1862年 ねん 12月、開業 かいぎょう の前月 ぜんげつ のイラストレイテド・ロンドン・ニュース から、メトロポリタン鉄道 てつどう の各駅 かくえき のモンタージュ
メトロポリタン鉄道 てつどう (メトロポリタンてつどう、英語 えいご : Metropolitan Railway 、単 たん にMet とも)は、ロンドン で1863年 ねん から1933年 ねん まで運行 うんこう されていた旅客 りょかく ・貨物 かもつ 鉄道 てつどう である。その北 きた へ伸 の びる本線 ほんせん は、経済 けいざい 的 てき な中心 ちゅうしん 地 ち であるシティ・オブ・ロンドン から後 のち にミドルセックス州 しゅう の郊外 こうがい となる地域 ちいき を結 むす んでいた。最初 さいしょ の路線 ろせん は本線 ほんせん 鉄道 てつどう のターミナル駅 えき である、パディントン駅 えき やユーストン駅 えき 、キングス・クロス駅 えき をシティと結 むす ぶものであった。鉄道 てつどう は、ニューロード (英語 えいご 版 ばん ) の下 した をパディントンからキングス・クロスまで開削 かいさく 工法 こうほう で、そしてファリンドンロード (英語 えいご 版 ばん ) の脇 わき をキングス・クロスからシティに近 ちか いスミスフィールド までトンネル と切通 きりどお し で建設 けんせつ された。この路線 ろせん が1863年 ねん 1月 がつ 10日 とおか に開通 かいつう した際 さい には、蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ がガス灯 がすとう を灯 とも した木造 もくぞう 客車 きゃくしゃ を牽 ひ いており、世界 せかい 最初 さいしょ の地下鉄 ちかてつ であった。
この鉄道 てつどう はその後 ご すぐに両 りょう 端 はし から、そしてベイカー・ストリート駅 えき から分岐 ぶんき して北 きた へ延長 えんちょう された。ハマースミス駅 えき まで1864年 ねん に、リッチモンド駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) まで1877年 ねん に、そしてサークル線 せん が1884年 ねん に完成 かんせい したが、もっとも重要 じゅうよう な路線 ろせん は北 きた のミドルセックス州 しゅう の郊外 こうがい へ通 つう じる路線 ろせん で、新 あたら しく郊外 こうがい の開発 かいはつ を促 うなが すことになった。ハーロー・オン・ザ・ヒル駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) へは1880年 ねん に到達 とうたつ し、さらに路線 ろせん は最終 さいしゅう 的 てき にバッキンガムシャー のバーニー・ジャンクション駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) まで到達 とうたつ したが、ここはロンドンの中心 ちゅうしん のベイカー・ストリート駅 えき からは50マイル (80 km )以上 いじょう 離 はな れた場所 ばしょ であった。
1905年 ねん に電化 でんか が始 はじ まり、1907年 ねん にはほとんどの運行 うんこう に電車 でんしゃ が用 もち いられるようになったが、路線 ろせん 網 もう の外側 そとがわ では電化 でんか は数 すう 十 じゅう 年 ねん あとまでかかった。ロンドン地区 ちく における他 た の鉄道 てつどう 会社 かいしゃ と異 こと なり、メトロポリタン鉄道 てつどう は住宅 じゅうたく 開発 かいはつ を行 おこな い、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 こう 沿線 えんせん の住宅 じゅうたく をメトロランド のブランドで販売 はんばい した。1933年 ねん 7月 がつ 1日 にち にメトロポリタン鉄道 てつどう はロンドン地下 ちか 電気 でんき 鉄道 てつどう の地下鉄 ちかてつ 網 もう 、ロンドンの路面 ろめん 電車 でんしゃ やバス などと合併 がっぺい してロンドン旅客 りょかく 運輸 うんゆ 公社 こうしゃ となった。
こんにち、かつてのメトロポリタン鉄道 てつどう の線路 せんろ と駅 えき は、ロンドン地下鉄 ちかてつ のメトロポリタン線 せん 、サークル線 せん 、ディストリクト線 せん 、ハマースミス&シティー線 せん 、ピカデリー線 せん 、ジュビリー線 せん およびチルターン・レイルウェイズ が使用 しよう している。
メトロポリタン鉄道 てつどう の略称 りゃくしょう である「Metro」は、「Tube」「Underground」を使 つか うロンドン、「Subway」を使 つか うアメリカ以外 いがい の多 おお くの国 くに の言葉 ことば で、「地下鉄 ちかてつ 」の意味 いみ として定着 ていちゃく している[2] 。
パディントンからシティへ、1853年 ねん - 1863年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
ロンドン地下鉄 ちかてつ の提唱 ていしょう 者 しゃ 、チャールズ・ピアソン
19世紀 せいき 前半 ぜんはん には、ロンドンの人口 じんこう と都市 とし の広 ひろ さは非常 ひじょう に拡大 かくだい していた[note 1] 。住民 じゅうみん が増加 ぞうか し、そして毎日 まいにち 列車 れっしゃ で通勤 つうきん する人 ひと も増 ふ えたことから、道路 どうろ 上 じょう は大変 たいへん な数 かず の荷車 にぐるま や馬車 ばしゃ で埋 う め尽 つ くされ膨大 ぼうだい な交通 こうつう 量 りょう となり、ロンドンの経済 けいざい 的 てき な中心 ちゅうしん であるシティ・オブ・ロンドンに毎日 まいにち 徒歩 とほ で入 はい る人 ひと も20万 まん 人 にん に達 たっ していた。1850年 ねん までには、ロンドン都心 としん の周辺 しゅうへん 部 ぶ に7つの鉄道 てつどう のターミナル駅 えき が存在 そんざい していた。南側 みなみがわ にはロンドン・ブリッジ駅 えき 、ウォータールー駅 えき 、東側 ひがしがわ にはビショップスゲート駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、フェンチャーチ・ストリート駅 えき 、北側 きたがわ にはユーストン駅 えき 、キングス・クロス駅 えき 、西側 にしがわ にはパディントン駅 えき である。フェンチャーチ・ストリート駅 えき のみがシティ・オブ・ロンドンの範囲 はんい 内 ない にあった。
道路 どうろ が混雑 こんざつ しており、またシティから北 きた や西 にし の駅 えき までの距離 きょり があったことから、シティへ通 つう じる新 あたら しい鉄道 てつどう 路線 ろせん を建設 けんせつ する議会 ぎかい 承認 しょうにん を得 え ようとする多 おお くの試 こころ みがなされた。しかしどれも承認 しょうにん を得 え られず、1846年 ねん には首都 しゅと の鉄道 てつどう ターミナルの調査 ちょうさ を行 おこな った王立 おうりつ 委員 いいん 会 かい が、既 すで に建設 けんせつ の進 すす んだ都心 としん 部 ぶ における新 あら たな路線 ろせん や駅 えき の建設 けんせつ を禁 きん じた[7] [note 2] 。シティ・オブ・ロンドンと鉄道 てつどう のターミナル駅 えき を結 むす ぶ地下鉄 ちかてつ 道 どう という考 かんが え方 かた は、1830年代 ねんだい に最初 さいしょ に提案 ていあん されていた。シティ・オブ・ロンドンで事務 じむ 弁護士 べんごし をしていたチャールズ・ピアソン は、いくつかの提案 ていあん における主導 しゅどう 者 しゃ となっており、1846年 ねん には複数 ふくすう の鉄道 てつどう 会社 かいしゃ が共同 きょうどう 利用 りよう する中央 ちゅうおう 駅 えき を提案 ていあん した[8] 。この提案 ていあん は1846年 ねん に王立 おうりつ 委員 いいん 会 かい により却下 きゃっか されたが、1852年 ねん にピアソンは、ファリンドンからキングス・クロスまでを結 むす ぶそうした鉄道 てつどう を建設 けんせつ するためのシティ・ターミナス会社 かいしゃ (City Terminus Company ) の設立 せつりつ を支援 しえん することで、これを再 さい 提案 ていあん した。この計画 けいかく はシティ・オブ・ロンドンには支持 しじ されたが、他 た の鉄道 てつどう 会社 かいしゃ は関心 かんしん が無 な く、会社 かいしゃ は計画 けいかく を進 すす めるのに苦労 くろう することになった。
ベイズウォーター・パディントン・アンド・ホルボーン・ブリッジ鉄道 てつどう (Bayswater, Paddington and Holborn Bridge Railway Company ) は、グレート・ウェスタン鉄道 てつどう のパディントン駅 えき からピアソンの提唱 ていしょう 路線 ろせん にあるキングス・クロス駅 えき までを結 むす ぶために設立 せつりつ された[note 3] 。法案 ほうあん は1852年 ねん 11月に提出 ていしゅつ され[10] 、1853年 ねん 1月 がつ に初 はじ めての取締役 とりしまりやく 会 かい が開 ひら かれてジョン・ファウラー を技術 ぎじゅつ 者 しゃ に指名 しめい した。政界 せいかい への工作 こうさく が成功 せいこう し、会社 かいしゃ は1853年 ねん 夏 なつ にノース・メトロポリタン鉄道 てつどう (North Metropolitan Railway ) という名 な で議会 ぎかい 承認 しょうにん を受 う けた。一方 いっぽう シティ・ターミナス会社 かいしゃ が提出 ていしゅつ した法案 ほうあん は議会 ぎかい で否決 ひけつ されてしまい、これはノース・メトロポリタン鉄道 てつどう がシティへ到達 とうたつ することができなくなることを意味 いみ した。この問題 もんだい を解決 かいけつ するために、ノース・メトロポリタン鉄道 てつどう はシティ・ターミナス会社 かいしゃ を合併 がっぺい の上 うえ で、1853年 ねん 11月に法案 ほうあん を再 さい 提出 ていしゅつ した。この法案 ほうあん では都心 としん の中央 ちゅうおう 駅 えき の計画 けいかく を削 けず り、また路線 ろせん をファリンドンより南 みなみ へセント・マーティンズ・ル・グランド (英語 えいご 版 ばん ) にある郵政省 ゆうせいしょう 本部 ほんぶ (英語 えいご 版 ばん ) 前 まえ まで延長 えんちょう した。また路線 ろせん の西側 にしがわ の端 はし も、グレート・ウェスタン鉄道 てつどう の駅 えき により直接的 ちょくせつてき に接続 せつぞく できるように修正 しゅうせい された。またロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) とユーストン駅 えき で、グレート・ノーザン鉄道 てつどう とキングス・クロス駅 えき で接続 せつぞく する許可 きょか も求 もと めていた。キングス・クロスでの接続 せつぞく はホイストとリフトによることになっていた。会社 かいしゃ の名前 なまえ は再 さい 変更 へんこう され、今回 こんかい はメトロポリタン鉄道 てつどう となった[13] 。ノース・メトロポリタン鉄道 てつどう 法 ほう は、1854年 ねん 8月 がつ 7日 にち に国王 こくおう 裁可 さいか を受 う けた[14] 。
メトロポリタン鉄道 てつどう のキングス・クロス駅 えき までの建設 けんせつ の様子 ようす 、1861年 ねん
この鉄道 てつどう の建設 けんせつ には100万 まん ポンド を要 よう すると見積 みつ もられた。クリミア戦争 せんそう の最中 さいちゅう であったため、当初 とうしょ は資金 しきん を集 あつ めることが困難 こんなん であった。資金 しきん 調達 ちょうたつ を試 こころ みながら、会社 かいしゃ は工事 こうじ 期間 きかん の延長 えんちょう を求 もと める新 しん 法案 ほうあん を議会 ぎかい に提出 ていしゅつ した[note 4] 。1855年 ねん 7月 がつ に、キングス・クロス駅 えき でグレート・ノーザン鉄道 てつどう と直接 ちょくせつ 接続 せつぞく するようにする法律 ほうりつ が国王 こくおう 裁可 さいか を得 え た。計画 けいかく は1856年 ねん のメトロポリタン(グレート・ノーザン支線 しせん および修正 しゅうせい 条項 じょうこう )法 ほう で修正 しゅうせい され、さらに1860年 ねん のグレート・ノーザン・アンド・メトロポリタン・ジャンクション鉄道 てつどう 法 ほう でも修正 しゅうせい された。
