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ゼムン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゼムン
Земун
Zemun
ゼムンの街とドナウ川
ゼムンのまちドナウがわ
ゼムンの市旗 ゼムンの市章
特別とくべつはた 特別とくべつあきら
位置いち
セルビアにおけるベオグラードの位置の位置図
セルビアにおけるベオグラード位置いち
ベオグラードにおけるゼムン区の位置の位置図
ベオグラードにおけるゼムン位置いち
座標ざひょう : 北緯ほくい4451ふん 東経とうけい2024ふん / 北緯ほくい44.850 東経とうけい20.400 / 44.850; 20.400
行政ぎょうせい
くに セルビアの旗 セルビア
 地域ちいき 中央ちゅうおうセルビア
 ぐん ベオグラード
 特別とくべつ ゼムン
区長くちょう Branislav Prostran
SNS
地理ちり
面積めんせき  
  特別とくべついき 153.56 km2
人口じんこう
人口じんこう (2002ねん現在げんざい
  特別とくべついき 166,292にん
  市街地しがいち 14,292にん
その
ひとしときおび 中央ちゅうおうヨーロッパ時間じかん (UTC+1)
夏時間なつじかん 中央ちゅうおうヨーロッパ夏時間なつじかん (UTC+2)
郵便ゆうびん番号ばんごう 11080
市外しがい局番きょくばん (+381) 11
ナンバープレート BG
公式こうしきウェブサイト : www.zemun.rs

ゼムンセルビア:Земун / Zemunセルビア・クロアチア発音はつおん[zɛ̂,mun])は、セルビアの歴史れきしてきまちであり、また現在げんざい同国どうこく首都しゅとベオグラード構成こうせいする17のオプシュティナ)の1つとなっている。歴史れきしじょう、ゼムンはベオグラードとはべつまちとして発展はってんしてきたが、20世紀せいき後半こうはんノヴィ・ベオグラード開発かいはつによって両者りょうしゃむすばれて1つの都市としとなった。

呼称こしょう

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古代こだい、このにあったケルトじんローマじん居住きょじゅうは「タウルヌム(Taurunum)」とばれている。フランクじんによる十字軍じゅうじぐん記録きろくなかでは、このまちは「マレヴィラ(Mallevila)」として記録きろくされており、これは9世紀せいき以降いこうにみられる呼称こしょうである。おな時代じだいスラヴによる名称めいしょう「ゼムン」がはじめて文献ぶんけん登場とうじょうする。「ゼムン」のは、スラヴ大地だいち意味いみするゼムリャ(zemlja)に由来ゆらいするとかんがえられており、そのかく言語げんごでの呼称こしょう、すなわち現代げんだいのセルビアの「ゼムン」や、ハンガリーの「ジモニ(Zimony)」、ドイツの「ゼムリン(Semlin)」はすべてこれに由来ゆらいするものである。

歴史れきし

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ローマ時代じだい石棺せっかん
ゼムンでつかった、ギリシア神話しんわマイナス石像せきぞう

