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ダミー・ホイ

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ウィリアム・エルズワース (ダミー)・ホイ
William Ellsworth "Dummy" Hoy
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
出身しゅっしん オハイオしゅうフックスタウン
生年月日せいねんがっぴ 1862ねん5月23にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1961-12-15) 1961ねん12月15にち(99さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
5' 6" =やく167.6 cm
160 lb =やく72.6 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうひだり
ポジション 中堅ちゅうけんしゅ
はつ出場しゅつじょう 1888ねん4がつ20日はつか
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1902ねん7がつ17にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

ウィリアム・エルズワース(ダミー)・ホイ(William Ellsworth "Dummy" Hoy、1862ねん5月23にち - 1961ねん12月15にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくオハイオしゅうフックスタウン出身しゅっしんプロ野球やきゅう選手せんしゅ中堅ちゅうけんしゅ)。みぎひだりち。

聴覚ちょうかく障害しょうがいかかえながら通算つうさん2000安打あんだと600ちか盗塁とうるい記録きろくアメリカンリーグ初年度しょねんど優勝ゆうしょうメンバーの一人ひとりとなった。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

幼少ようしょう - 現役げんえき時代じだい[編集へんしゅう]

オハイオしゅう農場のうじょうまれたが、3さいときずいまくえんもと難聴なんちょうわずらった。1872ねんにオハイオしゅうろう学校がっこう進学しんがくし、勤勉きんべんだったホイは1879ねん卒業そつぎょうするさいには卒業生そつぎょうせい総代そうだいをつとめたという。当時とうじなん聴者ちょうしゃがそうしたようにホイも最初さいしょくつひらき、みせ合間あいま近所きんじょ子供こどもたちあつ野球やきゅうをしていたという。

1886ねんごろにプロのチームから勧誘かんゆうされたことをきっかけにウィスコンシンしゅうのオシュコシュ球団きゅうだん所属しょぞく、2ねん1888ねんナショナルリーグのワシントン・ナショナルズ(当時とうじ)に入団にゅうだんしてメジャーの選手せんしゅとなった。ホイは当時とうじクラブハウスに、『ご存知ぞんじとおわたしみみこえない。そこでフライをとき大声おおごえげるので、二塁手にるいしゅ、ショート、レフト、ライトはそのこえいてわたしとの衝突しょうとつけてくれ』といたかみしていた。

ホイがデビューした1ねん打率だりつは.274だったが、リーグ最多さいたとなる82の盗塁とうるい記録きろくした。1890ねんプレイヤーズ・リーグ参加さんかしたのち、1891ねんにはセントルイス・ブラウンズ(げんカージナルス)で119四球しきゅう出塁しゅつるいりつ.424という記録きろくのこしている。1890年代ねんだいおもにシンシナティ・レッズのセンターとして、毎年まいとし3わり前後ぜんこう安定あんていした活躍かつやくせた。

1901ねんにアメリカンリーグが創設そうせつされたとしに、1ねんだけシカゴ・ホワイトソックスに参加さんかする。すでに40さいちかかったが打率だりつ.294、60打点だてん四死球ししきゅうすうがともにリーグ最多さいたで4わりえる出塁しゅつるいりつのこし、ホワイトソックスのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけんした。ホイは1902ねんにシンシナティ・レッズでメジャーリーグ選手せんしゅとしてのキャリアをえたが、このとしの5がつ26にちのレッズたいニューヨーク・ジャイアンツせんでは、当時とうじジャイアンツの投手とうしゅだったダミー・テイラーかれおなじく聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃであった)との対戦たいせん実現じつげんしている。

選手せんしゅ引退いんたい[編集へんしゅう]

1903ねんのマイナーリーグでの活動かつどう最後さいご選手せんしゅ引退いんたいしたのち、ホイはオハイオしゅう農場のうじょう購入こうにゅう酪農らくのうとなったが、一方いっぽうグッドイヤータイヤしゃ人事じんじ仕事しごともしばらくっていたという。1898ねん結婚けっこんしたおな聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃつまアンナ・マリア・ローリーとのあいだの3にん子供こどもは、それぞれ弁護士べんごし学校がっこう教師きょうしになった。ホイがおさなころから世話せわをし、学資がくし提供ていきょうしたポール・ホイ・ヘルムズは後年こうねんシラキュース大学だいがく卒業そつぎょう、ロサンゼルスで成功せいこうし、1930年代ねんだいにアメリカのオリンピック委員いいんかいへの融資ゆうしうなどの活躍かつやくをした。

1942ねんにトレドでおこなわれたレイバー・デイのもよおし(聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃのソフトボール大会たいかい)で、ホイはダミー・テイラーと再会さいかい、40ねんぶりにバッテリーをんだが、このときすでに80さいになっていた。ホイが最後さいご観衆かんしゅうまえ姿すがたせたのは99さいときで、ヤンキースとレッズのあいだあらそわれた1961ねんのワールドシリーズだい3せん始球しきゅうしきまねかれている。当時とうじホイはメジャーリーグ選手せんしゅなかではもっと長生ながいきした人物じんぶつであった。同年どうねん12がつにシンシナティで死去しきょ。2003ねんにレッズの球団きゅうだん殿堂でんどう選手せんしゅとなっているが、アメリカの聴覚ちょうかく障害しょうがいしゃスポーツ連盟れんめい1991ねん以降いこう、ホイのアメリカ野球やきゅう殿堂でんどうりへけたかく方面ほうめんへのはたらきかけをつづけている(リンク参照さんしょう)。

諸説しょせつ[編集へんしゅう]

野球やきゅう研究けんきゅう一部いちぶは、当時とうじ難聴なんちょうのホイにたい審判しんぱん一定いってい動作どうさでボール/ストライクなどの判定はんていつたえるようにしていたことが、後年こうねんビル・クレムにより、審判しんぱんいん判定はんてい動作どうさ体系たいけいされるにいたるきっかけになっていると主張しゅちょうしている。

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

打撃だげき成績せいせき[編集へんしゅう]

※Baseball-Referenceの記載きさいもとづく。数字すうじのちの"*"は、記録きろく不明ふめい箇所かしょがあることをしめす。[1]

試合しあい 打数だすう 安打あんだ 二塁打にるいだ 三塁打さんるいだ 本塁打ほんるいだ 得点とくてん 打点だてん 盗塁とうるい 三振さんしん 四球しきゅう 死球しきゅう 犠打ぎだ 打率だりつ 出塁しゅつるいりつ 長打ちょうだりつ
1796 7112 2044 248 121 40 1426 726 594 210* 1004 134 119* .287 .386 .373

タイトル[編集へんしゅう]

  • 盗塁とうるいおう:1888ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 通算つうさん成績せいせきとうについて資料しりょうあいだ一部いちぶ数値すうちことなっている。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]