せいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく関係かんけい

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アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい演説えんぜつする教皇きょうこうフランシスコ。(2015ねん

せいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく関係かんけい(せいざとアメリカがっしゅうこくのかんけい、英語えいご:Holy See-United States Relations)では、 バチカンこくにあるせい(いわゆるローマ教皇きょうこうちょう)とアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの国際こくさい関係かんけいについて説明せつめいする。

アメリカ公務こうむ筆頭ひっとうは、特命とくめい全権ぜんけん大使たいしカリスタ・ギングリッチ英語えいごばん政治せいじニュート・ギングリッチつま)である。せいは、2016ねん4がつ12にち就任しゅうにんしたクリストフ・ピエール英語えいごばん大司教だいしきょう教皇きょうこう大使たいしとして代表だいひょうつとめる。ざいバチカンアメリカ大使館たいしかんは、ローマのVilla Domizianaにある。ざいアメリカ・ローマ教皇きょうこう大使館たいしかんワシントンD.C.の3339 Massachusetts Avenue,N.Wにある。

歴史れきし[編集へんしゅう]

1797ねん-1867ねん[編集へんしゅう]

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくジョージ・ワシントン大統領だいとうりょう教皇きょうこうピウス6せいしたで1797ねんから教皇きょうこうりょうとの領事りょうじ関係かんけいおこなうようになり、アンドリュー・ジョンソン大統領だいとうりょうピウス9せいとの1867ねんまでつづけていた。教皇きょうこうとの外交がいこう関係かんけいは、教皇きょうこうりょう元首げんしゅとしての立場たちばで、ジェームズ・ポーク大統領だいとうりょうの1848ねんからジョンソン大統領だいとうりょうの1867ねんまで大使たいしレベルではかったが存在そんざいしていた。1867ねん2がつ28にちアメリカ連邦れんぽう議会ぎかいせいへのアメリカ外交がいこう使節しせつだんたいする以後いご資金しきん提供ていきょう禁止きんしする法案ほうあんとおしたことで、これらの関係かんけい消滅しょうめつした。この決定けっていは、エイブラハム・リンカーン大統領だいとうりょう暗殺あんさつ陰謀いんぼう加担かたんしたカトリック教徒きょうとメアリー・サラット英語えいごばん有罪ゆうざい判決はんけつおよび絞首刑こうしゅけいいきおいをした、アメリカにおけるはんカトリック思想しそうたかまりにもとづくものだったとされている[1]彼女かのじょ息子むすこジョン・サラット英語えいごばんならびにカトリック教徒きょうとは、この暗殺あんさつについてジョン・ウィルクス・ブース(リンカーン暗殺あんさつ実行じっこうはん)ととも計画けいかくてたと非難ひなんされた。かれはローマ・カトリック教会きょうかいから聖域せいいきあたえられ、イタリアに逃亡とうぼうして教皇きょうこうズアーブへいとして従事じゅうじした。城壁じょうへきないにて以前いぜんざいローマのアメリカ大臣だいじん邸宅ていたくない毎週まいしゅう開催かいさいされていたプロテスタントの礼拝れいはい祝賀しゅくがを、教皇きょうこうきんじてしまったとのせつもある[2]

1867ねん-1984ねん[編集へんしゅう]