グレート・ウェスタン鉄道 てつどう は175,000ポンドの出資 しゅっし に同意 どうい し、ほぼ同額 どうがく の出資 しゅっし をグレート・ノーザン鉄道 てつどう が約束 やくそく したものの、1857年 ねん 末 まつ になっても着工 ちゃっこう できるだけの十分 じゅうぶん な資金 しきん は集 あつ まっていなかった。グレート・ウェスタン鉄道 てつどう の駅 えき に直接 ちょくせつ 接続 せつぞく しなくなってしまうが、西側 にしがわ の端 はし の路線 ろせん を一部 いちぶ 縮小 しゅくしょう し、さらにファリンドンより南 みなみ の部分 ぶぶん を省略 しょうりゃく して費用 ひよう を節減 せつげん した[note 5] 。1858年 ねん にピアソンは、メトロポリタン鉄道 てつどう とシティ・オブ・ロンドンの間 あいだ で、新 あたら しいファリンドン・ロード周辺 しゅうへん で鉄道 てつどう 会社 かいしゃ が必要 ひつよう としている土地 とち をシティから179,000ポンドで購入 こうにゅう し、一方 いっぽう シティは鉄道 てつどう 会社 かいしゃ の株 かぶ を200,000ポンド購入 こうにゅう するという契約 けいやく をまとめた[note 6] 。路線 ろせん の変更 へんこう は1859年 ねん 8月 がつ に議会 ぎかい 承認 しょうにん を受 う け、これによりついに会社 かいしゃ は建設 けんせつ すべき路線 ろせん に見合 みあ った資金 しきん 調達 ちょうたつ が完了 かんりょう して着工 ちゃっこう できることになった。
ファリンドン付近 ふきん のメトロポリタン鉄道 てつどう の切 き り取 と り区間 くかん 、1852年 ねん 6月 がつ のフリート川 かわ 暗渠 あんきょ からの洪水 こうずい の直後 ちょくご
地下 ちか を掘削 くっさく し、また振動 しんどう が発生 はっせい することにより、近 ちか くの建物 たてもの が沈下 ちんか してしまうのではないかという懸念 けねん があり、またトンネル掘削 くっさく 中 ちゅう に数 すう 千 せん 人 にん の家 いえ を取 と り壊 こわ してその補償 ほしょう をしなければならなかったが、建設 けんせつ は1860年 ねん 3月 がつ に開始 かいし された。この新 あたら しい鉄道 てつどう はパディントンからキングス・クロスまで、ほとんどが開削 かいさく 工法 こうほう により建設 けんせつ された。キングス・クロスから東 ひがし では、路線 ろせん はマウント・プレザントおよびクラーケンウェルの下 した を728ヤード (約 やく 666 m )のトンネルで通過 つうか し、そこから暗渠 あんきょ 化 か されたフリート川 かわ に沿 そ ってファリンドン・ロードの脇 わき をスミスフィールドにある新 あたら しい肉 にく 市場 いちば まで切通 きりどお しで通 とお った。
トンネルを通 とお すために掘 ほ られた溝 みぞ は幅 はば が33フィート 6インチ (約 やく 10.2 m )あり、その中 なか に煉瓦 れんが 製 せい の擁 よう 壁 かべ が構築 こうちく されて、それが28フィート6インチ(約 やく 8.7 m)幅 はば の楕円 だえん 形 かたち の煉瓦 れんが アーチあるいは鉄製 てつせい ガーダーの天井 てんじょう を支 ささ えた。トンネルは駅 えき の部分 ぶぶん ではプラットホーム を収容 しゅうよう するためにより幅 はば が広 ひろ くなっていた。原始 げんし 的 てき なベルトコンベア を利用 りよう した土砂 どしゃ 運搬 うんぱん 装置 そうち が掘削 くっさく 土砂 どしゃ を溝 みぞ から運 はこ び出 だ すために使 つか われたものの、土砂 どしゃ の掘削 くっさく 作業 さぎょう のほとんどはナヴィ (英語 えいご 版 ばん ) (土木 どぼく 工事 こうじ に携 たずさ わる作業 さぎょう 員 いん )によって手作業 てさぎょう で行 おこな われた[note 7] 。
トンネル内 ない では、複線 ふくせん の軌道 きどう が6フィート(約 やく 1.8 m)の間隔 かんかく で敷設 ふせつ された。グレート・ノーザン鉄道 てつどう の標準軌 ひょうじゅんき の列車 れっしゃ と、グレート・ウェスタン鉄道 てつどう の広軌 こうき の列車 れっしゃ の両方 りょうほう を走 はし らせるため、軌道 きどう は三 さん 線 せん 軌条 きじょう 方式 ほうしき で敷設 ふせつ され、プラットホームにもっとも近 ちか いレール を双方 そうほう の軌間 きかん の列車 れっしゃ が共用 きょうよう した。信号 しんごう 装置 そうち は、スパニョレッティ電気 でんき 閉塞 へいそく 装置 そうち と常置 じょうち 信号 しんごう 機 き を用 もち いた固定 こてい 閉塞 へいそく 方式 ほうしき が採用 さいよう された。
建設 けんせつ 工事 こうじ 中 ちゅう には事故 じこ も発生 はっせい した。1860年 ねん 5月 がつ には、グレート・ノーザン鉄道 てつどう の本線 ほんせん の列車 れっしゃ がキングス・クロス駅 えき にてプラットホームをオーバーランし、工事 こうじ 現場 げんば に転落 てんらく した。その年 とし の後半 こうはん には、工事 こうじ 業者 ぎょうしゃ の貨車 かしゃ を牽引 けんいん していた機関 きかん 車 しゃ のボイラーが破裂 はれつ し、機関 きかん 士 し と機関 きかん 助士 じょし が死亡 しぼう した。1861年 ねん 5月 がつ には、ユーストンにおいて掘削 くっさく 現場 げんば が崩落 ほうらく し、近隣 きんりん の建物 たてもの にかなりの被害 ひがい を与 あた えた。最後 さいご の事故 じこ は1862年 ねん 6月 がつ に起 お き、集中 しゅうちゅう 豪雨 ごうう によりフリート川 かわ の暗渠 あんきょ が溢 あふ れて、掘削 くっさく した溝 みぞ に水 みず が流 なが れ込 こ んだ。メトロポリタン鉄道 てつどう と首都 しゅと 土木 どぼく 委員 いいん 会 かい はどうにか水 みず を食 く い止 と め、水 みず を他 た に流 なが すことに成功 せいこう し、工事 こうじ は2 - 3か月 げつ ほど遅 おく れるだけで済 す んだ。
建設 けんせつ 工事 こうじ がまだ行 おこな われていた1861年 ねん 11月から試運転 しうんてん が行 おこな われた。全線 ぜんせん を通 とお しての初 はじ めての運転 うんてん は1862年 ねん 5月 がつ に行 おこな われ、この時 とき の乗客 じょうきゃく の1人 ひとり にウィリアム・グラッドストン がいた。1862年 ねん 末 まつ までに工事 こうじ は完成 かんせい し、その費用 ひよう は合計 ごうけい 130万 まん ポンドに達 たっ した[note 8] 。
商務省 しょうむしょう による検査 けんさ が1862年 ねん 12月 がつ 末 まつ に行 おこな われ、1863年 ねん 1月 がつ 初 はじ めに開通 かいつう が承認 しょうにん された。信号 しんごう 設備 せつび のわずかな変更 へんこう が行 おこな われてそれも承認 しょうにん され、数日 すうじつ に渡 わた って運行 うんこう 試験 しけん が行 おこな われて1863年 ねん 1月 がつ 9日 にち の開通 かいつう を迎 むか えることになった。この日 ひ にはパディントンからの開通 かいつう 記念 きねん 列車 れっしゃ が走 はし り、ファリンドン駅 えき では600人 にん の株主 かぶぬし と来賓 らいひん のための大 おお きな宴会 えんかい が開 ひら かれた。チャールズ・ピアソンは1862年 ねん 9月 がつ に亡 な くなっており、鉄道 てつどう が開通 かいつう するのを見 み ることはできなかった。
1863年 ねん の開通 かいつう 当時 とうじ の鉄道 てつどう
この全長 ぜんちょう 3.75マイル (約 やく 6 km )の路線 ろせん は、翌 よく 1863年 ねん 1月 がつ 10日 にち 土曜日 どようび から一般 いっぱん 営業 えいぎょう を開始 かいし した。駅 えき はパディントン(ビショップス・ロード)駅 えき (現在 げんざい のパディントン駅 えき )、エッジウェア・ロード駅 えき 、ベイカー・ストリート駅 えき 、ポートランド・ロード駅 えき (現在 げんざい のグレート・ポートランド・ストリート駅 えき )、ガワー・ストリート駅 えき (現在 げんざい のユーストン・スクエア駅 えき )、キングス・クロス駅 えき (現在 げんざい のキングス・クロス・セント・パンクラス駅 えき )、ファリンドン・ストリート駅 えき (現在 げんざい のファリンドン駅 えき )があった。
鉄道 てつどう は歓迎 かんげい されて成功 せいこう し、初日 しょにち には38,000人 にん の乗客 じょうきゃく を輸送 ゆそう して、グレート・ノーザン鉄道 てつどう の列車 れっしゃ を利用 りよう して臨時 りんじ 列車 れっしゃ が運転 うんてん された。最初 さいしょ の12か月 げつ で950万 まん 人 にん の旅客 りょかく を輸送 ゆそう し、さらにその次 つぎ の12か月 げつ では1200万 まん 人 にん へと増加 ぞうか した。
当初 とうしょ の時刻 じこく 表 ひょう では、途中 とちゅう の5駅 えき に停車 ていしゃ して所要 しょよう 時間 じかん 18分 ふん であった。昼間 ひるま 閑散 かんさん 時間 じかん 帯 たい の運行 うんこう 頻度 ひんど は15分 ふん おきで、朝 あさ のラッシュ時 じ には10分 ふん おきに増発 ぞうはつ され、早朝 そうちょう と20時 じ 以降 いこう は20分 ふん おきに減 へ らされた。1864年 ねん 5月 がつ からは、パディントンから朝 あさ の5時 じ 30分 ふん および5時 じ 40分 ふん に出 で る列車 れっしゃ については労働 ろうどう 者 しゃ 向 む けの割引 わりびき 往復 おうふく 乗車 じょうしゃ 券 けん が片道 かたみち 乗車 じょうしゃ 券 けん と同 おな じ3ペンス で発売 はつばい された。
当初 とうしょ は、メトロポリタン鉄道 てつどう ではグレート・ウェスタン鉄道 てつどう から提供 ていきょう されたグレート・ウェスタン鉄道 てつどう メトロポリタン型 がた 蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) を使 つか って広軌 こうき の車両 しゃりょう で運転 うんてん が行 おこな われていた。開通 かいつう から間 あいだ もなく、運行 うんこう 頻度 ひんど を増加 ぞうか させる必要 ひつよう 性 せい を巡 めぐ って2社 しゃ の間 あいだ で見解 けんかい の相違 そうい が起 お こり、1863年 ねん 8月 がつ にグレート・ウェスタン鉄道 てつどう は車両 しゃりょう を引 ひ き上 あ げることになった。メトロポリタン鉄道 てつどう では、グレート・ノーザン鉄道 てつどう の標準軌 ひょうじゅんき の鉄道 てつどう 車両 しゃりょう を一時 いちじ 的 てき に借 か り受 う けて運行 うんこう 頻度 ひんど を落 お として運行 うんこう を行 おこな い、その後 ご 自社 じしゃ で標準軌 ひょうじゅんき の機関 きかん 車 しゃ と客車 きゃくしゃ を購入 こうにゅう した[note 9] 。
煙 けむり を出 だ さない機関 きかん 車 しゃ で運転 うんてん されると考 かんが えていたため、エッジウェア・ロードからキングス・クロスまでは長 なが いトンネルもあるなど、最初 さいしょ の区間 くかん はあまり換気 かんき を行 おこな わない構造 こうぞう で建設 けんせつ された。駅 えき や客車 きゃくしゃ には煙 けむり が充満 じゅうまん していたが、当初 とうしょ はそれでも乗客 じょうきゃく が減 へ るということは無 な かった。後 のち にキングス・クロスとガワー・ストリートの間 あいだ のトンネルに開放 かいほう 部 ぶ を設 もう けたり、駅 えき の天井 てんじょう のガラスを取 と り外 はず したりして、換気 かんき が改善 かいぜん された。煙 けむり の問題 もんだい は1880年代 ねんだい になってからも続 つづ いたため、さらにトンネルの開放 かいほう 部 ぶ を増 ふ やしたいメトロポリタン鉄道 てつどう と、そうすれば馬 うま を驚 おどろ かせ周辺 しゅうへん の地価 ちか を下 さ げると主張 しゅちょう する地元 じもと の当局 とうきょく との間 あいだ で論争 ろんそう になった。この結果 けっか 1897年 ねん の商務省 しょうむしょう 報告 ほうこく では[note 10] 、メトロポリタン鉄道 てつどう を利用 りよう して疲弊 ひへい した人々 ひとびと に薬剤師 やくざいし が「メトロポリタン処方 しょほう 」という薬剤 やくざい を処方 しょほう している、と報告 ほうこく された。この報告 ほうこく では、もっと多 おお くの開放 かいほう 部 ぶ の設置 せっち が認 みと められるべきだとしたが、実際 じっさい に建設 けんせつ される前 まえ に電化 でんか されることになった。
