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梅原猛 - Wikipedia

梅原うめはらたけし

哲学てつがくしゃ評論ひょうろん (1925-2019)

梅原うめはら たけし(うめはら たけし、1925ねん大正たいしょう14ねん3がつ20日はつか - 2019ねん平成へいせい31ねん1がつ12にち[1])は、日本にっぽん哲学てつがくしゃ評論ひょうろん位階いかいしたがえさんものつくり大学だいがく総長そうちょう初代しょだい)、京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター名誉めいよ教授きょうじゅ東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい復興ふっこう構想こうそう会議かいぎ特別とくべつ顧問こもん名誉めいよ議長ぎちょう)。碧南へきなん哲学てつがくたいけんむら無我むがえん名誉めいよ村長そんちょう京都きょうと名誉めいよ市民しみん

梅原うめはら たけし
現代げんだい評論ひょうろんしゃ現代げんだいだい8かんだい10ごう (1967) より
生誕せいたん (1925-03-20) 1925ねん3がつ20日はつか
日本の旗 日本にっぽん宮城みやぎけん仙台せんだい
死没しぼつ (2019-01-12) 2019ねん1がつ12にち(93さいぼつ
京都きょうと京都きょうと
時代じだい 20世紀せいき哲学てつがく、21世紀せいき哲学てつがく
地域ちいき 日本にっぽん哲学てつがく
学派がくは 京都きょうと学派がくは梅原うめはら日本にっぽんがく
研究けんきゅう分野ぶんや 西洋せいよう哲学てつがく哲学てつがく宗教しゅうきょう哲学てつがく宗教しゅうきょうがく形而上学けいじじょうがく存在そんざいろん世界せかいかん倫理りんりがく日本にっぽん仏教ぶっきょう神道しんとう神道しんとう自然しぜん崇拝すうはいアニミズム歴史れきし文明ぶんめい
おも概念がいねん 人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ西洋せいよう哲学てつがく)への問題もんだい提起ていき人類じんるい哲学てつがく草木くさき国土こくど悉皆しっかい成仏じょうぶつ植物しょくぶつ意志いし梅原うめはら日本にっぽんがく怨霊おんりょう史観しかん怨霊おんりょう
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京都大学きょうとだいがく文学部ぶんがくぶ哲学てつがく卒業そつぎょう立命館大学りつめいかんだいがく文学部ぶんがくぶ哲学てつがく教授きょうじゅ京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく教授きょうじゅ学長がくちょうほか国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター所長しょちょう初代しょだい)、社団しゃだん法人ほうじん日本にっぽんペンクラブ会長かいちょうだい13だい)などを歴任れきにんした。

西洋せいよう哲学てつがくから日本にっぽん芸能げいのう文学ぶんがくわらいまで幅広はばひろ研究けんきゅうし、日本にっぽん文化ぶんか本質ほんしつ探究たんきゅうする。大胆だいたん独創どくそうてき梅原うめはら日本にっぽんがく確立かくりつ。『かくされた十字架じゅうじか』(1972ねん)、『水底みなそこうた』(1973ねん)、『人類じんるい哲学てつがく序説じょせつ』(2013ねん)など著作ちょさく多数たすう

概要がいよう

編集へんしゅう

龍谷大りゅうこくだいがく文学部ぶんがくぶ講師こうして、立命館大学りつめいかんだいがく文学部ぶんがくぶ講師こうし助教授じょきょうじゅ教授きょうじゅ歴任れきにんした。その京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがくてんじ、美術びじゅつ学部がくぶ教授きょうじゅ学長がくちょう就任しゅうにんした。1980年代ねんだいには「国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター(仮称かしょう創設そうせつ準備じゅんびしつ」の室長しつちょうとして国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター創設そうせつ尽力じんりょくし、設立せつりつ所長しょちょう就任しゅうにんした。実存じつぞん哲学てつがくについて研究けんきゅうみ、その、「梅原うめはら日本にっぽんがく」とばれる独自どくじ世界せかい開拓かいたくした。ほかにも「スーパー歌舞伎かぶき」「スーパーのう[2]創作そうさくするなど、幅広はばひろ活動かつどうおこなっている。これらの業績ぎょうせき評価ひょうかされ、文化ぶんか功労こうろうしゃ選出せんしゅつされ、のち文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょうした。京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター名誉めいよ教授きょうじゅ京都きょうと名誉めいよ市民しみん称号しょうごうおくられている。

2019ねん1がつ12にち死去しきょ[3]。93さいだった。じょしたがえさん[4]

経歴けいれき

編集へんしゅう

宮城みやぎけん仙台せんだいまれ、愛知あいちけん知多ちたぐんそだつ。

実父じっぷ愛知あいち県立けんりつだいいち中学校ちゅうがっこうだいはち高等こうとう学校がっこうて、梅原うめはら出生しゅっしょう当時とうじ東北とうほくみかどだい学生がくせいであった梅原うめはら半二はんじ実母じつぼは、半二はんじ下宿げしゅくしていた仙台せんだいさかな問屋とんやむすめ石川いしかわ千代ちよ。ともに学生がくせいであったじつ父母ちちはは結婚けっこん梅原うめはら石川いしかわみとめなかったため、私生児しせいじとして誕生たんじょうした。乳児にゅうじ実母じつぼくし、生後せいご1ねん9かげつとき知多半島ちたはんとう名士めいしで、梅原うめはら一族いちぞく頭領とうりょうである伯父おじ夫婦ふうふ梅原うめはら半兵衛はんべえしゅん)にられて養子ようしとなる。実父じっぷ梅原うめはら半二はんじ工学こうがく博士はかせ)は、大学だいがく講師こうし退職たいしょく、3けんバーキャバレー経営けいえいしていたが、豊田とよだ喜一郎きいちろうさそわれ、太平洋戦争たいへいようせんそうトヨタ自動車とよたじどうしゃ入社にゅうしゃトヨタ自動車とよたじどうしゃ常務じょうむ豊田とよだ中央ちゅうおう研究所けんきゅうじょ所長しょちょうなどをつとめた。

私立しりつ東海とうかい中学校ちゅうがっこうには、南知多みなみちたまち当時とうじ内海うつみまち)の実家じっかから2あいだはんをかけて通学つうがくした。1942ねん広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう入学にゅうがくする[5]が2かげつ退学たいがく翌年よくねんだいはち高等こうとう学校がっこう文科ぶんか入学にゅうがくする[6]理科りかけいちち数学すうがく得意とくいであったため、ちち周囲しゅういから文科ぶんか進学しんがく反対はんたいされたのをっての進学しんがくであった。

だいはち高等こうとう学校がっこう1ねんつぎ在学ざいがくちゅうの1943ねん10がつ文科ぶんかけい学生がくせいへの徴兵ちょうへい猶予ゆうよ停止ていしされ、学徒がくと出陣しゅつじん開始かいしされた。徴兵ちょうへい猶予ゆうよ対象たいしょうとなるために理科りかけい転向てんこうしたり、陸軍りくぐん経理けいり学校がっこうはいって主計しゅけい将校しょうこうとなるみち目指めざ級友きゅうゆうがいるなか梅原うめはらは「いっそはやんだほうい」というおもいから、特攻隊とっこうたいいん養成ようせい機関きかんといわれていた甲種こうしゅ幹部かんぶ候補こうほせい志願しがんした。筆記ひっき試験しけん満点まんてんちかくの点数てんすうったが、口頭こうとう試問しもんで「日本にっぽん戦闘せんとう名前なまえげよ」とわれたさいに、「はやぶさ」としかこたえられず、試験しけんかんから「もっとあるだろう」「子供こどもでも5くらいっている。非国民ひこくみんだ」と叱責しっせきされ、合格ごうかくになったという[7][8]

1944ねんなつから、名古屋なごや三菱重工みつびしじゅうこう工場こうじょう動員どういんされ、勤労きんろう奉仕ほうしおこなった。同年どうねん年末ねんまつ工場こうじょうたいして、アメリカぐんによる空襲くうしゅうおこなわれたが、防空壕ぼうくうごうんでたすかっている。ただし、おな工場こうじょう動員どういんされていたほか学生がくせいばくだん命中めいちゅうして多数たすうくなっている。このような空襲くうしゅうによる焼夷弾しょういだん死者ししゃ続出ぞくしゅつする状況じょうきょうで、梅原うめはらは「この戦争せんそうけるにちがいない」「自分じぶんがこの戦争せんそうぬのはほぼ確実かくじつだ」とかんがえ、哲学てつがくしょ宗教しゅうきょうしょあさり、「理由りゆう」をさがすようになっていた[7][8]

西田にしだ幾多郎きたろう田辺たなべはじめ京都きょうと学派がくは哲学てつがく関心かんしんいだき、大学だいがく進学しんがくさいしては、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく倫理りんりがくかずつじ哲郎てつろう東大とうだい赴任ふにんまえ京都大きょうとだい哲学てつがく西田にしだした助教授じょきょうじゅであった)のしたまなぶか、あるいは京都きょうと学派がくは影響えいきょうのこ京都きょうと帝国ていこく大学だいがく哲学てつがくまなぶかの選択せんたくまよった。そして結局けっきょく1945ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ哲学てつがく入学にゅうがく。そのとし田辺たなべ退官たいかんしており、西田にしだもすでに1928ねん京都きょうと帝国ていこくだい退職たいしょくしていたが、梅原うめはら京都きょうと帝国ていこくだい哲学てつがくには西田にしだ影響えいきょう存在そんざいするとかんがえ、京大きょうだいへの進学しんがく選択せんたくした。父親ちちおや哲学てつがくへの進学しんがく歓迎かんげいしなかったが、梅原うめはら熱意ねついつよいため許可きょかした。

1945ねん4がつ京都きょうと帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ哲学てつがく入学にゅうがくしたが、その直後ちょくご徴兵ちょうへいされ、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん二等兵にとうへいとして入営にゅうえいした。最初さいしょ愛知あいちけん名古屋なごや部隊ぶたい配属はいぞくされたが、その岐阜ぎふけん恵那えな兵庫ひょうごけん姫路ひめじ配属はいぞくさき変更へんこうされたのち、1945ねん7がつから熊本くまもとけん宇城大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんだい216師団しだん野砲やほうへいだい216連隊れんたい九州きゅうしゅう防衛ぼうえいたい)に配属はいぞくされた状態じょうたいで、1945ねん8がつ15にち終戦しゅうせんむかえた[7][8]

1945ねん9がつ大学だいがく復学ふくがくした。復学ふくがくは、実父じっぷのところにもどり、ちちつとめていたトヨタ自動車とよたじどうしゃちか愛知あいちけん岡崎おかざき矢作やはぎまち定光寺ていこうじなどにも居住きょじゅうした[9]

1948ねん大学だいがく卒業そつぎょうする。京都きょうと大学だいがく大学院だいがくいん進学しんがくし、山内やまうちとくりつ田中たなか美知太郎みちたろう指導しどうけた。マルティン・ハイデッガー哲学てつがくかれつつもギリシア哲学てつがく専攻せんこうしたが、2にわたって田中たなか対立たいりつした。最初さいしょ論文ろんぶんやみのパトス」(1951ねん)は哲学てつがく論文ろんぶん体裁ていさいをとっておらずはなはだ不評ふひょうであったものの、のち著作ちょさくしゅうだい1かん表題ひょうだいとなる。20だい後半こうはんつよ虚無きょむかんおそわれて、賭博とばくにのめりむような破滅はめつてき日々ひびおくり、1951ねん養母ようぼしゅんすすめでピアニスト夫人ふじん結婚けっこんする。同年どうねん長女ちょうじょまれたときヘラクレイトスについての論文ろんぶんいており、「ちるさと」という意味いみで「ひまり」とづける。ひまりはのちヴァイオリニストとなった。そしてハイデッガーの虚無きょむ思想しそうえるべく「わらい」の研究けんきゅうはいり、いくつかの論文ろんぶん発表はっぴょうしたが、これは完成かんせいしなかった。30だい後半こうはんから日本にっぽん古典こてん美学びがくへの関心かんしんつよめ、「壬生忠岑みぶのただみね和歌わかたいじゅうしゅ』について」(1963ねん)という論文ろんぶんく。

わらい」の研究けんきゅうはじめたことについて梅原うめはらは、フリードリヒ・ニーチェマルティン・ハイデッガー実存じつぞん主義しゅぎ哲学てつがくから出発しゅっぱつしたが、現実げんじつ生活せいかつくるしくなると実存じつぞんたよることはできなくなり、実存じつぞん論理ろんりえるために自分じぶんしんくらさを分析ぶんせきして「やみのパトス」をき、ニヒリズムえて人生じんせい肯定こうていするために「わらい」の哲学てつがく目指めざしたという。寄席よせかよい、渋谷しぶや天外てんがい藤山ふじやま寛美ひろみ大村崑おおむらこんなどを研究けんきゅう対象たいしょうとして論文ろんぶんいた[10]

その精力せいりょくてき神道しんとう仏教ぶっきょう研究けんきゅうしている。NHKテレビの生放送なまほうそうちゅう薬師寺やくしじ管長かんちょう橋本はしもとしこりたねと「唯識ゆいしき」をめぐり、だい激論げきろんわす。

京都きょうと若王子わかおうじ京都きょうと左京さきょう哲学てつがくみち近辺きんぺん)のかずつじ哲郎てつろうきゅうやしきんでいた。

人物じんぶつ

編集へんしゅう

日本にっぽん仏教ぶっきょう中心ちゅうしんいて日本人にっぽんじん精神せいしんせい研究けんきゅうする。西洋せいよう哲学てつがく研究けんきゅうから哲学てつがくしゃとして出発しゅっぱつしたが、西田にしだ幾多郎きたろうえるという自身じしん目標もくひょうのもと、基本きほんてき西洋せいよう文明ぶんめい(すなわちヘレニズムヘブライズム)のなかつくられてきた西洋せいよう哲学てつがく進歩しんぽ主義しゅぎたいしては批判ひはんてき姿勢しせいをとる。その根幹こんかんは、西洋せいよう哲学てつがくふか根付ねついている人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎへの批判ひはんである[11]西洋せいよう哲学てつがくしゃおお日本にっぽん哲学てつがくかいなかで、異色いしょく存在そんざいである。

市川いちかわ猿之助えんのすけ劇団げきだんのために『ヤマトタケル』(題材だいざいヤマトタケル)や『オオクニヌシ』(題材だいざいだい国主こくしゅ)『オグリ』(題材だいざい小栗おぐり判官ほうがん)などの歌舞伎かぶき台本だいほんき、これが古典こてん芸能げいのうした近代きんだい歌舞伎かぶきからやぶったので、スーパー歌舞伎かぶきしょうしている。また『ギルガメシュ叙事詩じょじし』を戯曲ぎきょくした『ギルガメシュ』は中国ちゅうごく劇団げきだん上演じょうえんし、中国ちゅうごく環境かんきょう問題もんだい啓蒙けいもうおおきな役割やくわりたしている。ただ、演劇えんげきでは自分じぶんおもどおりにならないということで、小説しょうせつばん『ギルガメッシュ』を執筆しっぴつしており、れなかったがほんさく自身じしん一番いちばん作品さくひんであるとかたっている[12]。『中世ちゅうせい小説しょうせつしゅう』や『もののかたり』など説話せつわもとづく短編たんぺん小説しょうせつしゅう評判ひょうばんをとっている。また『王様おうさま恐竜きょうりゅう』『ムツゴロウ』『クローン人間にんげんナマシマ』などのスーパー狂言きょうげん台本だいほんいている。きゅうじょうかいじん一人ひとり平城ひらじろ遷都せんと1300ねん記念きねん事業じぎょう特別とくべつ顧問こもん2006ねんには源氏物語げんじものがたり千年紀せんねんきじんとなる。

鈴木すずき大拙だいせつ近代きんだい日本にっぽん最大さいだい仏教ぶっきょう学者がくしゃ位置付いちづけ、その非戦論ひせんろん重要じゅうようせいうったえる。また「梅原うめはら日本にっぽんがく」とばれる一連いちれん論考ろんこうでは飛鳥あすか時代ときよ大和やまと朝廷ちょうてい権力けんりょく闘争とうそう追求ついきゅうするなど、古代こだい日本にっぽん研究けんきゅうとしてもられる。天皇てんのうせいへの支持しじつよく、世界せかい主義しゅぎ排外はいがいてきナショナリズム双方そうほう批判ひはんてきである。靖国神社やすくにじんじゃ憲法けんぽう改正かいせいには基本きほんてき否定ひていてき立場たちばる。イデオロギーの学術がくじゅつへの介入かいにゅうそれ自体じたい批判ひはんしている[13]。なお、1991ねんには召人として皇居こうきょ歌会うたかいはじめ出席しゅっせきしている。

また、熱烈ねつれつ多神教たしんきょう優位ゆういろんしゃはん一神教いっしんきょう主義しゅぎしゃである。多神教たしんきょう一神教いっしんきょうより本質ほんしつてきに「寛容かんようでありすぐれている」と主張しゅちょうしており、つづけて多神教たしんきょう主流しゅりゅうである日本にっぽん文化ぶんか優越ゆうえつせいいている。そのせつおおくの「日本にっぽん文化ぶんか優越ゆうえつかた日本人にっぽんじんろん」に影響えいきょうあた[ちゅう 1]、そのため梅原うめはらは、中曽根なかそね康弘やすひろ創設そうせつ主導しゅどうした「国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター」の初代しょだい所長しょちょう就任しゅうにんすることになる。

一神教いっしんきょうてき思想しそう多神教たしんきょうてき思想しそうについて、古代こだいギリシア哲学てつがくしゃであるプラトンアリストテレス対比たいひさせる。アリストテレスのように生物せいぶつ多様たようせいけることが重要じゅうようであるとかた[14]

臓器ぞうき移植いしょく反対はんたいろんしゃとしてもられている。原子力げんしりょく発電はつでんしょたいしても1980年代ねんだいから反対はんたいろんしゃ立場たちば[15]東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい復興ふっこう構想こうそう会議かいぎで、東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいによりこされた福島ふくしまだいいち原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこ論点ろんてんから除外じょがいしようとした議長ぎちょうたいして、梅原うめはらは、原発げんぱつ事故じこは「文明ぶんめいわざわい」であり、その議論ぎろんなくしてなにのための復興ふっこう構想こうそう会議かいぎであるのかと、辞任じにん意思いししめしてテーマとさせたことを、おなじく会議かいぎメンバーであった『読売新聞よみうりしんぶん』の橋本はしもと五郎ごろう回想かいそうしている[16]

日本漢字能力検定協会にほんかんじのうりょくけんていきょうかい大久保おおくぼ理事りじちょう依頼いらいされ、やく10ねんにわたってどう協会きょうかい評議ひょうぎいんつとめていたが、そのあいだ会議かいぎ出席しゅっせきなどの評議ひょうぎいんとしての活動かつどうまったっていなかった。2009ねん発覚はっかくした協会きょうかい運営うんえい問題もんだいさいし、このことについて「信用しんようしたことを後悔こうかいしている。関連かんれん会社かいしゃへの委託いたくなどとんでもないことで、評議ひょうぎいん機能きのうたせなかった自分じぶんへのいかりもかんじる」と弁解べんかいした[17]

