1957年 ねん (昭和 しょうわ 32年 ねん )4月 がつ に参議院 さんぎいん 大阪 おおさか 地方区 ちほうく の補欠 ほけつ 選挙 せんきょ が行 おこな われ、創価学会 そうかがっかい は中尾 なかお 辰義 たつよし を立候補 りっこうほ させた。中尾 なかお は落選 らくせん したが、創価学会 そうかがっかい 陣営 じんえい が宗教 しゅうきょう 勧誘 かんゆう を装 よそお い禁止 きんし されていた戸別 こべつ 訪問 ほうもん を行 おこな ったりピース 等 とう で有権者 ゆうけんしゃ を買収 ばいしゅう する事件 じけん が発生 はっせい した。大阪 おおさか 地方 ちほう 検察庁 けんさつちょう 特別 とくべつ 捜査 そうさ 部 ぶ は学会 がっかい 員 いん 数 すう 名 めい を逮捕 たいほ したが、学会 がっかい 員 いん の供述 きょうじゅつ から当時 とうじ の創価学会 そうかがっかい 理事 りじ 長 ちょう ・小泉 こいずみ 、渉外 しょうがい 部長 ぶちょう ・池田 いけだ ら創価学会 そうかがっかい 員数 いんずう 十 じゅう 名 めい を公職 こうしょく 選挙 せんきょ 法 ほう 違反 いはん (買収 ばいしゅう ・戸別 こべつ 訪問 ほうもん )で逮捕 たいほ ・起訴 きそ した。池田 いけだ は検察 けんさつ の尋問 じんもん に対 たい し買収 ばいしゅう ・戸別 こべつ 訪問 ほうもん 指示 しじ を自供 じきょう し署名 しょめい したが、裁判 さいばん では一切 いっさい の嫌疑 けんぎ を否定 ひてい した。判決 はんけつ は実行 じっこう 犯 はん とされた末端 まったん 会員 かいいん らが有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う ける中 なか 、1962年 ねん (昭和 しょうわ 37年 ねん )1月 がつ 25日 にち の大阪 おおさか 地方裁判所 ちほうさいばんしょ 判決 はんけつ (田中 たなか 勇雄 いさお 裁判 さいばん 長 ちょう )で、池田 いけだ ・小泉 こいずみ は無罪 むざい 判決 はんけつ を受 う け、検察 けんさつ 側 がわ が控訴 こうそ を断念 だんねん し裁判 さいばん は終結 しゅうけつ した。
事件 じけん の要因 よういん にはさまざまな主張 しゅちょう が存在 そんざい する
警察 けいさつ ・検察 けんさつ ・マスコミによる陰謀 いんぼう 説 せつ
編集 へんしゅう
1955年 ねん 、創価学会 そうかがっかい は地方 ちほう 政界 せいかい に初 はじ めて進出 しんしゅつ するが、当時 とうじ は政党 せいとう を持 も たなかった(1962年 ねん 1月 がつ に公明 こうめい 政治 せいじ 連盟 れんめい 発足 ほっそく )。後 のち に立党 りっとう される公明党 こうめいとう は当初 とうしょ 「王 おう 仏 ふつ 冥 めい 合 あい 」・「仏法 ぶっぽう 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」を基本 きほん 理念 りねん とすることを謳 うた うなど、宗教 しゅうきょう 的 てき な目的 もくてき を前面 ぜんめん に打 う ち出 だ していた[2] 。また毎日新聞 まいにちしんぶん は「創価学会 そうかがっかい の折伏 しゃくぶく は破防法 はぼうほう に抵触 ていしょく する」と報道 ほうどう 。記事 きじ では最近 さいきん 創価学会 そうかがっかい などの新興 しんこう 宗教 しゅうきょう が軍隊 ぐんたい 化 か した組織 そしき を利用 りよう 、なかば暴力 ぼうりょく 的 てき に信者 しんじゃ 獲得 かくとく 運動 うんどう を行 おこな っているまだ事情 じじょう を調査 ちょうさ する程度 ていど だが、影響 えいきょう ある場合 ばあい 破防法 はぼうほう を適用 てきよう するつもりであるとの談話 だんわ が掲載 けいさい された[3] 。読売新聞 よみうりしんぶん は「はびこる創価学会 そうかがっかい ・県下 けんか の信徒 しんと 五 ご 千 せん 名 めい 」と掲載 けいさい 。池田 いけだ らが読売新聞 よみうりしんぶん 本社 ほんしゃ や浦和 うらわ 支局 しきょく に抗議 こうぎ を行 おこな っている。1956年 ねん 12月、法務省 ほうむしょう 刑事 けいじ 局 きょく は創価学会 そうかがっかい を新興 しんこう 右翼 うよく 団体 だんたい と認定 にんてい 。その原因 げんいん を創価学会 そうかがっかい の信条 しんじょう に基 もと づく行動 こうどう に暴力 ぼうりょく 的 てき な動向 どうこう が顕著 けんちょ に窺 うかが われるからであると結論 けつろん 付 つ けている。そういう事情 じじょう もあってか、『池田 いけだ 大作 だいさく の軌跡 きせき 』第 だい 1巻 かん (潮出版社 うしおしゅっぱんしゃ )では、戦前 せんぜん からの思想 しそう 検事 けんじ 閥 ばつ の存在 そんざい が大阪 おおさか 地検 ちけん 特捜 とくそう 部 ぶ の背後 はいご にあるのではないかとの推論 すいろん を述 の べている。
ルポライターの竹中 たけなか 労 ろう が提唱 ていしょう 。戦後 せんご 夕張 ゆうばり 炭労 たんろう と創価学会 そうかがっかい は選挙 せんきょ 協力 きょうりょく 関係 かんけい にあった。しかし1956年 ねん に行 おこな われた第 だい 4回 かい 参議院 さんぎいん 選挙 せんきょ でそれまで炭労 たんろう の候補者 こうほしゃ に投票 とうひょう していた夕張 ゆうばり の創価学会 そうかがっかい は、夕張 ゆうばり 炭労 たんろう の推薦 すいせん する候補者 こうほしゃ ではなく初 はじ めて独自 どくじ 候補者 こうほしゃ を立 た て支援 しえん 活動 かつどう に挑 いど んだ。そのため分裂 ぶんれつ 選挙 せんきょ となり夕張 ゆうばり 炭労 たんろう の候補者 こうほしゃ は落選 らくせん したが創価学会 そうかがっかい 員 いん の3000票 ひょう ともいわれる組織 そしき 票 ひょう を失 うしな い面目 めんぼく 丸 まる つぶれとなった夕張 ゆうばり 炭労 たんろう 幹部 かんぶ がその報復 ほうふく で大阪 おおさか 事件 じけん を検察 けんさつ にリークしたとするもの。実際 じっさい 選挙 せんきょ 前 まえ に夕張 ゆうばり 炭労 たんろう の幹部 かんぶ が創価学会 そうかがっかい の婦人 ふじん たちを呼 よ び出 だ し「学会 がっかい を辞 や めなかったら、お宅 たく の旦那 だんな はクビだ」などと恫喝 どうかつ したり[4] 、選挙 せんきょ 後 ご には創価学会 そうかがっかい 系 けい 組合 くみあい 員 いん に対 たい して『労働 ろうどう 金庫 きんこ 』の貸出 かしだ し拒否 きょひ 、炭 すみ 住 じゅう 長屋 ながや の補修 ほしゅう サボタージュ、(学会 がっかい をやめなければ)組合 くみあい を除名 じょめい (実質 じっしつ 解雇 かいこ )すると恫喝 どうかつ するなど報復 ほうふく が起 お こった[4] 。報復 ほうふく は大人 おとな だけではなく子供 こども 達 たち までおよび仲間 なかま はずれやいじめ 、お菓子 かし を貰 もら えないといった差別 さべつ まで起 お きた[4] 。これら差別 さべつ を学会 がっかい 内部 ないぶ では学会 がっかい 員 いん が信教 しんきょう の自由 じゆう を守 まも り抜 ぬ いた夕張 ゆうばり 炭労 たんろう 事件 じけん として語 かた り継 つ がれている[5] 。
大阪 おおさか 地検 ちけん 特捜 とくそう 部 ぶ が裁判 さいばん の冒頭 ぼうとう 陳述 ちんじゅつ において前年 ぜんねん に行 おこな われた第 だい 4回 かい 参議院 さんぎいん 議員 ぎいん 通常 つうじょう 選挙 せんきょ で池田 いけだ 自 みずか らが指揮 しき した候補者 こうほしゃ を当選 とうせん させたことに味 あじ を占 し め、戸田 とだ 会長 かいちょう はじめ学会 がっかい 幹部 かんぶ たちが消極 しょうきょく 的 てき だった参議院 さんぎいん 補欠 ほけつ 選挙 せんきょ で候補者 こうほしゃ 擁立 ようりつ を主張 しゅちょう 、池田 いけだ が学会 がっかい 内 ない での地位 ちい 向上 こうじょう を図 はか るため戸別 こべつ 訪問 ほうもん や買収 ばいしゅう を計画 けいかく 、末端 まったん 会員 かいいん に指示 しじ したと主張 しゅちょう 。しかしこの主張 しゅちょう は後述 こうじゅつ する田中 たなか 勇雄 いさお 裁判 さいばん 長 ちょう の調査 ちょうさ によって「強制 きょうせい 、拷問 ごうもん 又 また は脅迫 きょうはく による自白 じはく 、不当 ふとう に長 なが く抑留 よくりゅう 又 また は拘禁 こうきん された後 のち の自白 じはく 」と認定 にんてい されたが[6] [7] 、会長 かいちょう 夫人 ふじん の戸田 とだ 幾 いく によれば学会 がっかい は今回 こんかい の補選 ほせん は勝 か ち目 め がないと候補者 こうほしゃ 擁立 ようりつ に反対 はんたい していたという。
大阪 おおさか 地検 ちけん の担当 たんとう 検事 けんじ が暴走 ぼうそう したという説 せつ 。大阪 おおさか 事件 じけん の前年 ぜんねん 1956年 ねん 7月 がつ に行 おこな われた第 だい 4回 かい 参議院 さんぎいん 議員 ぎいん 通常 つうじょう 選挙 せんきょ 大阪 おおさか 地方区 ちほうく で白木 しらき 義 よし 一郎 いちろう を当選 とうせん させた際 さい 、戸別 こべつ 訪問 ほうもん を行 おこな ったとして学会 がっかい 員 いん 数 すう 名 めい が逮捕 たいほ された。学会 がっかい 員 いん の供述 きょうじゅつ からそのやり方 かた があまりにも酷 ひど いので、大阪 おおさか 地検 ちけん は[7] 池田 いけだ の捜査 そうさ 、逮捕 たいほ を計画 けいかく するが同年 どうねん 12月 がつ 、日本 にっぽん の国際 こくさい 連合 れんごう 加盟 かめい による恩赦 おんしゃ によって逮捕 たいほ された学会 がっかい 員 いん らが罪 つみ を赦 ゆる された[8] ことから池田 いけだ の捜査 そうさ 、逮捕 たいほ 計画 けいかく を断念 だんねん した経緯 けいい がある。その翌年 よくねん に創価学会 そうかがっかい が大阪 おおさか 事件 じけん を起 お こしたため池田 いけだ 大作 だいさく を逮捕 たいほ し取調 とりしら べを行 おこな ったが、「拘置 こうち 所 しょ の中 なか で、検事 けんじ が3人 にん がかりで、池田 いけだ に手錠 てじょう をかけたまま、夜 よる 11時 じ まで、食事 しょくじ も与 あた えず取調 とりしら べを行 おこな うなど担当 たんとう 検事 けんじ の暴走 ぼうそう とも言 い える前 まえ のめりな取 と り調 しら べは裏目 うらめ に出 で て、池田 いけだ 大作 だいさく は無罪 むざい になった[1] 。
陰謀 いんぼう はないとする主張 しゅちょう である。
自民党 じみんとう 機関 きかん 紙 し 「自由 じゆう 新報 しんぽう 」によれば、「大阪 おおさか 事件 じけん は買収 ばいしゅう や戸別 こべつ 訪問 ほうもん が行 おこな われた選挙 せんきょ 違反 いはん である。創価学会 そうかがっかい は「冤罪 えんざい だ」「国家 こっか による陰謀 いんぼう だ」などと主張 しゅちょう しているが、二 に 十 じゅう 数 すう 名 めい の逮捕 たいほ 者 しゃ を出 だ し有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を受 う けた会員 かいいん がいる以上 いじょう 陰謀 いんぼう や冤罪 えんざい ではない」と創価学会 そうかがっかい が主張 しゅちょう する陰謀 いんぼう 説 せつ を否定 ひてい した[9] 。
日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう は機関 きかん 紙 し 「赤旗 あかはた 」で、「もし陰謀 いんぼう があれば池田 いけだ の検事 けんじ 調書 ちょうしょ をすべて却下 きゃっか しても池田 いけだ に有罪 ゆうざい 判決 はんけつ を下 くだ した。学会 がっかい が主張 しゅちょう する陰謀 いんぼう というものはまったく存在 そんざい せず無罪 むざい 判決 はんけつ を受 う けたことを学会 がっかい 内部 ないぶ で最大限 さいだいげん にプロパガンダ として利用 りよう している」と主張 しゅちょう している[10]
元 もと 公明党 こうめいとう 東京 とうきょう 都議 とぎ の藤原 ふじわら 行正 ゆきまさ は自身 じしん の著書 ちょしょ で、「真相 しんそう を明 あ かせば逆 ぎゃく に戸田 とだ 会長 かいちょう に責任 せきにん が及 およ ぶ。これはわかりきったことである。それを承知 しょうち で大阪 おおさか 事件 じけん での池田 いけだ はペラペラ全面 ぜんめん 自供 じきょう した。刑事 けいじ が怖 こわ くてたまらず、早 はや く勘弁 かんべん してもらいたい。池田 いけだ の頭 あたま にはその一念 いちねん しかなかったのだろう。しかも大阪 おおさか 事件 じけん の場合 ばあい 、池田 いけだ 自身 じしん が大阪 おおさか でしでかした選挙 せんきょ 違反 いはん 行為 こうい だった。常識 じょうしき 的 てき に考 かんが えて、東京 とうきょう にいた戸田 とだ 先生 せんせい は無関係 むかんけい だった。池田 いけだ は戸田 とだ 先生 せんせい の名前 なまえ を語 かた ることで追及 ついきゅう をかわしたわけである。このウソがバレるのを恐 おそ れて、池田 いけだ は学会 がっかい 内部 ないぶ でいろいろ手 しゅ を打 う った。最初 さいしょ は弁解 べんかい がましく「戸田 とだ 先生 せんせい へ責任 せきにん が及 およ ばないため」といっていたのが、戸田 とだ 会長 かいちょう が亡 な くなり、自分 じぶん の代 だい になると「私 わたし は戸田 とだ 先生 せんせい の身代 みが わりで罪 つみ を被 こうむ った」と脚色 きゃくしょく した。そのウソを何 なん 年 ねん もかけてそれこそ百 ひゃく 遍 へん 以上 いじょう 繰 く り返 かえ したため、それが学会 がっかい 内 ない で「真実 しんじつ 」で通 とお るようになった。と主張 しゅちょう している[11]
池田 いけだ が無罪 むざい 判決 はんけつ を受 う けた要因 よういん
編集 へんしゅう
田中 たなか 勇雄 いさお 裁判 さいばん 長 ちょう の調査 ちょうさ
編集 へんしゅう
田中 たなか 勇雄 いさお 裁判 さいばん 長 ちょう が判決 はんけつ 時 じ に指摘 してき 。大阪 おおさか 地検 ちけん 特捜 とくそう 部 ぶ の検事 けんじ 3名 めい が池田 いけだ を取 と り調 しら べた際 さい 、「拘置 こうち 所 しょ の中 なか で、検事 けんじ が3人 にん がかりで、池田 いけだ に手錠 てじょう をかけたまま、夜 よる 11時 じ まで、食事 しょくじ も与 あた えず調 しら べた事 こと が裁判 さいばん 長田中 ながたなか の調査 ちょうさ で明 あき らかになる。