百 人 斬 り競争
2003
当時 の報道
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反響
この
南京 軍事 法廷
1947
論争
1971
(
「据 え物 斬 り」説
本多 勝一 による「据 えもの百 人 斬 り」説
主張 の根拠
-
当時 の新聞 等 の資料 (東京日日新聞 の記事 ) -
東京日日新聞 の記事 以外 にも、次 のような報道 がされている。野田 少尉 の中村 硯 郎 あての手紙 が紹介 されている。その中 で、「百 人 斬 り競争 なんてスポーツ的 なことが出来 た」こと、南京 入城 までに「105斬 った」がその後 「253人 叩 き斬 った」として「百 人 斬 り競争 」の事実 を自認 している。野田 少尉 が帰国 した際 の記事 では「374人 を斬 った」として野田 少尉 が「百 人 斬 り競争 」について詳細 に語 っている。向井 少尉 は、「今度 は千 人 切 りである」「野田 少尉 と別 れてから約束 の五 百 人 斬 りを果 たすため、一生懸命 やっている」「今 までに305人 斬 りました」と述 べている。
野田 少尉 の父 、野田 伊勢 熊 は昭和 42年 6月 の段階 で野田 少尉 が「南京 入城 前 に百 人 斬 り競争 を同 連隊 の向井 少尉 となし」たことを認 めている[42]。野田 少尉 と同 じ中隊 に所属 していた望月 五三 郎 は手記 『私 の支 那 事変 (私家版 )』(P42-45)に、野田 少尉 が非 武装 の一般 農民 を斬 ったこと、支 那 人 を見 つければ向井 少尉 と奪 い合 いをするほどエスカレートしたこと、を記 している。志 々目 彰 は、「中国 」1971年 12月 号 に投稿 した論 稿 の中 で、野田 少尉 の講演 内容 を「郷土 出身 の勇士 とか、百 人 斬 り競争 の勇士 とか新聞 が書 いているのは私 のことだ。実際 に突撃 していって白兵戦 の中 で斬 ったのは四 、五 人 しかいない。占領 した敵 の塹壕 にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵 はバカだから、ぞろぞろと出 てこちらへやってくる。それを並 ばせておいて、片 っぱしから斬 る。百 人 斬 りと評判 になったけれども、本当 はこうして斬 ったものが殆んどだ。」と紹介 している。そして、志 々目 彰 の同級生 であった辛島 勝一 は志 々目 にあてた手紙 の中 に、野田 が捕虜 を斬 った話 をしていた旨 を記 している。- 2
少尉 が作成 した遺書 の中 でも、2少尉 が「百 人 斬 り競争 」について話 したことにより新聞 記事 になった、と認 めている 浅海 、鈴木 両 記者 及 び佐藤 振 壽 カメラマンの論 稿 では、記者 が二 人 の少尉 から聞 いた話 を記事 にした、と一致 して述 べられている。南京 攻略 戦 においては、捕虜 や一般 民衆 に対 する殺害 はごくありふれた現象 だったことを示 す資料 は多数 存在 している。以上 に示 した各 資料 は、野田 らが農民 等 を殺害 した現場 を目撃 した資料 、野田 少尉 が「百 人 斬 り競争 」をなし、捕虜 を殺害 した旨 話 した資料 、両 少尉 が取材 記者 に対 して自 ら「百 人 斬 り競争 」について語 っていた資料 であり、更 にはこれらの資料 を裏付 ける資料 の存在 などお互 いの資料 が支 えあい、補 い合 って「百 人 斬 り競争 」の事実 と捕虜 の殺害 の事実 を明 らかにしているのである。
秦 郁 彦による「据 え物 斬 り」説
望月 五三 郎 の回想 録
このあたりから野田 、向井 両 少尉 の百 人 斬 りが始 るのである。野田 少尉 は見習 士官 として第 11中隊 に赴任 し我々 の教官 であった。少尉 に任官 し大隊 副官 として、行軍 中 は馬 にまたがり、配下 中隊 の命令 伝達 に奔走 していた。 この人 が百 人 斬 りの勇士 とさわがれ、内地 の新聞 、ラジオニュースで賞賛 され一躍 有名 になった人 である。 「おい望月 あこにいる支 那 人 をつれてこい」命令 のままに支 那 人 をひっぱって来 た。助 けてくれと哀願 するが、やがてあきらめて前 に座 る。少尉 の振 り上 げた軍刀 を背 にしてふり返 り、憎 しみ丸 だしの笑 ひをこめて、軍刀 をにらみつける。一刀 のもとに首 がとんで胴体 が、がっくりと前 に倒 れる。首 からふき出 した血 の勢 で小石 がころころと動 いている。目 をそむけたい気持 も、少尉 の手前 じっとこらえる。戦友 の死 を目 の前 で見 、幾多 の屍 を越 えてきた私 ではあったが、抵抗 なき農民 を何 んの理由 もなく血祭 にあげる行為 はどうしても納得 出来 なかった。 その行為 は、支 那 人 を見 つければ、向井 少尉 とうばい合 ひする程 、エスカレートしてきた。両 少尉 は涙 を流 して助 けを求 める農民 を無残 にも切 り捨 てた。支 那 兵 を戦闘 中 たたき斬 ったのならいざ知 らず。この行為 を連隊 長 も大隊 長 も知 っていた筈 である。にもかかわらずこれを黙認 した。そしてこの百 人 斬 りは続行 されたのである。
主 な否定 説
12月2 |
