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[[東京学芸大学附属世田谷小学校|東京府青山師範学校附属小学校]]を経て[[お茶の水女子大学附属高等学校|東京女子高等師範学校附属高等女学校]]を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=時代を拓いた女たち かながわの111人 第Ⅱ編 |date=2011-06-30 |publisher=神奈川新聞社 |pages=206-207 |isbn=978-4-87645-475-4}}</ref>、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた[[明治大学短期大学|明治大学専門部女子部法科]]に入学した。[[1935年]]、[[明治大学大学院法学研究科・法学部|明治大学法学部]]に入学<ref name="meiji">{{Cite book|和書|editor=明治大学史資料センター|title=明治大学小史 人物編|publisher=[[学文社]]|date=2011-11|page=87|id={{NDLBibID|000011306829}}|isbn=978-4-7620-2217-3|ncid=BB02021738|oclc=759808114|asin=4762022179}}</ref>。[[1938年]]に同大学を卒業し<ref>{{Cite web |author=村上一博|url=https://www.meiji.ac.jp/history/meidai_sanmyaku/thema/article/mkmht0000002myit.html |title=三淵嘉子(みぶちよしこ)—NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官— |website=明治大学史資料センター |publisher=明治大学 |language=ja |date=2023-03 |accessdate=2024-02-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231011100404/https://www.meiji.ac.jp/history/meidai_sanmyaku/thema/article/mkmht0000002myit.html |archivedate= 2023-10-11}}</ref><ref name="20世紀日本人名事典">{{Cite kotobank|三淵 嘉子|encyclopedia=20世紀日本人名事典|accessdate=2022-11-06}}</ref>、[[高等文官試験|高等試験]]司法科試験に合格<ref>「高等試驗司法科合格者公告」『官報』第3552号、昭和13年11月5日、p.119. {{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|2960044/12}}</ref><ref>{{Cite|和書|editor=朝日新聞社|title=朝日年鑑 昭和15年|publisher=朝日新聞社|date=1939-10-20|id={{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|1072272/428}}|page=805}}</ref>。[[1940年]]、[[第二東京弁護士会]]に弁護士登録をした<ref name=":0" />ことで明治大学同窓の[[中田正子]]、[[久米愛]]と共に日本初の女性弁護士となる<ref>「辯護士試補考試合格者公告」『官報』第4083号、昭和15年8月15日、p.488. {{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|2960581/15}}</ref>。[[1941年]]に武藤家の書生をしていた和田芳夫<ref>{{Harv|家庭裁判所物語|2018|p=38}}</ref>と結婚し<ref>{{Cite|和書|editor=人事興信所|chapter=武藤貞雄|title=人事興信録 第14版 下|publisher=人事興信所|date=1943-10-01|id={{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|1704455/711}}|page=ム3}}</ref>、[[1943年]]に長男を出産(和田は召集先の中国で発病し、[[1946年]]に帰国後、長崎の陸軍病院で戦病死)<ref>{{Harv|家庭裁判所物語|2018|pp=38-39}}</ref>{{Efn2|『日本人名大辞典』では旧姓は和田となっている{{R|日本人名大辞典}}。}}。[[1944年]]、明治女子専門学校助教授となる<ref>{{Harv|追想のひと三淵嘉子|1985|p=395|loc=略年譜}}</ref>。[[1945年]]、長男や、戦死した弟の妻子とともに[[福島県]][[河沼郡]][[坂下町 (福島県)|坂下町]](現・[[会津坂下町]])へ疎開<ref>{{Harv|三淵嘉子と家庭裁判所|2023|pp=15~16}}</ref>ののち、両親の住む川崎市に移り住む<ref name=":0" />。 |
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*江刺昭子『時代を拓いた女たち 第2集 かながわの111人』[[神奈川新聞社]]、2011年6月。{{ISBN2|978-4-87645-475-4}}。 |
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*江刺昭子『時代を拓いた女たち 第2集 かながわの111人』[[神奈川新聞社]]、2011年6月。{{ISBN2|978-4-87645-475-4}}。 |
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*明治大学史資料センター『明治大学小史 人物篇』[[学文社]]、2011年11月。{{ISBN2|978-4-7620-2217-3}}。 |
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*明治大学史資料センター『明治大学小史 人物篇』[[学文社]]、2011年11月。{{ISBN2|978-4-7620-2217-3}}。 |
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*三淵嘉子ほか『女性法律家 拡大する新時代の活動分野』[[有斐閣]]、1983年6月。{{ISBN2|4-641-02339-5}}。{{NDLJP|12013083}}。 |
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2024年6月18日 (火) 02:01時点における版
三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13日[2] - 1984年〈昭和59年〉5月28日[3])は、日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所長[4]。
略歴
台湾銀行勤務の武藤貞雄とノブの長女[5]として、シンガポールにて生まれる。シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられた。
東京府青山師範学校附属小学校を経て東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し[6]、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学した。1935年、明治大学法学部に入学[7]。1938年に同大学を卒業し[8][9]、高等試験司法科試験に合格[10][11]。1940年、第二東京弁護士会に弁護士登録をした[6]ことで明治大学同窓の中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士となる[12]。1941年に武藤家の書生をしていた和田芳夫[13]と結婚し[14]、1943年に長男を出産(和田は召集先の中国で発病し、1946年に帰国後、長崎の陸軍病院で戦病死)[15][注 1]。1944年、明治女子専門学校助教授となる[16]。1945年、長男や、戦死した弟の妻子とともに福島県河沼郡坂下町(現・会津坂下町)へ疎開[17]ののち、両親の住む川崎市に移り住む[6]。
戦前期に女性が判事・検事に就くことが省令[注 2]で禁じられていたことへの反発から[7]1947年3月、裁判官採用願いを司法省に提出。同年6月、司法省嘱託[19]。司法省民事局局付を経て最高裁判所発足に伴い最高裁民事局局付。1948年1月、最高裁民事部事務官[19]。家庭局創設に伴い初代の家庭局局付に就任[20]。1949年1月、最高裁家庭局事務官、同年6月、最高裁家庭局付[19]。1949年6月4日に初の女性判事補となった石渡満子[21]に次いで、同月25日に東京地裁判事補となる[22][23][注 3]。1952年12月[19]、名古屋地方裁判所で初の女性判事となる[4][19]。1956年8月[25]、裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官であった三淵忠彦の子)と再婚。三淵姓となり[26]、目黒に住む[27]。
1956年5月[19]、東京地裁判事となる。広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当(裁判長古関敏正、三淵、高桑昭)。1963年12月7日、判決[28]は請求棄却とするも日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言した[29]。
1962年12月[19]より東京家庭裁判所判事(兼東京地裁判事[30])。少年部で計5000人超の少年少女の審判を担当した[31]。1967年1月、部総括[19]。
1972年6月[19]、新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となる[32]。1973年11月に浦和地裁の所長となり[33]、1978年1月からは横浜地裁の所長を務め[34]、1979年11月[35]に退官[36]。1980年1月[37]に再び弁護士となり[38]、そのほか日本婦人法律家協会の会長(1979年6月就任[39])や労働省男女平等問題専門家会議の座長(1979年12月就任[40])を務めた[7]。明治大学短期大学でも1972年まで教壇に立った[41]。
1984年5月28日[4]午後8時15分、骨肉腫のため69歳で死去した[42]。没日を以て、従三位に叙せられ、勲二等瑞宝章を授けられる[43]。
2024年度前期放送のNHK連続テレビ小説『虎に翼』で伊藤沙莉が演じる主人公、「猪爪寅子」のモデルとなる[44]。
家族
エピソード
- 東京地裁判事時代、三淵が審理を担当していた民事事件の当事者が、法廷外の廊下で三淵に切り付けるという出来事があった。三淵に怪我はなかったものの、女性判事による審理の不手際から刃傷沙汰が起きたのだと世間から無根拠に言われるのではないかと思うと情けない、と吐露した[60]。
- 新潟家裁時代も、所長をしながら自ら少年事件の審判を担当している。当時立ち会った調査官によれば、三淵の心のこもった「説諭」が感動的だったという。事件を起こした少年も付き添いの保護者も、三淵の語りかける言葉に涙を流している[61]。
脚注
注釈
- ^ 『日本人名大辞典』では旧姓は和田となっている[4]。
- ^ 「規定はないのに、採用面などでの実態」とする出典もある。
- ^ 三淵本人は、1949年4月に司法研修所で司法修習生としてはじめて男性とともに修習した石渡満子と門上千恵子の2人(それぞれのちに判事補と検事に任官)を女性任官者の先駆けとして挙げている[24]。
出典
- ^ (追想のひと三淵嘉子 1985, pp. 372–373, おわかれ)
- ^ (追想のひと三淵嘉子 1985, p. 394, 略年譜)
- ^ (追想のひと三淵嘉子 1985, p. 396, 略年譜)
- ^ a b c d 「三淵嘉子」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』。https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%B7%B5%E5%98%89%E5%AD%90。コトバンクより2022年11月6日閲覧。
- ^ 人事興信所 編『人事興信録 第9版(昭和6年)』人事興信所、1931年6月23日、ム3頁。NDLJP:1078695/1516。
- ^ a b c 『時代を拓いた女たち かながわの111人 第Ⅱ編』神奈川新聞社、2011年6月30日、206-207頁。ISBN 978-4-87645-475-4。
- ^ a b c 明治大学史資料センター 編『明治大学小史 人物編』学文社、2011年11月、87頁。ASIN 4762022179。ISBN 978-4-7620-2217-3。 NCID BB02021738。OCLC 759808114。国立国会図書館書誌ID:000011306829。
- ^ 村上一博 (2023年3月). “三淵嘉子(みぶちよしこ)—NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官—”. 明治大学史資料センター. 明治大学. 2023年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年2月27日閲覧。
- ^ 「三淵 嘉子」『20世紀日本人名事典』。https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%B7%B5%20%E5%98%89%E5%AD%90。コトバンクより2022年11月6日閲覧。
- ^ 「高等試驗司法科合格者公告」『官報』第3552号、昭和13年11月5日、p.119. NDLJP:2960044/12
- ^ 朝日新聞社 編『朝日年鑑 昭和15年』朝日新聞社、1939年10月20日、805頁。NDLJP:1072272/428。
- ^ 「辯護士試補考試合格者公告」『官報』第4083号、昭和15年8月15日、p.488. NDLJP:2960581/15
- ^ (家庭裁判所物語 2018, p. 38)
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- ^ 『官報』第6749号、昭和24年7月14日、p.165.NDLJP:2963291/7
- ^ (三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち 2023, p. 66)
- ^ (女性法律家 拡大する新時代の活動分野 1983, p. 13, 私の歩んだ裁判官の道)
- ^ (追想のひと三淵嘉子 1985, p. 395, 略年譜)
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- ^ (三淵嘉子と家庭裁判所 2023, pp. 41~46)
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- ^ 「人事異動」『法曹』第279号、法曹会、1974年1月、79頁。
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- ^ 清永聡(著)編集部(編)「朝ドラのモデル三淵嘉子は父親に「好きな人は」と聞かれ「和田さんがいい」と答えた…実弟が見た結婚のいきさつ 末の弟・武藤泰夫が生前に語った貴重な記録」『PRESIDENT Online』プレジデント社、2024年5月21日、3頁。2024年5月23日閲覧。
- ^ (三淵嘉子の生涯 2024, pp. 77-78、181)
- ^ (三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語 2024, pp. 138–139)
- ^ “著作権者を捜しています”. 有斐閣. 2024年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月4日閲覧。
- ^ “朝ドラ『虎に翼』寅子のモデル・三淵嘉子は「女性初」と言われることにモヤモヤしていた(歴史人)”. Yahoo!ニュース. 2024年6月7日閲覧。
- ^ (三淵嘉子の生涯 2024, p. 140)
- ^ 倉田卓次 (1985). “「思い出すままに(27) ――裁判官生活32年――」”. 判例時報 (555): 71.
- ^ (三淵嘉子と家庭裁判所 2023, pp. 65–66)
参考文献
外部リンク
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