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ゲイリー・キルドール

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲイリー・キルドール
Gary Kildall
生誕せいたん (1942-05-19) 1942ねん5月19にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ワシントンしゅうシアトル
死没しぼつ 1994ねん7がつ11にち(1994-07-11)(52さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく カリフォルニアしゅうモントレー
出身しゅっしんこう ワシントン大学だいがく
職業しょくぎょう コンピュータ科学かがくしゃ
活動かつどう期間きかん 1972ねん - 1994ねん
配偶はいぐうしゃ Dorothy McEwen Kildall
Karen Kildall
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ゲイリー・アーレン・キルドール(Gary Arlen Kildall、1942ねん5月19にち - 1994ねん7がつ11にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくコンピュータ科学かがくしゃマイクロコンピュータ起業きぎょうである。

オペレーティングシステムCP/M製作せいさくし、デジタルリサーチ(DRI, Digital Research, Inc.)を創業そうぎょうしたことでられる。キルドールは、マイクロプロセッサたんなる機器きき制御せいぎょようではなくより能力のうりょくのある「コンピュータ」とみなし、このコンセプトで起業きぎょうした最初さいしょ人々ひとびと一人ひとりだった[1]かれPBSのテレビ番組ばんぐみコンピュータ・クロニクルズ英語えいごばん』の司会しかいしゃ一人ひとりでもあった。

若年じゃくねん

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ゲイリー・キルドールはワシントンしゅうシアトルまれ、そこでそだった。一家いっか船乗ふなのりのための学校がっこう運営うんえいしていた。ちちジョセフは、ノルウェーじん祖先そせん船長せんちょうだった。ははエマはスウェーデンけいのハーフである。エマのはははスウェーデンのシェレフテオまれ、23さいのときにカナダ移住いじゅうした[2]

かれ数学すうがく教師きょうし志望しぼうしてワシントン大学だいがく(UW)に入学にゅうがくしたが、在学ざいがくちゅうコンピュータ技術ぎじゅつ興味きょうみつようになった。学士がくしごうけたのち徴兵ちょうへい義務ぎむたすためにカリフォルニアしゅうモントレーアメリカ海軍かいぐん大学院だいがくいん(NPS)で教授きょうじゅつとめた[3]。また、海軍かいぐん除隊じょたい教鞭きょうべんをとった[4]勤務きんむシリコンバレーからぐるまで1時間じかん以内いない距離きょりだった。かれ在職ざいしょくちゅう世界せかいはつ商用しょうようマイクロプロセッサであるIntel 4004はなしき、4004を購入こうにゅうして実験じっけんてきプログラムはじめた。プロセッサについてもっとよくるために、休日きゅうじつインテルコンサルタントとしてはたらいた。

かれ短期間たんきかんだけワシントン大学だいがくもどり、1972ねん計算けいさん科学かがく博士はかせごうけたのち海軍かいぐん大学院だいがくいんでの教育きょういく再開さいかいした。

かれは、今日きょうコンパイラ最適さいてき使用しようされるデータフロー解析かいせき理論りろんについての論文ろんぶん発表はっぴょうした[5]。そして、マイクロコンピュータとフロッピーディスクエマージングテクノロジー英語えいごばんについて実験じっけんつづけた。インテルはかれ8008プロセッサと8080プロセッサを使用しようしたシステムをし、1973ねんかれはつのマイクロプロセッサよう高水準こうすいじゅんプログラミング言語げんごPL/M開発かいはつした[3]同年どうねん、8080でフロッピー・ドライブが制御せいぎょできるようにCP/M作成さくせいした。これにより、マイクロコンピュータ・スケールのコンピュータではじめてすべての必要ひつよう構成こうせい要素ようそ結合けつごうされた。かれはインテルにCP/Mのデモンストレーションをしたが、インテルはほとんど興味きょうみしめさず、そのわりにPL/Mを市場いちばすことを選択せんたくをした。