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当時 、向井 少尉 は、丹陽 の砲撃 戦 で負傷 して前線 を離 れ、「百 人 斬 り競争 」に参加 することは不可能 であったという証言 をおこなった[54]。鈴木 明 宛 に衛生 兵 T氏 の手紙 があり、「向井 少尉 の負傷 は事実 で」負傷 後 の行動 も具体 的 に書 かれている[55]。名誉 棄損 訴訟 の判決 は、富山大 隊長 の受傷 証明 書 は事後 に提出 された、犬飼 総一郎 手記 は具体 性 に欠 けるとし、証拠 能力 を否定 して負傷 を認 めない。がT氏 の手紙 には言及 していない[56]。(ただし、この主張 はケガにより前線 を離 れる事 があったならば当然 直属 の部下 である田中 金平 の手記 にそのことがある筈 とする判決 理由 に抗 せるようなものと思 えない。また、百 人 斬 り競争 1年 半 後 の報道 でも、向井 自 ら出征 以来 病気 もケガもしたことがないと語 っている[57]。)銃器 が発達 した近代 の陸上 戦闘 では、白兵戦 における個人 の戦果 を競 うという概念 はほぼない[54]。向井 少尉 は砲兵 隊 の小 隊長 であり、野田 少尉 は大隊 の副官 であった[58]。両者 とも所属 が異 なり、最前線 で積極 的 に白兵戦 に参加 する兵科 ではない。さらに、兵科 の違 う2人 が相談 して「何 らかの戦果 を競争 する」ことは不自然 である。また、向井 少尉 には軍刀 での戦闘 経験 はない[54]。2少尉 と浅海 記者 の会見 に居合 わせ、2少尉 の写真 [注釈 10]を撮影 した東京日日新聞 カメラマンの佐藤 振 寿 は、1994年 5月 に『産経新聞 』紙上 で、「修羅場 になったら(野田 少尉 が務 める)大隊 副官 は大隊 長 の命令 指示 を受 けて、何 中隊 はどうする、と命令 を下 してなくちゃいけないわけです。(向井 少尉 が務 める)歩兵 砲 の小隊 長 は『距離 何 百 メートル、撃 てーッ』とやってなくちゃいけない。それなのにどうやって勘定 するの。おかしいなと私 は思 ったんですよ」と証言 している[58]。戦時 報道 は、言 うまでもなく、両 少尉 の証言 は戦意 高揚 、武勇 伝 としてのものである[54]。仮 に抜刀 による戦闘 が実際 あったとしても、民間 人 を殺害 させ、勝者 には賞 が出 されるという「殺人 ゲーム」のようなものは、東京日日新聞 の記述 とは全 く異 なるものである[54]。東京日日新聞 などの記事 では、野田 少尉 と向井 少尉 が戦場 で「百 人 斬 り競争 」を始 め、その途中 経過 を記者 らに逐次 伝 えたことになっているが、野田 が戦後 残 した手記 によると、二人 は1937年 秋 に無 錫 で東京日日新聞 の記者 から「ドウデス無 錫 カラ南京 マデ何人 斬 レルモノカ競争 シテミタラ。記事 ノ特種 ヲ探 シテヰルンデスガ」と持 ちかけられ、向井 が冗談 のつもりで応 じると、記者 は「百 人 斬 競争 ノ武勇 伝 ガ記事 ニ出 タラ花嫁 サンガ殺到 シマスゾ」「記事 ハ一切 記者 ニ任 セテ下 サイ」と述 べた[59]。2少尉 と記者 は無 錫 で別 れ、野田 少尉 によれば、件 の記者 と再会 した時 には、既 に「百 人 斬 り競争 」の記事 が日本 で話題 になっていたという[59]。向井 少尉 が昭和 15,6年 頃 、母校 の京 城 公立 商業 学校 を訪 れた際 、「校長 から『生徒 達 に是非 百 人 斬 りの話 を』とすすめられたが、何故 か固辞 して語 らなかった」、と共 に訪 れた同級生 ・田辺 の証言 がある[60]。- 3
年 後向 井中 隊長 の直属 の部下 になった宮村 喜代治 は、昭和 15年 の秋 頃 広東 で向井 中隊 長 から「あれは冗談 だ」「冗談 話 を新聞 記事 にしたんだ」「冗談 が新聞 に載 って、内地 でえらいことになった」と聞 いた。その旨 、裁判 でも陳述 書 にしている。報道陣 は第 一線 までは来 ず、突撃 演習 が実戦 として放映 されたことがあるが悪 い気 はしなかった、とも語 っている[61]。 当時 向井 少尉 の直属 の部下 だった田中 金平 は、阿 羅 健一 の取材 [要 出典 ]に1983年 頃 次 のように答 えたとされる。「まわりの兵隊 達 もその話 は知 っていました。しかし誰 も信用 していません」「無 錫 から南京 にいくまでほとんど私 の側 にいました。この間 、小隊 長 が刀 を抜 いたのを一 度 も見 ていません」「我々 の周 りに中国 兵 などいません」[注釈 11]。2人 とも丹陽 にも句 容 にも入城 していない、中 山陵 を見下 す地点 に行 っていない。『記事 は一切 記者 に任 せてください』どおり、記事 は創作 。13日 記事 の写真 が11月29日 (または30日 )に撮影 したものなのは、3者 が会 っていなかったから[63]。第 3報 (12月6日 )を掲載 した「記事 の隣 の記事 は、浅海 記者 が同 じ12月 5日 に丹陽 で取材 した記事 であり、丹陽 で取材 しているはずの浅海 記者 がはるか離 れた句 容 で2少尉 から『百 人 斬 り競争 』の結果 を取材 したことになり、全 くありえない」[64]。浅海 記者 はその後 も丹陽 にとどまり、12月10日 鈴木 記者 と合流 した[65]ことが戦後 の東京 裁判 尋問 調書 で知 られる。この点 からも「12月5日 の句 容 (丹陽 の先 )での記事 は虚偽 である[66]」。さらに、検事 から『1937年 12月5日 の記事 の執筆 者 はあなたですか』と質問 され『はい。私 がこの記事 の執筆 者 です』と答 えている[67]。これにより記事 は光本 記者 ではなく、浅海 記者 が書 いたものと確認 された[注釈 12]。- 「
