(Translated by https://www.hiragana.jp/)
堀辰雄 - Wikipedia

ほり辰雄たつお

日本にっぽん作家さっか (1904-1953)

ほり 辰雄たつお(ほり たつお、1904ねん明治めいじ37ねん12月28にち - 1953ねん昭和しょうわ28ねん5月28にち)は、日本にっぽん小説しょうせつ[2]

ほり 辰雄たつお
(ほり たつお)
巻頭かんとうグラビア「作家さっか訪問ほうもん
(『若草わかくさ』1935ねん7がつごう)30さい当時とうじ[1]
誕生たんじょう 1904ねん12月28にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう麹町こうじまちこうじまち平河ひらかわまち5丁目ちょうめ2番地ばんちげん東京とうきょう千代田ちよだ平河ひらかわまち2丁目ちょうめ
死没しぼつ (1953-05-28) 1953ねん5月28にち(48さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん長野ながのけん北佐久きたさくぐん軽井沢かるいざわまち
墓地ぼち 日本の旗 日本にっぽん 多磨たま霊園れいえん
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
教育きょういく 学士がくし文学ぶんがく
最終さいしゅう学歴がくれき 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく国文こくぶん
活動かつどう期間きかん 1925ねん - 1947ねん
ジャンル 小説しょうせつ随筆ずいひつ
文学ぶんがく活動かつどう しん心理しんり主義しゅぎ王朝おうちょう女流じょりゅう文学ぶんがく
代表だいひょうさくルウベンスのにせ』(1927ねん
聖家族せいかぞく』(1930ねん
うつくしいむら』(1933ねん
ふうちぬ』(1937ねん
かげろふの日記にっき』(1937ねん
菜穂子なほこ』(1941ねん
大和やまと信濃しなの』(1943ねん
おも受賞じゅしょうれき 毎日まいにち出版しゅっぱん文化ぶんかしょう(1950ねん
デビューさくルウベンスのにせ』(1927ねん
配偶はいぐうしゃ ほり多恵子たえこ
ウィキポータル 文学ぶんがく
テンプレートを表示ひょうじ

それまで私小説ししょうせつまととなっていた日本にっぽん小説しょうせつながれのなかに、意識いしきてきフィクションによる「つくりもの」としてのロマン西洋せいようりゅう小説しょうせつ)という文学ぶんがく形式けいしき確立かくりつしようとした[3]フランス文学ぶんがく心理しんり主義しゅぎ積極せっきょくてきれ、日本にっぽん古典こてん王朝おうちょう女流じょりゅう文学ぶんがくにもあたらしい生命せいめい見出みいだし、それらを融合ゆうごうさせることによって独自どくじ文学ぶんがく世界せかい創造そうぞうした[4]肺結核はいけっかくみ、長野ながのけん軽井沢かるいざわ度々どど療養りょうよう当地とうち舞台ぶたいにした作品さくひんおおのこ[2]晩年ばんねんにはおわり住処すみかとした。

戦時せんじ不安ふあん時代じだいに、時流じりゅう安易あんい迎合げいごうしないほり作風さくふうは、後進こうしん世代せだい立原たちはら道造みちぞう中村なかむら真一郎しんいちろう福永ふくなが武彦たけひこ丸岡まるおかあきらなどから支持しじされ、かれらはほり弟子でしのような存在そんざいとしてられている。戦争せんそう末期まっきからは結核けっかく症状しょうじょう悪化あっかし、戦後せんごはほとんど作品さくひん発表はっぴょうもできず、闘病とうびょう生活せいかつおくり48さい死去しきょした[5][2]

生涯しょうがい

編集へんしゅう

幼少ようしょう時代じだい

編集へんしゅう

1904ねん明治めいじ37ねん12月28にち東京とうきょう東京とうきょう麹町こうじまちこうじまち平河ひらかわまち5丁目ちょうめ2番地ばんちげん東京とうきょう千代田ちよだ平河ひらかわまち2丁目ちょうめ13ばん)にて出生しゅっしょう[4]実父じっぷほり浜之はまのすけ広島ひろしまはん士族しぞくで、維新いしんこう上京じょうきょう東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ監督かんとく書記しょきつとめていた[6][4]はは西村にしむら志気しきは、東京とうきょう町家まちやむすめ。「辰雄たつお」という名前なまえは、たつねんまれにちなんで命名めいめいされた[4]浜之はまのすけには国許くにもと広島ひろしまつま・こうがいたが病身びょうしんがなく、辰雄たつお堀家ほりいえ嫡男ちゃくなんとしてとどけられ、はは志気しき堀家ほりいえ同居どうきょする[6][4]1906ねん明治めいじ39ねん)、正妻せいさい・こうが上京じょうきょうすることになったため、んだ手放てばなしたくない志気しきは2さい辰雄たつおれて堀家ほりいえ家出いえでし、本所ほんじょ向島むこうじま小梅こうめまちげん墨田すみだ向島むこうじま1丁目ちょうめ)のいもうと夫婦ふうふいえうつ[6][4][2]。それからほどなく実父じっぷ浜之はまのすけのうわずらった[6]1908ねん明治めいじ41ねん)、辰雄たつお4さいときはは志気しき向島むこうじま須崎すさきまち彫金ちょうきん上條かみじょう松吉まつきち寿ことぶきそくごうした)にとついだ[4][6][7][8][9]