職歴しょくれき

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1974ねん、キルドールとかれつまドロシーは、CP/Mの開発かいはつ継続けいぞく販売はんばいのためにIntergalactic Digital Research(のちにデジタルリサーチに改称かいしょう)を設立せつりつし、ホビイストけの雑誌ざっしにCP/Mの広告こうこくした。デジタルリサーチは、Altair 8800人気にんきのあった互換ごかんであるIMSAI 8080たいしCP/Mをライセンスした。おおくのメーカーがCP/Mのライセンスをけたため、CP/Mはデファクト・スタンダードとなり、おおくのハードウェア・バリエーションに対応たいおうしなければならなくなった。それに対応たいおうするため、キルドールはBIOS概念がいねん創始そうしした。BIOSはハードウェアに格納かくのうされた一連いちれん単純たんじゅんなプログラムで、それによりCP/M自体じたい修正しゅうせいすることなくことなるシステムじょう動作どうさできるようにした[3]

CP/Mのもとはや成功せいこうはキルドールをおどろかせた。これほどまでに大当おおあたりするとはおもっていなかったとべている[6]かれ高密度こうみつどフロッピーディスクとハードディスクにCP/Mを対応たいおうさせるのに時間じかんがかかった。ハードウェアメーカーが対抗たいこうするオペレーティングシステムを作成さくせいすることを検討けんとうはじめたため、キルドールはあわててCP/M 2を開発かいはつする計画けいかくはじめた[7]

CP/Mの人気にんきのピークであった1981ねんまでに、CP/Mは3000種類しゅるいことなるコンピューター・モデルで動作どうさし、デジタルリサーチは毎年まいとし540まんドルの収益しゅうえきげていた[3]従来じゅうらいにない革新かくしんてき機能きのうったCP/Mは爆発ばくはつてきれ、設立せつりつわずかすうねんでデジタルリサーチはきゅう成長せいちょうげたことできょまんとみにした。

IBMとの取引とりひき

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1980ねんIBMビル・ゲイツ提案ていあんでデジタルリサーチに接近せっきんした[8]IBM PCようCP/M-86ばれるCP/Mのつぎのバージョンの購入こうにゅう協議きょうぎするためだった。かれ同僚どうりょうのトム・ローランダーととも自家用じかよう飛行機ひこうきソフトウェアビル・ゴッドバウトとどけにくため、いつものように、IBMとの交渉こうしょうつまのドロシーにまかせた[1][9]。IBMの代表だいひょうは、訪問ほうもん目的もくてき説明せつめいするまえに、ドロシーに秘密ひみつ保持ほじ契約けいやくにサインするよう要求ようきゅうした。デジタルリサーチの弁護士べんごしゲリー・デービスのアドバイスにしたがい、ドロシーはゲイリーの賛成さんせいなしで合意ごうい署名しょめいすることを拒否きょひした。ゲイリーは午後ごごもどりIBMと協議きょうぎしようとしたが、かれ秘密ひみつ保持ほじ契約けいやくにサインしたかどうか、かれがIBMの代表だいひょうったかどうかについては、デジタルリサーチがわとIBMがわとではなし相反あいはんしている[10]

2しゃ合意ごういたっしなかった理由りゆうとして多数たすうせつがある。あまり製品せいひんつくっていないデジタルリサーチが、主要しゅよう製品せいひんであるCP/Mをいちかいばらいではなくロイヤルティー・ベースでろうとしていたのかもしれない[11]同社どうしゃデータゼネラルけのプログラミング言語げんごPL/I開発かいはついそがしかったため、IBMから提案ていあんされた予定よていどおりにCP/M-86をリリースすることができないと、ドロシーがおもっていたのかもしれない[12]。あるいは、かれらが単調たんちょう形式けいしきかんがえたものについてDRIが時間じかんをかけていることに、IBMの代表だいひょうおこったのかもしれない[9]。キルドールによれば、そのよるかれとドロシーは休暇きゅうかをとるためにフロリダったので、おな便びんにIBMの代表だいひょうり、機内きないでさらに交渉こうしょうして合意ごういたっしたという。IBMの主任しゅにん交渉こうしょうしゃのジャック・サムズは、ゲイリーにはっていないと主張しゅちょうしており、IBMの同僚どうりょう1人ひとりも、サムズがそのときにそうったことを確認かくにんした。代表だいひょうしゃグループのほかだれかがキルドールとおな便びんっていたかもしれないとサムズはみとめたが、それはふたたマイクロソフト交渉こうしょうするためにシアトルへかったのかもしれないとした[9]

