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法制史 - Wikipedia

法制ほうせい

法律ほうりつ歴史れきしや、歴史れきしじょう法律ほうりつのありかたについて研究けんきゅうする学問がくもん

法制ほうせい(ほうせいし)とは、法律ほうりつ歴史れきしや、歴史れきしじょう法律ほうりつありかたについて研究けんきゅうする学問がくもんほう史学しがく(ほうしがく)・くにせい(こくせいし)などともばれる。

歴史れきしがくとしての側面そくめん法律ほうりつがくとしての側面そくめんあわっており、歴史れきしがく分野ぶんやからは法律ほうりつ制度せいどやこれにもとづく国家こっか体制たいせい変遷へんせんなどをあきらかにする学問がくもんであり、法律ほうりつがく分野ぶんやからは法律ほうりつ発展はってん歴史れきしがくてき方法ほうほうつうじてあきらかにする学問がくもんである。

概要がいよう

編集へんしゅう

法制ほうせい法律ほうりつがく歴史れきしがくとの関係かんけいについては、法制ほうせいほう解釈かいしゃくがくむすびつけてあらたな法理ほうり形成けいせいうながそうとするかんがかた現行げんこうほう社会しゃかいとの直接ちょくせつ統合とうごう可能かのうせい否定ひていしてほう制度せいどかんする歴史れきしがくとしての立場たちば追究ついきゅうするうごきがあった。だが、法律ほうりつ法典ほうてん近代きんだい進行しんこうとともに前者ぜんしゃ存立そんりつ余地よち減少げんしょうしていったのみならず、ほう発展はってん歴史れきし全体ぜんたいにおける位置いちづけが不明ふめいかくとなり、法制ほうせい独立どくりつして存在そんざいする意義いぎうしなわれてしまうとの批判ひはんがある。一方いっぽう後者こうしゃ立場たちばからほう社会しゃかいがくなどとともに基礎きそ法学ほうがく一角いっかくめて「近代きんだいほうとはなにか」という基礎きそ認識にんしきみちびくためにほう発展はってん関係かんけいするすべての歴史れきし事象じしょう研究けんきゅうする学問がくもんてっするべきであるとする見解けんかい存在そんざいする。

とくに、明治維新めいじいしんによって律令りつりょうほう幕府ばくふほう近代きんだいほうとの断絶だんぜつしょうじた日本にっぽんにおいては現実げんじつ法律ほうりつ運用うんよう日本にっぽん歴史れきしだい部分ぶぶんめる明治めいじ以前いぜん法制ほうせい研究けんきゅうかされること皆無かいむちかく、もっぱ比較ひかく法学ほうがく立場たちばから日本にっぽんほう歴史れきしてき特殊とくしゅせいろんじること終始しゅうししたため、法律ほうりつがく立場たちばからはその存在そんざい意義いぎ疑問ぎもんされつづけてきた。

だい2世界せかい大戦たいせん社会しゃかい経済けいざい観点かんてんから法制ほうせいへの関心かんしんたかまる一方いっぽうで、従来じゅうらい国家こっか制度せいどとその法律ほうりつ歴史れきし研究けんきゅう限定げんていされてきた法制ほうせい研究けんきゅう批判ひはん登場とうじょうした。このため、法律ほうりつそのものの歴史れきしのみならず、それをしてきた社会しゃかい仕組しくみや人々ひとびとほう観念かんねんなどの研究けんきゅうおこなわれるようになり、比較ひかく対象たいしょう中国ちゅうごくやヨーロッパのみならずぜん世界せかいてきとなった。このため、従来じゅうらい固定こていされた「法制ほうせい」というわくから決別けつべつして社会しゃかい規範きはん全般ぜんぱん歴史れきしあつか意味いみでの「ほう史学しがく」や反対はんたい従来じゅうらいの「法制ほうせい」の中核ちゅうかくであった国家こっか体制たいせい法制ほうせい歴史れきしとくした「くにせい」(憲法けんぽうドイツの「Verfassungsgeschichte」)などのもちいられるようになった。

なお、現在げんざい日本にっぽん大学だいがく法制ほうせい教育きょういく法学部ほうがくぶにおいておもおこなわれ、法制ほうせい日本にっぽん法制ほうせい東洋とうよう法制ほうせい(もしくは中国ちゅうごく法制ほうせい)・西洋せいよう法制ほうせいローマほうカノンほうドイツほうフランスほうイギリスほうなど)にけて講座こうざ編成へんせいされることおおい。

法制ほうせい発生はっせい

編集へんしゅう

ルネサンス以後いごヨーロッパにおいて、古代こだいマ帝国まていこくのローマほう継受けいじゅされて復権ふっけんしたことにより、ふるほう制度せいど研究けんきゅうして現在げんざいほう制度せいどのありかた反映はんえいさせる意図いと発達はったつした。とく19世紀せいきドイツでは法典ほうてん論争ろんそう勃発ぼっぱつサヴィニー中心ちゅうしんとして「歴史れきし学派がくは」が形成けいせいされるが、やがてドイツほう根源こんげんをローマほうもとめるサヴィニーを中心ちゅうしんとするロマニステンと、ギールケen/de)やサヴィニーのかつての弟子でしであったヤーコプ・グリムらを中心ちゅうしんとするゲルマンほうもとめるゲルマニステン対立たいりつする法典ほうてん論争ろんそう勃発ぼっぱつして、現在げんざい法律ほうりつおよびその根源こんげんもとめるための法制ほうせい研究けんきゅうとくさかんになった。結果けっかてきにはサヴィニーがこしたパンデクテン法学ほうがくもとづいたドイツ民法みんぽうてん制定せいてい1896ねん)されて一区切ひとくぎりがく。だが、ゲルマニステンの活動かつどうはローマほう継受けいじゅけていない社会しゃかいたとえば日本にっぽん)においても法制ほうせい形成けいせいうながしたてんおおきい。また、ローマほう影響えいきょう直接的ちょくせつてきにはけなかったイギリスでも歴史れきし学派がくは勃興ぼっこうし、イギリスにおけるローマほう研究けんきゅうしたヘンリー・メインen)やほう歴史れきしてき類型るいけい研究けんきゅうおこなったヴィノグラドフen)をメイトランドen)によってコモン・ロー歴史れきし研究けんきゅう本格ほんかくすることとなる。

あかりほうどう有職故実ゆうそくこじつ律令りつりょう官制かんせい研究けんきゅう

編集へんしゅう

日本にっぽんでは明治めいじ以前いぜんにおいてもあかりほうどう有職故実ゆうそくこじつ研究けんきゅう一環いっかんとして律令りつりょう格式かくしき官制かんせいなどの研究けんきゅうおこなわれることもあったが、あかりほうどうにとっての律令りつりょう格式かくしき室町むろまち幕府ばくふ武家ぶけ故実こじつ成敗せいばい式目しきもくなどの鎌倉かまくら幕府ばくふ法令ほうれいふくむ)などは、形式けいしきじょう現行げんこうほうであったことにくわえてあかり法家ほうか実家じっかがこうした知識ちしき家学かがくしてそのみち権威けんいとして自己じこ家格かかく維持いじするためにもちいられたために、知識ちしきそのものが「秘伝ひでん」とされ、あるいは蓄積ちくせきされた知識ちしきもちいて自己じこ都合つごうによる解釈かいしゃくおこなわれるなど「学問がくもん」からかけはなれた側面そくめんゆうした。

江戸えど時代じだい中期ちゅうき以後いごになると、がく発展はってん影響えいきょうけてふる法制ほうせいかんする研究けんきゅうさかんになった。これは江戸えど幕府ばくふ自己じこ法体ほうたいけい確立かくりつすすめるなかで、従来じゅうらいほう現行げんこうほうとしての色彩しきさいうすめてきたという事情じじょうもある。新井あらい白石はくせきほんきょ宣長のりながはなわ保己一ほきいちなどが代表だいひょうてき研究けんきゅうとしてげられる。また、律令りつりょう中国ちゅうごくほうからの継受けいじゅであるとされたことから、中国ちゅうごく律令りつりょうかんする研究けんきゅうおこなわれ、とおる年間ねんかん伊藤いとう東涯とうがい(『制度せいどどおり』)や荻生おぎゅうきたけい高瀬たかせほお研究けんきゅうられ、『からろくてん』の校勘こうかんおこなった近衛このえひろしもここにふくめること出来できる。ただし、こうした研究けんきゅう儒学じゅがく国学こくがくからの派生はせいてき研究けんきゅうとしておこなわれていたこと、また動機どうきなかに「先例せんれい」の1つとして実際じっさい政治せいじ法制ほうせいかすことがふくまれていたことも特徴とくちょうとしてげられる。また、壺井つぼい義知よしとも伊勢いせ貞丈さだたけ有職故実ゆうそくこじつ研究けんきゅう立場たちばった律令りつりょう官制かんせい研究けんきゅう展開てんかいされていくことになる。

近代きんだい日本にっぽん法制ほうせい史学しがく成立せいりつ

編集へんしゅう

明治維新めいじいしんともな西洋せいよう法制ほうせいおよ法律ほうりつがく移入いにゅうとともに、近代きんだい日本にっぽん法制ほうせいはじまることになる。1874ねん東京とうきょう開成かいせい学校がっこう東京大学とうきょうだいがく)において、イギリスじん講師こうしによる「うまほう(ローマほう)」講義こうぎおこなわれ、3ねん1877ねん小中村こなかむら清矩きよのりによって「日本にっぽん古代こだい法律ほうりつ」とばれる日本にっぽん法制ほうせい講義こうぎおこなわれた。もっとも、当時とうじ太政官だじょうかんせい中心ちゅうしんとする政治せいじ体制たいせい旧来きゅうらい律令制りつりょうせい近代きんだいこくせい混合こんごう形態けいたいであり、当時とうじ日本にっぽん法制ほうせい旧来きゅうらい有職故実ゆうそくこじつ延長えんちょうであった。このころから、法制ほうせい整備せいび目的もくてき律令りつりょうほう幕府ばくふほう研究けんきゅうおこなわれ、『憲法けんぽうこころざしりょう』や『だい日本にっぽん租税そぜいこころざし』、『徳川とくがわ禁令きんれいこう』、『古事ふるごとるいえん』などが刊行かんこうされた。この時期じき活躍かつやくしたのは国学こくがく水戸みとまなぶ研究けんきゅうであり、前述ぜんじゅつ小中村こなかむら清矩きよのりや『だい日本にっぽん』の官職かんしょくこころざし刑法けいほうこころざし編纂へんさんした栗田くりたひろし日本にっぽん経済けいざい草分くさわけの1人ひとりである横井よこいふゆ1890ねん日本にっぽん最初さいしょ法制ほうせい概説がいせつしょである『日本にっぽん制度せいどどおり』を執筆しっぴつした萩野はぎの由之よしゆき池辺いけべ義象よしたか、その木村きむら正辞まさこと黒川くろかわ真頼まより横山よこやまゆかりきよしなどがその代表だいひょうてき研究けんきゅうであった。とく小中村こなかむら栗田くりた東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくにおける歴史れきしがく基礎きそきずいたことからその法制ほうせいあたえた影響えいきょうおおきい。その一方いっぽうで、西洋せいよう法制ほうせい文献ぶんけん日本にっぽん流入りゅうにゅうしてきており、1884ねんにはヘンリー・メインの『Ancient Law』 が文部省もんぶしょう委託いたくけた鳩山はとやま和夫かずお翻訳ほんやくによって『はる古代こだいほう』として刊行かんこうされている。

本格ほんかくてき法制ほうせい研究けんきゅう明治めいじにおける獨逸どいつがく導入どうにゅう一環いっかんとしてのドイツの法制ほうせい研究けんきゅう導入どうにゅうによるところがおおきい。その先駆せんくしゃはドイツにわたってグリムらのゲルマニステン法制ほうせい摂取せっしゅして帰国きこくした宮崎みやざきどう三郎さぶろうである。1893ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅであった宮崎みやざき法制ほうせい比較ひかく法制ほうせい講座こうざ設置せっち実現じつげんさせ、みずか担当たんとう教官きょうかん就任しゅうにんした。宮崎みやざき講義こうぎ平安へいあん時代じだい末期まっきまでの体系たいけいとどまったが、中国ちゅうごくやドイツの法制ほうせい日本にっぽん法制ほうせい比較ひかくつうじて日本にっぽん法制ほうせい発展はってん歴史れきし把握はあくしようとしたほか、古代こだい日本語にほんご朝鮮ちょうせんとの比較ひかくから官制かんせい源泉げんせんさぐろうとした。1902ねん法制ほうせい比較ひかく法制ほうせい講座こうざは、日本にっぽん法制ほうせいあつか法制ほうせい講座こうざ西洋せいよう法制ほうせいあつか比較ひかく法制ほうせい講座こうざ分離ぶんりすることになる。宮崎みやざき門人もんじんおなじくドイツに留学りゅうがくした中田なかたかおるはドイツ法制ほうせいとの比較ひかくつうじて荘園しょうえん土地とち所有しょゆう封建ほうけんせい歴史れきし研究けんきゅうして様々さまざま著作ちょさく発表はっぴょうした。また、宮崎みやざき退官たいかん日本にっぽん法制ほうせい西洋せいよう法制ほうせい両方りょうほう講義こうぎ担当たんとうして1937ねん退官たいかんまで東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく学科がっかにおける法制ほうせい研究けんきゅう中心ちゅうしんてき存在そんざいになった。一方いっぽう宮崎みやざき法制ほうせい講座こうざ設置せっちする直前ちょくぜん卒業そつぎょうした三浦みうらあまねぎょうは、小中村こなかむら栗田くりたによる有職故実ゆうそくこじつけい法制ほうせい継承けいしょうしゃとしての側面そくめんゆうしていた。その一方いっぽう明治めいじ以後いご日本にっぽんでもさかんになった文化ぶんか社会しゃかい成果せいかれて「文化ぶんかてき法制ほうせい史学しがく」とばれる一派いっぱみずからが設立せつりつ関与かんよした京都きょうと帝国ていこく大学だいがく史学しがくてた。こうして東京帝大とうきょうていだい中田なかた中心ちゅうしんとして過去かこ法体ほうたいけい現在げんざい法体ほうたいけい比較ひかく適用てきようして論理ろんり構成こうせいはかろうとする人々ひとびと京都きょうとみかどだい三浦みうら中心ちゅうしんとするほう文化ぶんかてき歴史れきしてき背景はいけいとその変遷へんせん重視じゅうしする人々ひとびとかれることになる。前者ぜんしゃを「文科ぶんか」、後者こうしゃを「法科ほうか」とぶ。また、既存きそん有職故実ゆうそくこじつ立場たちばからも『古事ふるごとるいえん』の編纂へんさんつくした佐藤さとう誠実せいじつ律令りつりょう研究けんきゅう文科ぶんか法科ほうか双方そうほうおおきな影響えいきょうあたえている。また、宮崎みやざきからローマほう分野ぶんやいだ戸水とみず寛人ひろとなな博士はかせ意見いけんしょでも著名ちょめい)もこの時期じき代表だいひょうてき法制ほうせい史家しかである。また、日本にっぽん律令りつりょうほう中国ちゅうごく律令りつりょうほうからの継受けいじゅであることから、明治めいじ後期こうきから中国ちゅうごく法制ほうせいたいする関心かんしんたかまり、『清国きよくに行政ぎょうせいほう』を執筆しっぴつした織田おだよろず浅井あさい虎夫とらお広池ひろいけせん九郎くろう東川ひがしがわ徳治とくじ桑原くわばら隲蔵などがあらわれた。だが、その一方いっぽうでこうした研究けんきゅう日本にっぽん大陸たいりく政策せいさくふかかかわっていった側面そくめん見落みおとすこと出来できない。

