アナパ

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座標ざひょう: 北緯ほくい4452ふん 東経とうけい3722ふん / 北緯ほくい44.867 東経とうけい37.367 / 44.867; 37.367

アナパの紋章もんしょう

アナパ(アナーパ、ロシア: Ана́паアディゲ: Быгъуркъал、Anapa)はロシア連邦れんぽう南部なんぶクラスノダール地方ちほうにある黒海こっかい北岸ほくがん都市としアゾフうみ入口いりくちちかくに位置いちする。もとはアディゲじんのナトゥハイ部族ぶぞく港町みなとちょうであったが、今日きょうではおおくのサナトリウムホテル集中しゅうちゅうする海浜かいひんリゾート都市としとなっている。人口じんこうは8まん1863にん(2021ねん[1]

地理ちり[編集へんしゅう]

アナパのビーチ

アナパはコーカサス山脈さんみゃくから北西ほくせいひろがる山地さんちのふもとにあり、西にし黒海こっかいめんしている。アナパから西にしへはタマン半島はんとうしており、クリミア半島くりみあはんとうケルチ海峡かいきょうはさんで接近せっきんし、アゾフうみ黒海こっかいからへだてている。

アナパは州都しゅうとクラスノダルからは西にしへ160km。さいよせ都市としには、南東なんとうへ50kmほどの位置いちにある港湾こうわん都市としノヴォロシースクきたへ50kmのアゾフ海南かいなんがん位置いちする港湾こうわん都市としテムリュクがある。

黒海こっかいめんしコーカサスからつづやまかこまれているため、気候きこう温和おんわで、1がつ平均へいきん気温きおんは1、7がつ平均へいきん気温きおんは23つき平均へいきん降水こうすいりょうは400mmとなっている。しかしふゆにはマイナス20まで気温きおんがりしもりるとしもある。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ギリシアじん黒海こっかい沿岸えんがんきずいた植民しょくみん都市とし。ゴルギッピア(Gorgippia)とあるのが今日きょうのアナパ

アナパ周辺しゅうへん古代こだい以来いらい歴史れきしをもつ。最初さいしょはシンダ(Sinda)というおおきなみなとで、シンディカ(Sindica)地方ちほう中心ちゅうしん都市としであった。紀元前きげんぜん6世紀せいき、シンダのあった場所ばしょ古代こだいギリシアひとポントスじん)が植民しょくみんし、ケルチ海峡かいきょう周囲しゅういおさめるボスポロス王国おうこくおうってゴルギッピアづけた。

ゴルギッピアは紀元前きげんぜん3世紀せいきから紀元前きげんぜん2世紀せいきにかけて全盛期ぜんせいきむかえ、ゴルギッピアの船主せんしゅ形成けいせいしたギルドが黒海こっかいひがし半分はんぶん海上かいじょう交易こうえき支配しはいけんにぎった。当地とうち権力けんりょくしゃでヘロドロス(Herodoros)の息子むすこであるネオクレス(Neokles)のぞうがロシアじん考古学こうこがくしゃにより発掘はっくつされ、現在げんざいロシア美術館びじゅつかん展示てんじされている。しかしゴルギッピアは3世紀せいきころ、ボスポロス王国おうこくのほとんどの地域ちいき同様どうよう遊牧ゆうぼく民族みんぞくによる略奪りゃくだつけ、繁栄はんえいわった。

古代こだいのゴルギッピアの発掘はっくつ現場げんば
オスマン帝国ていこく要塞ようさいもん(1787ねん

15世紀せいきころオスマン帝国ていこくがこの征服せいふくし、1791ねんには要塞ようさい完成かんせいさせた。現在げんざいのアナパという地名ちめいはアディゲじんがつけたものであり、18世紀せいきごろさかのぼる。

ロシア帝国ていこくなんもアナパを攻撃こうげきした。1828ねんこった戦争せんそうでは、ロシアぐん1829ねんにアナパにたいする攻囲こういせんおこない、アナパの要塞ようさい完全かんぜん破壊はかいされた。アドリアノープル条約じょうやくによりこのはロシア帝国ていこくりょうとなった。

1836ねん要塞ようさい跡地あとちコサックがスタニツァ(コサックの居住きょじゅうするむら)をきずいた。当初とうしょ、ツァーリ・ニコライ1せいにちなんでニコラエフスカヤとづけられたが、1846ねん12月15にち、アナパの地位ちいた。

19世紀せいき後半こうはんまでは、アナパの住民じゅうみん大半たいはん漁業ぎょぎょう交易こうえきたずさわっていた。しかしこのころから温暖おんだん気候きこうかした保養ほようとしての開発かいはつすすんだ。1866ねんにはスパ療養りょうよう温泉おんせん)がひらかれ、19世紀せいきまつから20世紀せいき初頭しょとうにかけてサナトリウムも建設けんせつされ、碁盤ごばんじょう都市とし計画けいかくおこなわれ、ロシア各地かくちから休暇きゅうかおとずれるひとえた。じゅうがつ革命かくめいこう保養ほようとしての開発かいはつつづいた。

だい世界せかい大戦たいせんでは、1942ねんから1943ねんにかけてドイツ国防こくぼうぐんがアナパを占領せんりょうし、市街地しがいち破壊はかいされた。戦後せんごアナパは再建さいけんされ黒海こっかいのリゾート都市としのひとつとなり、とくピオネールなつのキャンプなど子供こどもけの様々さまざま余暇よか活動かつどう舞台ぶたいとなった。

経済けいざい[編集へんしゅう]

アナパの灯台とうだい

アナパの経済けいざい観光かんこうぎょう中心ちゅうしんである。アナパには観光かんこうシーズンになるごとに300まんにん観光かんこうきゃくおとずれる。ロシアでは典型てんけいてき家族かぞくけリゾートとしてられ、ロシア各地かくちからの空路くうろ鉄道てつどう道路どうろでのアクセスが整備せいびされている。アナパにはきたカフカース鉄道てつどうえきがあるほか、アナパ国際こくさい空港くうこうにはロシア各地かくちからの路線ろせんおお就航しゅうこうする。

ロシア帝国ていこくソビエト連邦れんぽう時代じだいから黒海こっかい沿岸えんがんにはおおくのリゾート都市としつらなっていた。ソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいソチやアナパなどロシアりょうとなった都市としは、ウクライナりょうとなったクリミア半島くりみあはんとう伝統でんとうてきなリゾート都市としや、グルジアアブハジアぞくしたガグラなどにわり、おおくのロシアじん観光かんこうきゃくあつめている。

アナパにはうつくしい砂浜すなはまひろがり、なつ快晴かいせいめぐまれる。ロシア国内こくないでは人気にんきのあるアナパだが、施設しせつ国外こくがいのリゾートにくらべてよくないこと、西欧せいおうなどロシア国外こくがいからの空路くうろすくなくモスクワクラスノダル経由けいゆしないとたどりけないことから、ロシア国外こくがいからの観光かんこうきゃくすくない。ロシアでも、トルコ地中海ちちゅうかい沿岸えんがんアンタルヤエジプト紅海こうかい沿岸えんがんシャルム・エル・シェイク人気にんきあつまっているが、これら高価こうか国外こくがいのリゾートよりも、伝統でんとうてきなロシアふうのリゾートで価格かかくやすいアナパをえらひとおおい。

アナパ周辺しゅうへん山地さんちワイン製造せいぞうでも有名ゆうめいである。またアナパ周辺しゅうへんではだい規模きぼ観光かんこう開発かいはつ計画けいかくすすむ。25km北西ほくせいにはなが砂浜すなはまひろがっているが、ここに「アナパ・ノヴァ」を建設けんせつする構想こうそうがある。この計画けいかくでは砂浜すなはま後背こうはい多数たすうのホテルやアパート、豪華ごうかホテルのはいちょう高層こうそうビル、ショッピングセンター、別荘べっそう、ゴルフコース、マリーナなどが予定よていされており、ドイツなどの資本しほん参加さんかする。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ citypopulation”. 2023ねん4がつ閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

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