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コンスタンティン・パッツ - Wikipedia コンテンツにスキップ

コンスタンティン・パッツ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
コンスタンティン・パッツ
Konstantin Päts

コンスタンティン・パッツ(1934ねん

エストニアの旗 エストニア共和きょうわこく
臨時りんじ政府せいふ首相しゅしょう[1]
任期にんき 1918ねん2がつ24にち1919ねん5月8にち
後任こうにんしゃ オットー・アウグスト・ストランドマン
首相しゅしょう

任期にんき 1921ねん1がつ25にち - 1922ねん11月21にち
1923ねん8がつ2にち - 1924ねん5月26にち
1931ねん2がつ12にち - 1932ねん2がつ19にち
1932ねん11月1にち - 1933ねん5月18にち
1933ねん10月22にち1934ねん1がつ24にち
前任ぜんにんしゃ アンツ・ピープ

任期にんき 1934ねん1がつ24にち1937ねん9月3にち

エストニアの旗 エストニア共和きょうわこく
摂政せっしょう大統領だいとうりょう
任期にんき 1937ねん9月3にち1938ねん5月9にち
後任こうにんしゃ ケーレル・インパル首相しゅしょう

任期にんき 1938ねん4がつ24にち1940ねん6月21にち
首相しゅしょう ケーレル・インパル
ユール・ウルオツ
ヨハネス・バレス[2]

出生しゅっしょう (1874-02-23) 1874ねん2がつ23にち
ロシア帝国ていこく
リヴォニアけんタフコランナぐん
死去しきょ (1956-01-18) 1956ねん1がつ18にち(81さいぼつ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう
ロシア・ソビエト連邦れんぽう社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくカリーニンしゅうブラシェヴォ
政党せいとう 農村のうそん国民こくみん連合れんごう(1917–1920)
農民のうみん集会しゅうかい(1920–1932)
小作こさくじん移民いみん同盟どうめい(1932–1935)
愛国あいこく連盟れんめい(1935–1940)
配偶はいぐうしゃ ヘルマ・アイダ・エミリー・ピディー

コンスタンティン・パッツエストニア: Konstantin Pätsエストニア発音はつおん[ˈkonsˈtɑnʲˑˈtinˑ ˈpætʲsˑ]1874ねん2がつ21にち旧暦きゅうれき2がつ11にち[3] - 1956ねん1がつ18にち)は、エストニア政治せいじ革命かくめい。エストニア共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょう

概要がいよう

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せんあいだのエストニアでもっとおおきな影響えいきょうりょく発揮はっきした政治せいじであった。みずか新聞しんぶんテアタヤエストニアばん』を主宰しゅさいし、新聞しんぶんかい政界せいかい舞台ぶたいヤーン・トニッソン英語えいごばんと40年間ねんかんにわたって対立たいりつした。1905ねんロシアだいいち革命かくめい関与かんよして死刑しけい宣告せんこくけるがスイスおよびフィンランド亡命ぼうめいして執筆しっぴつ活動かつどうつづけた。その死刑しけい一部いちぶ恩赦おんしゃされたためエストニアにもどったが、1910ねんから1911ねんまでのあいだ収監しゅうかんされた。

1917ねんにはエストニア自治じち政府せいふ知事ちじ就任しゅうにんしたが、じゅうがつ革命かくめいによって潜伏せんぷく余儀よぎなくされる。1918ねん2がつ19にち、パッツはエストニア救国きゅうこく委員いいんかい英語えいごばん構成こうせいするさんにんのうちの一人ひとりとなる。委員いいんかいは24にちエストニア独立どくりつ宣言せんげん英語えいごばん発布はっぷし、パッツはエストニア臨時りんじ政府せいふ首相しゅしょう(1918-1919)とされたがエストニアはドイツによって占領せんりょうされ、パッツは投獄とうごくされる。臨時りんじ政府せいふでは内務ないむ大臣だいじん(1918)、陸軍りくぐん大臣だいじん(1918-1919)も兼務けんむしてエストニアじんによる近代きんだいてき軍隊ぐんたい編成へんせい注力ちゅうりょくし、エストニア独立どくりつ戦争せんそう英語えいごばん準備じゅんび専念せんねんしていた。

1920年代ねんだいから1930年代ねんだい前半ぜんはんにかけて、パッツは当時とうじ主要しゅよう政党せいとうなかもっと右寄みぎよりの「農民のうみん集会しゅうかい英語えいごばん」をひきいたが、1932ねんには「小作こさくじん移民いみん同盟どうめい英語えいごばん」と合流ごうりゅうした。パッツは国会こっかい(リーギコグ)の議長ぎちょうつとめたほか、5かい(1921-1922, 1923-1924, 1931-1932, 1932-1933, 1933-1934)にわたって国老こくろう地位ちいにあった。1934ねん任期にんきちゅう右翼うよくポピュリズム政治せいじ結社けっしゃヴァプス運動うんどう英語えいごばん独立どくりつ戦争せんそう退役たいえきしゃ同盟どうめい)を無力むりょくするため、陸軍りくぐん議会ぎかい支持しじクーデター成功せいこうさせた。パッツのもと、エストニアは実質じっしつてき権威けんい主義しゅぎ体制たいせい移行いこうした。

エストニアは「沈黙ちんもく時代じだい」とばれた権威けんい主義しゅぎ体制たいせい期間きかん数々かずかず改革かいかくげ、エストニアは経済けいざい成長せいちょう達成たっせいした。パッツは国老こくろう首相しゅしょうね、みずか摂政せっしょう大統領だいとうりょう名乗なの期間きかんて、1938ねんにはしん憲法けんぽう可決かけつさせエストニア共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょう地位ちいについた。1940ねんソビエト連邦れんぽうはエストニアに進駐しんちゅうする。クレムリンの要求ようきゅうにより、パッツはいちヶ月かげつ以上いじょうにわたって様々さまざま大統領だいとうりょうれい署名しょめいさせられ、これらの大統領だいとうりょうれいはエストニアをソビエトした。大統領だいとうりょう地位ちいわれたのち、7がつには逮捕たいほされロシア強制きょうせい送還そうかんされた。1956ねん収容しゅうようされていたカリーニンしゅう精神せいしん病院びょういんにて獄死ごくし

ぜん半生はんせい

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コンスタンティン・パッツとその家族かぞくひだりからあにのニコライ、いもうとのマリアナ、ちちヤコブ、おとうとのヴォルデマー、ははボルガ、そしておとうとのペーターとコンスタンティン

1874ねん2がつ23にちロシア帝国ていこくのリヴォニア自治じちパルヌけん現在げんざいのエストニア共和きょうわこくタフコランナ教区きょうく)にまれる。地元じもとのいいつたえによると、コンスタンティンはははボルガが病院びょういんわなかった[4]ために、路傍ろぼう農園のうえん納屋なやまれたという。正教会せいきょうかいのタフコランナ教会きょうかいにて受洗じゅせん[5]

コンスタンティンのちち、ヤコブ・パッツ(1842-1909)はヘイムテイル出身しゅっしん大工だいくであったが、地元じもと豪族ごうぞくとのトラブルから転居てんきょ余儀よぎなくされていた。ははオルガ・パッツ(旧姓きゅうせいトゥマーノワ、1847-1914)は、ロシアじんエストニアじん両親りょうしんち、ちちヤコブもルター教会きょうかいから正教会せいきょうかい改宗かいしゅうしている。コンスタンティンと兄弟きょうだい正教会せいきょうかい厳格げんかく伝統でんとうなか成長せいちょうした。

