでこのゆみてきられてしまい、義経よしつねよわ武将ぶしょうだとわれるのは無念むねんなことだ。かりにそのためにられたとしても、しかたのないことで、義経よしつねうんきとおもえばよい。もしうんきていないのならてきにはわたしたくないと、なみかれていったゆみりにったのだ。武士ぶし末代まつだいまでのこるものではないか。」とおっしゃったので、兼房かねふさも、そのほかの人々ひとびとも、みな感涙かんるいながした[注釈ちゅうしゃく 9]

終曲しゅうきょく

編集へんしゅう

義経よしつね亡霊ぼうれいこうシテ)は、ふえ小鼓こつづみだい囃子はやしで、カケリえんずる。

そのいながら、修羅しゅらどうでのたたかいの有様ありさま再現さいげんする(キリ)。そこでは、生前せいぜん壇ノ浦だんのうらたたかたたかった相手あいてである平教経たいらののりつねと、ふたたたたかうことを余儀よぎなくされている。

シテ「今日きょう修羅しゅらてきだれそ、なに能登のとまもるきょうけいとや、あらものものしや手並てなみりぬ 〽おもひぞづるだんうら
地謡じうたい〽その船戦ふないくさふないくさいまははや、その船戦ふないくさいまははや、閻浮えんぶかえ生死せいしいきしにの、海山みやまうみやま一同いちどう震動しんどうして、ふねよりはときこえ
シテ〽りくくがにはなみだて
地謡じうたいがつしらむは
シテ〽けんつるぎひかり
地謡じうたいしおうしおうつるは
シテ〽かぶとほしかげ
地謡じうたいすいそら空行くうぎょうくもまたくもなみの、ごうたがえちごふる、船戦ふないくさき、うわしずむとせしほどに、はるよるなみよりけて、てきかたきえしはかもめときこえこえしは、うらふうなりけり高松たかまつの、うらふうなりけり高松たかまつの、あさあらしとぞなりにける

義経よしつね今日きょう修羅しゅらどうでのてきだれか。なに、能登のとまもるきょうけいであるか。ああ生意気なまいきな、手並てなみのほどはよくっている。おもされるのはだんうら
――船戦ふないくさだが、いまでは、この閻浮)にかえって、生死せいしたたかいをしている。うみやま一斉いっせい震動しんどうして、ふねからはときこえが。
義経よしつねりくにはなみのようにならんだだてが。
――つきしろひかるのは
義経よしつねけんひかり
――しおうつるのは
義経よしつねかぶとほしかぶとはちけたびょう)のかげ
――すいかとおもえばそらで、そらおこなっても今度こんどなみのようなくも[注釈ちゅうしゃく 10]。そのなかかたない、ちがえる船戦ふないくさきをしている。いたりしずんだりしているうちに、はるよるなみからはじめて、てきおもっていたのはれいる鷗であった。ときこえおもっていたのは高松たかまつ[注釈ちゅうしゃく 11]うらふうであった。あさあらしとなったのであった。

こうしておさめると、義経よしつね亡霊ぼうれいり、終曲しゅうきょくとなる。

作者さくしゃ沿革えんかく

編集へんしゅう

申楽さるがくだん』に、「つうもりちゅう義経よしつねさんばん修羅しゅらがかりにはよきのうなり」とあり、この「義経よしつね」はほんきょくのことだとかんがえられている。また、同書どうしょでは、「八島やじまのう」について、「よしつねの」という表現ひょうげんが「規模きぼ」(眼目がんもく)だとひょうする記述きじゅつがある。これらから、ほんきょく世阿弥ぜあみ時代じだい成立せいりつしていたことが確実かくじつであるが、構想こうそう構成こうせい引用いんよう典拠てんきょ詞章ししょうとう特徴とくちょうから、世阿弥ぜあみさくであるとかんがえられている[12]

