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アンナ・ヤロスラヴナ

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アンヌ・ド・キエフ
Anne de Kiev
アンヌ・ド・キエフぞうサンリス
在位ざいい 1051ねん - 1060ねん

出生しゅっしょう 1024/32ねん
キエフ大公たいこうこくキエフ
死去しきょ 1075ねん9月5にち
埋葬まいそう フランス王国おうこく、セルニー、ヴィリエール=オー=ノナン修道院しゅうどういん
結婚けっこん 1051ねん5月19にち ランスだい聖堂せいどう
1062ねん
配偶はいぐうしゃ フランスおうアンリ1せい
  ヴァロワはくラウル4せい
子女しじょ フィリップ1せい
ロベール
エマ
ユーグ1せい
父親ちちおや キエフ大公たいこうヤロスラフ1せい
母親ははおや インゲゲルド・アヴ・スヴェーリエ
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アンナ・ヤロスラヴナウクライナАнна Ярославна)またはアンヌ・ド・キエフフランス語ふらんすご: Anne de Kiev1024/32ねん - 1075ねん)は、フランスおうアンリ1せいの2度目どめ王妃おうひキエフ大公たいこうヤロスラフ1せいつまインゲゲルド(スウェーデンおうオーロフむすめ)のむすめ

生涯しょうがい

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幼少ようしょう

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画面がめんかってみぎはし人物じんぶつはアンナ・ヤロスラヴナか、本人ほんにんではなく兄弟きょうだいあねだれかととなえるせつがある[注釈ちゅうしゃく 1]。(せいソフィアだい聖堂せいどうのフレスコ、キエフ)

ちちヤロスラフ1せいノヴゴロドこうキエフ大公たいこうにつきけんこうしたわれ、はは後妻ごさいでスウェーデンから輿入こしいれをしたインゲゲルド英語えいごばんであり、きょうだいのなん番目ばんめまれたか明確めいかくつたわっていない。フィリップ・デロールメ英語えいごばんせつでは生年せいねんを1027ねんとしており[1]一方いっぽうアンドリュー・グレゴロヴィチ(Andrew Gregorovich)はキエフの年代ねんだい引用いんようして、ヤロスラフ1せいむすめまれたという記述きじゅつしめ[2]1032ねんせつ提案ていあんする。史料しりょうのちづけはなくとも、すえであることはおそらくあやまりではないこと、幼少ようしょう記録きろくがほとんどのこっていないことは明白めいはくで、めて自分じぶん名前なまえつづることはできたと類推るいすいする資料しりょうがあり、1061ねんにキリル文字もじ署名しょめいしるしている[1]ちちおうがユーゴスラビアの各地かくち学校がっこうてさせたと前出ぜんしゅつのデロールメはしめし、家族かぞくないでもきをおぼえさせ教養きょうようにつけさせたというせつしめして、アンナ・ヤロスラヴナは教養きょうようじんであったという[1]論客ろんかくグレゴロヴィチはこのおおやけおんなフランス語ふらんすごまなんで、フランス王室おうしつへの輿入こしいれにそなえたととなえる[3]

婚約こんやく

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アンリは婚約こんやくしゃであったマティルデ・フォン・フランケン神聖しんせいローマ皇帝こうていコンラート2せいむすめ)、そのめいであったさきマティルド・ド・フリーズくしたのち、ヨーロッパのかく王家おうけ貴族きぞくなか王妃おうひにふさわしいひめはいないかさがしたが[4]、なかなかつからなかった。当時とうじ、6親等しんとう以内いない血族けつぞくこん禁止きんしされており、長年ながねん政略せいりゃく結婚けっこんかえしのせいで、のつながりのない結婚けっこん年齢ねんれい女性じょせいさがすことはむずかしかった。

フランスおうアンリが18さいになった1080ねんだい後半こうはんに、アンナ・ヤロスラヴナをのぞんで折衝せっしょうはじまる。さきどもをとむらい嫡子ちゃくしがないおうたいして、血族けつぞくこん反対はんたい教会きょうかいあつたかまりつつあった。キエフ大公たいこう家系かけいはフランスともえんがあり、ヤロスラフ1せいビザンチン帝国ていこく影響えいきょうつよまらないようにつとめ、むすめたちを西側にしがわ諸国しょこく王室おうしつとつがせていたのである[1]

