ジョンソンM1941軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう (ジョンソンM1941けいきかんじゅう、M1941 Johnson machine gun)は、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 期 き にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく で開発 かいはつ された軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう である。メルヴィン・ジョンソン (英語 えいご 版 ばん ) が設計 せっけい した。アメリカ軍 ぐん による制式 せいしき 採用 さいよう には至 いた らず、一部 いちぶ 部隊 ぶたい で比較的 ひかくてき 少数 しょうすう が運用 うんよう されるに留 とど まった。
この銃 じゅう は「軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう 」(light machine gun)と呼 よ ばれていたが、比較的 ひかくてき 軽量 けいりょう で弾 たま 帯 たい 給 きゅう 弾 だん 機能 きのう も備 そな えていなかったことから、アメリカ軍 ぐん においてはブローニングM1918 と同等 どうとう の「自動 じどう 小銃 しょうじゅう 」(automatic rifle)に相当 そうとう する自動 じどう 火器 かき と見 み なされた[ 1] 。設計 せっけい 者 しゃ ジョンソン自身 じしん も、軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう ではなく自動 じどう 小銃 しょうじゅう 、あるいは「軽 けい 機関 きかん 小銃 しょうじゅう 」(light machine rifle)という表現 ひょうげん を好 この んだ。これは必要 ひつよう に応 おう じ、小銃 しょうじゅう のように構 かま えて射撃 しゃげき することも可能 かのう である点 てん を強調 きょうちょう するためだった[ 2] 。
初期 しょき モデルにはジョンソン小銃 しょうじゅう と同型 どうけい の銃剣 じゅうけん を取 と り付 つ けるための着剣 ちゃっけん ラグがあった[ 1] 。セレクティブファイア機能 きのう を備 そな え、セミオート射撃 しゃげき 時 じ にはクローズドボルト、フルオート射撃 しゃげき 時 じ にはオープンボルトの状態 じょうたい から発砲 はっぽう が行 おこな われた。そのためセミオート射撃 しゃげき からフルオート射撃 しゃげき へ直接 ちょくせつ 移行 いこう する際 さい には、ボルトを手動 しゅどう で後退 こうたい させる必要 ひつよう があり、薬 くすり 室 しつ の弾薬 だんやく 一発 いっぱつ を使 つか わないまま排出 はいしゅつ することとなった。銃身 じゅうしん 交換 こうかん は容易 ようい で、マニュアルによれば、5-6秒 びょう で交換 こうかん が可能 かのう とされていた。直 ちょく 銃床 じゅうしょう レイアウトのため、照準 しょうじゅん 器 き の位置 いち は比較的 ひかくてき 高 たか い。二 に 脚 きゃく は着脱 ちゃくだつ が可能 かのう だった[ 2] 。銃身 じゅうしん 交換 こうかん 時 じ には二 に 脚 きゃく を取 と り外 はず す必要 ひつよう があった。
左側 ひだりがわ 面 めん から装填 そうてん する20連発 れんぱつ 箱 ばこ 型 がた 弾倉 だんそう にも独特 どくとく の設計 せっけい が取 と り入 い れられていた。マガジンリップは機関 きかん 部 ぶ 側 がわ に組 く み込 こ まれており、弾倉 だんそう 側 がわ には設 もう けられておらず、マガジンリリースレバーと噛 か み合 あ うストッパーが弾薬 だんやく を固定 こてい する役割 やくわり を兼 か ねていた。機関 きかん 部 ぶ にはジョンソン小銃 しょうじゅう と同 どう 方式 ほうしき の5連発 れんぱつ ロータリー型 がた 弾倉 だんそう が組 く み込 こ まれていた。弾倉 だんそう を交換 こうかん せずにクリップで追加 ついか 装填 そうてん を行 おこな うことも可能 かのう で、銃 じゅう 内部 ないぶ には25発 はつ の弾薬 だんやく を保持 ほじ することができた。単 たん 列 れつ 式 しき のため長 なが く嵩張 かさば ったほか、破損 はそん もしやすかった[ 2] 。
ロータリー型 がた 弾倉 だんそう は、ブローニングM1918の弾倉 だんそう をそのまま装填 そうてん できた初期 しょき 型 がた ジョンソン小銃 しょうじゅう の試験 しけん の際 さい 、弾薬 だんやく を逆 ぎゃく に装填 そうてん して弾倉 だんそう のフィードリップを破損 はそん させた兵士 へいし がおり、これをM1ガーランドの成績 せいせき を高 たか めるための「不正 ふせい 」の一環 いっかん だと考 かんが えていたジョンソンが、同様 どうよう の「不正 ふせい 」を行 おこな えない機構 きこう として考案 こうあん したものである。ジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう の弾倉 だんそう がダブルフィードではなくシングルフィードなのも、やはり「不正 ふせい 」を警戒 けいかい しての設計 せっけい であった[ 3] 。
ジョンソン小銃 しょうじゅう
予備 よび 役 やく 海兵 かいへい 大尉 たいい でもあった弁護士 べんごし のメルヴィン・ジョンソン (英語 えいご 版 ばん ) は、当時 とうじ 次期 じき 主力 しゅりょく 小銃 しょうじゅう の有力 ゆうりょく 候補 こうほ と目 め されていた半 はん 自動 じどう 小銃 しょうじゅう に否定 ひてい 的 てき な評価 ひょうか を下 くだ した銃器 じゅうき 設計 せっけい 者 しゃ の1人 ひとり だった。ジョンソンの見解 けんかい において、2つの有力 ゆうりょく 候補 こうほ 、すなわちジョン・ガーランド 設計 せっけい 案 あん (M1ガーランド )とジョン・ピダーセン (英語 えいご 版 ばん ) 設計 せっけい 案 あん (ピダーセン自動 じどう 小銃 しょうじゅう )は、いずれも欠陥 けっかん があり、大量 たいりょう 生産 せいさん にも向 む かないとされた。こうしてジョンソンは信頼 しんらい 性 せい や射撃 しゃげき 精度 せいど がより優 すぐ れ、量産 りょうさん にも適 てき した小銃 しょうじゅう の設計 せっけい に着手 ちゃくしゅ し、1935年 ねん にスクラップ部品 ぶひん を用 もち いて最初 さいしょ の試作 しさく 品 ひん を完成 かんせい させた。1937年 ねん 9月 がつ 28日 にち には一連 いちれん の銃器 じゅうき 設計 せっけい に関連 かんれん する最初 さいしょ の特許 とっきょ (アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 特許 とっきょ 第 だい 2,094,156号 ごう )を取得 しゅとく している[ 4] 。
ジョンソンは自 みずか ら設計 せっけい した小銃 しょうじゅう を採用 さいよう するように軍部 ぐんぶ へと働 はたら きかけ、いくつかの試験 しけん では良好 りょうこう な成績 せいせき を収 おさ めたものの、既 すで に陸軍 りくぐん がガーランド小銃 しょうじゅう の採用 さいよう を決定 けってい し、量産 りょうさん 体制 たいせい も整 ととの えられていたため、部品 ぶひん 調達 ちょうたつ など兵站 へいたん 上 うえ の理由 りゆう を背景 はいけい に、ジョンソンは1941年 ねん 初 はじ めにガーランド小銃 しょうじゅう への支持 しじ を表明 ひょうめい し、自 みずか らの設計 せっけい 案 あん を撤回 てっかい した[ 4] 。
当時 とうじ 、ジョンソンは小銃 しょうじゅう と並行 へいこう して軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう の設計 せっけい も行 おこな っていた。これは小銃 しょうじゅう と同様 どうよう の動作 どうさ 機構 きこう を採用 さいよう し、部品 ぶひん も大 だい 部分 ぶぶん が共通 きょうつう で、同 おな じ設備 せつび で容易 ようい に製造 せいぞう することができた。重量 じゅうりょう は12ポンドをわずかに上回 うわまわ る程度 ていど で、ブローニングM1918自動 じどう 小銃 しょうじゅう よりも軽 かる かった。また、交換 こうかん が容易 ようい な銃身 じゅうしん を備 そな えることは、M1918と比較 ひかく した際 さい の大 おお きなアドバンテージだった[ 1] 。ジョンソンは21ポンドという重 おも さ、ガス圧 あつ 作動 さどう 方式 ほうしき の構造 こうぞう 上 じょう 火薬 かやく のススが溜 た まりやすいこと、銃身 じゅうしん 交換 こうかん に手間 てま が掛 か かること、使用 しよう 頻度 ひんど が高 たか いので頻繁 ひんぱん なオーバーホールが求 もと められることをM1918A2の大 おお きな欠点 けってん と捉 とら えていた[ 3] 。