サムズはこのはなしをゲイツにした。ゲイツは、BASICインタプリタのいくつかのプログラムをIBM PCに提供ていきょうすることですでに同意どういしていた。そのはなしについてのゲイツの印象いんしょうは、ゲイリーがまぐれに「びにった」ということだったと、ゲイツはのち記者きしゃかたった[13]。サムズは、使つかえるオペレーティングシステムをつけるために、ゲイツのもとをり、すう週間しゅうかんシアトル・コンピュータ・プロダクツ (SCP) の86-DOS提案ていあんした。これは、キルドールのCP/MのAPIの実装じっそうする独自どくじ開発かいはつされたオペレーティングシステムであった。ポール・アレンが、SCPでライセンスの取引とりひき協議きょうぎした。アレンが86-DOSをIBMのハードウェアに対応たいおうさせて、IBMはそれをPC DOSとして出荷しゅっかした[10]

キルドールはPC DOSのコピーを入手にゅうしゅしてそれを調査ちょうさし、CP/Mのソースコード使用しようしていると結論けつろんづけた。

キルドールはどんな法的ほうてき手段しゅだん利用りようできるかをゲリー・デービスに相談そうだんし、ソフトウェアのための知的ちてき所有しょゆうけんほううったえるのに十分じゅうぶん明白めいはくでないと、デイビスははなした[14]

キルドールはIBMを法的ほうてき措置そちおどし、IBMは、責任せきにん免除めんじょえにIBM PCのオプションとしてCP/M-86を提供ていきょうすることを提案ていあんした[15]。キルドールはそれをれた。かれは、IBMのあたらしいシステムは重要じゅうよう商業しょうぎょうてき成功せいこうでないとおもっていた[16]。IBM PCが発売はつばいされたとき、IBMはオペレーティングシステムを別売べつうりのオプションとして販売はんばいした。オペレーティングシステム・オプションの1つはPC DOSで、40ドルの値段ねだんがつけられた。PC DOSは必要ひつようなオプションとみなされ、ほとんどのソフトウェア・タイトルはそれを必要ひつようとした。PC DOSがない場合ばあい、IBM PCはビルトインのカセットBASICしか使用しようできなかった。CP/M-86はすうヶ月かげつに240ドルで出荷しゅっかされたが、DOSとくらべるとほとんどれず、はるかによりすくないソフトウェアのサポートしか享受きょうじゅできなかった[1]

その

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IBMとの取引とりひき喪失そうしつけ、ゲイリーとドロシーはより経験けいけんゆたかな経営けいえいじんれる必要ひつようせまられていることにづいた。そして、会社かいしゃたいするゲイリーの影響えいきょうりょくよわくなった。かれは、様々さまざま実験じっけんてき研究けんきゅうプロジェクト(マルチタスクはんCP/M(MP/M)やプログラミング言語げんごLOGO実装じっそうなど)にかかわった[3]かれLISP教育きょういくてき方言ほうげんであるLOGOが教育きょういくでBASICにってわることをのぞんだが、そうはならなかった[17]。アップルのLisaのデモンストレーションをのち、キルドールはGraphical Environment Manager(GEM)デスクトップとばれるデジタルリサーチ独自どくじグラフィカルユーザインタフェース作成さくせい監督かんとくした。1991ねんノベルがデジタルリサーチを買収ばいしゅうした[14]

