ゲタリー (フランス語 ふらんすご :Guéthary、バスク語 ご :Getaria)は、フランス 、ヌーヴェル=アキテーヌ地域 ちいき 圏 けん 、ピレネー=アトランティック県 けん のコミューン 。かつては捕鯨 ほげい 港 みなと であり、捕鯨 ほげい が廃 すた れたあとはマグロやイワシ の漁 りょう が行 おこな われている。
ゲタリーはコート・バスク の中心 ちゅうしん 地 ち で、ビスケー湾 わん に面 めん している。まちはビアリッツ の南 みなみ 約 やく 7kmに位置 いち している[2] 。
ゲタリーには川 かわ がなく、サン=ジャン=ド=リュズ との境界 きょうかい をバルダレタ川 がわ が流 なが れる。
1193年 ねん に記 しる されたバイヨンヌの特許 とっきょ 状 じょう 台帳 だいちょう において、Cattarieとして初 はじ めて登場 とうじょう する[3] [4] 。海事 かいじ 慣習 かんしゅう 法 ほう においてはGattari。1685年 ねん にはGuattary、1761年 ねん にはSanctus Nicolaus de Guétary(いずれもバイヨンヌ司教 しきょう 座 ざ の公文書 こうぶんしょ [5] )、18世紀 せいき のカッシーニ地図 ちず においてはGuétharyであった。1863年 ねん に編纂 へんさん されたベアルン=ペイ・バスク地名 ちめい 辞典 じてん においてはGuétary[3] 。
名称 めいしょう の形態 けいたい は、中世 ちゅうせい にコート・バスクにいたガスコーニュ人 じん の存在 そんざい があるため、ギプスコア の地名 ちめい ゲタリア と同 おな じであるとはいえない。ガスコーニュ語 ご のgaytàはラテン語 らてんご のcaptareに由来 ゆらい し、『観察 かんさつ する』ことを意味 いみ する。バスク語 ご のgaitari(ガイタ の演奏 えんそう 者 しゃ )は由来 ゆらい から除 のぞ かれる[6] · [7] 。
ゲタリーもバスク自治 じち 州 しゅう のゲタリアも、よく似 に た地理 ちり 的 てき 条件 じょうけん を持 も ち、沿岸 えんがん の定住 ていじゅう 地 ち としての長 なが い海 うみ の歴史 れきし がある。
中世 ちゅうせい 、コート・バスクの村 むら のいくつかはガスコーニュ人 じん が開拓 かいたく しており、そのうえでバスク語 ご で同名 どうめい のゲタリアがあることになる。
海岸 かいがん を見下 みお ろすセマフォールの監視 かんし 所 しょ
ゲタリーでの人 ひと の定住 ていじゅう は非常 ひじょう に古 ふる い。1984年 ねん に駅 えき 近 ちか くで工事 こうじ 中 ちゅう 、ガルム や塩漬 しおづ け魚 ぎょ 用 よう の蔵 くら の遺構 いこう が発見 はっけん された。既 すで に紀元前 きげんぜん から海洋 かいよう 資源 しげん を重要 じゅうよう にして人 ひと が暮 く らしていたことが証明 しょうめい された[8] 。1988年 ねん にはラテン語 らてんご の碑文 ひぶん が見 み つかっている。
ゲタリーはラブール 地方 ちほう の一部 いちぶ である。この小 ちい さな漁村 ぎょそん をもとにラブール子爵 ししゃく は1193年 ねん に農民 のうみん を新 あら たに移住 いじゅう させた[9] 。ゲタリーはキリスト教 きりすときょう の教区 きょうく になったとみられるが、その後 ご ビダール に併合 へいごう されたため急速 きゅうそく に教区 きょうく の地位 ちい を失 うしな った[10] 。ゲタリーは1633年 ねん に再 ふたた び教区 きょうく となった。当時 とうじ のゲタリーは、主 しゅ として捕鯨 ほげい からの漁業 ぎょぎょう 収入 しゅうにゅう で成 な りたっていた。
現在 げんざい のセマフォールという場所 ばしょ は、湾 わん に面 めん した監視 かんし 所 しょ で、沖 おき を泳 およ ぐクジラや、海賊 かいぞく を監視 かんし していた。ゲタリーの漁師 りょうし はクジラを見 み つけると、港 みなと の小 ちい さなボートに乗 の って銛で漁 りょう をした。盗賊 とうぞく や海賊 かいぞく に襲 おそ われたときは、彼 かれ らはオストラピアという古 ふる い農場 のうじょう (かつてサンティアゴの巡礼 じゅんれい 路 ろ の中継 ちゅうけい 地 ち だった)へ避難 ひなん した。
近接 きんせつ するコミューンと同様 どうよう に、ゲタリーも戦争 せんそう と疫病 えきびょう に苦 くる しめられた。1419年 ねん と1438年 ねん にカスティーリャ が侵攻 しんこう 、1515年 ねん にはペスト が流行 りゅうこう した。1523年 ねん にはスペインが侵攻 しんこう した[11] 。1635年 ねん に三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう が終結 しゅうけつ すると、1636年 ねん にスペインがこの地域 ちいき に侵攻 しんこう した。ゲタリーの住民 じゅうみん は周辺 しゅうへん の村 むら と同 おな じように、住宅 じゅうたく や作物 さくもつ を残 のこ したまま逃 に げた。スペインの占領 せんりょう は1年 ねん しか続 つづ かなかったが、家畜 かちく や農作物 のうさくもつ に被害 ひがい を与 あた えた[12] 。まちは荒廃 こうはい と、農業 のうぎょう と漁業 ぎょぎょう に特 とく 化 か される資源 しげん の減少 げんしょう で、状態 じょうたい が悪化 あっか した。
1659年 ねん 、ルイ14世 せい の宮廷 きゅうてい と軍 ぐん が教会 きょうかい を通過 つうか した。王 おう とスペイン王女 おうじょ マリア・テレサ との結婚 けっこん を祝 いわ うため、後 のち に通 とお りはエコール通 どお りとされた。