そのため「池田 いけだ の検事 けんじ 調書 ちょうしょ はすべて却下 きゃっか する」としたが、池田 いけだ 大作 だいさく が大阪 おおさか 事件 じけん の前年 ぜんねん に行 おこな われた第 だい 4回 かい 参議院 さんぎいん 議員 ぎいん 通常 つうじょう 選挙 せんきょ 大阪 おおさか 地方区 ちほうく で白木 しらき 義一 ぎいち 郎 ろう を当選 とうせん させた際 さい 、そのやり方 かた があまりにも酷 ひど いので、大阪 おおさか 地検 ちけん は激怒 げきど していたという情報 じょうほう も調査 ちょうさ で明 あき らかとなった[7] 。
乙 おつ 骨 こつ 正 せい 生 せい は、裁判 さいばん 長 ちょう が検察 けんさつ の違法 いほう な取調 とりしら べを指摘 してき し検事 けんじ 調書 ちょうしょ は証拠 しょうこ 能力 のうりょく なしとして却下 きゃっか したという龍 りゅう 年 ねん 光 こう の証言 しょうげん を引用 いんよう し、「検察 けんさつ が違法 いほう な取 と り調 しら べをしたため、運 うん 良 よ く有罪 ゆうざい を免 まぬか れただけであり」「違法 いほう な選挙 せんきょ 活動 かつどう に挺身 ていしん した多 おお くの活動 かつどう 家 か が有罪 ゆうざい となったことに象徴 しょうちょう されるように、創価学会 そうかがっかい の組織 そしき 的 てき な選挙 せんきょ 違反 いはん が断罪 だんざい されたというのが『大阪 おおさか 事件 じけん 』の真実 しんじつ なのである。」としている[12] 。
創価学会 そうかがっかい 理事 りじ の石田 いしだ 次男 つぐお は著者 ちょしゃ で戸田 とだ 会長 かいちょう による働 はたら きかけがあったことを明 あ かしている。石田 いしだ が創価学会 そうかがっかい 小岩 こいわ 支部 しぶ 長 ちょう 時代 じだい 、小岩 こいわ 支部 しぶ に事件 じけん を取 と り調 しら べている次席 じせき 検事 けんじ 乙 おつ (以下 いか 乙 おつ )に通 つう ずる幹部 かんぶ 甲 かぶと (以下 いか 甲 かぶと )がいたという。甲 かぶと と乙 おつ は終戦 しゅうせん 間際 まぎわ 満州 まんしゅう に居 い たがソ連 それん 軍 ぐん の満州 まんしゅう 侵攻 しんこう が開始 かいし されると、ソ連 それん 軍 ぐん に追 お い回 まわ され命 いのち からがら逃 に げ回 まわ った。その時 とき 、甲 かぶと は乙 おつ の命 いのち を助 たす けたことから乙 おつ は甲 かぶと を生涯 しょうがい の命 いのち の恩人 おんじん とした。(中略 ちゅうりゃく )甲 かぶと は大阪 おおさか 事件 じけん の時 とき 、乙 おつ との関係 かんけい を戸田 とだ 先生 せんせい に話 はな し、戸田 とだ は乙 おつ へ石田 いしだ 紹介 しょうかい 状 じょう という名目 めいもく の親書 しんしょ を認 みと め、石田 いしだ がそれを持参 じさん し7月 がつ 13日 にち 乙 おつ を訪問 ほうもん した。(中略 ちゅうりゃく )二 に 日 にち 後 ご 、まず田代 たしろ 富士男 ふじお (後 ご の参議院 さんぎいん 議員 ぎいん )が釈放 しゃくほう され、次 つ いで池田 いけだ も拘置 こうち 所 しょ から出 で て来 き た。有体 ありてい に言 い えば乙 おつ は甲 かぶと の親書 しんしょ に依 よ って、満州 まんしゅう での命 いのち の恩 おん に報 むく いたという。大阪 おおさか 事件 じけん の搜査 そうさ 段階 だんかい が、急 きゅう にバタバタと締 し めくくられ戸田 とだ 先生 せんせい に地検 ちけん の手 て が伸 の びなかったのも乙 おつ 検事 けんじ が一切 いっさい 合財 がっさい 目 め を瞑 つぶ って幕 まく を引 ひ いてくれたからであったという。[13] [14]
