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ミッチー・ブーム

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝見ちょうけんえた皇太子こうたいし夫妻ふさい昭和しょうわ天皇てんのうこうじゅん皇后こうごう

ミッチー・ブームとは、正田しょうだ美智子みちこ当時とうじ)が1958ねん昭和しょうわ33ねん)から1959ねん昭和しょうわ34ねん)にかけて、日本にっぽん皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう当時とうじ)と婚約こんやくして結婚けっこんすることによりしょうじた社会しゃかい現象げんしょう

民間みんかん出身しゅっしん女性じょせいとしてはじめて、皇太子こうたいしとの「テニスコートでの自由じゆう恋愛れんあい」により結婚けっこんいたったこと[1]美智子みちこカトリックミッションけい大学だいがく出身しゅっしんしゃであったことなどをマスメディア報道ほうどうし、おおきな話題わだいとなる[2]。これを契機けいきテレビ普及ふきゅうするなど、だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん経済けいざいファッションマスメディアなどの領域りょういきで、社会しゃかいおおきな影響えいきょうあたえ、女性じょせいたちのあこがれのまととなった。

概要がいよう[編集へんしゅう]

婚約こんやく[編集へんしゅう]

毎日新聞まいにちしんぶんがスクープ撮影さつえいした、婚約こんやく発表はっぴょう直前ちょくぜん正田しょうだ美智子みちこ

だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ11ねん経過けいかし、1956ねん昭和しょうわ31ねん)の経済けいざい白書はくしょが「もはや戦後せんごではない」と明記めいきし、景気けいき上昇じょうしょうしていたなかで、宮内庁くないちょう1958ねん昭和しょうわ33ねん11月27にち皇室こうしつ会議かいぎ日清製粉にっしんせいふん社長しゃちょう正田しょうだ英三郎えいざぶろう長女ちょうじょ美智子みちこ皇太子こうたいしむかえることを可決かけつしたと発表はっぴょうする。

1957ねん昭和しょうわ32ねん)に聖心女子大学せいしんじょしだいがく英文えいぶん卒業そつぎょうしていた美智子みちこは、そのとしなつ皇太子こうたいし軽井沢かるいざわ親善しんぜんテニス・トーナメントの対戦たいせんつうじて出会であい、皇太子こうたいし美智子みちこ人柄ひとがらかれてみずか候補こうほにと言及げんきゅうしたと報道ほうどうされ、皇族こうぞく五摂家ごせっけといった特定とくてい華族かぞくからえらばれる皇室こうしつ慣例かんれいやぶり、はつ平民へいみん出身しゅっしん皇太子こうたいしとして注目ちゅうもくまととなった[3]昭和しょうわ天皇てんのうは「皇室こうしつあたらしいを」という意向いこうだったとされている[4]

これにたいして正田しょうだ家柄いえがらちがぎるとして当初とうしょ固辞こじ姿勢しせいせたが、皇太子こうたいしの「柳行李やなぎごうりひとつでてください」との言葉ことばとなって決心けっしんかためたと報道ほうどうされた。しかしこの報道ほうどう事実じじつではなく(「ご学友がくゆう橋本はしもとあきら創作そうさく)、のち2001ねん平成へいせい13ねん)におこなわれた天皇てんのう記者きしゃ会見かいけんでは「このようなことはわたし一言ひとことくちにしませんでした」とつよ否定ひていプライバシー尊厳そんげん重要じゅうようせい言及げんきゅうし、報道ほうどうのありかた疑問ぎもんげかけている[5]

美智子みちこがテニスでていた白地しろじのVネックセーターやしろ服装ふくそう[6]につけていたヘアバンド、カメオのブローチ、ストール、しろ長手ながてぶくろなどのいわゆるミッチースタイルばれたファッションがだい流行りゅうこう[7]、ヘアバンドは「ミッチーバンド」と名付なづけられている。 宮内庁くないちょうおこなわれた11月27にち婚約こんやく記者きしゃ会見かいけん美智子みちこが「とてもご清潔せいけつでご誠実せいじつなご立派りっぱほうしんからご信頼しんらいもうげ」と皇太子こうたいし印象いんしょうべた発言はつげんおおきな注目ちゅうもくあつ[よう出典しゅってん]、「ご清潔せいけつでご誠実せいじつ」は、流行りゅうこうになった[8]