コンスタンティンはタフコランナ教会きょうかい学校がっこう入学にゅうがくする[4]翌年よくねん家族かぞくはパルヌ近郊きんこうのラエクラし、コンスタンティンは教会きょうかい学校がっこうロシア講義こうぎける。のちに、1887ねんから1892ねんあいだリガ神学校しんがっこうまなぶが、聖職せいしょくしゃにはならないと決心けっしんしてからは、パルヌの高等こうとう学校がっこううつった[6]

1894ねんから1898ねんにかけてパッツはタルトゥ大学だいがく法学部ほうがくぶまなび、法学ほうがく学位がくいる。ほどなくしてオムスクだい96ロシア歩兵ほへい連隊れんたい徴兵ちょうへいされ、旗手きしゅつとめた[6]。1900ねん、すでに政治せいじこころざしていたパッツはタルトゥもどって学者がくしゃになることをえらばず、首都しゅとタリンへとうつった。

経歴けいれき

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報道ほうどうとして

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タリンにて、パッツはヤーン・ポスカ法律ほうりつ事務所じむしょ助手じょしゅとしてはたらはじめる。しかし、この仕事しごとはパッツを満足まんぞくさせることはできなかった[7]一方いっぽう、タルトゥではヤーン・トニッソンが国粋こくすい主義しゅぎてき新聞しんぶんポスティメース英語えいごばん』を1891ねんすで創刊そうかんしていた。そこで、パッツもみずからの新聞しんぶんをタリンでげようとかんがえていた。ちょうどそのころ新聞しんぶん記者きしゃのエドゥアルト・ヴィルデとアントン・ハンセン・タムサーレもおなじく国粋こくすい主義しゅぎ新聞しんぶん創刊そうかんしようとしていたが、は社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎてき立場たちばをとるロシア内務省ないむしょう免許めんきょ交付こうふしようとしなかった。そこで3にん協力きょうりょくし、パッツを国教こっきょうである正教会せいきょうかいふか関係かんけい弁護士べんごしとしてかつげることで、免許めんきょれることに成功せいこうした[8]

ヴィルデたちや免許めんきょ交付こうふした権力けんりょくしゃらはパッツに、帝国ていこく忠実ちゅうじつであり、かつせい教徒きょうとエストニアじん団結だんけつ主張しゅちょうする新聞しんぶんくことを期待きたいしていた。ところが、パッツは自由じゆう主義しゅぎてき主張しゅちょうっていた。新聞しんぶん『テタージャ』の初版しょはんは1901ねん10がつ23にち発行はっこうされたが、ほどなくして、さきんじて発刊はっかんしていた『ポスティメース』ならびに主筆しゅひつのトニッソンを相手あいてにエストニアの将来しょうらいぞうめぐって論争ろんそうひろげることになった。国家こっか主義しゅぎ思想しそうかかげる『ポスティメース』にたいして、『テタージャ』は経済けいざい活動かつどう重要じゅうようせい強調きょうちょうした。しかし、きびしい検閲けんえつによって、この事業じぎょうはたちまち困難こんなんになっていった[8]

わか政治せいじ

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そこでパッツは、政治せいじとなりバルト・ドイツじんいまだに支配しはいしている地方ちほう権力けんりょくれようとかんがえた。1904ねん、パッツはタリン相談役そうだんやくになる[6]と 、ポスカとともに、エストニアじんから自由じゆう主義しゅぎしゃのロシアじんまでをんだ選挙せんきょ工作こうさくおこない、同年どうねんのタリン市議会しぎかい選挙せんきょからくも当選とうせん市議会しぎかい議員ぎいんとなる。1905ねんには市長しちょう補佐ほさすすみ、同時どうじ市議会しぎかい議長ぎちょうをもつとめた。しかし、市議会しぎかいでの活発かっぱつ活動かつどうのために、このころかれはほとんど新聞しんぶんける時間じかんがなかった[4]。そのため、テタージャの実権じっけんはハンス・ポーゲルマンひきいる革命かくめいグループにうつり、はん政府せいふてき記事きじいておおいに民衆みんしゅう扇動せんどうした[8]

1905ねん革命かくめいとき、パッツはすでバルト諸国しょこく自治じち民主みんしゅうったえる活動かつどうとなっていた[9]革命かくめいたかまりのなかで、かれ新聞しんぶん発禁はっきんとされ、社員しゃいん逮捕たいほされてしまった。パッツはこのことを事前じぜん察知さっちし、かろうじてスイスへと遁れ、そこでロシア帝国ていこくによって自身じしん死刑しけい宣告せんこくされたとのほうせっした[4]

少尉しょうい時代じだいのコンスタンティン・パッツ(1917ねん

1906ねん、パッツはフィンランド首都しゅとヘルシンキうつり、文筆ぶんぴつぎょう継続けいぞくした。かれ原稿げんこうおおくはエストニアにて匿名とくめい出版しゅっぱんされた。また、当局とうきょく土地とち改革かいかくかんする質問しつもん助言じょげんくわえた。1908ねん、パッツはサンクトペテルブルクのロシア国境こっきょう附近ふきん位置いちするまちオリラ英語えいごばんうつる。ここで、かれはフィンランドにきながら、スイスへ亡命ぼうめいしたさいわかれた家族かぞくとの再会さいかいたした[4]

つまヘルマのやまいおもくなってからは、パッツはもはやロシアがかれのぞんでいないことをり、1909ねんすこしばかりの代償だいしょう条件じょうけんにエストニアにもどった。1910ねん2がつ、パッツはサンクトペテルブルクのクレスティ刑務所けいむしょ収監しゅうかんされる。同時どうじに、パッツがくすりおくつづけていたにもかかわらず、つまがスイスで結核けっかくにより死亡しぼうした。収監しゅうかんちゅうのパッツは外国がいこくまなび、新聞しんぶんせるべく論文ろんぶん執筆しっぴつした[4]。1911ねん5がつ25にち釈放しゃくほうされる。このとき、エストニアしゅう知事ちじがかねてから、1905ねん行動こうどう理由りゆうかれをかのもどさないよう要請ようせいしていたこともあり[10]、エストニアとリヴォニアの知事ちじから6年間ねんかん追放ついほう宣告せんこくされた。ところが最終さいしゅうてきには、ポスカとのふか関係かんけいかれふたたびエストニアにもどした[4]。 パッツはあらためて新聞しんぶん創刊そうかんし、『タリン・テタージャ』と名付なづけた。

1916ねん2がつから、パッツはタリン将校しょうこうとなり、よく1917ねんにはエストニア軍人ぐんじん最高さいこう会議かいぎ議長ぎちょう選出せんしゅつされ、帝国ていこくぐんのエストニアじん部隊ぶたい協力きょうりょくはたらきかけをおこなう。戦争せんそうあいだも、パッツはエストニアじん自由じゆう主義しゅぎ支持しじするバルト・ドイツじん資産しさんとの連携れんけい画策かくさくつづけた[4]

自治じちとドイツぐんによる占領せんりょう

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パッツはエストニア独立どくりつ宣言せんげん発布はっぷしたなか一人ひとりであった

1917ねん、ドイツぐんがエストニアに進撃しんげきしたが、パッツは徴兵ちょうへい忌避きひすることに成功せいこうした。がつ革命かくめい以降いこう、エストニアの支配しはいけんロシア臨時りんじ政府せいふにぎっていたため、エストニアじんはロシア帝国ていこくないでの自治じち追求ついきゅうしていた。 国内こくないではエストニアをそのまま自治じちとするか、あるいはふたつの自治じち分割ぶんかつするかの論争ろんそうがっていたが、パッツはひとつの自治じちとするがわち、分割ぶんかつ支持しじするトニッソンをやぶった。 ほどなくペトログラードでエストニアじん蜂起ほうきしたため、1917ねん4がつ12にち、ついに臨時りんじ政府せいふはエストニア自治じち設置せっち承認しょうにんした。 エストニア自治じち議会ぎかい選出せんしゅつされたとき、パッツは議員ぎいんとなり、しかも55議席ぎせきのうち13をめるエストニア祖国そこく同盟どうめいひきいる立場たちばとなった。左右さゆう両翼りょうよく同数どうすう議席ぎせき獲得かくとくし、議長ぎちょう選出せんしゅつ難航なんこうした。中道右派ちゅうどううはのトニッソンの推薦すいせんにより立候補りっこうほしたパッツは、当時とうじ無名むめいであったアルター・バルナーの一票いっぴょうのぞすべてのひょう当選とうせんした。

パッツは最初さいしょ、どの院内いんない会派かいはにも所属しょぞくしないことにしていたが、最終さいしゅうてきには最右翼さいうよく民主みんしゅ主義しゅぎ会派かいは所属しょぞくした[11]。1917ねん10がつ12にちには臨時りんじ政府せいふ議長ぎちょう[12]、ヤーン・ラモットにってわる。じゅうがつ革命かくめいさいは、ボリシェヴィキがエストニアの支配しはいけんにぎったため議会ぎかい解散かいさんさせられてしまった。公文書こうぶんしょぎに失敗しっぱいしたため、パッツはさん逮捕たいほされ、最終さいしゅうてきには地下ちか活動かつどうへと潜行せんこうした[4]

とはいえエストニアにおけるボリシェヴィキのちから比較的ひかくてきよわかったので、議会ぎかい長老ちょうろうたちは1917ねん11月28にち議会ぎかい合法ごうほうてき選出せんしゅつされたエストニア唯一ゆいいつ権威けんいであるとの宣言せんげんはっした。しかし、長老ちょうろうたちの組織そしき地下ちか活動かつどうをするにはおおきすぎたので、1918ねん2がつ19にち、パッツをふくむ3にん構成こうせいされるエストニア救世きゅうせい委員いいんかい発足ほっそくした。

ソビエトぐん退却たいきゃくはじめるなか救世きゅうせい委員いいんかいはこの空白くうはく期間きかん利用りようして独立どくりつ宣言せんげんしようとかんがえた。そして2がつ21にち、パッツらは独立どくりつ宣言せんげん発表はっぴょうするため、ハープサルおもむいた。しかし、そののうちにドイツぐんがハープサルを占領せんりょうし、委員いいんかいはタリンへの後退こうたい余儀よぎなくさせられた。またタルトゥにもドイツぐんよりまえ到着とうちゃくしようとこころみたが、これも失敗しっぱいわった[13]

ソビエトぐんはとうとうドイツぐんまえ撤退てったいした。1918ねん2がつ24にち救世きゅうせい委員いいんかいはエストニア独立どくりつ宣言せんげん発表はっぴょうした(宣言せんげんは23にちすで独立どくりつ宣言せんげんはっしていたパルヌにも伝達でんたつされた)。ただちにエストニア臨時りんじ政府せいふ組織そしきされ、パッツは内務ないむ大臣だいじんとして閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょう就任しゅうにんした[14]

よく2がつ25にち、ドイツぐんがタリンを占領せんりょうし、パッツは6がつ16にち逮捕たいほされた。ラトビアいくつかの収容しゅうようしょをたらいまわしにされたすえに、フロドナいた[15] 。そのとしの11月12にち終戦しゅうせんともなって解放かいほうされた。

パッツがタリンにもどると議会ぎかい招集しょうしゅうされ、11月27にちだいさんパッツないかく組織そしきされた。この内閣ないかくでパッツは首相しゅしょう陸軍りくぐん大臣だいじん兼任けんにんし、国防こくぼう計画けいかくまかされた。

独立どくりつ戦争せんそう

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1919ねん2がつ24にち、パッツは独立記念日どくりつきねんび行進こうしん最初さいしょ伝統でんとうてき演説えんぜつおこなった
左寄ひだりよりの議員ぎいんだん憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ支配しはいしていた。土地とち改革かいかく法案ほうあん、そして1920ねん体制たいせい構築こうちくさい、パッツはそれほどつよ影響えいきょうりょく発揮はっきできなかった

パッツはせま赤軍せきぐんそなえて、エストニア国防こくぼうぐん組織そしきした。1918ねん11月28にち、ソビエトぐんがナルヴァを占領せんりょうしたことで、エストニア独立どくりつ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。閣議かくぎ最中さいちゅう、パッツはこぶしでテーブルをつよはたきながら共産きょうさん主義しゅぎしゃとの妥協だきょう拒絶きょぜつし、閣僚かくりょうにも独立どくりつ戦争せんそう承諾しょうだくさせた。1919ねん1がつ、エストニア臨時りんじ政府せいふはボリシェヴィキを追放ついほうし、2がつ24にちまでにエストニアのぜん領土りょうど掌握しょうあくした。1919ねん独立どくりつ記念きねんだい行進こうしんで、パッツは「友好国ゆうこうこくへの依存いぞんせいよわめるために、我々われわれ自国じこく経済けいざい保護ほごしなければならない。財政ざいせい破綻はたん回避かいひするために、我々われわれ農業のうぎょうこくとしての地位ちい確立かくりつせねばならない。」と演説えんぜつした[4]。これはその20年間ねんかんにわたってエストニアの財政ざいせい政策せいさく目標もくひょうとなった。

1919ねん4がつ、エストニア憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ選出せんしゅつされた。しかしエストニア祖国そこく同盟どうめいは120議席ぎせきのうち8せきしか獲得かくとくできず、中道ちゅうどう左派さは政党せいとう多数たすうわたした。5月9にちオットー・アウグスト・ストランドマン英語えいごばんがパッツにわってはじめて首相しゅしょう就任しゅうにんした。 そのなつバルト郷土きょうどぐん英語えいごばんとの開戦かいせん提案ていあんされたが、パッツは反対はんたいした。しかし政府せいふ開戦かいせん決断けつだんし、結局けっきょくエストニア・ラトビア連合れんごうぐん勝利しょうりわった。1920ねん2がつ2にち戦争せんそうわると、多数たすうである左派さは議員ぎいんたちは自由じゆう主義しゅぎてき土地とち改革かいかく法案ほうあん採択さいたくした。以降いこう議会ぎかい安定あんていせず、左右さゆう両翼りょうよく内閣ないかく誕生たんじょう崩壊ほうかいかえすようになった。

民主みんしゅ共和きょうわせい

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1919ねん9がつ、パッツはエストニア農村のうそん国民こくみん連合れんごうエストニアばん母体ぼたいに、しん政党せいとう農民のうみん集会しゅうかい」をげた[16]農民のうみん集会しゅうかいは1920ねん議会ぎかいで100議席ぎせきちゅう21議席ぎせき獲得かくとくし、パッツは1921ねん1がつ25にちから1922ねん11月21にちまでのあいだ国老こくろうとして憲法けんぽう制定せいていはつ内閣ないかくひきいることになる。中道ちゅうどう政党せいとうみっつが連立れんりつした、中道右派ちゅうどううは内閣ないかくであった。しかし、この内閣ないかく中道ちゅうどう左派さはエストニア労働党ろうどうとう英語えいごばんがパッツの右寄みぎよりの政策せいさく批判ひはんして連立れんりつ離脱りだつしたことでただちに瓦解がかいした。 国老こくろうからりたのちは、1922ねん11がつ20日はつかから1923ねん6がつ7にちまでリーギコグの議長ぎちょうつとめた[17]