アンリおうモーのゴーティエ司教しきょう (Gauthier of Meauxショーニー英語えいごばんのゴスリン司教しきょう (Goscelin of Chauny無名むめい顧問こもんだん随行ずいこうさせ、1049ねんあきから1050ねんはるのいずれかの時期じきにキエフ王宮おうきゅうのヤロスラフのもとにつかわした。当時とうじ、キエフ大公たいこうにさしける外交がいこう使節しせつには2タイプがあり、シャロンのロジェ司教しきょう同行どうこうした可能かのうせいはある[1][3][5]婚姻こんいんをめぐる交渉こうしょう持参じさんきんめは記録きろくのこっていないものの、キエフを出発しゅっぱつしたアンナは〈豪華ごうかおくもの〉をたずさえたとつたわる[1]

歴史れきしグレゴロヴィチは、このときにフランスにもたらされた宝石ほうせき貴石たかいしなかから、シュジェール修道院しゅうどういんちょう(スュジェ、1081ねんごろ-1151ねん)にジャシントせき英語えいごばん下賜かしして、サン=ドニだい聖堂せいどう(パリ)のせいひつ(せいひつ)をかざらせたと主張しゅちょうする[3][注釈ちゅうしゃく 2]おおやけおんないちぎょうは1050ねんなつもしくはあきにキエフをはなれて、ランスにかった[1]

アンリがキエフ大公たいこうこくまで派遣はけんした使節しせつおおやけおんなアンナ[注釈ちゅうしゃく 3]れて帰国きこくした。けば、ヤロスラフこうははひがしマ帝国まていこく皇女おうじょだといい[注釈ちゅうしゃく 4][よう出典しゅってん]、この結婚けっこんで、かつてのローマ皇帝こうてい末裔まつえい縁者えんじゃになり、カペー王座おうざ権威けんいがもたらされるとアンリはかんがえた。

婚約こんやく直後ちょくごまったフランス語ふらんすごはなせなかったアンナだが、ほとんどきができなかったアンリにたいし、アンナは5ヵ国かこくはな才媛さいえんで、婚約こんやくしゃつパリまで移動いどうした日数にっすうフランス語ふらんすごおぼえてしまうほどであった。

ビザンティン帝国ていこく影響えいきょうつよかったキエフはフランスより文化ぶんかてき先進せんしんしており、パリにいたアンナは街並まちなみのみすぼらしさにショックをけ、さらに野蛮やばんで、不潔ふけつかつ教養きょうようのフランスじん印象いんしょうたなかった。おっとアンリも例外れいがいではなく教養きょうようのない田舎いなかしゃひょうしてなげき、アンナは祖国そこくちちへ「家々いえいえ陰気いんき教会きょうかいみにくく、習慣しゅうかんはとても不愉快ふゆかい」とおくっている[8]

たいするアンリはブロンド美女びじょであったアンナにたちまちしんうごかされ、1051ねん5がつ19にちランスだい聖堂せいどう結婚けっこんする[注釈ちゅうしゃく 5]と、以降いこう、アンリは王妃おうひをアンヌと熱愛ねつあいした。

王妃おうひとして

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摂政せっしょうとして

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ウクライナの硬貨こうかきざまれたアンヌぞう(2014ねん発行はっこう

1060ねんにアンリがぼっすると、まだ7さい幼年ようねんだったフィリップを補佐ほさして、アンヌはフランスはつ王妃おうひ摂政せっしょうつとめ、後任こうにんフランドルはくボードゥアン5せい就任しゅうにんした。アンヌはフランス語ふらんすごこそ流暢りゅうちょうではなかったが、当時とうじ女性じょせいにはめずらしくきができたため、その地位ちいつとまったものとかんがえられる[よう出典しゅってん]

おっとうしなってあいだもなく、アンナはヴァロワはくラウル4せいあいうようになり、それをかくそうともしなかった。ラウルはつま離縁りえんし1062ねんにアンナと再婚さいこんした[8]。この結婚けっこんはヴァロワはく政治せいじてき野心やしんあらわれであると貴族きぞく警戒けいかいした。前妻ぜんさいは、そもそも血族けつぞくこんであったと結婚けっこん無効むこうをいいたてられるとローマ教皇きょうこうちょう不義ふぎ告発こくはつをして報復ほうふくし、教皇きょうこうアレクサンデル2せいは、アンヌとラウルを破門はもんした。