辰雄たつおはは養父ようふも、江戸えどはだのさっぱりした気性きしょうであったため、のことでいち悶着もんちゃくすることもなく、だれにも本当ほんとう親子おやこられ、辰雄たつお養父ようふ松吉まつよしのことを父親ちちおやしんじ、ちちまでそれをうたがったことがなかった[6][4][10]。なお、実父じっぷほり浜之はまのすけは、1910ねん明治めいじ43ねん)4がつ死去しきょした[2]。そのつま・こうも1914ねん大正たいしょう3ねん)に死去しきょし、以後いご浜之はまのすけ恩給おんきゅう辰雄たつお成年せいねんたっするまで受給じゅきゅうされることになった[4][2]はは志気しきはこのおかね辰雄たつお学費がくひとしてたくわえた[11]

数学すうがく少年しょうねん文学ぶんがく開眼かいがん

編集へんしゅう

1917ねん大正たいしょう6ねん)3がつ牛島うしじま小学校しょうがっこうげん小梅こうめ小学校しょうがっこう卒業そつぎょう東京とうきょう府立ふりつだいさん中学校ちゅうがっこうげん東京とうきょう都立とりつ両国りょうこく高等こうとう学校がっこう附属ふぞく中学校ちゅうがっこう)へすすみ、4ねん修了しゅうりょうで、1921ねん大正たいしょう10ねん)4がつ第一高等学校だいちこうとうがっこう理科りかおつるいドイツ)へ入学にゅうがく[4][2]はじめて親元おやもとはなれて寄宿舎きしゅくしゃはいった。神西じんざいきよしい、終生しゅうせい友人ゆうじんとなる[4]中学ちゅうがく時代じだい数学すうがくきで未来みらい数学すうがくしゃ夢見ゆめみていた辰雄たつおを、文学ぶんがくほう手引てびきし、目覚めざめさせたのも神西じんざいであった[4]。また、同期どうきには、小林こばやし秀雄ひでお深田ふかた久弥ひさや笠原かさはら健治郎けんじろうらがいた[2]入学にゅうがくなつには、かねてから近所きんじょしたしくしていた国文学こくぶんがくしゃ内海うつみ弘蔵こうぞう一家いっか避暑ひしょとして滞在たいざいしている千葉ちばけん君津きみつぐん竹岡たけおかむらげん富津とみつ)をたずねた[4]。このなつ体験たいけんから、のちに「甘栗あまぐり」、「麦藁むぎわら帽子ぼうし」がされる[4]。このとしの11月に神西じんざい雑誌ざっし蒼穹そうきゅう』に「きよさびしく」を発表はっぴょうした[2]

高校こうこう在学ざいがくちゅう1923ねん大正たいしょう12ねん)1がつ神西じんざいきよしからおしえられて萩原はぎはら朔太郎さくたろうだい詩集ししゅうあおねこ』を耽読たんどくし、魅力みりょく[12][4]。5月にはさんちゅう校長こうちょう広瀬ひろせつよしから室生むろう犀星さいせい紹介しょうかいされ、8がつ室生むろうともはじめて軽井沢かるいざわ[4]。しかし9がつ1にち関東大震災かんとうだいしんさい隅田川すみだがわ避難ひなんし、辰雄たつお九死きゅうし一生いっしょうたものの、母親ははおや水死すいし。50さいであった[4]辰雄たつお避難ひなんさきみなみ葛飾かつしかぐん四ツ木よつぎむらげん葛飾かつしか)に養父ようふ仮寓かぐう[11]。10月、罹災りさい室生むろう故郷こきょう金沢かなざわきあげる直前ちょくぜんに、芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ紹介しょうかいされた[4][2]震災しんさい隅田川すみだがわおよ[13]ははすう日間にちかんさがまわった辰雄たつお身体しんたい疲労ひろうははのショックの影響えいきょうで、ふゆには肋膜炎ろくまくえんかか休学きゅうがく[11][2]。この運命うんめいてき波乱はらんとし一連いちれん経験けいけんが、そのほり辰雄たつお文学ぶんがく形作かたちづくった[4]

1924ねん大正たいしょう13ねん)4がつ本所ほんじょ向島むこうじま小梅こうめまち2-1(げん墨田すみだ向島むこうじま1丁目ちょうめ)のあといえてて養父ようふともうつ[2][11]。7月、辰雄たつお金沢かなざわ室生むろうたずねた帰途きとに、軽井沢かるいざわ芥川あくたがわのところへり、芥川あくたがわ恋人こいびとである片山かたやま広子ひろこ筆名ひつめい松村まつむらみね)や、そのむすめ総子ふさこ筆名ひつめいそうあきら)とい、総子ふさこ恋心こいごころいだ[4][1]辰雄たつおはこのとしいちだかの『校友こうゆうかい雑誌ざっし』にエッセイ「快適かいてき主義しゅぎ」や投稿とうこうしているが、そこには前年ぜんねんくるしい体験たいけんを、「快適かいてき」なものに逆転ぎゃくてんさせようとする意志いし垣間見かいまみられる[4]

芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけと『聖家族せいかぞく

編集へんしゅう

1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ国文こくぶん入学にゅうがく[1][2]室生むろう犀星さいせいたく中野なかの重治しげはる窪川くぼかわ鶴次郎つるじろうたちとうかたわら、小林こばやし秀雄ひでお永井ながい龍男たつおらの同人どうじん山繭やままゆ』に「甘栗あまぐり」を発表はっぴょうする[1]中野なかの窪川くぼかわらと駒込こまごみ神明しんめいまちげん文京ぶんきょう本駒込ほんこまごめどうざかカフェ紅緑こうろく」(こうろく)にあつまり、当時とうじ女給じょきゅうをしていた佐多さた稲子いなこともこのころ[14]。また、7がつから9がつ上旬じょうじゅんまで軽井沢かるいざわ部屋へやり、芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ萩原はぎはら朔太郎さくたろう小穴おあな隆一りゅういち佐佐木ささき茂索もさくらに随伴ずいはん熊野くまのすめらぎだい神社じんじゃとうげふるえきなどをドライブでまわった[11]。このなつには、スタンダールアンドレ・ジッドなどの作品さくひんおおんだ[11]1926ねん大正たいしょう15ねん)4がつ中野なかの窪川くぼかわ平木ひらき二六にろく西沢にしざわ隆二りゅうじ宮木みやぎ喜久雄きくおらと同人どうじん驢馬ろば』を創刊そうかん[1][2]芸術げいじゅつプロレタリア文学ぶんがくという戦前せんぜん昭和しょうわ時代じだい文学ぶんがく代表だいひょうするながれとのつながりをもった。ほり作品さくひんがもつ独特どくとく雰囲気ふんいきは、これらの同人どうじん影響えいきょうによるところもあり、「水族館すいぞくかん」などモダニズム影響えいきょう色濃いろこくもった作品さくひんもある。9月に神西じんざいきよし吉村よしむら鉄太郎てつたろう片山かたやま広子ひろこ息子むすこ片山かたやま達吉たつきち)、青木あおきすすむ竹山たけやま道雄みちお)らと同人どうじんほうき』(のち『にじ』と改題かいだい)を創刊そうかんし、その山繭やままゆ』と合流ごうりゅう[1]

1927ねん昭和しょうわ2ねん)2がつラディゲなどの影響えいきょうけ、片山かたやま総子ふさこをモデルにした処女しょじょさくルウベンスのにせ」の初稿しょこう同人どうじん山繭やままゆ』に発表はっぴょう[1][2]。7月24にちには芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ自殺じさつし、おおきなショックをける。絶望ぜつぼうてき精神せいしん状態じょうたいのまま、9月に芥川あくたがわおい葛巻くずまき義敏よしとしともに『芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ全集ぜんしゅう』の編纂へんさん従事じゅうじする[1][2]1928ねん昭和しょうわ3ねん)1がつ心身しんしん疲労ひろうがたたり、風邪かぜからふたたおも肋膜炎ろくまくえんわずらひんする[1][2]。4がつまで大学だいがく休学きゅうがくし、湯河原ゆがわら静養せいようし、8がつまつから10にちほど軽井沢かるいざわ[2]1929ねん昭和しょうわ4ねん)1がつに「ルウベンスのにせ」の改稿かいこうを『創作そうさく月刊げっかん』に発表はっぴょうしたのち、2がつコクトーの『だい胯びらき』の影響えいきょうけた「不器用ぶきよう天使てんし」を雑誌ざっし文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』に発表はっぴょう[1][2]。3月の卒業そつぎょう論文ろんぶんは、「芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけろん」だった[1]。4月に翻訳ほんやくの『コクトオしょう』を刊行かんこうした[2]。10月にいぬやしなえけん川端かわばた康成やすなり横光よこみつ利一としかずらと同人どうじん文學ぶんがく』(だいいち書房しょぼうかん)を創刊そうかん[1][2]

1930ねん昭和しょうわ5ねん)5がつに「ルウベンスのにせ」の完成かんせい稿こうを『作品さくひん創刊そうかんごう発表はっぴょう、7がつはじめての作品さくひんしゅう不器用ぶきよう天使てんし』を刊行かんこう[2]。このころ川端かわばた康成やすなり一緒いっしょ浅草あさくさカジノ・フォーリー見物けんぶつったりし、川端かわばた親交しんこうつようになった[15]。7、8月と2軽井沢かるいざわ滞在たいざいし、11月に、芥川あくたがわモチーフに、このころ身辺しんぺん体験たいけんえがいた「聖家族せいかぞく」を雑誌ざっし改造かいぞう』に発表はっぴょうし、文壇ぶんだんたか評価ひょうかけた。だつ稿こうあき喀血かっけつし、自宅じたく療養りょうようちゅう病臥びょうがマルセル・プルーストの『うしなわれたときもとめて』をはじめる[16][2]。「プルースト体験たいけん」の影響えいきょうは、この時期じきかれた「本所ほんじょ」(のち「みずのほとり」、「はかほとりいえ」、「向島むこうじま」に改題かいだい)や、その発表はっぴょうされる「はなてるおんな」や「幼年ようねん時代じだい」などに、子供こども時代じだいへの遡行そこうおもてわれ、震災しんさいうしなったははへの鎮魂ちんこんや、人生じんせい切実せつじつ問題もんだいとしてはは不在ふざいたいするなげきがある[16]