1923ねん選挙せんきょで、農民のうみん集会しゅうかいは23議席ぎせき獲得かくとくした。そのため1923ねん8がつ2にち、パッツはふたた国老こくろう地位ちいいた。似通にかよったみっつの中道ちゅうどう政党せいとうによる連立れんりつ政権せいけんが、エストニア労働党ろうどうとうふたた連立れんりつ離脱りだつするまでつづいた。1924ねん3がつ26にちだいパッツないかく退陣たいじんし、パッツはそれから7年間ねんかんにわたって政権せいけんからはなれることになった。そして1925ねん12月15にちから1927ねん12月9にちまで、農民のうみん集会しゅうかいヤーン・ティーマン英語えいごばん国老こくろうつとめた。

1926ねん選挙せんきょで、農民のうみん集会しゅうかいふたたび23議席ぎせき獲得かくとくし、ティーマンも国老こくろうしょく継続けいぞくした。1927ねん、パッツはリーギコグの議員ぎいんらを、連立れんりつないかく長年ながねん不安定ふあんていにしてきたと非難ひなんした[18]。1929ねんだいろくかい農民のうみん集会しゅうかい大会たいかいにおいて、とう極左きょくさアウグスト・レイ英語えいごばん政権せいけんやパッツの主張しゅちょうとは反対はんたいに、とうあいだで、体制たいせい改革かいかく、すなわちよりちいさな議会ぎかいと、腐敗ふはい一掃いっそう大統領だいとうりょう分割ぶんかつ要求ようきゅうされた[19]

1929ねん選挙せんきょで、農民のうみん集会しゅうかいは24議席ぎせき獲得かくとくし、1931ねん2がつ12にちから1932ねん2がつ19にちまで、だい3パッツないかく成立せいりつした。これは思想しそうてき広範こうはん連立れんりつないかくであり、エストニア社会しゃかい主義しゅぎ労働党ろうどうとう英語えいごばんから、中道右派ちゅうどううはエストニア国民党こくみんとう英語えいごばんまでが加入かにゅうしていた。1932ねん1がつ26にち農民のうみん集会しゅうかい左翼さよく開拓かいたく移民いみんとう英語えいごばん合流ごうりゅうして小作こさくじん移民いみん同盟どうめい組織そしきしたが、中道ちゅうどう4とうから組織そしきされる国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ中央ちゅうおうとう英語えいごばん支持しじ獲得かくとくするのみにとどまったためパッツは内閣ないかく辞職じしょくし、国老こくろうふたたびティーマンにわたした[20]

1932ねんあたらしく組織そしきされた小作こさくじん移民いみん同盟どうめいはリーギコグにおいて42議席ぎせき獲得かくとくし、とう指導しどうしゃ一人ひとりであるカール・アウグスト・アインバンド英語えいごばん国老こくろうとなった。1932ねん10がつ3にち世界せかい恐慌きょうこうともなクローンげをえたのち小作こさくじん移民いみん連合れんごう国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ中央ちゅうおうとう連立れんりつ崩壊ほうかいいちヶ月かげつにわたる危機きき政府せいふおそった。当時とうじ、リーギコグにはだい政党せいとうは3つしか存在そんざいしなかったが、そのうちで一番いちばんちいさいとう社会しゃかい主義しゅぎ労働党ろうどうとうであった。そのため、政府せいふ維持いじしうる連立れんりつはついにありなかった。そこで、パッツに特権とっけん付与ふよされ、さんだい政党せいとうにまたがるだい連立れんりつ成立せいりつさせた。 1932ねん11月1にちだい4パッツ政権せいけん発足ほっそくした。25にちだい恐慌きょうこう対処たいしょするため、瓦解がかいしたリーギコグから追加ついか権限けんげん付与ふよされた。ところが1933ねん5がつ18にちかれ内閣ないかく辞職じしょく余儀よぎなくされる。これは、通貨つうか政策せいさく支持しじつづけていた国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ中央ちゅうおうとう連立れんりつ離脱りだつし、しかも小作こさくじん移民いみん同盟どうめいが、復活ふっかつした開拓かいたく移民いみんとうによってその議席ぎせきだい部分ぶぶんうしなったためであった[21]

パッツはかえされる政争せいそうなかで、地位ちい確保かくほすることに成功せいこうしていた。結党けっとう以来いらいかれとうフリードリッヒ・カール・エイクル英語えいごばん、レイ、そしてトニッソン以外いがい内閣ないかくにはつね閣僚かくりょうおくんでいた。その期間きかんは、1921ねんから1933ねんまでの4497にちのうち、4017にち(89%)におよぶ。パッツ自身じしん国老こくろうにあったのは1476日間にちかん(33%)であった。興味深きょうみぶかいことに、そのあいだかれ国老こくろう以外いがい地位ちいにはかなかった(地方ちほう政府せいふ特命とくめい大臣だいじんのぞく)。 パッツは農民のうみん集会しゅうかい非公式ひこうしき議長ぎちょうつとめていた。しかしかれ党内とうない評判ひょうばんがよくなかったので、たびたび党内とうない反対はんたい勢力せいりょく遭遇そうぐうした。そのため、パッツがとう公式こうしき大会たいかい出席しゅっせきすることはまれであった。1933ねん、ようやくパッツはとう名誉めいよ議長ぎちょう任命にんめいされた[22]

参加さんかした国会こっかい:

政府せいふがあまりにも不安定ふあんていであったため、エストニアのしん体制たいせいについていくつかの提案ていあんがなされた。しかし1933ねん10がつ14にちから16にちにかけておこなわれた国民こくみん投票とうひょうにおいて可決かけつされたのは、右翼うよくポピュリズムのヴァプス運動うんどう提出ていしゅつしたみっ提案ていあんであった。パッツは21にちしん体制たいせいへの以降いこうをした臨時りんじ政府せいふではあったが、連立れんりつ国老こくろう選出せんしゅつされた。1934ねん1がつ24にちまでパッツは国老こくろうつとめ、しん体制たいせい発足ほっそくしてからは首相しゅしょうに遷った。しん体制たいせい民主みんしゅ主義しゅぎから遊離ゆうりした体制たいせいであったため、大統領だいとうりょう(正式せいしき名称めいしょう国老こくろう)におおくの権限けんげんあたえており、リーギコグは実権じっけんうしな諮問しもん機関きかん位置付いちづけられた[23]

民主みんしゅ主義しゅぎ立場たちばからて、ヴァプス運動うんどう権力けんりょくけてはならない田舎いなかしゃ国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとううつった[24]ため、パッツとかれ前任ぜんにんしゃであったトニッソンはともにヴァプス行動こうどう制御せいぎょすることをこころみた。1933ねん8がつ以来いらい国老こくろうであったトニッソンは非常ひじょう事態じたい宣言せんげんし、一時いちじてき検閲けんえつ開始かいししていた[25]。これはパッツが臨時りんじ政府せいふ首相しゅしょうになると、ようやく解除かいじょされた[26]。1934ねん2がつ27にち、パッツ自身じしん法律ほうりつ制定せいていした。それは軍人ぐんじん政治せいじ参加さんかすることを禁止きんしするものだった。このため、ヴァプス運動うんどうではすうせん会員かいいん脱退だったい余儀よぎなくされた[27]