延伸 えんしん 工事 こうじ とインナー・サークル、1863年 ねん - 1884年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
ファリンドンからムーアゲートとシティ・ワイドンド線 せん [ 編集 へんしゅう ]
キングス・クロスとムーアゲート・ストリートの間 あいだ のシティ・ワイドンド線 せん とその接続 せつぞく 線 せん 、東側 ひがしがわ のロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道 てつどう へのカーブは1871年 ねん に開通 かいつう し、スノー・ヒル駅 えき は1874年 ねん に開業 かいぎょう した
建設 けんせつ 中 ちゅう のグレート・ウェスタン鉄道 てつどう およびグレート・ノーザン鉄道 てつどう への接続 せつぞく 線 せん に加 くわ えて、ミッドランド鉄道 てつどう およびロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) への接続 せつぞく 線 せん も計画 けいかく され、メトロポリタン鉄道 てつどう は1861年 ねん および1864年 ねん [note 11] にムーアゲートにある新 あたら しいターミナルまで東 ひがし へ4線 せん での延長 えんちょう と、キングス・クロス駅 えき からファリンドン・ストリート駅 えき までの2本 ほん の追加 ついか 線路 せんろ を認 みと められた[44] [45] 。メトロポリタン鉄道 てつどう はこのうち2本 ほん の線路 せんろ を自社 じしゃ の運行 うんこう に使用 しよう し、残 のこ りの2本 ほん は主 おも に他 た の鉄道 てつどう 会社 かいしゃ によって使用 しよう されて、シティ・ワイドンド線 せん として知 し られるようになった。
キングス・クロス駅 えき でグレート・ノーザン鉄道 てつどう とメトロポリタン鉄道 てつどう をつなぐ単線 たんせん トンネル2本 ほん は1863年 ねん 10月 がつ 1日 にち に、地上 ちじょう の鉄道 てつどう 会社 かいしゃ 側 がわ の運行 うんこう で旅客 りょかく 営業 えいぎょう が開始 かいし され[note 12] 、同日 どうじつ グレート・ウェスタン鉄道 てつどう もウィンザーなどからの郊外 こうがい 列車 れっしゃ の直通 ちょくつう 運転 うんてん を始 はじ めた。1864年 ねん の秋 あき の初 はじ めには、メトロポリタン鉄道 てつどう は自社 じしゃ の列車 れっしゃ を営業 えいぎょう するのに十分 じゅうぶん な機関 きかん 車 しゃ と車両 しゃりょう を調達 ちょうたつ し、運行 うんこう 頻度 ひんど を1時 じ 間 あいだ に6本 ほん まで増加 ぞうか させた。
1866年 ねん 1月 がつ 1日 にち に、ロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道 てつどう とグレート・ノーザン鉄道 てつどう の共同 きょうどう 運行 うんこう で、ブラックフライアーズ・ブリッジ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) からスミスフィールド市場 いちば の下 した のスノー・ヒルトンネル (英語 えいご 版 ばん ) を通 とお ってファリンドン駅 えき へ、さらに北 きた へグレート・ノーザン鉄道 てつどう への運行 うんこう を開始 かいし した。アルダースゲート・ストリート駅 えき およびムーアゲート・ストリート駅 えき (それぞれ現在 げんざい のバービカン駅 えき およびムーアゲート駅 えき )までの延長 えんちょう は1865年 ねん 12月23日 にち に開通 かいつう し、4線 せん すべては1866年 ねん 3月 がつ 1日 にち に開通 かいつう した。
キングス・クロス駅 えき からファリンドン・ストリート駅 えき までの新 あたら しい線路 せんろ は、まず1868年 ねん 1月 がつ 27日 にち にグレート・ノーザン鉄道 てつどう の貨物 かもつ 列車 れっしゃ が使用 しよう した。ミッドランド鉄道 てつどう との分岐 ぶんき 点 てん は1868年 ねん 7月 がつ 13日 にち に開業 かいぎょう し、ミッドランド鉄道 てつどう 自身 じしん のセント・パンクラス駅 えき が開業 かいぎょう するよりも前 まえ にムーアゲート・ストリート駅 えき までの列車 れっしゃ が運行 うんこう を開始 かいし した。この線路 せんろ は、ミッドランド鉄道 てつどう 本線 ほんせん のセント・ポールズ・ロードジャンクションで分岐 ぶんき し、複線 ふくせん のトンネルに入 はい ってミッドランドジャンクションにおいてワイドンド線 せん に連絡 れんらく する。
ハマースミス&シティー鉄道 てつどう [ 編集 へんしゅう ]
開通 かいつう から10年 ねん 後 ご 、1873年 ねん 時点 じてん のメトロポリタン鉄道 てつどう 、やはりメトロポリタン鉄道 てつどう が運行 うんこう していたベイカー・ストリート駅 えき からスイス・コテージ駅 えき までのメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 てつどう も示 しめ す
1860年 ねん 11月にメトロポリタン鉄道 てつどう とグレート・ウェスタン鉄道 てつどう によって、グレート・ウェスタン鉄道 てつどう のパディントン駅 えき から1マイル西 にし から、発展 はってん しつつある郊外 こうがい であるシェパーズ・ブッシュ やハマースミス へ、そしてラティマー・ロードにおいてウェスト・ロンドン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) へ接続 せつぞく する鉄道 てつどう の法案 ほうあん [note 13] が議会 ぎかい に提出 ていしゅつ された。ハマースミス・アンド・シティ鉄道 てつどう として1861年 ねん 7月 がつ 22日 にち に承認 しょうにん され[57] 、2マイル35チェーン (約 やく 3.9 km)の路線 ろせん はおおむね野原 のはら の中 なか を20フィート(約 やく 6.1 m)の高 たか さの高架 こうか 橋 きょう で建設 けんせつ され、1864年 ねん 6月 がつ 13日 にち にグレート・ウェスタン鉄道 てつどう の広軌 こうき の列車 れっしゃ がファリンドン・ストリート駅 えき から運行 うんこう を開始 かいし した。駅 えき はノッティング・ヒル駅 えき (現在 げんざい のラドブローク・グローブ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) )、シェパーズ・ブッシュ駅 えき (1914年 ねん に現在 げんざい のシェパーズ・ブッシュ・マーケット駅 えき に移転 いてん )、そしてハマースミス駅 えき である。ウェスト・ロンドン鉄道 てつどう への連絡 れんらく 線 せん は同年 どうねん 7月 がつ 1日 にち に開通 かいつう し、ノッティング・ヒル駅 えき において連結 れんけつ ・解放 かいほう された車両 しゃりょう によりケンジントン駅 えき (現在 げんざい のケンジントン・オリンピア駅 えき )まで運行 うんこう された。メトロポリタン鉄道 てつどう とグレート・ウェスタン鉄道 てつどう の合意 ごうい を受 う けて、1865年 ねん からはメトロポリタン鉄道 てつどう が標準軌 ひょうじゅんき の列車 れっしゃ をハマースミス駅 えき へ、グレート・ウェスタン鉄道 てつどう が広軌 こうき の列車 れっしゃ をケンジントン駅 えき へ運行 うんこう するようになった。1867年 ねん にハマースミス・アンド・シティ鉄道 てつどう は両社 りょうしゃ の共同 きょうどう 所有 しょゆう となった。グレート・ウェスタン鉄道 てつどう は標準軌 ひょうじゅんき の列車 れっしゃ の運行 うんこう を始 はじ め、1869年 ねん にハマースミス・アンド・シティ鉄道 てつどう およびメトロポリタン鉄道 てつどう から広軌 こうき 用 よう のレールが撤去 てっきょ された。1871年 ねん にグレート・ウェスタン鉄道 てつどう に沿 そ ってウェストボーン・パーク駅 えき からパディントン駅 えき まで2本 ほん の追加 ついか 線路 せんろ がハマースミス・アンド・シティ鉄道 てつどう 用 よう に使用 しよう 開始 かいし され、1878年 ねん にはウェストボーン・パーク駅 えき の平面 へいめん 交差 こうさ が立体 りったい 交差 こうさ に置 お き換 か えられた。ハマースミス・アンド・シティ鉄道 てつどう にさらなる駅 えき として、ウェストボーン・パーク駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) (1866年 ねん )、ラティマー・ロード駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) (1868年 ねん )、ロイヤル・オーク駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) (1871年 ねん )、ウッドレーン駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) (1908年 ねん )、ゴールドホーク・ロード駅 えき (1914年 ねん )と開業 かいぎょう した。1869年 ねん にはウェスト・ロンドン鉄道 てつどう にアクスブリッジ・ロード駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) が開業 かいぎょう している。
1877年 ねん 10月 がつ 1日 にち から1906年 ねん 12月31日 にち までの間 あいだ 、ハマースミス支線 しせん の列車 れっしゃ の一部 いちぶ がロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) の線路 せんろ を走 はし って、そのハマースミス(グローブ・ロード)駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) を経由 けいゆ してリッチモンド駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) まで延長 えんちょう されていた[note 14] 。
メトロポリタン鉄道 てつどう の初期 しょき の成功 せいこう により、1863年 ねん にはロンドンにおいて新 あたら しい鉄道 てつどう を敷設 ふせつ しようとする申請 しんせい が議会 ぎかい に殺到 さっとう し、その多 おお くが似 に たような経路 けいろ で競合 きょうごう するものであった。最良 さいりょう の提案 ていあん を判断 はんだん するために、貴族 きぞく 院 いん は特別 とくべつ 委員 いいん 会 かい を設置 せっち し、委員 いいん 会 かい は1863年 ねん 7月 がつ に「実際 じっさい に接続 せつぞく しないのであれば、首都 しゅと の主要 しゅよう な鉄道 てつどう ターミナルのほぼすべてに沿 そ って内側 うちがわ を環状 かんじょう に結 むす ぶ鉄道 てつどう 」を推薦 すいせん する報告 ほうこく を行 おこな った。1864年 ねん の議会 ぎかい には、経路 けいろ が異 こと なるもののおおむね推薦 すいせん に沿 そ った多 おお くの鉄道 てつどう の提案 ていあん が出 だ され、上下 じょうげ 両院 りょういん 議員 ぎいん で構成 こうせい される合同 ごうどう 委員 いいん 会 かい が設置 せっち されて計画 けいかく を審査 しんさ した[note 15] 。
メトロポリタン鉄道 てつどう からの、パディントン駅 えき から西 にし へ、そこから南 みなみ へサウス・ケンジントン (英語 えいご 版 ばん ) まで、またムーアゲート駅 えき から東 ひがし へタワー・ヒル まで延長 えんちょう する提案 ていあん は、承認 しょうにん され1864年 ねん 7月 がつ 29日 にち に国王 こくおう 裁可 さいか を得 え た。環状 かんじょう 線 せん を完成 かんせい させるために、委員 いいん 会 かい ではケンジントンとシティの間 あいだ を異 こと なる経路 けいろ で建設 けんせつ する2つの提案 ていあん を合同 ごうどう させることを推奨 すいしょう し、合同 ごうどう した提案 ていあん は同日 どうじつ 、メトロポリタン・ディストリクト鉄道 てつどう (一般 いっぱん 的 てき にディストリクト鉄道 てつどう として知 し られる)として承認 しょうにん された[note 16] 。当初 とうしょ は、ディストリクト鉄道 てつどう とメトロポリタン鉄道 てつどう は緊密 きんみつ に連携 れんけい しており、すぐにも合併 がっぺい することが意図 いと されていた。メトロポリタン鉄道 てつどう の会長 かいちょう と3人 にん の取締役 とりしまりやく はディストリクト鉄道 てつどう の取締役 とりしまりやく でもあり、技術 ぎじゅつ 者 しゃ は両社 りょうしゃ ともジョン・ファウラーであり、また延長 えんちょう 区間 くかん のすべての工事 こうじ は1つの契約 けいやく となっていた。ディストリクト鉄道 てつどう は、メトロポリタン鉄道 てつどう とは独自 どくじ に資金 しきん を集 あつ められるようにするために、独立 どくりつ した会社 かいしゃ として設立 せつりつ された。
パディントン駅 えき 近 ちか くのプレイド・ストリートジャンクションでビショップス・ロードへ向 む かう進路 しんろ に入 はい るグレート・ウェスタン鉄道 てつどう の広軌 こうき の列車 れっしゃ 、この場所 ばしょ でノッティング・ヒルおよびブロンプトンへの延長線 えんちょうせん が当初 とうしょ の線 せん に合流 ごうりゅう する
西部 せいぶ の延長 えんちょう 区間 くかん は、メトロポリタン鉄道 てつどう の当初 とうしょ のパディントン駅 えき から少 すこ し東側 ひがしがわ の、プレイド・ストリートジャンクションから分岐 ぶんき して、ベイズウォーター 、ノッティング・ヒル 、ケンジントン などの高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく 地区 ちく を通 とお る。この地域 ちいき では地価 ちか が高 たか く、また当初 とうしょ の路線 ろせん と異 こと なりこちらの路線 ろせん では既存 きそん の道路 どうろ の下 した を通 とお るような簡単 かんたん な線形 せんけい ではなかった。支払 しはら う補償 ほしょう 金 きん はかなり高 たか いものとなった。ベイズウォーターのレンスター・ガーデンズ では、鉄道 てつどう が通過 つうか することで台地 だいち にできた溝 みぞ を隠 かく すために、23番地 ばんち と24番地 ばんち に2棟 むね の5階 かい 建 だ て建物 たてもの のファサードが建築 けんちく されている。この区間 くかん では適切 てきせつ な換気 かんき を確保 かくほ するために、路線 ろせん の多 おお くの区間 くかん が切通 きりどお しとなっているが、キャンプデン・ヒル (英語 えいご 版 ばん ) には421ヤード (385 m) のトンネルが掘 ほ られた。ディストリクト鉄道 てつどう の工事 こうじ はメトロポリタン鉄道 てつどう の工事 こうじ と並行 へいこう で進 すす められ、同様 どうよう に地価 ちか の高 たか い地域 ちいき を通過 つうか していた。建設 けんせつ 費 ひ と補償 ほしょう 費 ひ がとても高 たか かったことから、ディストリクト鉄道 てつどう の最初 さいしょ の区間 くかん であるサウス・ケンジントンからウェストミンスター までの費用 ひよう は300万 まん ポンドに達 たっ し、メトロポリタン鉄道 てつどう の当初 とうしょ のより長 なが い路線 ろせん に比 くら べてもほぼ3倍 ばい かかった。
メトロポリタン鉄道 てつどう の延長 えんちょう 区間 くかん のうち最初 さいしょ の区間 くかん としてブロンプトン まで1868年 ねん 10月 がつ 1日 にち に開通 かいつう し、駅 えき はパディントン(プレイド・ストリート)駅 えき (現在 げんざい のパディントン駅 えき )、ベイズウォーター駅 えき 、ノッティング・ヒル・ゲート駅 えき 、ケンジントン(ハイ・ストリート)駅 えき (現在 げんざい のハイ・ストリート・ケンジントン駅 えき )、ブロンプトン(グロスター・ロード)駅 えき (現在 げんざい のグロスター・ロード駅 えき )が設置 せっち された。3か月 げつ 後 ご の1868年 ねん 12月24日 にち に、メトロポリタン鉄道 てつどう はブロンプトンから東 ひがし へ延長 えんちょう してディストリクト鉄道 てつどう のサウス・ケンジントン駅 えき に乗 の り入 い れ、ディストリクト鉄道 てつどう はそこからウェストミンスターまで開通 かいつう して、サウス・ケンジントン駅 えき 、スローン・スクエア駅 えき 、ヴィクトリア駅 えき 、セント・ジェームズ・パーク駅 えき 、ウェストミンスター・ブリッジ駅 えき (現在 げんざい のウェストミンスター駅 えき )が開業 かいぎょう した。
ディストリクト鉄道 てつどう はさらにブロンプトン(グロスター・ロード)駅 えき から西 にし へ延長 えんちょう する許可 きょか を得 え て、1869年 ねん 4月 がつ 12日 にち にウェスト・ロンドン鉄道 てつどう のウェスト・ブロンプトン駅 えき まで単線 たんせん で開通 かいつう させた。途中 とちゅう 駅 えき はなく、当初 とうしょ はシャトル運転 うんてん が行 おこな われた。1869年 ねん 夏 なつ までには、サウス・ケンジントン駅 えき からブロンプトン(グロスター・ロード)駅 えき まで、そしてケンジントン(ハイ・ストリート)駅 えき から分岐 ぶんき 点 てん までとウェスト・ブロンプトン駅 えき への独立 どくりつ した線路 せんろ が敷設 ふせつ された。1870年 ねん 7月 がつ 5日 にち の夜 よる 、ディストリクト鉄道 てつどう はブロンプトン(グロスター・ロード)駅 えき とケンジントン(ハイ・ストリート)駅 えき を結 むす ぶ議論 ぎろん を呼 よ んだクロムウェル・カーブ (英語 えいご 版 ばん ) をひそかに建設 けんせつ した。
ウェストミンスターより東 ひがし では、ディストリクト鉄道 てつどう の次 つぎ の区間 くかん は首都 しゅと 土木 どぼく 委員 いいん 会 かい がテムズ川 がわ 北岸 ほくがん に沿 そ って新 あたら しく建設 けんせつ したヴィクトリア堤防 ていぼう (英語 えいご 版 ばん ) の上 うえ を走行 そうこう した。ウェストミンスター・ブリッジ駅 えき からブラックフライアーズ駅 えき までの区間 くかん は1870年 ねん 5月 がつ 30日 にち に開通 かいつう し、チャリング・クロス駅 えき (現在 げんざい のエンバンクメント駅 えき )、ザ・テンプル駅 えき (現在 げんざい のテンプル駅 えき )、ブラックフライアーズ駅 えき が開業 かいぎょう した。
その開業 かいぎょう 以来 いらい 、メトロポリタン鉄道 てつどう はディストリクト鉄道 てつどう における列車 れっしゃ を運行 うんこう し、一定 いってい の運行 うんこう 本数 ほんすう に対 たい して総 そう 収入 しゅうにゅう の55パーセントを受 う け取 と った。ディストリクト鉄道 てつどう から追加 ついか の列車 れっしゃ 運行 うんこう を求 もと められると、それに対 たい しても追加 ついか 費用 ひよう が請求 せいきゅう され、ディストリクト鉄道 てつどう の受 う け取 と れる収入 しゅうにゅう は40パーセントほどに下 さ がってしまった。ディストリクト鉄道 てつどう の負債 ふさい 水準 すいじゅん からメトロポリタン鉄道 てつどう にとって合併 がっぺい は魅力 みりょく のあるものではなくなり、合併 がっぺい の話 はなし は進行 しんこう しなくなったことから、メトロポリタン鉄道 てつどう 側 がわ の役員 やくいん はディストリクト鉄道 てつどう の取締役 とりしまりやく を辞任 じにん した。ディストリクト鉄道 てつどう は財務 ざいむ を改善 かいぜん するために、メトロポリタン鉄道 てつどう に対 たい して運行 うんこう 契約 けいやく の終了 しゅうりょう を通告 つうこく した。非常 ひじょう に高 たか い建設 けんせつ 費用 ひよう の負担 ふたん に苦 くる しんだディストリクト鉄道 てつどう は、当初 とうしょ の計画 けいかく であるタワー・ヒルまでの残 のこ りの区間 くかん の建設 けんせつ を続行 ぞっこう することができず、最後 さいご の延長 えんちょう としてわずか1駅 えき 、ブラックフライアーズ駅 えき から東 ひがし へ当初 とうしょ は計画 けいかく されていなかったターミナル、マンション・ハウス駅 えき までを開通 かいつう させた。
1871年 ねん にインナー・サークル線 せん の運行 うんこう が始 はじ まり、マンション・ハウス駅 えき からムーアゲート・ストリート駅 えき まで、サウス・ケンジントン駅 えき とパディントン駅 えき を通 とお って運行 うんこう された。ケンジントン(ハイ・ストリート)駅 えき とサウス・ケンジントン駅 えき の間 あいだ では、両社 りょうしゃ がそれぞれの線路 せんろ を保有 ほゆう していた
1871年 ねん 7月 がつ 1日 にち 土曜日 どようび に開通 かいつう 記念 きねん 式典 しきてん が、当時 とうじ の首相 しゅしょう で株主 かぶぬし でもあった、ウィリアム・グラッドストンが出席 しゅっせき して開催 かいさい された。次 つぎ の月曜日 げつようび にマンション・ハウス駅 えき が開業 かいぎょう し、ディストリクト鉄道 てつどう は自社 じしゃ の列車 れっしゃ の運行 うんこう を開始 かいし した。この日 ひ から、両社 りょうしゃ は共同 きょうどう でインナー・サークル線 せん をマンション・ハウス駅 えき からムーアゲート・ストリート駅 えき まで、サウス・ケンジントン駅 えき とエッジウェア・ロード駅 えき を経由 けいゆ して10分 ふん 間隔 かんかく で運行 うんこう 開始 かいし し[note 17] 、そしてマンション・ハウス駅 えき からウェスト・ブロンプトン駅 えき までディストリクト鉄道 てつどう の列車 れっしゃ が10分 ふん おきに、またハマースミス・アンド・シティ鉄道 てつどう とグレート・ウェスタン鉄道 てつどう の郊外 こうがい 列車 れっしゃ がエッジウェア・ストリート駅 えき とムーアゲート・ストリート駅 えき の間 あいだ で運転 うんてん された。マンション・ハウス駅 えき より東側 ひがしがわ の鉄道 てつどう 建設 けんせつ 許可 きょか は失効 しっこう した。また路線 ろせん の反対 はんたい 側 がわ で、ディストリクト鉄道 てつどう 側 がわ のサウス・ケンジントン駅 えき は1871年 ねん 7月 がつ 10日 とおか に開業 かいぎょう し[note 18] 、ウェスト・ブロンプトン支線 しせん 上 じょう にアールズ・コート駅 えき が1871年 ねん 10月 がつ 30日 にち に開業 かいぎょう した。
1868年 ねん から1869年 ねん にかけて、メトロポリタン鉄道 てつどう に対 たい する多 おお くの審問 しんもん が開 ひら かれて、本来 ほんらい の支払 しはら い能力 のうりょく 以上 いじょう の配当 はいとう 金 きん を払 はら っていたり、資本 しほん 勘定 かんじょう からの支出 ししゅつ が行 おこな われていたりといった、財務 ざいむ 上 じょう の不正 ふせい が見 み つかった。1870年 ねん に会社 かいしゃ の取締役 とりしまりやく たちが背任 はいにん で有罪 ゆうざい となり、会社 かいしゃ に対 たい して賠償 ばいしょう を行 おこな うよう命 めい じられた。全員 ぜんいん が不服 ふふく 申 もう し立 た てを行 おこな い、1874年 ねん にかなり低 ひく い額 がく で妥結 だけつ が認 みと められたが、株主 かぶぬし の信頼 しんらい を回復 かいふく するために1872年 ねん 10月 がつ に取締役 とりしまりやく は全員 ぜんいん 入替 いれかわ となり、エドワード・ワトキン (英語 えいご 版 ばん ) が会長 かいちょう に任命 にんめい された。ワトキンは経験 けいけん を積 つ んだ鉄道 てつどう 業界 ぎょうかい 人 じん で、サウス・イースタン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) などいくつかの鉄道 てつどう 会社 かいしゃ で既 すで に取締役 とりしまりやく を務 つと めており、北 きた からロンドンを貫 つらぬ いてサウス・イースタン鉄道 てつどう へ路線 ろせん を接続 せつぞく したいという願望 がんぼう を持 も っていた[note 19] 。