ほり病状びょうじょう好転こうてんせず、1931ねん昭和しょうわ6ねん)4がつから3かげつあいだ長野ながのけん八ヶ岳やつがたけ山麓さんろく富士見ふじみ高原こうげん療養りょうようしょ転地てんち療養りょうようした[17]。8がつ中旬ちゅうじゅんから10がつ上旬じょうじゅんまで軽井沢かるいざわ滞在たいざいし、「恢復かいふく」をいて12月に『改造かいぞう』に発表はっぴょう[2]帰京ききょう絶対ぜったい安静あんせいとなる。このようにやまいせることがおおかったほりが、プルースト、ジェイムズ・ジョイスなど、当時とうじヨーロッパ先端せんたんてき文学ぶんがくれていったことも、作品さくひんふかめていくのに役立やくだった[16]

矢野やの綾子あやことの出会であいと『ふうちぬ』

編集へんしゅう

1932ねん昭和しょうわ7ねん)1がつに「もえゆるほお」を雑誌ざっし文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』に発表はっぴょう、7がつまつから9がつはじめまで軽井沢かるいざわ滞在たいざい[2]。8月に「プルウスト雑記ざっき」を『新潮しんちょう』や『作品さくひん』に、9月には「麦藁むぎわら帽子ぼうし」を『日本にっぽん国民こくみん』に発表はっぴょう[2]。だが、その作品さくひん本格ほんかくてきなロマン(長編ちょうへん小説しょうせつ)には発展はってんしなかった。12月まつ神戸こうべき、竹中たけなかいくたずねた[2]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)に季刊きかん雑誌ざっし四季しき』(さつおわりかん)を創刊そうかん[2]片山かたやま総子ふさことの別離べつり心身しんしん疲労ひろういやすため、6がつはじめから9がつまで軽井沢かるいざわの「つるや旅館りょかん」に滞在たいざいし、作品さくひん執筆しっぴつはいる。そのむらで7がつに、油絵あぶらええがいていた少女しょうじょ矢野やの綾子あやこ北多摩きたたまぐんきぬたむら大字だいじ喜多見きたみ成城せいじょうげん世田谷せたがや成城せいじょう在住ざいじゅう)と[16][2]。この時期じき軽井沢かるいざわでの体験たいけんいた中編ちゅうへん小説しょうせつうつくしいむら』の「なつ」のあきら(『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』に発表はっぴょう)で、綾子あやことの出会であいがえがかれ、これまでの様々さまざまひととのわかれの悲劇ひげきる。この作品さくひんは『聖家族せいかぞく以後いごほり人生じんせい要約ようやくとしてむことができる[16]。このとしあきいちだかなま立原たちはら道造みちぞう向島むこうじまほりたく訪問ほうもん立原たちはら[2][18]立原たちはらほり似通にかよった境遇きょうぐう環境かんきょうそだっていた[18][19]

1934ねん昭和しょうわ9ねん)5がつリルケの『マルテの手記しゅき』などをはじめ、リルケやモーリアック作品さくひんしたしみ[2][11]。9月、綾子あやこ婚約こんやくする[2]。モーリアック体験たいけんて、10月に長野ながのけん北佐久きたさくぐん西にし長倉ながくらむら大字だいじ追分おいわけげん北佐久きたさくぐん軽井沢かるいざわまち大字だいじ追分おいわけほり終生しゅうせいこのを「信濃追分しなのおいわけ」とんでいた)の油屋あぶらや旅館りょかんで「物語ものがたりおんな」をげ、続編ぞくへん構想こうそうるが停滞ていたいする。綾子あやこもまたはいんでいたために、翌年よくねん1935ねん昭和しょうわ10ねん)7がつ富士見ふじみ高原こうげん療養りょうようしょ2人ふたり入院にゅういんしたが、病状びょうじょう悪化あっかした綾子あやこは12月6にち死去しきょした[2]。この体験たいけんが、ほり代表だいひょうさくとしてられる『ふうちぬ』の題材だいざいとなり、1936ねん昭和しょうわ11ねん)から1937ねん昭和しょうわ12ねん)にわたって執筆しっぴつされた[2]。この『ふうちぬ』では、ポール・ヴァレリーの「海辺うみべ墓地ぼち」を引用いんようしている。

