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サラ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Hans Collaert によるサラ。1581.

サラヘブライ:שָׂרָה、「高貴こうき女性じょせい」の)は旧約きゅうやく聖書せいしょ登場とうじょう人物じんぶつで、アルバア・ハ=イマホット(ארבע האמהות:「よんにんはは」の)の一人ひとりである。アルバア・ハ=イマホットとはイスラエル民族みんぞくいしずえとなったさんにん祖父そふアブラハムイサクヤコブのそれぞれの正妻せいさい、サラ(アブラハム)、リベカ(イサク)、ラケルレア以上いじょうヤコブ)のよんにん女性じょせいユダヤきょう概念がいねんである。ユダヤじんあいだでは「とうははサラ」を意味いみするサラ・イマヌー(שרה אמנו)という敬称けいしょうばれている。一方いっぽう彼女かのじょおっと異母いぼけい[1]最初さいしょヘブライじんならびに信仰しんこうちちとされるアブラハムは、「とうちちアブラハム」を意味いみするアブラハム・アビヌー(אברהם אבינו)という敬称けいしょうばれている。サラにまつわる逸話いつわは『創世そうせい』の11しょうから23しょうにかけてべられている。

旧約きゅうやく聖書せいしょにおけるサラの経歴けいれき

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カナンへの移住いじゅう

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物語ものがたり前半ぜんはん彼女かのじょサライ(ヘブライ:שָׂרַי)という名前なまえばれている。彼女かのじょがアブラム(のちに「アブラハム」と改名かいめい)と結婚けっこんしたのは、まだカルデア地方ちほうウルんでいたころであったが、テラ(アブラムのちち)の一族いちぞく移住いじゅうともない、故国ここくはなれてカナンへとかった。しかしいちぎょうはカナン地方ちほう到達とうたつするまえハランあしめ、そこにしばら滞在たいざいした。彼女かのじょが65さいのときかみがアブラムにあらわれカナンのしめしたので、アブラムはちちわか再度さいど移住いじゅうはじめた。この旅路たびじにはサライのほか、アブラムの兄弟きょうだいハラン息子むすこロト同行どうこうしている。また、ハランの一族いちぞくくわわった大勢おおぜい人々ひとびともアブラムにしたがった。いちぎょうはカナン地方ちほうはいると、シケム北部ほくぶからベテルへとかって南下なんかし、さらにネゲブへといたった。

エジプト寄留きりゅう

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ところがカナン地方ちほう飢饉ききんおそったため、一族いちぞくエジプトへの避難ひなん余儀よぎなくされる。アブラムはサライのうつくしさゆえに自身じしん危害きがいおよぶとあんじたので、エジプトじんまえでは自分じぶんいもうと実際じっさい異母いぼいもうとではあった)であるといつわるよう彼女かのじょ懇願こんがんした。その懸念けねん現実げんじつのものとなった。サライの評判ひょうばんきつけたエジプトのおうファラオ彼女かのじょめとり、その褒美ほうびとしてアブラムには莫大ばくだいとみあたえた。しかし、度重たびかさなるわざわいがファラオと王家おうけりかかるにおよんで、サライがアブラムのつまであることをった。激怒げきどしたかれはサライをアブラムにかえすと、二人ふたりをエジプトからおくした。アブラムのいちぎょう放浪ほうろうつづけたのち再度さいどベテルへともどってきた。そこで牧夫ぼくふたちのあらそいをきっかけにロトとかれた。

イシュマエルの誕生たんじょう

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この道程どうてい途上とじょうかみはアブラムとかれ子孫しそんたいしてカナンのあたえる約束やくそくをした。しかしサライはにんおんなであった。彼女かのじょは75さいになるにいたってみずからによる出産しゅっさんあきらめ、おんな奴隷どれいハガルがわおんなとしてアブラムにあたえた。当時とうじのこの地方ちほうには、にんつまじょ奴隷どれいおっとあたえ、そのがわおんなとのあいだまれた子供こども自分じぶん子供こどもにできる風習ふうしゅうがあり、サライもまた、ハガルをつうじて息子むすこようとしたのであった。 しかしハガルは妊娠にんしんしたとたん、おんな主人しゅじんサライを見下みくだすようになった。この屈辱くつじょくえかねたサライがアブラムに不平ふへいらしたところ、アブラムはこのけんかんしては干渉かんしょうしないむねつたえた。するとサライはハガルを散々さんざん虐待ぎゃくたいしたので、ついにハガルは逃亡とうぼうしてしまった。ハガルはその、「おも使つかい」(『しん共同きょうどうやく聖書せいしょ』による訳出やくしゅつ)にうながされてサラのもとへともどり、無事ぶじイシュマエル出産しゅっさんしている。 イシュマエルが13さいのときかみがアブラハムにあらわれ、かれおおくの子孫しそんまれること、かれらにカナンのあたえられること、そしてイシュマエルではなく、サライによって誕生たんじょうする息子むすこイサクがそのぐことを約束やくそくした。もっとも、アブラムにはしんじがたい約束やくそくであったため、かれはイシュマエルについての約束やくそく成就じょうじゅかみ祈願きがんした。それでもかみは、イサクについての約束やくそく成就じょうじゅするとねんした。このおりに、アブラムはアブラハムへと、サライはサラへとそれぞれ改名かいめいされている。 そんなあるのこと、二人ふたりのもとにさんにん客人きゃくじんあらわれ、いまからいちねん、サラには息子むすこがいることをげた。この言葉ことばいてサラは内心ないしんひそかにわらっていたのだが、この行為こういが「イサク」という息子むすこ名前なまえ由来ゆらいとなっている。

サラの埋葬まいそう (ギュスターヴ・ドレ

ゲラル滞在たいざい

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かみソドムまちほろぼしたのち、アブラハムの一族いちぞくふたたみなみかって放浪ほうろうし、ゲラル地方ちほう到達とうたつした。アブラハムはここでもまたサラを自分じぶんいもうとであるといつわったので、彼女かのじょはゲラルのおうアビメレク王家おうけめとられた。かみはアビメレクとその王家おうけばっしたのだが、今回こんかいかれゆめなかあらわれて、サラにはれぬよう警告けいこくした。アビメレクはサラをアブラハムにかえすと、おくものおくるだけでなくゲラルでの滞在たいざいにんすすめた。その返礼へんれいとしてアブラハムは、アビメレクの平安へいあん、とりわけこのたびばっによってにんとなってしまった王家おうけおんなたちの回復かいふくかみ祈願きがんした。するとかみがそれにこたえたので、おんなたちは子供こどもむようになった。

イサクの誕生たんじょう

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サラは90さいのとき、幸福こうふくたされながら、まさに約束やくそくされた日取ひどりにイサクをんだ。しかし彼女かのじょはイサクの地位ちいたしかなものとするために、ハガルとイシュマエルを一族いちぞくから追放ついほうするようアブラハムにねがた。それは、イシュマエルにアブラハムのあとがせたくないという当然とうぜん主張しゅちょうであった。アブラハムはこのけんかんしてしんいため、かみ助言じょげんもとめた。しかしかみは、サラののぞみどおりにはからうようアブラハムにめいじた。こうしてハガルは荒野あらの追放ついほうされた。

サラの

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サラは127さいのとき、キルヤト・アルバ(ヘブロン)でんだ。アブラハムはヘトひとエフロンからはたけり、そこにあったマクペラの洞穴どうけつ彼女かのじょ亡骸なきがら埋葬まいそうした。

ミドラーシュにおけるサラ

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  • 創世そうせい』11しょう29せつにハラン(アブラハムの兄弟きょうだい、ロトのちち)のむすめとしてミルカと「イスカ(יִסְכָּה)」という人物じんぶつてくる[2]が、文脈ぶんみゃくなどからこのイスカとサラをどう一人物いちじんぶつなす解釈かいしゃくがある[3]。それは「イスカ」という名前なまえ由来ゆらいが、おんな預言よげんしゃとして霊力れいりょくもちいてものをた(סכתה:サフター)、あるいは彼女かのじょうつくしさによってすべてがおおわれた(סוכה:スカー)とするせつ根拠こんきょとしている。
  • ベレシート・ラッバー』には、晩年ばんねんのサラについてのいくつかの記述きじゅつがある。彼女かのじょは100さいぎてもなおじゅうだい美貌びぼうたもっていたというものや、彼女かのじょおかしたつみバト・シェバソロモンおうはは)と同様どうようきよめられていたといったものがあり、ラシ(ラビ・シェロモー・ベン・イツハキー)でさえも、その注釈ちゅうしゃくにおいてどう箇所かしょ引用いんようしている。
  • サラの性質せいしつ象徴しょうちょうする言葉ことばとして豊穣ほうじょう創造そうぞう寛容かんようがあげられている。旧約きゅうやく聖書せいしょではさんにん客人きゃくじん給仕きゅうじするアブラハムを手助てだすけするサラの姿すがたえがかれているが、ミドラーシュでは彼女かのじょ生産せいさんせいあかしとして、イサク誕生たんじょう祝宴しゅくえんさい来賓らいひんきゃく子供こどもたちにまで授乳じゅにゅうしていたという逸話いつわかたられている。彼女かのじょ存命ぞんめいちゅう一族いちぞく天幕てんまく開放かいほうてきとみあふれており、てんにはめぐみのあめをもたらす雨雲あまぐもかり、つね貯水池ちょすいちたしていたとされている。また、安息日あんそくびからつぎ安息日あんそくびまでほのおえることのない蝋燭ろうそく天幕てんまくなからしていた。