1867ねんから1984ねんまで、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくせい外交がいこう関係かんけいかった。いくにんかの大統領だいとうりょうは、国際こくさい人道的じんどうてきならびに政治せいじてき問題もんだい議論ぎろんのためせい定期ていき訪問ほうもんする個人こじんてき特命とくめい全権ぜんけん公使こうし任命にんめいしている。郵政ゆうせい長官ちょうかんジェームズ・ファーリー英語えいごばんがその公使こうしいた最初さいしょ人物じんぶつとされる。ファーリーはせいとの関係かんけい正常せいじょうした最初さいしょのアメリカ政府せいふ高官こうかんであり、イタリアの定期ていきせんコンテ・ディ・サヴォイアごうソビエト外務がいむ人民じんみん委員いいんマクシム・リトヴィノフとも郵政ゆうせい長官ちょうかんがヨーロッパにけて出航しゅっこうした1933ねんのことである。イタリアにて、ファーリーはピウス11せい謁見えっけんし、教皇きょうこうしょくを1939ねんぐことになっていたパチェッリ枢機卿すうききょうピウス12せい)と夕食ゆうしょくともにした[3]マイロン・チャールズ・テイラー英語えいごばんは1939ねんから1950ねんまで、大統領だいとうりょうフランクリン・ルーズベルトおよびハリー・S・トルーマンに(バチカンへの特命とくめい公使こうしとして[4]つかえた[5]

ニクソンフォードジミー・カーターレーガンかく大統領だいとうりょう教皇きょうこうへの個人こじんてき特命とくめい全権ぜんけん公使こうし任命にんめいしている。また前述ぜんじゅつ大統領だいとうりょうくわえて、トルーマン[6]アイゼンハワー[7]ケネディ[8]ジョンソン[9]およびそれ以降いこう大統領だいとうりょう全員ぜんいんが、くろ衣装いしょうとベールをけた大統領だいとうりょう夫人ふじんともなって、通例つうれいだとかれらの政権せいけん最初さいしょすうげつ以内いないにバチカンへ旅行りょこうすることで、教皇きょうこう祝福しゅくふくさずかりにさんじている[10][11][12][13][14][15][16][17][18][19][20]

1951ねん10がつ20日はつか、トルーマン大統領だいとうりょうマーク・W・クラークもと大将たいしょうせいへのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく使者ししゃ任命にんめいした。 クラークはのちトム・コナリー上院じょういん議員ぎいんおよびプロテスタント団体だんたいからの抗議こうぎけて、1952ねん1がつ13にちにこの任命にんめい固辞こじした。公的こうてき禁止きんしは1983ねん9がつ22にちまでつづいて、「ルガーほう」 (Lugar Act) によって撤廃てっぱいされた[21]

バチカンは、歴史れきしてきにはすくなくともジョン・F・ケネディの大統領だいとうりょう就任しゅうにんまではべいてき[注釈ちゅうしゃく 1]だと非難ひなんされてきた(せいから異端いたんだと非難ひなんされたアメリカニズム(Americanism)や、アメリカのはんカトリック主義しゅぎ英語えいごばん参照さんしょう)。非難ひなんだい部分ぶぶんポール・ブランシャード英語えいごばん著書ちょしょAmerican Freedom and Catholic Power』にることができ、そこではせい危険きけんかつ強力きょうりょくで、外国がいこく民主みんしゅてき制度せいどであるとの理由りゆう糾弾きゅうだんされていた。

1984ねん-現在げんざい[編集へんしゅう]

フランシスコ教皇きょうこうオバマ大統領だいとうりょう(2015ねん、ホワイトハウスにて)

1984ねん1がつ10日とおかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくきよし外交がいこう関係かんけい樹立じゅりつ発表はっぴょうした[22][23]ながきにわたるつよ国内こくない反対はんたい年譜ねんぷとは対照たいしょうてきに、今回こんかい議会ぎかい裁判所さいばんしょ、そしてプロテスタント団体だんたいからの反対はんたいがほとんどなかった[24]。1984ねん3がつ7にち上院じょういん議会ぎかいウィリアム・A・ウィルソン英語えいごばん最初さいしょざいバチカン・アメリカ大使たいしとして承認しょうにんした。 ウィルソン大使たいしは1981ねんにおけるレーガン大統領だいとうりょう教皇きょうこうへの個人こじんてき特命とくめい公使こうし以来いらいのこととなった[23]せいピオ・ラギ英語えいごばん大司教だいしきょう最初さいしょのアメリカの教皇きょうこう大使たいし大使たいし相当そうとうする)に指名しめいした[23]。ラギ大司教だいしきょうは1980ねん以来いらい、アメリカにおけるカトリック教会きょうかいヨハネ・パウロ2せい使徒しと代表だいひょうしゃであった。レーガン大統領だいとうりょう教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい関係かんけいは、反共はんきょう主義しゅぎ共有きょうゆうおよびソビエトをポーランドそといやることへのつよ関心かんしんから、とく緊密きんみつであった[25]。このりょうはまた、1981ねんはるにわずか6週間しゅうかんちがいの暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんたがいにびたことで、共通きょうつうきずなつちかった(レーガン大統領だいとうりょう暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんおよびヨハネ・パウロ2せい暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん参照さんしょう)。