日本にっぽん古典こてんへの傾倒けいとうと「鎮魂ちんこん

編集へんしゅう

1937ねん昭和しょうわ12ねん)のはるむかえ、りつめていた気持きもちがゆるみ、「なにかいひしれぬ空虚くうきょ」におそわれたほりは、それからだっするために、ひたすら日本にっぽんうつくしさにしんし、少年しょうねん時代じだい愛読あいどくしていた『更級さらしな日記にっき』や『伊勢物語いせものがたり』、リルケ体験たいけんからむすびついた王朝おうちょう文学ぶんがく傾倒けいとうする[20]。6月にはじめて京都きょうと旅行りょこう[2]し、ひゃくまんへん竜見たつみいん滞在たいざいした。7月から油屋あぶらや旅館りょかん滞在たいざいする。11月にほりは、前年ぜんねん室生むろう犀星さいせいたくった折口おりぐち信夫しのぶから日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくほどきをけ、王朝おうちょう文学ぶんがく題材だいざいた『かげろふの日記にっき』を追分おいわけ油屋あぶらや旅館りょかんげた[20][2]げた直後ちょくご旅館りょかん全焼ぜんしょうしたが、ほりぜん述作じゅっさく原稿げんこう郵送ゆうそうのため追分おいわけから軽井沢かるいざわ郵便ゆうびんきょく移動いどうちゅうであったためなんのがれた。旅館りょかん全焼ぜんしょうしたために、年末ねんまつ軽井沢かるいざわ川端かわばた康成やすなり別荘べっそうり、『ふうちぬ』の終章しゅうしょうのかげのたに」もげた[2][11][21]。このとし油屋あぶらや旅館りょかんに6がつからおとうと避暑ひしょていた加藤かとう多恵子たえこ加藤かとう多恵たえ)とった。

1938ねん昭和しょうわ13ねん)1がつ帰京ききょうしたが、2がつ友人ゆうじんたちたずねるために鎌倉かまくらかけた。神西じんざいきよしたくから至近しきん深田ふかた久弥ひさやいえたず北畠きたばたけ八穂やほ見舞みまったさい深田ふかたたく門前もんぜん吐血とけつ深田ふかたたくんだ。しばらく深田ふかたたくにて療養りょうようしたのち、神奈川かながわけん鎌倉かまくらぐん鎌倉かまくらまちげん鎌倉かまくら)の額田ぬかた病院びょういん入院にゅういんし、3がつまつ退院たいいんした。深田ふかたたくにいるあいだに、加藤かとう多恵子たえこ見舞みまいにおとずれている。ほり周囲しゅうい人間にんげんは、婚約こんやくしていた加藤かとう多恵子たえことは破談はだんになるだろうとかんがえたが、多恵子たえこいまこそほりには自分じぶん必要ひつようだとかんがえたとされる。二人ふたり室生むろう犀星さいせい夫妻ふさい媒酌ばいしゃくにより4がつ結婚けっこんした[2]なつきゅうけい銀座ぎんざつるや旅館りょかん滞在たいざいしてさがしたかし別荘べっそうりてごした。10月に逗子ずし山下やました亀三郎かめさぶろう亀三郎かめさぶろう次男じなん山下やました三郎さぶろう)の別邸べっていうつったが、山下やましたがわ事情じじょうにより6カ月かげつ翌年よくねん3がつ鎌倉かまくら小町こまち笠原かさはらたくかい借家しゃくやして転居てんきょした。このあいだ同年どうねん5がつ向島むこうじま養父ようふ松吉まつよしたおれ、ほり夫婦ふうふいちげつほど看病かんびょう一旦いったん小康しょうこうたが、松吉まつよしは12月15にち死去しきょした[6][2]

1939ねん昭和しょうわ14ねん)2がつに『かげろふの日記にっき』の続編ぞくへん「ほととぎす」を『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』に発表はっぴょう[2]。3月29にち立原たちはら道造みちぞう結核けっかくのため中野なかの江古田えこだ療養りょうようしょ死去しきょした。24さいだった。ほり立原たちはらおとうとのようにおもっており、立原たちはらほりあにのようにおもい、したっていた。5月に神西じんざいきよし奈良なら旅行りょこう[2]1940ねん昭和しょうわ15ねん)6がつに「たましいしずめるうた」(のち「伊勢物語いせものがたりなど」に改題かいだい)を発表はっぴょうした。この作品さくひんは『万葉集まんようしゅう』などからリルケの『ドイノの悲歌ひか』にもむすびつけられ、「人々ひとびとたましいしんやすをもたらす、なにレクヰエムてきな、しんにしみるやうなものが、一切いっさいのよき文学ぶんがくそこにはげんとしてあるべきだ」という信念しんねんもと執筆しっぴつされ、ほり内部ないぶ折口おりぐち信夫しのぶとリルケとがかさねあわされている[20]なつ軽井沢かるいざわ別荘べっそうりてごし、10月に鎌倉かまくらかえっている。

