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精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく (せいしんぶんせきがく、英 えい : Psychoanalysis 独 どく : Psychoanalyse )は、ジークムント・フロイト によって創始 そうし された人間 にんげん 心理 しんり の理論 りろん と治療 ちりょう 技法 ぎほう の体系 たいけい を指 さ す。広義 こうぎ には、フロイト以後 いご の分派 ぶんぱ を含 ふく めた理論 りろん 体系 たいけい 全体 ぜんたい も指 さ す。
精神 せいしん 分析 ぶんせき は、現在 げんざい の英 えい 米 べい 系 けい の精神 せいしん 医学 いがく と対立 たいりつ することがある。
精神 せいしん 分析 ぶんせき は、人間 にんげん には無意識 むいしき の過程 かてい が存在 そんざい し、人 ひと の行動 こうどう は無意識 むいしき によって左右 さゆう されるという基本 きほん 的 てき な仮説 かせつ に基 もと づいている。フロイトは、ヒステリー (現在 げんざい の解離 かいり 性 せい 障害 しょうがい や身体 しんたい 表現 ひょうげん 性 せい 障害 しょうがい )の治療 ちりょう に当 あ たる中 なか で、人 ひと は意識 いしき することが苦痛 くつう であるような欲望 よくぼう を無意識 むいしき に抑圧 よくあつ することがあり、それが形 かたち を変 か え神経症 しんけいしょう の症状 しょうじょう などの形 かたち で表出 ひょうしゅつ されると考 かんが えた。そのため、無意識 むいしき 領域 りょういき に抑圧 よくあつ された葛藤 かっとう などの内容 ないよう を自覚 じかく し、表面 ひょうめん 化 か させて、本人 ほんにん が意識 いしき することによって、症状 しょうじょう が解消 かいしょう しうるという治療 ちりょう 仮説 かせつ を立 た てた。
フロイトの晩年 ばんねん においては、精神 せいしん 分析 ぶんせき はエス ―自我 じが ―超 ちょう 自我 じが の葛藤 かっとう による心 しん 的 てき 構造 こうぞう 論 ろん という心的 しんてき 理解 りかい によって神経症 しんけいしょう は治 なお されるようになった。この心 しん 的 てき 構造 こうぞう 図式 ずしき ではうつ病 びょう や精神病 せいしんびょう まで範囲 はんい に入 はい り、それらの理解 りかい に寄与 きよ する事 こと になった。またフロイト自身 じしん は晩年 ばんねん に文化 ぶんか や歴史 れきし や宗教 しゅうきょう に対 たい しての心理 しんり 的 てき 理解 りかい を深 ふか めるようになる。こうして精神 せいしん 分析 ぶんせき は人間 にんげん の心 しん や精神 せいしん を理解 りかい する包括 ほうかつ 的 てき な心理 しんり 学 がく として台頭 たいとう し、様々 さまざま な近接 きんせつ 学問 がくもん や人文 じんぶん 学 がく 思想 しそう に影響 えいきょう を与 あた える事 こと になった。
フロイトは、以下 いか のような治療 ちりょう の技法 ぎほう を用 もち いた。
患者 かんじゃ が寝 ね 椅子 いす などに横 よこ たわり、リラックスした状態 じょうたい で、何気 なにげ なく心 しん に浮 う かんできたあらゆることを言語 げんご 化 か して語 かた るように要求 ようきゅう されるという方法 ほうほう の事 こと 。たとえば、窓 まど の外 そと の雲 くも から空 そら を連想 れんそう し、空 そら から水色 みずいろ が浮 う かび、といった連想 れんそう を、患者 かんじゃ が治療 ちりょう 者 しゃ に語 かた るもの。
このような方法 ほうほう により、過去 かこ に抑圧 よくあつ された無意識 むいしき に関係 かんけい する事柄 ことがら が連想 れんそう され、それを治療 ちりょう 者 しゃ が解釈 かいしゃく する事 こと によって、患者 かんじゃ が無意識 むいしき を意識 いしき に統合 とうごう し、現在 げんざい の症状 しょうじょう が解消 かいしょう するというのが、フロイトの考 かんが え方 かた である。フロイトは当初 とうしょ 、無意識 むいしき を意識 いしき 化 か する方法 ほうほう として、催眠 さいみん を取 と り入 い れていたが、催眠 さいみん の効果 こうか には個人 こじん 差 さ が大 おお きく、またいったん症状 しょうじょう が消失 しょうしつ しても、後 のち に再 ふたた びもとの状態 じょうたい に戻 もど ってしまうことを経験 けいけん したので、フロイトは自由 じゆう 連想 れんそう 法 ほう を考案 こうあん した。
現在 げんざい の精神 せいしん 分析 ぶんせき では、対面 たいめん による対話 たいわ においても自由 じゆう 連想 れんそう 法 ほう と類似 るいじ の効果 こうか があると考 かんが えられるようになったため、寝 ね 椅子 いす を用 もち いた自由 じゆう 連想 れんそう 法 ほう が使 つか われることは少 すく なくなっている。
夢 ゆめ は患者 かんじゃ の無意識 むいしき に抑圧 よくあつ されている内容 ないよう が反映 はんえい して現 あらわ れる。そのために夢 ゆめ 分析 ぶんせき は患者 かんじゃ を治療 ちりょう するための技法 ぎほう として有効 ゆうこう に使用 しよう された。患者 かんじゃ の見 み た夢 ゆめ を分析 ぶんせき 家 か が分析 ぶんせき する事 こと によって、患者 かんじゃ の無意識 むいしき における葛藤 かっとう や願望 がんぼう が分 わ かるとされる。また夢 ゆめ の理解 りかい を通 つう じて患者 かんじゃ に患者 かんじゃ の無意識 むいしき 的 てき 願望 がんぼう を告 つ げる事 こと によって、ヒステリーや不安 ふあん 症 しょう が治 なお ると考 かんが えられている。
クライアントに自 みずか らを語 かた らせ、治療 ちりょう 者 しゃ はただそれを誠実 せいじつ に聴 き くことに徹 てっ する。これによって、それを行 おこ なう前 まえ にクライアントが持 も っていた症状 しょうじょう が取 と り除 のぞ かれていくことから、フロイトは除 じょ 反応 はんのう (Abreaktion)と呼 よ んだ。自由 じゆう 連想 れんそう 法 ほう の発展 はってん したかたちとも理解 りかい され、お話 はな し療法 りょうほう とも呼 よ んだ。フロイトと同 どう 時代 じだい では、非常 ひじょう に似 に た方法 ほうほう をブロイアー (Josef Breuer )が用 もち いてカタルシス療法 りょうほう と呼 よ んでいる。
一見 いっけん 「話 はなし を聞 き いてやる」というのは極 きわ めて原初 げんしょ 的 てき な施術 しじゅつ であり、それゆえに「あれは医療 いりょう ではない」と批判 ひはん する専門 せんもん 家 か も多 おお い。しかし、近年 きんねん PTSD やASD の治療 ちりょう として、新薬 しんやく の投与 とうよ などよりも効果 こうか があるとして再 さい 評価 ひょうか が高 たか まっており、ナラティブセラピー として体系 たいけい 化 か されたりしている。
解釈 かいしゃく は分析 ぶんせき 家 か が患者 かんじゃ の転移 てんい を分析 ぶんせき して、それを患者 かんじゃ に告 つ げる事 こと である。
患者 かんじゃ に告 つ げる内容 ないよう は二 ふた つある。患者 かんじゃ の意識 いしき していない無意識 むいしき 的 てき 葛藤 かっとう 、特 とく にエディプス 葛藤 かっとう である。もう一 ひと つは患者 かんじゃ の自我 じが の防衛 ぼうえい (抵抗 ていこう )を告 つ げる事 こと である。イド と自我 じが の両方 りょうほう とも無意識 むいしき なので、ジークムント・フロイト はこの両方 りょうほう を含 ふく む患者 かんじゃ の無意識 むいしき を、患者 かんじゃ に認識 にんしき させる事 こと を目的 もくてき とした。
また解釈 かいしゃく は治療 ちりょう 過程 かてい 中 ちゅう に現 あらわ れる転移 てんい や抵抗 ていこう だけでなく、患者 かんじゃ の日常 にちじょう 生活 せいかつ を聞 き いてそれを治療 ちりょう 者 しゃ が代 か わりに考 かんが えてあげたりする事 こと も含 ふく まれる。
解釈 かいしゃく が成功 せいこう して、患者 かんじゃ が無意識 むいしき を受 う け入 い れるようになると、患者 かんじゃ は今 いま まで意識 いしき されていなかった無意識 むいしき 的 てき 葛藤 かっとう を自我 じが に統合 とうごう して、これによって神経症 しんけいしょう が治 なお ると考 かんが えられた。
精神 せいしん 分析 ぶんせき においては、抑圧 よくあつ された葛藤 かっとう に対 たい する解釈 かいしゃく を行 おこな い洞察 どうさつ が得 え られた後 のち にも、なお解釈 かいしゃく に対抗 たいこう する抵抗 ていこう が反復 はんぷく して現 あらわ れる。その抵抗 ていこう を克服 こくふく し完全 かんぜん な洞察 どうさつ に至 いた るために、解釈 かいしゃく と洞察 どうさつ を徹底的 てっていてき に繰 く り返 かえ して抵抗 ていこう を一 ひと つ一 ひと つ排除 はいじょ していく過程 かてい のことをワークスルーという。ワークスルーの目標 もくひょう は、洞察 どうさつ を一層 いっそう 効果 こうか 的 てき にすることであり、患者 かんじゃ の本能 ほんのう 衝動 しょうどう の形 かたち と目標 もくひょう を変 か えることによって、患者 かんじゃ にとっても意味 いみ 深 ふか い永続 えいぞく 的 てき な変化 へんか をもたらすことである。ワークスルーは分析 ぶんせき 過程 かてい において最 もっと も重要 じゅうよう な部分 ぶぶん の一 ひと つで、患者 かんじゃ 自身 じしん の自己 じこ 分析 ぶんせき が主体 しゅたい となる。
この概念 がいねん は転移 てんい や逆 ぎゃく 転移 てんい や抵抗 ていこう や退行 たいこう など、分析 ぶんせき 過程 かてい に生 しょう じる様々 さまざま な患者 かんじゃ の反応 はんのう を分析 ぶんせき 家 か が管理 かんり し、それを乗 の り越 こ えていくプロセスであると言 い う事 こと が出来 でき る。