アメリカ同時どうじ多発たはつテロ事件じけんつづいて2001ねんからアメリカのたいテロ戦争せんそうはじまると、バチカンは一般いっぱんてきたいテロ戦争せんそうへの批判ひはんを、とくイラクにおけるアメリカの政策せいさく批判ひはんした[26]。2009ねん7がつ10日とおかバラク・オバマ大統領だいとうりょうベネディクト16せいはローマで会談かいだんした[27]ざいバチカン米国べいこく大使館たいしかんざいイタリア・アメリカ大使館あめりかたいしかんおな場所ばしょ移転いてんする計画けいかくあんは、一部いちぶもとアメリカ大使たいしからの批判ひはんこした[28]。2014ねん3がつ27にち、オバマとフランシスコ教皇きょうこうはローマで会談かいだんした。これは2015ねん9がつにおけるフランシスコ教皇きょうこうの2015ねんきたアメリカ訪問ほうもんにつながり、そこでキューバを訪問ほうもんしたのちかれアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにもやってて、フィラデルフィアで開催かいさいされた世界せかい家族かぞく会議かいぎ英語えいごばん参加さんかし、ワシントンD.C.やニューヨークにも来訪らいほうした[29]

アメリカのトランプ大統領だいとうりょうメラニア大統領だいとうりょう夫人ふじんがフランシスコ教皇きょうこう謁見えっけんする様子ようす(2017ねん5がつ24にち、バチカンこくにて)