ただし河原かわはら勧進かんじん猿楽さるがく』にひろしただし5ねん1464ねん上演じょうえん記録きろくがあるなど、ふるくから頻繁ひんぱん上演じょうえんされてきた。

観世かんぜりゅうでは、観世かんぜもとあきら明和めいわ改正かいせいうたいほんで「八島やしま」を「屋島やしま」とあらため、以後いごこれを踏襲とうしゅうしている[13]

特色とくしょく評価ひょうか

編集へんしゅう

修羅しゅらのう番目ばんめぶつ)のひとつである。戦勝せんしょうした武将ぶしょう主人公しゅじんこうとすることから、『田村たむら』、『えびら』とともにかち修羅しゅらばれ、江戸えど時代じだい武士ぶしこのまれた[14]。ただし、そのような分類ぶんるいは、このきょく主題しゅだい理解りかい支障ししょうになっているとの指摘してきもある[13]

完成かんせいされた複式ふくしき夢幻むげんのう形式けいしきをとる。『平家ひらか物語ものがたりまき11をまえ、あるいは要約ようやく脚色きゃくしょくしながら、前場ぜんば後場ごばそれぞれに屋島やしまたたかいの合戦かっせんばなしはいされている。前場ぜんばではさん保谷ほやけいきよしの錏きの剛勇ごうゆうたん、嗣信ときくおう最期さいごわせて、源平げんぺい武者むしゃ対比たいひしながら、合戦かっせん無常むじょうせいただよわせて後場ごばにつなげている。後場ごばではゆみながしのはなしいでかたり、けいめい名誉めいよ)にこだわる義経よしつね心情しんじょうえがいたのち、「せいにの海山みやま」で妄執もうしゅうくるしむ義経よしつねえがいている。これらが源氏げんじ平家ひらかうみりくむかしいま、閻浮(現世げんせい)と修羅しゅらといった対置たいち構造こうぞうなかかたられ、スケールのおおきい作品さくひんとなっている[15]とくに、義経よしつね修羅しゅらどう苦患くげんあらわし、最高潮さいこうちょうたっするとはるよるけてゆめめるキリの部分ぶぶんは、謡曲ようきょく文中ぶんちゅう屈指くっし名文めいぶんとされており、それにわせたいきもつかせないかたは、のうどころとなっている[14]

義経よしつね成仏じょうぶつできずに現世げんせいにさまよっている執心しゅうしん本質ほんしつは、「けいめいはいまだなかばならず」という後場ごば詞章ししょう表現ひょうげんされていると指摘してきされている[13]梅原うめはらたけしは、義経よしつねにとっての最大さいだい武勲ぶくんである一ノ谷いちのやたたか壇ノ浦だんのうらたたかよりも、屋島やしまたたかいでよわゆみひろうために危険きけんおかした義経よしつねたか評価ひょうかしているてん末尾まつびで、平家へいけほろぼした壇ノ浦だんのうらたたかいもゆめのまたゆめであったとえがいているてんに、戦争せんそういと世阿弥ぜあみ価値かちかんあらわれているとする[16]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 金春こんぱるりゅう金剛こんごうりゅう喜多きたりゅうでは「面白おもしろさよ」。梅原うめはら観世かんぜ監修かんしゅう (2013: 419)
  2. ^ 典拠てんきょは「りょうおきなよるはた西にしいわお宿やどあかつき汲清湘燃すわえちく」(柳子りゅうこあつし)。謡曲ようきょくしゅう (1988: 330)
  3. ^ 平家ひらか物語ものがたり』では、屋島やしま合戦かっせんもとこよみ2ねん2がつ19にちとしている。梅原うめはら観世かんぜ監修かんしゅう (2013: 418)梅原うめはらたけしは、柳田やなぎだ国男くにおが、旧暦きゅうれき3がつ18にちまつしゅのいない怨霊おんりょうかえってくるであり、柿本人麻呂かきのもとのひとまろ小野小町おののこまち和泉式部いずみしきぶ命日めいにちとされていると指摘してきしていることをまえ、「八島やしま」の作者さくしゃは、あえてこのえらぶことで、怨霊おんりょうとして鎮魂ちんこんされるべき人間にんげんとして義経よしつねえがいているとする。梅原うめはらたけし世阿弥ぜあみのうI――わきのう修羅しゅらのう」(梅原うめはら観世かんぜ監修かんしゅう (2013: 488))。
  4. ^ 義経よしつね装束しょうぞくや、名乗なのりは、『平家ひらか物語ものがたりまき11(大坂おおさかえつこと)に同様どうよう記述きじゅつがある。平家ひらか物語ものがたり角川かどかわ文庫ぶんこばん (179)
  5. ^ 宝生ほうしょうりゅう金春こんぱるりゅう喜多きたりゅうでは「どうどつれば」。梅原うめはら観世かんぜ監修かんしゅう (2013: 419)
  6. ^ 平家ひらか物語ものがたりまき11(ゆみながしのこと)によれば、武蔵むさしこく住人じゅうにんみおのや十郎じゅうろううまられ、太刀たちいたところに、長刀ちょうとうった平家へいけかた武者むしゃかり、げようとした十郎じゅうろうの錏を3つかみそこね、4度目どめにつかんだ。すると錏がれ、十郎じゅうろうげおおせた。武者むしゃ上総かずさあく七兵衛しちべえけいきよし名乗なのった。平家ひらか物語ものがたり角川かどかわ文庫ぶんこばん (187)
  7. ^ 平家ひらか物語ものがたりまき11(嗣信最期さいごこと)によれば、能登のとまもるきょうけい義経よしつねとそうとねらったのにたいし、つぎしんじ(嗣信)が義経よしつね矢面やおもてち、身代みがわりとなって射抜いぬかれ、うまからちた。能登のと殿どのわらわきく王丸おうまるがそのくびろうとびかかったところ、つぎしんおとうと佐藤さとう忠信ただのぶゆみでこれを射抜いぬいた。きょうけい右手みぎてきく王丸おうまるをつかんでふねれたが、きく王丸おうまる深手ふかでんだという。平家ひらか物語ものがたり角川かどかわ文庫ぶんこばん (182)
  8. ^ 平家ひらか物語ものがたりまき11(ぎゃくこと)に、義経よしつねって屋島やしまかうため摂津せっつこく渡辺わたなべ逗留とうりゅうしたさい梶原かじはら景時かげときが,退却たいきゃくのためにふねぎゃくけたいと進言しんげんしたのにたいし、義経よしつねが、退却たいきゃくのためのぎゃくけることに反対はんたいし、けい義経よしつねを「猪武者いのししむしゃ」とののしったはなしがある。梅原うめはら観世かんぜ監修かんしゅう (2013: 418)平家ひらか物語ものがたり角川かどかわ文庫ぶんこばん (173)
  9. ^ 平家ひらか物語ものがたりまき11(ゆみながしのこと)によれば、義経よしつねゆみとし、味方みかたが「ただてさせたまえ」とうのをかずにもどした。側近そっきんが、いのちにはえられないといさめたのにたいし、義経よしつねは、「叔父おじ源為朝みなもとのためとも使つかっていたようなつよゆみであったら、わざとでもとしただろうが、自分じぶんりのよわゆみてきげ、みなもと大将軍だいしょうぐんゆみにしてはよわゆみだと嘲弄ちょうろうされるのがくやしさに、いのちえてったのだ」とべた。平家ひらか物語ものがたり角川かどかわ文庫ぶんこばん (188)
  10. ^ みず空空くうくうみずともえわかずつうひてめるあきよるつき」(『しん拾遺しゅうい和歌集わかしゅうびとらず)をいている。梅原うめはら観世かんぜ監修かんしゅう (2013: 419)
  11. ^ 地名ちめい高松たかまつけている。梅原うめはら観世かんぜ監修かんしゅう (2013: 419)

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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