フランス革命 かくめい は、1790年 ねん にコミューンとなった教区 きょうく の暮 く らしを乱 みだ したりはしなかった。聖職 せいしょく 者 しゃ ラフィットが首長 しゅちょう となった。まちは1793年 ねん に革命 かくめい 暦 れき を採用 さいよう している。1793年 ねん にはスペインとの再度 さいど の戦争 せんそう のため、かつてより多 おお くの制限 せいげん が加 くわ えられた。1813年 ねん には初代 しょだい ウェリントン侯爵 こうしゃく アーサー・ウェルズリー 将軍 しょうぐん の軍 ぐん が占領 せんりょう している。ゲタリーは非常 ひじょう に貧 まず しいまま、壊滅 かいめつ 的 てき な負債 ふさい を抱 かか えた[13] 。財務 ざいむ の改善 かいぜん は、1840年 ねん に始 はじ まる観光 かんこう 業 ぎょう と海水浴 かいすいよく の流行 りゅうこう まで待 ま たねばならなかった。リゾート地 ち としての正 ただ しい外観 がいかん と施設 しせつ を維持 いじ するため、支出 ししゅつ が避 さ けられなかったからである。ボルドーからイルン へ向 む かう鉄道 てつどう 路線 ろせん が1861年 ねん に開業 かいぎょう した。鉄道 てつどう 交通 こうつう は急速 きゅうそく に発展 はってん した[14] 。
自治体 じちたい での生活 せいかつ は貧困 ひんこん のため荒 あ れていた。多 おお く立 た ち上 あ げられた事業 じぎょう に資金 しきん と税金 ぜいきん が注 そそ ぎ込 こ まれたからである。
ドイツ軍 ぐん 、そしてスペイン軍 ぐん の占領 せんりょう の当事 とうじ 者 しゃ たちは、アンダイエ にて行 おこな われるアドルフ・ヒトラー とフランシスコ・フランコ の協定 きょうてい 締結 ていけつ に向 む かうため、ゲタリーを通過 つうか している。
1962年 ねん
1968年 ねん
1975年 ねん
1982年 ねん
1990年 ねん
1999年 ねん
2006年 ねん
2007年 ねん
1036
1034
965
1042
1105
1291
1322
1327
参照 さんしょう 元 もと - 1962年 ねん まで住民 じゅうみん 数 すう : base Cassini de l'EHESS[15] 1968年 ねん よりInsee (2倍 ばい に数 かぞ えない人口 じんこう で、2006年 ねん から自治体 じちたい のみの人口 じんこう )[16] · [17]
まちの経済 けいざい の活発 かっぱつ さは、コート・バスクに面 めん しているため観光 かんこう が盛 さか んであるおかげである。ゲタリーの海岸 かいがん にはサーフィン に適 てき した場所 ばしょ が多 おお い。
教育 きょういく ・福祉 ふくし [ 編集 へんしゅう ]
ゲタリーには小学校 しょうがっこう が1校 こう ある[18] 。
最 もっと も近 ちか い公立 こうりつ 病院 びょういん はサン=ジャン=ド=リュズにある。そのほか診療 しんりょう 所 しょ もサン=ジャンにある。救急 きゅうきゅう 病院 びょういん はバイヨンヌにある。
脚注 きゃくちゅう ・参考 さんこう 文献 ぶんけん [ 編集 へんしゅう ]
Collectif, Guéthary , Ekaina, 1991, 315 pages.
^ Gentilé sur habitants.fr
^ Distance orthodromique sur Lion 1906 .
^ a b Paul Raymond , Dictionnaire topographique Béarn-Pays basque
^ Cartulaire de Bayonne ou Livre d'Or - Manuscrit du XIV siècle - Archives départementales des Pyrénées-Atlantiques
^ Manuscrits du XVII et du XVIII siècles - Archives départementales des Pyrénées-Atlantiques
^ Jean-Baptiste Orpustan , Toponymie Basque : noms des pays, communes, hameaux et quartiers historiques de Labourd , Basse-Navarre et Soule , Centre d'études linguistiques et littéraires basques, Presses Universitaires de Bordeaux, 1997 , 194 p. (ISBN 2867810957 および 9782867810954 )
^ R. Aymard de la Société Française d'Onomastique, Toponymie Pyrénéenne, Uzos-Pau, 2000.
^ Jean-Luc Tobie, section Aux origines de Guéthary , page 141.
^ Hubert Lamant-Duhart, section De l'Ancien Régime à l'Empire , page 153
^ Victor Dubarat, Urt , ses origines, son développement , in Bulletin S.S.L.A. de Pau , 1927.
^ page 156.
^ page 157.
^ page 160.
^ Georges Pialloux, section L'époque contemporaine , page 176.
^
“Des villages de Cassini aux communes d'aujourd'hui ”. 2010年 ねん 8月 がつ 29日 にち 閲覧 えつらん 。
^
“Évolution et structure de la population (de 1968 à 2007) ”. 2010年 ねん 8月 がつ 29日 にち 閲覧 えつらん 。
^
“Recensement de la population au 1er janvier 2006 ”. 2010年 ねん 8月 がつ 29日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Site de l'école élémentaire