ボニー・レイット (Bonnie Raitt 、1949年 ねん 11月8日 にち - )は、米国 べいこく のロック ・ギタリスト 、シンガー 、活動 かつどう 家 か 。ブルース 、R&B の色合 いろあ いの濃 こ いサウンドが特長 とくちょう 。また、女性 じょせい スライド・ギタリスト の草分 くさわ け的 てき 存在 そんざい としても知 し られている。
1970年代 ねんだい 、レイットはブルース、ロック、フォーク、カントリーの要素 ようそ を取 と り入 い れたルーツに影響 えいきょう を受 う けた一連 いちれん のアルバムをリリースした。1989年 ねん 、数 すう 年 ねん にわたって批評 ひひょう 家 か の称賛 しょうさん を得 え たが商業 しょうぎょう 的 てき にはほとんど成功 せいこう しなかった後 のち 、アルバム『ニック・オブ・タイム 』が大 だい ヒットした。「Something to Talk About」「Love Sneakin 'Up on You」およびブルース・ホーンズビー のピアノをフィーチャーしたバラード「I Can't Make You Love Me 」を収録 しゅうろく した次 つぎ の2枚 まい のアルバム、『ラック・オブ・ザ・ドロウ 』(1991年 ねん )と『ロンギング・イン・ゼア・ハーツ 』(1994年 ねん )も数 すう 百 ひゃく 万 まん 枚 まい を売 う り上 あ げた。
レイットはグラミー賞 しょう を10回 かい 受賞 じゅしょう している。
「ローリング・ストーンの選 えら ぶ歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も偉大 いだい な100人 にん のシンガー 」において第 だい 50位 い [1] 。
2011年 ねん 、「ローリング・ストーンの選 えら ぶ歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も偉大 いだい な100人 にん のギタリスト」において第 だい 89位 い 。
オーストラリアのカントリー・ミュージック・アーティスト、グレーム・コナーズは、「ボニー・レイットは他 た の誰 だれ もが作 つく れないような歌詞 かし を作 つく り、それを折 お り曲 ま げ、ねじ曲 ま げて心 しん の奥 おく に届 とど かせるのです」と語 かた っている[2] 。
カリフォルニア州 しゅう バーバンク に生 う まれる。父親 ちちおや はブロードウェイ で活躍 かつやく したスター、ジョン・レイット(1917年 ねん - 2005年 ねん )。母親 ははおや は彼 かれ の最初 さいしょ の妻 つま でピアニストのマージョリー・ヘイドック。レイットはスコットランド系 けい であり、彼女 かのじょ の祖先 そせん はネアンの近 ちか くにレイト城 じょう を建設 けんせつ した。[3] 彼女 かのじょ はクエーカー の伝統 でんとう で育 そだ った。[4] 幼 おさな い頃 ころ にニューヨーク州 しゅう のポール・スミスズにあるキャンプ・レジス・アップルジャックでギターを弾 ひ き始 はじ め、後 のち になりボトルネックスタイルのギター に出会 であ うこととなった。レイットは、ニューヨークで「学校 がっこう や夏 なつ のキャンプで少 すこ し」演奏 えんそう したと言 い っている。
ニューヨーク州 しゅう ポキプシー のオークウッド・フレンズ・スクールを卒業 そつぎょう 後 ご 、1967年 ねん にラドクリフ大学 だいがく に入学 にゅうがく し、社会 しゃかい 関係 かんけい とアフリカの研究 けんきゅう を専攻 せんこう した。「ジュリウス・ニエレレ 大統領 だいとうりょう が民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と社会 しゃかい 主義 しゅぎ に基 もと づいた政府 せいふ を作 つく っているタンザニア に旅行 りょこう することを計画 けいかく していたのです」とレイットは語 かた っている。[5] レイットはブルース ・プロモーターのディック・ウォーターマンと友人 ゆうじん になった。[4] 大学 だいがく 2年生 ねんせい の間 あいだ 、レイットは学期 がっき を終 お えて、ウォーターマンや他 た の地元 じもと のミュージシャンと共 とも にフィラデルフィア に移 うつ った。レイットはそれが「すべてを変 か えた機会 きかい 」だったと言 い う[4] 。ウォーターマンを通 つう じてミシシッピ・フレッド・マクダウェル (英語 えいご 版 ばん ) 、ハウリン・ウルフ 、シッピー・ウォーレス (英語 えいご 版 ばん ) といったブルース・アーティストたちと親交 しんこう を深 ふか めていった。
1970年 ねん –1976年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1970年 ねん の夏 なつ 、彼女 かのじょ は兄弟 きょうだい のデイヴィッドのスタンドアップ・ベースとともにフィリー・フォーク・フェスティバルでミシシッピ・フレッド・マクダウェルと共演 きょうえん し、ニューヨークのガスライト・カフェでジョン・ハモンドのオープニングを務 つと め、彼女 かのじょ のパフォーマンスについての言葉 ことば を広 ひろ め始 はじ め、またニューズウィーク 誌 し のリポーターの目 め に留 とど まった。大手 おおて レコード会社 かいしゃ のスカウトはすぐに彼女 かのじょ のショーを見 み るためにショーにやってきた。レイットは最終 さいしゅう 的 てき にワーナーブラザーズからの申 もう し出 で を受 う け入 い れ、1971年 ねん にデビュー・アルバム『ボニー・レイット 』をすぐにリリースした。アルバムは音楽 おんがく 出版 しゅっぱん 社 しゃ に温 あたた かく迎 むか えられ、多 おお くのライターが音楽 おんがく 解釈 かいしゃく や、当時 とうじ 、ポピュラー音楽 おんがく 界 かい の女性 じょせい はギタリストとして高 たか い評価 ひょうか を得 え ていなかったがボトルネック・ギタリストとしてのスキルを賞賛 しょうさん された。
彼女 かのじょ のパフォーマンスを目 め にした人々 ひとびと から賞賛 しょうさん され、仲間 なかま から尊敬 そんけい されてはいたものの、レイットの作品 さくひん に対 たい する世間 せけん の賞賛 しょうさん を得 え ることはほとんどなかった。評論 ひょうろん 家 か の評価 ひょうか は成長 せいちょう し続 つづ けたが、レコードの売上 うりあげ は控 ひか えめなままだった。セカンド・アルバム『ギヴ・イット・アップ 』は1972年 ねん にポジティブなレビューに向 む けてリリースされた[6] 。 多 おお くの批評 ひひょう 家 か はそれを彼女 かのじょ の最高 さいこう の作品 さくひん とみなしているが、その評価 ひょうか は彼女 かのじょ の商業 しょうぎょう 的 てき 成功 せいこう には結 むす びつかなかった。1973年 ねん のアルバム『テイキン・マイ・タイム 』も批評 ひひょう 家 か の称賛 しょうさん を受 う けたが、その評価 ひょうか も売上 うりあげ と一致 いっち しなかった。
レイットはローリング・ストーン 誌 し の1975年 ねん のカバー・ストーリーを含 ふく む、より広範囲 こうはんい な報道 ほうどう をされ始 はじ めたが、1974年 ねん のアルバム『ストリートライツ 』で、彼女 かのじょ の作品 さくひん のレビューはますます複雑 ふくざつ になった。この時点 じてん で、レイットはすでにさまざまなプロデューサーとさまざまなスタイルを試 ため していて、1975年 ねん のアルバム『ホーム・プレイト 』に続 つづ くより主流 しゅりゅう のサウンドを採用 さいよう し始 はじ めた。1976年 ねん 、レイットはウォーレン・ジヴォン のセルフタイトル・アルバムに参加 さんか した。
1977年 ねん –1988年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1976年 ねん -1977年 ねん 、バークレー・コミュニティ・シアターで演奏 えんそう するレイット
1977年 ねん のアルバム『愛 あい に乾杯 かんぱい 』は「悲 かな しき街角 まちかど 」のリメイクでヒット・シングルを生 う み出 だ し、レイットに最初 さいしょ の商業 しょうぎょう 的 てき なブレイクをもたらした。レイットの「悲 かな しき街角 まちかど 」は、アル・グリーン にインスパイアされたリズミカルなグルーヴをベースにしたヘビーなリズム・アンド・ブルース に焼 や き直 なおし されており、多 おお くの批評 ひひょう 家 か から否定 ひてい 的 てき な評価 ひょうか を受 う けた。しかし、この曲 きょく の商業 しょうぎょう 的 てき 成功 せいこう は、ワーナー・ブラザーズ とコロンビア・レコード での間 あいだ にレイットとの契約 けいやく をめぐる入札 にゅうさつ 戦争 せんそう を引 ひ き起 お こした。「当時 とうじ 、コロンビアとワーナーの大 おお きな戦争 せんそう が続 つづ いていました」と、1990年 ねん のインタビューでレイットは回想 かいそう している。「ジェームス・テイラー はワーナー・ブラザーズを去 さ り、コロンビアで大作 たいさく を作 つく ったばかりでした...そして、ワーナーはコロンビアからポール・サイモン の契約 けいやく を奪 うば いました。ワーナーは私 わたし がコロンビアでヒット・レコードを持 も つことを望 のぞ みませんでした。だから、私 わたし は自分 じぶん の契約 けいやく を再 さい 交渉 こうしょう しました、そして、それらは基本 きほん 的 てき にコロンビアの申 もう し出 で と一致 いっち しました。率直 そっちょく に言 い って、この取引 とりひき は本当 ほんとう に大 おお きなものでした」。
ワーナー・ブラザーズは、1979年 ねん のレイットの次 つぎ のアルバム『愛 あい に生 い きる 』に高 たか い期待 きたい を抱 だ いていたが、評論 ひょうろん 家 か の評価 ひょうか は低 ひく く、売 う り上 あ げも芳 かんば しくなかった。1979年 ねん 、彼女 かのじょ が企画 きかく に関 かか わったニューヨーク市 し のマディソン・スクエア・ガーデン での5日間 にちかん に及 およ ぶミュージシャン・ユナイテッド・フォー・セーフ・エナジー(MUSE)コンサートは商業 しょうぎょう 的 てき な成功 せいこう を収 おさ めている。ショーは3枚 まい 組 ぐみ のゴールド・アルバム『No Nukes 』と同名 どうめい のワーナー・ブラザースの長編 ちょうへん 映画 えいが を生 う み出 だ した。ショーには、共同 きょうどう 企画 きかく 者 しゃ のジャクソン・ブラウン 、グラハム・ナッシュ 、ジョン・ホール 、レイット、ブルース・スプリングスティーン 、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ 、ドゥービー・ブラザーズ 、カーリー・サイモン 、ジェームス・テイラー 、ギル・スコット・ヘロン などが参加 さんか した。
1980年 ねん 、彼女 かのじょ はパラマウント・ピクチャーズ の『アーバン・カウボーイ 』に出演 しゅつえん し、「Don't It Make You Wanna Dance」を歌 うた った。
1982年 ねん の次 つぎ 作 さく 『グリーン・ライト 』で、レイットは自身 じしん の初期 しょき の作品 さくひん のサウンド立 た ち返 かえ ることを試 こころ みた。しかし、彼女 かのじょ の予想 よそう に反 はん し、彼女 かのじょ の仲間 なかま やメディアの多 おお くは、彼女 かのじょ のその新 あたら しいサウンドを急 きゅう 成長 せいちょう しているニュー・ウェイヴ の動 うご きと比 くら べようとした。同 どう 作 さく は、久々 ひさびさ の高 こう 評価 ひょうか を受 う けたものの、売 う り上 あ げ面 めん が伸 の びることはなく、ワーナー・ブラザーズとの関係 かんけい は冷 ひ え込 こ んでしまった。
アルバム『Tongue and Groove』とワーナー・ブラザーズの契約 けいやく 解除 かいじょ [ 編集 へんしゅう ]
1983年 ねん 、レイットが次 つぎ 作 さく アルバム『Tongue and Groove 』を完成 かんせい させようとしていたとき、その時点 じてん までの彼女 かのじょ の売 う り上 あ げに不満 ふまん を抱 だ いていたワーナー・ブラザーズは、彼女 かのじょ との契約 けいやく を解除 かいじょ した。同 どう 作 さく はお蔵 ぞう 入 い りとなり、レイットは契約 けいやく レーベルがない状況 じょうきょう となった。また、レイットはこの頃 ころ 、アルコールと薬物 やくぶつ 乱用 らんよう の問題 もんだい とも戦 たたか っていた[7] 。
公私 こうし 両面 りょうめん の問題 もんだい にもかかわらずレイットは引 ひ き続 つづ き政治 せいじ 活動 かつどう に参加 さんか し、ツアーに参加 さんか した。1985年 ねん 、レイットはギタリストのスティーブン・ヴァン・ザント (英語 えいご 版 ばん ) が作曲 さっきょく しプロデュースした反 はん アパルトヘイトのレコード「サン・シティ 」で歌 うた い、ビデオにも出演 しゅつえん した。ファーム・エイド とアムネスティ・インターナショナル ・コンサートへの参加 さんか に加 くわ えて、レイットは1987年 ねん にモスクワ を訪 おとず れ、後 のち にショータイム・テレビネットワーク で公開 こうかい されることとなる最初 さいしょ のソビエト/アメリカ平和 へいわ コンサートに参加 さんか した。また1987年 ねん には「コントラ ・エイドを止 と めるためのロサンゼルスでのカウントダウン'87」を開催 かいさい した。利益 りえき は、ミュージシャンのドン・ヘンリー 、ハービー・ハンコック 、ホリー・ニア (英語 えいご 版 ばん ) などと一緒 いっしょ になった。
ワーナー・ブラザーズは、彼女 かのじょ との契約 けいやく 解除 かいじょ から2年 ねん 後 ご 、レイットに『Tongue and Groove 』をリリースする計画 けいかく を通知 つうち した。「私 わたし は、公平 こうへい ではないですねと言 い ったんです」とレイットは回想 かいそう する。「この時点 じてん で、彼 かれ らは気 き の毒 どく だと思 おも ったんですよ。というのも、私 わたし は当時 とうじ 自分 じぶん の知名度 ちめいど を維持 いじ するために、自費 じひ を投 とう じてツアーをしていて、集客 しゅうきゃく 力 りょく はどんどん落 お ちていましたから。だから、彼 かれ らは私 わたし にあるアルバムの半分 はんぶん をやり直 なお すことに同意 どうい したんです。それが『ナイン・ライヴズ 』として出 で たということです」。1986年 ねん にリリースされた同 どう 作 さく は、批評 ひひょう 的 てき にも商業 しょうぎょう 的 てき にも失敗 しっぱい に終 お わり、レイットのワーナー・ブラザーズからの最後 さいご のレコーディングとなった。
1987年 ねん 後半 こうはん 、レイットは歌手 かしゅ k.d.ラング およびジェニファー・ウォーンズ と、ロイ・オービソン のテレビ番組 ばんぐみ 「ロイ・オービソンと仲間 なかま たち、黒 くろ と白 しろ の夜 よる 」の女性 じょせい バックグランド・ボーカリストとして活躍 かつやく した。この高 たか く評価 ひょうか された放送 ほうそう に続 つづ いて、レイットは新作 しんさく の制作 せいさく を始 はじ めた。その時 とき までに、彼女 かのじょ は薬物 やくぶつ 乱用 らんよう の問題 もんだい を解決 かいけつ し、清 きよ らかな状態 じょうたい となっていた。レイットは後 のち に、スティーヴィー・レイ・ヴォーン の1990年 ねん の死 し の前日 ぜんじつ に開催 かいさい されたミネソタ・ステート・フェア(州 しゅう 祭 さい )のコンサートにおいて、彼 かれ が手 て を差 さ し伸 の べてくれたと語 かた っている[8] 。 この間 あいだ 、レイットはプリンス所有 しょゆう のペイズリー・パーク・レーベルとの契約 けいやく を検討 けんとう したが、交渉 こうしょう は最終 さいしゅう 的 てき に失敗 しっぱい した。その代 か わりにキャピトル・レコード でドン・ウォズ のプロダクション・ガイダンスの下 もと で、ポップとロックのブルージーなミックスを録音 ろくおん し始 はじ めた。
レイットはハル・ウィルナー を介 かい してウォズに出会 であ った。ウォズはA&M のディズニー 音楽 おんがく へのトリビュート・アルバム『Stay Awake 』をまとめていた。ウォズとウィルナーは両方 りょうほう とも、レイットが映画 えいが 『ダンボ 』の中 なか の子守 こもり 歌 か 「ベイビーマイン」のためにウォズによって作成 さくせい されたアダルト・コンテンポラリー・アレンジメントでリードを歌 うた うことを望 のぞ んでいた。レイットはセッションに非常 ひじょう に満足 まんぞく しており、次 つぎ のアルバムをプロデュースするようウォズに依頼 いらい した。
1989年 ねん –1999年 ねん : 商業 しょうぎょう 的 てき なブレイク [ 編集 へんしゅう ]
1990年 ねん グラミー賞 しょう のレイット
アルバム『Stay Awake 』でウォズと仕事 しごと をした後 のち 、レイットのマネージメント事務所 じむしょ のゴールド・マウンテンは新 あたら しいレコード契約 けいやく について多 おお くのレーベルにアプローチし、キャピトル・レコードのA&R部門 ぶもん の責任 せきにん 者 しゃ ティム・ディヴァインによってキャピトルと契約 けいやく した。
レイットは、1989年 ねん 発売 はつばい の10枚 まい 目 め のアルバム『ニック・オブ・タイム 』で遅 おそ まきながら商業 しょうぎょう 的 てき 成功 せいこう を収 おさ めた。米国 べいこく チャートのトップを獲得 かくとく 。1990年 ねん 2月開催 かいさい の第 だい 32回 かい グラミー賞 しょう で「最優秀 さいゆうしゅう アルバム賞 しょう 」と「最優秀 さいゆうしゅう 女性 じょせい ロック・ボーカル・パフォーマンス賞 しょう 」を受賞 じゅしょう 。また、アルバムに収録 しゅうろく された表題 ひょうだい 曲 きょく 「ニック・オブ・タイム 」は「最優秀 さいゆうしゅう 女性 じょせい ポップ・ボーカル・パフォーマンス賞 しょう 」を受賞 じゅしょう した[9] 。そしてローリング・ストーン 誌 し の「史上 しじょう 最高 さいこう のアルバム500件 けん のリスト」の230番 ばん に選 えら ばれた。レイット自身 じしん は、10回 かい 目 め の試 こころ みが「私 わたし の最初 さいしょ の素面 しらふ のアルバム」であると指摘 してき した。[10] [11]
同時 どうじ に、レイットはジョン・リー・フッカー のアルバム『ヒーラー 』でのジョン・リーとのデュエット「I'm in the Mood」で自身 じしん 4度目 どめ となるグラミー賞 しょう を受賞 じゅしょう した。『ニック・オブ・タイム 』はレイットと一緒 いっしょ に今日 きょう まで録音 ろくおん やツアーを共 とも にするリッキー・ファターとジェームス・"ハッチ"・ハチンソン の長年 ながねん のリズム・セクションをフィーチャーした多 おお くのレコーディングの最初 さいしょ だった(以前 いぜん 、ファターはレイットのアルバム『グリーン・ライト 』でプレイし、ハチンソンは『ナイン・ライヴズ 』で共 とも に働 はたら いていた)。『ニック・オブ・タイム 』は米国 べいこく だけで600万 まん 枚 まい 以上 いじょう を売 う り上 あ げた。
レイットは1991年 ねん のアルバム 『ラック・オブ・ザ・ドロウ 』でグラミー賞 しょう を3回 かい 受賞 じゅしょう し、アメリカで約 やく 800万 まん 枚 まい を売 う り上 あ げてこの成功 せいこう を確 たし かなものにした。3年 ねん 後 ご の1994年 ねん に、レイットは2枚 まい 目 め となるナンバー・ワン・アルバム『ロンギング・イン・ゼア・ハーツ 』でグラミー賞 しょう を2つ追加 ついか した。これらのアルバムは両方 りょうほう ともマルチプラチナの成功 せいこう だった。レイットとウォズのコラボレーションは1995年 ねん のライブ・アルバム『ロード・テステッド 』で友好 ゆうこう 的 てき に終了 しゅうりょう した。このライブ・アルバムは堅実 けんじつ なレビューを得 え て、ゴールドを認定 にんてい するのに十分 じゅうぶん なほど売 う れた。
「ロック・ステディ」は、ブライアン・アダムス とグレッチェン・ピーターズが1995年 ねん に書 か いたヒット曲 きょく 。この曲 きょく は、アダムスとボニー・レイットのロード・テステッド・ツアーのデュエット用 よう に書 か かれたもので、レイットのアルバム収録 しゅうろく の1曲 きょく にもなった。この曲 きょく のオリジナル・デモ・バージョンは、アダムスの1996年 ねん のシングル「Let's Make a Night to Remember」に収録 しゅうろく されている。
1997年 ねん 、B.B.キング のアルバム『デューシズ・ワイルド 』に収録 しゅうろく された「Baby I Love You」でB.B.とデュエットした。
次 つぎ のスタジオ・アルバムのためにレイットははマイケル・フルームとチャド・ブレイクをプロデューサーとして迎 むか えた。「ドン・ウォズとの仕事 しごと が大好 だいす きでしたが、自分 じぶん とファンに一息 ひといき ついて何 なに か違 ちが うことをしたかったのです」とレイットは言 い っている。フルームとブレイクと制作 せいさく した作品 さくひん は、1998年 ねん にアルバム『ファンダメンタル 』としてリリースされた。
2000年 ねん –2007年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
2004年 ねん 4月 がつ 23日 にち 、ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバル でプレイするレイット
2000年 ねん 3月、レイットはオハイオ州 しゅう クリーブランド のロックンロールの殿堂 でんどう 入 い りし、翌 よく 2001年 ねん には、父 ちち ジョンと揃 そろ ってハリウッド・ボウル の殿堂 でんどう 入 い りもした。アルバム『シルバー・ライニング 』は2002年 ねん にリリースされた。米国 べいこく では、ビルボードチャートで13位 い に達 たっ し、後 のち にゴールド認定 にんてい を受 う けている。シングル「暗闇 くらやみ を抜 ぬ けて (I Can't Help You Now)」、「新 あたら しい人生 じんせい (Time of Our Lives)」、タイトルトラックの「希望 きぼう の光 ひかり (Silver Lining)」が収録 しゅうろく されており、3枚 まい のシングルはすべて、米国 べいこく アダルトコンテンポラリーチャートの上位 じょうい 40以内 いない にはいった。
2002年 ねん 3月19日 にち に、レイットはレコード業界 ぎょうかい への貢献 こうけん によってヴァイン通 どお り沿 ぞ いの ハリウッド名声 めいせい の歩道 ほどう の星 ほし を獲得 かくとく した[12] [13] 。 2003年 ねん 、キャピトル・レコードは、コンピレーション・アルバム『The Best of Bonnie Raitt 』をリリースした。1989年 ねん から2002年 ねん までのキャピトルからリリースされた『ニック・オブ・タイム 』『ラック・オブ・ザ・ドロウ 』『ロンギング・イン・ゼア・ハーツ 』『ロード・テステッド 』『ファンダメンタル 』『シルバー・ライニング 』という各 かく アルバムからの曲 きょく が含 ふく まれている。レイットはトゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ のアルバム『True Love 』にフィーチャーされ、2004年 ねん に最優秀 さいゆうしゅう レゲエ・アルバムでグラミー賞 しょう を受賞 じゅしょう した[14] 。
2003年 ねん 、マーティン・スコセッシ の映画 えいが シリーズ『ザ・ブルース・ムービー・プロジェクト (The Blues) 』の中 なか の作品 さくひん 、ヴィム・ヴェンダーズ 監督 かんとく の『ソウル・オブ・マン 』に出演 しゅつえん し、2曲 きょく を披露 ひろう 。また翌 よく 2004年 ねん のライヴ映画 えいが 『ライトニン・イン・ア・ボトル 』(アントワーン・フークア 監督 かんとく )にも登場 とうじょう している。
アルバム『ソウルズ・アライク 』は2005年 ねん 9月にリリースされた。米国 べいこく では、ビルボードチャートでトップ20に達 たっ した。シングル「アイ・ウィル・ナット・ビー・ブロークケン (I Will Not Be Broken)」と「アイ・ドント・ウォント・エニシング・トゥ・チェンジ (I Don't Want Anything to Change)」が含 ふく まれており、どちらも米国 べいこく アダルトコンテンポラリーチャートのトップ40にランクインしている。2006年 ねん に特別 とくべつ ゲストにケブ・モ 、アリソン・クラウス 、ベン・ハーパー 、ジョン・クリアリー 、ノラ・ジョーンズ をフィーチャーし、絶賛 ぜっさん されたVH1のクラシック・ディケーズ・クラシック・ロック・ライブ・コンサート・シリーズの一環 いっかん として撮影 さつえい されたライブDVD / CD『Bonnie Raitt and Friends 』をリリースした。 DVDは8月 がつ 15日 にち にキャピトルレコードによってリリースされた。2005年 ねん 9月30日 にち にニュージャージー州 しゅう アトランティックシティでライブ録音 ろくおん された『Bonnie Raitt and Friends 』にはコンサートのVH1クラシックの放送 ほうそう に含 ふく まれていない4曲 きょく のデュエットを含 ふく む、これまでにないパフォーマンスとインタビュー映像 えいぞう を収録 しゅうろく している。付属 ふぞく のCDには、ベン・ハーパーをフィーチャーしたラジオ・シングル「トゥー・ライト・イン・ザ・ナイトタイム (Two Lights in the Nighttime)」を含 ふく む11曲 きょく が収録 しゅうろく されていまる。 2007年 ねん 、レイットは『Goin' Home: A Tribute to Fats Domino 』に貢献 こうけん した。レイットはジョン・クリアリーと共 とも にファッツ・ドミノ の「I'm In Love Again」と「All by Myself」のメドレーを歌 うた った。
2008年 ねん -現在 げんざい [ 編集 へんしゅう ]
レイットは2008年 ねん 6月7日 にち にギャリソン・ケイラーのラジオ番組 ばんぐみ 『プレイリー・ホーム・コンパニオン』の放送 ほうそう に出演 しゅつえん した。彼女 かのじょ はケブ・モとともに「No Getting Over Over You」と「Ain't Nothin' in Ramblin'」の2曲 きょく のブルースを演奏 えんそう した。レイットはまた、リチャード・トンプソン と「薄暗 うすぐら い部屋 へや で (Dimming of the Day)」を歌 うた った。このショーは2006年 ねん 10月にレイットと彼女 かのじょ のバンドとともに行 おこな われた別 べつ のショーとともに、プレーリー・ホーム・コンパニオンのウェブサイトにアーカイブされている。レイットは2011年 ねん のBBC で特集 とくしゅう された「ジャマイカから出 で てきた最 もっと も影響 えいきょう 力 りょく のあるアーティストの秘話 ひわ 」と解説 かいせつ されたドキュメンタリー「レゲエが魂 たましい を手 て に入 い れた:トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズの物語 ものがたり 」に出演 しゅつえん した[15] [16] 。
2012年 ねん 2月 がつ 、レイットは2012年 ねん の第 だい 54回 かい グラミー賞 しょう でアリシア・キーズ とデュエットを行 おこな いエタ・ジェイムズ を称 とな えた。 2012年 ねん 4月 がつ 、レイットは2005年 ねん 以来 いらい となる『スリップストリーム 』というタイトルのスタジオ・アルバムをリリースした。同 どう 作 さく は1994年 ねん の 『ロンギング・イン・ゼア・ハーツ 』以来 いらい のトップ10アルバムをマークし、米国 べいこく Billboard 200 チャートの6位 い になった。このアルバムはアメリカのソングライター誌 し によって「彼女 かのじょ の40年 ねん のキャリアの中 なか で最高 さいこう の1つ」と評 ひょう された[17] 。2012年 ねん 9月、レイットは「30 Songs / 30 Days」と呼 よ ばれるキャンペーンで取 と り上 あ げられた。これは、ニコラス・クリストフ とシェリル・ウーダン の本 ほん で概説 がいせつ されたプロジェクトに触発 しょくはつ されたマルチプラットフォームメディアプロジェクトである「ハーフ・ザ・スカイ:抑圧 よくあつ を世界中 せかいじゅう の女性 じょせい の機会 きかい に変 か える 」を支援 しえん するためである[18] 。2013年 ねん 、レイットはフォイ・ヴァンスのアルバム『Joy of Nothing 』に参加 さんか した[19] 。
2015年 ねん 5月30日 にち 、レイットは、レオン・ラッセル 、アイヴァン・ネヴィル (英語 えいご 版 ばん ) とともに、カリフォルニア 州 しゅう アゴーラ・ヒルズのキャニオン・クラブでパフォーマンスを行 おこな い、癌 がん と闘 たたか っていたマーティ・グレブ (英語 えいご 版 ばん ) のための資金 しきん を集 あつ めた。グレブは彼 かれ らのアルバムのいくつかで演奏 えんそう していた[20] 。
2016年 ねん 2月 がつ 、レイットは17枚 まい 目 め のスタジオ・アルバム『ディグ・イン・ディープ 』をリリースした。このアルバムは、米国 べいこく Billboard 200 チャートの11位 い となり[21] 、好評 こうひょう を得 え た[22] 。このアルバムにはシングル”Gypsy in Me”と、INXSの曲 きょく ”Need You Tonight”のカバーが収録 しゅうろく されている。
レイットは、外科 げか 手術 しゅじゅつ を要 よう する健康 けんこう 上 じょう の問題 もんだい が見 み つかったことにより、2018年 ねん の春 はる と夏 なつ のツアーの前半 ぜんはん スケジュールをキャンセルした。彼女 かのじょ は、「完全 かんぜん な回復 かいふく 」が期待 きたい されており、2018年 ねん 6月 がつ に予定 よてい された日付 ひづけ でツアーを再開 さいかい する予定 よてい であると発表 はっぴょう している[23] 。
薬物 やくぶつ およびアルコールの使用 しよう と回復 かいふく [ 編集 へんしゅう ]
レイットはアルコールと薬物 やくぶつ を使用 しよう していたが、1980年代 ねんだい 後半 こうはん に心理 しんり 療法 りょうほう を開始 かいし し、匿名 とくめい のアルコール依存 いぞん 症 しょう 者 しゃ たち に参加 さんか した。レイットはこう語 かた っている。「本物 ほんもの であるためにはパーティーのライフスタイルを生 い きなければならないと思 おも っていましたが、しかし実際 じっさい それを長 なが くやり続 つづ けすぎると、ぐだぐだになって死 し んでしまうだけなのです」[24] 。彼女 かのじょ は1987年 ねん にクリーンになった。アルコールの問題 もんだい を認 みと めて飲酒 いんしゅ をやめる勇気 ゆうき を与 あた えたのは、スティーヴィー・レイ・ヴォーン が落 お ち着 つ いたときにさらに優 すぐ れたミュージシャンであることに気 き づいたからだと述 の べて、スティーヴィー・レイ・ヴォーンを称賛 しょうさん した[25] 。彼女 かのじょ はまた、「遅 おそ い夜 よる の生活 せいかつ 」が自分 じぶん のためにならないことに気付 きづ いたのでやめたのだとも言 い っている[26] 。1989年 ねん に「天使 てんし たちが私 わたし を連 つ れまわしてくれているような気 き がします。集中 しゅうちゅう 力 りょく と規律 きりつ が強 つよ くなり、結果 けっか として自尊心 じそんしん が高 たか まります」と語 かた った。[27]
レイットは両親 りょうしん 、兄弟 きょうだい 、親友 しんゆう の死後 しご も含 ふく めて、サバティカル を取 と っている。彼女 かのじょ は「私 わたし が多 おお くの損失 そんしつ を経験 けいけん したとき、私 わたし は休 やす みを取 と った」と言 い った[24] 。レイットと俳優 はいゆう のマイケル・オキーフ は1991年 ねん 4月 がつ 27日 にち に結婚 けっこん した。彼 かれ らは1999年 ねん 11月9日 にち に離婚 りこん を発表 はっぴょう した[28] 。その理由 りゆう については、お互 たが いの仕事 しごと により、離 はな れて過 す ごすことが多 おお くなったことが要因 よういん と思 おも われる[29] 。
社会 しゃかい 、政治 せいじ 活動 かつどう [ 編集 へんしゅう ]
レイットは、社会 しゃかい 活動 かつどう 、政治 せいじ 活動 かつどう に積極 せっきょく 的 てき に関 かか わってきたことでも知 し られている。1980年 ねん 、マディソン・スクエア・ガーデン で開催 かいさい された核 かく 廃絶 はいぜつ を訴 うった えるコンサート「ノー・ニュークス」、「ファーム・エイド 」、「アムネスティ・インターナショナル 」のなどベネフィット・コンサートへの参加 さんか 、また南 みなみ アフリカ の人種 じんしゅ 隔離 かくり 政策 せいさく を取 と り上 あ げたプロテスト・ソング「Sun City 」への参加 さんか などがある。また、1988年 ねん 設立 せつりつ のリズム・アンド・ブルース基金 ききん (Rhythm & Blues Foundation - R&Bアーティストに対 たい する支援 しえん 、音楽 おんがく の保存 ほぞん などを目的 もくてき とする団体 だんたい )の創設 そうせつ 者 しゃ のひとりとして名 な を連 つら ねている。
レイットの政治 せいじ への関与 かんよ は1970年代 ねんだい 初期 しょき に遡 さかのぼ る。
1972年 ねん のアルバム「ギブ・イット・アップ」の裏 うら には「北 きた ベトナム の人々 ひとびと へ」と献辞 けんじ が印刷 いんさつ されていた。
レイットのウェブサイトはファンに環境 かんきょう の保護 ほご についての詳細 しょうさい を学 まな ぶよう促 うなが している。
彼女 かのじょ は1979年 ねん に安全 あんぜん なエネルギーのためのミュージシャンズ・ユナイテッド の創設 そうせつ メンバーであり、より大 おお きな反核 はんかく 運動 うんどう の触媒 しょくばい となり、アバロン同盟 どうめい やサバイバル同盟 どうめい などのグループに関与 かんよ した。
1994年 ねん 、ディック・ウォーターマンの要請 ようせい で、マウント・ザイオン記念 きねん 基金 ききん を通 つう じ、彼女 かのじょ が師 し と仰 あお ぐ一人 ひとり 、ブルース・ギタリストのフレッド・マクダウェルの墓石 はかいし の交換 こうかん に資金 しきん を提供 ていきょう した。
レイットはその後 ご 、マウント・ザイオン記念 きねん 基金 ききん と共同 きょうどう で、再度 さいど ミシシッピにおいて、ミュージシャンのメンフィス・ミニー 、サム・チャットモン、トミー・ジョンソンのための墓石 はかいし に資金 しきん を提供 ていきょう した。
2004年 ねん 7月 がつ のストックホルム・ジャズ・フェスティバルで、レイットは1979年 ねん のアルバム『愛 あい に生 い きる 』でフィーチャーされた曲 きょく 「Your Good Thing(Is About To End)」を現職 げんしょく の(そして後 のち に再選 さいせん された)ジョージ・W・ブッシュ 大統領 だいとうりょう へ捧 ささ げた。その際 さい 彼女 かのじょ は次 つぎ のように言 い ったという。「この曲 きょく をジョージ・ブッシュへ捧 ささ げる。彼 かれ は出 で ていくべきだから」。
2002年 ねん にレイットはLittle Kids Rockの公式 こうしき サポーターとなった。Little Kids Rockは全米 ぜんべい の公立 こうりつ 学校 がっこう の子供 こども たちに無料 むりょう の楽器 がっき と無料 むりょう のレッスンを提供 ていきょう する非 ひ 営利 えいり 団体 だんたい である。
2008年 ねん 、レイットは2004年 ねん の津波 つなみ による東南 とうなん アジアでの救援 きゅうえん 活動 かつどう を支援 しえん するために、Aid Still RequiredのCDに歌 うた を寄付 きふ した。
レイットは2005年 ねん の秋 あき /冬 ふゆ と2006年 ねん の春 はる /夏 なつ /秋 あき のツアーで、非 ひ 営利 えいり の環境 かんきょう 団体 だんたい であるReverbと協力 きょうりょく した。
[30]
レイットは原子力 げんしりょく の拡大 かくだい に反対 はんたい するノー・ニュークス・グループのメンバーである。2007年 ねん 、ノー・ニュークスはバッファロー・スプリングフィールド の曲 きょく 「フォー・ホワット・イッツ・ワース 」の新 しん バージョンのミュージック・ビデオを録音 ろくおん した[31] [32] [33] 。
2008年 ねん の民主党 みんしゅとう 予備 よび 選挙 せんきょ で、レイットは、ジャクソン・ブラウン およびベーシストのジェームス・"ハッチ"・ハチンソンとともに、ジョン・エドワーズ 候補 こうほ の選挙 せんきょ 遊説 ゆうぜい 集会 しゅうかい で演奏 えんそう した。
レイットがツアーで主 おも に使用 しよう するギターはカスタマイズされたフェンダー・ストラトキャスター で、「ブラウニー (Brownie)」と呼 よ ばれている。これが1996年 ねん のシグネチャー・モデルのベースとなった。レイットはフェンダーのシグネチャー・ラインを受 う け取 と った最初 さいしょ の女性 じょせい ミュージシャンである。
私 わたし の
茶色 ちゃいろ のストラトは――ボディは
1965年 ねん のもので、ネックははもうすこし
後 ご のものです。これはハイブリッドのようなもので、
1969年 ねん の
朝 あさ の3
時 じ に120ドルで
手 て に
入 い れたのです。それはペイントのないもので、
1969年 ねん 以来 いらい 、
私 わたし はそれをすべてのギグに
使用 しよう しました。
[34]
3月11日 にち , 13日 にち , 14日 にち 久保 くぼ 講堂 こうどう (東京 とうきょう )、15日 にち 名古屋 なごや 市 し 公会堂 こうかいどう 、17日 にち 横浜 よこはま 市民 しみん 会館 かいかん 、18日 にち 大阪 おおさか サンケイホール [35]
3月9日 にち 大阪 おおさか 厚生 こうせい 年金 ねんきん 会館 かいかん (大阪 おおさか )、10日 とおか NHKホール 、12日 にち 中野 なかの サンプラザ[36]
コンピレーション・アルバム [ 編集 へんしゅう ]
1990年 ねん 『The Bonnie Raitt Collection 』 (Warner Bros.)
2003年 ねん 『Best of Bonnie Raitt 』 (Capitol)
2011年 ねん 『Starbucks Opus Collection 』 (Rhino)
2011年 ねん 『Now & Then 』 (Redwing)
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