土地 とち の購入 こうにゅう 費用 ひよう の問題 もんだい から、メトロポリタン鉄道 てつどう のムーアゲート・ストリート駅 えき から東 ひがし への延長 えんちょう 工事 こうじ はゆっくりとしか進 すす まず、1869年 ねん に法律 ほうりつ で定 さだ められた期限 きげん の延長 えんちょう を得 え なければならなかった。延長 えんちょう 工事 こうじ は1873年 ねん に開始 かいし されたが、建設 けんせつ 工事 こうじ がローマカトリック教会 きょうかい の地下 ちか 埋葬 まいそう 所 しょ を掘 ほ り出 だ してしまった後 のち 、契約 けいやく 業者 ぎょうしゃ は作業 さぎょう 員 いん を工事 こうじ に従事 じゅうじ させ続 つづ けるのは難 むずか しいと報告 ほうこく してきた。最初 さいしょ の区間 くかん は、グレート・イースタン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) が最近 さいきん 開業 かいぎょう させたターミナル駅 えき であるリバプール・ストリート駅 えき まで1875年 ねん 2月 がつ 1日 にち に開通 かいつう した。メトロポリタン鉄道 てつどう 自身 じしん の駅 えき が建設 けんせつ されている短 みじか い期間 きかん 中 ちゅう 、列車 れっしゃ は半径 はんけい 3.5チェーン(約 やく 70 m)の曲線 きょくせん を通 とお ってグレート・イースタン鉄道 てつどう 側 がわ の駅 えき に乗 の り入 い れており、同年 どうねん 7月 がつ 12日 にち に自社 じしゃ の駅 えき が開業 かいぎょう して、それ以降 いこう は通常 つうじょう 運行 うんこう にこの曲線 きょくせん が使用 しよう されることは無 な かった。アルドゲイト駅 えき までの延長 えんちょう 工事 こうじ 中 ちゅう には、貨車 かしゃ にして何 なに 百 ひゃく 両分 りょうぶん もの牛 うし の角 かく が表土 ひょうど から20フィート(約 やく 6.1 m)下 した で発見 はっけん された。アルドゲイト駅 えき は1876年 ねん 11月18日 にち に開業 かいぎょう し、当初 とうしょ はビショップスゲート駅 えき までのシャトル列車 れっしゃ が運行 うんこう し、12月4日 にち からメトロポリタン鉄道 てつどう およびディストリクト鉄道 てつどう の全 ぜん 列車 れっしゃ が直通 ちょくつう 運転 うんてん を開始 かいし した。
青 あお 線 せん で示 しめ されているのがインナー・サークル線 せん を1884年 ねん に完成 かんせい させた共同 きょうどう 線 せん の区間 くかん で、またこれによりメトロポリタン鉄道 てつどう とディストリクト鉄道 てつどう をイースト・ロンドン鉄道 てつどう に接続 せつぞく した。メトロポリタン鉄道 てつどう のタワー・オブ・ロンドン駅 えき は開業 かいぎょう 後 ご しばらくしてから廃止 はいし となった。ディストリクト鉄道 てつどう の列車 れっしゃ は、1902年 ねん にホワイトチャペル・アンド・バウ鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を通 とお ってホワイトチャペル駅 えき より東 ひがし まで延長 えんちょう された
メトロポリタン鉄道 てつどう とディストリクト鉄道 てつどう の間 あいだ の争 あらそ いと建設 けんせつ 費用 ひよう の問題 もんだい により、インナー・サークル線 せん の完成 かんせい はさらに遅 おく れることになった。イライラさせられていたシティの金融 きんゆう 業者 ぎょうしゃ たちは、1874年 ねん にメトロポリタン・インナー・サークル完成 かんせい 鉄道 てつどう 会社 かいしゃ (Metropolitan Inner Circle Completion Railway Company ) を残 のこ りの区間 くかん を完成 かんせい させる目的 もくてき で設立 せつりつ した。この会社 かいしゃ はディストリクト鉄道 てつどう に支持 しじ され、議会 ぎかい から許可 きょか を1874年 ねん 8月 がつ 7日 にち に得 え た[88] 。この会社 かいしゃ は資金 しきん 調達 ちょうたつ に苦 くる しみ、工事 こうじ 期限 きげん の延長 えんちょう を1876年 ねん に許可 きょか された。メトロポリタン鉄道 てつどう とディストリクト鉄道 てつどう の間 あいだ での会合 かいごう が1877年 ねん に開 ひら かれ、メトロポリタン鉄道 てつどう はイースト・ロンドン鉄道 てつどう を通 つう じてサウス・イースタン鉄道 てつどう へ乗 の り入 い れたいと表明 ひょうめい した。両社 りょうしゃ は1879年 ねん にイースト・ロンドン鉄道 てつどう へ延長 えんちょう して接続 せつぞく する許可 きょか を議会 ぎかい から得 え て、またこの法律 ほうりつ では両社 りょうしゃ が環状 かんじょう 線 せん 全体 ぜんたい の運行 うんこう 許可 きょか を得 え て将来 しょうらい 的 てき な協調 きょうちょう を確実 かくじつ にした[note 20] 。当局 とうきょく からは大 だい 規模 きぼ な道路 どうろ および下水 げすい の改良 かいりょう という協力 きょうりょく が行 おこな われた。1882年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう はアルドゲイト駅 えき から仮 かり 駅 えき のタワー・オブ・ロンドン駅 えき まで延長 えんちょう された。共同 きょうどう 線 せん を建設 けんせつ する2件 けん の契約 けいやく が結 むす ばれ、1件 けん は1882年 ねん のマンション・ハウス駅 えき からタワー・オブ・ロンドン駅 えき までのもので、もう1件 けん は1883年 ねん のアルドゲイト駅 えき の北 きた からホワイトチャペル駅 えき を通 とお りイースト・ロンドン鉄道 てつどう に乗 の り入 い れるものであった。1884年 ねん 10月 がつ 1日 にち からディストリクト鉄道 てつどう とメトロポリタン鉄道 てつどう は、セント・メアリーズ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) から乗 の り入 い れ線 せん のカーブを通 とお ってイースト・ロンドン鉄道 てつどう を通 とお りサウス・イースタン鉄道 てつどう のニュー・クロス駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) までの普通 ふつう 列車 れっしゃ の運行 うんこう を開始 かいし した[note 21] 。1884年 ねん 9月 がつ 17日 にち に公式 こうしき の完成 かんせい 式典 しきてん が行 おこな われ、10月6日 にち 月曜日 げつようび から試験 しけん 的 てき な環状 かんじょう 運転 うんてん が開始 かいし された。同日 どうじつ メトロポリタン鉄道 てつどう はハマースミス・アンド・シティ線 せん の列車 れっしゃ の一部 いちぶ をイースト・ロンドン鉄道 てつどう を通 つう じてニュー・クロス駅 えき まで乗 の り入 い れ、途中 とちゅう で新 あら たに共同 きょうどう 駅 えき として用意 ようい されたアルドゲイト・イースト駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) とセント・メアリーズ駅 えき に停車 ていしゃ した。環状 かんじょう 線 せん 側 がわ に開業 かいぎょう した共同 きょうどう 駅 えき はキャノン・ストリート駅 えき 、イーストチープ駅 えき (1884年 ねん 11月1日 にち からモニュメント駅 えき )およびマークレーン駅 えき である。ディストリクト鉄道 てつどう はタワー・オブ・ロンドン駅 えき までの乗車 じょうしゃ 券 けん の販売 はんばい を拒否 きょひ したため、メトロポリタン鉄道 てつどう のタワー・オブ・ロンドン駅 えき は1884年 ねん 10月 がつ 12日 にち に廃止 はいし された。当初 とうしょ 、運行 うんこう は1時 じ 間 あいだ に8本 ほん で、13マイル(約 やく 21 km)の環状 かんじょう 線 せん を81 - 84分 ふん で走行 そうこう したが、これは不可能 ふかのう であることがわかり、1885年 ねん に1時 じ 間 あいだ 当 あ たり6本 ほん に削減 さくげん され所要 しょよう 時間 じかん は70分 ふん となった。車掌 しゃしょう は当初 とうしょ 、勤務 きんむ 時間 じかん 中 ちゅう に休憩 きゅうけい を取 と ることが認 みと められていなかったが、1885年 ねん 9月 がつ に20分間 ふんかん の休憩 きゅうけい 3回 かい が認 みと められるようになった。
延長線 えんちょうせん 1868年 ねん - 1899年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
ベイカー・ストリート駅 えき からハーロー駅 えき まで [ 編集 へんしゅう ]
1868年 ねん 4月 がつ に、メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 てつどう (Metropolitan & St John's Wood Railway ) がベイカー・ストリート駅 えき に新 あたら しく設置 せっち したプラットホーム(ベイカー・ストリート・イーストと呼 よ ばれた)からスイス・コテージ駅 えき までトンネルで単線 たんせん の鉄道 てつどう を開通 かいつう させた。途中 とちゅう には待避 たいひ 線 せん を備 そな えたセント・ジョンズ・ウッド・ロード駅 えき とマールボロ・ロード駅 えき があり、メトロポリタン鉄道 てつどう により20分 ふん おきに列車 れっしゃ が運行 うんこう された。ベイカー・ストリート駅 えき においてインナー・サークル線 せん との分岐 ぶんき 点 てん が造 つく られたが、1869年 ねん 以降 いこう 直通 ちょくつう 列車 れっしゃ は運転 うんてん されていない。
1870年代 ねんだい 初頭 しょとう 、乗客 じょうきゃく 数 すう は少 すく なかったためメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 てつどう は路線 ろせん を延長 えんちょう して新 あら たな需要 じゅよう を生 う み出 だ そうと考 かんが えた。メトロポリタン鉄道 てつどう に着任 ちゃくにん したばかりであったワトキンは、既 すで に市街地 しがいち 化 か していた地域 ちいき に建設 けんせつ するよりも費用 ひよう が安 やす く運賃 うんちん は高 たか いため、こちらの方 ほう が優先 ゆうせん 度 ど が高 たか いと考 かんが え、またこの線 せん からの乗客 じょうきゃく はサークル線 せん を利用 りよう してくれると考 かんが えられた。1873年 ねん にメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 てつどう はミドルセックス州 しゅう の郊外 こうがい であるニーズデンまでの延長 えんちょう 許可 きょか を得 え たが[note 22] 、ニーズデンにもっとも近 ちか い人口 じんこう の集 あつ まる場所 ばしょ はハーローであったため、さらに3.5マイル(約 やく 5.6 km)延長 えんちょう してハーローまで路線 ろせん を建設 けんせつ することを決定 けってい し、1874年 ねん に許可 きょか を得 え た[note 23] 。キルバーンで開 ひら かれたイングランド王立 おうりつ 農業 のうぎょう 協会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) の1879年 ねん のショーに間 ま に合 あ わせるために、West Hampstead tube station までの単線 たんせん 路線 ろせん が1879年 ねん 6月 がつ 30日 にち に開通 かいつう し、フィンチリー・ロード駅 えき には仮 かり プラットホームが設 もう けられた。複線 ふくせん 化 か とウィルズデン・グリーン駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) までの営業 えいぎょう は1879年 ねん 11月24日 にち に始 はじ まり、途中 とちゅう にキルバーン・アンド・ブロンデスベリー駅 えき (現在 げんざい のキルバーン駅 えき )が開設 かいせつ された。路線 ろせん はさらにハーロー=オン=ザ=ヒル駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) まで5マイル37.5チェーン(約 やく 8.80 km)延長 えんちょう され、ベイカー・ストリート駅 えき からの運行 うんこう は1880年 ねん 8月 がつ 2日 にち に開始 かいし された。途中 とちゅう 駅 えき のキングスベリー・ニーズデン駅 えき (現在 げんざい のニーズデン駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) )も同日 どうじつ 開設 かいせつ された。2年 ねん 後 ご に、ベイカー・ストリート駅 えき とスイス・コテージ駅 えき の間 あいだ の単線 たんせん が複線 ふくせん 化 か され、メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 てつどう はメトロポリタン鉄道 てつどう に吸収 きゅうしゅう 合併 がっぺい された。
1882年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう は客車 きゃくしゃ 工場 こうじょう をエッジウェア・ロードからニーズデンに移転 いてん させた。機関 きかん 車 しゃ 工場 こうじょう は1883年 ねん に、そしてガス工場 こうじょう は1884年 ねん に開設 かいせつ された。ロンドンから引 ひ っ越 こ す従業 じゅうぎょう 員 いん を収容 しゅうよう するために、100戸 こ 以上 いじょう の家 いえ と10軒 けん の店 みせ が貸 か し出 だ し用 よう に建設 けんせつ された。1883年 ねん にこのうち2軒 けん の店 みせ が学校 がっこう の教室 きょうしつ と教会 きょうかい に転用 てんよう された。2年 ねん 後 ご には教会 きょうかい の建物 たてもの と土地 とち はウェズリーアン教会 きょうかい に寄贈 きぞう され、学校 がっこう は200人 にん の児童 じどう を収容 しゅうよう するようになった[note 24] 。
ハーローからバーニー・ジャンクションとブリルまで [ 編集 へんしゅう ]
1868年 ねん にバッキンガム公 こう が、エイルズベリー駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) からバッキンガムシャー鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) のブレッチリー-オックスフォード線 せん 上 じょう に新設 しんせつ したバーニー・ジャンクション駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) までの単線 たんせん で12.75マイル(約 やく 20.5 km)のエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を開通 かいつう させた。当初 とうしょ は、ブレッチリー-オックスフォード線 せん を運行 うんこう していたロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 てつどう からわずかながらも協力 きょうりょく が得 え られていたが、路線 ろせん が建設 けんせつ されるまでの間 あいだ に2社 しゃ 間 あいだ の関係 かんけい は崩壊 ほうかい してしまった[note 25] 。ウィカム鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) がプリンス・リスバラ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) からエイルズベリー駅 えき までの単線 たんせん の鉄道 てつどう を建設 けんせつ し、そしてグレート・ウェスタン鉄道 てつどう がこの会社 かいしゃ を買収 ばいしゅう した際 さい に、プリンス・リスバラ駅 えき からエイルズベリー駅 えき を通 とお りクエイトン・ロード駅 えき まで、そしてクエイトン・ロード駅 えき からバーニー・ジャンクション駅 えき までのシャトル列車 れっしゃ を運行 うんこう するようになった。
エイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道 てつどう は、ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 てつどう 傘下 さんか のワトフォード・アンド・リックマンズワース鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) に接続 せつぞく するリックマンズワースまでさらに南 みなみ へ延長 えんちょう する許可 きょか を得 え ていた。バッキンガム公 こう とワトキンの間 あいだ の協議 きょうぎ を受 う けて、この路線 ろせん をさらに南 みなみ へ伸 の ばしてメトロポリタン鉄道 てつどう とハーローで接続 せつぞく することが合意 ごうい され、この延長 えんちょう の許可 きょか は1874年 ねん に得 え られ[note 26] 、ワトキンは1875年 ねん にエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道 てつどう の取締役 とりしまりやく に就任 しゅうにん した。これを実現 じつげん する資金 しきん がなかったため、メトロポリタン鉄道 てつどう は再 ふたた び議会 ぎかい に働 はたら きかけて、ハーローからエイルズベリーまでの路線 ろせん を建設 けんせつ する許可 きょか を1880年 ねん と1881年 ねん に得 え た[note 27] 。ピナー駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) まで1885年 ねん に到達 とうたつ し、リックマンズワース駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) とノースウッド駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) からベイカー・ストリート駅 えき までの1時 じ 間 あいだ おきの運転 うんてん は1887年 ねん 9月 がつ 1日 にち に始 はじ まった。チェシャム駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) を設置 せっち するために地域 ちいき の協力 きょうりょく が得 え られていたものの、この時点 じてん で資金 しきん を集 あつ めることはとても難 むずか しくなっていた。1885年 ねん に許可 きょか を得 え てリックマンズワースから5マイル(約 やく 8 km)の複線 ふくせん が敷設 ふせつ され、そこからは単線 たんせん でチェシャムまで建設 けんせつ された。チェシャムからの列車 れっしゃ は、途中 とちゅう チョーリー・ウッド駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) とチャルフォント・ロード駅 えき (現在 げんざい のチャルフォント・アンド・ラティマー駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) )に停車 ていしゃ し、1889年 ねん 7月 がつ 8日 にち に運行 うんこう を開始 かいし した。
メトロポリタン鉄道 てつどう はエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道 てつどう を1891年 ねん 7月 がつ 1日 にち に買収 ばいしゅう し、エイルズベリーに仮 かり プラットホームを設置 せっち して1892年 ねん 9月 がつ 1日 にち に開通 かいつう した。途中 とちゅう の停車駅 ていしゃえき はアマーシャム駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、グレート・ミセンデン駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、ウェンドーバー駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、ストーク・マンデビル駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) であった。1894年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう とグレート・ウェスタン鉄道 てつどう のエイルズベリーにおける共同 きょうどう 駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) が開業 かいぎょう した。エイルズベリーから先 さき バーニー・ジャンクションまでは、路線 ろせん にある橋 はし の強度 きょうど がメトロポリタン鉄道 てつどう の機関 きかん 車 しゃ を通 とお すためには不十分 ふじゅうぶん であった。グレート・ウェスタン鉄道 てつどう は支援 しえん を拒否 きょひ し、2両 りょう のDクラス (英語 えいご 版 ばん ) を購入 こうにゅう するまではロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 てつどう から機関 きかん 車 しゃ を借 か りて運行 うんこう した。路線 ろせん の規格 きかく が向上 こうじょう され、複線 ふくせん 化 か されて本線 ほんせん の規格 きかく まで駅 えき も改築 かいちく されて、ベイカー・ストリート駅 えき からバーニー・ジャンクション駅 えき までの直通 ちょくつう 運転 うんてん が1897年 ねん 1月 がつ 1日 にち からできるようになり、新 あたら しいワッデスドン・メイナー駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、改築 かいちく されたクエイントン・ロード駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、グランバラ・ロード駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、ウィンスロー・ロード駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) に停車 ていしゃ した。
クエイントン・ロード駅 えき から、バッキンガム公 こう はブリル軌道 きどう (英語 えいご 版 ばん ) という6.5マイル(約 やく 10.5 km)の支線 しせん を建設 けんせつ していた。1899年 ねん にはクエイントン・ロード駅 えき とブリル駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) の間 あいだ を1日 にち 片道 かたみち 4本 ほん の混合 こんごう 列車 れっしゃ が走 はし っていた。メトロポリタン鉄道 てつどう にこの路線 ろせん を買 か うように推奨 すいしょう があり、1899年 ねん 11月に運行 うんこう を引 ひ き継 つ ぎ、毎年 まいとし 600ポンドで借 か り受 う けるようになった。1903年 ねん に線路 せんろ は敷 し き直 なお され、駅 えき は改良 かいりょう された。旅客 りょかく 列車 れっしゃ はAクラス およびDクラスの機関 きかん 車 しゃ とオールドベリー型 がた の8輪 りん 客車 きゃくしゃ で運行 うんこう されるようになった。
1893年 ねん に新 あたら しいウェンブリー・パーク駅 えき が開業 かいぎょう し、当初 とうしょ はサッカーのオールド・ウェストミンスターFCにより利用 りよう されたが、主 おも にスポーツ、レジャー、博覧 はくらん 会 かい などに用 もち いられた。その当時 とうじ 建設 けんせつ されたばかりであったエッフェル塔 えっふぇるとう よりも高 たか い、1,159フィート(約 やく 353 m)の塔 とう が計画 けいかく されたが、魅力 みりょく が不十分 ふじゅうぶん で、200フィート(約 やく 61 m)の高 たか さのものが第 だい 一 いち 段階 だんかい として建設 けんせつ された。この塔 とう はワトキンズ・タワー (英語 えいご 版 ばん ) として知 し られるようになったが、傾 かたむ いていることが発見 はっけん されて1907年 ねん に解体 かいたい された。
1900年 ねん 頃 ごろ 、ウィルズデン・グリーン駅 えき とベイカー・ストリート駅 えき の間 あいだ には、1時 じ 間 あいだ に6本 ほん の普通 ふつう 列車 れっしゃ が走 はし っていた。1本 ほん はリックマンズワースから、もう1本 ほん はハーローからで、残 のこ りはウィルズデン・グリーン始発 しはつ であった。この他 ほか に、2時 じ 間 あいだ に1本 ほん バーニー・ジャンクションからの列車 れっしゃ があり、ハーローまではすべての駅 えき に停車 ていしゃ し、そこからはウィルズデン・グリーンとベイカー・ストリートのみに停車 ていしゃ した。この速 はや い列車 れっしゃ は、普通 ふつう 列車 れっしゃ がウィルズデン・グリーン駅 えき を出発 しゅっぱつ する直前 ちょくぜん に出発 しゅっぱつ して、ベイカー・ストリート駅 えき には1本 ほん 前 まえ の普通 ふつう 列車 れっしゃ の直後 ちょくご に到着 とうちゃく するように時刻 じこく 表 ひょう が調整 ちょうせい されていた。
グレート・セントラル鉄道 てつどう [ 編集 へんしゅう ]