宮廷きゅうていからとおざけられた2人ふたりは、それでもなかむつまじくらした。1074ねん9がつにラウルがくなると、フィリップ1せいははアンヌをゆるして宮廷きゅうていむかえた。1075ねんにアンヌはくなり、セルニーのヴィリエール=オー=ノナン修道院しゅうどういんほうむられたといわれる。

没後ぼつご影響えいきょう

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サンヴァンサン修道院しゅうどういんつアンヌぞう(2011ねん
同じ修道院で1996年撮影された写真。碑文はこの後、修正された。
おな修道院しゅうどういんで1996ねん撮影さつえいされた写真しゃしん碑文ひぶんはこののち修正しゅうせいされた。

大衆たいしゅう文化ぶんか

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歴史れきしファンはフランスとロシア外交がいこう関係かんけいえた18世紀せいきから19世紀せいきにわたってふたたびアンヌに関心かんしんせ、すうおおくの伝記でんき出版しゅっぱんされ、またわすれられた。20世紀せいきウクライナの国粋こくすい主義しゅぎ英語えいごばんがアンナを運動うんどう象徴しょうちょうにした[1]。それとはまったく無関係むかんけいきゅうソビエト連邦れんぽう映画えいが『Yaroslavna, the Queen of France』(1978ねん仮題かだいフランス女王じょおうヤロスラヴナ)が制作せいさくされる。

歌曲かきょく「アンナ・ヤロスラフナ」はアンティン・ルドニツキーウクライナばんき、初演しょえんカーネギー・ホール(1969ねんニューヨーク)である。ウクライナ政府せいふは、記念きねん切手きって(1998ねん[3])を発行はっこうしてアンナ・ヤロスラヴナの事績じせきをたたえたほか、サンリスにあたらしい銅像どうぞうてる計画けいかく後援こうえんして2005ねん6がつ22にち式典しきてんではヴィクトル・ユシチェンコ大統領だいとうりょう除幕じょまくした[3]

家族かぞく

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アンリとのあいだに3にん男子だんしと1じょまれた。

  • フィリップ(1052ねん - 1108ねん) - 長男ちょうなん、のちのフィリップ1せい
  • ロベール(1054ねん - 1065ねんごろ) - 二男じなん、10さい夭折ようせつ
  • エマ(1055ねん - 1109ねんごろ) - 長女ちょうじょ
  • ユーグ(1057ねん - 1101ねん) - 三男さんなんヴェルマンドワはく女子じょし相続そうぞくじん結婚けっこん、のちにクレピーはくぐ。1101ねん十字軍じゅうじぐん出征しゅっせいちゅうタルスス戦死せんし。ユーグ・ル・グラン王子おうじ(Hugues le Grand)あるいはユーグ・マニュス(Hugues Magnus)とばれた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ アンナ・ヤロスラヴナだとするのは美術びじゅつ史家しかViktor Lazarev英語えいごばん兄弟きょうだいあねだれかでありおおやけおんな本人ほんにんではないというのは歴史れきしロベール・アンリ・ボーティエ英語えいご主張しゅちょう
  2. ^ シュジェール修道しゅうどう院長いんちょう言葉ことば引用いんよう[6][7]
  3. ^ アンナの名前なまえフランス語ふらんすごでアンヌまたはアニエスともばれた。
  4. ^ アンナのはは出自しゅつじには現在げんざい異論いろんがある。
  5. ^ 婚礼こんれい正餐せいさん母国ぼこくウクライナの伝統でんとうでは5ひんのコース料理りょうりであるのに、3ひんしか給仕きゅうじされなかったことにもアンナは不満ふまんをもらした。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h Shevelov 1978, doi:10.1515/9783110802146.249
  2. ^ Zavalina, Oksana L. (2010-11-30). “Cossack Bibliography: A Selected Bibliography of the Zaporozhian and Other Cossacks of Ukraine, the Don Cossacks of Russia and the Kuban Cossacks , by Andrew Gregorovich: Ukrainian translation of the introduction by Marta Olynyk. Toronto: Forum, 2008. 371 pp. ISBN 9780921537656.” (英語えいご). Slavic & East European Information Resources 11 (4): 391–393. doi:10.1080/15228886.2010.523878. ISSN 1522-8886. http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/15228886.2010.523878. 
  3. ^ a b c d e Gregorovich, Andrew (2011). Anna Yaroslavna, Queen of France & Princess of Ukraine: Anne De Kiev [アンナ・ヤロスラフナ、フランス女王じょおうにしてウクライナこうおんな:キエフのアンヌ]. Toronto: Forum 
  4. ^ Duby, G. J. Valeやく (1991). France in the Middle Ages, 987–1460. Oxford. p. 117 
  5. ^ Raffensperger 2012, pp. 94–97
  6. ^ Bauthier 1985, p. 550
  7. ^ Hallu 1973, p. 168
  8. ^ a b ハバード 2018, p. 45.

