ゼムン (セルビア語 ご :Земун / Zemun 、セルビア・クロアチア語 ご 発音 はつおん : [zɛ̂,mun] )は、セルビアの歴史 れきし 的 てき な街 まち であり、また現在 げんざい は同国 どうこく の首都 しゅと ・ベオグラード を構成 こうせい する17の区 く (オプシュティナ )の1つとなっている。歴史 れきし 上 じょう 、ゼムンはベオグラードとは別 べつ の街 まち として発展 はってん してきたが、20世紀 せいき 後半 こうはん にノヴィ・ベオグラード の開発 かいはつ によって両者 りょうしゃ は結 むす ばれて1つの都市 とし となった。
古代 こだい 、この地 ち にあったケルト人 じん やローマ人 じん の居住 きょじゅう 地 ち は「タウルヌム(Taurunum)」と呼 よ ばれている。フランク人 じん による十字軍 じゅうじぐん の記録 きろく の中 なか では、この街 まち は「マレヴィラ(Mallevila)」として記録 きろく されており、これは9世紀 せいき 以降 いこう にみられる呼称 こしょう である。同 おな じ時代 じだい にスラヴ語 ご による名称 めいしょう 「ゼムン」が初 はじ めて文献 ぶんけん に登場 とうじょう する。「ゼムン」の名 な は、スラヴ語 ご で大地 だいち を意味 いみ するゼムリャ(zemlja)に由来 ゆらい すると考 かんが えられており、その後 ご の各 かく 言語 げんご での呼称 こしょう 、すなわち現代 げんだい のセルビア語 ご の「ゼムン」や、ハンガリー語 ご の「ジモニ(Zimony)」、ドイツ語 ご の「ゼムリン(Semlin)」はすべてこれに由来 ゆらい するものである。
ローマ時代 じだい の石棺 せっかん
ゼムンで見 み つかった、ギリシア神話 しんわ のマイナス の石像 せきぞう
こんにちのゼムンには新 しん 石器 せっき 時代 じだい から人 ひと の居住 きょじゅう があった。バデン文化 ぶんか (Baden culture )の墓地 ぼち や土器 どき (器 うつわ や壺 つぼ など)がゼムンで見 み つかっている[ 1] 。また付近 ふきん のアスタルトナ・バザ(Asfaltna Baza)からはボスト文化 ぶんか (Bosut culture )の墓地 ぼち が見 み つかっている[ 2] 。タウルヌムで初 はつ のケルト人 じん の居住 きょじゅう は、スコルディスキ がトラキアおよびダキアに属 ぞく するドナウ川 がわ 沿 ぞ いの一部 いちぶ 地域 ちいき を支配 しはい 下 か においた紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき のことであった。ローマ人 じん は紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき にこの地 ち を支配 しはい 下 か に収 おさ め、タウルヌムは西暦 せいれき 紀元 きげん 15年 ねん にパンノニア 属 ぞく 州 しゅう の一部 いちぶ となった。タウルヌムには要塞 ようさい があり[ 3] 、シンギディヌム (ベオグラード )を訪 おとず れるローマ人 じん の係留 けいりゅう 地 ち として利用 りよう された[ 4] 。ローマの詩人 しじん オウィディウス のペンがタウルヌムで見 み つかったと言 い われている[ 5] 。民族 みんぞく 移動 いどう 時代 じだい を経 へ て、この地域 ちいき はロ ろ ーマ帝国 まていこく 、ゲピド王国 おうこく (Kingdom of the Gepids )、ブルガリア帝国 ていこく など、多 おお くの国家 こっか ・民族 みんぞく による支配 しはい を経験 けいけん することとなる。12世紀 せいき にはハンガリー王国 おうこく の支配 しはい 下 か となり、15世紀 せいき にセルビア人 じん のデスポト(Despot )・ジュラジ・ブランコヴィッチ (Đurađ Branković )の所領 しょりょう となる。1459年 ねん に一帯 いったい のセルビア人 じん 諸侯 しょこう 国 こく がオスマン帝国 ていこく に征服 せいふく されると、ゼムンは軍 ぐん の駐屯 ちゅうとん 地 ち として重要 じゅうよう な拠点 きょてん となる。ゼムンは1521年 ねん 7月 がつ 12日 にち にオスマン帝国 ていこく に征服 せいふく され、ブディン州 しゅう (ブディン・パシャルク、Budin )、スレム ・サンジャク の一部 いちぶ となった。
