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エズラ

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エズラヘブライ: עֶזְרָא‎、ラテン文字もじ表記ひょうき: Ezra)は、『旧約きゅうやく聖書せいしょ』の登場とうじょう人物じんぶつ

旧約きゅうやく聖書せいしょ』によれば、アロン家系かけい祭司さいしで、エレアザルまたピネハス子孫しそん(「エズラ」7:1-5、7:11)。写字しゃじせい(「エズラ」7:6)で、ヘブライアラムけたとおもわれる(「エズラ」4:8-6:18、7:12-26はいずれもアラムかれている)。

エズラ、ネヘミヤによるエズラ

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バビロンしゅうバビロンアケメネスあさペルシャキュロスおう占領せんりょうされた。キュロスおうは、紀元前きげんぜん538ねんにユダヤのしゅうみん故国ここくもどこく再建さいけんすることをゆるした。4まんにん帰還きかんし、エルサレムに神殿しんでん再建さいけんされるが、一方いっぽうでバビロンにとどまったしゅうみんのコミュニティは、ペルシャの統治とうちもと繁栄はんえいし、重要じゅうよう地位ちいのぼるものもいた[1]

その一部いちぶみんエルサレム帰還きかんしはじめて80ねん紀元前きげんぜん458ねんペルシアおうアルタシャスタ治世ちせいだい7ねん、エズラはおう許可きょかてバビロンからエルサレムにおもむいた(「エズラ」7:1、7:6、7:8、7:11-13)。

王国おうこくないのユダヤじんだれでもこれに同行どうこうできたため、12氏族しぞくにわたるおよそ5000にん人々ひとびとあつまった。

そして、エズラはアハワがわのほとりで断食だんじき布告ふこくした。それは、大量たいりょう家財かざいはこときおう護衛ごえいたいけることのぞまなかったからである(「エズラ」8:21、8:22)。しかし、イスラエルみん祭司さいしレビじんたちが異国いこくつまをめとっていることり、自分じぶんころもいた(「エズラ」9:1-4)。そして、エズラは異国いこくつまたちをすようみんめいじたが、すぐには解決かいけつせず3ヶ月かげつ期間きかんようした(「エズラ」10:1-19)。

そうやってエズラはユダヤじん純粋じゅんすいせい回復かいふくしようとした。その紀元前きげんぜん446ねんにペルシャからネヘミヤ総督そうとくとして派遣はけんされ、ユダヤのおさめ、エルサレムの城壁じょうへき再建さいけんなどユダヤ民族みんぞく復興ふっこうつとめた。

エズラはその演壇えんだんみんまえりつほう朗読ろうどくしている(「ネヘミヤ」8:1-4)。

だいななつきの1にち、エズラは総督そうとくネヘミヤのまえでモーセのりつほうしょむと、広場ひろばあつまったみん感動かんどうしていた。エズラはみんくのをめ、べてんでしんからよろこぶようにめいじた。また、レビじんみん家長かちょうたちとりつほう研究けんきゅうつづけた。

エズラは、ユダヤじん社会しゃかい宗教しゅうきょうほうおきて統合とうごうし、のちにユダヤ民族みんぞく信仰しんこう生活せいかつ基準きじゅんとなるユダヤきょう土台どだいきずいたとわれている[1]

史実しじつとの相違そうい

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エズラのエルサレム帰還きかん年代ねんだいについては異説いせつがある。アルタクセルクセス1せい治世ちせい7ねんというのは無理むりがあり、紀元前きげんぜん458ねんではなく紀元前きげんぜん428ねんとするせつや、アルタクセルクセス2せい紀元前きげんぜん404ねん‐358ねん)の治世ちせいだとするせつ有力ゆうりょくである[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 旧約きゅうやく聖書せいしょ人名じんめい事典じてん』ジョアン・コメイちょ東洋とうよう書林しょりん、1996ねん、93-97ぺーじより引用いんよう

関連かんれん項目こうもく

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