トーマス・イシドール・ノエル・サンカラ (フランス語 ふらんすご : Thomas Isidore Noël Sankara , 1949年 ねん 12月21日 にち – 1987年 ねん 10月15日 にち )は、オートボルタ (現 げん ブルキナファソ )の第 だい 5代 だい 大統領 だいとうりょう (在任 ざいにん :1983年 ねん 8月 がつ 4日 にち – 1987年 ねん 10月15日 にち )。37歳 さい で暗殺 あんさつ された劇的 げきてき な生涯 しょうがい とその革命 かくめい 的 てき な理念 りねん から、アフリカ のチェ・ゲバラ とも呼 よ ばれた[1] 。
クーデターによって33歳 さい という若 わか さでオートボルタの元首 げんしゅ に就任 しゅうにん 。反 はん 植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ の下 した に社会 しゃかい 的 てき 、生態 せいたい 学 がく 的 てき 、経済 けいざい 的 てき プログラムを立 た ち上 あ げ、国名 こくめい 及 およ び国旗 こっき を「高潔 こうけつ な人 ひと 」「祖国 そこく 」という意味 いみ を持 も つ「ブルキナファソ」に[2] [3] 、赤 あか は社会 しゃかい 主義 しゅぎ を、緑 みどり は農業 のうぎょう 及 およ び農業 のうぎょう の永久 えいきゅう 的 てき 発展 はってん 、星 ほし はブルキナベの革命 かくめい を意味 いみ する、サンカラ革命 かくめい を象徴 しょうちょう した国旗 こっき に変更 へんこう した。
サンカラが大統領 だいとうりょう 在任 ざいにん 中 ちゅう に行 い った内政 ないせい としては、貧困 ひんこん と腐敗 ふはい の一掃 いっそう 、教育 きょういく と社会 しゃかい 保障 ほしょう 制度 せいど の改善 かいぜん 、女性 じょせい 器 き 切除 せつじょ 及 およ び一夫多妻 いっぷたさい 制 せい 、強制 きょうせい 婚 こん の非合法 ひごうほう 化 か 、サヘル の砂漠 さばく の緑化 りょくか 事業 じぎょう (1000万 まん 本 ほん 以上 いじょう の木 き を植 う える[4] [5] [6] )などを主 おも な政策 せいさく として、発展 はってん 途上 とじょう 国 こく から脱却 だっきゃく する事 こと を意図 いと した計画 けいかく 経済 けいざい 的 てき かつ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき なプロジェクトを実践 じっせん し、国民 こくみん から多 おお くの支持 しじ を得 え る事 こと に成功 せいこう した。政府 せいふ の中枢 ちゅうすう に多 おお くの女性 じょせい を起用 きよう し、また、ブルキナファソの国歌 こっか 「ある一夜 いちや 」の作詞 さくし 、ギタリスト としての才能 さいのう 、スポーツマン としての姿 すがた 、オートバイ に対 たい する深 ふか い造詣 ぞうけい がある事 こと でも知 し られている。
ブルキナファソの首都 しゅと ワガドゥグー にある革命 かくめい 記念 きねん 碑 ひ 。
サンカラ時代 じだい の1984年 ねん に制定 せいてい され、1991年 ねん まで用 もち いられたブルキナファソの国 くに 章 あきら 。赤 あか い星 ほし 、歯車 はぐるま 、AK-47 自動 じどう 小銃 しょうじゅう 、農具 のうぐ の鍬 くわ 、書物 しょもつ が描 えが かれており、下部 かぶ の帯 おび には「祖国 そこく か死 し か、我 が 等 とう は勝利 しょうり する」と書 か かれている。
フランス のバイヨンヌ にある「カフェ・サンカラ」。
1949年 ねん にフランス領 りょう 西 にし アフリカ 、オートボルタ のヤコ 付近 ふきん の村 むら にて、フラニ人 じん の父 ちち とモシ人 じん の母 はは の間 あいだ に長男 ちょうなん として生 う まれた[1] 。少年 しょうねん 時代 じだい はカトリック教会 きょうかい に熱心 ねっしん に通 かよ う傍 かたわ ら、家庭 かてい 教育 きょういく と小学校 しょうがっこう での体験 たいけん を経 へ てフランス 植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ への対抗 たいこう 姿勢 しせい を抱 だ いた[7] 。