1608年 ねん 、オスマン帝国 ていこく 支配 しはい 下 か のゼムン
オスマン帝国 ていこく が1716年 ねん 8月 がつ 5日 にち にペーターヴァルダインの戦 たたか い で敗 やぶ れた後 のち 、ゼムンを含 ふく むスレム 地方 ちほう 南東 なんとう 部 ぶ は、1717年 ねん にハプスブルク君主 くんしゅ 国 こく (オーストリア大公 たいこう 国 こく )に征服 せいふく された。パッサロヴィッツ条約 じょうやく によってこの地方 ちほう はシェーンボルン家 か (Schönborn )の所領 しょりょう となった。ドナウ川 がわ とサヴァ川 がわ の合流 ごうりゅう 地点 ちてん に位置 いち するこの場所 ばしょ は、ハプスブルク家 か のオーストリア大公 たいこう 国 こく とオスマン帝国 ていこく の戦 たたか いにおいて戦略 せんりゃく 的 てき 重要 じゅうよう 拠点 きょてん であった。1739年 ねん のベオグラード条約 じょうやく (Treaty of Belgrade )によって最終 さいしゅう 的 てき に国境 こっきょう が確定 かくてい されオーストリア領 りょう となった。1746年 ねん には軍政 ぐんせい 国境 こっきょう 地帯 ちたい が設置 せっち され、1749年 ねん にゼムンは軍事 ぐんじ 地区 ちく に指定 してい される。1754年 ねん の時点 じてん で、ゼムンには1900人 にん の正 せい 教徒 きょうと 、600人 にん のカトリック教徒 きょうと 、76人 にん のユダヤ人 じん 、100人 にん のロマ が居住 きょじゅう していた。1777年 ねん にはゼムンには1130世帯 せたい 、6800人 にん が居住 きょじゅう し、うち半数 はんすう はセルビア人 じん 、残 のこ りの半数 はんすう はカトリック教徒 きょうと やユダヤ人 じん 、アルメニア人 じん 、ムスリム などであった。カトリックの住民 じゅうみん の中 なか で最大 さいだい の勢力 せいりょく はドイツ人 じん であった。この頃 ころ よりゼムンにはドイツ人 じん やハンガリー人 じん の居住 きょじゅう 者 しゃ が増 ふ え始 はじ める。
19世紀 せいき のゼムン
ゼムンは交通 こうつう の要衝 ようしょう 、そして国境 こっきょう の街 まち として繁栄 はんえい した。1816年 ねん には多数 たすう のドイツ人 じん およびセルビア人 じん の移入 いにゅう に伴 ともな い、街 まち が大幅 おおはば に拡張 かくちょう され、新 あら たにフランツェンシュタール(Franzenstal )およびゴルニャ・ヴァロシュ(Gornja Varoš )地区 ちく が誕生 たんじょう した。19世紀 せいき のゼムンの人口 じんこう は1310世帯 せたい 、7089人 にん であった。1813年 ねん には、オスマン帝国 ていこく に対 たい する反乱 はんらん を率 ひき いたカラジョルジェ・ペトロヴィッチ (Karađorđe Petrović )が失脚 しっきゃく し、多 おお くのセルビア人 じん とともにゼムンへと逃 に げこむという、セルビアの歴史 れきし 上 じょう の重要 じゅうよう な出来事 できごと の現場 げんば となった。
1848年 ねん 革命 かくめい の時代 じだい 、ゼムンはオーストリア帝国 ていこく の内部 ないぶ に成立 せいりつ したセルビア・ヴォイヴォディナ の事実 じじつ 上 じょう の首都 しゅと となったが、1849年 ねん にはこの地 ち は再 ふたた び軍政 ぐんせい 国境 こっきょう 地帯 ちたい へと戻 もど された。1882年 ねん に軍政 ぐんせい 国境 こっきょう 地帯 ちたい が廃止 はいし されると、ゼムンを含 ふく むスレム 地方 ちほう 一帯 いったい はハンガリー王国 おうこく 、後 のち にオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく の自治領 じちりょう ・クロアチア・スラヴォニア のセレーム県 けん (Syrmia County )の一部 いちぶ となった。1883年 ねん には初 はじ めて鉄道 てつどう で西方 せいほう の諸国 しょこく と結 むす ばれ、1884年 ねん にはサヴァ川 がわ を渡 わた る鉄道 てつどう 橋 きょう も築 きず かれた。
1914年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の時代 じだい 、ゼムンはセルビア王国 おうこく とオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく との衝突 しょうとつ の最前線 さいぜんせん となったが、最終 さいしゅう 的 てき に1918年 ねん 11月5日 にち にセルビアがこの地 ち を手 て に入 い れることとなった。終戦 しゅうせん 後 ご 、セルビア人 じん ・クロアチア人 じん ・スロベニア人 じん 王国 おうこく (後 のち にユーゴスラビア王国 おうこく )が成立 せいりつ し、ゼムンはその一 いち 分 ふん となった。戦 せん 間 あいだ 期 き には街 まち の有力 ゆうりょく 者 しゃ らは急進 きゅうしん 党 とう や民主党 みんしゅとう 、クロアチア農民 のうみん 党 とう (Croatian Peasant Party )、そしてドイツ人 じん が支持 しじ する社会 しゃかい 主義 しゅぎ の諸 しょ 政党 せいとう などの陣営 じんえい に分 わ かれて争 あらそ った。
1934年 ねん にゼムンとベオグラード を結 むす ぶバス が運行 うんこう を開始 かいし し、ゼムンではセルビア人 じん の人口 じんこう が増加 ぞうか した。1927年 ねん に空軍 くうぐん 基地 きち が設置 せっち され、1941年 ねん 4月 がつ にユーゴスラビアが枢軸 すうじく 国 こく の侵略 しんりゃく を受 う けるとゼムンはその重要 じゅうよう な標的 ひょうてき となった。ユーゴスラビア王国 おうこく が降伏 ごうぶく すると、ゼムンを含 ふく むスレム地方 ちほう 一帯 いったい はクロアチア独 どく 立国 りっこく の一部 いちぶ となった。1944年 ねん にパルティザン によってゼムンは解放 かいほう され、それ以降 いこう セルビア の一部 いちぶ となった。
スロボダン・ミロシェヴィッチ の時代 じだい 、ゼムンは悪名 あくめい 高 たか い強力 きょうりょく な犯罪 はんざい 組織 そしき 「ゼムン・クラン (Zemun Clan )」の拠点 きょてん となった。ゼムン・クランの構成 こうせい 員 いん には、後 のち にゾラン・ジンジッチ の暗殺 あんさつ で有罪 ゆうざい となった者 もの が多数 たすう 含 ふく まれる。
ゼムンからみたスタリ・グラード
ゼムンはもともと、ドナウ川 がわ 右岸 うがん に位置 いち する3つの丘 おか 、ガルドシュ (Gardoš )、チュコヴァツ (Ćukovac )、カルヴァリヤ (Kalvarija )の上 うえ に築 きず かれ、発展 はってん してきた。この場所 ばしょ でドナウ川 がわ は大 おお きく広 ひろ がり、その先 さき にサヴァ川 がわ の河口 かこう 、中洲 なかす である大 だい 戦争 せんそう 島 とう (Great War Island )がある。ゼムンの中核 ちゅうかく となるのはドニ・グラード(Donji Grad )、ガルドシュ(Gardoš )、チュコヴァツ(Ćukovac )、ゴルニ・グラード(Gornji Grad )の各 かく 地区 ちく である。その南 みなみ でノヴィ・ベオグラード区 く に面 めん しており、同区 どうく のトシン・ブナル (Tošin Bunar )地区 ちく へと市街地 しがいち が続 つづ いている。西 にし にはアルティナ(Altina )およびプラヴィ・ホリゾンティ(Plavi Horizonti )、北西 ほくせい にはガレニカ (Galenika )、ゼムン・ポリェ(Zemun Polje )、バタイニツァ (Batajnica )といった地区 ちく がある。
ゼムンは地理 ちり 的 てき にはスレム (スリイェム)東部 とうぶ に属 ぞく し、またベオグラード 市域 しいき の中西部 ちゅうせいぶ に位置 いち している。ゼムンの中心 ちゅうしん 市街地 しがいち は、ベオグラード市街地 しがいち 全体 ぜんたい のうち北端 ほくたん および西端 せいたん に位置 いち している。ゼムンより西 にし にはヴォイヴォディナ自治 じち 州 しゅう の州 しゅう 境 さかい があり、同 どう 自治 じち 州 しゅう に属 ぞく するノヴァ・パゾヴァ (Nova Pazova )と接 せっ している。南 みなみ に隣接 りんせつ するスルチン 、南東 なんとう のノヴィ・ベオグラード 、ドナウ川 がわ の対岸 たいがん に位置 いち するパリルラ (Palilula )およびスタリ・グラード はいずれも、ゼムン同様 どうよう にベオグラード を構成 こうせい する自治体 じちたい である。
ゼムンの北 きた を流 なが れるドナウ川 がわ の沿岸 えんがん 部 ぶ は大 だい 部分 ぶぶん がぬかるみとなっており、河岸 かわぎし から人 ひと が居住 きょじゅう する丘陵 きゅうりょう 地 ち までは距離 きょり がある。ゼムンの中心 ちゅうしん 市街地 しがいち がドナウ川 がわ 右岸 うがん にある、高 たか さ100メートルほどの丘陵 きゅうりょう 地 ち の上 うえ に築 きず かれている。これらのゼムンの丘陵 きゅうりょう 地 ち は、スレム黄土 おうど 台地 だいち の末端 まったん に位置 いち するゼムン黄土 おうど 台地 だいち の一部 いちぶ であり、三日月 みかづき 型 がた に広 ひろ がるベジャニスカ・コサ (Bežanijska Kosa )黄土 おうど 丘陵 きゅうりょう へと続 つづ いている。黄土 おうど 層 そう は最大 さいだい で40メートルの厚 あつ みがある。ドナウ川 がわ の中洲 なかす である2つの無人島 むじんとう 、大 だい 戦争 せんそう 島 とう および小 しょう 戦争 せんそう 島 とう (Little War Island )もゼムン区 く に属 ぞく する。ゼムン区 く の総 そう 面積 めんせき は153平方 へいほう キロメートルに達 たっ する。
ゼムンはベオグラードでもっとも人口 じんこう 密度 みつど の高 たか い地域 ちいき のひとつであり、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 以降 いこう に人口 じんこう は大幅 おおはば に増加 ぞうか した。公式 こうしき の国勢調査 こくせいちょうさ によるゼムンの人口 じんこう は以下 いか の通 とお りである:
年 とし
市街地 しがいち
自治体 じちたい 全域 ぜんいき
1921
18,528
1931
28,083
1948
42,230
1953
44,110
51,129
1961
72,956
74,851
1971
95,142
111,967
1981
116,826
138,702
1991
141,695
2002
145,751
152,950
2011
151,811
166,292
2004年 ねん 以前 いぜん の自治体 じちたい の人口 じんこう には、ゼムンから分離 ぶんり される以前 いぜん のスルチン の人口 じんこう が含 ふく まれる。
2002年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ による住民 じゅうみん の民族 みんぞく 別 べつ の内訳 うちわけ は以下 いか の通 とお り:
ゼムンの区 く 旗 はた
1929年 ねん 10月 がつ 3日 にち 、アレクサンダル1世 せい の統治 とうち 下 か でゼムン自治体 じちたい はベオグラード市 し を構成 こうせい する自治体 じちたい とされた。1934年 ねん 4月 がつ 1日 にち にゼムン自治体 じちたい は廃止 はいし され、単一 たんいつ のベオグラード自治体 じちたい が設置 せっち された。1941年 ねん から1944年 ねん までゼムンはナチス・ドイツ の占領 せんりょう 下 か に置 お かれ、形式 けいしき 上 じょう はドイツの傀儡 かいらい 国家 こっか であるクロアチア独 どく 立国 りっこく の一部 いちぶ とされたが、実際 じっさい にはドイツ軍 ぐん が支配 しはい した。解放 かいほう 後 ご の1945年 ねん にベオグラードは区 く (ラヨン )に分 わ けられたが、ゼムンはこれとは別 べつ にゼムン市 し (grad)とゼムン地区 ちく (srez)に分 わ けられた。1955年 ねん にゼムン市 し およびゼムン地区 ちく の大 だい 部分 ぶぶん は再 ふたた びベオグラードの一部 いちぶ となった。