2013年 ねん にアメリカ で公開 こうかい が解禁 かいきん されたCIA の資料 しりょう によれば、1960年 ねん の安保 あんぽ 闘争 とうそう における過程 かてい で首相 しゅしょう の岸 きし 信介 しんすけ が会長 かいちょう の池田 いけだ へ大阪 おおさか 事件 じけん の無罪 むざい 判決 はんけつ 確約 かくやく を条件 じょうけん に、日増 ひま しに激化 げきか する安保 あんぽ 反対 はんたい 派 は やデモ隊 たい に対抗 たいこう するため創価学会 そうかがっかい 会員 かいいん の協力 きょうりょく を要請 ようせい したが池田 いけだ は断 ことわ った[15] 。
英文 えいぶん (原文 げんぶん ママ): Kishi called for cooperation in exchange for the acquittal of the case that Ikeda woke up for Chairperson Soka Gakkai Ikeda to be opposed to the security treaty opposition and the demonstrators which intensified for the new treaty conclusion of U.S.-Japan Security Treaty day by day, but Ikeda refused cooperation.[16]
邦訳 ほうやく (
試 ためし 訳 やく ):
岸 きし 首相 しゅしょう は
日増 ひま しに
激化 げきか する
日米 にちべい 安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく 改定 かいてい 反対 はんたい 派 は やデモ
隊 たい に
対抗 たいこう するため、
創価学会 そうかがっかい 会長 かいちょう の
池田 いけだ が
起訴 きそ された
事件 じけん で
無罪 むざい 判決 はんけつ をい
渡 いわた すことを
条件 じょうけん に
協力 きょうりょく を
要請 ようせい したが、
池田 いけだ はこの
協力 きょうりょく 要請 ようせい を
拒否 きょひ した。
岸 きし は結局 けっきょく 、右翼 うよく の児玉 こだま 誉 ほまれ 士 し 夫 おっと などを使 つか い暴力団 ぼうりょくだん を動員 どういん した結果 けっか 、岸 きし と一部 いちぶ の右翼 うよく と暴力団 ぼうりょくだん などの反 はん 社会 しゃかい 的 てき 勢力 せいりょく との関係 かんけい が深 ふか まったという[17] 。
戸田 とだ の妻 つま である戸田 とだ 幾 いく によれば戸田 とだ 会長 かいちょう は大阪 おおさか 事件 じけん が起 お きた参議院 さんぎいん の大阪 おおさか 選挙 せんきょ 区 く 補欠 ほけつ 選挙 せんきょ への候補者 こうほしゃ 擁立 ようりつ は消極 しょうきょく 的 てき であったという。戸田 とだ 会長 かいちょう は泡沫 うたかた 候補 こうほ と揶揄 やゆ された白木 しらき を当選 とうせん させた池田 いけだ の手腕 しゅわん を評価 ひょうか していたが、前回 ぜんかい の参議院 さんぎいん 選挙 せんきょ で白木 しらき は最下位 さいかい 当選 とうせん 。しかも自民党 じみんとう と社会党 しゃかいとう が2議席 ぎせき 獲得 かくとく を目指 めざ し複数 ふくすう 候補 こうほ を立 た てた結果 けっか 自民党 じみんとう と社会党 しゃかいとう の票 ひょう が分裂 ぶんれつ し、漁夫 ぎょふ の利 り で得 え た勝利 しょうり だったことから補欠 ほけつ 選挙 せんきょ のように定数 ていすう 1の戦 たたか いでは自民党 じみんとう や社会党 しゃかいとう のように支持 しじ 基盤 きばん が強 つよ く、前回 ぜんかい のように票 ひょう 割 わ れも見込 みこ めない状況 じょうきょう ではまだ支持 しじ 基盤 きばん の弱 よわ い創価学会 そうかがっかい は苦戦 くせん し落選 らくせん すると分析 ぶんせき していた。