マスメディアは「昭和しょうわシンデレラ」あるいは「世紀せいきのご成婚せいこん」と銘打めいうち、美智子みちこちや、皇太子こうたいしとの交際こうさいなどを詳報しょうほう週刊しゅうかん1956ねん昭和しょうわ31ねん)の『週刊しゅうかん新潮しんちょう創刊そうかんをきっかけに、1957ねん昭和しょうわ32ねん創刊そうかんの『週刊しゅうかん女性じょせい』(主婦しゅふ生活社せいかつしゃ)、1958ねん昭和しょうわ33ねん)の『週刊しゅうかん女性じょせい自身じしん』(光文社こうぶんしゃ)、『週刊しゅうかん明星みょうじょう』(集英社しゅうえいしゃ)、『週刊しゅうかん大衆たいしゅう』(双葉社ふたばしゃ)、『週刊しゅうかん実話じつわ』などの創刊そうかん相次あいつぐ「週刊しゅうかんブーム」がきており、週刊しゅうかん女性じょせい週刊しゅうかん報道ほうどう競争きょうそう過熱かねつしていた。「ご成婚せいこん」は週刊しゅうかんメディアにとって格好かっこう題材だいざい素材そざいとなって週刊しゅうかんげがび、さらに週刊しゅうかん記事きじつうじて皇室こうしつ情報じょうほう一般人いっぱんじん浸透しんとうすることとなった[9]

これら社会しゃかい現象げんしょう婚約こんやく発表はっぴょうのそのとしに、美智子みちこ愛称あいしょう「ミッチー」に由来ゆらいして「ミッチー・ブーム」と名付なづけられ、以後いご、この呼称こしょう社会しゃかいてき定着ていちゃく同年どうねん12月1にち日本銀行にっぽんぎんこういちまんえんけん(いわゆるいちまんえんさつ)を発行はっこう股上またがみ極端きょくたんみじか新作しんさくパンティースキャンティー」を発表はっぴょうするなど女性じょせい下着したぎブームのつけやくとなって女性じょせい下着したぎ歴史れきしをなしたファッションデザイナー鴨居かもい羊子ようこが『下着したぎぶんかろん 解放かいほうされた下着したぎとその下着したぎかん』を上梓じょうし[10]インスタントラーメン元祖がんそチキンラーメン発売はつばいされ、またロカビリーブームがこるなど、このとしおおくの人々ひとびと景気けいき上昇じょうしょう実感じっかんする時代じだいむかえ、本格ほんかくてき大量たいりょう消費しょうひ社会しゃかい入口いりくちにさしかかっていたことが、経済けいざいてきにミッチー・ブームをささえる背景はいけいとなっていた[11]。また首都しゅとけん広域こういき電波でんぱ送信そうしん可能かのうにする東京とうきょうタワー12月23にち完成かんせい、マスメディアの領域りょういきではテレビ放送ほうそう時代じだい幕開まくあけの準備じゅんびととのう。このような時代じだい背景はいけいなかで、ミッチーブームはあかるい話題わだいとしてげられた。

結婚けっこん[編集へんしゅう]

よく1959ねん昭和しょうわ34ねん4がつ10日とおかの、いわゆる結婚式けっこんしき(「結婚けっこん」「成婚せいこん」)と、実況じっきょうなま中継ちゅうけいされたパレード(ご成婚せいこんパレード)で、ミッチー・ブームは頂点ちょうてんたっする。皇居こうきょから渋谷しぶや東宮とうぐうかり御所ごしょまでの8.18キロを4とうての馬車ばしゃ目抜めぬどおりをはしるパレード沿道えんどうには、53まんにん群衆ぐんしゅうめかけた。皇室こうしつジャーナリストの渡辺わたなべみどり宮内庁くないちょうき、東宮御所とうぐうごしょそらつまみ成功せいこうしたという[12]

パレードに先立さきだち、テレビのメーカー各社かくしゃきそって宣伝せんでんおこなったため消費しょうひしゃ実況じっきょうせい中継ちゅうけいようとし、テレビのげが急伸きゅうしん、パレードのいち週間しゅうかんまえNHK受信じゅしん契約けいやくすう(いわゆる普及ふきゅうりつ)は、200まんだい突破とっぱ[13]。またテレビ製造せいぞうメーカー、週刊しゅうかん各社かくしゃ大量たいりょう消費しょうひ社会しゃかいへのテイクオフをたし、テレビコマーシャル週刊しゅうかん消費しょうひびる契機けいきとなった。

日本にっぽん経済けいざい、ファッション、マスメディアなどの変遷へんせんかたじょうでエポックとなった空前くうぜんのミッチー・ブームがきたちょうどそのころ、日本にっぽん経済けいざい岩戸いわと景気けいき突入とつにゅうし、高度こうど経済けいざい成長せいちょう時代じだいむかえる。マスメディアはその彼女かのじょ皇太子こうたいしとしての生活せいかつ--だいいち浩宮ひろのみや誕生たんじょうだい礼宮あやのみや誕生たんじょうだいさん紀宮のりのみやげん黒田くろだ清子きよこ誕生たんじょう子育こそだて--などの様子ようす頻繁ひんぱんげ、美智子みちこ国民こくみんにとっての「象徴しょうちょう」としての役割やくわり、すなわちいわば「あこがれ」[14]対象たいしょうとしての地位ちい確立かくりつしてゆく。政治せいじ学者がくしゃ松下まつした圭一けいいちは、これら一連いちれんの「ミッチー・ブーム」社会しゃかい現象げんしょうくちにして天皇てんのうせい分析ぶんせきした著作ちょさく大衆たいしゅう天皇てんのうせいろん』を1959ねん昭和しょうわ34ねん)にあらわしている。

2005ねん平成へいせい17ねん出版しゅっぱんのDVDブック『昭和しょうわニッポン』(だい8かん美智子みちこさまブームと東京とうきょうタワー』などぜん24かん)を共同きょうどう執筆しっぴつした横浜市立大学よこはましりつだいがく助教授じょきょうじゅ古川ふるかわ隆久たかひさは、ミッチー・ブーム前後ぜんこうのメディアの皇室こうしつ報道ほうどう検証けんしょうして「逆説ぎゃくせつてきですが、民間みんかんじん出身しゅっしん皇太子こうたいし誕生たんじょうしたことで、国民こくみん皇室こうしつとの距離きょり実感じっかんしてしまったのではないか」と分析ぶんせきしている[15]

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

祝典しゅくてん行進曲こうしんきょく
作曲さっきょくだん伊玖磨いくま
皇太子こうたいしのタンゴ(Tango of Prince)
作曲さっきょくロタール・オリアスドイツばん演奏えんそうリカルド・サントス楽団がくだん
正田しょうだ美智子みちこ明仁あきひと親王しんのう婚約こんやく発表はっぴょう祝賀しゅくがして制作せいさくされ、ヒットした。
皇太子こうたいし殿下でんか成婚せいこん祝典しゅくてん序曲じょきょく
作曲さっきょくしばゆうやすし演奏えんそう宮内庁くないちょう式部しきぶしょくらく
らく雅楽ががく演奏えんそうおもだが、西洋せいよう楽器がっき修得しゅうとくしている。
祝典しゅくてん序曲じょきょく
作曲さっきょく石井いしい演奏えんそう東京とうきょう交響こうきょう楽団がくだん
KRテレビ放送ほうそうされた。
祝典しゅくてんきょく
作曲さっきょく別宮べつみや貞雄さだお
日本にほんテレビ放送ほうそうされた。
カンタータ「しゅくこん
作曲さっきょくまゆずみ敏郎としお作詞さくし三島みしま由紀夫ゆきお演奏えんそうヴィルヘルム・シュヒター指揮しきNHK交響こうきょう楽団がくだん
NHK委嘱いしょくにより作曲さっきょく放送ほうそうされた。
しょうカンタータ「わが皇子おうじとわが 皇太子こうたいし美智子みちこ賛歌さんか
作曲さっきょく山田やまだ一雄かずお当時とうじは「和男かずお表記ひょうき)、演奏えんそう作曲さっきょくしゃ指揮しき東京とうきょう交響こうきょう楽団がくだん
舞楽ぶがくよしみはるらく
作曲さっきょく宮内庁くないちょう式部しきぶしょくらくつじ寿男としお東儀とうき和太郎わたろうりょう楽長がくちょう中心ちゅうしんとなって作曲さっきょく
管絃かんげん雲竜うんりゅうらく
作曲さっきょく宮内庁くないちょう式部しきぶしょくらく同上どうじょう
管絃かんげんひとし寿ことぶきらく
作曲さっきょく宮内庁くないちょう式部しきぶしょくらく同上どうじょう

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 衆議院しゅうぎいん会議かいぎろく情報じょうほう だい31かい国会こっかい 内閣ないかく委員いいんかいだい5ごう1959ねん2がつ6にち)。この国会こっかい答弁とうべん宮内庁くないちょう長官ちょうかん宇佐美うさみあつしは、テニスいちでそれ以上いじょう交際こうさいはなく、「世上せじょう一昨年いっさくねんあたりから軽井沢かるいざわ恋愛れんあいはじまったというようなことがつたえられますが、その事実じじつまったくございません」、「世上せじょうつたわるようなうわついた態度たいどというものは、わたしどもは実際じっさいにおいて全然ぜんぜんみとめすることはできません」と答弁とうべんし、報道ほうどうされている「自由じゆう恋愛れんあい」は、事実じじつはんする誤報ごほうであったと明確めいかく否定ひていしている。
  2. ^ 日本にっぽん財団ざいだん図書館としょかん電子でんし図書館としょかんわたしはこうかんがえる【天皇てんのうせいについて】: 「殿下でんかの『恋愛れんあい』の現代げんだいてき意義いぎ(『THIS IS 読売よみうり1993ねん7がつごう
  3. ^ 一方いっぽうで、こうじゅん皇后こうごう梨本なしもと伊都子いつこ秩父宮ちちぶのみや勢津子せつこ松平まつだいら信子のぶこきゅう華族かぞく出身しゅっしんしゃはこれをしとせず、てはそのけて右翼うよくうごかし、結婚けっこん反対はんたい運動うんどうこそうとしたものもいたという(入江いりえしょうせい日記にっきより)。
  4. ^ 日本にっぽん財団ざいだん図書館としょかん電子でんし図書館としょかんわたしはこうかんがえる【天皇てんのうせいについて】: 「しん天皇てんのうとともにひらく『平成へいせい」(1989ねん1がつ9にちづけ読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん
  5. ^ 宮内庁くないちょう: 「天皇誕生日てんのうたんじょうびきわする記者きしゃ会見かいけん」で「プライバシーをまもることは、他人たにん尊厳そんげんまもることであり大切たいせつなことです。また、プライバシーにかんするあやまった報道ほうどうは、これをただすことは非常ひじょうむずかしく、ときには、長期間ちょうきかんにわたってあやまった報道ほうどう社会しゃかいながれていくことになります」とべている(2001ねん12月18にち
  6. ^ 成婚せいこんブーム」(asahi.com:マイタウン東京とうきょう2005ねん11月20にち
  7. ^ 広告こうこく景気けいき年表ねんぴょう: 「1958ねん」(電通でんつう 消費しょうひしゃ情報じょうほうトレンドボックス 広告こうこく経済けいざい関連かんれんデータ)
    ファッション小史しょうし戦後せんご昭和しょうわ
  8. ^ 木村きむら傳兵衛でんべえ谷川たにがわ由布子ゆうこほか『新語しんご流行りゅうこう大全たいぜん 1945→2005 ことばの戦後せんご自由じゆう国民こくみんしゃ、2005ねん、84ぺーじISBN 4-426-11012-2 
  9. ^ 高橋たかはしろうミッチー・ブームと週刊しゅうかん」(『女性じょせい自身じしん草創そうそう編集へんしゅうしゃ自著じちょかたる」文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうほんはなし2006ねん2がつごう
  10. ^ 鴨居かもい下着したぎぶんかろん 解放かいほうされた下着したぎとその下着したぎかん』凡凡しゃ1958ねん[1]
  11. ^ 高度こうど成長せいちょう時代じだい」(藤川ふじかわHP > 戦後せんご日本にっぽん経済けいざい
  12. ^ 理想りそう女性じょせい 美智子みちこさまArchived 2006ねん5がつ22にち, at the Wayback Machine.(『婦人ふじんほう2006ねん4がつごう
  13. ^ 教室きょうしつとともにのこおも」ページ末尾まつび参照さんしょう
  14. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん日本国にっぽんこく憲法けんぽう誕生たんじょう論点ろんてん1 国民こくみん主権しゅけん天皇てんのうせい」4 日本にっぽん政府せいふあん作成さくせい帝国ていこく議会ぎかい審議しんぎ
  15. ^ asahi.com 「be on Saturday > entertainment」: 「『サザエさんをさがして』親類しんるいからセレブになった皇室こうしつ」(2005ねん1がつ8にち)は、長谷川はせがわ町子まちこ4コマ漫画まんがサザエさん」のテーマとして皇室こうしつげてきた変遷へんせん辿たど記事きじ。このなかでミッチー・ブームをさかいとして、国民こくみん皇室こうしつかんおおきく変化へんかしたとする古川ふるかわ隆久たかひさ分析ぶんせき紹介しょうかいしている。古川ふるかわせつによれば、ミッチー・ブームは、皇室こうしつがいわば国民こくみんいちにんひとりの身内みうちのようなきんかんのある存在そんざいから、セレブリティへと変貌へんぼうげる転換てんかんてんだったことになる

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]