当初 とうしょ 医者 いしゃ を志 こころざ していたが、経済 けいざい 的 てき 理由 りゆう から士官 しかん 学校 がっこう に入学 にゅうがく し、在学 ざいがく 中 ちゅう にマルクス主義 まるくすしゅぎ の影響 えいきょう を受 う けた[8] 。1970年 ねん から1972年 ねん までマダガスカル の軍事 ぐんじ 学校 がっこう へ留学 りゅうがく している[8] 。1974年 ねん に隣 となり のマリ共和 きょうわ 国 こく との間 あいだ でオートボルタ北部 ほくぶ 国境 こっきょう を巡 めぐ る紛争 ふんそう が勃発 ぼっぱつ すると、その中 なか で頭角 とうかく を現 あらわ し、また、同 どう 時期 じき に盟友 めいゆう となるブレーズ・コンパオレ と出会 であ っている[8] 。紛争 ふんそう 後 ご 、オートボルタ南部 なんぶ のポにて落下傘 らっかさん 部隊 ぶたい に所属 しょぞく し、その傍 かたわ らで軍 ぐん 内 ない 高級 こうきゅう 将校 しょうこう を批判 ひはん する政治 せいじ 活動 かつどう を始 はじ めた[8] 。1980年 ねん にクーデターでゼルボ 政権 せいけん が成立 せいりつ すると1981年 ねん 9月に情報 じょうほう 部 ぶ 長官 ちょうかん に任命 にんめい されたが、1982年 ねん 5月には職 しょく を辞 じ している。1982年 ねん 11月のクーデター後 ご 、民衆 みんしゅう のサンカラ人気 にんき を背景 はいけい に1983年 ねん 1月 がつ に首相 しゅしょう に任命 にんめい された[9] 。首相 しゅしょう となったサンカラにはアフリカの盟主 めいしゅ を目指 めざ していたリビア のカダフィ大佐 たいさ が接近 せっきん し、サンカラもこれに応 おう じてリビア、キューバ 、アルジェリア 、ガーナ 、ベナン [9] 、ベトナム 、ユーゴスラビア など社会 しゃかい 主義 しゅぎ 国 こく との接近 せっきん を図 はか った。1983年 ねん 5月 がつ に政府 せいふ から拘禁 こうきん されたが、この事件 じけん はフランスのミッテラン 大統領 だいとうりょう の意向 いこう を受 う けたものだと民衆 みんしゅう には受 う け止 と められ、同年 どうねん 7月 がつ に自 みずか らの同志 どうし であるブレーズ・コンパオレ が組織 そしき したクーデター によってウエドラオゴ 大統領 だいとうりょう は辞任 じにん 、1983年 ねん 8月 がつ 4日 にち に33歳 さい の若 わか さで第 だい 5代 だい オートボルタ共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん した[9] 。クーデターは当時 とうじ 、チャド においてフランスと開戦 かいせん 寸前 すんぜん の状態 じょうたい にあったリビア の支持 しじ を受 う けた。
クーデターから2カ月 かげつ 後 ご の1983年 ねん 10月2日 にち にサンカラは「施政 しせい 方針 ほうしん 演説 えんぜつ 」(DOP)を発表 はっぴょう し、革命 かくめい の理念 りねん として女性 じょせい の解放 かいほう 、軍隊 ぐんたい の社会 しゃかい 改良 かいりょう に於 お ける役割 やくわり 、地方 ちほう 分権 ぶんけん 化 か などが示 しめ され、「革命 かくめい 防衛 ぼうえい 委員 いいん 会 かい 」によってDOPの国内 こくない への浸透 しんとう が図 はか られた[10] 。以後 いご サンカラは自身 じしん を革命 かくめい 家 か であると看做 みな し、ガーナ のクワメ・エンクルマ とギニアビサウ 及 およ びカーボベルデ のアミルカル・カブラル から理論 りろん 的 てき な影響 えいきょう を受 う けて社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 、革命 かくめい 的 てき 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の立場 たちば から帝国 ていこく 主義 しゅぎ 、新 しん 植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ の打倒 だとう を掲 かか げた[11] 。また、オートボルタ社会 しゃかい を「人民 じんみん 」と「人民 じんみん の敵 てき 」に区分 くぶん し、前者 ぜんしゃ に分類 ぶんるい された労働 ろうどう 者 しゃ 、農民 のうみん の立場 たちば から、後者 こうしゃ に分類 ぶんるい されたブルジョワジー 、伝統 でんとう 的 てき 首長 しゅちょう 、イスラーム のマラブー (聖人 せいじん )ら従来 じゅうらい の政治 せいじ エリートから特権 とっけん を奪取 だっしゅ しようとした[12] 。その政治 せいじ スタイルはキューバのフィデル・カストロ やガーナ のジェリー・ローリングス から多大 ただい な影響 えいきょう を受 う けていた。