そのため次回 じかい の参議院 さんぎいん 選挙 せんきょ まで待 ま つよう指示 しじ を出 だ したが池田 いけだ は当選 とうせん させる自信 じしん があると戸田 とだ 会長 かいちょう を説得 せっとく 、候補者 こうほしゃ を擁立 ようりつ した。そうなれば学会 がっかい 全体 ぜんたい で補欠 ほけつ 選挙 せんきょ を盛 も り立 だ てていこうと戸田 とだ 会長 かいちょう は決 き めたという[13] 。
人間 にんげん 革命 かくめい における大阪 おおさか 事件 じけん の記述 きじゅつ
編集 へんしゅう
池田 いけだ 大作 だいさく の著書 ちょしょ 『人間 にんげん 革命 かくめい 』第 だい 十 じゅう 巻 かん において言及 げんきゅう されており、「学会 がっかい 員 いん の中 なか から選挙 せんきょ 違反 いはん での逮捕 たいほ 者 しゃ が多数 たすう 出 で たことについて、率直 そっちょく に認 みと めている。池田 いけだ (作中 さくちゅう では「山本 やまもと 伸一 しんいち 」)が「法律 ほうりつ に違反 いはん するような行動 こうどう は、けっしてあってはなりません」と誡めたにもかかわらず、「当局 とうきょく の創価学会 そうかがっかい に対 たい する無知 むち と、会員 かいいん の法律 ほうりつ 知識 ちしき の欠如 けつじょ による無知 むち とが輪 わ をかけて一 ひと つになり、重 かさ なる無知 むち が非常識 ひじょうしき な事件 じけん の続発 ぞくはつ をもたらした」としている。また、『人間 にんげん 革命 かくめい 』第 だい 十 じゅう 一 いち 巻 かん には、検事 けんじ から「君 きみ が容疑 ようぎ を認 みと めなければ、戸田 とだ 会長 かいちょう を逮捕 たいほ する」と脅 おど され、「身 み に覚 おぼ えのないことあっても、罪 つみ を一身 いっしん に被 こうむ るべき」と考 かんが えてのことだったとされている。
大阪 おおさか 事件 じけん 以降 いこう の創価学会 そうかがっかい
編集 へんしゅう
^ a b 溝口 みぞぐち 敦 あつし 著 ちょ 『池田 いけだ 大作 だいさく 「権力 けんりょく 者 しゃ 」の構造 こうぞう 』
^ 島田 しまだ 裕巳 ひろみ 『創価学会 そうかがっかい 』(新潮社 しんちょうしゃ 2004年 ねん 6月 がつ 20日 はつか )
^ 『毎日新聞 まいにちしんぶん 』 1955年 ねん 11月19日 にち 付 づけ
^ a b c 竹中 たけなか 労 ろう 『聞書 ききがき 庶民 しょみん 烈 れつ 伝 でん 』
^ 森 もり 幸雄 ゆきお 「民衆 みんしゅう 運動 うんどう としての夕張 ゆうばり 事件 じけん 」『創価 そうか 教育 きょういく 研究 けんきゅう 』第 だい 4号 ごう 、創価大学 そうかだいがく 創価 そうか 教育 きょういく 研究 けんきゅう センター、2005年 ねん 3月 がつ 、15-23頁 ぺーじ 、CRID 1050001337729628800 、hdl :10911/772 、ISSN 13472372 。
^ 刑事 けいじ 訴訟 そしょう 法 ほう 第 だい 319条 じょう は「強制 きょうせい 、拷問 ごうもん 又 また は脅迫 きょうはく による自白 じはく 、不当 ふとう に長 なが く抑留 よくりゅう 又 また は拘禁 こうきん された後 のち の自白 じはく その他 た 任意 にんい にされたものでない疑 うたぐ のある自白 じはく は、これを証拠 しょうこ とすることができない」と規定 きてい している。