ロマン『菜穂子なほこ成立せいりつ

編集へんしゅう

1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつはつのロマン(長編ちょうへん小説しょうせつ)となる「菜穂子なほこ」(「物語ものがたりおんな」の続編ぞくへん)を『中央公論ちゅうおうこうろん』に発表はっぴょう既婚きこん女性じょせい家庭かていなかでの自立じりつえが作品さくひんにも才能さいのう発揮はっきし、「物語ものがたりおんな」の続編ぞくへん構想こうそうは7ねんぶりに結実けつじつした[22][2]長編ちょうへん菜穂子なほこ』はだい1かい中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ文芸ぶんげいしょう受賞じゅしょうした。登場とうじょう人物じんぶつ都築つづきあきら」のモデルは立原たちはら道造みちぞうかさねられている[22]。10月に大和やまと旅行りょこう古寺ふるでらまわり、天平てんぴょう時代じだい小説しょうせつ構想こうそうるが成功せいこうせず、「曠野あらの」の構想こうそう帰京ききょうし、12月に再訪さいほう倉敷くらしき大原おおはら美術館びじゅつかんへもき、グレコの『受胎じゅたい告知こくち』をて、月末げつまつに「曠野あらの」を『改造かいぞう』に発表はっぴょうする[2]1942ねん昭和しょうわ17ねん)8がつ随筆ずいひつはなてるおんな」を『文学ぶんがくかい』に発表はっぴょう[2]

菜穂子なほこ』の前編ぜんぺんでもある「にれいえ」(もと物語ものがたりおんな」)、『かげろふの日記にっき』、『ほととぎす』、『曠野あらの』などの王朝おうちょう女流じょりゅうふう小説しょうせつは、リルケの「こいするおんなたちの永遠えいえん姿すがた」を追究ついきゅうしたものと、折口おりぐちまなぶふか影響えいきょうれる[20]

同年どうねんきゅう軽井沢かるいざわがまさわのアメリカじん所有しょゆう別荘べっそうりにされた。この別荘べっそうっていたほり夫妻ふさいは、川端かわばた康成やすなり借金しゃっきんして6がつ購入こうにゅうした。以降いこう毎年まいとしなつあいだはここに滞在たいざいした。この建物たてもの軽井沢かるいざわ高原こうげん文庫ぶんこ移築いちく保存ほぞんされている。[23]

信濃しなの大和やまと」へのおも

編集へんしゅう

1943ねん昭和しょうわ18ねん)1がつに、『菜穂子なほこ』の構想こうそう一部いちぶであった「ふるさとびと」を『新潮しんちょう』に発表はっぴょう登場とうじょう人物じんぶつははのイメージをかさね、東京とうきょう下町したまちではなく、信濃追分しなのおいわけを「ふるさと」にしようという志向しこうあらわれている[5]一方いっぽう、8がつまで雑誌ざっし婦人ふじん公論こうろん』に、それまで6かいおとずれた大和やまと旅行りょこう随筆ずいひつてきにまとめた「大和やまと信濃しなの」を連載れんさいし、大和やまとへの思慕しぼつづる。この大和やまとへの関心かんしんにも、折口おりぐち信夫しのぶ影響えいきょう顕著けんちょ見受みうけられ、「日本にっぽん仏教ぶっきょう渡来とらいしてきて、そのしんらしい宗教しゅうきょう次第しだいついひやられながら、とお田舎いなかのはうへと流浪るろうたびをつづけす、古代こだいちいさなかみ々のびしいうしろ姿すがたひとつの物語ものがたりえがいてみたい」という小説しょうせつ抱負ほうふかたっているが、これは実現じつげんしなかった[5]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)1がつに「樹下じゅか」を『文藝ぶんげい』に発表はっぴょう[2]同月どうげつ下旬げじゅんもり達郎たつお疎開そかいさきいえさがしに追分おいわけく。帰京ききょう喀血かっけつし、絶対ぜったい安静あんせい状態じょうたいつづき、9月に追分おいわけりた油屋あぶらや旅館りょかんとなりいえうつった[2]1945ねん昭和しょうわ20ねん)、療養りょうよう専念せんねんしながら、日本にっぽん古典こてんへの関心かんしんしめし、あらたな小説しょうせつ創作そうさく意欲いよくつ。1946ねん昭和しょうわ21ねん)3がつに「ゆきうえ足跡あしあと」を『新潮しんちょう』に発表はっぴょう。それ以降いこうは、病臥びょうが生活せいかつはいる。「ふるさとびと」を発展はってんさせたものをきたいという抱負ほうふっていたが、たせないままとなった[5]

1947ねん昭和しょうわ22ねん)2がつ一時いちじおもあつ状態じょうたいとなる。1949ねん昭和しょうわ24ねん)、川端かわばた康成やすなり神西じんざいきよし配慮はいりょで、旧作きゅうさく再刊さいかんされる[2]1950ねん昭和しょうわ25ねん)、自選じせんの『ほり辰雄たつお作品さくひんしゅう』がだい4かい毎日まいにち出版しゅっぱん文化ぶんかしょう受賞じゅしょう[2]1951ねん昭和しょうわ26ねん)7がつ追分おいわけてた15つぼ新居しんきょうつった[2][24]

1953ねん昭和しょうわ28ねん)5がつ病状びょうじょう悪化あっかした。新居しんきょ書庫しょこ完成かんせいしたが、ゆかからがることができず、ほり手鏡てかがみ使つかって完成かんせいした書庫しょこながめた。その10日とおか28にち午前ごぜん140ふん多恵子たえこ看取みとられ死去しきょした[2][11]。48さいぼつ