人間にんげん関係かんけい

編集へんしゅう

実父じっぷ梅原うめはら半二はんじ工学こうがく博士はかせで、トヨタ自動車とよたじどうしゃ常務じょうむ取締役とりしまりやく豊田とよだ中央ちゅうおう研究所けんきゅうじょ代表だいひょう取締役とりしまりやく所長しょちょうつとめた。恋愛れんあい失敗しっぱいしんきずいキャバレーを経営けいえいしていたところを豊田とよだ喜一郎きいちろうられ、技術ぎじゅつ世界せかい復帰ふっきし、のちトヨタ・コロナ設計せっけいした。著書ちょしょ技術ぎじゅつしゃとしての経験けいけんをまとめた『じゅんなか不純ふじゅん』(黎明れいめい書房しょぼう、1974ねん)、自伝じでんてきな『平凡へいぼんなか非凡ひぼん』(佼成出版社こうせいしゅっぱんしゃ、1990ねん)がある。小説しょうせつ小栗おぐり風葉ふうよう養母ようぼしゅんあにたる。おなじく小説しょうせつ小中こなか陽太郎ようたろう養母ようぼめいおっとたる。

長男ちょうなん芸術げいじゅつ学者がくしゃ美学びがくしゃ京都きょうと造形ぞうけい芸術げいじゅつ大学だいがく芸術げいじゅつ学部がくぶ教授きょうじゅ梅原うめはら賢一郎けんいちろう、そのつまノーベルしょう学者がくしゃ福井ふくい謙一けんいちむすめ美也子みやこ[18]長女ちょうじょにバイオリニストで京都きょうと造形ぞうけい芸術げいじゅつ大学だいがく非常勤ひじょうきん講師こうし梅原うめはらひまり、そのおっと京都きょうと造形ぞうけい芸術げいじゅつ大学だいがくふく学長がくちょう建築けんちく横内よこうち敏人としひと[19]

交友こうゆう関係かんけい

編集へんしゅう

親友しんゆうには京大きょうだい哲学てつがくからの同級生どうきゅうせいである橋本はしもと峰雄みねお藤沢ふじさわれいおっと立命館大学りつめいかんだいがく勤務きんむ時代じだい同僚どうりょうであった白川しらかわしずがいる。わかころもっとしたしかったのはみなもとりょうえんであったという。

京大きょうだい哲学てつがくの4ねん先輩せんぱいたる上山うえやま春平しゅんぺい親友しんゆうであり、上山うえやまさそわれ、当時とうじ京都大学きょうとだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ教授きょうじゅ桑原くわばら武夫たけおらとい、交友こうゆうふか知遇ちぐうることになる。

司馬しばりょう太郎たろうとは長年ながねん交友こうゆうがあり、司馬しば作品さくひんである『空海くうかい風景ふうけい』の正直しょうじき批評ひひょうしたが、かれ激怒げきどさせて以来いらい2人ふたり犬猿けんえんなかとなる。そのかずつじ哲郎てつろう文化ぶんかしょう選考せんこう委員いいんたがいにつとめたえんなかなおり、司馬しば死去しきょかんしては、追悼ついとうぶんいている(国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター設立せつりつ以前いぜん梅原うめはら司馬しば評議ひょうぎ委員いいんとして選出せんしゅつしようと懇願こんがんしたが、ことわられた)。

生前せいぜん交流こうりゅうはなかったが、三島みしま由紀夫ゆきおどう年齢ねんれいであり、三島みしま死後しご梅原うめはら飛躍ひやくがあったことから、「三島みしま自分じぶんうつった」とおもっている。高橋たかはし和巳かずみとは交友こうゆうがあり、高橋たかはし死後しご自分じぶんながいものをくようになったから、高橋たかはしうつったとっている。

梅原うめはら日本にっぽんがく

編集へんしゅう

40さいぎまでたんちょはなかった。みずか著作ちょさくしゅう自序じじょにおいてかたるところによれば、これは「処女しょじょさくというものはあたまさきからしっぽまでもすべて独創どくそうてきであるべきである」という自己じこ信念しんねんのためであったという。1965ねん仏像ぶつぞう案内あんないのテレビ番組ばんぐみ司会しかいをし、これをほんにした『仏像ぶつぞう-しんとかたち』を佐和さわたかしけん望月もちづき信成のぶなりとの共著きょうちょ刊行かんこう毎日まいにち出版しゅっぱん文化ぶんかしょう受賞じゅしょう。1967ねん中公新書ちゅうこうしんしょから『地獄じごく思想しそう』を刊行かんこうし、古代こだいから宮澤みやざわ賢治けんじ太宰だざいおさむいた記述きじゅつおこない、ベストセラーとなる。

その日本にっぽん仏教ぶっきょう研究けんきゅうおこない、釈迦しゃかからインド仏教ぶっきょう中国ちゅうごく仏教ぶっきょう鎌倉かまくらしん仏教ぶっきょうまでをべる長編ちょうへん仏教ぶっきょう仏教ぶっきょう思想しそう』(共著きょうちょ)をあらわした。さらに、おおくの対談たいだんとうほん、『宗教しゅうきょう発見はっけんとう論文ろんぶんしゅう刊行かんこうのち創刊そうかんされた文芸ぶんげい雑誌ざっしすばる』を舞台ぶたいに、古代こだいかんする研究けんきゅうてき評論ひょうろん連載れんさいはじめる。該博がいはく知識ちしきによる大胆だいたん仮説かせつにより、「梅原うめはら古代こだいがく」「梅原うめはら日本にっぽんがく」「怨霊おんりょう史観しかん」とわれる独特どくとく歴史れきし研究けんきゅうしょ多数たすうあらわしている。梅原うめはら日本にっぽんがくおもみっつのはしらからなる。

梅原うめはらせつ信奉しんぽうしゃ有名人ゆうめいじんには井沢いざわ元彦もとひこがいる(ただし『水底みなそこうた』がりたないことを小説しょうせつ猿丸さるまる幻視げんしぎょう』で主張しゅちょうしている)。

国文学こくぶんがく考古学こうこがく歴史れきしがく立場たちばからは批判ひはんおおい。たとえば、法隆寺ほうりゅうじ聖徳太子しょうとくたいし一族いちぞく鎮魂ちんこん寺院じいんとするかんがかたからは、坂本さかもと太郎たろうの「法隆寺ほうりゅうじ怨霊おんりょうてらせつについて」(『日本にっぽん歴史れきしだい300ごう)を皮切かわきりとして、きびしい批判ひはん反論はんろんされている。また『水底みなそこうた』における柿本人麻呂かきのもとのひとまろすい死刑しけいせつは、益田ますだ勝実かつみらによって批判ひはん論文ろんぶん提出ていしゅつされている。