しかし、いずれにせよジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう は小銃 しょうじゅう と同様 どうよう に制式 せいしき 採用 さいよう が見送 みおく られた。ヨーロッパ 各国 かっこく を巡 めぐ って行 い った売 う り込 こ みでは、いくつかの国 くに がジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう に興味 きょうみ を示 しめ したものの、発注 はっちゅう は行 おこな われなかった。これらの銃器 じゅうき のさらなる改良 かいりょう を進 すす めるべく、ジョンソンはジョンソン・オートマティクス社 しゃ (Johnson Automatics, Inc.)を設立 せつりつ し、改良 かいりょう を加 くわ えた小銃 しょうじゅう および軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう に対 たい し、軍 ぐん での採用 さいよう を想定 そうてい したM1941という名称 めいしょう を与 あた えた[ 1] 。
こうして発表 はっぴょう されたM1941軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう に興味 きょうみ を示 しめ したのが、オランダ購買 こうばい 委員 いいん 会 かい (Netherlands Purchasing Commission , NPC)だった。オランダ では、オランダ領 りょう 東 ひがし インド陸軍 りくぐん (蘭 らん 印 しるし 陸軍 りくぐん )の装備 そうび を更新 こうしん するための近代 きんだい 的 てき な火器 かき が求 もと められていた。デモンストレーションを経 へ て、NPCはジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう およびジョンソン小銃 しょうじゅう を購入 こうにゅう した。ジョンソン社 しゃ は製造 せいぞう 設備 せつび を保有 ほゆう していなかったため、クランストン の繊維 せんい 工場 こうじょう を買収 ばいしゅう し、オランダとの契約 けいやく に基 もと づく銃器 じゅうき 製造 せいぞう を担 にな うメーカーとしてクランストン・アームズ社 しゃ (Cranston Arms Company)が立 た ち上 あ げられた[ 1] 。ただし、直後 ちょくご に始 はじ まった日本 にっぽん 軍 ぐん の侵攻 しんこう (蘭 らん 印 しるし 作戦 さくせん )の影響 えいきょう で、現地 げんち に届 とど いたジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう はごくわずかだった。
ドロールM1949
その後 ご 、M1944として知 し られる改良 かいりょう 型 がた が発表 はっぴょう された。しばしば故障 こしょう が指摘 してき された機関 きかん 部 ぶ の再 さい 設計 せっけい が行 おこな われたほか、銃床 じゅうしょう は金属 きんぞく パイプ製 せい 、グリップはプラスチック製 せい に改 あらた められ、木製 もくせい 部品 ぶひん は全 すべ て除去 じょきょ された。着脱 ちゃくだつ 式 しき の二 に 脚 きゃく も廃止 はいし され、代 か わりに一体 いったい 式 しき の短 たん 脚 あし が採用 さいよう された。短 たん 脚 あし は折 お りたたむとフォアグリップとして使用 しよう できた。銃床 じゅうしょう のバッファスプリングを交換 こうかん すると、射撃 しゃげき 速度 そくど を350発 はつ /分 ぶん から750発 はつ /分 ぶん まで変更 へんこう することができた。騎兵 きへい や空挺 くうてい 隊員 たいいん 向 む けのオプションとして、20インチの単 たん 銃身 じゅうしん も設計 せっけい された[ 2] 。