参考さんこう文献ぶんけん

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おも執筆しっぴつしゃせいじゅん

洋書ようしょ

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せいのアルファベットじゅんウィキデータより。

  • Henry Gardiner Adams, ed. (1857ねん), “Anne of Russia” (英語えいご), A Cyclopaedia of Female Biography: 53 , Wikidata Q115751576

書誌しょし情報じょうほう

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  • Bogomoletz, Wladimir V (2005). “Anna of Kiev. An enigmatic Capetian Queen of the eleventh century. A reassessment of biographical sources” (英語えいご). French History 19 (3). 
  • Bouyer, Christian (1992) (フランス語ふらんすご). Dictionnaire des Reines de France. Paris: Perrin. pp. 135–137  ISBN 2-262-00789-6
  • Dauxois, Jacqueline (2003) (フランス語ふらんすご). Anne de Kiev. Reine de France. Paris: Presse de la Renaissance  ISBN 2-85616-887-6.
  • de Caix de Saint-Aymour, Amédée (1896) (フランス語ふらんすご). Anne de Russie, reine de France et comtesse de Valois au XIe siècle. Paris: Honoré Champion. 
  • Delorme, Philippe (2015) (フランス語ふらんすご). Anne De Kiev : Épouse de Henri Ier. Paris: Pygmalion  ISBN 978-2756414898
  • Hallu, Roger (1973) (フランス語ふらんすご). Anne de Kiev, reine de France. Rome: Editiones Universitatis catholicae Ucrainorum 
  • Horne, Alistair (2005) (英語えいご). La belle France: A Short History. New York: Knopf. https://archive.org/details/labellefrancesho00horn  ISBN 9781400041404
  • Lawrence, Cynthia, ed (1997) (英語えいご). Women and Art in Early Modern Europe: Patrons, Collectors, and Connoisseurs. ペンシルベニア州立しゅうりつ大学だいがく出版しゅっぱんきょく 
  • Lobanov-Rostovskii, Aleksandr Iakovlevich (1825) (フランス語ふらんすご). Recueil de Pièces Historiques sur la reine Anne ou Agnès, épouse de Henri Ier, Roi De France, et Fille de Iarosslaf Ier, Grand Duc de Russie. Paris: Typ. De Firmin Didot 
  • McLaughlin, Megan (2010) (英語えいご). Sex, Gender, and Episcopal Authority in an Age of Reform, 1000–1122. Cambridge University Press. http://www.history.illinois.edu/people/megmclau 
  • Raffensperger, Christian (2012) (英語えいご). Reimagining Europe: Kievan Rus' in the Medieval World. Harvard University Press  ISBN 978-0674065468
  • Raffensperger, Christian (2016). Ties of Kinship: Genealogy and Dynastic Marriage in 'Kyivan Rus'. Harvard University Press  ISBN 978-1932650136
  • Sokol, Edward D. (1973). “Anna of Rus, Queen of France”. The New Review. A Journal of East European History (13): 3–13. 
  • Treffer, Gerd (1996). “Die französischen Königinnen. Von Bertrada bis Marie Antoinette”. Jahrhundert (Pustet: Regensburg) 8 (18): 81–83.  ISBN 3-7917-1530-5
  • Ward, Emily Joan (2016-03-08) (英語えいご). Anne of Kiev (c.1024-c.1075) and a reassessment of maternal power in the minority kingship of Philip I of France. Institute of Historical Research, London University 
  • Woll, Carsten (2002) (ドイツ). Die Königinnen des hochmittelalterlichen Frankreich 987-1237/38. 24. Stuttgart: Franz Steiner. 109–116  ISBN 3-515-08113-5

外部がいぶリンク

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