また、以前 いぜん は「徹底 てってい 操作 そうさ 」という訳語 やくご が当 あ てられていたが、この訳語 やくご だと主体 しゅたい が分析 ぶんせき 家 か になってしまう。しかし、本来 ほんらい の主体 しゅたい は患者 かんじゃ であるので、「徹底 てってい 操作 そうさ 」では適訳 てきやく とは言 い えない。そのため、最近 さいきん ではワークスルーとカタカナ書 が きすることが多 おお くなってきている。
フロイトは治療 ちりょう における患者 かんじゃ と治療 ちりょう 者 しゃ の間 あいだ で、いくつかの特徴 とくちょう 的 てき な現象 げんしょう が観察 かんさつ されるとしている。
フロイトは、面接 めんせつ 過程 かてい において、患者 かんじゃ が過去 かこ に自分 じぶん にとって重要 じゅうよう だった人物 じんぶつ (多 おお くは両親 りょうしん )に対 たい して持 も った感情 かんじょう を、目前 もくぜん の治療 ちりょう 者 しゃ に対 たい して向 む けるようになるという現象 げんしょう を見 み いだした。これを転移 てんい (Transference)という。
転移 てんい は、患者 かんじゃ が持 も っている心理 しんり 的 てき 問題 もんだい と深 ふか い結 むす びつきがあることが観察 かんさつ されたことから、その転移 てんい の出所 しゅっしょ (幼児 ようじ 期 き の性的 せいてき 生活 せいかつ )を解釈 かいしゃく することで、治療 ちりょう 的 てき に活用 かつよう できるとされた。転移 てんい の解釈 かいしゃく は、精神 せいしん 分析 ぶんせき 治療 ちりょう の根幹 こんかん とされている。
フロイトは、治療 ちりょう 者 しゃ の側 がわ に未解決 みかいけつ な心理 しんり 的 てき 問題 もんだい があった場合 ばあい 、治療 ちりょう 場面 ばめん において、治療 ちりょう 者 しゃ が患者 かんじゃ に対 たい して転移 てんい を起 お こしてしまう場合 ばあい があることを見 み いだした。これを逆 ぎゃく 転移 てんい (Counter Transference)という。
逆 ぎゃく 転移 てんい は治療 ちりょう の障害 しょうがい になるため排除 はいじょ するべきものであり、治療 ちりょう 者 しゃ は患者 かんじゃ の無意識 むいしき が投 なげ 映 うつ されやすいように、白紙 はくし のスクリーンにならなければならないと考 かんが えられた。しかし、そうした治療 ちりょう 者 しゃ の中立 ちゅうりつ 性 せい に関 かん しては、弟子 でし の中 なか にも異議 いぎ を唱 とな えたものが多 おお かった(フェレンツィ など)。
現代 げんだい の精神 せいしん 分析 ぶんせき では、逆 ぎゃく 転移 てんい の定義 ていぎ はさらに広 ひろ げられ、面接 めんせつ 中 ちゅう に治療 ちりょう 者 しゃ が抱 いだ く感情 かんじょう の全 すべ てを含 ふく むものになっている。そして、逆 ぎゃく 転移 てんい の中 なか には患者 かんじゃ 側 がわ の病理 びょうり によって治療 ちりょう 者 しゃ の中 なか に引 ひ き起 お こされる逆 ぎゃく 転移 てんい もあり、そうした逆 ぎゃく 転移 てんい は治療 ちりょう 的 てき に活用 かつよう できるとする考 かんが えが主流 しゅりゅう を占 し めるようになっている。
心理 しんり 的 てき 問題 もんだい の解決 かいけつ のために治療 ちりょう 者 しゃ のもとを訪 おとず れたにもかかわらず、患者 かんじゃ が治療 ちりょう 過程 かてい が進 すす むことを無意識 むいしき 的 てき に拒 こば んでしまうことを抵抗 ていこう (Resistance)もしくは治療 ちりょう 抵抗 ていこう という。これは、無意識 むいしき に目 め を向 む けることには苦痛 くつう が伴 ともな うため、自我 じが が自然 しぜん と無意識 むいしき の表出 ひょうしゅつ を防衛 ぼうえい する事 こと によって起 お こると考 かんが えられている。この抵抗 ていこう を乗 の り越 こ え、いかに無意識 むいしき を解明 かいめい するかが、治療 ちりょう 過程 かてい の重要 じゅうよう な局面 きょくめん となる。
高度 こうど に発達 はったつ した精神 せいしん が、以前 いぜん に経過 けいか してきた地点 ちてん に回帰 かいき する現象 げんしょう を退行 たいこう (Regression)という。
退行 たいこう の原因 げんいん にはいろいろあるが、固着 こちゃく (Fixation)と大 おお きな関係 かんけい があるとされている。固着 こちゃく はリビドー の相当 そうとう の量 りょう がある発達 はったつ 段階 だんかい に残 のこ されている事 こと を意味 いみ するので、固着 こちゃく が強 つよ い人 ひと ほど内的 ないてき や外的 がいてき 圧力 あつりょく に容易 ようい に屈 くっ し、その時点 じてん に退行 たいこう しやすくなり、それだけ自我 じが が脆弱 ぜいじゃく だと言 い える。健康 けんこう な人間 にんげん でも睡眠 すいみん 時 じ 、食事 しょくじ 、排便 はいべん 時 じ 、入浴 にゅうよく 時 じ などリラックスできる時 とき には軽 かる い退行 たいこう が起 お きる。
健康 けんこう な退行 たいこう と病的 びょうてき な退行 たいこう は、その固着 こちゃく 点 てん から正常 せいじょう な精神 せいしん 状態 じょうたい に立 た ち返 かえ る事 こと が出来 でき るかどうかで決 き まる。また、面接 めんせつ 過程 かてい において自然 しぜん と精神 せいしん は未熟 みじゅく な精神 せいしん の発達 はったつ 段階 だんかい に退行 たいこう する事 こと がわかっており、これを治療 ちりょう 的 てき 退行 たいこう と呼 よ び、精神 せいしん 分析 ぶんせき の治療 ちりょう に欠 か かせない要素 ようそ となっている。治療 ちりょう 的 てき 退行 たいこう 時 じ には患者 かんじゃ が平生 へいぜい 感 かん じることのない感情 かんじょう や衝動 しょうどう に駆 か られる事 こと が多 おお い。また動物 どうぶつ にも退行 たいこう が生 しょう じることが知 し られている。
局所 きょくしょ 論 ろん
意識 いしき 、前 ぜん 意識 いしき 、無意識 むいしき
構造 こうぞう 論 ろん
自我 じが 、超 ちょう 自我 じが 、イド
心理 しんり 性的 せいてき 発達 はったつ 理論 りろん
口唇 こうしん 期 き 、肛門 こうもん 期 き 、男根 だんこん 期 き (エディプス期 き )、潜伏期 せんぷくき 、性器 せいき 期 き
他 た の部分 ぶぶん との関係 かんけい 性 せい を含 ふく めた心 しん の仕組 しく みを説明 せつめい する際 さい には、氷山 ひょうざん の比喩 ひゆ がよく用 もち いられる
1923年 ねん 、フロイトは『自我 じが とエス』という心 しん 的 てき 構造 こうぞう 論 ろん を発表 はっぴょう し、そのなかで、人間 にんげん の根源 こんげん 的 てき な欲 よく 動 どう を代表 だいひょう する独 どく : Es (エス)と、欲 よく 動 どう の満足 まんぞく に関 かん して内的 ないてき な規範 きはん としての機能 きのう を果 は たす独 どく : Über-Ich (和訳 わやく 超 ちょう 自我 じが )、さらに上記 じょうき 二 ふた つの葛藤 かっとう を調整 ちょうせい し、外界 がいかい の現実 げんじつ に適応 てきおう する機能 きのう を担 にな うドイツ語 ご : Ich (和訳 わやく 自我 じが )を定義 ていぎ した。
なお、これらはアメリカで1953年 ねん にジェイムズ・ストレイチーによりラテン語 らてんご : id (イド )、super -ego 、ラテン語 らてんご : ego と訳 やく された。
フロイトは独 どく : Ich (和訳 わやく 自我 じが )という言葉 ことば を二 ふた つの意味 いみ に用 もち いた。一 ひと つは人格 じんかく の主体 しゅたい としての独 どく : Ich (「私 わたし 」)である。もう一 ひと つは、独 どく : Es (エス アメリカでラテン語 らてんご : id とされた)・自我 じが ・超 ちょう 自我 じが という心 しん 的 てき 構造 こうぞう 論 ろん のなかで、外的 がいてき な現実 げんじつ に適応 てきおう するシステムという意味 いみ であり、こちらはラテン語 らてんご : ego と訳 やく される。
前者 ぜんしゃ の「私 わたし 」としての自我 じが は、1923年 ねん に『自我 じが とエス』を公開 こうかい するまで使 つか われていた用法 ようほう であり、意識 いしき や思考 しこう に近 ちか い意味 いみ で使 つか われていた。しかし意識 いしき ―無意識 むいしき という対立 たいりつ 構造 こうぞう 、局所 きょくしょ 論 ろん を放棄 ほうき した1923年 ねん 以後 いご は無意識 むいしき 的 てき 防衛 ぼうえい をも含 ふく む意識 いしき の構造 こうぞう と言 い う意味 いみ で自我 じが という言葉 ことば が使 つか われるようになった。
フロイトは、自分 じぶん が最 もっと も「こうありたい」と思 おも う自己 じこ 像 ぞう (self image)を自我 じが 理想 りそう (ego ideal)と呼 よ んだ。超 ちょう 自我 じが と混同 こんどう されやすいが、欲 よく 動 どう に批判 ひはん 的 てき で罪悪 ざいあく 感 かん を体験 たいけん させる内在 ないざい 化 か された規範 きはん が超 ちょう 自我 じが 、この規範 きはん に一致 いっち し自分 じぶん がこうあるべき姿 すがた として思 おも い描 えが く姿 すがた が自我 じが 理想 りそう とされる。自我 じが 理想 りそう は超 ちょう 自我 じが の一部 いちぶ として存在 そんざい している。そもそも自我 じが 理想 りそう は、フロイトに言 い わせれば幼少 ようしょう 期 き の頃 ころ に完全 かんぜん であった自分 じぶん 自身 じしん を反映 はんえい したものである。自我 じが 理想 りそう が高 たか いほど、人 ひと は苦 くる しむ。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん によってヨーロッパ が壊滅 かいめつ 的 てき な破壊 はかい を経験 けいけん されたのを目撃 もくげき したフロイトは、なぜ人間 にんげん が自 みずか らの種族 しゅぞく 保存 ほぞん に不利 ふり なはずの戦争 せんそう のような行為 こうい をおこなうのか、ということに興味 きょうみ を持 も った。その結論 けつろん として1920年 ねん 、『快楽 かいらく 原則 げんそく の彼岸 ひがん 』(独 どく : Jenseits des Lustprinzips )において、それまでの性 せい の本能 ほんのう ・自己 じこ 保存 ほぞん 本能 ほんのう の二元論 にげんろん から、生 なま の本能 ほんのう (エロス :Eros )・死 し の本能 ほんのう (タナトス :Thanatos )の二元論 にげんろん へと転回 てんかい した。