1943年 ねん 12月、10丁 ちょう のM1944がアバディーン試験場 しけんじょう に持 も ち込 こ まれて審査 しんさ を受 う けた。この際 さい には悪条件 あくじょうけん 下 か での試験 しけん で問題 もんだい を来 きた したものの、続 つづ けてクアンティコ海兵 かいへい 隊 たい 基地 きち (英語 えいご 版 ばん ) で行 おこな われた海兵 かいへい 装備 そうび 委員 いいん 会 かい による試験 しけん では高 たか く評価 ひょうか され、アメリカ海兵 かいへい 隊 たい におけるM1918の後継 こうけい 装備 そうび として推薦 すいせん された。しかし、結局 けっきょく は陸軍 りくぐん が採用 さいよう を見送 みおく っていることから、部品 ぶひん 調達 ちょうたつ など兵站 へいたん 上 じょう の問題 もんだい を引 ひ き起 お こす恐 おそ れがあるとして、制式 せいしき 採用 さいよう には至 いた らなかった。それでもジョンソンは改良 かいりょう を進 すす め、M1944E1として知 し られるモデルを開発 かいはつ した。これは後 のち にM1945と改称 かいしょう された[ 5] 。
M1944E1ではバレルベアリングにガスポートを設 もう け、ここから機関 きかん 部 ぶ のバレルサポーターへと抜 ぬ けるガスの圧力 あつりょく を利用 りよう し銃身 じゅうしん 後退 こうたい を補助 ほじょ することで、砂塵 さじん 等 とう の異物 いぶつ が混入 こんにゅう した場合 ばあい でも動作 どうさ 不良 ふりょう が起 お きづらくなっていた。同時 どうじ に発射 はっしゃ 速度 そくど は600 - 700発 はつ /分 ぶん 程度 ていど まで上 あ がっており、関連 かんれん してボルト閉鎖 へいさ システムも改良 かいりょう されている。1945年 ねん 2月 がつ 、M1944E1の試作 しさく 品 ひん 10丁 ちょう を陸軍 りくぐん が購入 こうにゅう し、そのうち1丁 ちょう が1945年 ねん 7月 がつ 20日 はつか から8月 がつ 6日 にち にかけての耐久 たいきゅう 試験 しけん に用 もち いられたが、高 たか すぎる発射 はっしゃ 速度 そくど のため部品 ぶひん の破損 はそん が頻発 ひんぱつ し、試験 しけん は途中 とちゅう で中断 ちゅうだん されることとなった。以後 いご も改良 かいりょう と試験 しけん が試 こころ みられたが、1945年 ねん 9月 がつ 2日 にち の日本 にっぽん の降伏 ごうぶく によってプロジェクトの重要 じゅうよう 性 せい は大幅 おおはば に低下 ていか し、同年 どうねん 10月 がつ に終了 しゅうりょう が宣言 せんげん された[ 5] 。
T48
M1945の最後 さいご の試験 しけん が行 おこな われている頃 ころ 、陸軍 りくぐん 武器 ぶき 省 しょう では、M1918とM1919A6 の役割 やくわり を統合 とうごう した銃器 じゅうき の開発 かいはつ が試 こころ みられていた。武器 ぶき 省 しょう はこの火器 かき について、交換 こうかん 容易 ようい な銃身 じゅうしん 、弾 たま 帯 たい 給 きゅう 弾 だん 、折 おり 畳 たたみ 式 しき 二 に 脚 きゃく 、直 ちょく 銃床 じゅうしょう 、さらにセレクティブファイア機能 きのう を備 そな え、セミオート射撃 しゃげき 時 じ にはクローズドボルト、フルオート射撃 しゃげき 時 じ にはオープンボルトの状態 じょうたい から発砲 はっぽう を行 おこな うことといった要件 ようけん を示 しめ した。M1945はこの要件 ようけん に非常 ひじょう に近 ちか く、1946年 ねん 8月 がつ には弾 たま 帯 たい 給 きゅう 弾 だん への変換 へんかん を可能 かのう とした試作 しさく 品 ひん 2丁 ちょう がT40なる名称 めいしょう で陸軍 りくぐん へと引 ひ き渡 わた された。次 つ いで設計 せっけい されたT48とT53は開発 かいはつ 中 ちゅう の新 しん 弾薬 だんやく T65弾 だん (7.62x51mm NATO弾 だん の前身 ぜんしん )仕様 しよう のモデルで、給 きゅう 弾 だん 機構 きこう を交換 こうかん すれば、20連発 れんぱつ 箱 ばこ 型 がた 弾倉 だんそう と弾 たま 帯 たい のどちらからでも給 きゅう 弾 だん が行 おこな えた。しかし、終戦 しゅうせん によって小 しょう 火器 かき 開発 かいはつ の重要 じゅうよう 性 せい が低下 ていか したことに加 くわ え、ジョンソン社 しゃ の財政 ざいせい 上 じょう の問題 もんだい も重 かさ なり、1948年 ねん 初頭 しょとう には関連 かんれん する全 すべ てのプロジェクトが放棄 ほうき された[ 6] 。