1906年 ねん 時点 じてん では、グレート・セントラル鉄道 てつどう には2通 とお りのロンドンへの経路 けいろ があった。1つはアマーシャム経由 けいゆ のメトロポリタン鉄道 てつどう で、もう1つはハイ・ウィカム経由 けいゆ のグレート・セントラル・アンド・グレート・ウェスタン・ジョイント鉄道 てつどう であった
ワトキンはマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) の取締役 とりしまりやく でもあり、エイルズベリーの少 すこ し北 きた でメトロポリタン鉄道 てつどう に合流 ごうりゅう する99マイル(約 やく 159 km)のロンドン延長線 えんちょうせん の計画 けいかく を持 も っていた。ベイカー・ストリート駅 えき をロンドンにおけるターミナルとして使用 しよう できると提案 ていあん があったが、しかし1891年 ねん から1892年 ねん にかけてマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう は、メリルボーン地区 ちく に独自 どくじ の駅 えき と貨物 かもつ 扱 あつか い設備 せつび が必要 ひつよう であると結論 けつろん した。この鉄道 てつどう に関 かん する法律 ほうりつ は1893年 ねん に議会 ぎかい を通過 つうか したが、ワトキンは病気 びょうき にかかって1894年 ねん に取締役 とりしまりやく を辞任 じにん した。彼 かれ の離任 りにん 後 ご 、両社 りょうしゃ 間 あいだ の関係 かんけい はまもなく悪化 あっか した。
1895年 ねん にマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう は、メトロポリタン鉄道 てつどう の普通 ふつう 列車 れっしゃ を同社 どうしゃ の急行 きゅうこう 列車 れっしゃ が追 お い抜 ぬ けるように、ウェンブリー・パークからフィンチリー・ロード駅 えき 近 ちか くのキャンフィールド・プレイスまで2本 ほん の線路 せんろ を建設 けんせつ するという法案 ほうあん を議会 ぎかい に提出 ていしゅつ した。メトロポリタン鉄道 てつどう はこれに抗議 こうぎ したが、この路線 ろせん はマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう が専用 せんよう に使用 しよう するということで合意 ごうい した。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう の機関 きかん 車 しゃ が走 はし れるようにウェンブリー・パークからハーローまでの区間 くかん の橋 はし を架 か け替 か えた際 さい に、将来 しょうらい の必要 ひつよう 性 せい をにらんで、メトロポリタン鉄道 てつどう は同時 どうじ に複々線 ふくふくせん 化 か を行 おこな い、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう は2線 せん を専用 せんよう に使用 しよう するように求 もと めた。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう は、メリルボーンにおいてメトロポリタン鉄道 てつどう のサークル線 せん に接続 せつぞく する必要 ひつよう な許可 きょか を得 え ていたのであったが、メトロポリタン鉄道 てつどう 側 がわ は面倒 めんどう な条件 じょうけん を付 つ けた。当時 とうじ マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう は資金 しきん が不足 ふそく していたこともあり、この路線 ろせん を放棄 ほうき してしまった。
両社 りょうしゃ の関係 かんけい から、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう は自社 じしゃ のロンドンへの列車 れっしゃ を完全 かんぜん にメトロポリタン鉄道 てつどう に頼 たよ らなければならないということに不満 ふまん であり、また自社 じしゃ の北 きた への路線 ろせん と異 こと なり、エイルズベリーより南 みなみ では速度 そくど 制限 せいげん が何 なん か所 しょ かあり、90分 ぶん の1の長 なが い勾配 こうばい 区間 くかん もあった。1898年 ねん にマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう とグレート・ウェスタン鉄道 てつどう は共同 きょうどう で、クエイントン・ロードの北 きた のグレンドン・アンダーウッド (英語 えいご 版 ばん ) から分岐 ぶんき してアシェンドンまでの短 みじか い連絡 れんらく 線 せん と、ノーソルトからニーズデンまでの路線 ろせん を建設 けんせつ してグレート・ウェスタン・アンド・グレート・セントラル・ジョイント鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) とする法案 ほうあん を議会 ぎかい に提出 ていしゅつ した。メトロポリタン鉄道 てつどう は、この法案 ほうあん はメトロポリタン鉄道 てつどう とマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう の間 あいだ で結 むす ばれた合意 ごうい の精神 せいしん と条件 じょうけん に反 はん していると抗議 こうぎ した。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう はこの路線 ろせん の許可 きょか を得 え たが、メトロポリタン鉄道 てつどう には補償 ほしょう を受 う け取 と る権利 けんり が与 あた えられた。1898年 ねん 7月 がつ 26日 にち に、メトロポリタン鉄道 てつどう の路線 ろせん にマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう の石炭 せきたん 列車 れっしゃ を1日 にち 4本 ほん 運転 うんてん する暫定 ざんてい 合意 ごうい が行 おこな われた。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう はこうした列車 れっしゃ をエイルズベリーからグレート・ウェスタン鉄道 てつどう の線路 せんろ でプリンセス・リスバラを経由 けいゆ してロンドンへ運転 うんてん することも望 のぞ んでいたが、メトロポリタン鉄道 てつどう ではこれは合意 ごうい の範囲 はんい 外 がい であると考 かんが えていた。グレート・ウェスタン鉄道 てつどう に入 はい る予定 よてい となっていた列車 れっしゃ は1898年 ねん 7月 がつ 30日 にち の早朝 そうちょう 、クエイントン・ロード駅 えき においてメトロポリタン鉄道 てつどう の線路 せんろ に入 はい ることを拒否 きょひ された。その後 ご の裁判所 さいばんしょ での聴取 ちょうしゅ では、これが一時 いちじ 的 てき な合意 ごうい であったとしてメトロポリタン鉄道 てつどう に有利 ゆうり に判断 はんだん された。
マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道 てつどう は1897年 ねん にグレート・セントラル鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) に改称 かいしょう し、1899年 ねん 3月 がつ 15日 にち にグレート・セントラル本線 ほんせん (英語 えいご 版 ばん ) が旅客 りょかく 輸送 ゆそう 向 む けに開通 かいつう した。グレート・セントラル鉄道 てつどう とメトロポリタン鉄道 てつどう の間 あいだ でのこの路線 ろせん に関 かん する交渉 こうしょう は数 すう 年 ねん を要 よう し、1906年 ねん にキャンフィールド・プレイスからハーローまでの2線 せん が年間 ねんかん 20,000ポンドでグレート・セントラル鉄道 てつどう に貸 か し出 だ され、メトロポリタン・アンド・グレート・セントラル・ジョイント鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) を設立 せつりつ し、ハーローからバーニー・ジャンクションまでとブリル支線 しせん を年間 ねんかん 44,000ポンドで貸 か し出 だ して、グレート・セントラル鉄道 てつどう は少 すく なくともこの路線 ろせん に年間 ねんかん 45,000ポンドの交通 こうつう 量 りょう を保証 ほしょう することで合意 ごうい された。グレート・ウェスタン鉄道 てつどう とメトロポリタン鉄道 てつどう が共同 きょうどう で運営 うんえい するエイルズベリー駅 えき には、グレート・ウェスタン・アンド・グレート・セントラル合同 ごうどう 委員 いいん 会 かい およびメトロポリタン・アンド・グレート・セントラル合同 ごうどう 委員 いいん 会 かい も置 お かれた。一般 いっぱん 的 てき には呼 よ びづらい名前 なまえ であったことから、エイルズベリー共同 きょうどう 駅 えき と呼 よ ばれていた。メトロポリタン鉄道 てつどう とグレート・セントラル鉄道 てつどう の合同 ごうどう 委員 いいん 会 かい は駅 えき と路線 ろせん の営業 えいぎょう を引 ひ き継 つ いだが、車両 しゃりょう は保有 ほゆう していなかった。メトロポリタン鉄道 てつどう が管理 かんり を担当 たんとう し、グレート・セントラル鉄道 てつどう は会社 かいしゃ が役割 やくわり を交替 こうたい するまでの最初 さいしょ の5年間 ねんかん 、会計 かいけい を担当 たんとう した。それ以降 いこう 1926年 ねん まで5年 ねん おきに役割 やくわり を交替 こうたい した。メトロポリタン鉄道 てつどう はグレート・ミセンデンの南 みなみ にある28.5マイル地点 ちてん より南側 みなみがわ の保守 ほしゅ を行 おこな い、グレート・セントラル鉄道 てつどう は北側 きたがわ の保守 ほしゅ を行 おこな った。
電化 でんか 1900年 ねん - 1914年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1900年 ねん に6か月 げつ 間 あいだ 運行 うんこう された、両社 りょうしゃ 共同 きょうどう 所有 しょゆう の実験 じっけん 旅客 りょかく 列車 れっしゃ
20世紀 せいき の始 はじ まりに、ディストリクト鉄道 てつどう とメトロポリタン鉄道 てつどう は新 あたら しく電気 でんき 運転 うんてん で開通 かいつう した、深 ふか い地下 ちか を走 はし るチューブと呼 よ ばれる路線 ろせん との競合 きょうごう に直面 ちょくめん していた。1900年 ねん にセントラル・ロンドン鉄道 てつどう がシェパーズ・ブッシュからシティまで、一律 いちりつ 2ペンスの運賃 うんちん で開通 かいつう して以降 いこう 、1899年 ねん 後半 こうはん から1900年 ねん 後半 こうはん までの間 あいだ にディストリクト鉄道 てつどう とメトロポリタン鉄道 てつどう は400万 まん 人 にん の旅客 りょかく が減少 げんしょう した。トンネル内 ない の空気 くうき が汚 よご れていたことが旅客 りょかく にとって非常 ひじょう に不快 ふかい なものとなっており、電気 でんき 運転 うんてん に切 き り替 か えることが解決 かいけつ 方法 ほうほう だと考 かんが えられた。メトロポリタン鉄道 てつどう では、1880年代 ねんだい には電化 でんか が検討 けんとう されていたが、電気 でんき 運転 うんてん はまだ始 はじ まったばかりであり、またインナー・サークル線 せん はディストリクト鉄道 てつどう との共同 きょうどう 所有 しょゆう であったため、ディストリクト鉄道 てつどう との合意 ごうい も必要 ひつよう であった。両社 りょうしゃ が共同 きょうどう で所有 しょゆう した6両 りょう の電車 でんしゃ がアールズ・コート駅 えき とハイ・ストリート・ケンジントン駅 えき の区間 くかん で1900年 ねん に6か月 げつ 間 あいだ 、試験 しけん 的 てき に旅客 りょかく 営業 えいぎょう を行 おこな った。これは成功 せいこう であると判断 はんだん され、入札 にゅうさつ にかけられて、1901年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう とディストリクト鉄道 てつどう の合同 ごうどう 委員 いいん 会 かい はガンツ の三 さん 相 そう 交流 こうりゅう 架空 かくう 電車 でんしゃ 線 せん 方式 ほうしき を推奨 すいしょう した。両社 りょうしゃ によってこれは受 う け入 い れられたが、それはロンドン地下 ちか 電気 でんき 鉄道 てつどう がディストリクト鉄道 てつどう を買収 ばいしゅう するまでであった。ロンドン地下 ちか 電気 でんき 鉄道 てつどう はアメリカのチャールズ・ヤーキス が率 ひき いており、彼 かれ はアメリカでの経験 けいけん からシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道 てつどう やセントラル・ロンドン鉄道 てつどう で使 つか われているのと同 おな じような、直流 ちょくりゅう 第 だい 三 さん 軌条 きじょう 方式 ほうしき を好 この んだのである。商務省 しょうむしょう での調停 ちょうてい の後 のち 、第 だい 四 よん 軌条 きじょう までを使 つか った直流 ちょくりゅう 方式 ほうしき が採用 さいよう されることになり、電車 でんしゃ および電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ による客車 きゃくしゃ 牽引 けんいん を前提 ぜんてい として、これらの路線 ろせん の電化 でんか が開始 かいし された。メトロポリタン鉄道 てつどう は1904年 ねん にニーズデンに10.5メガワットの石炭 せきたん 火力 かりょく 発電 はつでん 所 しょ を開設 かいせつ し、そこから11 kV 33.3 Hz の電力 でんりょく を5つの変電 へんでん 所 しょ に送電 そうでん して、そこで回 かい 転変 てんぺん 流 りゅう 機 き を使 つか って直流 ちょくりゅう 600 Vに変換 へんかん していた。