パッツは大統領だいとうりょう選挙せんきょ立候補りっこうほした[28]。しかし、ヴァプス運動うんどう脅迫きょうはく流言りゅうげんなやまされ、ついに自主じしゅクーデターを決意けついした。1934ねん5がつ12にちヨハン・ライドネル将軍しょうぐん陸軍りくぐん協力きょうりょくて、パッツはクーデターを実行じっこううつした[24]

沈黙ちんもく時代じだい

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トゥリアに所在しょざいするオル公邸こうてい権威けんい主義しゅぎ時代じだいのパッツは、夏期かき大統領だいとうりょう官邸かんていとして利用りようした。のちだい世界せかい大戦たいせん破壊はかいされることになる
タリンカドリオーグの大統領だいとうりょう官邸かんていはパッツの在職ざいしょくちゅう、1938ねん完成かんせいした

戒厳かいげんれい宣告せんこくされ、ヴァプス運動うんどう大統領だいとうりょう候補こうほアンドレス・ラルカ英語えいごばんふくむ400めい逮捕たいほしゃして解散かいさんした。そしてライドネルが陸軍りくぐんきょう任命にんめいされた。1934ねん5がつ15にちから翌日よくじつあいだに、民主みんしゅ主義しゅぎ存続そんぞくねがうリーギコグはパッツの行動こうどう追認ついにんした。大統領だいとうりょうせんは「ヴァプス運動うんどうはん政府せいふてき扇動せんどうのために国民こくみん動揺どうようしている」ことを理由りゆう[29]戒厳かいげんれい解除かいじょまで延期えんきされた。

1934ねん8がつ、パッツは自身じしんとライドネルに重要じゅうよう人物じんぶつとして、アインバンドを内相ないしょう任命にんめいした。9月には宣伝せんでんしょう設置せっちされ[30]、10月にははん体制たいせい政治せいじ活動かつどう規制きせい批判ひはんしたことをきっかけに、すべての国会こっかい機能きのう停止ていしされた[31]。そして12月に検閲けんえつ開始かいしされた[32]

1935ねん1がつ既存きそんしょ政党せいとうえるために、政治せいじ結社けっしゃ愛国あいこく連盟れんめい英語えいごばん」が結成けっせいされた[33]。パッツは、政治せいじ結社けっしゃ国家こっか結束けっそくさせるべきであり、それが分立ぶんりつしていてはならないとかんがえていた[34]。そのため、5月の自主じしゅクーデター以降いこうすべての政治せいじ結社けっしゃ禁止きんしされていた。1934ねん5がつ最初さいしょ戒厳かいげんれい(6ヶ月かげつ)が宣告せんこくされた。しかし9がつ戒厳かいげんれいは1年間ねんかん延長えんちょうされた。こうした延長えんちょうはその5かいにわたっておこなわれることとなる[35][36][37][38][39][40]

パッツは、国家こっかかく政党せいとう思想しそうによってではなく、権威けんいある機関きかんによって指導しどうされるべきだとかんがえていた。そのため、ファシストとう由来ゆらい国家こっかコーポラティズムもとづく国家こっか協力きょうりょく組合くみあい英語えいごばん設置せっちされた。パッツはこの思想しそうを1918ねんにも普及ふきゅうさせようとしたが、極左きょくさ協力きょうりょくられなかったために失敗しっぱいしていた。パッツはこうした協力きょうりょく組合くみあい設置せっち主導しゅどうしゃであり、最初さいしょの2つはかれ政権せいけんにぎっていた1924ねんから1931ねんまでに設置せっちされ、1934ねんから1936ねんまでに15の組合くみあい追加ついか設置せっちされた[41]

1935ねん、ヴァプス運動うんどうによるクーデター計画けいかく「エストニアの戯曲ぎきょく」(エストニア国立こくりつ劇場げきじょう中心ちゅうしん行動こうどうする計画けいかくであったことに由来ゆらいする)があかるみにた。全国ぜんこくで750にん逮捕たいほされ、ヴァプス運動うんどう壊滅かいめついやられた[42]陰謀いんぼう首謀しゅぼうしゃたちは20ねん強制きょうせい労働ろうどうしょされた[43]が、1937ねん恩赦おんしゃされた[44]

一方いっぽうで、トニッソンはパッツがしん憲法けんぽうをいつまでも施行しこうしないことを批判ひはんしていた。そのため、1935ねん7がつにトニッソンは『ポスティメース』の編集へんしゅう委員いいん罷免ひめんされた[45]。1936ねん10がつ、4にんもと国老こくろうであるヨハン・クック英語えいごばんアンツ・ピープ、ティーマン、そしてトニッソンが連署れんしょして、パッツに自由じゆうけん保障ほしょうもとめる書状しょじょうみとめた[46]

権威けんい主義しゅぎ時代じだいにおいて、敵対てきたい組織そしきたない政府せいふにとって改革かいかく見送みおくるのは容易よういなことだった。リーギコグで法案ほうあん通過つうかさせるわりに、パッツは大統領だいとうりょうれいによって政治せいじおこなった。経済けいざい成長せいちょうし、社会しゃかい基盤きばん興業こうぎょう教育きょういく開発かいはつすすんだ。「ケーレル・インパル」に改名かいめいした内相ないしょうのアインバンドに代表だいひょうされるように、人名じんめいの「エストニア」も促進そくしんされた。

1934ねん憲法けんぽうはあまりにも民主みんしゅてきであるとして、パッツは国民こくみん投票とうひょう憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎによる憲法けんぽう改正かいせい計画けいかくした。そもそも先述せんじゅつ協力きょうりょく組合くみあい憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ設置せっち基礎きそとなるべくつくられていた[47]こともあり、1936ねん国民こくみん投票とうひょうにおいて憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎは76%の支持しじ可決かけつされた。同年どうねん国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょは、ほとんどの選挙せんきょにおいてはん政権せいけんのボイコットをけた[48]

1938ねん2がつ24にち、スピーチをするコンスタンティン・パッツ


1937ねん7がつ28にち憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎはパッツの青写真あおじゃしんをもとにした、だい3となるしん憲法けんぽう可決かけつした[49]。リーギコグは二院にいんせいへとあらためられ、大統領だいとうりょう議会ぎかいによって選出せんしゅつされるとする、すなわち間接かんせつ選挙せんきょせい導入どうにゅうされた。1937ねん9がつ3にちしん体制たいせい移行いこうする120にち猶予ゆうよ期間きかん開始かいしされ、パッツは摂政せっしょう大統領だいとうりょうとされた[38]

1938ねん1がつしん憲法けんぽう施行しこうされ、はつ大統領だいとうりょう選挙せんきょはじまった。この選挙せんきょにははんパッツ人物じんぶつ立候補りっこうほできたが、かれらはメディアに露出ろしゅつする機会きかいをほとんどあたえられなかった。パッツの支持しじしゃたちが所属しょぞくする「憲法けんぽう施行しこうのための国民こくみん戦線せんせん」は下院かいん80議席ぎせきのうち64議席ぎせき獲得かくとくした。また、大統領だいとうりょうえらばれれば、上院じょういん40議席ぎせきのうち10議席ぎせき指名しめいすることができた[50]