キルドールは、デジタルリサーチのそとでもコンピュータ関連かんれんのプロジェクトをすすめた。1983ねんからはじまった、パーソナル・コンピューティングの傾向けいこうげる公共こうきょう放送ほうそうのテレビ番組ばんぐみコンピュータ・クロニクルズ英語えいごばん』の司会しかいしゃ一人ひとりとなった。KnowledgeSetというべつ会社かいしゃ起業きぎょうし、ひかりディスク技術ぎじゅつをコンピュータでの使用しよう適応てきおうさせた。1985ねんに、世界せかいはつのコンピュータ百科ひゃっか事典じてんであるグロリアの『アカデミックアメリカン百科ひゃっか事典じてん英語えいごばん』を公開こうかいした[10]。キルドールの最後さいご事業じぎょうテキサスしゅうオースティン拠点きょてんくPrometheus Light and Soundで、固定こてい電話でんわ携帯けいたい電話でんわ統合とうごうした家庭かていようPBXシステムを開発かいはつした[3]

私生活しせいかつ

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キルドールの同僚どうりょうは、かれ創造そうぞうてきで、寛大かんだいで、大胆だいたんであるとう。飛行機ひこうきだけでなく、かれスポーツカーカーレースボート英語えいごばんきだった。そして、かれ生涯しょうがいにわたってうみあいしていた[1][3]

キルドールは、IBM事件じけん過去かこのものとして、その前後ぜんご業績ぎょうせきられることをのぞんだ。しかし、かれ貢献こうけんについての記憶きおくうすれてき、かれとビル・ゲイツとの比較ひかくえず直面ちょくめんするようになった。ゲイツとジャーナリストたちによって、宿命しゅくめいてきなIBMとデジタルリサーチの会議かいぎについての、「キルドールは気晴きばらしに飛行機ひこうきるために無責任むせきにん休暇きゅうかをとった」という伝説でんせつ次第しだい成長せいちょうした。かれはその伝説でんせつえず否定ひていするのに嫌気いやけがさした[12]

1992ねん、ワシントン大学だいがくがコンピューターサイエンス・プログラム記念きねんさい優秀ゆうしゅう卒業生そつぎょうせいとして出席しゅっせきするようかれたずねたとき、キルドールはなやんだ。ハーバードを中退ちゅうたいしたゲイツが基調きちょう演説えんぜつをしたためである。それにこたえて、かれは『Computer Connections』のタイトルで回顧かいころくはじめた[14]回顧かいころくすうにん友人ゆうじんだけに配布はいふされたが、そのなかで、人々ひとびとがソフトウェアの優雅ゆうがさを評価ひょうかしようとしたかったことにたいする欲求よっきゅう不満ふまん表明ひょうめいした[17]。そして、ゲイツについて「かれ対立たいりつしょうじさせる。かれたくみにひとあつかう。かれはユーザーである。かれは、わたし産業さんぎょうからおおくのものうばった」とべた。くわえて、最初さいしょの26のシステムコールがCP/Mのものとおなじように機能きのうしたので、かれはDOSを「明白めいはく単純たんじゅん窃盗せっとう」とべた[18]。CP/Mを主流しゅりゅうからはずすためにPC DOSとCP/M-86の価格かかくをつけたとして、かれはIBMを非難ひなんした。

ハロルド・エヴァンズ英語えいごばんは2004ねん著書ちょしょ『They Made America』のキルドールについてのしょう情報じょうほうげんとして、かれ回顧かいころく使用しようした。そして、マイクロソフトがキルドールからかれ発明はつめいうばったと結論けつろんづけた[12]。IBM PCプロジェクトからのIBM出身しゅっしんしゃは、このほん説明せつめい異議いぎとなえた。マイクロソフトはそれを「一方いっぽうてき不正確ふせいかくである」とべた[14]

ノベルにデジタルリサーチを売却ばいきゃくすることで、キルドールは裕福ゆうふくになり、オースティン郊外こうがいのウェストレイクヒルズへした。かれのオースティンのいえ湖畔こはんにあり、スポーツカーのための車庫しゃこ地階ちかいのビデオ・スタジオをそなえていた。キルドールは、リアジェット自家用じかよう小型こがたジェット機じぇっとき所有しょゆうしてみずか操縦そうじゅうし、みずうみには1せき以上いじょうのボートを所有しょゆうしていた。オースティンでは、エイズ子供こどもたちをたすけるボランティア活動かつどう参加さんかした。かれは、デジタルリサーチの本社ほんしゃちかくのカリフォルニアしゅうペブルビーチで、パノラマのオーシャンビューのだい邸宅ていたく所有しょゆうした。