人間 にんげん を含 ふく め生物 せいぶつ はすべて、生 せい の本能 ほんのう によっていっけん物事 ものごと を作 つく り出 だ し、建設 けんせつ していくかにみえるが、その深層 しんそう はつねに、それをぶち壊 こわ し無 む に回帰 かいき していこうとする死 し の本能 ほんのう に裏打 うらう ちされている。人間 にんげん という種 たね においては、いわゆる文明 ぶんめい が、人間 にんげん を人間 にんげん たらしめる創造 そうぞう と破壊 はかい の対象 たいしょう である。
臨床 りんしょう 的 てき には、死 し の本能 ほんのう は反復 はんぷく 強迫 きょうはく 、陰性 いんせい の治療 ちりょう 反応 はんのう 、道徳 どうとく 的 てき マゾヒズム などのかたちで現 あらわ れる。
この両者 りょうしゃ は精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく においては一般 いっぱん 的 てき には性欲 せいよく 動 どう (リビドー)と攻撃 こうげき 性 せい (アグレッション)という二 ふた つの欲 よく 動 どう に分類 ぶんるい され、フロイトの生 い きている時代 じだい には攻撃 こうげき 性 せい は重要 じゅうよう 視 し されていなかったが、フロイト死後 しご のメラニークラインの創設 そうせつ した対象 たいしょう 関係 かんけい 論 ろん においては良 よ い対象 たいしょう ・悪 わる い対象 たいしょう の議論 ぎろん と並行 へいこう して、攻撃 こうげき 性 せい つまり死 し の欲 よく 動 どう が非常 ひじょう に重視 じゅうし されるようになった。
同一 どういつ の対象 たいしょう に対 たい して、愛情 あいじょう と憎 にく しみなど対極 たいきょく 的 てき な情緒 じょうちょ や態度 たいど を示 しめ す心 しん 的 てき 体験 たいけん を両 りょう 価 あたい 性 せい /アンビバレンス (ambivalence)という。ブロイアー は今 いま でいう統合 とうごう 失調 しっちょう 症 しょう の心性 しんせい をあらわす語 かたり として用 もち いたが、フロイトは神経症 しんけいしょう や正常 せいじょう な人 ひと の情緒 じょうちょ のあり方 かた にも使用 しよう 範囲 はんい を広 ひろ げ、いまでも後者 こうしゃ の用 もち い方 かた が一般 いっぱん 化 か している。
心的 しんてき な力 ちから と力 ちから の葛藤 かっとう がくりひろげるダイナミズムを精神 せいしん 力動 りきどう (psychodynamics )といい、のちにアメリカで発展 はってん した力動 りきどう 精神 せいしん 医学 いがく の基盤 きばん となった。フロイトの心的 しんてき 決定 けってい 論 ろん によれば、正常 せいじょう な人 ひと も精神病 せいしんびょう 的 てき な人 ひと も、幼児 ようじ も成人 せいじん も、みな同一 どういつ の心 しん 的 てき 法則 ほうそく にしたがって精神 せいしん 活動 かつどう が営 いとな まれており、このことを精神 せいしん 力動 りきどう 連続 れんぞく 性 せい の原理 げんり という。
フロイトの「心 しん の現象 げんしょう は、すべて無意識 むいしき の心的 しんてき な法則 ほうそく にしたがっている」という主張 しゅちょう を心的 しんてき 決定 けってい 論 ろん (psychic determinism)といい、これをもとに神経症 しんけいしょう 、夢 ゆめ 、失錯 しっさく 行為 こうい などの無意識 むいしき の中 なか での意味 いみ が明 あき らかにされていった。
病 やめ いであることから得 え られる利益 りえき 。フロイトによれば、心的 しんてき な苦痛 くつう を回避 かいひ するために内的 ないてき 葛藤 かっとう を抑圧 よくあつ し、その結果 けっか 神経症 しんけいしょう のような症状 しょうじょう へ逃避 とうひ する第 だい 一 いち 次 じ 疾病 しっぺい 利得 りとく (primary gain)と、疾病 しっぺい であることで周囲 しゅうい の者 もの や社会 しゃかい から同情 どうじょう ・慰 なぐさ め・補償 ほしょう などを得 え る第 だい 二 に 次 じ 疾病 しっぺい 利得 りとく (secondary gain)とに分 わ けられる。精神療法 せいしんりょうほう では、これら疾病 しっぺい 利得 りとく に由来 ゆらい する抵抗 ていこう を解決 かいけつ し、患者 かんじゃ の自我 じが がふたたび現実 げんじつ に立 た ち戻 もど れるようにすることが治療 ちりょう 目標 もくひょう とされる。
倫理 りんり というよりも、精神 せいしん 分析 ぶんせき という行為 こうい を成 な りたせる要件 ようけん の一 ひと つとして、フロイトは治療 ちりょう 関係 かんけい における治療 ちりょう 者 しゃ の分別 ふんべつ (独 どく : arztliche Diskretion )を説 と いた。治療 ちりょう 者 しゃ の中立 ちゅうりつ 性 せい 、治療 ちりょう 契約 けいやく の遵守 じゅんしゅ 、治療 ちりょう 内 ない の秘密 ひみつ の厳守 げんしゅ 、患者 かんじゃ を私的 してき な願望 がんぼう や要求 ようきゅう の対象 たいしょう にしないこと、患者 かんじゃ も治療 ちりょう 者 しゃ も一定 いってい の禁欲 きんよく を互 たが いに守 まも ること(禁欲 きんよく 規則 きそく )、患者 かんじゃ の自発 じはつ 性 せい と訴 うった えの真実 しんじつ 性 せい を最 さい 優先 ゆうせん すべく治療 ちりょう 者 しゃ の受 う け身 み 性 せい (英 えい : Passivity )を維持 いじ すること、などがその内容 ないよう である。
これに対 たい しては、「治療 ちりょう 者 しゃ も一人 ひとり 間 あいだ なのだから難 むずか しい」「科学 かがく 的 てき でない」といった反論 はんろん が、フロイトの弟子 でし のあいだからも続出 ぞくしゅつ した。一方 いっぽう では、たとえば治療 ちりょう 技法 ぎほう を用 もち いれば、治療 ちりょう 者 しゃ の解釈 かいしゃく を患者 かんじゃ が受 う け容 い れない場合 ばあい 、「それは治療 ちりょう 抵抗 ていこう だ」「否認 ひにん だ」だということによって患者 かんじゃ の思想 しそう や人生 じんせい をも操作 そうさ ・支配 しはい できることになるので、この概念 がいねん は重要 じゅうよう な臨床 りんしょう 上 じょう の指標 しひょう として機能 きのう するものである。ただし後 のち にフェレンツィ・シャーンドル など積極 せっきょく 技法 ぎほう を行 おこな ったりと、それに従 したが わない人 ひと も出 で てくるようになった。
精神 せいしん 分析 ぶんせき 的 てき な治療 ちりょう を成 な りたせる重要 じゅうよう な概念 がいねん の一 ひと つ。
ある出来事 できごと を経験 けいけん したとき、まだその経験 けいけん の意味 いみ を味 あじ わうだけの心 しん の準備 じゅんび が整 ととの っていないために、そのとき同時 どうじ 的 てき にはその経験 けいけん の意味 いみ を理解 りかい できないことが多 おお い。しかし後 のち になって、その意味 いみ を咀嚼 そしゃく する力 ちから が培 つちか われてきて、過去 かこ の出来事 できごと の意味 いみ を理解 りかい することができる。これを遡行 そこう 作用 さよう (deferred action)と呼 よ ぶが、これを可能 かのう にしている、さかのぼって過去 かこ の出来事 できごと の意味 いみ を理解 りかい する心 しん の作用 さよう を事後 じご 性 せい (独 どく :Nachträglichkeit )という。これなしでは、自由 じゆう 連想 れんそう 法 ほう その他 た で過去 かこ の回想 かいそう をおこなっても、なんら治療 ちりょう 的 てき な力 ちから にならない。
その個体 こたい が心的 しんてき に耐 た えられないほどの破壊 はかい や侵 おかせ 襲 かさね を受 う け、そのために生 しょう じた心的 しんてき 機能 きのう の破綻 はたん が、長 なが いあいだ修復 しゅうふく されることなく、その結果 けっか さまざまな悪影響 あくえいきょう を心身 しんしん に色濃 いろこ く残 のこ す場合 ばあい 、破壊 はかい や侵 おかせ 襲 かさね のもととなった出来事 できごと を個体 こたい にとっての心 しん 的 てき 外傷 がいしょう (トラウマ:trauma)という。
フロイトの初期 しょき の治療 ちりょう 活動 かつどう では、心 しん 的 てき 外傷 がいしょう はおおいに注目 ちゅうもく されていたが、やがて『夢 ゆめ 判断 はんだん 』以降 いこう には、「こんなに外傷 がいしょう を受 う けた患者 かんじゃ が多 おお いわけがない。これはクライエントの幻想 げんそう である」といったふうに、フロイトのなかで外傷 がいしょう 概念 がいねん に対 たい する後退 こうたい が起 お こった。ジャネ が心 しん 的 てき 外傷 がいしょう の研究 けんきゅう を続 つづ けたものの、1930年代 ねんだい は精神 せいしん 医学 いがく 界 かい を含 ふく めて、総 そう じて心的 しんてき 外傷 がいしょう というものを集団 しゅうだん 否認 ひにん している時代 じだい であった。やがて、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん やインドシナ戦争 せんそう から帰還 きかん した兵士 へいし たちが戦争 せんそう 後 ご ストレス症候群 しょうこうぐん (ASD)などの症状 しょうじょう を呈 てい するにいたり、ふたたび心 しん 的 てき 外傷 がいしょう の研究 けんきゅう が行 おこ なわれるようになっていった。
フェダーン は、個々 ここ の体験 たいけん のなかで自己 じこ の内 うち と外 そと を識別 しきべつ する境界 きょうかい 線 せん を自我 じが 境界 きょうかい (英 えい : ego boundary )と呼 よ んだ。自我 じが 境界 きょうかい は流動的 りゅうどうてき であり、その体験 たいけん が自我 じが 化 か されるかいなかによって規定 きてい され、たとえば統合 とうごう 失調 しっちょう 症 しょう の自我 じが 障害 しょうがい は、この自我 じが 境界 きょうかい の引 び き方 かた の障害 しょうがい であるとされる。近年 きんねん では、自我 じが 境界 きょうかい はさらに皮膚 ひふ 自我 じが の機能 きのう の研究 けんきゅう として新 あら たな展開 てんかい を遂 と げている。
フロイトは幼児 ようじ が発達 はったつ する段階 だんかい において存在 そんざい する根源 こんげん 的 てき な一 いち 次 じ 的 てき 自己 じこ 愛 あい と、一度 いちど 発達 はったつ してから退行 たいこう することによって生 しょう じたり、何 なん らかの原因 げんいん によって自我 じが にリビドーが戻 もど ってきて生 しょう じる二 に 次 じ 的 てき 自己 じこ 愛 あい を区別 くべつ した。
前者 ぜんしゃ は自体 じたい 愛 あい と呼 よ ばれるものであり、身体 しんたい の各 かく 部位 ぶい にリビドーを備給する幼児 ようじ 期 き 段階 だんかい において発達 はったつ する。後者 こうしゃ は自我 じが が成立 せいりつ してから発生 はっせい するものと考 かんが えられており、対象 たいしょう に向 む かうはずのリビドーが自我 じが に戻 もど ってくる事 こと によって生 しょう じる現象 げんしょう として考 かんが えられている。
フロイトは自体 じたい 愛 あい を人間 にんげん の発達 はったつ において必然 ひつぜん 的 てき なものとして理解 りかい した。それは自己 じこ 愛 あい も同様 どうよう に発達 はったつ においては必然 ひつぜん 的 てき に生 しょう じるものであるが、成人 せいじん になってから生 しょう じる自己 じこ 愛 あい は病的 びょうてき であると考 かんが えている。
自己 じこ 愛 あい は抑 そもそも うつの理解 りかい や精神分裂病 せいしんぶんれつびょう の理解 りかい によって特 とく に注意深 ちゅういぶか く考 かんが えられるようになった(『喪 も とメランコリー』および『シュレーバー症例 しょうれい 』)。基本 きほん 的 てき にフロイトは自体 じたい 愛 あい ―自己 じこ 愛 あい ―対象 たいしょう 愛 あい という発達 はったつ ラインを考 かんが えており、そのために自己 じこ 愛 あい は病的 びょうてき であり、成人 せいじん した人間 にんげん は対象 たいしょう 愛 あい 、つまりリビドーが対象 たいしょう へ向 む かっているのが正常 せいじょう であると考 かんが えた。
ハインツ・コフート が自己 じこ 愛 あい の正常 せいじょう な発達 はったつ を主張 しゅちょう するまでは、精神 せいしん 分析 ぶんせき では自己 じこ 愛 あい は病的 びょうてき なものとして理解 りかい されていた嫌 きら いがある。自我 じが 心理 しんり 学 がく でも自己 じこ 愛 あい 理解 りかい はそのままにされていたのであり、ハインツ・コフートが自己 じこ 愛 あい の理解 りかい を見直 みなお すまでは以前 いぜん 病的 びょうてき なものとして理解 りかい されていた。後 のち に自己 じこ 愛 あい はパーソナリティ障害 しょうがい の理解 りかい において、対象 たいしょう 関係 かんけい 論 ろん や自己 じこ 心理 しんり 学 がく によって非常 ひじょう に注目 ちゅうもく されるようになる。
また、クライン学派 がくは においては、一 いち 次 じ 的 てき 自己 じこ 愛 あい の概念 がいねん はなく、最 さい 早期 そうき から対象 たいしょう 関係 かんけい は成立 せいりつ していると考 かんが えられている。そして、その自己 じこ 愛 あい は羨望 せんぼう と結 むす びつき、破壊 はかい 的 てき な様相 ようそう を呈 てい するようになるとローゼンフェルドは述 の べている。このことは様々 さまざま な苦痛 くつう から防衛 ぼうえい するために、高度 こうど に組織 そしき 化 か された自己 じこ 構造 こうぞう として理論 りろん 化 か されていった。その後 ご シュタイナーは自己 じこ 愛 あい 構造 こうぞう 体 たい をさらに整理 せいり し、妄想 もうそう 分裂 ぶんれつ ポジションと抑 そもそも うつポジションの間 あいだ にあり、双方 そうほう の苦痛 くつう を回避 かいひ するための避難 ひなん 所 しょ としての病理 びょうり 的 てき 組織 そしき 化 か の理論 りろん を展開 てんかい した。病理 びょうり 的 てき 組織 そしき 化 か により、嗜癖的 てき にその状態 じょうたい にひきこもり、倒錯 とうさく 的 てき な満足 まんぞく の中 なか で成長 せいちょう することを妨 さまた げる大 おお きな要因 よういん となると指摘 してき した[2] 。
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく " – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2024年 ねん 3月 がつ )
精神 せいしん 分析 ぶんせき では、心 しん の働 はたら きの主体 しゅたい としての自我 じが (羅 ら : ego )と、日常 にちじょう 的 てき な経験 けいけん で「自分 じぶん 」として意識 いしき される自己 じこ (英 えい : self )を区別 くべつ する。
精神 せいしん 分析 ぶんせき においては「自己 じこ 」と言 い う言葉 ことば は殆 ほとん ど使 つか われていない。フロイトの初期 しょき の研究 けんきゅう においては、自我 じが は自己 じこ と同等 どうとう の意味合 いみあ いに近 ちか く使 つか われていたが、後 ご の研究 けんきゅう では自己 じこ という言葉 ことば は明確 めいかく に自我 じが と区別 くべつ されるようになった。事実 じじつ フロイト自身 じしん は「自己 じこ 」という概念 がいねん にあまり注目 ちゅうもく していなかったようである。フロイトの書物 しょもつ では、自己 じこ という言葉 ことば を精神 せいしん 分析 ぶんせき における明確 めいかく な概念 がいねん としては使用 しよう した事 こと はなく、全集 ぜんしゅう には僅 わず か15回 かい ほどしか使 つか っていないと言 い われている。
後 ご の対象 たいしょう 関係 かんけい 論 ろん や自我 じが 心理 しんり 学 がく において、自己 じこ は自我 じが と明確 めいかく に異 こと なる「自己 じこ のイメージ・自己 じこ 表象 ひょうしょう 」として理解 りかい されるようになる。メラニー・クラインにおいても自我 じが と自己 じこ のその意味 いみ の混同 こんどう は行 おこな われており、明確 めいかく な区別 くべつ は近年 きんねん になってからである。
正確 せいかく な自己 じこ の定義 ていぎ は上記 じょうき の通 とお りであるが、自己 じこ 心理 しんり 学 がく では自己 じこ の定義 ていぎ は異 こと なる(ただし明確 めいかく な定義 ていぎ は行 おこな われていない)。自我 じが との区別 くべつ は、よく言 い われる違 ちが いは、自我 じが は心的 しんてき 「構造 こうぞう 」であり、「機能 きのう 」である。自己 じこ は自我 じが の「内容 ないよう 」または「自分 じぶん のイメージ」である。
自己 じこ という概念 がいねん が本格 ほんかく 的 てき に理論 りろん の中 なか に組 く み込 こ んで、その概念 がいねん を中心 ちゅうしん にしたのは、精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく の本流 ほんりゅう ではなくて、むしろフロイトから離反 りはん したユングや精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく とは関係 かんけい ないロジャースなどである。自我 じが 心理 しんり 学 がく において自己 じこ を重要 じゅうよう 視 し するようになったのはエリクソンやハインツ・コフートなどの近年 きんねん の精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく においてであるといわれている。
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自己 じこ がつねに一貫 いっかん した存在 そんざい であるという内的 ないてき な体験 たいけん を自己 じこ 同一 どういつ 性 せい (英 えい : Identity )という。エリク・H・エリクソン が規定 きてい した自己 じこ 同一 どういつ 性 せい の定義 ていぎ には、自分 じぶん による主観 しゅかん 的 てき な自己 じこ という意味 いみ だけではなく、身分 みぶん 証明 しょうめい 書 しょ にたとえられるような社会 しゃかい や他者 たしゃ が承認 しょうにん する自己 じこ 、すなわち客観 きゃっかん 的 てき な現実 げんじつ 性 せい を持 も つ自己 じこ も含 ふく まれる。民族 みんぞく 、家族 かぞく 、会社 かいしゃ などどこかの集団 しゅうだん に帰属 きぞく する自己 じこ 、「○○としての私 わたし 」を統合 とうごう するものは自我 じが 同一 どういつ 性 せい (英 えい : Ego Identity )と呼 よ ばれる。
よく言 い われるパーソナリティ(広 ひろ く言 い えば性格 せいかく )との違 ちが いは、自己 じこ 同一 どういつ 性 せい (アイデンティティ)は社会 しゃかい 的 てき な文化 ぶんか 的 てき な性質 せいしつ を含 ふく んでいるものとされる。そのためエリクソンの発達 はったつ 理論 りろん やその概念 がいねん では社会 しゃかい や文化 ぶんか との関係 かんけい 性 せい が欠 か かせないものとなっている。
ただしこの自己 じこ 同一 どういつ 性 せい (もしくは自我 じが 同一 どういつ 性 せい 、アイデンティティと呼 よ ばれるもの)はエリク・エリクソン以外 いがい の精神 せいしん 分析 ぶんせき 学派 がくは にとって非常 ひじょう に定義 ていぎ の難 むずか しいものとされ、またその理論 りろん の曖昧 あいまい さや矛盾 むじゅん も指摘 してき されている。例 たと えば自我 じが 心理 しんり 学 がく においては自我 じが と自己 じこ の発達 はったつ ラインは異 こと なるのであり、同 おな じ領域 りょういき で語 かた る事 こと は出来 でき ない。
また同一 どういつ 性 せい (アイデンティティ)という性質 せいしつ は自己 じこ にのみ適切 てきせつ に当 あ てはめる事 こと が出来 でき るが、自我 じが には当 あ てはめる事 こと が出来 でき ないとされている。何故 なぜ ならば自我 じが は子供 こども がそれなりに成長 せいちょう した後 のち に出来 でき る、基本 きほん 的 てき にあまり変形 へんけい する事 こと のない心 しん の構造 こうぞう だからである。そのような心 しん の構造 こうぞう に対 たい して同一 どういつ 性 せい という概念 がいねん を導入 どうにゅう する事 こと には厳密 げんみつ な精神 せいしん 分析 ぶんせき 理論 りろん においては非常 ひじょう に疑問 ぎもん の持 も たれている事 こと である。このように現代 げんだい では比較的 ひかくてき 多 おお く使 つか われる概念 がいねん であるが、その使用 しよう はエリク・エリクソンの精神 せいしん 分析 ぶんせき 理論 りろん に限定 げんてい されているようである。
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フロイトにおいてはイド―自我 じが ―超 ちょう 自我 じが のその構造 こうぞう 性質 せいしつ によって、特 とく に個人 こじん における自我 じが の防衛 ぼうえい 方法 ほうほう などによってパーソナリティという言葉 ことば が理解 りかい されたようであるが、実際 じっさい にはこの言葉 ことば は非常 ひじょう に広範 こうはん な意味 いみ を持 も っていて、精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく では正確 せいかく な定義 ていぎ はないとされている。広義 こうぎ の意味 いみ では「性格 せいかく 」に近 ちか いが、その性格 せいかく を決 き める要素 ようそ としては、精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく においては決定的 けっていてき なものはない。
日本 にっぽん ではエリクソンの自己 じこ 同一 どういつ 性 せい によるアイデンティティの理解 りかい が深 ふか いためか、アイデンティティ=パーソナリティという考 かんが え方 かた をする人 ひと が多 おお い。しかし精神 せいしん 分析 ぶんせき においても学術 がくじゅつ 的 てき な研究 けんきゅう においても、パーソナリティはアイデンティティと違 ちが う概念 がいねん であり、未 いま だ確定 かくてい 的 てき な理解 りかい にいたっていないようである。それだけこの言葉 ことば の意味 いみ は曖昧 あいまい になっている。
フロイト以後 いご の精神 せいしん 分析 ぶんせき の発展 はってん
編集 へんしゅう
狭義 きょうぎ には、精神 せいしん 分析 ぶんせき はフロイト理論 りろん のみを指 さ すが、広義 こうぎ には、フロイト理論 りろん の流 なが れをくんだ様々 さまざま な分派 ぶんぱ を総称 そうしょう して指 さ す。フロイト以後 いご 、彼 かれ の弟子 でし たちはそれぞれの視点 してん からフロイト理論 りろん を批判 ひはん しつつこれを継承 けいしょう し、新 あら たな理論 りろん を発展 はってん させていった。対象 たいしょう とする疾患 しっかん も、フロイトが主 おも に取 と り組 く んだ成人 せいじん の神経症 しんけいしょう にとどまらず、子供 こども 、老人 ろうじん 、精神病 せいしんびょう 、境界 きょうかい 例 れい へと広 ひろ がっていった。発達 はったつ 障害 しょうがい や精神病 せいしんびょう 圏 けん の患者 かんじゃ に対 たい してはその成果 せいか は芳 かんば しくなかったが、境界 きょうかい 例 れい に対 たい してはその理解 りかい を飛躍 ひやく 的 てき に進展 しんてん させる成果 せいか をあげている。
アメリカではジェイコブソンが、1960年代 ねんだい に自己 じこ と対象 たいしょう の相互 そうご 関係 かんけい にかかわる発達 はったつ 論 ろん を展開 てんかい し、自己 じこ とは何 なに か、対象 たいしょう はどのように心 しん のなかに存在 そんざい するか、などについて明 あき らかにしていった。同時 どうじ にフロイトにおける自己 じこ 愛 あい の概念 がいねん を批判 ひはん し、独自 どくじ の自己 じこ 愛 あい 論 ろん を展開 てんかい した。これは自我 じが 心理 しんり 学 がく と対象 たいしょう 関係 かんけい 論 ろん の違 ちが いと共通 きょうつう 点 てん を明 あき らかにし、精神 せいしん 分析 ぶんせき の理論 りろん を包括 ほうかつ 的 てき に統合 とうごう する上 じょう で大 おお きな役割 やくわり を果 は たした。
またハインツ・ハルトマン は自我 じが には自律 じりつ 性 せい の領域 りょういき がある事 こと や、自我 じが の現実 げんじつ への適応 てきおう に関 かん して考察 こうさつ する事 こと で、フロイトの自我 じが 心理 しんり 学 がく を理論 りろん 的 てき に精緻 せいち にしていった。
フランスにおいて、ジャック・ラカン は「フロイトに還 かえ れ」(仏 ふつ :Le retour à Freud )というスローガンを掲 かか げ、フロイトを構造 こうぞう 主義 しゅぎ 的 てき に読 よ み直 なお す作業 さぎょう を進 すす め、フロイトにおける用語 ようご や概念 がいねん 、言語 げんご 感覚 かんかく の特徴 とくちょう などを解 と き明 あ かしていった。
フロイト以後 いご の分派 ぶんぱ は、古典 こてん 的 てき フロイト派 は 、クライン派 は 、対人 たいじん 関係 かんけい 学派 がくは 、自我 じが 心理 しんり 学 がく 、新 しん フロイト派 は 、対象 たいしょう 関係 かんけい 論 ろん 、自己 じこ 心理 しんり 学 がく 、パリ・フロイト派 は が代表 だいひょう 的 てき である。
ユングの分析 ぶんせき 心理 しんり 学 がく や、アドラーの個人 こじん 心理 しんり 学 がく は、理論 りろん 上 じょう の相違 そうい が大 おお きいため、狭義 きょうぎ の精神 せいしん 分析 ぶんせき には分類 ぶんるい されていない。しかし、無意識 むいしき の存在 そんざい を想定 そうてい していることから、深層 しんそう 心理 しんり 学 がく の一派 いっぱ として分類 ぶんるい される。
日本 にっぽん では上記 じょうき の自我 じが 心理 しんり 学 がく と対象 たいしょう 関係 かんけい 論 ろん の紹介 しょうかい とその研究 けんきゅう が中心 ちゅうしん となって行 おこな われている。特 とく にフロイトの直属 ちょくぞく の流 なが れを汲 く む精神 せいしん 分析 ぶんせき 理論 りろん がその紹介 しょうかい の中心 ちゅうしん となっている。精神 せいしん 病理 びょうり に関 かん しては投薬 とうやく 治療 ちりょう による脳 のう 精神 せいしん 医学 いがく 的 てき アプローチによる治療 ちりょう が大勢 おおぜい となっているので、精神 せいしん 分析 ぶんせき は独自 どくじ の発展 はってん を遂 と げているわけではなく、海外 かいがい の精神 せいしん 分析 ぶんせき の文献 ぶんけん を紹介 しょうかい したり、それらを吸収 きゅうしゅう するのが基本 きほん となっている。
古 ふる い時代 じだい の精神 せいしん 分析 ぶんせき では、精神 せいしん 科 か 疾患 しっかん に対 たい する診断 しんだん が各国 かっこく 、各地 かくち 、各 かく 個人 こじん 医 い によってバラバラであった時代 じだい が長 なが く続 つづ いた。したがって同一 どういつ の患者 かんじゃ が、日本 にっぽん で、ドイツで、アメリカで、アフリカで、まったく別 べつ の診断 しんだん を下 くだ されるという事 こと になり、国内 こくない でも東大 とうだい 式 しき 診断 しんだん 、京大 きょうだい 式 しき 診断 しんだん をはじめとする分裂 ぶんれつ した診断 しんだん が普通 ふつう に行 おこな われていた(正 まさ しくは現在 げんざい もそうである)。
当然 とうぜん のことながら治療 ちりょう 結果 けっか に関 かん する測定 そくてい 方法 ほうほう 論 ろん も寄 よ せ集 あつ めやでたらめであり、それらの時代 じだい の治療 ちりょう への肯定 こうてい も否定 ひてい も、ほとんど全 すべ て科学 かがく 的 てき 立証 りっしょう として無意味 むいみ なものであった。精神 せいしん 分析 ぶんせき を肯定 こうてい する論文 ろんぶん も、否定 ひてい する論文 ろんぶん も、ほとんどはこれらばらばらの診断 しんだん 基準 きじゅん 、恣意 しい の治療 ちりょう 結果 けっか 測定 そくてい 基準 きじゅん から来 く るもので、それゆえに様々 さまざま な心理 しんり 療法 りょうほう が、異 こと なる学派 がくは の心理 しんり 療法 りょうほう の専門 せんもん 家 か は他 た の学派 がくは の心理 しんり 療法 りょうほう の専門 せんもん 家 か を自由 じゆう に批判 ひはん した。しかし今日 きょう のエビデンスベイスド の理念 りねん に従 したが えば、それら古 ふる い時代 じだい の肯定 こうてい ・否定 ひてい 的 てき 文章 ぶんしょう のどちらからも、臨床 りんしょう 的 てき 効力 こうりょく に関 かん して言及 げんきゅう できることは何一 なにひと つない。
例 たと えば指導 しどう 的 てき なアメリカ人 じん 精神 せいしん 科 か 医 い であるE. Fuller Torreyは、その著書 ちょしょ 「Witchdoctors and Psychiatrists」(1986)の中 なか で、精神 せいしん 分析 ぶんせき の理論 りろん は伝統 でんとう 的 てき な土着 どちゃく の「呪術 じゅじゅつ 医 い 」やErhard Seminars Training(EST)のようなオルタナティブな近代 きんだい 「カルト 」と同 どう 程度 ていど にしか科学 かがく 的 てき 根拠 こんきょ がない、と述 の べているが、1980年代 ねんだい のアメリカの精神 せいしん 科 か 医学 いがく は今日 きょう からみて幾 いく らか呪術 じゅじゅつ 的 てき であり、今日 きょう の精神 せいしん 科 か 医学 いがく も後世 こうせい から見 み ればずいぶん呪術 じゅじゅつ 的 てき と言 い われるであろう。ただしいまだに脳 のう の内部 ないぶ での物理 ぶつり 的 てき 現象 げんしょう がどのように心理 しんり 的 てき に具現 ぐげん 化 か するかは解明 かいめい されておらず、今日 きょう の精神 せいしん 科 か 医学 いがく も雑誌 ざっし Scienceに載 の ったローゼンハン実験 じっけん (Rosenhan experiment )など仮病 けびょう の精神病 せいしんびょう と実際 じっさい の精神病 せいしんびょう の区別 くべつ をつけることができない状態 じょうたい にあることが明 あき らかになっている (Rosenhan, D.L. (1973). On being sane in insane places. Science, 179, 70, pp. 250-8)。