議会ぎかいは、地方ちほう政府せいふ代表だいひょうとともにパッツを大統領だいとうりょう指名しめいした。候補者こうほしゃ検討けんとうされず、219ひょう賛成さんせい、19ひょう白票はくひょう[4][51]。1938ねん4がつ24にち、パッツはエストニア共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょう就任しゅうにんし、ケーレル・インパルを5月9にちづけ首相しゅしょう任命にんめいした。そして収監しゅうかんされていたほとんどの共産きょうさん主義しゅぎしゃ、ヴァプス運動うんどう関係かんけいしゃ恩赦おんしゃされた。いわゆる「沈黙ちんもく時代じだい」が1938ねんしん憲法けんぽう施行しこうをもって、あるいは1940ねんソビエトぐんによる占領せんりょうによってわったのかについては、現在げんざい意見いけんかれている。

共和きょうわせい終焉しゅうえんとソビエトによる占領せんりょう

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ソ連それんによる占領せんりょう直前ちょくぜんのエストニアの指導しどうしゃら(1940ねん2がつ24にちいわわれた最後さいご独立記念日どくりつきねんび)。ひだりからヨハン・ライドネル将軍しょうぐん大統領だいとうりょうコンスタンティン・パッツ、首相しゅしょうユール・ウルオツ
破壊はかいされたタフコランナのコンスタンティン・パッツ記念きねん(1940ねん

だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、エストニアは中立ちゅうりつ宣言せんげんした。しかし、1939ねん9がつ28にち、ソビエト連邦れんぽうからのあつりょくによりあい相互そうご援助えんじょ協定きょうていエストニアばん調印ちょういんした。これにより、赤軍せきぐんはエストニアに軍事ぐんじ基地きち建設けんせつできるようになった。1939ねん10がつ、パッツはハトユール・ウルオツ英語えいごばんあたらしい首相しゅしょう任命にんめいした[52]

1940ねん5がつ時点じてんでは、パッツはソ連それん意思いしどくせん勃発ぼっぱつそなえてエストニアを従属じゅうぞくさせることにぎず、どくせん戦力せんりょくとする意図いとにおいてもエストニアの国体こくたい保持ほじされるとかんがえていた[53]。しかし、1940ねん6がつソ連それんはエストニア政府せいふ最後さいご通牒つうちょうきつけた。パッツはむなくこれを受諾じゅだくした。17にちには赤軍せきぐんによる占領せんりょう開始かいしされた。

パッツはつづ大統領だいとうりょう地位ちいまることをゆるされたが、ソ連それんはパッツに首相しゅしょうユール・ウルオツの更迭こうてつ要求ようきゅうした。パッツは後任こうにんにアウグスト・レイを指名しめいする方針ほうしんしめしたが、アンドレイ・ジダーノフはこれを拒否きょひ、そのわりに政治せいじには元来がんらい無縁むえんであった共産きょうさん主義しゅぎものヨハネス・バレス英語えいごばん推薦すいせんした。パッツがこれを拒否きょひすると、ソ連それんぐん護衛ごえいされた共産きょうさん主義しゅぎしゃ大統領だいとうりょう官邸かんていまえでデモを決行けっこうした。絶望ぜつぼうてき状況じょうきょうなかでパッツはソ連それん要求ようきゅうくっし、21にち、バレスを首相しゅしょう指名しめいした[54]事実じじつじょうあやつ人形にんぎょうとして、パッツが署名しょめいさせられたソビエトのための大統領だいとうりょうれいは200つう以上いじょうにのぼった[55]なかでもおおきな変更へんこういられたのは、選挙せんきょ法制ほうせいであった。しん体制たいせいのために議会ぎかい選挙せんきょおこなわれたが、その結果けっか招集しょうしゅうされた下院かいんは、ぜん議席ぎせき共産きょうさん主義しゅぎしゃめられていた。1940ねん6がつ23にち戦勝せんしょう記念きねん、パッツは「我々われわれげた最大さいだい仕事しごとは、エストニア民族みんぞく国家こっかつくげたことである。そのために、我々われわれてるかぎりのあい忠誠ちゅうせい勤労きんろう、そして生命せいめいすらもささげてきたのだ。」と声明せいめいした。29にち、パッツは自宅じたく軟禁なんきんされた[56]。なお、6がつ上旬じょうじゅん段階だんかいで、パッツはドイツ大使たいしに「エストニアがソビエトされるとはおもわない」との意見いけん表明ひょうめいしていたことがわかっている[57]。1940ねん7がつ21にちエストニア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく成立せいりつし、パッツは辞任じにん余儀よぎなくされた。

強制きょうせい送還そうかん投獄とうごく、そして

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1940ねん7がつ30にち息子むすこのビクター、ビクターのつまヘルチ・アリス、まごのマッティとヘンとともに、パッツはバシキール自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく首都しゅとウファ送還そうかんされ、8がつ9にち到着とうちゃくした。ここで一家いっか監視かんしづけおおきな住居じゅうきょで1年間ねんかんごした。この期間きかん、パッツは在職ざいしょくちゅう回顧かいころく執筆しっぴつする一方いっぽうまごのヘンがすで体調たいちょうくずしていたことから、まごらとそのははをスイスかイタリア送還そうかんしてくれるよう嘆願たんがんした。返事へんじがもらえなかったため、せめてエストニアにもどしてくれるようにと再度さいど嘆願たんがんした。おわりいには、素朴そぼくにもドイツで収監しゅうかんされているドイツ共産党きょうさんとうもと党首とうしゅエルンスト・テールマン自身じしん交換こうかんするようにとも嘆願たんがんした。そのパッツはくちざしたが、一方いっぽう息子むすこのビクターはナチス・ドイツソ連それん侵略しんりゃくしてかれらを解放かいほうしてくれると確信かくしんしていた[58]

1941ねん5がつ19にち一家いっかはウファの市場いちばで「偶然ぐうぜん」エストニアじん夫婦ふうふくわし、つぎかれらは夫婦ふうふいえまねかれた。しかし夫婦ふうふはどちらもNKVD工作こうさくいんであり、パッツとビクターはどちらも「ヨシフ・スターリンヴャチェスラフ・モロトフたいして顕著けんちょ憎悪ぞうおしめしている。なおかつナチズム賛同さんどうし、ドイツのソビエト侵略しんりゃくいまおそしと待望たいぼうしている。」と報告ほうこくされた[58]

ソ連それん囚人しゅうじんとなったコンスタンティン・パッツ

1941ねん6がつ26にち、パッツらは逮捕たいほされてウファで投獄とうごくされた。まごらは孤児こじいんおくられた。パッツはなんあいだ調しらべをけたが、ついに罪状ざいじょうげられなかった。1942ねん5がつになっても、かれ西側にしがわからの圧力あつりょくソ連それんをしてかれ解放かいほうせしめるとしんじていた。ところが、かれとビクターはモスクワのユリラカ刑務所けいむしょおくられた。ユリラカ刑務所けいむしょにおいて、囚人しゅうじん番号ばんごう11はヨハン・ライドネル、12はパッツ、ビクターは13ばんだった。ヘルチ・アリスはシベリアのグラーク、すなわち強制きょうせい労働ろうどう収容しゅうようしょおくられた[59][60]

1943ねん5がつ24にち、パッツは最初さいしょにカザンの、いでタタール自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくチストポリの精神せいしん病院びょういん収容しゅうようされた。この強制きょうせい入院にゅういんは「自身じしんがなおエストニアの大統領だいとうりょうであるとかえ主張しゅちょうする」という理由りゆう正当せいとうされた。1952ねん4がつ29にち、パッツは刑法けいほう58じょう14こう、および58じょう10こうによって有罪ゆうざいとされた。すなわちはん革命かくめいてきサボタージュと、はんソビエト・はん革命かくめいてき宣伝せんでん扇動せんどう容疑ようぎであった[61]。1954ねん、パッツはジェイムジャラドイツばん精神せいしん病院びょういんへと移送いそうされ、13ねんぶりに祖国そこくんだ。しかし、地元じもと民衆みんしゅう歓迎かんげいおおきな関心かんしんがパッツをソビエトにもど原因げんいんとなり、カリーニンしゅう現在げんざいトヴェリしゅう)のブラシェヴォ精神せいしん病院びょういんおくられる。1956ねん1がつ18にち水曜日すいようび、81ねんにおよぶ波瀾はらん生涯しょうがいえた。