サラとアブラハムの関係かんけい

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  • ミドラーシュでは、旧約きゅうやく聖書せいしょしるされているサラの印象いんしょう継承けいしょうするとともに、ある場面ばめんでは自立じりつした女性じょせいとして彼女かのじょ姿すがた描写びょうしゃしており、さらにはれいのうしゃおんな預言よげんしゃとしてげたりもしている。サラがアブラハムになにかをねがれば、かみしみない援助えんじょ彼女かのじょあたえているが、このことが、彼女かのじょ預言よげんしゃとしての能力のうりょくそなわっていたことの根拠こんきょとなっている。
  • またミドラーシュによれば、一族いちぞくがまだハランに滞在たいざいしていたころ、アブラハムが一族いちぞくくわわった成人せいじん男性だんせいをことごとくユダヤきょう改宗かいしゅうさせたように、サラもまた女性じょせいたちをユダヤきょう改宗かいしゅうさせていたのであった。

サラとハガルの関係かんけい

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  • 注釈ちゅうしゃくしゃおおくが、ハガルにたいするサラの虐待ぎゃくたいかんして解説かいせつしあぐねている。一部いちぶものは、ハガルの態度たいどがあまりにも不遜ふそんであったためにすべからきた出来事できごとであると主張しゅちょうすることで、サラの行為こうい正当せいとうしている。あるいは、その行為こうい実際じっさいには虐待ぎゃくたいといったものではなく、ハガルがアブラハムのがわおんなとなってもなお、彼女かのじょとはおんな主人しゅじんおんな奴隷どれいとしての関係かんけい継続けいぞくしていたにぎないとしてサラを擁護ようごしている。
  • 一方いっぽう、ラムバン(ラビ・モーシェ・ベン・ナフマン)は、サラはハガルを虐待ぎゃくたいすることでつみおかしたが、イシュマエルの誕生たんじょうによってサラの子孫しそんばっせられた・・・すなわち、イシュマエルの子孫しそんアラブ民族みんぞく)がその、イスラエル民族みんぞく虐待ぎゃくたいのぞむようになった、とべている。

サラの

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  • ミドラーシュによれば、アブラハムはマクペラの洞穴どうけつ場所ばしょアダムエバ墓地ぼち場所ばしょ一致いっちしていることを確認かくにんしたうえで、彼女かのじょ亡骸なきがらをそこに埋葬まいそうしたとされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ただしヘブライでは「兄弟きょうだい姉妹しまい」は傍系ぼうけい親族しんぞく全般ぜんぱんす。ロトも『創世そうせい』14しょうでアブラム(=アブラハム)の「兄弟きょうだい」と「兄弟きょうだい」という表現ひょうげん両方りょうほうされている。
  2. ^ 創世そうせい(口語こうごやく)#11:29
  3. ^ れいとしてフラウィウス・ヨセフスは『ユダヤ古代こだいだいIまきviしょうでここの部分ぶぶん説明せつめいするさい、「ハランは息子むすこロトとむすめサラとミルカをのこして(中略ちゅうりゃくんだ」とイスカ=サラとして記述きじゅつしている。
    フラウィウス・ヨセフス ちょはたつよしたいら やく『ユダヤ古代こだい1』株式会社かぶしきがいしゃ筑摩書房ちくましょぼう、1999ねんISBN 4-480-08531-9、P68。

関連かんれん項目こうもく

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