^ a b c 龍 りゅう 年 ねん 光 ひかり 著 ちょ 『池田 いけだ 大作 だいさく ・創価学会 そうかがっかい の脱税 だつぜい を糾弾 きゅうだん する』
^ 第 だい 5節 せつ 恩赦 おんしゃ 昭和 しょうわ 51年版 ねんばん 犯罪 はんざい 白書 はくしょ
^ 『自由 じゆう 新報 しんぽう 』1996年 ねん 1月 がつ 号 ごう 「創価学会 そうかがっかい ウオッチング」
^ 『赤旗 あかはた 』1968年 ねん 11月1日 にち 号 ごう 2面 めん
^ 藤原 ふじわら 行正 ゆきまさ 著 ちょ 『池田 いけだ 大作 だいさく の素顔 すがお 』
^ 乙 おつ 骨 こつ 正 せい 生 せい 『公明党 こうめいとう =創価学会 そうかがっかい の真実 しんじつ 「自 じ ・創 そう 」野合 やごう 政権 せいけん を撃 う つⅡ』かもがわ出版 しゅっぱん 、2003年 ねん 、112-115頁 ぺーじ 。ISBN 978-4876997305 。
^ a b 石田 いしだ 次男 つぐお 著 ちょ 書 しょ 『内外 ないがい 一致 いっち の妙法 みょうほう この在 あ るべからざるもの』
^ 原島 はらしま 嵩 たかし 著 ちょ 『誰 だれ も書 か かなかった池田 いけだ 大作 だいさく ・創価学会 そうかがっかい の真実 しんじつ 』
^ 『潮 しお 』2008年 ねん 1月 がつ 号 ごう 「池田 いけだ 大作 だいさく の軌跡 きせき 」編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい 『平和 へいわ と文化 ぶんか の大城 おおしろ 池田 いけだ 大作 だいさく の軌跡 きせき 』「公明党 こうめいとう を創立 そうりつ (下 した )」
^ アメリカ国立 こくりつ 公文 こうぶん 書記 しょき 録 ろく 管理 かんり 局 きょく 1960年 ねん アメリカと日本 にっぽん の間 あいだ における安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく に関 かん する報告 ほうこく 書 しょ より引用 いんよう 2018年 ねん 9月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん
^ 『田中 たなか 角栄 かくえい 研究 けんきゅう 全 ぜん 記録 きろく (上 うえ ・下 した )』 立花 たちばな 隆 たかし 著 ちょ 1982年 ねん 講談社 こうだんしゃ 文庫 ぶんこ
^ 島田 しまだ 裕巳 ひろみ 『創価学会 そうかがっかい の実力 じつりょく 』(朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ )
^ 島田 しまだ 裕巳 ひろみ 『公明党 こうめいとう vs.創価学会 そうかがっかい 』(朝日 あさひ 新書 しんしょ )
^ 代表 だいひょう 役員 やくいん 、責任 せきにん 役員 やくいん 、代務 だいむ 者 しゃ 、仮 かり 代表 だいひょう 役員 やくいん 又 また は仮 かり 責任 せきにん 役員 やくいん の欠格 けっかく 事項 じこう は、1.未成年 みせいねん 者 しゃ 、2.心身 しんしん の故障 こしょう によりその職務 しょくむ を行 おこな うに当 あ たって必要 ひつよう となる認知 にんち 、判断 はんだん 及 およ び意思 いし 疎通 そつう を適切 てきせつ に行 おこな うことができない者 もの 、3.禁錮 きんこ 以上 いじょう の刑 けい に処 しょ せられ、その執行 しっこう を終 お わるまで又 また は執行 しっこう を受 う けることがなくなるまでの者 もの が該当 がいとう する(宗教 しゅうきょう 法人 ほうじん 法 ほう 第 だい 22条 じょう )