遺骨いこつ

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1988ねん、エストニアじんのヘン・ラットとヴァルダー・ティムスクはロシアでパッツの遺骨いこつ捜索そうさくした。かれらはカリーニン(現在げんざいトヴェリ)から15キロの場所ばしょ位置いちする、パッツが入院にゅういんさせられていたブラシェヴォむらあしはこんだ。そこでパッツの最後さいご担当たんとう、センヤ・グラシーヴァと面会めんかいし、1956ねんのパッツの葬式そうしきについてたずねた。彼女かのじょはパッツは死者ししゃとはことなり、大統領だいとうりょうのように手厚てあつほうむられたとかたった。1990ねん6がつ22にちにパッツのはかかえされ、10月21にち、タリンのメサカミストゥ共同きょうどう墓地ぼち改葬かいそうされた[62][63]。2011ねん、ブラシェヴォむらにパッツを記念きねんする十字架じゅうじかてられた[64]

私生活しせいかつ

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コンスタンティン・パッツとつまヘルマ

1901ねん、パッツはパルヌ高校こうこう出会であったヘルマ・アイダ・エミリー・ピディーと結婚けっこんした[65]。レオとヴィクターの2もうけた。1905ねんにコンスタンティンは家族かぞくをエストニアにのこしてスイスに亡命ぼうめいし、そのあいだ次男じなんヴィクターがまれた。家族かぞくはフィンランドのオリラで再会さいかいたした。1910ねん、コンスタンティンがサンクトペテルブルクで投獄とうごくされているあいだに、ヘルマは肺炎はいえん死亡しぼうしてしまった。パッツは再婚さいこんせず、子息しそくはヘルマの未婚みこんいもうと、ヨハナ・ウィルヘルミネ・アレクサンドラ・ピディーにそだてられた[4]

パッツは親切しんせつ人物じんぶつだとわれていた。演説えんぜつ才能さいのうと、田舎いなかそだちならではのつよ郷土きょうどあいあわっていた。子供こどもかんする問題もんだいには特別とくべつ関心かんしんしめした。しばしばだい家族かぞく寄附きふをしたり、学生がくせいたちのためのイベントを企画きかくし、みずか参加さんかしたりした。カドリオーグの大統領だいとうりょう官邸かんてい附近ふきん公園こうえん毎朝まいあさ散歩さんぽし、掃除そうじおっとらと言葉ことばわした[4]

子孫しそん

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コンスタンティン・パッツの長男ちょうなん、レオ(1902-1988)は1939ねんにかろうじてフィンランドに遁れ、のちスウェーデンにうつり、1988ねんぼっした[66]次男じなんヴィクター(1906-1952)はモスクワのユリラカ刑務所けいむしょで1952ねん5がつ4にち死亡しぼうした[59] 。ヴィクターのヘン(1936-1944)とマッティ(1933)は1941ねん別々べつべつ孤児こじいんおくられたが、毎週まいしゅう面会めんかいしていた。しかし1944ねん、ヘンは飢餓きがのためマッティのうでなかいきえた[58] 。したがって生存せいぞんするコンスタンティン・パッツの子孫しそんはマッティとそのまごのみである。マッティはそのははヘルチ・アリスとともに、1946ねん解放かいほうされた[67]が、ヘルチ・アリスは1950ねんさい逮捕たいほ、10ねん懲役ちょうえき宣告せんこくされカザフ・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくで1955ねんまで投獄とうごくされた[61] 。マッティは1991ねんまでエストニア特許庁とっきょちょう理事りじつとめ、リーギコグ、タリン市議会しぎかい議員ぎいん歴任れきにんした。

事績じせき

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政治せいじ

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故郷こきょうタフコランナにてられたパッツの記念きねん(1939ねん建設けんせつ)。のちソ連それんによって撤去てっきょされたが、最初さいしょ建設けんせつされてからちょうどはん世紀せいきの1989ねん再建さいけんされた

パッツの思想しそうかれ生涯しょうがいのうちにおおきく変化へんかしている。1905ねん革命かくめい時点じてんで、パッツは社会しゃかい主義しゅぎしゃされていた。当時とうじ進歩しんぽてき思想しそうおおくは社会しゃかい主義しゅぎかんがえられていた。エストニアを追放ついほうされているあいだかれ自由じゆう主義しゅぎ志向しこうしながらも、両方りょうほう思想しそう利点りてんれようとこころみていた。 しかしエストニア独立どくりつ動乱どうらんなかでは保守ほしゅ主義しゅぎものとしてい、権威けんい主義しゅぎ時代じだいには、国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ片鱗へんりんまでもうかがわせた[68]

パッツの経歴けいれきのいくつかのめんにおいては、いまだに討論とうろんまととなっているてんがある。パッツの同志どうしらのうちには、聖職せいしょくから文化ぶんかてき職業しょくぎょうにわたって、重要じゅうよう地位ちいれたものがいる[69]。このため、一部いちぶ歴史れきしたちは、パッツとその協力きょうりょくしゃたちが1934ねんクーデターをヴァプス運動うんどう政権せいけん奪取だっしゅ阻止そしするためではなく、戦前せんぜんエストニアの民主みんしゅ主義しゅぎ破壊はかいし、かれらの権力けんりょくよくたすために利用りようしたと主張しゅちょうしている。また、民主みんしゅてきだい3憲法けんぽう成立せいりつさせるのに3ねん以上いじょうようしたてん批判ひはんまとになっている。

それ以上いじょうに、ソ連それんによる占領せんりょう前後ぜんごかれ行動こうどうおおくの疑問ぎもんいだかれている。なかでも注目ちゅうもくあつめているのは、エストニアの歴史れきしマグヌス・イルジャーブ英語えいごばんによって提起ていきされた、1918ねんには共産きょうさん主義しゅぎしゃとの妥協だきょう断固だんことして拒絶きょぜつしたパッツが、なぜ1940ねんにはほぼ無抵抗むていこうでエストニアをソ連それんゆずわたしたのかという疑問ぎもんである。この理由りゆうについては、パッツの体調たいちょう不良ふりょうかれをして現実げんじつてき状況じょうきょう判断はんだん不可能ふかのうならしめたというせつがある[70]一方いっぽうで、パッツはソ連それん信頼しんらいしており、その指導しどうしゃのうちのだれかとよしみつうじていたとか、NKDVがパッツの健康けんこう状態じょうたいかれみみはい情報じょうほう操作そうさしていたとか、パッツはどくせん開戦かいせんっており、ソ連それん従属じゅうぞくするのはほんの一時いちじのことだとかんがえていた[70]など、様々さまざませつ提起ていきされている。