1950年代 ねんだい から1960年代 ねんだい にかけて、ボリェヴツィ (Boljevci )およびドバノヴツィ (Dobanovci )の両 りょう 自治体 じちたい がスルチン 自治体 じちたい へ、バタイニツァ (Batajnica )自治体 じちたい はゼムン自治体 じちたい へと合併 がっぺい された。1965年 ねん にスルチン自治体 じちたい がゼムン自治体 じちたい へと合併 がっぺい され、面積 めんせき 438平方 へいほう キロメートルに達 たっ する巨大 きょだい なゼムン自治体 じちたい が誕生 たんじょう した。しかし、2003年 ねん 11月3日 にち にベオグラード市議会 しぎかい はスルチン自治体 じちたい の再 さい 設 しつらえ を決定 けってい し、2004年 ねん 11月3日 にち にスルチン自治体 じちたい はゼムン自治体 じちたい から行政 ぎょうせい 的 てき に分離 ぶんり された。2000年代 ねんだい 初期 しょき にはバタイニツァをゼムンから分離 ぶんり する動 うご きも起 お こった。
ゼムンとベオグラードの住民 じゅうみん の間 あいだ には長年 ながねん にわたる対抗 たいこう 意識 いしき があり、とくに若年 じゃくねん 層 そう で顕著 けんちょ である。一般 いっぱん 的 てき にゼムンの住民 じゅうみん は自 みずか らの街 まち をベオグラードからは独立 どくりつ し、より発達 はったつ した文化 ぶんか 的 てき な街 まち と考 かんが えており、自身 じしん をベオグラードとは異 こと なるゼムンの住民 じゅうみん であると考 かんが えているが、これに反 はん してベオグラードの住民 じゅうみん はゼムンをベオグラードの郊外 こうがい 地区 ちく と考 かんが えている。
ゼムンはベオグラード市 し の中 なか でもっとも発達 はったつ した自治体 じちたい のひとつであり、多岐 たき にわたる産業 さんぎょう を持 も っている。域内 いきない の2箇所 かしょ で工業 こうぎょう 団地 だんち の開発 かいはつ が進 すす められており、それぞれ幹線 かんせん 道路 どうろ やバタイニツァ 、ノヴィ・サド と結 むす ばれる道路 どうろ に面 めん している。製造 せいぞう 業 ぎょう では、農業 のうぎょう 機械 きかい ・設備 せつび のズマイ(Zmaj )、精密 せいみつ ・工学 こうがく 機器 きき 、オートメーション設備 せつび のテレオプティク(Teleoptik )、時計 とけい のINSA、バスやその他 た 大型 おおがた 輸送 ゆそう 機器 きき のイカルブル(Ikarbus )、製薬 せいやく のガレニカ(Galenika )、プラスチックのグルメチュ(Grmeč )、くつのオブチャ・ベオグラード(Obuća Beograd )、せんいのTIZおよびゼクストラ(Zekstra )、リサイクルのINOSマテリ(INOS metali )およびINOSパピル(INOS papir )、飲料 いんりょう のコカ・コーラおよびナヴィプ(Navip )、陶磁器 とうじき のロマ(Roma )、建設 けんせつ 資材 しざい のDIAおよびアニツォム(Anicom )や、電子 でんし 機器 きき 、皮革 ひかく 製品 せいひん の製造 せいぞう 拠点 きょてん がある。また、これらの工業 こうぎょう 団地 だんち には多 おお くの物流 ぶつりゅう 倉庫 そうこ もある。
セルビアの重要 じゅうよう な道路 どうろ が複数 ふくすう 、ゼムンを通過 つうか している。ベオグラード=ザグレブ道路 どうろ や、ノヴィ・サドとベオグラードとを結 むす ぶ道路 どうろ は旧道 きゅうどう ・バタイニチュキ・ドルム(Batajnički drum )も新道 しんどう もゼムンを通過 つうか する。また、ベオグラードを迂回 うかい してバタイニツァとブバニ・ポトク (Bubanj Potok )を結 むす ぶ建造 けんぞう 中 ちゅう のベオグラード・バイパス(Belgrade bypass )の始点 してん もゼムンの域内 いきない に含 ふく まれる。ゼムンの本土 ほんど とドナウ川 がわ の中洲 なかす ・大 だい 戦争 せんそう 島 とう とを結 むす ぶ舟橋 ふなばし が夏 なつ の間 あいだ 設置 せっち されるのを除 のぞ けば、ゼムンにはドナウ川 がわ を渡 わた る橋 はし は存在 そんざい しない。ゼムンのガレニカ(Galenika )と対岸 たいがん のボルチャ(Borča )とを橋 はし で結 むす ぶ計画 けいかく がある。