30にち追分おいわけ自宅じたく仮葬かそうされ、6月3にち東京とうきょうみなと芝公園しばこうえんげんみなと芝公園しばこうえんよん丁目ちょうめ)の増上寺ぞうじょうじで、川端かわばた康成やすなり葬儀そうぎ委員いいんちょうとして告別こくべつしき執行しっこうされた[2]翌々年よくよくねん1955ねん昭和しょうわ30ねん)5がつ28にち多磨たま霊園れいえん墓碑ぼひてられ、納骨のうこつされた[5][2]

死後しご出版しゅっぱん全集ぜんしゅう

編集へんしゅう

ほり辰雄たつお全集ぜんしゅう』は、友人ゆうじん神西じんざいきよし弟子でしたちの尽力じんりょく1954ねん昭和しょうわ29ねん)3がつから1957ねん昭和しょうわ32ねん)5がつにかけて新潮社しんちょうしゃよりぜん7かん刊行かんこうされた。新版しんぱん1964ねん昭和しょうわ39ねん)にされた。神西じんざいぼつ川端かわばた康成やすなり尽力じんりょく角川書店かどかわしょてんより、書簡しょかん大幅おおはばくわえたぜん10かん1963ねん昭和しょうわ38ねん)10がつから1966ねん昭和しょうわ41ねん)5がつにかけて刊行かんこう限定げんていばんもあり)された[15]つぎ筑摩書房ちくましょぼうより、あらたな書簡しょかん資料しりょう発掘はっくつ厳密げんみつ校訂こうていくわされたぜん11さつほんまき8かん別巻べっかん2かんだい7かん上下じょうげ2さつけい11さつ)が1977ねん昭和しょうわ52ねん)5がつから1980ねん昭和しょうわ55ねん)10がつにかけて刊行かんこうされた。この全集ぜんしゅう1996ねん平成へいせい8ねん)から1997ねん平成へいせい9ねん)にかけて再刊さいかんされた。

つま多恵たえも「ほり多恵子たえこ」の名前なまえおっとかんする随筆ずいひつおおき、2010ねん平成へいせい22ねん4がつ16にちに96さい死去しきょした。

おもな作品さくひん

編集へんしゅう

著書ちょしょ

編集へんしゅう
  • 不器用ぶきよう天使てんし 新鋭しんえい文学ぶんがく叢書そうしょ 改造かいぞうしゃ 1930
  • 聖家族せいかぞく 江川えがわ書房しょぼう 1932
  • 麦藁むぎわら帽子ぼうし 四季しきしゃ 1933
  • ルウベンスのにせ 江川えがわ書房しょぼう 1933
  • うつくしいむら 野田のだ書房しょぼう 1934
  • 物語ものがたりおんな 山本やまもと書店しょてん 1934
  • 聖家族せいかぞく 野田のだ書房しょぼう 1936
  • きつね手套しゅとう 野田のだ書房しょぼう 1936
  • にせ救世主きゅうせいしゅアンフィオン 野田のだ書房しょぼう 1936
  • ふうちぬ 新選しんせん純文学じゅんぶんがく叢書そうしょ 新潮社しんちょうしゃ 1937
  • 雉子日記にっき 野田のだ書房しょぼう 1937
  • ふうちぬ 野田のだ書房しょぼう 1938
  • かげろふの日記にっき つくもとしゃ 1939
  • もえゆるほお 新潮社しんちょうしゃ 1939 のち文庫ぶんこ
  • 晩夏ばんか かぶととり書林しょりん 1941
  • 菜穂子なほこ つくもとしゃ 1941 のち角川かどかわ文庫ぶんこ岩波いわなみ文庫ぶんこ
  • 幼年ようねん時代じだい 青磁せいじしゃ 1942 のち角川かどかわ文庫ぶんこ
  • 曠野あらの やしなえとくしゃ 1944
  • はなあしび 青磁せいじしゃ 1946
  • はがき 角川書店かどかわしょてん 1946
  • 雉子日記にっき 1948 (新潮しんちょう文庫ぶんこ)
  • ほり辰雄たつお作品さくひんしゅう ぜん6かん 角川書店かどかわしょてん 1948-1950
  • あひびき 文芸春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ 1949
  • 牧歌ぼっか 早川書房はやかわしょぼう 1949
  • ふうちぬうつくしいむら 新潮しんちょう文庫ぶんこ 1951。岩波いわなみ文庫ぶんこ
  • ゆきうえ足跡あしあと 新潮しんちょう文庫ぶんこ 1951
  • 聖家族せいかぞくうつくしいむら 角川かどかわ文庫ぶんこ1952
  • かげろふの日記にっき曠野あらの 角川かどかわ文庫ぶんこ 1952。新潮しんちょう文庫ぶんこ
  • はなてるおんな 1953 (三笠みかさ文庫ぶんこ)
  • 大和やまと信濃しなの 人文書院じんぶんしょいん 1954。のち新潮しんちょう文庫ぶんこ角川かどかわ文庫ぶんこ
  • ほり辰雄たつお全集ぜんしゅう ぜん7かん 新潮社しんちょうしゃ 1954-1957
  • 幼年ようねん時代じだい晩夏ばんか 新潮しんちょう文庫ぶんこ 1955
  • つまへの手紙てがみ ほり多恵子たえこへん 新潮社しんちょうしゃ 1959。のち文庫ぶんこ
  • ほり辰雄たつお全集ぜんしゅう ぜん10かん 角川書店かどかわしょてん 1963-1966
  • もりはじめノオト 内山うちやま知也ともやへん 木耳きくらげしゃ 1975
  • ほり辰雄たつお全集ぜんしゅう ぜん8かん別巻べっかん2 筑摩書房ちくましょぼう 1977-1980
  • 菜穂子なほこ創作そうさくノオトおよ覚書おぼえがき むぎ書房しょぼう 1978.8