事故死じこし

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1994ねん7がつ8にち、キルドールはカリフォルニアしゅうモントレーのバイカーバー英語えいごばん転落てんらくして頭部とうぶった[19]怪我けが正確せいかく状況じょうきょう不明ふめいなままであるが、かれ晩年ばんねんアルコール中毒ちゅうどくくるしんでいた[20][21]負傷ふしょう理由りゆうは、椅子いすからちたとか、階段かいだんころんだ、または何者なにものかにおそわれたといったせつがある[11]。3にち7がつ11にちモントレー半島はんとう英語えいごばん公共こうきょう病院びょういんくなった。検死けんしかんは、死因しいん頭部とうぶへの打撲だぼく特定とくていした。かれ心臓しんぞう発作ほっさ経験けいけんしていたという証拠しょうこもあったが、死因しいんとは確証かくしょうてき決定けっていされなかった[18][22][23]きたシアトルのEvergreen-Washelli Memorial Parkに埋葬まいそうされている。

転落てんらく事故じこ前日ぜんじつNHKスペシャルしん電子でんし立国りっこく取材しゅざいはんのインタビューにおうじ、「ソフトウェアでもうけてくるまジェット機じぇっときうのさ」とかたった。

評価ひょうか

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キルドールの発表はっぴょうのち、ビル・ゲイツは、キルドールは「PC革命かくめい最初さいしょのパイオニアの一人ひとり」であり「すぐれた仕事しごとをした非常ひじょう創造そうぞうてきなコンピューター科学かがく専門せんもんである。我々われわれ競争きょうそうしゃであったが、わたしはPC産業さんぎょうへのかれ貢献こうけん相当そうとう敬意けいいつねっていた。かれはやすぎる非常ひじょう不運ふうんであり、かれ業績ぎょうせきしまれるものである」とコメントした[1]

1995ねん3がつ、キルドールはソフトウェア発行はっこうしゃ協会きょうかいげんソフトウェア・情報じょうほう産業さんぎょう協会きょうかい英語えいごばん)によって、マイクロコンピュータ産業さんぎょうへの以下いか貢献こうけんについて死後しご名誉めいよあたえられた[3]

  • プリエンプティブ・マルチタスクとウィンドウ生成せいせい能力のうりょくによるオペレーティングシステムおよびとメニュー選択せんたく方式ほうしきユーザ・インタフェースの導入どうにゅう
  • はつのディスケット・トラック・バッファリング方式ほうしき先読さきよみアルゴリズム、ファイル・ディレクトリ・キャッシュ、RAMディスク・エミュレータの作成さくせい
  • 1980年代ねんだいバイナリ・リコンパイラ導入どうにゅう
  • はつのマイクロプロセッサのためのプログラミング言語げんごはつコンパイラ
  • 最終さいしゅうてきやく25まん販売はんばいされた、はつのマイクロプロセッサ・ディスク・オペレーティング・システム
  • 自動じどうノンリニア再生さいせい可能かのうなビデオ・ディスクのためのはつのコンピュータ・インタフェース今日きょうのインタラクティブなマルチメディアの前兆ぜんちょうとなる)
  • はつ消費しょうひしゃCD-ROMのためのファイルシステムとデータ構造こうぞう
  • BIOSルーチンでシステムに特有とくゆうのハードウェア・インタフェースを分離ぶんりすることによる、はつ成功せいこうしたオープンシステムアーキテクチャ[24][25][26][27]