2015ねん6がつ、アメリカときよし税務ぜいむ情報じょうほう自動じどう交換こうかんつうじてオフショア課税かぜい回避かいひ削減さくげんすることを目的もくてきとした、最初さいしょ政府せいふあいだ協定きょうてい締結ていけつした[30]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ だい大戦たいせん前後ぜんこうにしばしば使つかわれていた「Un-American」の訳語やくご反米はんべいているが、米国べいこくがわからて「アメリカと相容あいいれない」というニュアンスがつよい。当時とうじ米国べいこく議会ぎかいには、このべい活動かつどう摘発てきはつする下院かいんべい活動かつどう委員いいんかい存在そんざいしていた。
出典しゅってん
  1. ^ US-Vatican Relations: 25th Anniversary and a New President”. The Institute of World Politics (Spring 2009). 2014ねん1がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ Nicholson, Jim (2004ねん). “The United States and the Holy See: The Long Road”. Legionnaires Praying for the Clergy Apostolate. 2007ねん5がつ27にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん。 “The critics finally won out in 1867 when Congress withdrew all funding for the legation in Rome. The apparent reason was a rumor relating to the religious freedom of Protestants in the Papal States. From the beginning of the legation in Rome, Papal authorities had allowed the celebration of Protestant religious services in the home of the American Minister. When the services grew, they were moved to a rented apartment under the seal of the American Legation to accommodate the participants. The news floating around Washington and being reported in the New York Times was that the Pope had forced the protestant group outside the walls of Rome. This, according to Rufus King, the American Minister himself, was untrue in its entirety.”
  3. ^ Farley, James (1948). Jim Farley's Story: The Roosevelt Years. New York City: McGraw Hill. ISBN 978-1430450610. https://archive.org/stream/jimfarleysstory017770mbp/jimfarleysstory017770mbp_djvu.txt 
  4. ^ Camile M. Cianfarra,"TAYLOR TO RESIGN VATICAN POST SOON",. The New York Times. p. 24.
  5. ^ John S. Conway, "Myron C. Taylor's Mission to the Vatican 1940-1950." Church History 44.1 (1975): 85-99.
  6. ^ The Trumans Meet the Pope During Vatican Visit; Truman in Cutaway Coat”. New York Times. 2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  7. ^ Travels of President Dwight D. Eisenhower”. U.S. Department of State Office of the Historian. 2011ねん12月4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  8. ^ Travels of President John F. Kennedy”. U.S. Department of State Office of the Historian. 2011ねん12月4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  9. ^ Pope Paul VI Visit to the United Nations, 1964”. Vatican.va. 2013ねん3がつ17にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  10. ^ en:List of meetings between the Pope and the President of the United States
  11. ^ Travels of President Richard M. Nixon”. U.S. Department of State Office of the Historian. 2011ねん12月4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  12. ^ Travels of President Gerald R. Ford”. U.S. Department of State Office of the Historian. 2011ねん12月4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  13. ^ Holy See Press Office - His Holiness Pope John Paul II Biography”. Vatican.va. 2011ねん11月7にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  14. ^ Travels of President Ronald Reagan”. U.S. Department of State Office of the Historian. 2011ねん12月4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  15. ^ Travels of President George H.W. Bush”. U.S. Department of State Office of the Historian. 2011ねん12月4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  16. ^ Travels of President William J. Clinton”. U.S. Department of State Office of the Historian. 2011ねん12月4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  17. ^ Travels of President George W. Bush”. U.S. Department of State Office of the Historian. 2011ねん12月4にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  18. ^ Obama holds first talks with Pope”. BBC News (2009ねん7がつ10日とおか). 2013ねん3がつ17にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2010ねん8がつ2にち閲覧えつらん
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  20. ^ Trump 'determined to pursue peace' after Pope meeting”. BBC News. 2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
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  22. ^ Bilateral Relations of the Holy See”. Vatican.va (2014ねん). 2014ねん7がつ9にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  23. ^ a b c U.S. Relations With the Holy See”. United States Department of State (2013ねん10がつ31にち). 2014ねん9がつ29にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  24. ^ Andrew M. Essig, and Jennifer L. Moore. "US-Holy See Diplomacy: The Establishment of Formal Relations, 1984." Catholic Historical Review (2009) 95#4, pp. 741-764741-764. online
  25. ^ Marie Gayte, "The Vatican and the Reagan Administration: A Cold War Alliance?." Catholic Historical Review (2011) 97#4 pp. 713-736 online
  26. ^ U.S.-Vatican Relations”. Council on Foreign Relations (2009ねん7がつ14にち). 2013ねん9がつ3にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  27. ^ Saul, Michael (2009ねん7がつ10日とおか). “President Obama, Pope Benedict XVI meet for first time in Rome”. New York Daily News. オリジナルの2013ねん12月23にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131223041744/http://www.nydailynews.com/news/politics/president-obama-pope-benedict-xvi-meet-time-rome-article-1.427042 2009ねん7がつ12にち閲覧えつらん 
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  29. ^ Abdullah, Halimah (2014ねん3がつ27にち). “Obama, Pope Francis meet for first time”. CNN. 2019ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  30. ^ Mcelwee, Joshua (2015ねん6がつ10日とおか). “Vatican and US sign first governmental agreement to report tax evasion”. Vatican Insider? La Stampa. 2015ねん7がつ11にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん7がつ10日とおか閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

パブリックドメイン この記事きじにはパブリックドメインである、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務省こくむしょう作成さくせいしたつぎ文書ぶんしょ本文ほんぶんふくむ。U.S. Bilateral Relations Fact Sheets. United States Department of State. http://www.state.gov/r/pa/ei/bgn/3819.htm#relations