毎日新聞社 自身 、毎日新聞 が平成 元年 3月 5日 に発行 の『昭和 史 全 記録 』の中 で、百 人 斬 りに触 れ、『この記事 は当時 、前線 勇士 の武勇 伝 として華々 しく報道 され、戦後 は南京 大 虐殺 を象徴 するものとして非難 された。ところがこの記事 の百 人 斬 りは事実無根 だった』と書 いている」[68]。 - 「(
軍隊 では)ボク・キミ・アナタ・ワタシ等 は絶対 に口 にできない禁句 に等 しかった」、「一人称 代名詞 は原則 として使 ってはならず・・・使 う場合 は『自分 』であって、他 の言葉 は使 えない」、「軍隊 語 の二人称 代名詞 は俗説 では貴様 だが・・・私 自身 、将校 同士 が貴様 とい合 った例 を知 らない」、貴公 のはず。山本 七 平 は自身 の将校 経験 から会話 文 を分析 する。軍隊 ではこれを叩 き込 まれ、三 カ月 もすれば反射 的 に軍隊 語 が出 てくるという[69]。 本多 はこの論争 を『死人 に口 なし』、『今後 相手 はご免 被 る』と一方 的 に打 ち切 った[25]。
佐藤 振 壽 の証言
第 1報 の会見 に居合 わせ2少尉 の写真 を撮 った、東京日日新聞 カメラマン・佐藤 振 寿 は名誉 毀損 訴訟 の陳述 書 の中 で「記事 を見 たのは、翌年 の一 月 に南京 から上海 に帰 ってからですが、そのときの印象 は『浅海 はうそっぱちを書 いたな』という感想 です」と述 べた[70]。訴訟 の証人 尋問 では、「(百 人 斬 りは)100%信 じることはできません」「(記事 は)うそだと思 いましたよ」と述 べた[71]。
肯定 側 主張 について
民衆 殺害 について
- “
民衆 に対 する殺害 ”に関 し、研究 者 は次 の留意 を記 している。中 支 では民衆 に「抵抗 することが要求 され」た。(ただし、中国 住民 側 からこのようなことが求 められたとの証言 はほとんど見 られない。また、この主張 をする者 は抵抗 と戦闘 との区別 がついているのかも不明 である。)「上海 で日本 軍 歓迎 の旗 を振 る婦人 の列 の陰 から便衣隊 が一斉 射撃 をした[注釈 13]。不意 を衝 かれた日本 軍 の死体 は、見 る見 るうちに山 と築 かれていった[注釈 14]。「老婆 といえども情報 を探 って通報 する恐 れ」があった。某 カメラマンの言 「一 度 自分 がやられそうになった時 、相手 をやらなければ自分 がやられるのだな、ということをしみじみ痛感 させられた[74]」。なお昭和 20年 小磯 國昭 内閣 が本土 決戦 のために「国民 義勇 隊 」を組織 化 すると発表 したとき、南原 繁 教授 (東京 帝国 大学 法学部 長 )は次 のように語 っている。「ゲリラをしますとね、虐殺 されても仕方 ないです。本当 の戦闘 員 ですと、捕虜 として待遇 され、そうにひどい目 に遭 うことはないですが、ゲリラですと直 ちに殺 されても文句 はいえません。あれは一番 ひどい目 に合 います」[75]。
志 々目 彰 および回想 記 (1971年 発表 )について志 々目 彰 が野田 から聴 いたという講演 内容 によれば「「占領 した敵 の塹壕 にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵 はバカだから、ぞろぞろと出 てこちらへやってくる。それを並 ばせておいて片 っぱしから斬 る[76]」。一方 、「百 人 斬 り訴訟 」裁判 の原告 側 は「中国 国民党 は、ドイツ式 の組織 防衛 戦 を行 い、日本 軍 と遜色 ない武器 を携帯 した近代 軍隊 でありニーライライと呼 びかけられ、塹壕 から出 てくることはあり得 ない」と主張 した[77]。処刑 について「日本 の新聞 はニュースさえ報道 していない」[78]。野田 の同期生 ・手島 清 忠 も「銃殺 されたことを知 ったのは後 のことである」[79]と1972年 に語 っている。志 々目 が“新聞 記事 ”を読 み「銃殺 は当 たり前 」と考 えた[注釈 15]のは極東 裁判 (1948年 )当時 ではない。後 の情報 (次 に話題 になるのは23年 後 )を基 に考 えたことを、当時 の話 として語 っている[誰 によって?]。(ただし、この主張 はあまり意味 があると思 えない。前年 に酒井 隆 陸軍 中将 [81]や同年 3月 に田中 久一 陸軍 中将 [82]が銃殺 されたことや、野田 らに12月に死刑 判決 が出 たこと[83]はそれぞれ当時 新聞 でも報 じられている。志 々目 がそのような記事 が出 たと当時 から思 いこむことがあったとしても不思議 はない。)
望月 五三 郎 の回想 記 (1985年刊 )について望月 の回想 記 に「重 機関 銃 、軽 機関 銃 の猛 射 で城壁 は破壊 されていく」「戦車 が城門 めがけて激 突破 した」などとあるが、本当 の体験 記 なのかと思 うほど間違 いが多 いと阿 羅 健一 は言 う[84]。- 「