サンカラの胸像 きょうぞう
大統領 だいとうりょう 就任 しゅうにん の1年 ねん 後 ご の1984年 ねん には、国名 こくめい をオートボルタ からブルキナファソ に変更 へんこう し、新 あたら しい国旗 こっき も取 と り入 い れ、自 みずか ら国歌 こっか も作詞 さくし した。サンカラ体制 たいせい 下 か では「人民 じんみん の敵 てき 」と看做 みな されたエリート層 そう への抑圧 よくあつ が進 すす む一方 いっぽう 、スポーツ の奨励 しょうれい 、女性 じょせい の地位 ちい 向上 こうじょう 、教育 きょういく と福祉 ふくし の拡充 かくじゅう が掲 かか げられ、識字 しきじ 運動 うんどう 、予防 よぼう 接種 せっしゅ の普及 ふきゅう 、売春 ばいしゅん の撲滅 ぼくめつ 、鉄道 てつどう 施設 しせつ などに政策 せいさく の重点 じゅうてん が置 お かれた[13] 。特 とく に女性 じょせい 政策 せいさく では西 にし アフリカ では初 はつ となる女子 じょし 割礼 かつれい の禁止 きんし を打 う ち出 だ し、一夫多妻 いっぷたさい 制 せい を禁止 きんし して避妊 ひにん を奨励 しょうれい した。また、アフリカでは最初 さいしょ に大統領 だいとうりょう として、アフリカが最大 さいだい のエイズ 蔓延 まんえん 地域 ちいき である事 こと を公式 こうしき に認 みと めた。
他方 たほう 、外交 がいこう に於 お いてはソ連 それん や中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく とは一定 いってい の距離 きょり を保 たも ちつつも、人民 じんみん 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 体制 たいせい を敷 し くキューバ、アルジェリア、ジンバブエ、モザンビーク人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 、アンゴラ人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく 、北朝鮮 きたちょうせん などの第 だい 三 さん 世界 せかい の左翼 さよく 国家 こっか との友好 ゆうこう 関係 かんけい を打 う ち出 だ し、ニカラグア のサンディニスタ民族 みんぞく 解放 かいほう 戦線 せんせん (FSLN)、西 にし サハラ のポリサリオ戦線 せんせん 、南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく のアフリカ民族 みんぞく 会議 かいぎ (ANC)、ナミビア の南西 なんせい アフリカ人民 じんみん 機構 きこう (SWAPO)など民族 みんぞく 解放 かいほう 運動 うんどう を支持 しじ した[14] 。また反 はん アパルトヘイト運動 うんどう を支持 しじ していたタンザニアやエチオピア、ギニア、赤道 せきどう ギニア、ナイジェリアとも友好 ゆうこう 関係 かんけい にあった。他方 たほう 、サンカラ政権 せいけん の急進 きゅうしん 的 てき な左傾 さけい 化 か により旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく フランスのミッテラン政権 せいけん や、フランスと友好 ゆうこう 関係 かんけい にあったコートジボワール のウフェ=ボワニ 政権 せいけん 及 およ び領土 りょうど 問題 もんだい を抱 かか えていたマリ共和 きょうわ 国 こく との関係 かんけい は緊張 きんちょう が続 つづ いたが、ガーナのローリングス政権 せいけん 、ガボン のオマール・ボンゴ・オンディンバ 政権 せいけん 、ベナン人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく とは良好 りょうこう な関係 かんけい を保 たも ち続 つづ けた[15] 。
サンカラが描 えが かれている
サンカラは民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を掲 かか げつつも実際 じっさい には権力 けんりょく の個人 こじん 集中 しゅうちゅう と軍部 ぐんぶ 依存 いぞん が進 すす み、革命 かくめい 体制 たいせい の組織 そしき 化 か には失敗 しっぱい したが、国連 こくれん 総会 そうかい のために訪 おとず れたニューヨーク のハーレム地区 ちく で演説 えんぜつ するなどの行動 こうどう から民衆 みんしゅう からはカリスマ的 てき に慕 した われ続 つづ けた[16] 。