また、パッツは状況じょうきょう困難こんなんさをっており、ソ連それんとの戦争せんそうけることで国民こくみん生命せいめいまもろうとしたのだと弁護べんごするものもいる。かれらによれば、パッツは弁護士べんごしであったため、占領せんりょう強制きょうせいされた大統領だいとうりょうれい無効むこう[70]なので問題もんだいはないと理解りかいしており、同時どうじに、もし戦争せんそうこればエストニアの独立どくりつみとめたタルトゥ条約じょうやく無効むこうされてしまうとかんがえていた。 国際こくさいほうとエストニア憲法けんぽうによると、パッツの行動こうどう占領せんりょう開始かいし以来いらいおそくともジダーノフがバレスないかく強行きょうこうてき成立せいりつさせた1940ねん6がつ21にち以降いこうについては無効むこうかんがえられる。おなじく、エストニア憲法けんぽう要求ようきゅうされている上院じょういん批准ひじゅんていなかったため、バレスないかくによって通過つうかし、パッツが公布こうふしたいかなる法律ほうりつ無効むこうであった。

法律ほうりつじょう、パッツは1956ねん死亡しぼうまで大統領だいとうりょうでありつづけた。実際じっさい大統領だいとうりょう職責しょくせき最後さいご首相しゅしょうユール・ウルオツにがれ、ウルオツは1944ねんオットー・ティーフ内閣ないかく組織そしきさせた。しかしティーフないかくはソビエトのさい占領せんりょうにより解散かいさんさせられ、ウルオツ自身じしんも1945ねんストックホルム死亡しぼうした。大統領だいとうりょう職責しょくせきはティーフないかく最年長さいねんちょう閣僚かくりょうであったアウグスト・レイにがれ、レイは1953ねんエストニア亡命ぼうめい政府せいふ組織そしきした。亡命ぼうめい政府せいふ最後さいご大統領だいとうりょう代行だいこうハインリッヒ・マーク英語えいごばんは1992ねん10がつ8にちさい独立どくりつしたエストニア共和きょうわこく大統領だいとうりょうとなることがまったレナルト・メリ信任しんにんじょう手渡てわたした。

外交がいこう政策せいさく

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フィンランドの大統領だいとうりょうペール・スヴィンヒューとパッツ(ナルヴァにて)。パッツの提案ていあんした「だいフィンランド構想こうそうは、ることはなかった

1918ねん、パッツはエストニア=フィンランドあいだ身上しんじょう連合れんごう提案ていあんした。しかしながら、フィンランドの指導しどうしゃたちはあまりでなかったために却下きゃっかされた[71]。それでもパッツは、ソ連それん逮捕たいほされる直前ちょくぜんの1940ねん7がつかれたかれのいわゆる「政治せいじ遺言ゆいごん」にられるように、この構想こうそうつづけていた。1922ねん、パッツがはじめて国老こくろう地位ちいいたとき、エストニアの元首げんしゅとしてはじめてフィンランドに公式こうしき訪問ほうもんした。非公式ひこうしきには1931ねん[72]、1935ねん[36]、そして1937ねんにも訪問ほうもんしている。フィンランド大統領だいとうりょうペール・スヴィンヒューもパッツ在任ざいにんちゅうの1934ねん[73]と1936ねん[74]にエストニアをおとずれている。

1933ねん、パッツはラトビアにも公式こうしき訪問ほうもんをし、1934ねんにはエストニア、ラトビア、リトアニアあいだでバルト協商きょうしょう締結ていけつしている。これはフィンランドをエストニアにちかづけるこころみでもあったが、結果けっかかんばしくなかった。1930年代ねんだい、エストニアとポーランドはおたがいになんかの公式こうしき訪問ほうもんをしている。

1930年代ねんだい後半こうはんソ連それんがエストニアに顕著けんちょな「関心かんしん」をしめはじめると、エストニアの外交がいこう政策せいさくはドイツりにえることを余儀よぎなくされる。この変化へんかは、1936ねんにエイクルが外務がいむ大臣だいじんとしてちゅうドイツ大使たいし設置せっちした[75]ことからもあきらかである。1936ねん12月3にち、エストニアは中立ちゅうりつ宣言せんげんした[76]

経済けいざい文化ぶんかめんにおける活動かつどう

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パッツは経済けいざいかい積極せっきょくてき活動かつどうした。1919ねんから1933ねんあいだ、パッツは保険ほけん会社かいしゃ「エストニアン・ロイド」社長しゃちょうにあった。1925ねんから1929ねんにかけて国家こっか協力きょうりょく組合くみあいのうち商工しょうこう部会ぶかい会長かいちょうつとめ、1935ねん以降いこう名誉めいよ顧問こもん地位ちいについた。そのほかにもかれはハルジュ銀行ぎんこう取締役とりしまりやく会長かいちょう、タリン交流こうりゅう委員いいんかい委員いいんちょう歴任れきにんした。タリン付近ふきんクルーストリメスタ英語えいごばん農場のうじょう経営けいえいしていた。その跡地あとちタリン植物しょくぶつえん英語えいごばんとなっている[6]

1925ねんから1936ねんにかけて、フィン・ウゴルしょぞくという共通きょうつうてんつ3つの民族みんぞく組織そしきされた「エストニアじん・フィンじん・ハンガリーじん民族みんぞく連絡れんらくかい」の会長かいちょう、1936ねん以降いこう名誉めいよ会長かいちょうつとめる。1927ねんから1937ねん、フィン・ウゴル財団ざいだん会長かいちょう[6]

パッツは1928ねんタルトゥ大学だいがく、1938ねんタリン工科こうか大学だいがく英語えいごばん、インドのアンドゥラ大学だいがく英語えいごばんから名誉めいよ博士はかせごう授与じゅよされる。また、1938ねんエストニア民族みんぞく学会がっかい英語えいごばん、1939ねんエストニア科学かがく学会がっかい英語えいごばん名誉めいよ会員かいいん認定にんていされる。1938ねんには、エストニア博物はくぶつ学会がっかい、エストニア資源しげん協会きょうかい名誉めいよ会員かいいんにもくわえられる。フラテニタス・エスティカ英語えいごばん名誉めいよ卒業生そつぎょうせいにもかぞえられ、タリン、ナルヴァ、パルヌ、タルトゥ、タフコランナぐん英語えいごばん名誉めいよ市民しみんれっせられた[6]

社会しゃかい

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エストニア国内こくない様々さまざま地名ちめい組織そしきがコンスタンティン・パッツにならって命名めいめいされている。タリンのケンタマ(Kentamanniどおりは1939ねんから1940ねん、および1941ねんから1944ねんのうちにパッツにならって命名めいめいされたものである[77]。ポルツァマーのロッシ(Lossiどおりもまた、パッツにならって1936ねんから1940ねんにかけて命名めいめいされている[78]。また、呼吸こきゅう疾患しっかん子供こどもたちのために、タリンにコンスタンティン・パッツ寄宿きしゅく学校がっこうがパッツ自身じしん主導しゅどうによって開設かいせつされている[79]

1991ねん、パッツが所有しょゆうした農場のうじょうのこるタリン植物しょくぶつえんにコンスタンティン・パッツ記念きねんかん開設かいせつされた。記念きねんかんいま運営うんえいされているが、農場のうじょうは1995ねんにパッツの子孫しそん返還へんかんされた[80]

パッツは文学ぶんがく作品さくひんにしばしば登場とうじょうする。もっと著名ちょめい作品さくひんは、エンドラス・キビラーブによる風刺ふうし作品さくひん『イラン・オラーブのおも』である。パッツは国民こくみんだれからもあいされた善人ぜんにんにしてしん民衆みんしゅう味方みかたとしてえがかれている[81]。パッツの生涯しょうがいは、せんあいだからだい世界せかい大戦たいせんまでのエストニアの運命うんめいえがいたテレビ番組ばんぐみあらしなか祖国そこく英語えいごばん』でもげられている[82]

栄典えいてん

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出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく

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