2011年 ねん 4月 がつ に、ベオグラード首都 しゅと 圏 けん の都市 とし 鉄道 てつどう 「BG Voz 」のバタイニツァ - ノヴィ・ベオグラード間 あいだ が延伸 えんしん 開業 かいぎょう し、ベオグラード中心 ちゅうしん 部 ぶ を経 へ てパンチェヴォ橋 きょう 駅 えき までBG Vozの電車 でんしゃ で直通 ちょくつう 利用 りよう が可能 かのう となった。
バタイニツァ地区 ちく の近 ちか くに位置 いち するバタイニツァ空軍 くうぐん 基地 きち (Batajnica Airbase )へは市民 しみん の出入 でい りは制限 せいげん されている。
ガルドシュの「フニャディ・ヤーノシュの塔 とう 」
ゼムン(手前 てまえ )とベオグラード(奥 おく )
ベオグラード大学 だいがく の農学部 のうがくぶ を始 はじ め、多数 たすう の高等 こうとう 教育 きょういく 機関 きかん (内政 ないせい 、機械 きかい ・工学 こうがく 、薬学 やくがく など)や研究 けんきゅう 機関 きかん (農林 のうりん 学 がく 、鉱業 こうぎょう 、トウモロコシ、畜産 ちくさん 、核 かく エネルギー応用 おうよう 、物理 ぶつり 学 がく など)の施設 しせつ がゼムンにある。また、郷土 きょうど 博物館 はくぶつかん やマドレニアヌム(Madlenianum)オペラ劇場 げきじょう がある。
ベオグラードの主要 しゅよう な医療 いりょう 機関 きかん のうち2つ、KBSゼムン(KBC Zemun )およびKBCベジャニスカ・コサ(KBC Bežanijska Kosa )、ならびにベオグラードで最大 さいだい の老人 ろうじん 養護 ようご 施設 しせつ ベジャニスカ・コサ(Bežanijska Kosa )がゼムンにある。
宗教 しゅうきょう 施設 しせつ には、ガルドシュ墓地 ぼち 聖堂 せいどう (Gardoš)やハリシュ礼拝 れいはい 堂 どう (Hariš)、聖 ひじり ニコライ聖堂 せいどう 、聖 きよし 大 だい 天使 てんし ガヴリイル聖堂 せいどう 、2つのローマ・カトリックの聖堂 せいどう などがある。
ゼムンの市街地 しがいち には多 おお くの広場 ひろば がありそれぞれ、マギストラツキ(Magistratski)、セニスキ(Senjski)、ヴェリキ(Veliki)、ブランカ・ラディチェヴィツァ(Branka Radičevića)、カラジョルジェヴ(Karađorđev)、マサリコヴ(Masarikov)などと名付 なづ けられている。青空 あおぞら 市場 いちば が行 おこな われる広場 ひろば もある。ドナウ川 がわ 沿 ぞ いの河岸 かわぎし 部 ぶ は1キロメートルにわたる遊歩道 ゆうほどう があり、はしけのカフェやアミューズメント・パーク、かつてベオグラード最大 さいだい のホテルであったホテル・ユーゴスラヴィヤ (Hotel Jugoslavija )など、多 おお くの娯楽 ごらく 施設 しせつ が軒 のき を連 つら ねる。
12世紀 せいき のハンガリー王国 おうこく とビザンティン帝国 ていこく との戦争 せんそう の頃 ころ の街 まち の残滓 ざんし が残 のこ されており、ゼムンスキ・グラード(Zemunski Grad)と呼 よ ばれる。現在 げんざい も見 み られる構造 こうぞう 物 ぶつ としては、塔 とう と防壁 ぼうへき から成 な る中世 ちゅうせい の要塞 ようさい が見 み られる。これは、15世紀 せいき にオスマン帝国 ていこく のスレイマン1世 せい の軍 ぐん に対 たい して、ハンガリー王国 おうこく 軍 ぐん や、クロアチア人 じん マルコ・スコブリッチ(Marko Skoblić )率 ひき いるクロアチア人 じん ・セルビア人 じん 混成 こんせい の500人 にん の水兵 すいへい シャイカシ (šajkaši )が戦 たたか った時代 じだい のものである。この戦 たたか いでは、強固 きょうこ な抵抗 ていこう にもかかわらず、7月 がつ 12日 にち にゼムンはオスマン帝国 ていこく に制圧 せいあつ され[ 6] 、ベオグラードもその直後 ちょくご に制圧 せいあつ された(Пад Београда )。