1950年代 ねんだい に入 はい ると、イスラエル でM1944を原型 げんけい とするドロール軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう が開発 かいはつ された[ 2] 。
M1941軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう を射撃 しゃげき するパラマリーンズの隊員 たいいん (1943年 ねん )
アメリカ海兵 かいへい 隊 たい では、1941年 ねん に編成 へんせい された落下傘 らっかさん 部隊 ぶたい (パラマリーンズ (英語 えいご 版 ばん ) )向 む けの装備 そうび として、軽量 けいりょう かつ火力 かりょく に優 すぐ れ、銃身 じゅうしん および銃床 じゅうしょう の取 と り外 はず しも容易 ようい なジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう に注目 ちゅうもく が集 あつ まった。そしてジョンソン社 しゃ とNPCを交 まじ えた協議 きょうぎ を経 へ て、パラマリーンズにも必要 ひつよう なだけのジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう が供給 きょうきゅう されることとなった。そのほか、特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい マリーン・レイダーズ (英語 えいご 版 ばん ) でも比較的 ひかくてき 少数 しょうすう が調達 ちょうたつ された。また、米 べい 加 か 軍 ぐん 合同 ごうどう 特殊 とくしゅ 部隊 ぶたい である悪魔 あくま の旅団 りょだん もパラマリーンズと同 おな じ理由 りゆう からジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう に注目 ちゅうもく し、1943年 ねん 6月 がつ 29日 にち には海兵 かいへい 隊 たい から125丁 ちょう を譲 ゆず り受 う けている[ 7] 。
秘密 ひみつ 活動 かつどう 部局 ぶきょく である戦略 せんりゃく 情報 じょうほう 局 きょく (OSS)でも、分解 ぶんかい して隠匿 いんとく することが容易 ようい であるとして、ジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう およびジョンソン小銃 しょうじゅう を少数 しょうすう 使用 しよう した[ 2] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご には、フィデル・カストロ 率 ひき いるゲリラがバティスタ 政権 せいけん に対 たい するキューバ革命 かくめい の際 さい に使用 しよう したことが知 し られる。皮肉 ひにく なことに、カストロがキューバを支配 しはい するようになった後 のち には、反共 はんきょう キューバ人 じん 部隊 ぶたい がカストロに対 たい する抵抗 ていこう のためにジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう を使用 しよう した[ 2] 。
実戦 じっせん では高 たか い精度 せいど や交換 こうかん が容易 ようい な銃身 じゅうしん などが高 こう 評価 ひょうか された一方 いっぽう 、ジャングルでは背 せ の高 たか い照準 しょうじゅん 器 き や側面 そくめん 弾倉 だんそう が草木 くさき に絡 から まることが多 おお かったほか、弾倉 だんそう を携行 けいこう するためのポーチが十分 じゅうぶん 供給 きょうきゅう されていないことも問題 もんだい として指摘 してき された[ 1] 。
ジョンソン・オートカービンを手 て にするパラマリーンズ隊員 たいいん 。このオートカービンはトーガソンから貸 か し出 だ されたものである
蘭 らん 印 しるし 陸軍 りくぐん に属 ぞく する東 ひがし インド人 じん の兵士 へいし は、アメリカ人 じん よりも小柄 こがら であり、彼 かれ らにとってジョンソン小銃 しょうじゅう は長 なが すぎて扱 あつか いにくいのではないかと考 かんが えられた。そこで、より短 みじか く使 つか いやすい小銃 しょうじゅう としてジョンソン・オートカービンの設計 せっけい が行 おこな われた。オートカービンは、基本 きほん 的 てき にはジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう の給 きゅう 弾 だん 機構 きこう をジョンソン小銃 しょうじゅう と同 おな じ固定 こてい 式 しき の10連発 れんぱつ ロータリー型 がた 弾倉 だんそう に改 あらた め、小型 こがた 軽量 けいりょう 化 か のための小 しょう 改良 かいりょう を加 くわ えたものである。軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう 用 よう の22インチ銃身 じゅうしん がそのまま取 と り付 つ けられいるため、十分 じゅうぶん な射撃 しゃげき 精度 せいど があるとされた。構造 こうぞう は共通 きょうつう しており、外見 がいけん も良 よ く似 に てはいたものの、少 すく なからぬ部品 ぶひん が軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう や小銃 しょうじゅう と互換 ごかん 性 せい のない専用 せんよう 設計 せっけい であった。重量 じゅうりょう は8.75 lb (3,970 g)、全長 ぜんちょう は38 in (970 mm)であった。試作 しさく 銃 じゅう は5丁 ちょう 作 つく られたことが知 し られており、いずれも細部 さいぶ の設計 せっけい が異 こと なる。オートカービンの設計 せっけい にあたり、ジョンソンは軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう とオートカービンのみで部隊 ぶたい を武装 ぶそう させる構想 こうそう を語 かた っていた[ 8] 。
当時 とうじ 、海兵 かいへい 隊 たい とジョンソン社 しゃ の連絡 れんらく 役 やく を務 つと めていたハリー・L・トーガソン海兵 かいへい 中尉 ちゅうい (Harry L. Torgerson[ 注 ちゅう 1] )は、ジョンソンが設計 せっけい した一連 いちれん の自動 じどう 火器 かき を極 きわ めて高 たか く評価 ひょうか していた。トーガソンは1941年 ねん 9月 がつ に海兵 かいへい 隊 たい 装備 そうび 委員 いいん 会 かい の要請 ようせい のもと落下傘 らっかさん 降下 こうか およびジョンソン軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう の射撃 しゃげき の実演 じつえん を行 おこな い、この時 とき の検討 けんとう を経 へ て設置 せっち されたパラマリーンズにも参加 さんか していた。クラクストンの工場 こうじょう を訪問 ほうもん した際 さい 、トーガソンはオートカービンを実際 じっさい に射撃 しゃげき し、甚 いた く感銘 かんめい を受 う けた。本来 ほんらい 、試作 しさく 銃 じゅう の持 も ち出 だ しは禁 きん じられていたのだが、最終 さいしゅう 的 てき にジョンソンはトーガソンに試作 しさく 銃 じゅう を引 ひ き渡 わた すことを認 みと めた。ブーゲンビル島 とう の野営 やえい 地 ち などでオートカービンを手 て にするトーガソンの写真 しゃしん が何 なん 枚 まい か残 のこ されており、細部 さいぶ の違 ちが いが認 みと められることから少 すく なくとも2丁 ちょう がトーガソンに引 ひ き渡 わた されていたと考 かんが えられている。トーガソンは退役 たいえき 後 ご も製造 せいぞう 番号 ばんごう S-5の試作 しさく 銃 じゅう を所有 しょゆう していた。このS-5番 ばん の試作 しさく 銃 じゅう は、オートカービンの唯一 ゆいいつ の現存 げんそん 品 ひん である[ 8] 。
1946年 ねん 後半 こうはん 、アルゼンチン からの要望 ようぼう に基 もと づき、M1947として知 し られるカ か ービン銃 びんじゅう が1丁 ちょう のみ試作 しさく されたものの、情報 じょうほう はほとんど残 のこ されていない。以前 いぜん のオートカービンとは異 こと なるが、設計 せっけい には軽 けい 機関 きかん 銃 じゅう と共通 きょうつう した部分 ぶぶん があったと言 い われている。アルゼンチンは購入 こうにゅう を見送 みおく り、M1947の追加 ついか の製造 せいぞう は行 おこな われなかった。1949年 ねん 、ジョンソン社 しゃ は破産 はさん した[ 8] 。