しかしながら、エビデンスベイスド 時代 じだい の精神 せいしん 分析 ぶんせき の有効 ゆうこう 性 せい については、さまざまな疾患 しっかん に対 たい しての臨床 りんしょう 効果 こうか の研究 けんきゅう がなされており、パーソナリティ障害 しょうがい などに対 たい して、RCTやメタ分析 ぶんせき 、系統 けいとう 的 てき レビューによって、効果 こうか が確 たし かめられている(例 たと えば、F,Leichsenring&S,Rabung 2008やJ,Shedler 2010)。
科学 かがく 的 てき 研究 けんきゅう に関 かん するサーベイが示 しめ すところによれば、フロイトのいう口唇 こうしん 期 き (oral phase)、肛門 こうもん 期 き (anal phase)、エディプス期 き (Oedipal phase)・男根 だんこん 期 き (phallic phase)、性器 せいき 期 き (genital phase)がパーソナリティ の傾向 けいこう として観測 かんそく されるものの、これらが子供 こども の発達 はったつ 段階 だんかい として現 あらわ れる事 こと も観察 かんさつ できないし、子供 こども 時代 じだい の経験 けいけん が成人 せいじん してからの傾向 けいこう に影響 えいきょう する事 こと も観察 かんさつ できない (Fisher & Greenberg, 1977, p399)。
精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく に対 たい する初期 しょき の、だが重要 じゅうよう な批判 ひはん として、精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく が定量 ていりょう 化 か や実験 じっけん にほとんど基 もと づいておらず、理論 りろん の大半 たいはん が病院 びょういん でのケーススタディ に基 もと づいている、というものがある。
それに対 たい し、行動 こうどう 療法 りょうほう や認知 にんち 療法 りょうほう といった他 ほか の心理 しんり 療法 りょうほう は実験 じっけん 的 てき 妥当 だとう 性 せい をもっと考慮 こうりょ している (Morley et al. 1999)。
なかには、フロイトの治療 ちりょう 業績 ぎょうせき のいくつかは、---Anna Oの有名 ゆうめい な奇跡 きせき すら---、捏造 ねつぞう であると告発 こくはつ する者 もの もいる (Borch-Jacobsen 1996)。
精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく の概念 がいねん を定量 ていりょう 的 てき かつ学術 がくじゅつ 的 てき に分析 ぶんせき している心理 しんり 学者 がくしゃ や精神 せいしん 科 か 医 い の中 なか には、この種 たね の批判 ひはん をするものが増 ふ えている。
しかし、こうした発達 はったつ 段階 だんかい に対 たい する批判 ひはん が、近代 きんだい 精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく に対 たい する決定的 けっていてき な批判 ひはん だと思 おも ってはならない。
近代 きんだい 精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく の理論 りろん と実践 じっせん にとっての決定的 けっていてき な批判 ひはん になり得 え るのは、無意識 むいしき や感情 かんじょう 転移 てんい に対 たい するものである。「無意識 むいしき 」の概念 がいねん に対 たい する疑念 ぎねん として、人間 にんげん の行動 こうどう なら観察 かんさつ できるが、人間 にんげん の心理 しんり は推測 すいそく しかできない、というものがある。よく精神 せいしん 分析 ぶんせき に親密 しんみつ な立場 たちば の者 もの は、実験 じっけん 心理 しんり 学 がく や社会 しゃかい 心理 しんり 学 がく の学部 がくぶ 生 せい や大学院生 だいがくいんせい にとって無意識 むいしき はホットなトピックである(ようやくホットなトピックになってきた。追 お いついてきた)と表現 ひょうげん し、どうやらそれは、implicit attitude measures、fMRI、PET scansなどのindirect testの事 こと を「無意識 むいしき 」の研究 けんきゅう だと勘違 かんちが いしているようだが、それはつまり本人 ほんにん たちが無意識 むいしき を理解 りかい していないということの表現 ひょうげん として、実験 じっけん 心理 しんり 学者 がくしゃ や社会 しゃかい 心理 しんり 学者 がくしゃ の卵 たまご に理解 りかい されている。
酷 ひど く歪曲 わいきょく する精神 せいしん 分析 ぶんせき 家 か は厳格 げんかく な行動 こうどう 主義 しゅぎ 者 しゃ の、古典 こてん 的 てき 条件 じょうけん 付 づ けの元 もと となる系統 けいとう 発生 はっせい 的 てき 随伴 ずいはん 性 せい をも無意識 むいしき と読 よ み替 か えて行動 こうどう 主義 しゅぎ 者 しゃ の顰蹙 ひんしゅく を買 か っていたり、近年 きんねん の莫大 ばくだい な神経 しんけい 科学 かがく の成果 せいか を、精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく の理論 りろん にそった形 かたち で歪曲 わいきょく することで、精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく を時代遅 じだいおく れのものにするまいと努力 どりょく したが、徒労 とろう に終 お わった。
科学 かがく 哲学 てつがく 者 もの のカール・ポパー は、反証 はんしょう 可能 かのう 性 せい を持 も つかどうかを「真 しん の科学 かがく 」であるかどうかを見分 みわ ける基準 きじゅん として提唱 ていしょう しており、それ故 こ 彼 かれ は精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく は科学 かがく ではなくて疑似 ぎじ 科学 かがく に過 す ぎないと断 だん じた。ポパーのいう科学 かがく 理論 りろん とは、それが誤 あやま っていることが検証 けんしょう できる理論 りろん 、即 すなわ ちそれを反証 はんしょう することができる理論 りろん のことである。その意味 いみ では例 たと えば特定 とくてい の恋人 こいびと の関係 かんけい の理論 りろん (例 れい :浮気 うわき が無 な かったこと)が明確 めいかく に反証 はんしょう (例 れい :第三者 だいさんしゃ との性交 せいこう という事実 じじつ )できるのであればポパー的 てき には科学 かがく である。
ポパーら科学 かがく 哲学 てつがく および自然 しぜん 科学 かがく 者 しゃ が問題 もんだい にしているのは、データを数値 すうち 化 か できるかどうかではなく、精神 せいしん 分析 ぶんせき の理論 りろん が批判 ひはん 可能 かのう 性 せい に開 ひら かれており経験 けいけん に照 て らして自 みずか らが誤 あやま っている可能 かのう 性 せい を認 みと める余地 よち を有 ゆう しているか否 ひ か、である。心 しん 的 てき 現象 げんしょう が物理 ぶつり 的 てき 現象 げんしょう と異 こと なった心 しん 的 てき 法則 ほうそく によって決定 けってい されているという精神 せいしん 分析 ぶんせき の主張 しゅちょう は、ともすると物理 ぶつり 的 てき 領域 りょういき からの心 しん 的 てき 領域 りょういき の独立 どくりつ に訴 うった えて経験 けいけん 的 てき 反駁 はんばく を最初 さいしょ から不可能 ふかのう にする傾向 けいこう を帯 お びやすい。フロイトが見出 みいだ したと主張 しゅちょう するような心 しん 的 てき 法則 ほうそく は、どのような観察 かんさつ が得 え られたときに、やはり誤 あやま っていたのだ、と結論 けつろん 付 つ けられるのだろうか。そしてそのように判断 はんだん する原理 げんり 的 てき 基準 きじゅん はどのようなものか。これらに精神 せいしん 分析 ぶんせき が答 こた えを与 あた えられない限 かぎ り、ポパーの科学 かがく 哲学 てつがく からは、精神 せいしん 分析 ぶんせき は科学 かがく とは認 みと められない。
むろん、医学 いがく 的 てき に重要 じゅうよう なのは精神病 せいしんびょう が明確 めいかく に治療 ちりょう されたとの確定 かくてい は存在 そんざい するのか、であるだろう。これは精神 せいしん 分析 ぶんせき が精神 せいしん 疾病 しっぺい に対 たい する治療 ちりょう 効果 こうか を有 ゆう する、という精神 せいしん 分析 ぶんせき の根幹 こんかん 的 てき 主張 しゅちょう が反駁 はんばく に開 ひら かれているかを決 けっ する重大 じゅうだい な基準 きじゅん である。もし、それが曖昧 あいまい であれば、常識 じょうしき 的 てき には疾病 しっぺい が治癒 ちゆ したとは見 み なしえない場合 ばあい でも「精神 せいしん 分析 ぶんせき 的 てき 観点 かんてん からは立派 りっぱ に治癒 ちゆ した結果 けっか である」という主張 しゅちょう が通 とお りかねない。これは精神 せいしん 分析 ぶんせき の科学 かがく 性 せい を当然 とうぜん に危 あや うくする、とされる。
もっとも、いかに反証 はんしょう 可能 かのう 性 せい が科学 かがく にとって重要 じゅうよう な特徴 とくちょう であるとしても、科学 かがく と疑似 ぎじ 科学 かがく の差異 さい は段階 だんかい 的 てき なものであるため、近代 きんだい の科学 かがく 哲学 てつがく 者 しゃ の多 おお くは科学 かがく と非 ひ 科学 かがく を絶対 ぜったい 的 てき に線引 せんひ きする事 こと は不可能 ふかのう だと考 かんが えており、例 たと えばデュエム やクワイン は「ある仮説 かせつ を反証 はんしょう する決定的 けっていてき な実験 じっけん などはそもそも存在 そんざい しない」と主張 しゅちょう している(デュエム-クワイン・テーゼ )。ただし、ポパーはこのテーゼに対 たい する再 さい 反論 はんろん も行 おこ なっているし、明確 めいかく な線引 せんひ きが不可能 ふかのう である(どちらとも決 けっ しがたい境界 きょうかい 事例 じれい がある)ということは、明 あき らかに疑似 ぎじ 科学 かがく でしかない理論 りろん があるということを否定 ひてい するものではまったくない。このような観点 かんてん から科学 かがく 哲学 てつがく 者 しゃ の多 おお くは精神 せいしん 分析 ぶんせき に懐疑 かいぎ 的 てき である。
この節 ふし は検証 けんしょう 可能 かのう な参考 さんこう 文献 ぶんけん や出典 しゅってん が全 まった く示 しめ されていないか、不十分 ふじゅうぶん です。 出典 しゅってん を追加 ついか して記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく ください。(このテンプレートの使 つか い方 かた ) 出典 しゅってん 検索 けんさく ? : "精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく " – ニュース · 書籍 しょせき · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2024年 ねん 3月 がつ )
近年 きんねん は脳 のう 科学 かがく が劇的 げきてき に進歩 しんぽ したため、精神 せいしん 医学 いがく も脳 のう による説明 せつめい を求 もと められるようになったが、精神 せいしん 医学 いがく が経験 けいけん 則 そく や現象 げんしょう 学 がく 的 てき な考 かんが えから成 な り立 た っている上 うえ 、脳 のう 科学 かがく 自体 じたい が発展 はってん 途上 とじょう にあるという事情 じじょう もあり、未 いま だ説明 せつめい が十分 じゅうぶん でない。精神 せいしん 分析 ぶんせき の用語 ようご には脳 のう 科学 かがく 的 てき な妥当 だとう 性 せい を持 も つものは少 すく なく、無理 むり に認知 にんち 心理 しんり 学 がく などの用語 ようご に置 お き換 か える場合 ばあい もあるが、それも不可能 ふかのう であるケースが多 おお い。
1950年代 ねんだい から精神 せいしん 分析 ぶんせき では脳 のう 精神 せいしん 医学 いがく との見地 けんち を統合 とうごう した精神 せいしん 分析 ぶんせき 的 てき 理解 りかい を提示 ていじ している。そこでは特 とく にリビドー論 ろん =本能 ほんのう 欲求 よっきゅう 論 ろん が否定 ひてい されており、脳 のう においては電気 でんき 信号 しんごう を発信 はっしん するのみでエネルギーは移動 いどう しないとしている。また意識 いしき =思考 しこう も同意 どうい 語 ご ではなく、フロイトの取 と り上 あ げた1900年代 ねんだい の様々 さまざま な生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 論文 ろんぶん の内容 ないよう はかなり現在 げんざい では否定 ひてい 的 てき に見 み られている。そのため脳 のう 科学 かがく などの実験 じっけん 心理 しんり 学 がく 的 てき 立場 たちば からすると、フロイトの理論 りろん ―心 しん 的 てき 構造 こうぞう 論 ろん やリビドー理論 りろん はほぼ仮説 かせつ であり、検証 けんしょう 不可能 ふかのう なものとして理解 りかい されている。
フロイト自身 じしん は様々 さまざま な生物 せいぶつ 学 がく 的 てき 見地 けんち から基 もと づく論文 ろんぶん や脳神経 のうしんけい 医学 いがく に基 もと づく論文 ろんぶん を引用 いんよう して、自身 じしん の精神 せいしん 分析 ぶんせき 学理 がくり 論 ろん の妥当 だとう 性 せい を主張 しゅちょう していたために、当時 とうじ としては科学 かがく 的 てき に見 み られる部分 ぶぶん もあったが、現代 げんだい の者 もの から見 み ればその多 おお くの点 てん が間違 まちが っていたり、全 まった く脳 のう 精神 せいしん 医学 いがく からの科学 かがく 的 てき 研究 けんきゅう の基礎 きそ が無 な いままに展開 てんかい されていた理論 りろん も多数 たすう であったと考 かんが えられている。その代表 だいひょう 例 れい としてはユングの無意識 むいしき 理論 りろん であり、あれはほとんど人文 じんぶん 学 がく の研究 けんきゅう に近 ちか いと言 い われており、脳 のう 科学 かがく からの検証 けんしょう は不可能 ふかのう である。ただしもちろん近年 きんねん に近 ちか づくにつれて精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく は脳 のう 精神 せいしん 医学 いがく の様々 さまざま な科学 かがく 的 てき 見地 けんち と歩調 ほちょう を合 あ わせながら理論 りろん を考 かんが えるようになっている。
精神 せいしん 分析 ぶんせき による人類 じんるい 学 がく ・民俗 みんぞく 学 がく 研究 けんきゅう への批判 ひはん
編集 へんしゅう
精神 せいしん 分析 ぶんせき を医学 いがく 以外 いがい の分野 ぶんや に応用 おうよう した際 さい に精神 せいしん 分析 ぶんせき の誤 あやま りが露呈 ろてい してしまう事 こと がある。
例 たと えばフロイト自身 じしん が『トーテムとタブー 』という宗教 しゅうきょう の起源 きげん を論 ろん じた本 ほん を書 か いたが、リヴァース [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] 、ボアズ 、クローバー 、マリノフスキー 、シュミット 、そしてレヴィ=ストロース といった人類 じんるい 学者 がくしゃ 達 いたる はこれを馬鹿 ばか げてると公言 こうげん してはばからなかったし、権威 けんい ある宗教 しゅうきょう 学者 がくしゃ エリアーデ によると、この本 ほん は研究 けんきゅう 書 しょ というよりも「手 て におえないゴシップ小説 しょうせつ 」で、書 か かれている事 こと も「気違 きちが いじみた仮説 かせつ 」にすぎないと断 だん じた(『オカルティズム・魔術 まじゅつ ・文化 ぶんか 流行 りゅうこう 』、ミルチア・エリアーデ)。また、フロイト自身 じしん もこの本 ほん で主張 しゅちょう したことが憶測 おくそく にすぎないことを自覚 じかく していた[3] 。
また精神 せいしん 分析 ぶんせき 学者 がくしゃ のエーリヒ・フロム やブルーノ・ベッテルハイム 等 ひとし は『赤 あか ずきん 』をはじめとしたメルヘン を読 よ んで精神 せいしん 分析 ぶんせき 的 てき 解釈 かいしゃく をし、民間 みんかん 伝承 でんしょう や民俗 みんぞく 学 がく に関 かん して様々 さまざま な考察 こうさつ をしたが、これらは間違 まちが ったものが多 おお かった。
なぜなら今日 きょう 知 し られている『赤 あか ずきん』の話 はなし の内容 ないよう の多 おお くはシャルル・ペロー が創作 そうさく したものであって歴史 れきし が浅 あさ いので、それを読 よ んでも民俗 みんぞく 学 がく 的 てき 知識 ちしき が得 え られるはずがなかったのである。例 たと えば『赤 あか ずきん』に出 で てくるずきんの赤 あか さをフロムは「月経 げっけい の血 ち 」、ベッテルハイムは「荒々 あらあら しい性的 せいてき 衝動 しょうどう 」と解釈 かいしゃく したが、ずきんを赤 あか くしたのはペローのアイデアであった。
また相互 そうご に矛盾 むじゅん した解釈 かいしゃく も多 おお く、『白雪姫 しらゆきひめ 』の中 なか で白雪姫 しらゆきひめ が逃 のが した狩人 かりゅうど はベッテルハイムによれば「エディプス期 き の少女 しょうじょ にとっての理想 りそう 的 てき な父親 ちちおや 像 ぞう 」であったが、ビルクボイザー によれば「女性 じょせい の心中 しんちゅうの にある男性 だんせい 的 てき 性質 せいしつ 」であったし、七 なな 人 にん の小人 こども はベッテルハイムによれば「白雪姫 しらゆきひめ という太陽 たいよう の回 まわ りをまわる七 なな つの惑星 わくせい 」であるが、ビルクボイザーによれば小人 こども 達 たち は「深 ふか みに隠 かく れた財宝 ざいほう (=王子 おうじ )を探 さが す創造 そうぞう 的 てき 行為 こうい 」の象徴 しょうちょう であった。
メルヘン学者 がくしゃ のロバート・ダーントン は彼 かれ らを批判 ひはん し、「精神 せいしん 分析 ぶんせき 学者 がくしゃ のフロム氏 し は存在 そんざい しない象徴 しょうちょう を超 ちょう 人的 じんてき な敏感 びんかん さで嗅 か ぎとって、架空 かくう の精神 せいしん 世界 せかい へ我々 われわれ を導 みちび こうとした」と述 の べた(参考 さんこう :鈴木 すずき 晶 あきら 『グリム童話 どうわ 』。ダーントンの言葉 ことば はこの本 ほん から引用 いんよう 。)。
さらに、フロイトの継承 けいしょう 者 しゃ を自称 じしょう し、ポストモダニズム の思想家 しそうか としても知 し られるジャック・ラカン は、数学 すうがく の概念 がいねん であるトポロジー を神経症 しんけいしょう と関連 かんれん づけ、また、虚数 きょすう と無理 むり 数 すう を混同 こんどう するなどした。このため、それらを全 まった くのデタラメであるとして、物理 ぶつり 学者 がくしゃ アラン・ソーカル から批判 ひはん された(ソーカル事件 じけん を参照 さんしょう )。
1980年 ねん 頃 ごろ にアメリカでは、催眠 さいみん などを用 もち いた回復 かいふく 記憶 きおく セラピーにより、偽 いつわ りの性的 せいてき 虐待 ぎゃくたい の記憶 きおく (虚偽 きょぎ 記憶 きおく /false memory )を植 う え付 つ けられ、家族 かぞく 関係 かんけい が崩壊 ほうかい し、それに加 くわ えて甚大 じんだい な精神 せいしん 的 てき 苦痛 くつう を受 う けたとして、多 おお くのセラピスト やカウンセラー が訴 うった えられ敗訴 はいそ した。
これは精神 せいしん 分析 ぶんせき への批判 ひはん というよりも、フロイト初期 しょき の理論 りろん を援用 えんよう した心理 しんり 療法 りょうほう への批判 ひはん である。しかし当時 とうじ においては実際 じっさい に多 おお くの人 ひと が記憶 きおく 回復 かいふく によって「性的 せいてき な虐待 ぎゃくたい をされた!」と親 おや を非難 ひなん したり、またそれによって家族 かぞく が崩壊 ほうかい するような事 こと が続発 ぞくはつ したため、精神 せいしん 分析 ぶんせき 自体 じたい に対 たい する批判 ひはん へとつながった。ただし法廷 ほうてい の中 なか と外 そと では、この記憶 きおく 戦争 せんそう (Memory War)に対 たい する評価 ひょうか は大 おお きく異 こと なっている(参照 さんしょう :過誤 かご 記憶 きおく )。
人文 じんぶん 学 がく 的 てき 一般 いっぱん 教養 きょうよう としての精神 せいしん 分析 ぶんせき
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臨床 りんしょう 療法 りょうほう としての精神 せいしん 分析 ぶんせき は、現在 げんざい では医学 いがく の世界 せかい では広 ひろ い支持 しじ を得 え ているとは言 い えない。
一方 いっぽう で、思想 しそう としての精神 せいしん 分析 ぶんせき 理論 りろん は主 おも に、精神 せいしん 医学 いがく の現状 げんじょう をキャッチアップできていない文化 ぶんか 系 けい の批評 ひひょう からは、未 いま だに引用 いんよう されている。
そのことに注目 ちゅうもく した現代 げんだい 哲学 てつがく 者 しゃ のミシェル・フーコー などは精神 せいしん 分析 ぶんせき を純粋 じゅんすい な学問 がくもん とはいえない一種 いっしゅ のリベラル・アート (liberal art=教養 きょうよう )のようなものと捉 とら えるべきだと主張 しゅちょう している。[要 よう 出典 しゅってん ]
科学 かがく 的 てき 心理 しんり 学 がく と精神 せいしん 分析 ぶんせき の統合 とうごう
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近年 きんねん においてはフロイトの創設 そうせつ した精神 せいしん 分析 ぶんせき もかなり装 よそお いを変 か え、かなり多量 たりょう に科学 かがく 的 てき な心理 しんり 学 がく や脳 のう 科学 かがく からの見地 けんち を取 と り入 い れている。精神 せいしん 分析 ぶんせき 学 がく ――特 とく にフロイトの考 かんが えた理論 りろん などはかなり非 ひ 科学 かがく 的 てき なものであり、個人 こじん 的 てき な主張 しゅちょう に変 か わらないとする部分 ぶぶん が大 おお きい。しかし現在 げんざい もその理論 りろん の有効 ゆうこう 性 せい は一部 いちぶ 受 う け入 い れられているのもある。その代表 だいひょう 例 れい が心的 しんてき 葛藤 かっとう や心的 しんてき 外傷 がいしょう などであり、これは臨床 りんしょう 心理 しんり 学 がく に大 おお きな見方 みかた をもたらした。
現在 げんざい の精神 せいしん 分析 ぶんせき はほぼ実験 じっけん 心理 しんり 学 がく と同 おな じような見地 けんち に近 ちか づきつつある。それは臨床 りんしょう の観察 かんさつ や経験 けいけん からデータを蓄積 ちくせき し、それを提示 ていじ するというものである。常 つね に検証 けんしょう 出来 でき るようにそのデータやそれから得 え られた一般 いっぱん 的 てき 見解 けんかい はいつでも反証 はんしょう できるようになっている。また精神 せいしん 分析 ぶんせき は基本 きほん 的 てき に臨床 りんしょう での経験 けいけん から得 え られた治癒 ちゆ 理論 りろん であるという点 てん で、基礎 きそ 概念 がいねん からなる理論 りろん の完全 かんぜん 性 せい のみを語 かた る哲学 てつがく などの人文 じんぶん 科学 かがく とは違 ちが う事 こと から、近年 きんねん では科学 かがく 的 てき な検証 けんしょう 態度 たいど を保 たも ちながらも、最 もっと も重要 じゅうよう な点 てん ――患者 かんじゃ を治療 ちりょう する事 こと が出来 でき る理論 りろん としてさらに研究 けんきゅう ・発展 はってん し続 つづ けている。
精神 せいしん 分析 ぶんせき 擁護 ようご 派 は の斎藤 さいとう 環 たまき は、「いまや精神 せいしん 分析 ぶんせき は、効果 こうか の疑 うたが わしい過去 かこ の治療 ちりょう 法 ほう として...緩慢 かんまん な死 し を迎 むか えつつある」と述 の べている。[4]
出典 しゅってん は列挙 れっきょ するだけでなく、脚注 きゃくちゅう などを用 もち いてどの記述 きじゅつ の情報 じょうほう 源 げん であるかを明記 めいき してください。記事 きじ の信頼 しんらい 性 せい 向上 こうじょう にご協力 きょうりょく をお願 ねが いいたします。(2015年 ねん 9月 がつ )
エリザベス・ロフタス &ケッチャム『抑圧 よくあつ された記憶 きおく の神話 しんわ :偽 いつわ りの性的 せいてき 虐待 ぎゃくたい の記憶 きおく をめぐって』仲 なか 真紀子 まきこ 訳 やく 、誠 まこと 信 しん 書房 しょぼう 、2000年 ねん 。ISBN 4414302900
北山 きたやま 修 おさむ 『精神 せいしん 分析 ぶんせき 理論 りろん と臨床 りんしょう 』誠 まこと 信 しん 書房 しょぼう 、2001年 ねん 。ISBN 441440200X
小此木 おこのぎ 啓吾 けいご 『現代 げんだい 精神 せいしん 分析 ぶんせき の基礎 きそ 理論 りろん (精神 せいしん 医学 いがく 叢書 そうしょ )』弘文 こうぶん 堂 どう 、1985年 ねん 。ISBN 433565054X
小此木 おこのぎ 啓吾 けいご 『精神 せいしん 分析 ぶんせき の成立 なりた ちと発展 はってん (精神 せいしん 医学 いがく 叢書 そうしょ )』弘文 こうぶん 堂 どう 、1985年 ねん 。ISBN 4335650531
Jonathan K. Shedler (2010). “The efficacy of psychodynamic psychotherapy,” American Psychologist , 65(2), pp. 98-109.
トリグベ・ブラトイ『精神 せいしん 分析 ぶんせき 技法 ぎほう の基礎 きそ (現代 げんだい 精神 せいしん 分析 ぶんせき 双書 そうしょ )』岩崎 いわさき 学術 がくじゅつ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1971年 ねん 。ASIN B000JA22DY
馬場 ばば 礼子 あやこ 『精神 せいしん 分析 ぶんせき 的 てき 心理 しんり 療法 りょうほう の実践 じっせん :クライエントに出会 であ う前 まえ に』岩崎 いわさき 学術 がくじゅつ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1999年 ねん 。ISBN 4753399060
ハンス・アイゼンク 『精神 せいしん 分析 ぶんせき に別 わか れを告 つ げよう:フロイト帝国 ていこく の衰退 すいたい と没落 ぼつらく 』批評社 ひひょうしゃ 、1998年 ねん 。ISBN 4826502281
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古川 ふるかわ 壽 ことぶき 亮 あきら 『エビデンス精神 せいしん 医療 いりょう :EBPの基礎 きそ から臨床 りんしょう まで』医学書院 いがくしょいん 、2000年 ねん 。ISBN 4260118498
ポール・リクール 『フロイトを読 よ む:解釈 かいしゃく 学 がく 試論 しろん 』新 しん 曜社、1982年 ねん 。ASIN B000J7QM0Q
ロルフ・デーゲン『フロイト先生 せんせい のウソ』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、2003年 ねん 。ISBN 4167651300
矢幡 やはた 洋 ひろし 『危 あぶ ない精神 せいしん 分析 ぶんせき :マインドハッカーたちの詐術 さじゅつ 』亜紀 あき 書房 しょぼう 、2003年 ねん 。ISBN 4750503045
^ "前身 ぜんしん は ... 国際 こくさい 精神 せいしん 分析 ぶんせき 学会 がっかい 仙台 せんだい 支部 しぶ と東京 とうきょう 支部 しぶ ... 日本 にっぽん 精神 せいしん 分析 ぶんせき 協会 きょうかい は、フロイトが創始 そうし した国際 こくさい 精神 せいしん 分析 ぶんせき 学会 がっかい に認定 にんてい されているわが国 くに 唯一 ゆいいつ の精神 せいしん 分析 ぶんせき 組織 そしき として活動 かつどう を続 つづ けています。" 日本 にっぽん 精神 せいしん 分析 ぶんせき 協会 きょうかい . 私 わたし たちについて . 日本 にっぽん 精神 せいしん 分析 ぶんせき 協会 きょうかい ホームページ. 2024-03-16閲覧 えつらん .
^ "本 ほん 学会 がっかい は設立 せつりつ 当初 とうしょ 、国際 こくさい 精神 せいしん 分析 ぶんせき 協会 きょうかい ... の日本 にっぽん 支部 しぶ の機能 きのう ももっていましたが、1980年代 ねんだい にこの日本 にっぽん 支部 しぶ は学会 がっかい から独立 どくりつ して日本 にっぽん 精神 せいしん 分析 ぶんせき 協会 きょうかい を組織 そしき しました。 ... 私 わたし たちの日本 にっぽん 精神 せいしん 分析 ぶんせき 学会 がっかい という学術 がくじゅつ 組織 そしき のあり方 かた は日本 にっぽん 独自 どくじ のものです。それは、精神 せいしん 分析 ぶんせき の考 かんが え方 かた を基盤 きばん として多様 たよう な臨床 りんしょう 活動 かつどう を実践 じっせん している臨床 りんしょう 家 か の集 あつ まりです。" 鈴木 すずき . (2024). 会長 かいちょう 挨拶 あいさつ . 日本 にっぽん 精神 せいしん 分析 ぶんせき 学会 がっかい ホームページ. 2024-03-16閲覧 えつらん .