百 人 斬 りの勇士 と・・・一躍 有名 になった人 である」。望月 はこれを昭和 12年 11月27日 -11月28日 の条 に記 している[85]。東京日日新聞 の第 1報 が出 るのが昭和 12年 11月30日 、有名 になるのはその後 である。また、第 1報 が出 るまでに“競争 ”が始 まっていないことは、名誉 棄損 訴訟 に於 ける佐藤 振 寿 の証言 がある[注釈 16]。これについては、日記 と回想 記 を混同 しているとする反論 がある。 望月 の回想 記 では、「連隊 長 も大隊 長 も知 っていた筈 である。にもかかわらずこれを黙認 した」としている[87]。が、野田 の士官 学校 の同期生 吉田 大 桂 司 からは、伝聞 の形 ではあるものの片桐 連隊 長 が野田 を厳 しく戒 めたと聞 く、あるいは叱 ったらしいとの証言 [88]もある。(ただし、同 じ連隊 の向井 はかなり後 まで何 百 人 斬 りといった形 で続 けていたことが当時 のその後 の報道 にも出 ている。(「当時 の報道 」欄 参照 ))遺族 の名誉 棄損 による賠償 訴訟 を担当 した弁護士 の稲田 朋美 は、望月 の親族 が電話 取材 に対 し「だれもあんな人 のいうことを信用 していませんよ。親族 にも迷惑 ばかりかけていました。そういう本 を書 いて関係 者 の方々 に送 ったということですが、だれも相手 にしていないと思 います」と語 ったという[89]。
本多 勝一 のルポについて
- ほとんど
知 られることのなかった「百 人 斬 り伝説 」を「本多 勝一 記者 は中国 旅行 中 に南京 で聞 きこん」で「『朝日新聞 』の連載 でむし返 し[90]」たと非難 する意見 がある。鈴木 明 は、「ルポは、そのネタとなった35年 前 の『毎日 』の記事 と比 べて、1.戦闘 中 の手柄 話 が、故意 に平時 の殺人 ゲームにスリかえられている。2.『上官 命令 』というフィクションがつけ加 えられている。3.『百 人 斬 り』が3回 もくり返 されたように誇張 された表現 となっている、など、明 らかに『勘 ちがい』とはいえない『作 りかえ』が成 されており・・数 十 倍 も強烈 である」という[91]。これに対 しては、実際 に現地 にそのように伝 わっている、さらに当時 この裁判 の模様 が裁判所 内 に入 りきれない人 に公開 できるよう所内 の発言 が拡声 機 ピーカーで外 に中継 されたことは研究 者 で知 る者 は比較的 多 く、その中継 内容 とい伝 えとの関係 すら調 べずにこのような批判 ができるのかという反論 、寧 ろ戦闘 中 にこのようなことを行 うのは困難 だからこそ戦闘 外 での捕虜 の処刑 ではないかと人々 が疑 っている方 こそ正 しいのではないかといった反論 がある。(なお、実際 に当事 者 からそれぞれ300人 を超 す人間 を斬 ったという話 が出 ていたことがその後 分 かっている。「当時 の報道 」欄 参照 ) 名誉 棄損 裁判 (後述 )に原告 側 の証人 として出廷 した佐藤 振 壽 は証人 尋問 で、本多 の取材 手法 や検証 のなかったことを批判 した。佐藤 は「私 に聞 かないで百 人 斬 りの話 なんか分 かるはずはないと思 って、従 って、朝日新聞 の記事 はうそであるという結論 に至 りました。ジャーナリストが一 つの事実 を報道 する場合 に、あくまでそれが真実 であると確信 しなければ、原稿 に書 いてはいけないことなんですよ」と語 った[92]。ただし、この主張 に対 しては、その論法 であれば虚偽 の話 が流 れているときに元 の話 が事実 でないかもしれないから其 れについて語 ってはいけないという事 になり反 って嘘 が流 れるままにしなければならないという理屈 になってしまう、本多 は中国 でそういう話 が伝 わっているというまさに事実 の方 を伝 えたものだ、そもそもジャーナリズムには引用 という手法 が確立 しているという反論 がある。秦 郁 彦は、田中 正明 が本多 を"無責任 なレポーター"と評 したことを紹介 している[93]。
記事 を疑問 とする主張
なお
論争 当時 の著名 著述 家 の反応
臼井 吉見 「特派 員 の署名 記事 で、銃後 の話題 を賑 わそうとの特 ダネゲームの与太 ばなしであった・・」開高 健 「ジャーナリズムの幼稚 と無責任 をうまくついた作品 で・・もっと正面 から告発 してもよかった」小田 実 「百 人 斬 りというような事件 は、真実 には、それ自体 はたしかになかったものにちがいない」[118]
名誉 毀損 裁判
2003
訴訟 の主 な争点
「戦闘 による百 人 斬 り」を言 いだしたのは誰 か
原告 の主張 -報道 された新聞 記事 大阪 毎日新聞 、東京日日新聞 の記者 らが戦意 高揚 のために創作 した[122]。被告 (毎日新聞 )の主張 -報道 された新聞 記事 は両 少尉 が記者 たちに語 ったことをそのまま伝 えた。記者 たちは実際 に二人 が中国人 を斬 ったところは見 ていない。裁判所 の判断
等 の理由 により、『両 少尉 が浅見 記者 ら新聞 記者 に話 をしたことが契機 となり、「百 人 斬 り競争 」の記事 が作成 されたことが認 められる。』と判断 した[123]。
向井 少尉 の負傷 について
原告 の主張 -当時 、向井 少尉 は丹陽 の砲撃 戦 で負傷 して前線 を離 れ、「百 人 斬 り競争 」に参加 することは不可能 であった[124]。両 少尉 の手記 や、冨山 大隊 長 の証明 書 にも同旨 の記載 がある。被告 (本多 勝一 )の主張 - それらは南京 軍事 裁判 で向井 少尉 が死刑 を回避 するために捏造 したものである。検察 の主張 をそのまま認 めたら死刑 になってしまうのでこの行為 自体 は仕方 ない行為 だが、資料 の裏付 けは無 く、信憑 性 はない。裁判所 の判断
戦闘 による百 人 斬 りは実際 に行 われたか
原告 の主張 -山本 七 平 は著書 「私 の中 の日本 軍 」で「日本 刀 は三 人 戦闘 で斬 れば使 い物 にならなくなる。だから100人 も斬 れるはずがないので100人 斬 り報道 は虚偽 である」と主張 。原告 もそれを引用 して同様 の主張 をした。被告 (本多 勝一 )の主張 -宮本 武蔵 や佐々木 小次郎 でもない一般人 が百 人 も戦闘 で斬 れるはずがない。実際 には両 少尉 は捕虜 や農民 を斬 ったのであり、それを新聞 記者 にぼかして伝 えたのだ。裁判所 の判断 -南京 攻略 戦 当時 の戦闘 の実態 や両 少尉 の軍隊 における任務 、一本 の日本 刀 の剛性 ないし近代 戦争 における戦闘 武器 としての有用 性 等 に照 らしても、本件 日日 記事 にある「百 人 斬 り競争 」の実体 及 びその殺傷 数 について、同 記事 の内容 を信 じることはできないのであって、同 記事 の「百 人 斬 り」の戦闘 戦果 ははなはだ疑 わしいものと考 えるのが合理 的 である[125]。
実際 には何 が行 われたか
被告 (本多 勝一 )の主張 -
等 の根拠 から、実際 には両 少尉 は捕虜 や農民 の殺害 数 を競 う「殺人 ゲーム」をしていたと推察 される。
裁判所 の判断 望月 五三 郎 の記述 の真偽 は定 かでないというほかないが、これを直 ちに虚偽 であるとする客観 的 資料 は存在 しない。志 々目 彰 の小学校 の同級生 である辛島 勝一 も、志 々目 彰 と一緒 の機会 に、野田 少尉 から、百 人 という多人数 ではないが逃走 する捕虜 をみせしめ処刑 のために斬殺 したという話 を聞 いた旨 述 べている。辛島 が野田 少尉 を擁護 する立場 でそのような内容 を述 べていることに鑑 みれば、ことさら虚偽 を述 べたものとも考 え難 く、少 なくとも野田 少尉 が「捕虜 を斬 った」という話 をしたことは両 名 の記憶 が一致 している。本多 は捕虜 を斬 ったとする鵜野 晋 太郎 の手記 を引用 している。これらの話 も、真偽 のほどは定 かではないというほかないが、自身 の実体験 に基 づく話 として具体 性 、迫真 性 を有 するものと言 える。
以上 の点 から、その重要 な部分 において全 くの虚偽 であると認 めることはできないというべきである。以上 と異 なる前提 に立 つ原告 らの主張 は、いずれも採用 することはできない。
時効
被告 (毎日新聞 )の主張 -新聞 記事 は1937年 のものであり、民法 724条 の除 斥期間 (3年 )は経過 しており、訂正 ・謝罪 の義務 はない。原告 の主張 -新聞 記事 は60年 以上 前 の物 であるが、その記事 は虚報 であり、その虚報 を正 さずに放置 し続 ける限 り、時効 は延長 する。裁判所 の判断 -前述 の通 り新聞 記事 が「虚偽 であることが明 らかになったとまで認 めることはできない」。よって時効 は考慮 するまでもない[注釈 19]。また仮 に原告 らの請求 権 が存在 していたとしても除 斥期間 を経過 しており時効 は成立 している。
備考
証人 の制限 。原告 側 の証人 として出廷 した佐藤 振 寿 は原告 側 で唯一 の証人 だった。原告 側 弁護人 を務 めた稲田 朋美 によると、原告 側 は佐藤 以外 にも証人 を申請 し、上申 書 も提出 したが、裁判所 から却下 されたという[128]。
南京 軍事 法廷 の詳細
1947
その他
- 2004
年 、集英社 の週刊 ヤングジャンプ43号 に本宮 ひろ志 の漫画 『国 が燃 える』第 88話 が掲載 された。そこでは、南京 事件 をとりあげ、二人 の兵士 が捕虜 を並 べて速 く斬 る競争 をする描写 をしたが、政治 結社 正氣 塾 や『集英社 問題 を考 える地方 議員 の会 』の抗議 を受 けて集英社 は、「現在 、戦犯 として処罰 された方々 のご遺族 の皆様 が裁判 中 です。係争 中 という時期 に、誤解 を招 きかねない描写 を掲載 した件 につきましては、関係 者 の皆様 には、深 くお詫 び申 し上 げます」とし、当該 シーンを削除 した。 毎日新聞社 が1989年 (平成 元年 )に刊行 した『昭和 史 全 記録 Chronicle 1926-1989』には、向井 少尉 が負傷 して不在 であったことを理由 として、この記事 の百 人 斬 りは事実無根 だったと記載 している[3][140]。中華人民共和国 南京 市 にある南京 大 虐殺 紀 念 館 では、この東京日日新聞 の記事 を「虐殺 の証拠 」として等身 大 パネルを作成 して展示 をしている[58]。台湾 (中華民国 )台北 市 にある中華民国 軍 の歴史 資料 館 である国軍 歴史 文物 館 には、魏 炳文少将 の親族 より贈 られた、刀身 に「南京 の役 殺 一 〇七 人 」と刻 まれた軍刀 が展示 されている。同館 はこの軍刀 を、“南京 大 虐殺 の際 、同胞 の中国人 を107人 斬 った日本 軍刀 ”であるとして、向井 ・野田 両 少尉 のいずれかが使用 したものに間違 いないと主張 している。2人 が斬 ったとされる人数 (向井 105人 ・野田 106人 )より多 いことについては、百 人 斬 りが日本 で報道 された後 に、さらに1人 斬 った可能 性 があるとしている[141]。日本 軍 の軍刀 は第 一 次 上海 事変 の戦 訓 から改良 され[142]、下士官 兵 にも支給 されていた[143][注釈 20]。日本 刀 を実戦 で使用 すると、損傷 が甚 だしかった[146]。そこで日本 刀匠 協会 (理事 長 栗原 彦三郎 )は、修理 慰問 団 を中国 大陸 に派遣 している[147][注釈 21]。日 中 戦争 では、日本 兵 が「敵 兵 ○○人 を斬 った」とする記事 が複数 掲載 された[149][150][151]。「ある准尉 がシベリア出兵 から日 中 戦争 にかけて百 人 斬 りに挑戦 していたが、70人 を斬 ったところで戦死 した。」という記事 もある[152]。名刀 ならば80名 斬 っても少 しも刃 こぼれせず、新刀 や現代 刀 でも正式 に鍛錬 したものなら20~30名 斬 ってもビクともせず、ただし昭和 刀 は論外 であったという[153]。また肩 は筋肉 が発達 している上 に着衣 もあって日本 刀 が損傷 しやすく、首 の方 が斬 りやすかったとの回想 もある[154]。野田 少尉 、向井 少尉 と共 に処刑 された田中 軍 吉 は「300人 斬 りの鬼 部隊 長 」の肩書 きでアメリカ合衆国 に渡 り、ロサンゼルスやサンフランシスコで講演 会 をおこなっている[注釈 4]。
関連 項目
脚注
注釈
- ^ 「
少 なくとも、本件 日日 記事 は、両 少尉 が浅海 記者 ら新聞 記者 に「百 人 斬 り競争 」の話 をしたことが契機 となって連載 されたものであり、その報道 後 、野田 少尉 が「百 人 斬 り競争 」を認 める発言 を行 っていたこともうかがわれるのであるから、連載 記事 の行軍 経路 や殺人 競争 の具体 的 内容 については、虚偽 、誇張 が含 まれている可能 性 が全 くないとはいえないものの、両 少尉 が「百 人 斬 り競争 」を行 ったこと自体 が、何 ら事実 に基 づかない新聞 記者 の創作 によるものであるとまで認 めることは困難 である。」[8][9] - ^ 「
南京 攻略 戦 当時 の戦闘 の実施 や両 少尉 の軍隊 における任務 、一本 の日本 刀 の剛性 ないし近代 戦争 における戦闘 武器 としての有用 性 等 に照 らしても、本件 日日 記事 にある「百 人 斬 り競争 」の実体 及 びその殺傷 数 について、同 記事 の内容 を信 じることはできないのであって、同 記事 の「百 人 斬 り」の戦闘 成果 は甚 だ疑 わしいものと考 えるのが合理 的 である。しかしながら、その競争 の内実 が本件 日日 記事 の内容 とは異 なるものであったとしても、次 の諸点 に照 らせば、両 少尉 が、南京 攻略 戦 において軍務 に服 する過程 で、当時 としては、「百 人 斬 り競争 」として新聞 報道 されることに違和感 を持 たない競争 をした事実 自体 を否定 することはできず、本件 日日 記事 の「百 人 斬 り競争 」を新聞 記者 の創作 記事 であり、全 くの虚偽 であると認 めることはできないというべきである。」[11] - ^
悲願 五 百 人 斬 り關 の孫 六 と向井 中尉 [13]炎熱 を冒 しての湖北 殲滅 戰 に從軍 した記者 (大海 )はある日 寺 荘 といふ小 部落 で奮戰 中 の向井 中尉 にぴよつこり出 つた。同 中尉 は一昨年 南京 攻略 戰 の折 、戰友 野田 中尉 と百 人 斬 を競 り合 つて愛 刀 關 の孫六 で敵 兵 百 七 人 を斬 つた勇敢 な青年 将校 である。その後 戰友 野田 中尉 とさらに五 百 人 斬 りを約 し徒 州 ・大別 山 ・漢 口 ・錘 祥 と各地 に奮戰 、敵 兵 三 百 五 人 を斬 つたが野田 中尉 が○○日 海南 島 において戰死 し今 は一人 で約束 の五 百 人 斬 りを果 すため奮戰 してゐる。記者 が「孫六 はよく斬 れますか」と話 かけると朴訥 な中尉 は「よく斬 れます、ちよつと劍先 がひつかゝりますが自信 をもつてゐるから大丈夫 です。野田 中尉 への手向 けのためにも一人 で約束 の五 百 人 斬 りを果 すため刀 の折 れるまで一生懸命 やつてゐます」と語 つた(漢 水 東方 ○○にて西元 大海 特派 員 ) - ^ a b c
三 百 人 斬 りの「田中 鬼 部長 」戰線 三 年 奮戰 を語 る今夜 リフォームド教會 [21]元旦 當地 へ着 いた龍 田丸 で渡米 後 羅 府 方面 で講演 中 の陸軍 少佐 田中 軍 吉 氏 は今 二 十 一 日 夕方 羅 府 から飛行機 で來 桑 八 時 からリフオームド教會 に於 いて桑 日 主催 、兩 新聞 及 び鹿兒島 縣 人 會 後援 のもとに講演 會 を開催 することになつたが、田中 少佐 は大尉 時代 二・二六事件 に關聯 して現役 を退 いたが、事變 勃發 するや名譽 の應召 となり、三 ヶ年 間 中 支 戰線 で勇猛 果敢 な戰闘 を續 け、「廣 濟 一番乗 りの田中 部隊 」として「三 百 人 斬 りの鬼 部隊 長 」の勇名 を馳 せ赫々 たる武勲 を樹 て少佐 に榮進 歸還 後 感 召解除 となるや指揮 刀 を捨 てゝペンとカメラで文化 戰線 に乗出 し國策 映畫 研究 に挺身 するといふ軍人 の變 り種 で、特 に今夜 の後援 會 には戰線 三 年 の奮闘 思 ひ出 を語 るよしなれば、その盛況 は既 に決定的 である(記事 おわり) - ^
戦闘 で敵 を斬 ることとは難易 度 が全 く異 なる。 - ^
成瀬 『戦 ふ日本刀 』は山本 七 平 が引用 した斬 れなかった事例 は少数 派 で、大 部分 は日本 刀 の優秀 性 を印象 付 ける内容 である。 - ^
成瀬 『臨戦 刀 術 』(1944年 )では、以下 のように記述 している。〔眞劍 勝負 の心理 [29](中略 )上海 から南京 までの戰 では、互 に百 人 斬 りの悲願 で、相 呼應 して進 んだといふ若 い将校 二 人 の挿話 が、その頃 の新聞 に見 えてゐた。/著者 は、徐 州 戰 の延長 である彼 の土肥 原 兵團 の蘭 封 戰 の眞 つたゞ中 で、四 十 七 人 斬 つたといふ若 い少尉 のその血刀 を修理 してやつたことがある。五 人 斬 つた、十 人 斬 つたといふやうな話 は、ざらな話 で珍 しくもなかつた。(以下 略 )〕。 - ^
山本 への批判 は「『"南京 大 虐殺 "はまぼろし』か」(本多 勝一 編集 「ペンの陰謀 」に収録 )鈴木 の批判 は「南京 大 虐殺 ―「まぼろし」化工 作 批判 」 - ^
山本 は遺体 の手首 と足 を軍刀 で切断 した後 、刀 の柄 がぐらついた自身 の体験 を出発 点 にしている[31]。秦 は鵜野 晋 太郎 (中 帰 連 活動 家 )を引合 いに、据 え物 斬 りなら何人 (10人 )でも故障 なく斬 れそうなことを言 う[32]が、『日本 刀 の近代 的 研究 』(小泉 久男 )によると、2人 で故障 は起 こり重大 な故障 もある。以下 その研究 《据 え物 斬 り限定 で、斬 った人数 、故障 個所 の8例 :(1).2人 ,無 (2).1人 ,無 (3).1人 ,無 (4).7人 ,少 しく刃 こぼれ (5).42人 ,無 (6).数 人 ,刃 こぼれ (7).2人 ,2,3箇所 刃 こぼれ (8).2人 ,曲 がり護 拳 ガタガタで使用 上 甚 だ不便 (32頁 『百 人 斬 り競争 と南京 事件 』)》 (5)の42人 斬 り故障 無 しは、いわゆる突出 データ。 - ^ 『
東京日日新聞 』(昭和 13年 12月13日 付 )に掲載 [58]。 - ^ 「
話 を聞 いた時 、刀 で百 人 など斬 れないので何 を言 っているのかと思 いましてね。それでよく覚 えています。まわりの兵隊 達 もその話 は知 っていました。しかし誰 も信用 していません」「小隊 長 は砲撃 を我々 分隊 長 に任 せて、全体 を見 ていて、無 錫 から南京 にいくまでほとんど私 の側 にいました。この間 、小隊 長 が刀 を抜 いたのを一 度 も見 ていません。・・・百 人 斬 るとか何 とかの前 に、我々 の周 りに中国 兵 などいません。中国 兵 がいないのですから、斬 るも斬 らないもありません」[62] - ^
記事 を書 いたのは光本 記者 との見方 も一部 にあった[要 出典 ]が、両 少尉 の手記 、遺書 には、浅海 記者 は何 度 か出 てくるが光本 記者 の名 は一 度 も出 てこない。光本 記者 は日日 新聞 京都 支局 の特派 員 で、地元 部隊 ・9連隊 の活躍 を報 ずる立場 にあった。 - ^ 「
女性 が赤 ん坊 を装 って手榴弾 を運 んだり、ゲリラを手引 きして日本 軍 陣地 に誘導 したり、まして壮年 男子 は突然 隠 した武器 でテロを行 う危険 があった」[72] - ^ 「たとえ
子供 といえども、一刻 も油断 はできないということであった。庭 で食事 をしていただけで狙 い撃 ちにされたというような例 はいくらでもある」[73] - ^
志 々目 証言 「極東 裁判 が開 かれた・・・南京 虐殺 事件 の報道 はすなおに受 け入 れることができた。・・・しばらくすると地方 新聞 で、N少尉 らは南京 で戦犯 として銃殺 されたという記事 が報 ぜられた。ああ、そうだらうな、当 たり前 だな」[80] - ^ ---「(
今 からか、)現在 百 人 斬 りの競争 をしているという話 なのか、どっちですか」佐藤 「今 からです」[86] - ^
東中野 修道 は「無 錫 から常 州 までは不眠 不休 の激戦 だった」「話 す余裕 はなかったはずだ」「常 州 の間違 いであろう」[94]とし、笠原 十 九 司 は「駅前 広場 の日本 軍 の様子 から無 錫 ではなく常 州 であることはほぼ間違 いなく」「両 少尉 が所属 した冨山 大隊 が無 錫 入城 後 すぐに追撃 先発 隊 として無 錫 を出発 していることは、戦闘 詳報 類 から確認 できる」[95]としている。山本 七 平 は「無 錫 駅頭 では両 少尉 にインタビューする時間 などなかった」とし、無 錫 でまず浅海 特派 員 と向井 少尉 の間 で談合 が行 われ、常 州 で野田 がそれに付 き合 ったと推定 している[96]。 - ^ ---(
今 からか、)現在 百 人 斬 りの競争 をしているという話 なのか、どっちですか。佐藤 『今 からです』[86]。 - ^ 「したがって,その
余 の点 について検討 するまでもなく、原告 らの上記 主張 に理由 はなく、被告 毎日 に対 する請求 は認 められないというべきである。」 - ^
日本 刀 が不足 したため、有志 や[144]、全国 の神社 から献納 される事例 もあった[145]。 - ^
敵 を切 りまくつた日本 刀 修理 に刀匠 協會 から戰地 へ![148](東京 七 日 同盟 )日 支 事變 發生 以來 、皇軍 は北 支 に南 支 に壮烈 な肉彈 兵 白 戰 を展開 して支 那 兵 を壓倒 、潰滅 的 打撃 をあたへてゐるが、これがため将兵 の日本 刀 の損傷 甚 だしくなつたので日本 刀匠 協會 ではこれら損傷 刀 の修理 研磨 の奉仕 を現地 で行 ふため同 協會 理事 長 栗原 彦三郎 氏 以下 七 名 は、來 る十 四 日 ころ修理 慰問 團 として北 支 に向 つて出發 するはずである(記事 おわり)
出典
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頁 『旧 日本 陸海 軍 の生態 学 』秦 郁 彦 1「曲 がることはあるが、『二 千振 近 いものゝ中 に、折 れは一 振 も見 なかった』」2「(ある少尉 は)・・都合 47人 を手 にかけ・・」3「・・一 騎 討 ちの原始 戦 が盛 んに行 われ・・異国 に於 いて日本 刀 の威力 を発揮 した・・」4「・・武術 の心得 もなくして・・如何様 にも切 り落 とす名手 が少 なくない・・」 - ^ 104
頁 『私 の中 の日本 軍 』山本 七 平 「《(キズから刀 が折 れぬかと聞 かれたので、折 れぬ事 を保証 した)日本 刀 はなかなか折 れぬものである。二 千振 近 いものゝ中 に、折 れは一 振 も見 なかった(山本 が成瀬 著 より引用 )》日本 刀 は折 れるのではない。曲 がるのである。その事実 を知 らないで人 を斬 ったなどという人 がいたら、ほらふきである(山本 )」。秦 郁 彦は括弧 内 を外 しゴチック部 を変 えて引用 している。 - ^ 102
頁 『私 の・・』「47人 斬 りを披露 し」た一 少尉 に、成瀬 自身 が「名 説 はかうだ」、「宮本 武蔵 でも乱 刃 渦中 で闘 った記録 は絶対 にない」と皮肉 な調子 で記 す。これを以って、軍人 の言説 をフィクションと言 えない戦時 下 の言論 状況 を山本 は見 て取 る。この話 を秦 郁 彦は真実 とする。 - ^ 100
頁 『私 の・・』 3,4点 目 に直接 の言及 はないが、読者 から提供 された成瀬 著作 を「全部 、戦場 における伝聞 である」として、山本 はその部分 を信用 せず受 け入 れない - ^ 306
頁 『・・生態 学 』「都合 のよい部分 だけを利用 し」と秦 が言 っているのは、「一刀 のもとに斬 り殺 すほど鋭利 な日本 刀 はほとんど皆無 」の部分 だが、これは成瀬 の体験 でもある。 - ^ 「
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頁 『南京 百 人 斬 り競争 と南京 事件 』笠原 十 九 司 2008年 笠原 は草場 追撃 隊 (20,9連隊 )に、両 少尉 が属 す富山大 隊 が入 っていたこと強調 するが、丹陽 に入城 したと断定 していない。富山 大隊 が追撃 隊 に復帰 するのは4日 - ^ 91
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頁 『南京 百 人 斬 り競争 と南京 事件 』笠原 は、霊 谷 寺 を迂回 して「桂 林 石 房 高地 の陣地 を占領 ・・・中 山陵 とその階段 を見下 ろすことができた」と言 う。が引用 する9連隊 第 1大隊 副官 六車 政次郎 『惜春 譜 』には「敵陣 地 に突入 」「11日 ・・わが第 1大隊 は桂 林 石 房 の山 を下 り・・方面 で戦闘 しているとのことであった」と第 1大隊 で第 3ではない。『南京 戦史 』も同 じ - ^ a b c d e 「
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参考 文献
野田 毅 、溝口 郁夫 (編 )、2011、『南京 「百 人 斬 り競争 」虚構 の証明 ―野田 毅 獄中 記 と裁判 記録 全文 公開 』、朱鳥 社 ISBN 978-4-434-16309-8百 人 斬 り訴訟 を支援 する会 ・編 『「百 人 斬 り訴訟 」裁判 記録 集 』(展 転 社 、2007年 )ISBN 9784886563095
関連 文献
板倉 由明 『本当 はこうだった南京 事件 』(日本 図書 刊行 会 、1999年 )ISBN 4-8231-0504-4鵜野 光博 「百 人 斬 り競争 の虚報 を証明 した野田 少尉 の日記 」(『正論 』2001年 8月 号 )笠原 十 九 司 『「百 人 斬 り競争 」と南京 事件 』(大月書店 、2008年 )ISBN 978-4-272-52080-0熊谷 伸 一郎 「歴史 修正 主義 との闘 い検証 南京 事件 ・「百 人 斬 り」訴訟 --問 われる戦後 責任 ・報道 責任 」(『世界 』745、2005.11)小野 賢二 「報道 された無数 の〈百 人 斬 り〉」(『戦争 責任 研究 』50、2005.冬季 )鈴木 千 慧 子 「〈百 人 斬 り競争 〉訴訟 はなぜ起 こされたか」(『歴史 地理 教育 』666、2004.3)秦 郁 彦「いわゆる「百 人 斬 り」事件 の虚 と実 (1)(2)」(『政経 研究 』第 四 十 二 巻 第 一 号 、第 四 号 日本 大学 法 学会 )洞 富雄 「軍隊 教育 に培 われた青年 将校 の精神 構造 --「百 人 斬 り競争 」は「事実 」であったか「語 られた事実 」であったか」(『歴史 評論 』269、1972.11)向井 千恵子 (向井 敏明 次女 )「裁 かれる百 人 斬 り捏造 報道 」(『諸君 !』2003年 9月 号 )本多 勝一 ・星 徹 ・渡辺 春 己 「南京 大 虐殺 と「百 人 斬 り競争 」の全貌 」(株式会社 金曜日 )ISBN 9784906605538山本 七 平 「私 の中 の日本 軍 」(上 ・下 )(文春 文庫 )ISBN 9784167306014 ISBN 9784167306021
国立 国会図書館 デジタルコレクション -国立 国会図書館 成瀬 関 次 著 、古藤 幸 年 絵 『日本 刀 の話 』増進 堂 〈小 國民 選書 〉、1942年 12月。doi:10.11501/1720301 。成瀬 関 次 『臨戦 刀 術 』二見 書房 、1944年 3月 。doi:10.11501/1125964 。海軍 少将 武富 邦茂 『日本 刀 と無敵 魂 』彰 文 館 〈小 國民 選書 〉、1943年 5月 。doi:10.11501/1069180 。