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カール・グスタフ・ユング - Wikipedia

カール・グスタフ・ユング

スイスの精神せいしん心理しんり学者がくしゃ (1875–1961)

カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、1875ねん7がつ26にち - 1961ねん6月6にち)は、スイス精神せいしん心理しんり学者がくしゃブロイラー師事しじ深層しんそう心理しんりについて研究けんきゅう分析ぶんせき心理しんりがくユング心理しんりがく)を創始そうしした。

カール・グスタフ・ユング
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1875-07-26) 1875ねん7がつ26にち
スイスの旗 スイス トゥールガウしゅうケスヴィル
死没しぼつ 1961ねん6月6にち(1961-06-06)(85さいぼつ
スイスの旗 スイス チューリッヒキュスナハト
居住きょじゅう スイス
国籍こくせき スイスの旗 スイス
出身しゅっしんこう バーゼル大学だいがく
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 精神せいしん医学いがく心理しんりがく心理しんり療法りょうほう分析ぶんせき心理しんりがく
博士はかせ課程かてい指導しどう教員きょういん オイゲン・ブロイラー
おも業績ぎょうせき 分析ぶんせき心理しんりがく
影響えいきょうけた人物じんぶつ ジークムント・フロイトクラフト=エビングイマヌエル・カントゲーテアルトゥル・ショーペンハウアーフリードリヒ・ニーチェえきけいグノーシス主義しゅぎ錬金術れんきんじゅつヘルメス主義しゅぎ
影響えいきょうあたえた人物じんぶつ ニューエイジ精神せいしん分析ぶんせき
ヘルマン・ヘッセR・D・レインいくはら邦彦くにひこ村上むらかみ春樹はるき など
署名しょめい
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生涯しょうがい

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幼少ようしょう

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1875ねん、スイス、トゥールガウしゅうボーデンほとりのケスヴィルでプロテスタント改革かいかく牧師ぼくしいえドイツけい)にまれる[1]ちちパウル・ユングは教会きょうかい牧師ぼくしであった[2]母方ははかた祖父そふすぐれた神学しんがくしゃであり、ちちパウルの師匠ししょうでもあった[2]一方いっぽう父方ちちかた祖父そふカール・ユング(ユングと同姓どうせい同名どうめい)はすぐれた医師いしであり、ユングの母校ぼこうバーゼル大学だいがく学長がくちょうつとめた[2]。この祖父そふには、ゲーテ私生児しせいじだと伝説でんせつがあった[3]。ユングは、医学いがく宗教しゅうきょうがく家族かぞくてき背景はいけいっている[2]

少年しょうねんおのれ内面ないめんふか注意ちゅういけられ、ぜんあくかみ人間にんげんについての思索しさく没頭ぼっとうする。「生涯しょうがいわすれられないゆめ」を1879ねんまたは1880ねんられたとされる[4]

1886ねん、バーゼルの上級じょうきゅうギナジウムへかよう。かつて言語げんご研究けんきゅうしていたちちラテン語らてんご準備じゅんびをしてもらってから入学にゅうがくした[4]。この時期じきうちなる性格せいかくとしての「NO.2」があらわれる。またバーゼルだい聖堂せいどうかみ排泄はいせつするゆめる。さら母親ははおや示唆しさによって『ファウスト』が必読ひつどくしょとなる[4]。また『ファウスト』は後々あとあと衝動しょうどう無意識むいしき認識にんしき意味いみをテーマにあつかったとべている[5]

バーゼル大学だいがく時代じだい

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1895ねんバーゼル大学だいがく医学部いがくぶ入学にゅうがく学生がくせい時代じだいゲーテカントニーチェ著作ちょさく感銘かんめいけ、心理しんり学者がくしゃとしての著作ちょさくに、ゲーテの『ファウスト』やニーチェの『ツァラトゥストラはかくかたりき』への言及げんきゅうおおくみられる。内的ないてき基盤きばんたない形式けいしきてき信仰しんこうというものに疑問ぎもんかんじ、牧師ぼくしというしょくぐことをとくにはのぞまず、バーゼル大学だいがく医学いがくを、とくクラフト=エビング影響えいきょう精神せいしん医学いがくまなんだ[6]

1896ねんには父親ちちおやくなり、学費がくひはらうのが困難こんなんになり工面くめん苦労くろうする。卒業そつぎょうクリニックにつとめたのも資金しきんるためである側面そくめんもあるとされる[4]

ニーチェとの関係かんけい

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ユングが入学にゅうがくする15ねんほどまえにニーチェはバーセル大学だいがく講師こうしをしていた。ユングが入学にゅうがくしたときも、当時とうじ公務こうむ退しりぞいておりニーチェの先輩せんぱいであり友人ゆうじんでもあったブルクハルトによるニーチェの批判ひはんてき批評ひひょう筆頭ひっとうとして、哲学てつがく高尚こうしょう学生がくせいはニーチェにたいして批判ひはんてき議論ぎろんおこなっていたという。また、ニーチェの思想しそうをあまり理解りかいできていない学生がくせいないでもかつてのニーチェの所作しょさなどにかんしてうわさしていた[7]。そんななか、ユングは『ツァラトゥストラ』や『はん時代じだいてき考察こうさつ』に感銘かんめいける。No.2はツァラトゥストラがモデルとなったという[4]。またのちに「ニーチェによって近代きんだい心理しんりがくれる準備じゅんび」をしたとかたっている[5]。『無意識むいしき心理しんり』(1916) ではフロイトとアドラーとの分岐ぶんきてんをニーチェの「自己じこ保存ほぞん衝動しょうどうせい衝動しょうどうたいする)」として紹介しょうかいしている。さらには『心理しんりがくてき類型るいけい』(1921) ではニーチェの「アポロン」と「デュオニソス」がユングの類型るいけい連関れんかんしていると明記めいき。『心理しんりがく宗教しゅうきょう』(1940) では「かみんだ時代じだい」をろんじ、またニーチェの精神せいしん障害しょうがい無意識むいしきまれて分裂ぶんれつしょうてき自分じぶんをデュオニソスと署名しょめいした)になったという分析ぶんせきおこなっている。1934ねんから1939ねんにかけてはチューリッヒの心理しんりがくクラブにて英語えいごのゼミナールで『ニーチェのツァラトゥストラの心理しんりがくてき分析ぶんせき』をおこなっている。