こんにちのゼムンにはしん石器せっき時代じだいからひと居住きょじゅうがあった。バデン文化ぶんかBaden culture)の墓地ぼち土器どきうつわつぼなど)がゼムンでつかっている[1]。また付近ふきんのアスタルトナ・バザ(Asfaltna Baza)からはボスト文化ぶんかBosut culture)の墓地ぼちつかっている[2]。タウルヌムではつのケルトじん居住きょじゅうは、スコルディスキがトラキアおよびダキアにぞくするドナウがわ沿いの一部いちぶ地域ちいき支配しはいにおいた紀元前きげんぜん3世紀せいきのことであった。ローマじん紀元前きげんぜん1世紀せいきにこの支配しはいおさめ、タウルヌムは西暦せいれき紀元きげん15ねんパンノニアぞくしゅう一部いちぶとなった。タウルヌムには要塞ようさいがあり[3]シンギディヌムベオグラード)をおとずれるローマじん係留けいりゅうとして利用りようされた[4]。ローマの詩人しじんオウィディウスのペンがタウルヌムでつかったとわれている[5]民族みんぞく移動いどう時代じだいて、この地域ちいきマ帝国まていこくゲピド王国おうこくKingdom of the Gepids)、ブルガリア帝国ていこくなど、おおくの国家こっか民族みんぞくによる支配しはい経験けいけんすることとなる。12世紀せいきにはハンガリー王国おうこく支配しはいとなり、15世紀せいきにセルビアじんのデスポト(Despot)・ジュラジ・ブランコヴィッチĐurađ Branković)の所領しょりょうとなる。1459ねん一帯いったいのセルビアじん諸侯しょこうこくオスマン帝国ていこく征服せいふくされると、ゼムンはぐん駐屯ちゅうとんとして重要じゅうよう拠点きょてんとなる。ゼムンは1521ねん7がつ12にちにオスマン帝国ていこく征服せいふくされ、ブディンしゅう(ブディン・パシャルク、Budin)、スレムサンジャク一部いちぶとなった。

1608ねん、オスマン帝国ていこく支配しはいのゼムン

オスマン帝国ていこく1716ねん8がつ5にちペーターヴァルダインのたたかやぶれたのち、ゼムンをふくスレム地方ちほう南東なんとうは、1717ねんハプスブルク君主くんしゅこくオーストリア大公たいこうこく)に征服せいふくされた。パッサロヴィッツ条約じょうやくによってこの地方ちほうはシェーンボルンSchönborn)の所領しょりょうとなった。ドナウがわサヴァがわ合流ごうりゅう地点ちてん位置いちするこの場所ばしょは、ハプスブルクのオーストリア大公たいこうこくとオスマン帝国ていこくたたかいにおいて戦略せんりゃくてき重要じゅうよう拠点きょてんであった。1739ねんベオグラード条約じょうやくTreaty of Belgrade)によって最終さいしゅうてき国境こっきょう確定かくていされオーストリアりょうとなった。1746ねんには軍政ぐんせい国境こっきょう地帯ちたい設置せっちされ、1749ねんにゼムンは軍事ぐんじ地区ちく指定していされる。1754ねん時点じてんで、ゼムンには1900にんせい教徒きょうと、600にんカトリック教徒きょうと、76にんユダヤじん、100にんロマ居住きょじゅうしていた。1777ねんにはゼムンには1130世帯せたい、6800にん居住きょじゅうし、うち半数はんすうセルビアじんのこりの半数はんすうはカトリック教徒きょうとやユダヤじんアルメニアじんムスリムなどであった。カトリックの住民じゅうみんなか最大さいだい勢力せいりょくドイツじんであった。このころよりゼムンにはドイツじんハンガリーじん居住きょじゅうしゃはじめる。

19世紀せいきのゼムン

ゼムンは交通こうつう要衝ようしょう、そして国境こっきょうまちとして繁栄はんえいした。1816ねんには多数たすうドイツじんおよびセルビアじん移入いにゅうともない、まち大幅おおはば拡張かくちょうされ、あらたにフランツェンシュタール(Franzenstal)およびゴルニャ・ヴァロシュ(Gornja Varoš地区ちく誕生たんじょうした。19世紀せいきのゼムンの人口じんこうは1310世帯せたい、7089にんであった。1813ねんには、オスマン帝国ていこくたいする反乱はんらんひきいたカラジョルジェ・ペトロヴィッチKarađorđe Petrović)が失脚しっきゃくし、おおくのセルビアじんとともにゼムンへとげこむという、セルビアの歴史れきしじょう重要じゅうよう出来事できごと現場げんばとなった。

1848ねん革命かくめい時代じだい、ゼムンはオーストリア帝国ていこく内部ないぶ成立せいりつしたセルビア・ヴォイヴォディナ事実じじつじょう首都しゅととなったが、1849ねんにはこのふたた軍政ぐんせい国境こっきょう地帯ちたいへともどされた。1882ねん軍政ぐんせい国境こっきょう地帯ちたい廃止はいしされると、ゼムンをふくスレム地方ちほう一帯いったいハンガリー王国おうこくのちオーストリア=ハンガリー帝国ていこく自治領じちりょうクロアチア・スラヴォニアセレームけんSyrmia County)の一部いちぶとなった。1883ねんにははじめて鉄道てつどう西方せいほう諸国しょこくむすばれ、1884ねんにはサヴァがわわた鉄道てつどうきょうきずかれた。

1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん時代じだい、ゼムンはセルビア王国おうこくとオーストリア=ハンガリー帝国ていこくとの衝突しょうとつ最前線さいぜんせんとなったが、最終さいしゅうてきに1918ねん11月5にちにセルビアがこのれることとなった。終戦しゅうせんセルビアじん・クロアチアじん・スロベニアじん王国おうこくのちユーゴスラビア王国おうこく)が成立せいりつし、ゼムンはそのいちふんとなった。せんあいだにはまち有力ゆうりょくしゃらは急進きゅうしんとう民主党みんしゅとうクロアチア農民のうみんとうCroatian Peasant Party)、そしてドイツじん支持しじする社会しゃかい主義しゅぎしょ政党せいとうなどの陣営じんえいかれてあらそった。

1934ねんにゼムンとベオグラードむすバス運行うんこう開始かいしし、ゼムンではセルビアじん人口じんこう増加ぞうかした。1927ねん空軍くうぐん基地きち設置せっちされ、1941ねん4がつにユーゴスラビアが枢軸すうじくこく侵略しんりゃくけるとゼムンはその重要じゅうよう標的ひょうてきとなった。ユーゴスラビア王国おうこく降伏ごうぶくすると、ゼムンをふくむスレム地方ちほう一帯いったいクロアチアどく立国りっこく一部いちぶとなった。1944ねんパルティザンによってゼムンは解放かいほうされ、それ以降いこうセルビア一部いちぶとなった。

スロボダン・ミロシェヴィッチ時代じだい、ゼムンは悪名あくめいたか強力きょうりょく犯罪はんざい組織そしきゼムン・クランZemun Clan)」の拠点きょてんとなった。ゼムン・クランの構成こうせいいんには、のちゾラン・ジンジッチ暗殺あんさつ有罪ゆうざいとなったもの多数たすうふくまれる。

地理ちり

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ゼムンからみたスタリ・グラード

ゼムンはもともと、ドナウがわ右岸うがん位置いちする3つのおかガルドシュGardoš)、チュコヴァツĆukovac)、カルヴァリヤKalvarija)のうえきずかれ、発展はってんしてきた。この場所ばしょでドナウがわおおきくひろがり、そのさきサヴァがわ河口かこう中洲なかすであるだい戦争せんそうとうGreat War Island)がある。ゼムンの中核ちゅうかくとなるのはドニ・グラード(Donji Grad)、ガルドシュ(Gardoš)、チュコヴァツ(Ćukovac)、ゴルニ・グラード(Gornji Grad)のかく地区ちくである。そのみなみノヴィ・ベオグラードめんしており、同区どうくトシン・ブナルTošin Bunar地区ちくへと市街地しがいちつづいている。西にしにはアルティナ(Altina)およびプラヴィ・ホリゾンティ(Plavi Horizonti)、北西ほくせいにはガレニカGalenika)、ゼムン・ポリェ(Zemun Polje)、バタイニツァBatajnica)といった地区ちくがある。

ゼムンは地理ちりてきにはスレム(スリイェム)東部とうぶぞくし、またベオグラード市域しいき中西部ちゅうせいぶ位置いちしている。ゼムンの中心ちゅうしん市街地しがいちは、ベオグラード市街地しがいち全体ぜんたいのうち北端ほくたんおよび西端せいたん位置いちしている。ゼムンより西にしにはヴォイヴォディナ自治じちしゅうしゅうさかいがあり、どう自治じちしゅうぞくするノヴァ・パゾヴァNova Pazova)とせっしている。みなみ隣接りんせつするスルチン南東なんとうノヴィ・ベオグラード、ドナウがわ対岸たいがん位置いちするパリルラPalilula)およびスタリ・グラードはいずれも、ゼムン同様どうようベオグラード構成こうせいする自治体じちたいである。

ゼムンのきたながれるドナウがわ沿岸えんがんだい部分ぶぶんがぬかるみとなっており、河岸かわぎしからひと居住きょじゅうする丘陵きゅうりょうまでは距離きょりがある。ゼムンの中心ちゅうしん市街地しがいちがドナウがわ右岸うがんにある、たかさ100メートルほどの丘陵きゅうりょううえきずかれている。これらのゼムンの丘陵きゅうりょうは、スレム黄土おうど台地だいち末端まったん位置いちするゼムン黄土おうど台地だいち一部いちぶであり、三日月みかづきがたひろがるベジャニスカ・コサBežanijska Kosa黄土おうど丘陵きゅうりょうへとつづいている。黄土おうどそう最大さいだいで40メートルのあつみがある。ドナウがわ中洲なかすである2つの無人島むじんとうだい戦争せんそうとうおよびしょう戦争せんそうとうLittle War Island)もゼムンぞくする。ゼムンそう面積めんせきは153平方へいほうキロメートルにたっする。

住民じゅうみん

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ゼムンはベオグラードでもっとも人口じんこう密度みつどたか地域ちいきのひとつであり、だい世界せかい大戦たいせん以降いこう人口じんこう大幅おおはば増加ぞうかした。公式こうしき国勢調査こくせいちょうさによるゼムンの人口じんこう以下いかとおりである:

とし 市街地しがいち 自治体じちたい全域ぜんいき
1921 18,528
1931 28,083
1948 42,230
1953 44,110 51,129
1961 72,956 74,851
1971 95,142 111,967
1981 116,826 138,702
1991 141,695
2002 145,751 152,950
2011 151,811 166,292

2004ねん以前いぜん自治体じちたい人口じんこうには、ゼムンから分離ぶんりされる以前いぜんスルチン人口じんこうふくまれる。

民族みんぞくべつ

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2002ねん国勢調査こくせいちょうさによる住民じゅうみん民族みんぞくべつ内訳うちわけ以下いかとおり:

行政ぎょうせい

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ゼムンのはた

1929ねん10がつ3にちアレクサンダル1せい統治とうちでゼムン自治体じちたいはベオグラード構成こうせいする自治体じちたいとされた。1934ねん4がつ1にちにゼムン自治体じちたい廃止はいしされ、単一たんいつのベオグラード自治体じちたい設置せっちされた。1941ねんから1944ねんまでゼムンはナチス・ドイツ占領せんりょうかれ、形式けいしきじょうはドイツの傀儡かいらい国家こっかであるクロアチアどく立国りっこく一部いちぶとされたが、実際じっさいにはドイツぐん支配しはいした。解放かいほうの1945ねんにベオグラードはラヨン)にけられたが、ゼムンはこれとはべつにゼムン(grad)とゼムン地区ちく(srez)にけられた。1955ねんにゼムンおよびゼムン地区ちくだい部分ぶぶんふたたびベオグラードの一部いちぶとなった。1950年代ねんだいから1960年代ねんだいにかけて、ボリェヴツィBoljevci)およびドバノヴツィDobanovci)のりょう自治体じちたいスルチン自治体じちたいへ、バタイニツァBatajnica自治体じちたいはゼムン自治体じちたいへと合併がっぺいされた。1965ねんにスルチン自治体じちたいがゼムン自治体じちたいへと合併がっぺいされ、面積めんせき438平方へいほうキロメートルにたっする巨大きょだいなゼムン自治体じちたい誕生たんじょうした。しかし、2003ねん11月3にちにベオグラード市議会しぎかいはスルチン自治体じちたいさいしつらえ決定けっていし、2004ねん11月3にちにスルチン自治体じちたいはゼムン自治体じちたいから行政ぎょうせいてき分離ぶんりされた。2000年代ねんだい初期しょきにはバタイニツァをゼムンから分離ぶんりするうごきもこった。

ゼムンとベオグラードの住民じゅうみんあいだには長年ながねんにわたる対抗たいこう意識いしきがあり、とくに若年じゃくねんそう顕著けんちょである。一般いっぱんてきにゼムンの住民じゅうみんみずからのまちをベオグラードからは独立どくりつし、より発達はったつした文化ぶんかてきまちかんがえており、自身じしんをベオグラードとはことなるゼムンの住民じゅうみんであるとかんがえているが、これにはんしてベオグラードの住民じゅうみんはゼムンをベオグラードの郊外こうがい地区ちくかんがえている。

経済けいざい交通こうつう

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ゼムンはベオグラードなかでもっとも発達はったつした自治体じちたいのひとつであり、多岐たきにわたる産業さんぎょうっている。域内いきないの2箇所かしょ工業こうぎょう団地だんち開発かいはつすすめられており、それぞれ幹線かんせん道路どうろバタイニツァノヴィ・サドむすばれる道路どうろめんしている。製造せいぞうぎょうでは、農業のうぎょう機械きかい設備せつびのズマイ(Zmaj)、精密せいみつ工学こうがく機器きき、オートメーション設備せつびのテレオプティク(Teleoptik)、時計とけいのINSA、バスやその大型おおがた輸送ゆそう機器ききのイカルブル(Ikarbus)、製薬せいやくのガレニカ(Galenika)、プラスチックのグルメチュ(Grmeč)、くつのオブチャ・ベオグラード(Obuća Beograd)、せんいのTIZおよびゼクストラ(Zekstra)、リサイクルのINOSマテリ(INOS metali)およびINOSパピル(INOS papir)、飲料いんりょうのコカ・コーラおよびナヴィプ(Navip)、陶磁器とうじきのロマ(Roma)、建設けんせつ資材しざいのDIAおよびアニツォム(Anicom)や、電子でんし機器きき皮革ひかく製品せいひん製造せいぞう拠点きょてんがある。また、これらの工業こうぎょう団地だんちにはおおくの物流ぶつりゅう倉庫そうこもある。

セルビアの重要じゅうよう道路どうろ複数ふくすう、ゼムンを通過つうかしている。ベオグラード=ザグレブ道路どうろや、ノヴィ・サドとベオグラードとをむす道路どうろ旧道きゅうどう・バタイニチュキ・ドルム(Batajnički drum)も新道しんどうもゼムンを通過つうかする。また、ベオグラードを迂回うかいしてバタイニツァとブバニ・ポトクBubanj Potok)をむす建造けんぞうちゅうのベオグラード・バイパス(Belgrade bypass)の始点してんもゼムンの域内いきないふくまれる。ゼムンの本土ほんどとドナウがわ中洲なかすだい戦争せんそうとうとをむす舟橋ふなばしなつあいだ設置せっちされるのをのぞけば、ゼムンにはドナウがわわたはし存在そんざいしない。ゼムンのガレニカ(Galenika)と対岸たいがんのボルチャ(Borča)とをはしむす計画けいかくがある。

2011ねん4がつに、ベオグラード首都しゅとけん都市とし鉄道てつどうBG Voz」のバタイニツァ - ノヴィ・ベオグラードあいだ延伸えんしん開業かいぎょうし、ベオグラード中心ちゅうしんてパンチェヴォきょうえきまでBG Vozの電車でんしゃ直通ちょくつう利用りよう可能かのうとなった。

バタイニツァ地区ちくちかくに位置いちするバタイニツァ空軍くうぐん基地きちBatajnica Airbase)へは市民しみん出入でいりは制限せいげんされている。

ゼムンの岸辺きしべからみたドナウがわ
よるのゼムン

文化ぶんか教育きょういく

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ガルドシュの「フニャディ・ヤーノシュのとう
ゼムン(手前てまえ)とベオグラード(おく

ベオグラード大学だいがく農学部のうがくぶはじめ、多数たすう高等こうとう教育きょういく機関きかん内政ないせい機械きかい工学こうがく薬学やくがくなど)や研究けんきゅう機関きかん農林のうりんがく鉱業こうぎょう、トウモロコシ、畜産ちくさんかくエネルギー応用おうよう物理ぶつりがくなど)の施設しせつがゼムンにある。また、郷土きょうど博物館はくぶつかんやマドレニアヌム(Madlenianum)オペラ劇場げきじょうがある。

ベオグラードの主要しゅよう医療いりょう機関きかんのうち2つ、KBSゼムン(KBC Zemun)およびKBCベジャニスカ・コサ(KBC Bežanijska Kosa)、ならびにベオグラードで最大さいだい老人ろうじん養護ようご施設しせつベジャニスカ・コサ(Bežanijska Kosa)がゼムンにある。

宗教しゅうきょう施設しせつには、ガルドシュ墓地ぼち聖堂せいどう(Gardoš)やハリシュ礼拝れいはいどう(Hariš)、ひじりニコライ聖堂せいどうきよしだい天使てんしガヴリイル聖堂せいどう、2つのローマ・カトリックの聖堂せいどうなどがある。

ゼムンの市街地しがいちにはおおくの広場ひろばがありそれぞれ、マギストラツキ(Magistratski)、セニスキ(Senjski)、ヴェリキ(Veliki)、ブランカ・ラディチェヴィツァ(Branka Radičevića)、カラジョルジェヴ(Karađorđev)、マサリコヴ(Masarikov)などと名付なづけられている。青空あおぞら市場いちばおこなわれる広場ひろばもある。ドナウがわ沿いの河岸かわぎしは1キロメートルにわたる遊歩道ゆうほどうがあり、はしけのカフェやアミューズメント・パーク、かつてベオグラード最大さいだいのホテルであったホテル・ユーゴスラヴィヤHotel Jugoslavija)など、おおくの娯楽ごらく施設しせつのきつらねる。

12世紀せいきのハンガリー王国おうこくとビザンティン帝国ていこくとの戦争せんそうころまち残滓ざんしのこされており、ゼムンスキ・グラード(Zemunski Grad)とばれる。現在げんざいられる構造こうぞうぶつとしては、とう防壁ぼうへきから中世ちゅうせい要塞ようさいられる。これは、15世紀せいきオスマン帝国ていこくスレイマン1せいぐんたいして、ハンガリー王国おうこくぐんや、クロアチアじんマルコ・スコブリッチ(Marko Skoblićひきいるクロアチアじん・セルビアじん混成こんせいの500にん水兵すいへいシャイカシšajkaši)がたたかった時代じだいのものである。このたたかいでは、強固きょうこ抵抗ていこうにもかかわらず、7がつ12にちにゼムンはオスマン帝国ていこく制圧せいあつされ[6]、ベオグラードもその直後ちょくご制圧せいあつされた(Пад Београда)。この場所ばしょにはのちにクラ・シビニャニン・ヤンカ(Kula Sibinjanin Janka、「フニャディ・ヤーノシュとう」)がてられた。このとうは、ハンガリーじんパンノニア平原へいげんへの定住ていじゅう1000ねん記念きねんして、1896ねん8がつ20日はつか完成かんせいした。とうはローマの様式ようしきもとに、複数ふくすう要素ようそりまぜたものである。とうすうじゅうねんにわたって消防しょうぼうらが利用りようしていた。とう名前なまえ由来ゆらいとなったフニャディ・ヤーノシュは、このとうつ4世紀せいきはんまえに、ゼムンの要塞ようさい死去しきょした。

地元じもと住民じゅうみん長年ながねんにわたって、ほそ自動車じどうしゃ通行つうこうてきさない石畳いしだたみ路地ろじなどをふくむ、まちふる外観がいかんたも努力どりょくつづけている。

ゼムンには公園こうえんすくなく、最大さいだいである市民しみん公園こうえんGradski park)は1880ねん開設かいせつされたもので、2008ねん改良かいりょう計画けいかく設定せっていされた[7]。このほか、カルヴァリヤ地区ちくにはイェロヴァツ公園こうえん(Jelovac)があり、またマジュラニッチ広場ひろばMažuranić)のちいさな公園こうえんは2007ねん11月に改修かいしゅうされた[8]

スポーツ

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ゼムンにはFKゼムンFKミルティナツ・ゼムンFK Milutinac Zemun)、BSKバタイニツァBSK Batajnica)のホーム・グラウンドをはじめ、多数たすうのスポーツ競技きょうぎじょうがある。ベオグラードの主要しゅよう屋内おくないスポーツ施設しせつハラ・ピンキPinki)もゼムンにある。

過去かこにはシュパルタ・ゼムン(Šparta Zemun[9] およびZAŠKZAŠK)というサッカー・クラブもあったが、1939ねんにSKゼムンへと統合とうごうされた

1941ねんから1944ねんにかけてのナチス・ドイツ占領せんりょう時代じだい傀儡かいらい政権せいけんクロアチアどく立国りっこく領土りょうどとされたゼムンには、HŠKグラジャンスキ、(HŠK Građanski)、HŠKゼムン(HŠK Zemun)、HŠKドゥナヴ・ゼムン(HŠK Dunav)、HŠKハイドゥク・ゼムン(HŠK Hajduk)という4つのクロアチアじんのサッカー・クラブと、DSVヴィクトリア・ゼムン(DSV Victoria)、SKリート(SK Liet)という2つのドイツじんのサッカー・クラブがあった。

FKゼムンはかつてガレニカという名前なまえだったころユーゴスラビア・プルヴァ・リーガ(ユーゴスラビア1リーグ)にぞくした経験けいけんがある。このほかFKテレオプティクTeleoptik)、FKズマイZmaj)、FKミルティナツ・ゼムンMilutinac)といったサッカー・クラブもある。

姉妹しまい都市とし

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ゼムンは以下いか都市とし姉妹しまい都市とし提携ていけいしている[10]:

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Mala Enciklopedija Prosveta, Third edition (1985); Prosveta; ISBN 86-07-00001-2
  • Jovan Đ. Marković (1990): Enciklopedijski geografski leksikon Jugoslavije; Svjetlost-Sarajevo; ISBN 86-01-02651-6

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ http://www.rastko.rs/arheologija/srejovic/dsrejovic-eneolit.html
  2. ^ http://www.balkaninstitut.com/pdf/izdanja/balcanica/balcanica%2035/01%20Tasic.pdf
  3. ^ A manual of ancient and modern history ... William Cooke Taylor,Caleb Sprague Henry
  4. ^ Vespasian-Barbara Levick
  5. ^ Biographia classica: the lives and characters of the Greek and Roman classics, by Edward Harwood.
  6. ^ (クロアチア Hrvatska riječ Hrvatski doprinos zemunskom naslijeđu, May 29, 2009
  7. ^ Politika daily, November 6, 2007, p.24
  8. ^ Beoinfo
  9. ^ (セルビア Sport u Zemunu
  10. ^ [1] Stalna konferencija gradova i opština. Retrieved on 2007-06-18.

外部がいぶリンク

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