この場所 ばしょ には後 のち にクラ・シビニャニン・ヤンカ(Kula Sibinjanin Janka 、「フニャディ・ヤーノシュ の塔 とう 」)が立 た てられた。この塔 とう は、ハンガリー人 じん のパンノニア平原 へいげん への定住 ていじゅう 1000年 ねん を記念 きねん して、1896年 ねん 8月 がつ 20日 はつか に完成 かんせい した。塔 とう はローマの様式 ようしき を元 もと に、複数 ふくすう の要素 ようそ を織 お りまぜたものである。塔 とう は数 すう 十 じゅう 年 ねん にわたって消防 しょうぼう 士 し らが利用 りよう していた。塔 とう の名前 なまえ の由来 ゆらい となったフニャディ・ヤーノシュは、この塔 とう が建 た つ4世紀 せいき 半 はん 前 まえ に、ゼムンの要塞 ようさい で死去 しきょ した。
地元 じもと の住民 じゅうみん は長年 ながねん にわたって、細 ほそ く自動車 じどうしゃ の通行 つうこう に適 てき さない石畳 いしだたみ の路地 ろじ などを含 ふく む、街 まち の古 ふる い外観 がいかん を保 たも つ努力 どりょく を続 つづ けている。
ゼムンには公園 こうえん は少 すく なく、最大 さいだい である市民 しみん 公園 こうえん (Gradski park )は1880年 ねん に開設 かいせつ されたもので、2008年 ねん に改良 かいりょう 計画 けいかく が設定 せってい された[ 7] 。この他 ほか 、カルヴァリヤ地区 ちく にはイェロヴァツ公園 こうえん (Jelovac)があり、またマジュラニッチ広場 ひろば (Mažuranić )の小 ちい さな公園 こうえん は2007年 ねん 11月に改修 かいしゅう された[ 8] 。
ゼムンにはFKゼムン やFKミルティナツ・ゼムン (FK Milutinac Zemun )、BSKバタイニツァ (BSK Batajnica )のホーム・グラウンドをはじめ、多数 たすう のスポーツ競技 きょうぎ 場 じょう がある。ベオグラードの主要 しゅよう な屋内 おくない スポーツ施設 しせつ ハラ・ピンキ (Pinki )もゼムンにある。
過去 かこ にはシュパルタ・ゼムン(Šparta Zemun )[ 9] およびZAŠK (ZAŠK )というサッカー・クラブもあったが、1939年 ねん にSKゼムンへと統合 とうごう された
1941年 ねん から1944年 ねん にかけてのナチス・ドイツ占領 せんりょう 時代 じだい 、傀儡 かいらい 政権 せいけん のクロアチア独 どく 立国 りっこく の領土 りょうど とされたゼムンには、HŠKグラジャンスキ、(HŠK Građanski )、HŠKゼムン(HŠK Zemun )、HŠKドゥナヴ・ゼムン(HŠK Dunav )、HŠKハイドゥク・ゼムン(HŠK Hajduk )という4つのクロアチア人 じん のサッカー・クラブと、DSVヴィクトリア・ゼムン(DSV Victoria )、SKリート(SK Liet )という2つのドイツ人 じん のサッカー・クラブがあった。
FKゼムンはかつてガレニカという名前 なまえ だった頃 ころ 、ユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ (ユーゴスラビア1部 ぶ リーグ)に属 ぞく した経験 けいけん がある。この他 ほか にFKテレオプティク (Teleoptik )、FKズマイ (Zmaj )、FKミルティナツ・ゼムン (Milutinac )といったサッカー・クラブもある。
ゼムンは以下 いか の都市 とし と姉妹 しまい 都市 とし 提携 ていけい している[ 10] :
Mala Enciklopedija Prosveta , Third edition (1985); Prosveta; ISBN 86-07-00001-2
Jovan Đ. Marković (1990): Enciklopedijski geografski leksikon Jugoslavije ; Svjetlost-Sarajevo; ISBN 86-01-02651-6
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