翻訳ほんやく

編集へんしゅう
  • コクトオしょう 現代げんだい芸術げいじゅつ批評ひひょう叢書そうしょ 厚生こうせいかく書店しょてん 1929
  • アムステルダムの水夫すいふ アポリネエル 山本やまもと書店しょてん 1936 (山本やまもと文庫ぶんこ)

顕彰けんしょう施設しせつ

編集へんしゅう
 
ほり辰雄たつお文学ぶんがく記念きねんかん

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけえて」(アルバム 1984, pp. 14–25)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az りゃく年譜ねんぷ」(アルバム 1984, pp. 114–108)
  3. ^ 中村なかむら真一郎しんいちろう月報げっぽう2 編集へんしゅう雑記ざっき」(全集ぜんしゅう2 1996
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 数学すうがく志望しぼうから文学ぶんがく志望しぼうへ」(アルバム 1984, pp. 2–13)
  5. ^ a b c d e 「『ふるさと』信濃しなの大和やまと」(アルバム 1984, pp. 84–96)
  6. ^ a b c d e f g ほり辰雄たつおはなてるおんな」(文學ぶんがくかい 1942ねん8がつごう)。『幼年ようねん時代じだい』(青磁せいじしゃ、1942ねん)、全集ぜんしゅう2 1996, pp. 189–218に所収しょしゅう[1]
  7. ^ 池内いけうち 1977
  8. ^ 佐々木ささき 1983
  9. ^ 谷田たにだ 1997
  10. ^ 福永ふくなが 1978
  11. ^ a b c d e f g h i 谷田たにだ昌平しょうへいへん年譜ねんぷ」(別巻べっかん2 1997, pp. 407–422)
  12. ^ ほり辰雄たつお「『あおねこ』について」(『萩原はぎはら朔太郎さくたろう全集ぜんしゅう だい2かん 詩集ししゅうしただい8かい配本はいほん附録ふろく 小学館しょうがくかん、1944ねん2がつ)。[2]
  13. ^ ほり辰雄たつお筋骨きんこつ隆々りゅうりゅうであり、かつ関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせいには隅田川すみだがわおよいでわたったことについては、ほり田善でんぜんまもる証言しょうげんがある。(『座談ざだんかいわが文学ぶんがくわが昭和しょうわ筑摩書房ちくましょぼう。1973ねん
  14. ^ 驢馬ろば』の人々ひとびととの出会であい」(佐多さた 1983, pp. 106–132)
  15. ^ a b 川端かわばた康成やすなり」(多恵子たえこ 1996, pp. 43–53)
  16. ^ a b c d e 「ロマンへの意欲いよく」(アルバム 1984, pp. 26–64)
  17. ^ 荒川あらかわじんぺい高原こうげんのサナトリウムに足跡あしあとのこした著名ちょめいじんたち」『TBアーカイブ』だい351かん公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん結核けっかく予防よぼうかい、2013ねん7がつ 
  18. ^ a b 立原たちはら道造みちぞう」(多恵子たえこ 1996, pp. 77–84)
  19. ^ 中村なかむら真一郎しんいちろう「ある文学ぶんがくてき系譜けいふ――芥川あくたがわほり立原たちはら」(新潮しんちょう 1979ねん5がつごう)。別巻べっかん2 1997, pp. 29–38
  20. ^ a b c d 鎮魂ちんこんいのり」(アルバム 1984, pp. 65–77)
  21. ^ ほりをきっかけに軽井沢かるいざわえんができた立原たちはら道造みちぞうが、油屋あぶらや旅館りょかん再建さいけん資金しきんあつめに奔走ほんそうした。
  22. ^ a b 「『菜穂子なほこ』の構想こうそう実現じつげん」(アルバム 1984, pp. 78–83)
  23. ^ のち、ほり辰雄たつお立原たちはら道造みちぞうらのほん装幀そうていおこなった画家がか深沢ふかざわ紅子べにこ夫妻ふさいの、なつのアトリエとして1964ねん以降いこうの20ねんほど使用しようされた。
  24. ^ げんほり辰雄たつお文学ぶんがく記念きねんかん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう