(Translated by https://www.hiragana.jp/)
源俊賢 - Wikipedia

みなもとしゅんけん

平安へいあん時代じだい中期ちゅうき公卿くぎょうみなもと高明こうめい三男さんなんせいけん大納言だいなごん

みなもと しゅんけん(みなもと の としかた)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき公卿くぎょう醍醐だいごはじめ西宮にしのみや左大臣さだいじんみなもと高明こうめい三男さんなん官位かんいせいけん大納言だいなごん

 
みなもとしゅんけん
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 天徳てんとく4ねん960ねん
死没しぼつ 万寿まんす4ねん6月13にち1027ねん7がつ19にち
別名べつめい いちじょうあさよん納言なごん
官位かんい せいけん大納言だいなごん
主君しゅくん 冷泉れいせん天皇てんのう円融天皇えんゆうてんのう花山はなやま天皇てんのう一条天皇いちじょうてんのう三条さんじょう天皇てんのう後一条天皇ごいちじょうてんのう
氏族しぞく 醍醐だいごはじめ
父母ちちはは ちちみなもと高明こうめいはは藤原ふじわらさんじょ
兄弟きょうだい 為平親王ためひらしんのうちゅうけんおもんみけんしゅんけん明子あきこけいぼう、致賢、藤原ふじわらただしこうしつみなもと重信しげのぶしつ藤原ふじわらしょういんしつ
つま 正室せいしつ中納言ちゅうなごんきみ藤原ふじわらただしくんむすめ
成尋阿闍梨母じょうじんあじゃりのははあらわもとりゅうこくりゅうゆかりみなもとちょうにんしつ
テンプレートを表示ひょうじ

藤原公任ふじわらのきんとうどうひとししんどうくだりなりならんでいちじょうあさよん納言なごんばれ、摂関せっかん政治せいじ一角いっかくにな能吏のうりとしてられた。

経歴けいれき

編集へんしゅう

冷泉れいせんあさ安和やすかず2ねん969ねんしゅんけん11さいとき左大臣さだいじん高位こういにあったちち高明こうめいだいおさむけんそち左遷させんされ失脚しっきゃくする見舞みまわれる(安和あわへん)。このときに、高明こうめいの11,2さいくらいになるわらわ子供こども)が大宰府だざいふについてくことをゆるされたとされるが(『栄花物語えいがものがたり』)[1]年齢ねんれいてきしゅんけんであったとかんがえられる[2]。そのてんろく3ねん971ねん)になって高明こうめいゆるされたが、政界せいかい復帰ふっきすることはなく、天元てんげん5ねん982ねん)にぼっするまで葛野かずらの隠棲いんせいした。ちち左遷させんしゅんけん藤原ふじわら勢力せいりょく痛感つうかんさせ、その処世しょせいじゅつ影響えいきょうあたえたと想定そうていされる[3]。また、しゅんけん高明こうめいによってきびしくそだてられ[4]だい学寮がくりょうでもまなんだらしい[5]

円融えんゆうちょうてんのべ3ねん975ねんしたがえ叙爵じょしゃくし、貞元さだもと2ねん977ねん侍従じじゅう任官にんかんする。永観えいかん2ねん984ねんしたがえじょうひだり兵衛ひょうえけん叙任じょにんされると、寛和ひろかず2ねん986ねんひだり近衛このえけん少将しょうしょう花山はなやまあさからいちじょうあさ初頭しょとうにかけて武官ぶかんつと順調じゅんちょう昇進しょうしんする。しゅんけんけいぼう兄弟きょうだい後見こうけんやくに、当時とうじ執政しっせいである藤原ふじわらけんがついていたとられ[6]、このあいだ昇進しょうしんけん思惑おもわく配慮はいりょみとることができる[7]

えいのべ2ねん988ねんみぎしょうべんけん蔵人くろうどてんじると、えい2ねん990ねんせいみぎちゅうわきまえせいこよみ3ねん992ねん蔵人くろうどあたませいこよみ4ねん993ねんしたがえよんせいこよみ5ねん994ねんけんひだりちゅうべん関白かんぱく藤原ふじわら道隆みちたか執政しっせいべんかんつとめながら昇進しょうしんかさね、ちょういさお元年がんねん995ねん)5がついもうとみなもと明子あきこおっと義兄弟ぎきょうだいにあたる藤原ふじわら道長みちなが内覧ないらん就任しゅうにんすると、8がつにはしゅんけん参議さんぎにんぜられ公卿くぎょうれつした。

しゅんけん蔵人くろうどあたまになったさい本来ほんらいあたま中将ちゅうじょうから参議さんぎに遷った藤原公任ふじわらのきんとう後任こうにんえら人事じんじで、すであたまべんとしてみなもと扶義がいたこともあり、通常つうじょうならばしたがえよんじょうひだり近衛このえ中将ちゅうじょうであった藤原ふじわらひとししん適任てきにんであったところ[7]せいみぎちゅうべんしゅんけんにんじられた。これにより、あたまべん2人ふたりになっただけでなく、ながら蔵人くろうどあたまにんぜられるという異例いれい抜擢ばってき朱雀すざくあさ以降いこう藤原ふじわら藤原ふじわらきょけん藤原ふじわらあらわこう藤原ふじわらみちけん藤原ふじわらきた嫡流ちゃくりゅう僅少きんしょうれいのみ)であった。この背景はいけいには藤原ふじわら道隆みちたかおんぐうがあったとされ、しゅんけん道隆みちたか自己じこ推薦すいせんしたという逸話いつわがある[8][注釈ちゅうしゃく 1]しゅんけんはこのおん偶をわすれず、道隆みちたかの薨御やちょういさおへんつうじてちゅう関白かんぱく没落ぼつらくしていくなかでも同家どうけたいして好意こういてきせっした[10]

  • ちょういさお元年がんねん(995ねん)5がつ藤原ふじわら道長みちながたいする内覧ないらん宣旨せんじはっせられるが、ちち道隆みちたかのちげなかった藤原伊周ふじわらのこれちか同情どうじょうして、蔵人くろうどあたまであったしゅんけんそらねむりをしてこの宣旨せんじかなかったふりをしたという(『古事ふるごとだん』)[11]
  • ちょうとく2ねん996ねん)3がつ兄弟きょうだいであるしゅうりゅうたいする花山院かさんのいんたてまつ事件じけんともな断罪だんざい間近まぢかひかえ、内裏だいり退出たいしゅつした中宮なかみや藤原ふじわら定子さだこさとてい二条北にじょうきたみやへの行列ぎょうれつに、公郷くごうががほぼ「ざわりをもうし」てて供奉ぐぶしないなか参議さんぎひらおもんみなかとともに扈従こしょうした(『しょう右記うき』)[12]。なお、長保ながほ元年がんねん(999ねん)では扈従こしょうしていない。
  • ちょうとく2ねん(996ねん)6がつ藤原ふじわら定子さだこ在所ざいしょ二条北にじょうきたみや焼亡しょうぼうしたさいしゅんけんみなもとよりゆきじょう同車どうしゃしてさんじた(『しょう右記うき』)[13]
  • ちょうとく3ねん997ねん)4がつしゅうたかし兄弟きょうだいたいして恩赦おんしゃ召還しょうかんすることの詮議せんぎにおいて、しゅんけん藤原ふじわらみのる藤原公任ふじわらのきんとうひらおもんみなかとともに「つみおんみことのりうるおすべし。『はんはちしいたげまぬかれす』のぶんる。ただうえぐるごといたりては、ただみことのりじょうり。左右さゆうさだもうがたし」ともっと温厚おんこう意見いけんった(『しょう右記うき』)[14]

一方いっぽうで、ちょういさおへん執政しっせい藤原ふじわら道長みちながに遷るが、しゅんけんちゅう関白かんぱくとのつながりをたもちながらも、義兄弟ぎきょうだいにもたるみちちょうへの協力きょうりょくおこたらないという平衡へいこう感覚かんかくのよさを発揮はっきする[15]

ちょういさお元年がんねん(995ねん参議さんぎ昇進しょうしんするにさいし、後任こうにん蔵人くろうどあたま人選じんせんについて一条天皇いちじょうてんのう諮問しもんけ、藤原ふじわらこうなり推挙すいきょ父祖ふそ早世そうせいされ沈淪ちんりんした青年せいねんごしたくだりなりは、このしゅんけん進言しんげんあってこそ、一条天皇いちじょうてんのうによって一挙いっきょ地下ちかからまんにん垂涎すいぜん重職じゅうしょくである蔵人くろうどあたま抜擢ばってきされ、以後いご順調じゅんちょう官途かんとあゆんだのである。くだりなりしゅんけんより13さい年下とししたであったが、二人ふたり後々あとあとまであいゆるした親友しんゆうで、しゅんけんこうなりりょうけい加冠かかんやくつとめ、嫡子ちゃくしあらわもと後室こうしつくだりなりおんなむかえたとされる。

政官せいかんかたわらで、かんかいよし長官ちょうかん修理しゅうり大夫たいふみぎ近衛このえ中将ちゅうじょう治部じぶきょう兼帯けんたいしながら、ちょうとく3ねん997ねんしたがえよんじょう長保ながほ2ねん1000ねんせいよん長保ながほ3ねん1001ねんしたがえさん長保ながほ5ねん1003ねん)には上位じょうい3めい藤原ふじわらふところひらた菅原すがわら輔正藤原ふじわらただし)をえてせいさん順調じゅんちょう昇進しょうしんした。このあいだ長保ながほ4ねん1002ねん)より中宮ちゅうぐう彰子あきこ中宮ちゅうぐうけん大夫たいふ(のち大夫たいふ)をつとめ、彰子あきこ皇太后こうたいごう太皇太后たいこうたいこうへとすすむにしたが転任てんにんし、20ねんあいだわたってみや大夫たいふ在職ざいしょくした。

その寛弘かんこう元年がんねん1004ねん藤原ふじわらゆうこくえてけん中納言ちゅうなごん寛弘かんこう5ねん1008ねん藤原ふじわらひかりえてしたがえ叙任じょにんされ、寛弘かんこう7ねん1010ねん)には上位じょうい3めい藤原公任ふじわらのきんとう藤原隆家ふじわらのたかいえ藤原ふじわらこうなり)をえてごくくらいであるせいいたる。

さんじょうあさでは昇進しょうしんがなく長和ながわ2ねん1013ねん)には道長みちなが長男ちょうなんである藤原ふじわら頼通よりみちけん大納言だいなごん昇進しょうしんさきされるが、こういちじょうあさ初頭しょとう寛仁かんじん元年がんねん1017ねんしゅんけんけん大納言だいなごん昇進しょうしんしている。寛仁かんじん年間ねんかんはじめにさん辞表じひょうまつり、寛仁かんじん3ねん1019ねん致仕ちしゆるされてけん大納言だいなごん辞任じにんして、治部じぶきょう(のちみんきょう)と太皇太后たいこうたいこうみや大夫たいふつとめた。

まん寿ことぶき3ねん1026ねん)10がつ20日はつか致仕ちしを聴される。万寿まんす4ねん1027ねん)6がつ12にちやまいあつきによって出家しゅっけ最終さいしゅう官位かんいみんきょうせいよく13にち薨去こうきょ享年きょうねんちち高明こうめいおなじ69であった。

人物じんぶつ

編集へんしゅう

父親ちちおやみなもと高明こうめい)が政変せいへん失脚しっきゃくさせられながらも、とき執政しっせい藤原ふじわらけん道隆みちたか道長みちなが)と親密しんみつ関係かんけいきずき、藤原ふじわら全盛期ぜんせいきみなもと出身しゅっしんながらけん大納言だいなごんまでのぼったことから、以下いか評価ひょうかがある。

  • しゅんけん処世しょせいじゅつ明白めいはく単純たんじゅんであって、それは明敏めいびん学識がくしきって、つね最高さいこう権力けんりょくしゃ密着みっちゃくすることであった。(中略ちゅうりゃく時勢じせい推移すいい敏感びんかん観察かんさつし、昨日きのう恩人おんじんとすことに躊躇ちゅうちょおぼえなかった(関口せきぐちつとむ[19]
  • しゅんけんまたコトニコトニ御堂みどうニハシタシクこうテ、イササカモアシキ意趣いしゅナカリケリ(慈円じえん[20]

かんれき

編集へんしゅう

注記ちゅうきのないものは『公卿くぎょう補任ほにん』による。

子孫しそん醍醐だいごはじめ嫡流ちゃくりゅうとして、りゅうこくまご俊明としあきさんだいわたって大納言だいなごんした。

関連かんれん作品さくひん

編集へんしゅう
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 関口せきぐちつとむは『西宮にしのみや』の著作ちょさく動機どうきひとつにしゅんけんへの有職故実ゆうそくこじつ継承けいしょうにあるとする立場たちばから、せいこよみ4ねんみなもと重光しげみつやしき火災かさい焼失しょうしつした『西宮にしのみや』をしゅんけんきゅう蔵本ぞうほん推定すいていし、しゅんけん蔵人くろうどあたまえらばれるさい道隆みちたか嫡男ちゃくなんしゅうゆずられ、火災かさい当時とうじしゅうんでいた義父ぎふみなもと重光しげみつてい保管ほかんされていたとするせつとなえている[9]

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 栄花物語えいがものがたりまき1
  2. ^ 高橋たかはし[1999: 13]
  3. ^ 高橋たかはし[1999: 19]
  4. ^ 高橋たかはし[1999: 14]
  5. ^ かわうみしょうまき9「おつどおりおんな」、『細流さいりゅうしょうまき5「乙女おとめ
  6. ^ 久保木くぼき秀夫ひでお枕草子まくらのそうしにおけるみなもとけいぼう」『かたりぶん日本にっぽん大学だいがく国文こくぶん学会がっかい、1997ねん
  7. ^ a b 高橋たかはし[1999: 15]
  8. ^ 古事ふるごとだんだい,臣節しんせつしゅんけん蔵人くろうどあたま自薦じせんこと
  9. ^ 関口せきぐちつとむ摂関せっかん時代じだい文化ぶんか研究けんきゅう』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2007ねんISBN 978-4-7842-1344-3 P171-174
  10. ^ 高橋たかはし[1999: 17]
  11. ^ 古事ふるごとだんだい,臣節しんせつ道長みちなが内覧ないらん宣旨せんじこうむしゅんけん空寝そらねこと
  12. ^ しょう右記うきちょうとく2ねん3がつ4にちじょう中宮なかみやしょく曹司ぞうし出御しゅつぎょ二條北宮自陽明門出御惟仲俊賢朝臣供奉他公卿皆申障」
  13. ^ しょう右記うきちょうとく2ねん6がつ9にちじょう
  14. ^ しょう右記うきちょうとく3ねん4がつ5にちじょう
  15. ^ 高橋たかはし[1999: 18]
  16. ^ しょう右記うきちょうとく2ねん8がつ7にちじょう
  17. ^ 御堂みどう関白かんぱく長保ながほ元年がんねん2がつ27にちじょう
  18. ^ しょう右記うき長保ながほ元年がんねん10がつ28にちじょう
  19. ^ 関口せきぐちつとむみなもとしゅんけんこう」『日本にっぽん古代こだい国家こっか祭儀さいぎ雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん、1996ねん
  20. ^ かんしょうまき4
  21. ^ 日本にっぽんりゃく

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう