橋本 はしもと 真 しん 也 (はしもと しんや、1965年 ねん 7月 がつ 3日 にち - 2005年 ねん 7月 がつ 11日 にち )は、日本 にっぽん のプロレスラー 。俳優 はいゆう 、声優 せいゆう としても活動 かつどう 。闘魂 とうこん 三 さん 銃 じゅう 士 し の1人 ひとり 。岐阜 ぎふ 県 けん 土岐 とき 市 し 出身 しゅっしん 。身長 しんちょう 183cm、体重 たいじゅう 118kg。全盛期 ぜんせいき は135kg。血液 けつえき 型 がた AB型 がた 。入場 にゅうじょう テーマ曲 きょく は『爆 ばく 勝 しょう 宣言 せんげん 』。リングへは鉢巻 はちま きを付 つ けて印 しるし を結 むす んで上 あ がるスタイルであった。
来歴 らいれき
新 しん 日 にち 入団 にゅうだん
中学 ちゅうがく 時代 じだい に父 ちち が失踪 しっそう し、母子 ぼし 家庭 かてい で育 そだ つが高校 こうこう (中京 ちゅうきょう 商業 しょうぎょう 高等 こうとう 学校 がっこう )時代 じだい に母 はは を亡 な くした。学生 がくせい 時代 じだい に柔道 じゅうどう を始 はじ め、アントニオ猪木 いのき に憧 あこが れるようになり、1984年 ねん 4月 がつ に新 しん 日本 にっぽん プロレス (以下 いか 「新日本 しんにほん 」)に入門 にゅうもん 。入門 にゅうもん 初日 しょにち に後 ご のライバル、蝶 ちょう 野 の 正洋 まさひろ と洗濯 せんたく 機 き の順番 じゅんばん を巡 めぐ って乱闘 らんとう を起 お こした。1984年 ねん 9月1日 にち に後藤 ごとう 達 いたる 俊 しゅん 戦 せん でデビューした。その後 ご 海外 かいがい 修行 しゅぎょう に出 で た。カナダ のカルガリー 地区 ちく を中心 ちゅうしん にモンゴル 人 ひと ギミック の『ハシフ・カーン』のリングネームで試合 しあい を行 おこな ったが、対戦 たいせん 相手 あいて を負傷 ふしょう させたりしたために試合 しあい を干 ほ される事 こと もあった。
闘魂 とうこん 三 さん 銃 じゅう 士 し の絆 きずな
海外 かいがい 修行 しゅぎょう の後 のち 、帰国 きこく し闘魂 とうこん 三 さん 銃 じゅう 士 し として、武藤 むとう 敬 たかし 司 し 、蝶 ちょう 野 の 正洋 まさひろ と共 とも に売 う り出 だ されることになり、対戦 たいせん 相手 あいて をリング上 じょう で叩 たた き潰 つぶ す姿 すがた から『破壊 はかい 王 おう 』の異名 いみょう を持 も つこととなった(古舘 ふるたち 伊知郎 いちろう からは「戦 たたか う渡辺 わたなべ 徹 とおる 」の名 な を貰 もら う。「破壊 はかい 王 おう 」ほど定着 ていちゃく しなかったが、橋本 はしもと はこのニックネームを気 き に入 い っていたという)。その一方 いっぽう で、ベイダー やスコット・ノートン 、トニー・ホームといった巨漢 きょかん 外人 がいじん レスラーの得意 とくい 技 わざ を正面 しょうめん で受 う け、好 こう 勝負 しょうぶ を展開 てんかい した。橋本 はしもと 自身 じしん は日本人 にっぽんじん レスラーとしては稀 まれ なスーパーヘビー級 きゅう であるが、この階級 かいきゅう のレスラーがとかく得意 とくい 技 わざ としがちであるラリアット やパワーボム をほとんど使用 しよう せず(武藤 むとう 、蝶 ちょう 野 の にも似 に た傾向 けいこう が見 み られる)、アンコ型 がた でありながらキック 主体 しゅたい というスタイルであった。
1993年 ねん 、橋本 はしもと は前年 ぜんねん にグレート・ムタ としてIWGPヘビー級 きゅう 王座 おうざ を獲得 かくとく した武藤 むとう や、G1 CLIMAX 2連覇 れんぱ を果 は たした蝶 ちょう 野 の と比 くら べ、停滞 ていたい 気味 ぎみ であったが、WAR の天龍 てんりゅう 源一郎 げんいちろう と2度 ど のシングルマッチを経 へ て勢 いきお いを付 つ け、9月 がつ 20日 はつか 、ムタを破 やぶ り、第 だい 14代 だい IWGPヘビー級 きゅう 王者 おうじゃ となった。その後 ご 、藤波 ふじなみ 辰 たつ 爾 なんじ に敗 やぶ れて王座 おうざ を手放 てばな すものの、直後 ちょくご の5月1日 にち 福岡 ふくおか ドーム で藤波 ふじなみ を破 やぶ って王者 おうじゃ になり(1年 ねん 後 ご の1995年 ねん 5月3日 にち 福岡 ふくおか ドームで武藤 むとう に敗 やぶ れたものの、9度 ど の当時 とうじ 連続 れんぞく 防衛 ぼうえい 記録 きろく を達成 たっせい )、その年 とし の活躍 かつやく した評価 ひょうか が認 みと められ、「プロレス大賞 たいしょう MVP」を獲得 かくとく した。
Mr.IWGPとして君臨 くんりん
1996年 ねん 4月 がつ 29日 にち 東京 とうきょう ドーム 、この年 とし の1月 がつ 4日 にち に武藤 むとう に勝利 しょうり してIWGP王座 おうざ を奪取 だっしゅ したUWFインターナショナル (Uインター)の総 そう 大将 たいしょう である高田 たかだ 延 のべ 彦 と対戦 たいせん し、垂直 すいちょく 落下 らっか 式 しき DDTからの三角 さんかく 絞 し め で勝利 しょうり した。また、前年 ぜんねん から勃発 ぼっぱつ していたUインターのリングにも参戦 さんせん した。
1997年 ねん 8月 がつ 31日 にち 、この年 とし のG1 CLIMAX 優勝 ゆうしょう 者 しゃ である佐々木 ささき 健介 けんすけ に敗 やぶ れIWGP王座 おうざ を奪 うば われて以降 いこう 、橋本 はしもと がIWGP王座 おうざ につくことはなかったが、通算 つうさん 20度 ど の防衛 ぼうえい 記録 きろく は2008年 ねん 現在 げんざい も破 やぶ られていない。
新 しん 日本 にっぽん プロレス時代 じだい の橋本 はしもと は、後述 こうじゅつ するように数々 かずかず のタイトルを獲得 かくとく したものの、その一方 いっぽう で、G1のタイトルだけはなかなか手中 しゅちゅう に収 おさ めることができず、いつしか鬼門 きもん といわれるようになった。しかし、1998年 ねん に、藤波 ふじなみ 、健介 けんすけ 、蝶 ちょう 野 の といった歴代 れきだい のG1ホルダーを撃破 げきは して勝 か ち上 あ がってきた山崎 やまざき 一夫 かずお を破 やぶ り念願 ねんがん のG1優勝 ゆうしょう を果 は たした。
v.s小川 おがわ 直也 なおや
プロレスデビューした小川 おがわ 直也 なおや と何 なん 度 ど も抗 こう 争 そう を繰 く り広 ひろ げ、1997年 ねん 4月 がつ の初戦 しょせん は敗 やぶ れたが翌月 よくげつ には小川 おがわ を失神 しっしん KOで下 くだ しリベンジを果 は たした。1999年 ねん 1月 がつ 4日 にち 、東京 とうきょう ドーム大会 たいかい における3度目 どめ の戦 たたか いではいきなりほぼ完全 かんぜん なセメント を仕掛 しか けられ、橋本 はしもと は手 て も足 あし も全 まった く出 で ず事実 じじつ 上 じょう の敗北 はいぼく を喫 きっ した(結果 けっか は無効 むこう 試合 しあい )。この時 とき の乱闘 らんとう 騒 さわ ぎはプロレス史上 しじょう 最大 さいだい 級 きゅう のガチンコ の乱闘 らんとう であった。当時 とうじ 全日本 ぜんにほん プロレス の三沢 みさわ 光晴 みつはる も全日本 ぜんにほん プロレス中継 ちゅうけい で「あれじゃいくら何 なん でもプロレスラーが弱 よわ くみられる。もっとプロレスラーは強 つよ いんだぞってところを見 み せてもらわないと困 こま る」とコメントした。同年 どうねん 10月 がつ にも小川 おがわ に敗 やぶ れ、最後 さいご の試合 しあい となった5戦 せん 目 め の2000年 ねん 4月 がつ 7日 にち 東京 とうきょう ドーム では、「負 ま けたら引退 いんたい 」を公約 こうやく し、小川 おがわ の腕 うで を脱臼 だっきゅう させ(しかしその後 ご 自 みずか らの仕掛 しか けた技 わざ で戻 もど してしまう)あと一 いち 歩 ほ の所 ところ まで追 お い詰 つ めたが敗退 はいたい し、公約 こうやく どおり新日本 しんにほん に辞表 じひょう を提出 ていしゅつ した。
新 しん 日 にち 解雇 かいこ ~ZERO-ONE旗揚 はたあ げ
2000年 ねん 8月 がつ 23日 にち 、熱心 ねっしん なファンの子供 こども から送 おく られた復帰 ふっき を願 ねが う百 ひゃく 万 まん 羽 わ の折 お り鶴 づる をきっかけに引退 いんたい 撤回 てっかい を表明 ひょうめい 。これについてはテレビ朝日 てれびあさひ のスポーツ番組 ばんぐみ 『スポコン! 』が特集 とくしゅう を組 く んだ。10月9日 にち 東京 とうきょう ドームで藤波 ふじなみ 辰 たつ 爾 なんじ と復帰 ふっき 戦 せん を行 おこな い、その直後 ちょくご に新 しん 日本 にっぽん 内 ない に別 べつ 組織 そしき 「新 しん 日本 にっぽん プロレスリングZERO」を作 つく ろうとしたが、長州 ちょうしゅう 力 りょく らの反対 はんたい にあった。その結果 けっか 、11月13日 にち 付 づけ で新日本 しんにほん より解雇 かいこ をい渡 いわた されたため、直後 ちょくご にZERO-ONE を設立 せつりつ し完全 かんぜん 独立 どくりつ した。12月23日 にち にはプロレスリング・ノア に参戦 さんせん (対戦 たいせん 相手 あいて は大森 おおもり 隆男 たかお )、同年 どうねん の大晦日 おおみそか にはINOKI BOM-BA-YE 2000 に参戦 さんせん (対戦 たいせん 相手 あいて はゲーリー・グッドリッジ )。その後 ご ZERO-ONEには橋本 はしもと の理想 りそう に賛同 さんどう した新 しん 日時 にちじ 代 だい の後輩 こうはい ・大谷 おおや 晋 すすむ 二郎 じろう ・高岩 たかいわ 竜一 りゅういち が合流 ごうりゅう した。
2001年 ねん 3月2日 にち 両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん にて「破壊 はかい なくして創造 そうぞう はなし、悪 あ しき古 ふる きが滅 ほろぼ せねば誕生 たんじょう もなし、時代 じだい を開 ひら く勇者 ゆうしゃ たれ!」との理念 りねん を掲 かか げ旗揚 はたあ げの挨拶 あいさつ を行 おこな い、試合 しあい では新 しん 日本 にっぽん の永田 ながた 裕志 ひろし と組 く み、ノアの三沢 みさわ 光晴 みつはる ・秋山 あきやま 準 じゅん 組 くみ と対戦 たいせん してフォール負 ま けした。この後 のち 、小川 おがわ 直也 なおや とは和解 わかい してZERO-ONEにて共闘 きょうとう 、「OH砲 ほう 」として人気 にんき を得 え た。
三 さん 冠 かん 奪取 だっしゅ 、長州 ちょうしゅう との決戦 けっせん ~ハッスル・キング
2003年 ねん にはZERO-ONE勢 ぜい を率 ひき いて武藤 むとう 率 ひき いる全日本 ぜんにほん プロレスに乗 の り込 こ み、全面 ぜんめん 抗争 こうそう が勃発 ぼっぱつ 、頂上 ちょうじょう 決戦 けっせん となったグレート・ムタ との三 さん 冠 かん 戦 せん に勝利 しょうり した。5月2日 にち には後楽園 こうらくえん ホール では最多 さいた 記録 きろく となる2,300人 にん の観衆 かんしゅう を集 あつ めて、小川 おがわ と組 く み、武藤 むとう ・小島 こじま 聡 さとし 組 くみ と対戦 たいせん し、勝利 しょうり したが、試合 しあい 後 ご に川田 かわた 利明 としあき が乱入 らんにゅう 。そして7月 がつ 、橋本 はしもと ・小川 おがわ 組 ぐみ VS武藤 むとう ・川田 かわた 組 ぐみ の試合 しあい で、試合 しあい 中 ちゅう に右肩 みぎかた を脱臼 だっきゅう し、勝利 しょうり したもののこの時 とき の脱臼 だっきゅう がきっかけで三 さん 冠 かん ベルトを返上 へんじょう した。
11月、長州 ちょうしゅう 力 りょく へ東京 とうきょう スポーツ紙上 しじょう で口 くち 撃 げき を行 おこな い、その後 ご コラコラ問答 もんどう (後述 こうじゅつ ) を経 へ て長州 ちょうしゅう 軍 ぐん との抗 こう 争 そう に突入 とつにゅう 。同年 どうねん 12月 がつ 団体 だんたい 戦 せん 、2004年 ねん 2月 がつ にはシングルで長州 ちょうしゅう と激突 げきとつ 、勝利 しょうり した。
2004年 ねん 2月 がつ 、3冠 かん 王者 おうじゃ になった川田 かわた から3度目 どめ の防衛 ぼうえい 相手 あいて に指名 しめい され挑戦 ちょうせん するも、前年 ぜんねん の肩 かた の怪我 けが がきっかけで敗 やぶ れる(セコンドからタオル投入 とうにゅう )。橋本 はしもと のいわゆる四天王 してんのう とのシングルマッチはこの川田 かわた 戦 せん のみであった。その直後 ちょくご 、2人 ふたり はハッスル軍 ぐん としてタッグを組 く んだ。
2004年 ねん からハッスル に参戦 さんせん 。小川 おがわ から「ハッスル・キング」と命名 めいめい され、高田 たかだ 総統 そうとう から「ポーク」と揶揄 やゆ された。
団体 だんたい 崩壊 ほうかい 、闘病 とうびょう ~最期 さいご
しかし同年 どうねん 、新日本 しんにほん に接近 せっきん したことで大谷 おおや 晋 すすむ 二郎 じろう との確執 かくしつ が生 う まれ、11月25日 にち にZERO-ONE崩壊 ほうかい を宣言 せんげん し、負債 ふさい は全 すべ て自 みずか ら被 こうむ ることで決着 けっちゃく 。1人 ひとり でフリーの道 みち を歩 あゆ むことになる。
その後 ご 、長 なが い間 あいだ 治療 ちりょう せず放置 ほうち していた右肩 みぎかた を手術 しゅじゅつ し、リハビリをしながらリングへの復帰 ふっき を目指 めざ していたが、2005年 ねん 7月 がつ 11日 にち 午前 ごぜん 8時 じ 頃 ごろ 、滞在 たいざい 先 さき において脳幹 のうかん 出血 しゅっけつ で倒 たお れ、午前 ごぜん 10時 じ 36分 ふん 、搬送 はんそう 先 さき の病院 びょういん で死亡 しぼう が確認 かくにん された。満 まん 40歳 さい 没 ぼつ 。橋本 はしもと の早 はや すぎる死 し は、睡眠 すいみん 時 じ 無 む 呼吸 こきゅう 症候群 しょうこうぐん も遠因 えんいん であったと推測 すいそく されている。7月 がつ 16日 にち に行 おこな われた葬儀 そうぎ には、武藤 むとう ・蝶 ちょう 野 の ・小川 おがわ ら団体 だんたい の垣根 かきね を越 こ えて、大勢 おおぜい のレスラー、各界 かくかい 著名 ちょめい 人 じん 、一般 いっぱん ファン等 とう 1万 まん 人 にん 以上 いじょう が参列 さんれつ した。特 とく に闘魂 とうこん 三 さん 銃 じゅう 士 し の絆 きずな を持 も つ武藤 むとう 、蝶 ちょう 野 の の受 う けた衝撃 しょうげき は大 おお きく、武藤 むとう が葬儀 そうぎ 場 じょう の階段 かいだん に座 すわ り込 こ んだまま立 た ち上 あ がれなくなったり、普段 ふだん クールなイメージの蝶 ちょう 野 の が人目 ひとめ をはばからず涙 なみだ に暮 く れるなどした。友人 ゆうじん でもある高島 たかしま 宗 そう 一郎 いちろう KBC アナウンサー の涙声 なみだごえ の絶叫 ぜっきょう に続 つづ き、出棺 しゅっかん 時 じ に橋本 はしもと 選手 せんしゅ の入場 にゅうじょう 曲 きょく である『爆 ばく 勝 しょう 宣言 せんげん 』が流 なが され、参列 さんれつ 者 しゃ から投 な げられた数 すう 千 せん 本 ほん もの赤 あか い紙 かみ テープと「ハッシモト」コールの大 だい 声援 せいえん に包 つつ まれて送 おく り出 だ された。戒名 かいみょう 「天武 てんむ 真 しん 優 ゆう 居士 こじ (てんぶしんゆうこじ)」。2008年 ねん 3月2日 にち 、橋本 はしもと の功績 こうせき を称 とな え、2代目 だいめ のIWGPヘビー級 きゅう ベルトが中 ちゅう 邑真輔 から橋本 はしもと 家 か に贈呈 ぞうてい された。
バラエティ番組 ばんぐみ 『ロンドンハーツ 』が、生涯 しょうがい 最後 さいご のテレビ番組 ばんぐみ 出演 しゅつえん だった(後述 こうじゅつ のエピソードを参照 さんしょう )。
ファイトスタイル
打撃 だげき 技 わざ
各種 かくしゅ キック
佐藤 さとう 塾 じゅく での空手 からて の経験 けいけん も手伝 てつだ い、キックは若手 わかて 時代 じだい からの得意 とくい 技 わざ で、当時 とうじ から威力 いりょく のあるキックを使用 しよう していた。気合 きあい を入 い れ、十分 じゅうぶん にタメを作 つく って放 はな つキックはプロレス的 てき な説得 せっとく 力 りょく に溢 あふ れ、それだけでフォールをとれる技 わざ である。アントニオ猪木 いのき はそのローキックを受 う け、「相当 そうとう 効 き いていた」と話 はな している。橋本 はしもと はレガース を着 つ けないため、キックが痛 いた く武藤 むとう や蝶 ちょう 野 の に嫌 いや がられていた。
フライングニールキック
胴 どう 回 まわ し回転 かいてん 蹴 け りの一種 いっしゅ 。前田 まえだ 日明 ひあがり がUWFスタイルを標榜 ひょうぼう して使用 しよう しなくなった事 こと から、橋本 はしもと の代名詞 だいめいし の一 ひと つとなった技 わざ 。初 はつ のTVマッチ(6人 にん タッグ)でも披露 ひろう したが、パートナーが抱 かか え上 あ げた相手 あいて に仕掛 しか けようとして、その頭上 ずじょう を越 こ えてしまった事 こと もある。
袈裟斬 けさぎ りチョップ
使用 しよう 頻度 ひんど の高 たか い技 わざ で、キックと共 とも に橋本 はしもと が試合 しあい を作 つく る上 じょう で非常 ひじょう に重要 じゅうよう な技 わざ である。
燕返 つばめがえ し
右 みぎ 回転 かいてん しての水平 すいへい チョップ。
地獄 じごく 突 とっ き
水面 すいめん 蹴 け り
地 ち を這 は うように回転 かいてん しながら相手 あいて に脚 あし 払 ばら いをかける。ボクサー のトニー・ホーム に敗戦 はいせん した後 のち 、リベンジマッチのために習得 しゅうとく 。中国 ちゅうごく での修行 しゅぎょう で会得 えとく したと橋本 はしもと は語 かた っている。この時 とき の様子 ようす は闘魂 とうこん 三 さん 銃 じゅう 士 し 自叙伝 じじょでん 集 しゅう 「烈 れつ 闘 たたかえ 生 せい 」に記述 きじゅつ がある。
ジャンピングエルボードロップ
長州 ちょうしゅう 戦 せん ではフィニッシュとなった。135キロの体重 たいじゅう がトップロープから落下 らっか する様 よう は迫力 はくりょく 満点 まんてん 。なお新 しん 日本 にっぽん 出身 しゅっしん の選手 せんしゅ はエルボードロップの名手 めいしゅ が多 おお いが、対 たい して全日本 ぜんにほん の選手 せんしゅ はスタンド式 しき のエルボースマッシュを得意 とくい とする選手 せんしゅ が多 おお いのも特筆 とくひつ すべき点 てん 。
ダイビングフットスタンプ
主 おも にタッグマッチで使用 しよう 。
組 く み技 わざ
DDT
相手 あいて の首 くび を抱 かか え込 こ んで固定 こてい し、後方 こうほう へ倒 たお れこみながら脳天 のうてん をマットに突 つ き刺 さ す技 わざ 。橋本 はしもと の代名詞 だいめいし と言 い える技 わざ である。武藤 むとう は橋本 はしもと のDDTについて「首 くび をガッチリと抱 かか え込 こ まれ最後 さいご までロックを外 はず さないので、ダメージが大 おお きい」と語 かた っている。
ジャンピングDDT
首 くび を抱 かか えたまま飛 と び上 あ がってマットに突 つ き刺 さ す、スピードと落差 らくさ の大 おお きいDDT。さらに、自 みずか らロープに飛 と んで勢 いきお いをつけ、そのまま相手 あいて に飛 と びつきながらDDTに移行 いこう することで更 さら なる落差 らくさ と破壊 はかい 力 りょく を生 う み出 だ す入 い り方 がた もある。新 しん 日本 にっぽん 時代 じだい 前期 ぜんき の橋本 はしもと は、この“飛 と びつき式 しき ”をフィニッシュ技 わざ として使用 しよう していたが、後 のち に垂直 すいちょく 落下 らっか 式 しき DDTを開発 かいはつ してからは使用 しよう 頻度 ひんど が減 へ っていった。
垂直 すいちょく 落下 らっか 式 しき DDT
ブレーンバスターのような体勢 たいせい で繰 く り出 だ すDDT。垂直 すいちょく 落下 らっか 式 しき ブレーンバスター と混同 こんどう されやすいが、橋本 はしもと のこの技 わざ は、ゆっくりと持 も ち上 あ げて頭 あたま からリングに叩 たた きつける技 わざ でありステップもブレーンバスターではなくDDTのステップである。それは、自然 しぜん 重力 じゅうりょく 落下 らっか よりも(ブレーンバスターの中 なか にも、下方 かほう に加速 かそく を付加 ふか するバリエーションもあるが、先 さき のステップも含 ふく め)、技 わざ をかける側 がわ が意図 いと 的 てき にマット上 じょう (下方 かほう )へ加速 かそく する着地 ちゃくち に近 ちか いことでわかる。橋本 はしもと 自身 じしん の体重 たいじゅう ・低 てい 重心 じゅうしん もあいまって、数 かず あるプロレス技 わざ の中 なか でも指折 ゆびお りの強力 きょうりょく な技 わざ となっている。それを食 く らう選手 せんしゅ 、見 み ている観客 かんきゃく に与 あた えるインパクトも大 おお きい。山崎 やまざき 一夫 かずお にいたっては危険 きけん な角度 かくど で頭 あたま から落 お ちていった。この技 わざ を受 う けて返 かえ したレスラーはロード・スティーヴン・リーガル (現 げん :ウィリアム・リーガル)のみである。
フィッシャーマンDDT
先述 せんじゅつ の垂直 すいちょく 落下 らっか 式 しき DDTを身 み に付 つ けるまでの必殺 ひっさつ 技 わざ 。垂直 すいちょく 落下 らっか 式 しき のフィッシャーマンスープレックス 。
リバースDDT
バックを取 と った状態 じょうたい からDDTを仕掛 しか ける技 わざ 。通常 つうじょう のDDTとは違 ちが い、相手 あいて は首 くび を固定 こてい されたまま後頭部 こうとうぶ をマットに叩 たた きつけられることになるため、受 う け身 み が取 と りにくくダメージも大 おお きい。
ブレーンバスタースラム
ジャンピングアームブリーカー
関節 かんせつ 技 わざ
橋本 はしもと には代名詞 だいめいし といえる関節 かんせつ 技 わざ がほとんどないが、マサ斉藤 さいとう は「橋本 はしもと は関節 かんせつ 技 わざ も上手 うま い」と評 ひょう しており、十字 じゅうじ 固 がた めやアキレス腱 あきれすけん 固 がた めなど、一般 いっぱん 的 てき な関節 かんせつ 技 わざ をほぼマスターしている。
三角 さんかく 絞 し め
相手 あいて の肩 かた と首 くび を両足 りょうあし で挟 はさ み込 こ んで絞 し め上 あ げる技 わざ 。橋本 はしもと の場合 ばあい は技 わざ の入 い り方 がた がやや独特 どくとく である。UWFインターとの対抗 たいこう 戦 せん でよく使 つか われた技 わざ 。
肩 かた 固 かた め
合体 がったい 技 わざ
オレごと刈 か れ
小川 おがわ 直也 なおや との合体 がったい 技 わざ 。橋本 はしもと が後 うし ろから相手 あいて をつかんでジャーマンスープレックス、あるいはバックドロップ を仕掛 しか けると同時 どうじ に、小川 おがわ が橋本 はしもと ごとSTOを仕掛 しか ける。
刈 かり 龍 りゅう 怒 いか (かりゅうど)
小川 おがわ 直也 なおや との合体 がったい 技 わざ 。橋本 はしもと が水面 すいめん 蹴 け りを、小川 おがわ がSTOを仕掛 しか ける。2人 ふたり の得意 とくい 技 わざ を使 つか った強力 きょうりょく な技 わざ 。
エピソード
師 し ・猪木 いのき 、小川 おがわ 直也 なおや との抗 こう 争 そう
師匠 ししょう ・猪木 いのき との関係 かんけい は、愛憎 あいぞう 入 い り乱 みだ れた壮絶 そうぜつ な師弟 してい 関係 かんけい であった。
中学 ちゅうがく 時代 じだい に猪木 いのき VSウイリー・ウイリアムス 戦 せん を見 み て猪木 いのき の魅力 みりょく にひかれ、卒業 そつぎょう 文集 ぶんしゅう には「尊敬 そんけい する人 ひと ・アントニオ猪木 いのき 」と書 か くほど猪木 いのき に心酔 しんすい した。やがて新日本 しんにほん に入門 にゅうもん した橋本 はしもと は猪木 いのき の闘魂 とうこん 哲学 てつがく を徹底的 てっていてき に叩 たた き込 こ まれ、試合 しあい 用 よう ガウンには「闘魂 とうこん 伝承 でんしょう 」の文言 もんごん を入 い れるほど猪木 いのき イズムの伝承 でんしょう 者 しゃ として活躍 かつやく 。IWGP王座 おうざ を通算 つうさん 20回 かい 防衛 ぼうえい するなど1990年代 ねんだい の新日本 しんにほん を名実 めいじつ 共 ども に引 ひ っ張 ぱ る大 だい スターへと成長 せいちょう した。
しかし1997年 ねん 、元 もと 柔道 じゅうどう 世界 せかい 王者 おうじゃ ・バルセロナオリンピック 銀 ぎん メダリストの小川 おがわ 直也 なおや がプロ格闘 かくとう 家 か として猪木 いのき に弟子 でし 入 い りした事 こと で、2人 ふたり の師弟 してい 関係 かんけい に亀裂 きれつ が入 はい った。小川 おがわ のデビュー戦 せん の相手 あいて を務 つと めた橋本 はしもと だったが裸 はだか 絞 し めでKO負 ま けを喫 きっ すると言 い う番狂 ばんくる わせが起 お きた。1か月 げつ 後 ご に橋本 はしもと はリベンジを果 は たしたが、1999年 ねん 1月 がつ 4日 にち の3度目 どめ の対戦 たいせん では、プロレスルールを無視 むし した小川 おがわ の突然 とつぜん の暴走 ぼうそう ファイトに橋本 はしもと はなす術 じゅつ なく敗北 はいぼく した。試合 しあい は無効 むこう 試合 しあい となったが、試合 しあい 後 ご の会見 かいけん で橋本 はしもと は「絶対 ぜったい 許 ゆる さない」と黒幕 くろまく ・猪木 いのき への怒 いか りを表 あらわ した。同年 どうねん 10月 がつ 、4度目 どめ の対戦 たいせん が行 おこな われるがここでも小川 おがわ に橋本 はしもと は敗 やぶ れた。
2000年 ねん 4月 がつ の5度目 どめ の対戦 たいせん でも「橋本 はしもと を殺 ころ せ」との猪木 いのき のメッセージを受 う けた小川 おがわ は、橋本 はしもと を破 やぶ った。しかしこの試合 しあい に引退 いんたい を賭 か け、男 おとこ の生 い き様 ざま を見 み せ付 つ けた橋本 はしもと に、猪木 いのき は「引退 いんたい は早 はや い」と歩 あゆ み寄 よ りを見 み せるようになった。橋本 はしもと はファンの後押 あとお しを受 う け同年 どうねん 10月 がつ に引退 いんたい を撤回 てっかい して復帰 ふっき 。翌 よく 2001年 ねん にZERO-ONEを旗揚 はたあ げした橋本 はしもと に猪木 いのき は「馬鹿 ばか になれ!」のメッセージを送 おく り、橋本 はしもと の最大 さいだい の理解 りかい 者 しゃ として橋本 はしもと の行動 こうどう を陰 かげ で支 ささ え、合 あ わせるように小川 おがわ も橋本 はしもと と和解 わかい し、以降 いこう 2人 にん で「OH砲 ほう 」としてタッグを組 く むようになった。
しかし同年 どうねん 6月 がつ 、当時 とうじ PRIDE 戦士 せんし だったマーク・ケアー の「ZERO-ONE真 ま 撃 げき 」への参戦 さんせん 問題 もんだい (DSE 側 がわ のコメントによると「PRIDEのためにDSEの費用 ひよう で来日 らいにち したケアーに、橋本 はしもと が許可 きょか 無 な く会 あ って、ZERO-ONE参戦 さんせん の交渉 こうしょう をした」というもの)に端 はし を発 はっ し、2人 ふたり は再 ふたた び袂 たもと を分 わ かった。そして2005年 ねん 、橋本 はしもと は逝去 せいきょ 。猪木 いのき は最愛 さいあい の弟子 でし の赤 あか シャツで追悼 ついとう し、一部 いちぶ に物議 ぶつぎ をかもした。
対 たい 四天王 してんのう
橋本 はしもと が新 しん 日本 にっぽん 在籍 ざいせき 時代 じだい 、夢 ゆめ のカードとして全日本 ぜんにほん プロレス・三沢 みさわ 光晴 みつはる との「ミスターIWGP vs ミスター三 さん 冠 かん 」対決 たいけつ や、川田 かわた 利明 としあき との「キック対決 たいけつ 」を望 のぞ んでいた。しかし橋本 はしもと 自身 じしん は全日本 ぜんにほん で一番 いちばん 戦 たたか いたい相手 あいて として、雑誌 ざっし やトークショーで常々 つねづね 小橋 こはし 健太 けんた (現 げん ・建太 けんた )の名 な を挙 あ げていた。橋本 はしもと がZERO-ONE設立 せつりつ 後 ご 、三沢 みさわ ・川田 かわた との対戦 たいせん は実現 じつげん したが、小橋 こはし との対戦 たいせん は叶 かな わなかった。
人物 じんぶつ
破天荒 はてんこう な人柄 ひとがら で少々 しょうしょう 風変 ふうが わりな言動 げんどう も少 すく なからずあった。橋本 はしもと の関係 かんけい 者 しゃ が彼 かれ を語 かた る際 さい には、常識 じょうしき ・既成 きせい 概念 がいねん があてはまらない思考 しこう ・行動 こうどう をする人間 にんげん を指 さ すプロレス用語 ようご 「トンパチ」(トンボ にハチマキ の意味 いみ )が用 もち いられることが多 おお い。
坂口 さかぐち 征 せい 二 に の付 つ き人 びと 時代 じだい 、坂口 さかぐち の持 も つ高価 こうか な水虫 みずむし の薬 くすり の瓶 びん を割 わ って紛失 ふんしつ する、興行 こうぎょう 収益 しゅうえき の入 はい ったアタッシェケースを旅館 りょかん に忘 わす れる、それを外 そと で開 ひら いて札束 さつたば を風 ふう でばらまいてしまう等 ひとし 、大 おお きなミスを連発 れんぱつ したため野上 のかみ 彰 あきら が「付 つ き人 びと の付 つ き人 びと 」として橋本 はしもと に付 つ いた。
バットマン の大 だい ファン。「橋本 はしもと が自分 じぶん 用 よう のバットマンのコスチュームを特注 とくちゅう し、それを着 き たまま外 そと をねり歩 ある いた」という噂 うわさ の真相 しんそう を雑誌 ざっし のインタビューで尋 たず ねられた際 さい 、それが事実 じじつ である事 こと を橋本 はしもと 本人 ほんにん が認 みと めている。なお着用 ちゃくよう したバットスーツは「少 すこ しきつくてピチピチだった」との事 こと 。
海外 かいがい 遠征 えんせい 時 じ 、テネシー州 しゅう にあるエルビス・プレスリー の記念 きねん 館 かん に行 い った事 こと をきっかけにプレスリーのファンになり、その後 ご しばらくプレスリーの様 よう な服 ふく を着 き ていたという。米国 べいこく 出身 しゅっしん のレスラーからは「ファット・エルビス」というあだ名 な で呼 よ ばれていた。
小島 こじま 聡 さとし が虫 むし が苦手 にがて ということを知 し り、公園 こうえん でセミ を大量 たいりょう に捕 つか まえて小島 こじま の部屋 へや に放 はな った。
空気 くうき 銃 じゅう で撃 う った雀 すずめ を付 つ き人 びと 時代 じだい の天山 あまやま 広吉 ひろきち に食 た べさせた。天山 てんざん はその後 ご 保健所 ほけんじょ に電話 でんわ し「伝染 でんせん 病 びょう とかは大丈夫 だいじょうぶ なんでしょうか」と聞 き いた。その他 た もう一人 ひとり の付 つ き人 びと である西村 にしむら 修 おさむ ら、若手 わかて レスラーを引 ひ き連 つ れて起 お こした数々 かずかず の「遊 あそ び」は数々 かずかず の逸話 いつわ を残 のこ し、天山 てんざん はそれらの最大 さいだい の被害 ひがい 者 しゃ であった。
1990年 ねん 2月 がつ 、東京 とうきょう ドーム大会 たいかい でアントニオ猪木 いのき ・坂口 さかぐち 征 せい 二 に とタッグ対決 たいけつ をする際 さい 、控 ひか え室 しつ でピリピリしたムードの中 なか 、アナウンサー(テレビ朝日 てれびあさひ 「ワイドスクランブル」で有名 ゆうめい な佐々木 ささき 正洋 まさひろ アナウンサー)が橋本 はしもと にインタビューした。このとき橋本 はしもと が「時 とき は来 き た!それだけだ」と大 だい 真面目 まじめ に言 い ったところ、横 よこ にいたタッグパートナーの蝶 ちょう 野 の が思 おも わず吹 ふ き出 だ しそうになり、顔 かお を手 て で押 お さえごまかした。これに対 たい し蝶 ちょう 野 の は「俺 おれ は笑 わら ってない!」と釈明 しゃくめい するが、「でも控 ひか え室 しつ は爆笑 ばくしょう だったんじゃない?」と、蝶 ちょう 野 の もこの発言 はつげん の面白 おもしろ さを認 みと めている。(この時 とき 佐々木 ささき アナは猪木 いのき に「負 ま けたら引退 いんたい 、の声 こえ がありますが・・・」とインタビューをし「出 で る前 まえ に負 ま ける事 こと 考 かんが えるバカいるかよ!」と言 い い猪木 いのき にビンタを貰 もら い、翌日 よくじつ 医師 いし に「むちうち」と診断 しんだん されている)
猪木 いのき 以外 いがい にもタイガーマスクこと佐山 さやま 聡 さとし にも憧 あこが れており、若手 わかて 時代 じだい はタイガーの四 よん 次元 じげん プロレスの真似 まね ばかりしていたという。
とても料理 りょうり 上手 じょうず であった。天山 てんざん に雀 すずめ を食 た べさせたエピソードも、水 みず に付 つ けて羽根 はね を取 と り、自 みずか ら包丁 ぼうちょう で捌 さば き、茹 ゆ で、調理 ちょうり してから天山 てんざん を騙 だま して食 た べさせたと言 い う。同 おな じ寮生 りょうせい で仲 なか が良 よ かった獣 しし 神 しん サンダー・ライガー の証言 しょうげん によると、寮 りょう でもその料理 りょうり は凝 こ っており、ある日 ひ 「豆腐 とうふ を作 つく る」と言 い い出 だ し、苦汁 くじゅう や大豆 だいず を買 か い出 だ しに行 い き、自 みずか ら豆腐 とうふ を作 つく った。またラーメン なども、自分 じぶん で出汁 だし をとる本格 ほんかく 派 は であったという。ただし、食材 しょくざい に拘 かかわ りすぎるあまり、豆腐 とうふ 一 いち 丁 ちょう に一 いち 万 まん 円 えん ほどかかってしまった。
アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ との対談 たいだん で、同 おな じブラジル 人 ひと というだけで「マルシア を知 し ってるか」と訊 き いた。
生涯 しょうがい 最後 さいご のバラエティ出演 しゅつえん となったロンドンハーツでは、西口 にしぐち プロレス において長州 ちょうしゅう 小力 こぢから がマイクパフォーマンスとして「橋本 はしもと 、出 で て来 こ い!」と言 い ったところ、テーマソング『爆 ばく 勝 しょう 宣言 せんげん 』とともに本人 ほんにん が出 で てきて小力 こぢから を懲 こ らしめるという、番組 ばんぐみ のお仕置 しお きを行 おこな った。放送 ほうそう 前 まえ に橋本 はしもと が急逝 きゅうせい したため当初 とうしょ 番組 ばんぐみ スタッフは放送 ほうそう 中止 ちゅうし を検討 けんとう したが、橋本 はしもと の遺族 いぞく と関係 かんけい 者 しゃ から「(橋本 はしもと 本人 ほんにん が)本日 ほんじつ の放送 ほうそう を楽 たの しみにしていた」という事 こと を聞 き き、本人 ほんにん の供養 くよう も兼 か ねてそのまま放送 ほうそう された。番組 ばんぐみ 中 ちゅう 橋本 はしもと から小力 こぢから に「自分 じぶん の物真似 ものまね もやってくれるか?」と問 と いかけたところ快 こころよ く応 おう じていたが、橋本 はしもと の急逝 きゅうせい の影響 えいきょう もあってか今日 きょう まで公開 こうかい されておらず、また「橋本 はしもと を捜 さが すネタ」も封印 ふういん している。
橋本 はしもと 真 しん 也を象徴 しょうちょう するテーマ曲 きょく 「爆 ばく 勝 しょう 宣言 せんげん 」だが、1997年 ねん 前後 ぜんこう にアントニオ猪木 いのき の闘魂 とうこん を受 う け継 つ ぐ意識 いしき が強 つよ かった頃 ころ に「闘魂 とうこん 伝承 でんしょう 」というテーマ曲 きょく に切 き り替 か えた。対 たい 小川 おがわ 直也 なおや 第 だい 一 いち 戦 せん はこの「闘魂 とうこん 伝承 でんしょう 」で入場 にゅうじょう シーンを飾 かざ ったが、闘魂 とうこん を注入 ちゅうにゅう された小川 おがわ 直也 なおや に負 ま けてしまったためリベンジマッチでは「爆 ばく 勝 しょう 宣言 せんげん 」を復活 ふっかつ させてこの曲 きょく を愛用 あいよう し続 つづ けた。出棺 しゅっかん の際 さい にも流 なが されている。大 だい 舞台 ぶたい での試合 しあい では「爆 ばく 勝 しょう 宣言 せんげん 」の本 ほん テーマの前 まえ に「福岡 ふくおか ドーム のテーマ[1] 」を付 つ けたバージョンが流 なが される。
1990年 ねん の闘魂 とうこん 三 さん 銃 じゅう 士 し で売 う り出 だ しかけの頃 ころ に中国 ちゅうごく へ渡 わた り、自 みずか らのファイトスタイルであるキックを中心 ちゅうしん とした武術 ぶじゅつ の修行 しゅぎょう に行 い く。その後 ご はその時 とき の影響 えいきょう か、試合 しあい 前 まえ の控 ひか え室 しつ を出 で る瞬間 しゅんかん やリングに上 あ がる直前 ちょくぜん に必 かなら ず印 しるし を結 むす び、気合 きあい を入 い れるポーズを見 み せていた。
よくZERO-ONEの時代 じだい にマイクでい放 いはな った「こんなので辛 つら いなんてまだ序ノ口 じょのくち だ。“地獄 じごく の一 いち 丁目 ちょうめ ”だぞ」は口癖 くちぐせ であり、橋本 はしもと の名言 めいげん である。
2000年 ねん にテレビ朝日 てれびあさひ で放送 ほうそう された「仮面 かめん ライダークウガ 」の主人公 しゅじんこう 五代 ごだい 雄介 ゆうすけ 役 やく として当時 とうじ 新 しん 日本 にっぽん プロレス の若手 わかて のホープであった棚橋 たなはし 弘 ひろし 至 いたり にオファーが来 き た[要 よう 出典 しゅってん ] エラー: タグの貼 は り付 づ け年月 としつき を「date=yyyy年 ねん m月 つき 」形式 けいしき で記入 きにゅう してください。間違 まちが えて「date=」を「data=」等 とう と記入 きにゅう していないかも確認 かくにん してください。 が、結局 けっきょく 撮影 さつえい 日程 にってい とプロレスの試合 しあい を両立 りょうりつ させる事 こと が困難 こんなん で話 はなし が流 なが れた際 さい に「何故 なぜ 断 ことわ ったんだ。会社 かいしゃ (新 しん 日本 にっぽん プロレス )は何 なに を考 かんが えているんだ。」と自分 じぶん のことのように怒 おこ っていたというエピソードが関係 かんけい 者 しゃ の証言 しょうげん で残 のこ っている[要 よう 出典 しゅってん ] エラー: タグの貼 は り付 づ け年月 としつき を「date=yyyy年 ねん m月 つき 」形式 けいしき で記入 きにゅう してください。間違 まちが えて「date=」を「data=」等 とう と記入 きにゅう していないかも確認 かくにん してください。 。
離婚 りこん 歴 れき があり、前 ぜん 夫人 ふじん との間 あいだ に一 いち 男 なん 二女 じじょ がいる。
獲得 かくとく タイトル
受賞 じゅしょう
出演 しゅつえん
テレビドラマ
アニメ
グラップラー刃 ば 牙 きば (アルテミス・リーガン役 やく で特別 とくべつ 出演 しゅつえん 、アイキャッチ )
SDガンダムフォース (破壊 はかい 大将軍 だいしょうぐん 破壊 はかい 丸 まる 役 やく 、サンリオのアトラクション内 ない で上映 じょうえい されたアニメーションで、モーションキャプチャーも担当 たんとう )
映画 えいが
外部 がいぶ リンク
脚注 きゃくちゅう