仏教ぶっきょう学者がくしゃはかまたに憲昭のりあきは、吉本よしもと隆明たかあき梅原うめはらたけし中沢なかざわ新一しんいちの3にん共著きょうちょ日本人にっぽんじん思想しそうしたか』(新潮社しんちょうしゃ)について、この3にんは「仏教ぶっきょう基本きほんてきな『常識じょうしき』さえらず勝手かって発言はつげん繰返くりかえしている」「本書ほんしょ書評しょひょう対象たいしょうえらんだのは、かかるいかがわしいものをただるにまかせることはできなかったからにぎない」とはげしく批判ひはんし、単純たんじゅん基本きほんてきあやまりやあいまいで説明せつめい不足ふそく箇所かしょすくなくないと苦言くげんていしている[20]

また梅原うめはら国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンターにちぶんけん)の創設そうせつ尽力じんりょくし、1987ねんにちぶんけん初代しょだい所長しょちょう就任しゅうにんした。しかしにちぶんけんについては当時とうじ中曽根なかそね内閣ないかくとの距離きょりちかさや、構想こうそうからわずかすうねん設立せつりついたった経緯けいい所長しょちょうつとめる梅原うめはら学者がくしゃとしての資質ししつなどがかく歴史れきし学会がっかいから問題もんだいされていた[21]。しかし、そのなか本当ほんとう批判ひはんされていたのは、所長しょちょうつとめる梅原うめはら研究けんきゅう姿勢しせいそのものであった。2016ねんぶんけんかんする討論とうろんかい宮地みやじ正人まさとは、「学問がくもんというか、哲学てつがくでもないし歴史れきしでもないし、ああいうおもきを平気へいきうというのはえられない」と梅原うめはら学問がくもん姿勢しせいそのものが学界がっかいから嫌悪けんおされていたことをあきらかにしている[22]

人類じんるい哲学てつがく

編集へんしゅう

人類じんるい哲学てつがく」は、初期しょき西洋せいよう哲学てつがく実存じつぞん主義しゅぎ研究けんきゅう、そして日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅう梅原うめはら日本にっぽんがくて、2013ねん人類じんるい哲学てつがく序説じょせつ』(岩波書店いわなみしょてん)で提唱ていしょうされた哲学てつがくてき倫理りんりがくてき主張しゅちょうである。

まず梅原うめはらは、ギリシア哲学てつがく起源きげんとする西洋せいよう文明ぶんめい特徴とくちょうてきな「哲学てつがくphilosophía」のありかた指摘してきする。「中国ちゅうごく哲学てつがく」や「インド哲学てつがく」というようなかたは、西洋せいよう哲学てつがく基準きじゅんわせてそうんでいるだけであり、「哲学てつがくphilosophía」はいま西洋せいよう哲学てつがくしかない、と梅原うめはらはいう。梅原うめはらは、西洋せいよう文明ぶんめいわくないまらない、あらゆる文明ぶんめい文化ぶんかけん地球ちきゅうすべての人類じんるい対応たいおうできる「人類じんるい哲学てつがく」をてようとし、そのかぎとなる概念がいねん仏教ぶっきょう用語ようご草木くさき国土こくど悉皆しっかい成仏じょうぶつ」として提示ていじする。『人類じんるい哲学てつがく序説じょせつ』では、まずきん現代げんだい哲学てつがく批判ひはんてき検証けんしょうがなされており、ルネ・デカルトフリードリヒ・ニーチェマルティン・ハイデガーおも批判ひはん対象たいしょう肯定こうていてき評価ひょうかしているてんや、梅原うめはら自身じしん影響えいきょうけたてんなどもしるされている)として西洋せいよう哲学てつがくにおける人間にんげん中心ちゅうしん主義しゅぎ問題もんだいとそれを西洋せいよう哲学てつがくわくないえようとすることの限界げんかいろんじられ、そのうえで「草木くさき国土こくど悉皆しっかい成仏じょうぶつ」へいた議論ぎろん展開てんかいされている。

社会しゃかい運動うんどう:きゅうじょうかい

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梅原うめはらは、日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい9じょう改正かいせい阻止そし目的もくてきとする社会しゃかい運動うんどうきゅうじょうかいびかけにん一人ひとりであった[23]。2004ねん6がつに9にん作家さっか哲学てつがくしゃによって結成けっせいされたきゅうじょうかいは、その科学かがく、スポーツ、宗教しゅうきょう医療いりょうなどかく分野ぶんや地域ちいき多数たすう支持しじしゃあつめた。梅原うめはらは、「政治せいじながれがうんとみぎっているので、歯止はどめとしてきゅうじょうまも必要ひつようがあるという意思いし表示ひょうじをしたかった」とべている[24]憲法けんぽう9じょう京都きょうとかい代表だいひょう世話人せわにんとして、2011ねん5がつ3にち開催かいさいされた「5・3憲法けんぽう集会しゅうかい」で講演こうえんおこなった[25]

略歴りゃくれき

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学歴がくれき

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職歴しょくれき

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役職やくしょく

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しょうれき

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著作ちょさく

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たんちょ

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  • 地獄じごく思想しそう』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1967ねん)のち文庫ぶんこ
  • 宗教しゅうきょう発見はっけん』(筑摩書房ちくましょぼう論文ろんぶんしゅう、1967ねん)のち講談社こうだんしゃ文庫ぶんこちくま学芸がくげい文庫ぶんこ(2002ねん
  • 哲学てつがくするしん』(講談社こうだんしゃ論文ろんぶんしゅう、1968ねん)のち文庫ぶんこ学術がくじゅつ文庫ぶんこ
  • わらいの構造こうぞう』(角川書店かどかわしょてん、1972ねん)のち文庫ぶんこ
  • かくされた十字架じゅうじか 法隆寺ほうりゅうじろん』(新潮社しんちょうしゃ、1972ねん)のち文庫ぶんこ
  • 水底みなそこうた 柿本人麿かきのもとのひとまろろん』(新潮社しんちょうしゃ、1973ねん)のち文庫ぶんこ改版かいはん2015ねん
  • 黄泉よみおう 私見しけん高松たかまつづか』(新潮社しんちょうしゃ、1973ねん)のち文庫ぶんこ
  • 古典こてん発見はっけん』(講談社こうだんしゃ、1973ねん)のち学術がくじゅつ文庫ぶんこ
  • 『さまよえる歌集かしゅう』(集英社しゅうえいしゃ、1974ねん)のち文庫ぶんこ
  • とう』(集英社しゅうえいしゃ、1976ねん)のち文庫ぶんこ
  • みずうみ伝説でんせつ 画家がか三橋みつはし節子せつこあい』(新潮社しんちょうしゃ、1977ねん)のち文庫ぶんこ
  • 学問がくもんのすすめ』(佼成出版社こうせいしゅっぱんしゃ、1979ねん)(自伝じでんふくむ)のち角川かどかわ文庫ぶんこ(1981ねん
  • うた復籍ふくせき』(集英社しゅうえいしゃ、1979ねん)のち文庫ぶんこ
  • 怨霊おんりょう縄文じょうもん』(朝日出版社あさひしゅっぱんしゃ、1979ねん)のち徳間とくま文庫ぶんこ
  • 聖徳太子しょうとくたいし』(小学館しょうがくかん、1980ねん - 1985ねん)のち集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ(1993ねん
  • 仏教ぶっきょう思想しそう』(角川書店かどかわしょてん、1980ねん)のち文庫ぶんこ
  • 日本にっぽん深層しんそう――縄文じょうもん蝦夷えぞ文化ぶんかさぐる』(佼成出版社こうせいしゅっぱんしゃ、1983ねん新版しんぱん、1985ねん)のち集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ(1994ねん
  • 『「歎異しょう」と本願寺ほんがんじ教団きょうだん』(小学館しょうがくかん 1984ねん
  • 精神せいしん発見はっけん』(角川かどかわ文庫ぶんこ 1985ねん
  • 日本にっぽんがく事始ことはじめ』(集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ 1985ねん
  • ヤマトタケル』(新潮社しんちょうしゃ、スーパー歌舞伎かぶき、1986ねん
  • 文明ぶんめいへのい』(集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ 1986ねん
  • 飛鳥ひちょうとはなにか』(集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ 1986ねん
  • 日常にちじょう思想しそう』(集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ 1986ねん
  • 仏像ぶつぞうのこころ』(集英社しゅうえいしゃ 1987ねん)(「仏像ぶつぞうしんとかたち」から梅原うめはら執筆しっぴつぶん
  • 写楽しゃらく仮名かめい悲劇ひげき』(1987ねん新潮社しんちょうしゃ) のち文庫ぶんこ
  • 最澄さいちょう瞑想めいそう』(佼成出版社こうせいしゅっぱんしゃ、1987ねん
  • あかじん諦観ていかん』(集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ 1987ねん
  • 日本にっぽん冒険ぼうけんぜん3かん角川書店かどかわしょてん、1988ねん - 1989ねん)のち文庫ぶんこ
  • ギルガメシュ』(新潮社しんちょうしゃ、1988ねん
  • 日本人にっぽんじんの「あのかん』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ論文ろんぶんしゅう、1989ねん)のち文庫ぶんこ
  • さんにん祖師そし 最澄さいちょう空海くうかい親鸞しんらん』(佼成出版社こうせいしゅっぱんしゃ 1989ねん
  • 小栗おぐり判官ほうがん』(新潮社しんちょうしゃ、スーパー歌舞伎かぶき原作げんさく、1989ねん
  • 誤解ごかいされた歎異しょう』(光文社こうぶんしゃ・カッパ・ホームス、1990ねん)のち文庫ぶんこ
  • 日本にっぽん原郷はらごう熊野くまの』(新潮社しんちょうしゃ・とんぼのほん、1990ねん
  • 人間にんげん美術びじゅつ 10――浮世うきよ情念じょうねん』(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、1990ねん
  • 『〈もり思想しそう〉が人類じんるいすくう――じゅういち世紀せいきにおける日本にっぽん文明ぶんめい役割やくわり』(小学館しょうがくかん、1991ねん)。『もり思想しそう人類じんるいすくう』(小学館しょうがくかんライブラリー、1995ねん新版しんぱんPHP研究所けんきゅうじょ改版かいはん2015ねん
  • 海人あま天皇てんのう』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1991ねん)のち新潮しんちょう文庫ぶんこ朝日あさひ文庫ぶんこ
  • 人間にんげん美術びじゅつ7――バサラ幽玄ゆうげん』(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ 1991ねん
  • 混沌こんとん思想しそう――21世紀せいきひら対話たいわ』(PHP研究所けんきゅうじょ、1992ねん)のち文庫ぶんこ
  • 日本人にっぽんじんたましい あのる』(光文社こうぶんしゃカッパ・ホームス、1992ねん
  • 古代こだい幻視げんし』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1992ねん)のち文庫ぶんこ
  • ひゃくにんいち』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1993ねん)のち新潮しんちょう文庫ぶんこ
  • 梅原うめはらたけしの『歎異しょう入門にゅうもん』(プレジデントしゃ、1993ねん)のちPHP文庫ぶんこ
  • 中世ちゅうせい小説しょうせつしゅう』(新潮社しんちょうしゃ、1993ねん) のち文庫ぶんこ
  • 饗宴きょうえん 随想ずいそう対話たいわ』(講談社こうだんしゃ、1994ねん
  • しょうたる所以ゆえん――リーダーたるおとこ条件じょうけん』(光文社こうぶんしゃ、1994ねん
  • おもうままに』シリーズ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう
    • 世界せかい人間にんげん――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1994ねん)のち文庫ぶんこ
    • 自然しぜん人生じんせい――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1995ねん)のち文庫ぶんこ
    • いやしとルサンチマン――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1997ねん
    • かめとムツゴロウ――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1999ねん
    • 『シギと法然ほうねん――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2000ねん
    • 宗教しゅうきょう道徳どうとく――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2002ねん)のち文庫ぶんこ
    • 戦争せんそう仏教ぶっきょう――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2004ねん)のち文庫ぶんこ
    • かみ怨霊おんりょう――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2008ねん
    • 親鸞しんらん世阿弥ぜあみ――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2011ねん
    • 老耄おいぼれ哲学てつがく――おもうままに』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2015ねん
  • しん危機ききすくえ――日本にっぽん教育きょういくおしえないもの』(光文社こうぶんしゃ 1995ねん)のち文庫ぶんこ
  • 梅原うめはらたけし世界せかい』(平凡社へいぼんしゃ、1995ねん
  • 『もののかたり』(あわ交社、1995ねん
  • 共生きょうせい循環じゅんかん思想しそう』(小学館しょうがくかん、1996ねん
  • 『あの日本人にっぽんじん』(日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい・NHKライブラリー、1996ねん
  • 京都きょうと発見はっけんぜん9かん新潮社しんちょうしゃ、1997ねん - 2007ねん
  • 『オオクニヌシ』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1997ねん
  • 芸術げいじゅつ生命せいめいディオニュソスせられて』(岩波書店いわなみしょてん、1998ねん
  • 天皇てんのうの"ふるさと"日向ひなたをゆく』(新潮社しんちょうしゃ、2000ねん)のち文庫ぶんこ
  • 浄土じょうど仏教ぶっきょう思想しそうまき8かん法然ほうねん』(講談社こうだんしゃ 2000ねん)のち文庫ぶんこ、『法然ほうねん――じゅうさいやみ』(角川かどかわ文庫ぶんこうえした)、2006ねん
  • 脳死のうし本当ほんとうひとか』(PHP研究所けんきゅうじょ、2000ねん
  • 古事記こじき』(学研がっけんM文庫ぶんこ、2001ねん)のち増補ぞうほ新版しんぱん、『古事記こじき増補ぞうほ新版しんぱん)』(学研がっけんプラス、2016ねん
  • さん度目どめのガンよ、るならごゆるりと』(光文社こうぶんしゃ、2001ねん
  • 梅原うめはらたけし授業じゅぎょう』シリーズ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ
    • 梅原うめはらたけし授業じゅぎょう――仏教ぶっきょう』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2002ねん)のち文庫ぶんこ
    • 梅原うめはらたけし授業じゅぎょう――道徳どうとく』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2003ねん)のち文庫ぶんこ
    • 梅原うめはらたけし授業じゅぎょう――ふつになろう』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2006ねん)のち文庫ぶんこ
    • 梅原うめはらたけし授業じゅぎょう――のうる』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2012ねん)のち文庫ぶんこ
  • 王様おうさま恐竜きょうりゅう スーパー狂言きょうげん誕生たんじょう』(集英社しゅうえいしゃ、2003ねん
  • 法然ほうねんかなしみ』(小学館しょうがくかん文庫ぶんこうえした)、2004ねん)。もとはんは(梅原うめはらたけし著作ちょさくしゅうだい10かん小学館しょうがくかん、2000ねん
  • 梅原うめはらたけし日本にっぽん仏教ぶっきょうをゆく』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2004ねん)のち文庫ぶんこ
  • ははごころ ふつごころ――ゆたかにきる知恵ちえ』(小学館しょうがくかん、2004ねん)。『ふつのこころとははごころ』(小学館しょうがくかん文庫ぶんこ、2006ねん
  • 日本にっぽんれいせい――越後えちご佐渡さどあるく』(佼成出版社こうせいしゅっぱんしゃ、2004ねん)のち新潮しんちょう文庫ぶんこ(2007ねん
  • 最澄さいちょう空海くうかい――日本人にっぽんじんしんのふるさと』(小学館しょうがくかん文庫ぶんこ 2005ねん
  • 親鸞しんらん告白こくはく』(小学館しょうがくかん文庫ぶんこ 2006ねん
  • かみごろしの日本にっぽん はん時代じだいてきみつ』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2006ねん)のち文庫ぶんこ
  • 歓喜かんきする円空えんくう』(新潮社しんちょうしゃ、2006ねん)のち文庫ぶんこ
  • 親鸞しんらんのこころ――永遠えいえんいのちきる』(小学館しょうがくかん文庫ぶんこ、2008ねん
  • 『うつぼぶね』シリーズ角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん
    • 『うつぼぶねⅠ――おうかわかち』(角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2008ねん
    • 『うつぼぶねⅡ――観阿弥かんあみ正成まさしげ』(角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2009ねん
    • 『うつぼぶねⅢ――世阿弥ぜあみ神秘しんぴ』(角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2010ねん
    • 『うつぼぶねIV――世阿弥ぜあみこい』(角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2012ねん
    • 『うつぼぶねV――もとみやび悲劇ひげき』(角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2013ねん
  • 日本にっぽん伝統でんとうとはなにか』(2010ねんミネルみねるァ書房ぁしょぼう
  • ほうむられた王朝おうちょう――古代こだい出雲いずもなぞく』(2010ねん新潮社しんちょうしゃ)のち文庫ぶんこ(2012ねん
  • 京都きょうとおにだより』(あわ交社、2010ねん
  • まなぶよろこび――創造そうぞう発見はっけん――』(朝日出版社あさひしゅっぱんしゃ、2011ねん
  • 梅原うめはらたけし仏教ぶっきょう授業じゅぎょう――法然ほうねん親鸞しんらん一遍いっぺん』(PHP研究所けんきゅうじょ、2012ねん) のち文庫ぶんこ
  • 人類じんるい哲学てつがく序説じょせつ』(岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ、2013ねん
  • 縄文じょうもん神秘しんぴ』(学研がっけんパブリッシング、2013ねん
  • 親鸞しんらんよっつのなぞ」をく』(新潮社しんちょうしゃ、2014ねん)のち文庫ぶんこ

編著へんちょ監修かんしゅう

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共著きょうちょ

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対談たいだんしゅう

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  • かんがえるたのしさ 梅原うめはらたけし対談たいだんしゅう』(新潮社しんちょうしゃ、1975ねん
  • 芸術げいじゅつ世界せかい上下じょうげ 梅原うめはらたけし対談たいだんしゅう』(講談社こうだんしゃ、1980ねん
  • 梅原うめはらたけしぜん対話たいわぜん6かん集英社しゅうえいしゃ、1984ねん
  • 少年しょうねんゆめ 梅原うめはらたけし対談たいだんしゅう』(小学館しょうがくかんのちライブラリー、1994ねん
  • ここのつの対話たいわ』(潮出版社うしおしゅっぱんしゃ、2000ねん
  • かみたち:梅原うめはらたけし対話たいわしゅう』(あわ交社、2013ねん
  • 人類じんるい哲学てつがくへ』(NTT出版しゅっぱん、2013ねん
  • 少年しょうねんゆめ』(河出かわで文庫ぶんこ、2016ねん

著作ちょさくしゅう

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  • 梅原うめはらたけし著作ちょさくしゅうぜん20かん集英社しゅうえいしゃ、1981ねん - 1982ねん
  • 梅原うめはらたけし著作ちょさくしゅうぜん20かん小学館しょうがくかん、2000ねん - 2003ねん

舞台ぶたい作品さくひん

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論文ろんぶん

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テレビ出演しゅつえん

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ほか

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1980年代ねんだいにロビン・ギルがこのたねの「日本にっぽん文化ぶんか優越ゆうえつろん」に反論はんろんおこなっている。[よう出典しゅってん]

出典しゅってん

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  1. ^ だれもがみとめる破格はかくひと梅原うめはらたけしわかれのかい”. 産経さんけいニュース (2019ねん4がつ21にち). 2019ねん12月18にち閲覧えつらん
  2. ^ 平成へいせい能楽のうがく 進取しんしゅ継承けいしょう両輪りょうりん世阿弥ぜあみ 生誕せいたん650ねん. YOMIURI ONLINE(読売新聞よみうりしんぶん. オリジナルの2013ねん5がつ31にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130610040352/http://www.yomiuri.co.jp:80/entertainment/news2/20130531-OYT8T00910.htm 2019ねん6がつ9にち閲覧えつらん 
  3. ^ 哲学てつがくしゃ梅原うめはらたけしさん死去しきょ 日本にっぽん古代こだい大胆だいたん仮説かせつ展開てんかい - 朝日新聞あさひしんぶんデジタル 2019ねん1がつ14にち
  4. ^ 官報かんぽう』7451ごう平成へいせい31ねん2がつ20日はつか
  5. ^ 官報かんぽうだい4610ごう昭和しょうわ17ねん5がつ26にち、p.815
  6. ^ 官報かんぽうだい4871ごう昭和しょうわ18ねん4がつ10日とおか、p.336
  7. ^ a b c d e f 兵庫ひょうごけん三田みただて狭間はざま中学校ちゅうがっこうだいいち学年がくねん学年がくねん通信つうしんそう」30ごう(2017ねん7がつ20日はつか)「戦争せんそうについてかんがえてみよう!
  8. ^ a b c d e f 読売新聞よみうりしんぶん』2015ねん8がつ16にち
  9. ^ 万博ばんぱく大学だいがくだい13かい講義こうぎ 梅村うめむらたけし[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  10. ^ ひがし梅原うめはら 2012, p. 313.
  11. ^ ひがし梅原うめはら 2012, p. 不明ふめい[ようページ番号ばんごう].
  12. ^ みや﨑駿みや﨑駿と網野あみの善彦よしひことの対談たいだん」『かえてん岩波書店いわなみしょてん、2008ねん7がつISBN 9784000223942 [ようページ番号ばんごう]
  13. ^ 参考さんこう梅原うめはらたけしかくされたファシズム批判ひはん」(有城あるき三郎さぶろう)『現代げんだい』1982ねん12がつごうなど。
  14. ^ ひがし梅原うめはら 2012, p. 317.
  15. ^ コラム「天眼てんがん」『京都きょうと新聞しんぶん』2011ねん3がつ26にち朝刊ちょうかん
  16. ^ 五郎ごろうワールド】奇人きじんまえ真理しんりげん読売新聞よみうりしんぶん』2019ねん2がつ9にち朝刊ちょうかん解説かいせつめん)。2019ねん2がつ15にち閲覧えつらん
  17. ^ かんけん協会きょうかい理事りじ評議ひょうぎいんめいばかり、会議かいぎ出席しゅっせきゼロも『読売新聞よみうりしんぶん』2009ねん3がつ16にち[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  18. ^ 梅原うめはら美也子みやこ ちょ梅原うめはら賢一郎けんいちろう へん不在ふざいそら「いま・ここ」をきた女性じょせい肖像しょうぞう角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、2011ねん2がつISBN 4046537396 [ようページ番号ばんごう]
  19. ^ 親子おやこのカタチ(105)梅原うめはらたけし×梅原うめはらひまり週刊しゅうかん朝日あさひ』113(34), 57-61, 2008-07-18
  20. ^ はかまたに憲昭のりあき書評しょひょう吉本よしもと隆明たかあき梅原うめはらたけし中沢なかざわ新一しんいちちょ, 『日本人にっぽんじん思想しそうしたか』」」『駒澤こまざわ短期大學たんきだいがく佛教ぶっきょう論集ろんしゅう 2』、駒澤大学こまざわだいがく、1996ねん10がつ、133-147ぺーじ 
  21. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 「<鼎談ていだん>「にちぶんけん問題もんだい」をめぐって」 『日本にっぽん研究けんきゅう』55かん 国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター、2017ねん5がつ、172‐173ぺーじ
  22. ^ 倉本くらもと、2017ねん、198ぺーじ
  23. ^ http://www.9-jo.jp/profile.html
  24. ^ 「9じょうには『ちょう近代きんだい』の理想りそうふくまれている」梅原うめはらたけしさん語録ごろく”. 毎日新聞まいにちしんぶん (2019ねん1がつ14にち). 2023ねん7がつ23にち閲覧えつらん
  25. ^ https://9-kyoto.net/kenpo/170.html
  26. ^ 中日ちゅうにち文化ぶんかしょう 受賞じゅしょうしゃ一覧いちらん”. 中日新聞ちゅうにちしんぶん. 2022ねん6がつ2にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 梅原うめはらたけし講演こうえんかい 少年しょうねんゆめ』(協和発酵きょうわはっこう、1994ねん
  • 鼎談ていだん 梅原うめはらたけし世界せかい』(ひらたあずまひろし梅原うめはらたけし ちょ草木くさき生起せいきするくに――京都きょうと」、あずまひろし へん日本にっぽん2.0』ゲンロン〈思想しそう地図ちずβべーた; vol. 3〉、2012ねん7がつISBN 9784990524357 凡社、1995ねん
  • 人類じんるい創造そうぞうへ―梅原うめはらたけしとの交点こうてんから 梅原うめはらたけし古稀こき記念きねんろん文集ぶんしゅう』(中西なかにしすすむへん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1995ねん
  • 別冊べっさつ太陽たいよう 梅原うめはらたけし世界せかい しんふつのものがたり』(平凡社へいぼんしゃ、2005ねん
  • やすいゆたか評伝ひょうでん 梅原うめはらたけしかなしみのパドス』(ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2005ねん
  • やすいゆたか『梅原うめはらたけし 聖徳太子しょうとくたいしゆめ―スーパー歌舞伎かぶき狂言きょうげん世界せかい』(ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2009ねん
  • 坂口さかぐち昌弘まさひろちょ『ヴァーサス日本にっぽん文化ぶんか精神せいしん文學ぶんがくもり

外部がいぶリンク

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がくしょく
先代せんだい
新設しんせつ
ものつくり大学だいがく総長そうちょう
初代しょだい2001ねん -
次代じだい
現職げんしょく
公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
  国際こくさい日本にっぽん文化ぶんか研究けんきゅうセンター所長しょちょう
初代しょだい1987ねん - 1995ねん
次代じだい
河合かわい隼雄はやお
文化ぶんか
先代せんだい
尾崎おざき秀樹ひでき
日本にっぽんペンクラブ会長かいちょう
だい13だい1997ねん - 2003ねん
次代じだい
井上いのうえ