2014ねん4がつ、パシフィック・グローヴは、デジタルリサーチの初期しょき本社ほんしゃとしてもちいられたキルドールの以前いぜん住居じゅうきょ記念きねんかざがく設置せっちした[28]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e "Special Edition: Gary Kildall". The Computer Chronicles. 1995. [1]
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    [...]
    /* C P / M   B A S I C   I / O    S Y S T E M    (B I O S)
                        COPYRIGHT (C) GARY A. KILDALL
                                 JUNE, 1975                   */
    [...]
    /*  B A S I C   D I S K    O P E R A T I N G   S Y S T E M  (B D O S)
                        COPYRIGHT (C) GARY A. KILDALL
                                JUNE, 1975                          */
    [...]
    "
     
  25. ^ Kildall, Gary A. (January 1980). “The History of CP/M, The Evolution of an Industry: One Person's Viewpoint”. Dr. Dobb's Journal of Computer Calisthenics & Orthodontia. pp. 6–7. 2013ねん6がつ3にち閲覧えつらん。 “[...] The first commercial licensing of CP/M took place in 1975 with contracts between Digital Systems and Omron of America for use in their intelligent terminal, and with Lawrence Livermore Laboratories where CP/M was used to monitor programs in the Octopus network. Little attention was paid to CP/M for about a year. In my spare time, I worked to improve overall facilities [...] By this time, CP/M had been adapted for four different controllers. [...] In 1976, Glenn Ewing approached me with a problem: Imsai, Incorporated, for whom Glenn consulted, had shipped a large number of disk subsystems with a promise that an operating system would follow. I was somewhat reluctant to adapt CP/M to yet another controller, and thus the notion of a separated Basic I/O System (BIOS) evolved. In principle, the hardware dependent portions of CP/M were concentrated in the BIOS, thus allowing Glenn, or anyone else, to adapt CP/M to the Imsai equipment. Imsai was subsequently licensed to distribute CP/M version 1.3, which eventually evolved into an operating system called IMDOS. [...]”
  26. ^ Killian, A. Joseph "Joe" (2001ねん). “Gary Kildall's CP/M: Some early CP/M history - 1976-1977”. Thomas "Todd" Fischer, IMSAI. 2013ねん6がつ3にち閲覧えつらん。 “[...] When we failed to produce an operating system in a timely manner, Glenn started talking with Gary about CPM, which Gary had written for Intel under contract. It took several months of twisting Gary's arm to get Gary to port it to the 8080. The final success came when Glenn talked Gary into just separating the I/O from the rest of it, with Glenn promising to re-write the I/O module for the IMSAI 8080 (which he did). So CPM on the IMSAI was a joint effort between Glenn and Gary. [...]”
  27. ^ Oral History of Joseph Killian, Interviewed by: Bob Fraley, Edited by: Dag Spicer, Recorded: January 26, 2007, Mountain View, California, CHM Reference number: X3879.2007,”. Computer History Museum (2007ねん1がつ26にち). 2013ねん6がつ3にち閲覧えつらん。 “Killian: "[...] Intel had hired him a few months earlier to write a control program monitor to run on their little demo system for 8008 and now 8080. [...] Glenn knew this and he would be talking with Gary, and he started twisting Gary's arm. He said, "Hey Gary, why can't we run this in this IMSAI?" "The I/O's all different, won't run." But Glenn persists and finally makes a deal with Gary. He says, "Okay Gary, if you split out the I/O, I'll write the BIOS, basic I/O's system," and Glenn named it then. "We'll split it out separately. I'll write that part, as long as you can make a division in the program there." And he got Gary to do that and Glenn put those two pieces together and was running Gary's CP/M on an IMSAI. Glenn let us know that, and it wasn't too much later than Bill英語えいごばん was down there making arrangements with Gary Kildall to license CP/M. [...] Now that the BIOS is separated out, anybody could write a BIOS for their machine, if it was 8080-based, and run this, so he started selling that separately under the company Digital Research that he formed and did quite well."”
  28. ^ Sammon, John (2014ねん4がつ27にち). “Computer pioneer honored in Pacific Grove”. Monterey Herald. http://www.montereyherald.com/News/Local/ci_25645008/Computer-pioneer-honored-in-Pacific-Grove 

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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