大正たいしょうから昭和しょうわ戦後せんごにかけて、三浦みうら系統けいとうまき健二けんじら、中田なかた系統けいとう石井いしい良助りょうすけ高柳たかやなぎさんらに継承けいしょうされる。まきはドイツ封建ほうけん制度せいどとの比較ひかくれながら鎌倉かまくら幕府ばくふ成立せいりつ過程かていはんほう研究けんきゅうなどをおこない、とくぶん年間ねんかん守護しゅご補任ほにんめぐって中田なかたかおる論争ろんそうひろげた。石井いしい中世ちゅうせい武家ぶけ土地とちほう研究けんきゅうから知行ちぎょうかんしてゲルマンほうゲヴェーレ根本こんぽん概念がいねん同一どういつとする中田なかだせつ否定ひていして、ゲヴェーレとローマほうポセシオなかあいだ形態けいたいとする新説しんせつとなえてまき高柳たかやなぎ論争ろんそうおこなった。高柳たかやなぎ家族かぞくほう研究けんきゅうから明治めいじ法制ほうせい研究けんきゅう必要ひつようせいとなえたが戦前せんぜんにおいては異端いたんあつかいをけることもあったが、戦後せんごにおいては一転いってんして近代きんだい法制ほうせい研究けんきゅう先駆せんくしゃとして評価ひょうかされることになる。また、江戸えど時代じだい刑法けいほう家族かぞくほうかんする著作ちょさくおおのこした。このほかにも法科ほうか立場たちばからスタートしながらも国学こくがく文科ぶんか成果せいかれて律令りつりょう研究けんきゅうすすめ、さら文化ぶんか民衆みんしゅうにもんだ瀧川たきがわ政次郎まさじろうや、まきとともにはんほう研究けんきゅう先駆せんくしゃとしてられ、近世きんせい民事みんじほう研究けんきゅうでもられた金田かねだ平一郎へいいちろうまき門下もんかからのち法科ほうかてんじて近世きんせい民事みんじほうはんほう研究けんきゅうから明治めいじ公法こうほう研究けんきゅうすすんだ小早川こばやかわ欣吾きんごなどが活躍かつやくした。中国ちゅうごく法制ほうせい分野ぶんやでは仁井田にいだ島田しまだ正郎まさお、ローマほう分野ぶんやでは原田はらだけいきちのち芦田あしだ内閣ないかく国務相こくむしょうにもなった船田ふなだ享二きょうじなど多種たしゅ多様たよう人材じんざいあらわれた。

だい2大戦たいせん法制ほうせい

編集へんしゅう

だい2世界せかい大戦たいせん法制ほうせいがくにおいては文科ぶんか法科ほうか研究けんきゅう方法ほうほうたいする対立たいりつふかまったうえに、法律ほうりつがくのみならず歴史れきしがく立場たちばからも存在そんざい意義いぎ疑問ぎもんていされるようになる。法律ほうりつがくがわからは伝統でんとうてきほう実証じっしょう主義しゅぎ固執こしつして現行げんこうほう法体ほうたいけいとの比較ひかくなど、現在げんざい法律ほうりつがくたいする客観きゃっかんてき視点してん付与ふよといった基礎きそ法学ほうがくとしてたすべき役目やくめたしていないとの批判ひはんけた。一方いっぽう歴史れきしがく立場たちばからも歴史れきしにおける社会しゃかいてきしょ現象げんしょう無視むしして現行げんこうほう概念がいねん法体ほうたいけいちが過去かこ法制ほうせい研究けんきゅうしており、当時とうじ社会しゃかい経済けいざいてき背景はいけい関連かんれんづけてさらなる深化しんかはかろうとする歴史れきしがくながれから乖離かいりしているとして批判ひはんけた。こうしたなか1949ねんには法制ほうせい学会がっかい結成けっせいされて11月23にち中央大学ちゅうおうだいがく創立そうりつ大会たいかいひらかれた。戦後せんごは、社会しゃかい経済けいざい立場たちばから法制ほうせい研究けんきゅうたずさわって国家こっか支配しはいそう以外いがい町村ちょうそん寺院じいん商人しょうにん団体だんたいなど社会しゃかい関係かんけい規律きりつしてきたあらゆる規定きてい関心かんしんけられ、またこれまでは未開拓みかいたく部分ぶぶんおおかった中世ちゅうせいほう近代きんだいほうさらには日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいていによって現行げんこうほうとしての地位ちいうしなった大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう法体ほうたいけい中心ちゅうしん明治維新めいじいしん以後いご法体ほうたいけい研究けんきゅうする近代きんだいほう研究けんきゅう次第しだいさかんになってきた。とく近代きんだいほう日本にっぽん国家こっかおよほう近代きんだい過程かていふか関係かんけいしており、くわえて「旧法きゅうほう」として現在げんざい法体ほうたいけいとの関連かんれんせいゆうしていることから注目ちゅうもくされている分野ぶんやである。

こうした法制ほうせいめぐ変化へんかかんするうごきは世界せかいてきつよく、法制ほうせい実定法じっていほう関係かんけいつよいとされるドイツでもローマほうとドイツ民法みんぽうてんとの関係かんけい希薄きはくやゲルマンほうナチズムとの関係かんけいたいする批判ひはんから法制ほうせい衰退すいたいられたが、ハインリヒ・ミッタイスde)やカール・クレッシェルde)などによってほう解釈かいしゃくにおける法制ほうせい役割やくわりについてさい構築こうちくおこなうごきがられた。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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