ちょう心理しんりがく

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1895ねん従妹じゅうまいであるヘリーからくだれいじゅつ興味きょうみつ。そして後々あとあと論文ろんぶん「いわゆるオカルト現象げんしょう心理しんり病理びょうり 」に「S.W.じょう」としてヘリーをモデルとして執筆しっぴつしている。ただ論文ろんぶんでは親族しんぞくであるということをいんぺいするためか、1899ねんから翌年よくねん研究けんきゅうおこなわれたとしるしている。この時期じきカントの『あるれいしゃゆめ』もんでいる[4]

エービングの教科書きょうかしょ

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1899ねん10がつ国家こっか試験しけんそなえるためにリヒアルト・フォン・クラフト=エービングの精神せいしん医学いがく教科書きょうかしょ(1890)をんで、「自然しぜん精神せいしん衝突しょうとつ出来事できごとになる場所ばしょ」「対立たいりつうものの合一ごういつ」としての精神せいしん医学いがくから衝撃しょうげきける。当時とうじ絶望ぜつぼうとして認識にんしきしていたユングにとって「人格じんかくやまい」ととらえ「妄想もうそう観念かんねん幻覚げんかく精神病せいしんびょう特有とくゆう症状しょうじょうであるだけでなく、人間にんげんてき意味いみをもっているということをしめすことであった」という部分ぶぶん意味いみ見出みいだしたようだ[4]

1900ねん7がつにバーゼル大学だいがく卒業そつぎょうし、「ブルクヘルツリ」病院びょういんつとめることをめ、12月には義務ぎむである兵役へいえきとして初年しょねんへい学校がっこうき、アールガウで歩兵ほへいとしての訓練くんれんえてからつとめる。

バーゼルでは祖父そふあってのまごユングとしてられることがおおく、またははいもうとのしがらみもあり、バーゼルをせることはユングのよろこびでもあった[4]

「ブルクヘルツリ」時代じだい

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1901ねんからは、チューリヒ大学だいがく精神せいしんクリニックの「ブルクヘルツリ」でオイゲン・ブロイラーもと助手じょしゅつとめる。

オイゲン・ブロイラーは「ミュンヘンのエミール・クレペリンとならんでブロイラーはかれ専門せんもん分野ぶんやにおいては指針ししんあたえる代表だいひょうてき存在そんざい[4]であった。また1898ねんにオーグスト・アンリ・フォレル(1848-1931)から精神せいしん医学いがく教授きょうじゅいでおり、「フォレルの弟子でしとして精神せいしん分析ぶんせきをスイスに移住いじゅうしたブロイラーは、この発生はっせい途上とじょう仕事しごとと、それゆえフロイトのゆめ研究けんきゅうにもユングの注目ちゅうもくうながしたはず」[4]

ブロイラーは「人道じんどう主義しゅぎ親切しんせつさで患者かんじゃ感銘かんめいあたえた医者いしゃとして、またわか医者いしゃたちを完全かんぜん傾倒けいとうさせるまでにたきつけ、激励げきれいする教師きょうしとして称賛しょうさんされていた…人間にんげんとして価値かち剥奪はくだつされた患者かんじゃ人格じんかくとして尊敬そんけいする」[8]。また患者かんじゃたちとひと屋根やねなかむことや禁酒きんしゅさら私的してき自由じゆう区間くかんがほとんどないなか勤務きんむすることを戒律かいりつとしていた[8]

ユング自身じしん勤務きんむとおして「わたしたちが精神病せいしんびょう患者かんじゃ見出みいだすものは、なにひとつあたらしいもの、未知みちのものはない。むしろわたしたちは自分じぶん自身じしん存在そんざい基盤きばん出会であうのである。」[7]べている。ブロイラーとおなじく真摯しんし患者かんじゃうことをおこない、当時とうじの「んだ人格じんかくから疾患しっかんをいわば抽象ちゅうしょうし、診断しんだん症状しょうじょう記述きじゅつ統計とうけいりていた」[7]状況じょうきょうえようとしていた。また「人間にんげん精神せいしんがその自己じこ破壊はかい直面ちょくめんしたときにどのように反応はんのうするかをりたかった」[7]ともかたっている。

1902ねんにブロイラーのすすめで、学位がくい論文ろんぶんき、霊媒れいばい現象げんしょう考察こうさつした「いわゆるオカルト現象げんしょう心理しんり病理びょうり (Zur Psychologie und Pathologie sogenannter occulter Phänomene)」を執筆しっぴつ。「E・ブロイラー教授きょうじゅかく承認しょうにんて」とかれていて、まわりはオカルトてき側面そくめん批判ひはんするひともいたらしい一方いっぽう、ブロイラー教授きょうじゅはユングのその側面そくめんみとめていたとわれる[4]。また「遺伝いでんてきまけいんしゃにおける夢遊病むゆうびょういち症例しょうれい」、「ブルクヘルツリ病院びょういんだいいち助手じょしゅ」という記述きじゅつもある[8]

1902ねんあきから1903ねんにかけて、ブロイラーの信任しんにんてパリに留学りゅうがくする。かつてフロイトも留学りゅうがくしていた「力動りきどうてき精神せいしん医学いがくあたらしい体系たいけい最初さいしょ樹立じゅりつしゃ」ジャン・マルタン・シャルコーのもと改革かいかくされたサルペトリエール病院びょういんでおしていたこともあったピエール・ジャネ (1859–1947) のもと留学りゅうがくする。「ヒステリー」と「神経しんけい衰弱すいじゃく」という2つから出発しゅっぱつする視点してんのユングの類型るいけい影響えいきょうつながる。また留学りゅうがくしゅう出版しゅっぱんされたアルフレド・ビネ (1857–1911) の『知能ちのう実験じっけんてき研究けんきゅう』が出版しゅっぱんされ、その「内観ないかん」と「外観がいかん」という類型るいけいろんてきかぎ概念がいねんからくわしくあつかわれていたのも、のユングの「外交がいこうてきなヒステリー」と「内向ないこうてき分裂ぶんれつびょう」と類型るいけいろん影響えいきょうあたえる。また留学りゅうがくちゅう婦人ふじん帽子ぼうし制作せいさく職人しょくにんとなっていたヘリーにおどろき、パリのまちっている[4]

1905ねん言語げんご連想れんそうほう研究けんきゅうからみとめられ、医長いちょうになり、精神せいしん医学いがく教授きょうじゅ資格しかくをとり、さらにチューリッヒ大学だいがくわたし講師こうし学校がっこうからでなく生徒せいとからおかねをとるスタイル)になる[8]。1906ねんはやはつせい痴呆ちほう心理しんり」、1908ねんに「精神病せいしんびょう内容ないよう」とだいされた論文ろんぶん発表はっぴょう1909ねんには、大学だいがくはなれて個人こじん開業かいぎょう開始かいしする[9]

フロイトとの関係かんけい

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1900ねん赴任ふにんしたブロイラーの病院びょういんではゲマインザーメという一般いっぱん会議かいぎにおいて所長しょちょうのブロイラーが議長ぎちょうおこなっており、ちの患者かんじゃについてや論文ろんぶんについての議論ぎろんもなされたようである。そこでユングは、ちょうど出版しゅっぱんされたばかりのジークムント・フロイトの『ゆめ判断はんだん』にかんするレポートをまかされた[4]ユングはこのほんからつよ影響えいきょうけ、フロイトの熱烈ねつれつ信奉しんぽうしゃとなる[よう出典しゅってん][ちゅう 1]。1906ねんには被験者ひけんしゃいちぐん単語たんごあたえ、患者かんじゃ最初さいしょあたまかんだ言葉ことばこたえるまでにかかった時間じかん正確せいかく計測けいそくする実験じっけんおこない、フロイトの自由じゆう連想れんそう理論りろん裏付うらづける実験じっけんてき証拠しょうこ提供ていきょうした。フロイトに論文ろんぶんしゅうおくり、文通ぶんつうがはじまる。精神せいしん分析ぶんせき伝導でんどうしゃであることを明言めいげん、1906ねんにははやくも、「ブロイラーもいまや完全かんぜん精神せいしん分析ぶんせき改宗かいしゅうしました。」と報告ほうこくした[11]1907ねんはじめて対面たいめんし、親交しんこうふかめる[10][12]

生理学せいりがくてき知識欲ちしきよくたしてくれる医学いがくや、歴史れきしがくてき知識欲ちしきよくたしてくれる考古学こうこがく興味きょうみいだき、友人ゆうじん活発かっぱつ議論ぎろんわし、やがて人間にんげん心理しんり科学かがく接点せってんとしての心理しんりがくみちさだめた。精神せいしん疾患しっかん人々ひとびと治療ちりょうにあたるとともに疾患しっかん研究けんきゅうすすめ、とく当時とうじ不治ふじやまいとされた分裂ぶんれつびょう統合とうごう失調しっちょうしょう)の解明かいめい治療ちりょう一定いってい光明こうみょうをもたらした。ヒステリー患者かんじゃ治療ちりょう無意識むいしき解明かいめいちからそそいでいたフロイトを信奉しんぽうし、精神せいしん分析ぶんせき伝道でんどうしゃとして振舞ふるまう。フロイトはユングをみずからの後継こうけいしゃしていた。1909ねんにはマサチューセッツしゅうのクラーク大学だいがく講演こうえんするフロイトに同行どうこう渡米とべい自身じしん講演こうえんした。

1911ねんには国際こくさい精神せいしん分析ぶんせき協会きょうかい設立せつりつし、その初代しょだい会長かいちょうになる。フロイトでなくユングなのは、ユダヤじん以外いがい会長かいちょうえら目的もくてきがあったためである[13]

ところが、フロイトとはべつ神話しんわ研究けんきゅうはげむユングは、次第しだいにフロイトとの理論りろんてきちがいをひょうはじめ、1914ねんには国際こくさい精神せいしん分析ぶんせき協会きょうかいして、フロイトらとたもとかつことになり[14]、チューリヒ大学だいがく医学部いがくぶわたし講師こうししょく辞任じにんした[15]。フロイトと決別けつべつしたのち、ユング自身じしんが「方向ほうこう喪失そうしつ状態じょうたい」と異常いじょう心理しんり状態じょうたいおちい[16]。この状態じょうたい精神病せいしんびょうすれすれの危機ききてき状態じょうたいであり、『自伝じでん』のなかで、洪水こうずいおそわれてきたヨーロッパ全体ぜんたいうみおおわれる幻覚げんかくたり、死者ししゃたちの亡霊ぼうれい自宅じたくなかいちはいになる感覚かんかくなどを体験たいけんしたことがあきらかにされている[17]

フロイトと親交しんこうむすぶ3ねんまえの1904ねん勤務きんむさきのチューリヒ大学だいがく入院にゅういんしてきた患者かんじゃザビーナ・シュピールライン治療ちりょうとおしてしたしくなり、不倫ふりん関係かんけいとなった。ザビーナはユングとわかれたのちにフロイトに師事しじし、精神せいしん分析ぶんせきとなる[18]

精神せいしん分析ぶんせき運動うんどうからはないちにん研究けんきゅうすすめ、1916ねんには石油せきゆおうジョン・ロックフェラーよんじょイーディス・ロックフェラー・マコーミック(en, 1872ねん - 1932ねん)の助力じょりょくで「心理しんりがくクラブ」を設立せつりつして、分析ぶんせき心理しんりがく確立かくりつつとめる[19]。このクラブには、ヘルマン・ヘッセおとずれている[20]。このマコーミック夫人ふじんえんジェイムス・ジョイスり、『ユリシーズ』の批評ひひょういている[21]

1922ねんにはスイスのボーリンゲン土地とちて、とう建設けんせつ開始かいしする[22]。このとうかわら職人しょくにんおそわったやりかたつくられており、この作業さぎょうによって自身じしん精神せいしんてき不調ふちょう安定あんていしたとしている。

1921ねんには代表だいひょうさく心理しんりがくてき類型るいけい』(『タイプろん』『もとかたろん』とも)を公開こうかいする。

1928ねん、ユングはリヒャルト・ヴィルヘルムによる中国ちゅうごく道教どうきょう錬金術れんきんじゅつドイツ語どいつごやく入手にゅうしゅし、曼荼羅まんだら夢中むちゅうになる。これにコメントをけて、1929ねんに『黄金おうごんはな秘密ひみつ』というタイトルで出版しゅっぱんした[23]。ユングは、精神せいしんてき不調ふちょう回復かいふくにあって、曼荼羅まんだらえがかれるような幾何きかがく模様もようえがくことがおおくなり、そのおり、チベットのふつそうえが曼荼羅まんだら自分じぶんとの偶然ぐうぜん一致いっち感嘆かんたんし、ここに意味いみ見出みいだした。

 
ユング研究所けんきゅうじょ

1948ねん共同きょうどう研究けんきゅうしゃ後継こうけいしゃたちとともに、スイス・チューリッヒにユング研究所けんきゅうじょ設立せつりつし、ユング臨床りんしょう心理しんりがく基礎きそ伝統でんとう確立かくりつした。また1933ねんからは、アスコナエラノス会議かいぎにおいて、主導しゅどうてき役割やくわりえんじることで、深層しんそう心理しんりがく神話しんわがく宗教しゅうきょうがく哲学てつがくなど多様たよう分野ぶんや専門せんもん思想家しそうか学際がくさいてき交流こうりゅう研究けんきゅうひらいた。開催かいさいをしたオルガ・フレーベ・カプタインは、ユングにつよ協力きょうりょくもとめ、ユングが参加さんかできない場合ばあい廃止はいしさないかまえであった[24]。これには1951ねんまで出席しゅっせきする[25]。ここで、鈴木すずき大拙だいせつミルチャ・エリアーデハーバート・リードらと親交しんこうむすぶ。

1946ねんに『転移てんい心理しんりがく』、1951ねんに『アイオーン』、1955ねん1956ねんには『結合けつごう神秘しんぴ』のだい1かんだい2かん出版しゅっぱんされている。これらは、70さいぎての著作ちょさくであった[26]

1961ねん6月6にち逝去せいきょチューリッヒしゅうのキュスナハト改革かいかく教会きょうかいほうむられた。スイスでは晩年ばんねんのユングは気味悪きみわるがられたが、世界せかいてき精神病せいしんびょう理解りかいにはいちせきとうじるものとして価値かちづけられている。

直前ちょくぜんまで、ユング唯一ゆいいつ一般いっぱん著書ちょしょ人間にんげん象徴しょうちょう英語えいごばん』をマリー=ルイーズ・フォン・フランツジョゼフ・ヘンダーソンアニエラ・ヤッフェヨランド・ヤコビーの4にん分担ぶんたんして英語えいご執筆しっぴつし、ユング自身じしん担当たんとうするだい1しょう10日とおかまええた[27]

著作ちょさく大半たいはんは、下記かきのようにドイツでなされた。

ユング心理しんりがく変遷へんせん

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精神せいしんであったユングは、ピエール・ジャネウィリアム・ジェームズらの理論りろんもとにした心理しんり理論りろん模索もさくしていた。フロイトの精神せいしん分析ぶんせきがく理論りろん自説じせつとの共通きょうつうてん見出みいだしたユングはフロイトに接近せっきんし、一時期いちじき蜜月みつげつ状態じょうたい(1906ねん - 1913ねん)となるが、徐々じょじょ方向ほうこうせいちがいから距離きょりくようになる。

ユングがそのキャリアの前半ぜんはんにおいて発表はっぴょうした「連想れんそう実験じっけん」は、フロイトの「自由じゆう連想れんそうほう応用おうようして、言葉ことば錯誤さくご応答おうとう時間じかんずれとう計測けいそくし、無意識むいしきコンプレックス存在そんざい客観きゃっかんてきかたちにしたということで、科学かがくてき価値かちち、フロイトもそのためにはじめはよろこんでユングをむかれた。両者りょうしゃはじめての邂逅かいこうにおいてわされた対談たいだんは10あいだし、以後いご両者りょうしゃたがいにしたしく手紙てがみ近況きんきょう抱負ほうふ意見いけんつたえあい、フロイトはユングをみずからの後継こうけいしゃしていた。しかしすうねん交流こうりゅうのうちに、両者りょうしゃ志向しこうせいちがいが次第しだいりになってきた。フロイトはかみろん支持しじしたが、ユングはかみ存在そんざいかんする判断はんだんには保留ほりゅうもうけた。またユングはフロイトとアルフレッド・アドラー心理しんりがく比較ひかく吟味ぎんみし、両者りょうしゃ心理しんりがく双方そうほう心性しんせい反映はんえいであるとし、外的がいてき対象たいしょう必要ひつようとする「せい」をかかげるフロイトは「外向がいこうてき」、自身じしん関心かんしん集中しゅうちゅうする「権力けんりょく」に言及げんきゅうするアドラーは「内向ないこうてき」であるといった考察こうさつをし、べつ視点してんからの判断はんだん考慮こうりょれた。

ユングは歴史れきし宗教しゅうきょうにも関心かんしんけるようになり、やがてフロイトが「リビドー」をすべて「せい」に還元かんげんすることに異議いぎとなえ、はるかに広大こうだい意味いみをもつものとして「リビドー」をさい定義ていぎし、ついに決別けつべつすることとなった[ちゅう 2]。ユングはのちに、フロイトのう「無意識むいしき」は個人こじん意識いしき抑圧よくあつされた内容ないようの「ごみじょう」のようなものであるが、自分じぶん無意識むいしきとは「人類じんるい歴史れきしねむ宝庫ほうこ」のようなものである、とたとえている。

ユングの患者かんじゃであった精神せいしん疾患しっかんしゃらのかたるイメージに不思議ふしぎ共通きょうつうてんがあること、またそれらは、世界せかい各地かくち神話しんわ伝承でんしょうとも一致いっちするてんおおいことを見出みいだしたユングは、人間にんげん無意識むいしき奧底おくそこには人類じんるい共通きょうつう素地そじ集合しゅうごうてき無意識むいしき)が存在そんざいするとかんがえ、この共通きょうつうするイメージを想起そうきさせる力動りきどうを「もとかた」と名付なづけた。また、晩年ばんねん物理ぶつり学者がくしゃウォルフガング・パウリとともにともせいシンクロニシティ意味いみのある偶然ぐうぜん一致いっち)にかんする共著きょうちょ発表はっぴょうした。

ユング心理しんりがく特徴とくちょう

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ユング心理しんりがく分析ぶんせき心理しんりがく)は個人こじん意識いしき無意識むいしき分析ぶんせきをするてんではフロイトの精神せいしん分析ぶんせきがく共通きょうつうしているが、個人こじんてき無意識むいしきにとどまらず、個人こじん人類じんるい共通きょうつうして存在そんざいしているとされる集合しゅうごうてき無意識むいしき普遍ふへんてき無意識むいしき)を視野しやれた分析ぶんせきふくまれる。ユング心理しんりがくによる心理しんり療法りょうほうでは能動のうどうてき想像そうぞうほう英語えいごばんおこなわれる場合ばあいもある。能動のうどうてき想像そうぞうほう文字通もじどお意識いしきてき無意識むいしきのイメージをげる手法しゅほうである。現在げんざい能動のうどうてき想像そうぞうほうは,心理しんり療法りょうほう訓練くんれん研修けんしゅうのための有効ゆうこうせいみとめられているが、その臨床りんしょう応用おうようたいしては慎重しんちょう立場たちばをとるものおお[28]

また、ユング心理しんりがくは、他派たはよりも心理しんり臨床りんしょうにおいてゆめ分析ぶんせき重視じゅうししている。ゆめ集合しゅうごうてき無意識むいしきとしての「もとかたイメージが日常にちじょうてき表出ひょうしゅつしている現象げんしょう[29]でもあり、また個人こじんてき無意識むいしき発露はつろでもあるとされる。

ゆめ分析ぶんせきフロイトすで重視じゅうししていたことであった。しかしユング心理しんりがくゆめ解釈かいしゃくがフロイトの精神せいしん分析ぶんせきことなるてんは、無意識むいしき一方いっぽうてき杓子定規しゃくしじょうぎ解釈かいしゃくするのではなく、クライアントセラピスト対等たいとう立場たちばゆめについてはない、その多義たぎてき意味いみ目的もくてきかんがえることによって、クライアントのしんなかこっていることを治癒ちゆてきかそうとするてんにある。

ユングはフロイトとの決別けつべつ以後いご[ちゅう 3]みずからの無意識むいしきからもとかたてきイメージと真摯しんし対峙たいじしながらも患者かんじゃへの治療ちりょうつづけた。これらもとかたてきイメージは統合とうごう失調しっちょうしょう患者かんじゃのイメージにおいても同様どうようなパターンがられるため、ユングは統合とうごう失調しっちょうしょう患者かんじゃであり、オカルティストであるという誤解ごかいけることもある。しかしその時期じきにおいても、ユングが医師いしとして患者かんじゃへの治療ちりょうおこない、おおくの患者かんじゃやし、現実げんじつみちびいていたことはユング心理しんりがく理解りかいうえ重要じゅうようなことである。

ユングは人間にんげんしん成長せいちょう過程かていを「個性こせい過程かてい」とび、健常けんじょうしゃ統合とうごう失調しっちょう患者かんじゃふくめたすべての人間にんげん経験けいけんするものとした。したがってセラピー(心理しんり療法りょうほう)が終了しゅうりょうしても、人間にんげん個性こせい過程かてい継続けいぞくする。ユングのセラピーでは、セラピー終了しゅうりょうもクライアントをサポートするためにカウンセリングを継続けいぞくする場合ばあいもあり、この場合ばあいのセラピーを、「個性こせい」と場合ばあいがある。ただし、これは心理しんり療法りょうほう同様どうよう、クライエントの「かた」に介入かいにゅうしたり指示しじあたえたりするものではないし、いたずらにセラピーを長引ながびかせるためのものでもない。

また、日本にっぽんにおいてユング心理しんりがく隆盛りゅうせいきわめたのは、その心理しんり臨床りんしょうにおいて箱庭はこにわ療法りょうほう積極せっきょくてきれ、おおくの著書ちょしょ発表はっぴょうした河合かわい隼雄はやお影響えいきょうおおきい。

ナチズムやはんユダヤ主義しゅぎ勃興ぼっこうたいする姿勢しせい

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ナチス政権せいけんった1933ねん、ドイツ精神療法せいしんりょうほう学会がっかい改編かいへんされることになりヒトラー反対はんたいしたユダヤじんエルンスト・クレッチマーがその会長かいちょう辞任じにんあらたに設立せつりつされた国際こくさい精神療法せいしんりょうほう学会がっかい会長かいちょうにユングが就任しゅうにんした[30]。そのためユングはナチスに加担かたんしてクレッチマーをとしたと一部いちぶわれた[ちゅう 4]のちにユングは精神療法せいしんりょうほうという学問がくもん分野ぶんやまもりたかったのでユダヤじんである自分じぶん会長かいちょうしょくけたとべている。実際じっさいナチスからの影響えいきょうのがれるために国際こくさい精神療法せいしんりょうほう学会がっかい本部ほんぶスイスチューリッヒうつし、ドイツ国内こくない身分みぶん剥奪はくだつされたユダヤじん医師いし国際こくさい学会がっかいれ、学会がっかいにユダヤじん学者がくしゃ論文ろんぶん掲載けいさいされるようにはかってもいる。ユングはユダヤけいフロイトにも支援しえん意図いとについて打診だしん[ちゅう 5]しており、長年ながねんにわたってユングの秘書ひしょつとめたユダヤじんのアニエラ・ヤッフェによれば、「ナチスへの対応たいおうにはあまいところがあった」が、ユングはナチスのはんユダヤじん政策せいさくには明確めいかく反対はんたいし、ユダヤじんのドイツ脱出だっしゅつ支援しえん活動かつどうにも関与かんよしていたとのこと[31][32]

ユングとちょう心理しんりがく

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ユングはその学位がくい論文ろんぶん『いわゆるオカルトてき現象げんしょう心理しんり病理びょうり』において、従妹じゅうまいヘレーネ・プライスヴェルクを「霊媒れいばい」としてひらかれた「交霊こうれいかい」をあつかったこと(ただしこの論文ろんぶんでは神秘しんぴてき要因よういんではなく精神せいしん病理びょうりてき状態じょうたいされている)、また錬金術れんきんじゅつ占星術せんせいじゅつ中国ちゅうごくえきなどにふかくコミットしたことにより、オカルト主義しゅぎてき傾向けいこうられ、またしん異教いきょう主義しゅぎてき人々ひとびとからその預言よげんしゃとみなされる傾向けいこうがある。これにはおそらく母方ははかたのプライスヴェルクれいのうしゃ家系かけいとして著名ちょめいだった出自しゅつじ影響えいきょうしているとおもわれる。また「集合しゅうごうてき無意識むいしき」や「もとかた」などの一般いっぱん生物せいぶつがく知見ちけんとは相容あいいれない概念がいねん提起ていきすることによって、20世紀せいき科学かがくから離脱りだつして19世紀せいき自然しぜん哲学てつがく逆戻ぎゃくもどりしてしまったという批判ひはんがある[33]。またフロイトもユングとまだ訣別けつべつするまえに、「オカルティズム」を拒絶きょぜつするようつよもとめた[34]

一方いっぽうで、ユング自身じしんは、ゆめられるもとかたかんして、遺伝いでん関連かんれんづけて言及げんきゅうしていたくだりがある(『分析ぶんせき心理しんりがく』)。無意識むいしきたくわえられている遺伝いでん情報じょうほう莫大ばくだいであり、ひと心性しんせいがそれを基礎きそにしているからには、そのすものも、その起源きげんをはるか過去かこさかのぼることができるとする解釈かいしゃく可能かのうであり、遺伝いでん情報じょうほうない大量たいりょう経験けいけんデータのなかには、ひと平均へいきんしておとずれる体験たいけん体系たいけいふくまれているとかんがえた場合ばあいもとかた普遍ふへんせい説明せつめいできるであろう。また、そうした無意識むいしき内容ないよう傾向けいこう、というユングの説明せつめい付与ふよは、人間にんげん普遍ふへんてき基盤きばん立脚りっきゃくしながらも、けっして固定こていされた構造こうぞうではなく(これが生物せいぶつがくてき本能ほんのうにしばられた動物どうぶつちがてんである)、変化へんか可能かのうせいめていることを示唆しさしている。無意識むいしき意識いしき調停ちょうてい作業さぎょうはユングのう「個体こたい」に結実けつじつする。

ただし19世紀せいきまつから20世紀せいき初頭しょとう状況じょうきょうは、一方いっぽうでは精神せいしん医学いがくきわめて機能きのう主義しゅぎてきとらえることのみが科学かがくてきであり「しん治癒ちゆ」といったものをかたることは出来できないというながれがあった一方いっぽうで、アカデミズム以外いがいでオカルティズムのだい流行りゅうこうがあったのみならず、ウィリアム・ジェームズのような学者がくしゃ心霊しんれい主義しゅぎ実験じっけんすなど、しん問題もんだいかんするアプローチは現在げんざい以上いじょうさだまらないところもあった[35]。こうした問題もんだいかんしてユングに批判ひはんてきであったフロイトも、そもそもせい理論りろんてるのはオカルトの「くろ奔流ほんりゅう」にたいする「堅固けんご城塞じょうさい」をきずかねばならないからだという動機どうきくちにしており[7]、こうした問題もんだいかならずしも安定あんていした姿勢しせいのぞんでばかりいたわけではなかった。またユング自身じしんはきわめて厳格げんかく学問がくもんてき方法ほうほうろん意識いしきして研究けんきゅうすすめていたという主張しゅちょうもあり[36]、こうしたてんについて決定的けっていてき評価ひょうかくだすことはまだむずかしいといえる。

著作ちょさく

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ユングの著作ちょさくは、『ユング全集ぜんしゅう』にほぼすべての重要じゅうよう論文ろんぶん単行本たんこうぼんふくむ)が網羅もうらされている。ぜん20かん構成こうせいとなっている。ドイツにおいて『Gesammelte Werke von C. G. Jung』 (Walter Verlag) として出版しゅっぱんされている(「GW」 とりゃくする)。英語えいごはんは、ユングの監修かんしゅうもと翻訳ほんやくおこなわれている(『 The Collected Works of C. G. Jung 』)。 代表だいひょうてき著作ちょさくとしては、以下いかのものがある。

  • 転換てんかんのシンボル』 Symbole der Wandlung, 1912, /1950, GW Bd.5.
  • 心理しんりがくてき類型るいけい』 Psychologische Typen, 1921/1950, GW Bd.6.
  • 心理しんりがく宗教しゅうきょう』 Psychologie und Religion, 1940/1962 (GW Bd.11).
  • 『アイオーン』 Aion, 1950, GW Bd.5-2.
  • 心理しんりがく錬金術れんきんじゅつ』 Psychologie und Alchemie, 1944/1952, GW Bd.12.
  • 『ヨブへのこたえ』 Antworf auf Hiob, 1952/1967 (GW Bd.11).
  • 結合けつごう神秘しんぴ』 Mysterium Coniunctionis, 1955/1956, GW Bd.14.

ユングが登場とうじょうするフィクション

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映画えいが
テレビドラマ
コンピュータゲーム
小説しょうせつ

親族しんぞく

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  • 父方ちちかた祖父そふであるフランツ・イグナツ (1759–1831) はナポレオン戦争せんそうのとき、野戦やせん医師いしつとめ、マンハイムにうつる。そのさい、マンハイム劇場げきじょうちかくで、ゲーテをおおくの詩人しじん交友こうゆう後妻ごさいとなるゾフィー・ツィーグラーも詩人しじんらと交友こうゆうしていてゲーテ関係かんけい私生児しせいじとしてユングの祖父そふであるC.G.ユングをんだという伝説でんせつがある[4]
  • 父方ちちかた祖父そふであるC.G.ユング(1794–1864:ユングと同名どうめい)はハイデルベルク医学いがく勉強べんきょう。そのさい、ベルリンの神学しんがくしゃフリードリッヒ・ダニエル・エルンスト・シュライエルマッハーの影響えいきょうからカトリックからプロテスタントに改宗かいしゅうされる。1817ねんドイツ統一とういつのためのデモに参加さんか投獄とうごく時代じだいのパラダイムとしてはナポレオンのくびきをとし統一とういつドイツにつながる1848ねん革命かくめい「フォアメルツ」につながる)。その、パリにアレクサンダー・フォン・フンボルト (1769–1859) といになり、スイスのバーゼル大学だいがく紹介しょうかいされ後々あとあとには教授きょうじゅとなりさらには総長そうちょうになる。また1848ねん肖像しょうぞういまもバーゼル大学だいがくむかし玄関げんかんにかかっている[4]市民しみん病院びょういん拡大かくだいさせ、精神せいしん薄弱はくじゃくたちのいえ希望きぼう施設しせつ (Anstalt der Hoffnung)」をつくる。またバーゼル市長しちょうむすめゾフィー・フライとさん度目どめ結婚けっこんをしちちパウルを出産しゅっさん
  • ちちのパウルはアラビアかんする研究けんきゅう哲学てつがく博士はかせるが、経済けいざいてき理由りゆう教授きょうじゅになるみち断念だんねんボスヴィル牧師ぼくしになる。この側面そくめんがニーチェをれる準備じゅんびとなる[4]
  • 母方ははかた祖父そふであるザムエル・プライスヴェルク (1799–1871) はバーゼルのレオンハルト教区きょうく説教せっきょう改革かいかく牧師ぼくし仲間なかまではいわゆるアンティスティス(牧師ぼくしちょう)としてかよっていてた。ヘブライわたし講師こうしとして学位がくいており、アメリカにまで普及ふきゅうしたヘブライ文法ぶんぽうしょ著者ちょしゃなされていた。かれによって発刊はっかんされていた月刊げっかん雑誌ざっし『モルゲンラント(あさくに)』でかれは、ユダヤじんがパレスチナにふたた定住ていじゅうすることにたいして関心かんしんがあること公言こうげんした(シオニズムに先駆さきがける発言はつげん[4]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ゆめ判断はんだん』にれた当初とうしょとく影響えいきょうがなかったというせつもある[10]
  2. ^ ユングちょ「リビドーの変容へんよう象徴しょうちょう」(1912)にフロイトは難色なんしょくしめしたが、ユングは学問がくもんてき視野しや拡大かくだいをはかる意味合いみあいを著書ちょしょたせていた。
  3. ^ 1906ねん4がつから1913ねん訣別けつべつまで、やく360つう書簡しょかんが、『フロイト=ユンク往復おうふく書簡しょかん』(うえした金森かなもりまこと也訳、講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2007ねん)でやくされている。
  4. ^ ナチスが国際こくさい精神療法せいしんりょうほう学会がっかい干渉かんしょうして、ナチスへの忠誠ちゅうせいちかマニフェスト学会がっかい掲載けいさいされたために、会長かいちょうのユングは非難ひなんされた。ユングは反論はんろんしたが、非難ひなん意見いけん現在げんざい存在そんざいする。
  5. ^ ただし、これにかんしてはフロイトに「てき援助えんじょけることは出来できない」とこばまれている。

出典しゅってん

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  1. ^ 山中さんちゅう 2001, p. 12.
  2. ^ a b c d 篠原しのはら道夫みちおゆめ分析ぶんせき能動のうどうてき想像そうぞうほう箱庭はこにわ療法りょうほう分析ぶんせき心理しんりがく臨床りんしょう」『東洋とうよう英和えいわ女学院じょがくいん大学だいがく人文じんぶん社会しゃかい科学かがく論集ろんしゅうだい26かん東洋とうよう英和えいわ女学院じょがくいん大学だいがく、2009ねん、36ぺーじ 
  3. ^ ヴェーア 1994, p. 13.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q ゲルハルト・ヴェーア(わけ村本むらもとみことのり (1994). ユングでん. そうもとしゃ 
  5. ^ a b ユング(わけ高橋たかはし義孝よしたか (1977) [1916]. 無意識むいしき心理しんり. 人文書院じんぶんしょいん 
  6. ^ 山中さんちゅう 2001, p. 34.
  7. ^ a b c d e 『ユング自伝じでん』。[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  8. ^ a b c d ゲルハルト・ヴェーア(わけ安田やすだ一郎いちろう (1996-09-10). C・G・ユング 記録きろくでたどるひと思想しそう. 青土おうづちしゃ 
  9. ^ 山中さんちゅう 2001, p. 35.
  10. ^ a b ヴェーア 1994, p. 80.
  11. ^ ゲイ 1997, p. 232〜235.
  12. ^ 山中さんちゅう 2001, p. 38.
  13. ^ ヴェーア 1994, p. 107.
  14. ^ ヴェーア 1994, p. 131.
  15. ^ ヴェーア 1994, p. 138.
  16. ^ 篠原しのはら道夫みちおゆめ分析ぶんせき能動のうどうてき想像そうぞうほう箱庭はこにわ療法りょうほう分析ぶんせき心理しんりがく臨床りんしょう」『東洋とうよう英和えいわ女学院じょがくいん大学だいがく人文じんぶん社会しゃかい科学かがく論集ろんしゅうだい26かん東洋とうよう英和えいわ女学院じょがくいん大学だいがく、2009ねん、33--34ぺーじ 
  17. ^ 篠原しのはら道夫みちおゆめ分析ぶんせき能動のうどうてき想像そうぞうほう箱庭はこにわ療法りょうほう分析ぶんせき心理しんりがく臨床りんしょう」『東洋とうよう英和えいわ女学院じょがくいん大学だいがく人文じんぶん社会しゃかい科学かがく論集ろんしゅうだい26かん東洋とうよう英和えいわ女学院じょがくいん大学だいがく、2009ねん、33--34ぺーじ 
  18. ^ ザビーネ・リッヒェベッヒャー ちょ田中たなかひかる やく『ザビーナ・シュピールラインの悲劇ひげき岩波書店いわなみしょてん、2009ねん [ようページ番号ばんごう]
  19. ^ ヴェーア 1994, p. 189.
  20. ^ 河合かわい 1994, p. 137.
  21. ^ 河合かわい 1994, pp. 137–139.
  22. ^ ヴェーア 1994, p. 185.
  23. ^ 河合かわい 1994, pp. 111–112.
  24. ^ 河合かわい 1994, pp. 148–150.
  25. ^ ヴェーア 1994, p. 224.
  26. ^ 河合かわい 1994, pp. 180–181.
  27. ^ C.G.ユング ちょ河合かわい隼雄はやお監訳かんやく やく人間にんげん象徴しょうちょうじょう河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1975ねん。"序文じょぶん"。 
  28. ^ 篠原しのはら道夫みちおゆめ分析ぶんせき能動のうどうてき想像そうぞうほう箱庭はこにわ療法りょうほう分析ぶんせき心理しんりがく臨床りんしょう」『東洋とうよう英和えいわ女学院じょがくいん大学だいがく人文じんぶん社会しゃかい科学かがく論集ろんしゅうだい26かん東洋とうよう英和えいわ女学院じょがくいん大学だいがく、2009ねん、40ぺーじ 
  29. ^ 湯浅ゆあさたけしおとこ面白おもしろいほどよくわかる現代げんだい思想しそうのすべて』日本文芸社にほんぶんげいしゃ学校がっこうおしえない教科書きょうかしょ〉、2003ねん1がつ、29ぺーじISBN 453725131X 
  30. ^ エレンベルガー 1980b, p. 308.
  31. ^ 河合かわい隼雄はやお『ユングの生涯しょうがいだいさん文明ぶんめいしゃレグルス文庫ぶんこ100、1978ねん、pp.52-56。
  32. ^ 平田ひらたたけやすし「ユンク心理しんりがく系譜けいふ -ユンク・ナチス・ユダヤじん-」『is No.1』ポーラ文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1978ねん
  33. ^ ノル 1998, pp. 201–202, 382–383, 415–417.
  34. ^ ユング 1972a, p. 127.
  35. ^ 上山うえやま 1989, pp. 483, 488–491.
  36. ^ はやし道義みちよし 『ユング思想しそう真髄しんずい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1998ねん[ようページ番号ばんごう]

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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