1983年 ねん のクーデター直後 ちょくご から側近 そっきん のコンパオレとは微妙 びみょう な対立 たいりつ が続 つづ いており、1987年 ねん 10月15日 にち にコンパオレが企図 きと したクーデター によって首都 しゅと のワガドゥグー で死亡 しぼう した[17] 。サンカラの死後 しご 、大統領 だいとうりょう となったコンパオレはサンカラ路線 ろせん を修正 しゅうせい して複数 ふくすう 政党 せいとう 制 せい を打 う ち出 だ したが、死後 しご 20年 ねん を経 へ た後 のち もサンカラの高潔 こうけつ な生涯 しょうがい と、彼 かれ の掲 かか げた理念 りねん はブルキナファソの人々 ひとびと に敬愛 けいあい を保 たも ちながら記憶 きおく されている[18] 。
遺体 いたい は墓石 はかいし もなく埋葬 まいそう されたが、2015年 ねん にコンパオレ政権 せいけん の承認 しょうにん の元 もと での調査 ちょうさ の結果 けっか 発見 はっけん された。遺体 いたい からは十 じゅう 数 すう 発 はつ の銃弾 じゅうだん が発見 はっけん され、暗殺 あんさつ されたことが確認 かくにん された。
2022年 ねん 4月 がつ 6日 にち 、軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい はコートジボワール に亡命 ぼうめい 中 なか のコンパオレに対 たい しサンカラの暗殺 あんさつ に関与 かんよ した罪 つみ で終身 しゅうしん 刑 けい をい渡 いわた した[19] 。
Thomas Sankara Speaks: The Burkina Faso Revolution, 1983-87 , by Thomas Sankara, Pathfinder Press, 1988, ISBN 0-87348-527-0
We Are the Heirs of the World's Revolutions: Speeches from the Burkina Faso Revolution 1983-87 , by Thomas Sankara, Pathfinder Press, 2007, ISBN 0-87348-989-6
Women's Liberation and the African Freedom Struggle , by Thomas Sankara, Pathfinder Press, 1990, ISBN 0-87348-585-8
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^ Smith, David (6 March 2015). "Burkina Faso's revolutionary hero Thomas Sankara to be exhumed". The Guardian . ISSN 0261-3077. Retrieved 31 December 2020. Under Sankara the government also prioritised gender quality, working towards the end of female genital mutilation, forced marriages and polygamy. [...] But Sankara was in power long enough to make enemies and sow doubts about his political philosophy. He set up 'revolutionary people's tribunals' to try former public officials charged with political crimes, and stripped powerful feudal chiefs of their rights and privileges.
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^ “「アフリカのゲバラ」暗殺 あんさつ に関与 かんよ 、ブルキナファソ元 もと 大統領 だいとうりょう に終身 しゅうしん 刑 けい ” . 読売新聞 よみうりしんぶん . (2022年 ねん 4月 がつ 8日 にち ). https://www.yomiuri.co.jp/world/20220408-OYT1T50004/amp/ 2022年 ねん 10月 がつ 22日 にち 閲覧 えつらん 。
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