一方 いっぽう で、ディストリクト鉄道 てつどう はイーリングからサウス・ハーローまでの路線 ろせん を建設 けんせつ しており、アクスブリッジまで延長 えんちょう する許可 きょか も得 え ていた。1899年 ねん に、ディストリクト鉄道 てつどう は資金 しきん 集 あつ めに困難 こんなん があり、メトロポリタン鉄道 てつどう は、ハーローからレイナーズ・レーンまでの支線 しせん とアクスブリッジまでの路線 ろせん をメトロポリタン鉄道 てつどう が引 ひ き継 つ いで建設 けんせつ し、ディストリクト鉄道 てつどう は1時 じ 間 あいだ に3本 ほん までの列車 れっしゃ を走 はし らせる権利 けんり を保持 ほじ するという救済 きゅうさい 策 さく を提案 ていあん した。これに必要 ひつよう な法案 ほうあん は1899年 ねん に議会 ぎかい を通過 つうか し、7.5マイル(約 やく 12.1 km)の路線 ろせん の建設 けんせつ は1902年 ねん 9月 がつ に始 はじ まった。これには28の橋 はし と、ハーローに71のアーチを持 も つ全長 ぜんちょう 1.5マイル(約 やく 2.4 km)の高架 こうか 橋 きょう が必要 ひつよう であった。この路線 ろせん は建設 けんせつ 中 ちゅう であったため、ベイカー・ストリートからハーローまでの路線 ろせん やインナー・サークル線 せん 、グレート・ウェスタン鉄道 てつどう とメトロポリタン鉄道 てつどう が共同 きょうどう で運行 うんこう するハマースミス・アンド・シティ線 せん とともに、電化 でんか する路線 ろせん に含 ふく められた。メトロポリタン鉄道 てつどう はアクスブリッジ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) までの路線 ろせん を1904年 ねん 6月 がつ 30日 にち に、当初 とうしょ は蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ 牽引 けんいん で開通 かいつう させた。途中 とちゅう 駅 えき はルイスリップ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) であった。3両分 りょうぶん の長 なが さの木造 もくぞう のプラットホームにより1905年 ねん 9月 がつ 25日 にち にイッケナム駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) が開設 かいせつ され、さらに同様 どうよう の単純 たんじゅん な構造 こうぞう で1906年 ねん 5月 がつ 26日 にち にイーストコート駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) とレイナーズ・レーン駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) が開設 かいせつ された。
電車 でんしゃ の運転 うんてん は1905年 ねん 1月 がつ 1日 にち に始 はじ まり、3月20日 にち までにはベイカー・ストリート駅 えき とハーロー駅 えき の間 あいだ のすべての普通 ふつう 列車 れっしゃ が電気 でんき 運転 うんてん となった。アクスブリッジまでの閑散 かんさん 路線 ろせん で6両 りょう 編成 へんせい の列車 れっしゃ を運転 うんてん するのは無駄 むだ であると考 かんが えられたため、メトロポリタン鉄道 てつどう はオフピークにハーローまでの3両 りょう 編成 へんせい のシャトル列車 れっしゃ を走 はし らせ、1両 りょう の電動 でんどう 車 しゃ で2両 りょう の付随 ふずい 車 しゃ を牽引 けんいん して商務省 しょうむしょう の不興 ふきょう を買 か った。短 たん 編成 へんせい の蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ 列車 れっしゃ が3月 がつ 末 まつ からオフピークの運行 うんこう に用 もち いられ、その間 あいだ にいくつかの付随 ふずい 車 しゃ に運転 うんてん 台 だい を取 と り付 つ ける改造 かいぞう を行 おこな って、6月1日 にち から運行 うんこう に投入 とうにゅう された。
1905年 ねん 7月 がつ 1日 にち に、メトロポリタン鉄道 てつどう とディストリクト鉄道 てつどう はともに電車 でんしゃ をインナー・サークル線 せん に導入 どうにゅう したが、その日 ひ 遅 おそ く、メトロポリタン鉄道 てつどう の電車 でんしゃ がディストリクト鉄道 てつどう の正 せい 極 きょく レールを倒 たお してしまい、メトロポリタン鉄道 てつどう 側 がわ の運行 うんこう は中止 ちゅうし された。メトロポリタン鉄道 てつどう の電車 でんしゃ に取 と り付 つ けられた集 しゅう 電 でん シューとディストリクト鉄道 てつどう の線路 せんろ との間 あいだ に不 ふ 整合 せいごう が見 み つかり、ディストリクト鉄道 てつどう 側 がわ での運行 うんこう が中止 ちゅうし されて改造 かいぞう された。全面 ぜんめん 的 てき な電気 でんき 運転 うんてん は9月24日 にち に開始 かいし され、環状 かんじょう 線 せん 1周 しゅう の所要 しょよう 時間 じかん を70分 ふん から50分 ふん に短縮 たんしゅく した。
グレート・ウェスタン鉄道 てつどう がパーク・ロイヤルに6メガワットの発電 はつでん 所 しょ を建設 けんせつ し、パディントンからハマースミスまでの路線 ろせん を電化 でんか した後 のち 、共同 きょうどう 所有 しょゆう の車両 しゃりょう によりハマースミス・アンド・シティ線 せん での電気 でんき 運転 うんてん が1906年 ねん 11月5日 にち に開始 かいし された。同年 どうねん 、メトロポリタン鉄道 てつどう はイースト・ロンドン鉄道 てつどう への乗 の り入 い れを中断 ちゅうだん し、1913年 ねん に電化 でんか されるまでの間 あいだ はディストリクト鉄道 てつどう のホワイトチャペル駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) で打 う ち切 き りとした。ハマースミス・アンド・シティ線 せん の列車 れっしゃ は、ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道 てつどう の路線 ろせん 上 じょう をリッチモンドまでの運転 うんてん を1906年 ねん 12月31日 にち に取 と り止 と めたが、グレート・ウェスタン鉄道 てつどう のスチームモーター (英語 えいご 版 ばん ) 列車 れっしゃ は、ラドブローク・グローブからリッチモンドまでの運行 うんこう を1901年 ねん 12月31日 にち まで続 つづ けた。
ハーローより先 さき の路線 ろせん は電化 でんか されなかったため、列車 れっしゃ はベイカー・ストリート駅 えき から電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ で牽引 けんいん され、途中 とちゅう で蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ に交換 こうかん されていた。1907年 ねん 1月 がつ 1日 にち からすべての列車 れっしゃ について機関 きかん 車 しゃ 交換 こうかん はウェンブリー・パークで実施 じっし された。1908年 ねん 7月 がつ 19日 にち からはハーローで交換 こうかん された。グレート・ウェスタン鉄道 てつどう のラッシュ時 じ のシティへの列車 れっしゃ は運行 うんこう を継続 けいぞく し、1907年 ねん 1月 がつ からはパディントンにおいて電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ が蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ から引 ひ き継 つ ぐようになったが、スミスフィールドまでの貨物 かもつ 列車 れっしゃ は蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ が通 とお しで牽引 けんいん し続 つづ けた[note 28] 。
1908年 ねん にロバート・セルビー[note 29] がゼネラルマネージャーに任命 にんめい され、1930年 ねん までこの地位 ちい を保 たも った。1909年 ねん に延長 えんちょう された路線 ろせん からシティまでの限定 げんてい 的 てき な直通 ちょくつう 運転 うんてん が再開 さいかい された。ベイカー・ストリート駅 えき は2つの島 しま 式 しき ホームと4線 せん の構造 こうぞう に1912年 ねん に改築 かいちく された。輸送 ゆそう 量 りょう の増加 ぞうか に対応 たいおう するために、ハーローより南 みなみ の路線 ろせん は複々線 ふくふくせん 化 か され、まず1913年 ねん にフィンチリー・ロードからキルバーンまで、そして1915年 ねん にはウェンブリー・パークまでが複々線 ふくふくせん となった。しかしフィンチリー・ロードとベイカー・ストリートの間 あいだ の地下 ちか 線 せん は複線 ふくせん のままで残 のこ り、ボトルネックとなった。
1908年 ねん 発行 はっこう の地下鉄 ちかてつ (UNDERGROUN D)共通 きょうつう の路線 ろせん 図 ず 、メトロポリタン鉄道 てつどう は赤 あか 線 せん で示 しめ されている
ロンドンの地下鉄 ちかてつ の利用 りよう を促進 そくしん するために、共同 きょうどう でのマーケティング協定 きょうてい に合意 ごうい された。1908年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう はこの枠組 わくぐ みに参加 さんか し、路線 ろせん 図 ず や共同 きょうどう での宣伝 せんでん 、通 とお しの乗車 じょうしゃ 券 けん などに取 と り組 く んだ。ロンドンの中心 ちゅうしん 部 ぶ では、駅 えき の外部 がいぶ にUNDERGROUN Dの表示 ひょうじ が掲出 けいしゅつ された。最終 さいしゅう 的 てき にはロンドン地下 ちか 電気 でんき 鉄道 てつどう がメトロポリタン鉄道 てつどう とウォータールー・アンド・シティ鉄道 てつどう 以外 いがい のすべての地下鉄 ちかてつ を傘下 さんか におさめ、赤 あか い円形 えんけい に青 あお い棒 ぼう を備 そな えた駅名 えきめい 標 しるべ を導入 どうにゅう した。メトロポリタン鉄道 てつどう はこれに対 たい して、赤 あか い菱形 ひしがた に青 あお い棒 ぼう を示 しめ した駅名 えきめい 標 しるべ を導入 どうにゅう して対応 たいおう した。しかし、セントラル・ロンドン鉄道 てつどう が事前 じぜん の打 う ち合 あ わせなしに、競合 きょうごう するメトロポリタン鉄道 てつどう の路線 ろせん よりかなり安 やす く定期 ていき 券 けん の値段 ねだん を設定 せってい したことから、セルビーは1911年 ねん にゼネラルマネージャーの会議 かいぎ から引 ひ き揚 あ げ、会議 かいぎ を通 つう じたさらなる協同 きょうどう は行 い き詰 づま ることになった。地下鉄 ちかてつ グループとの合併 がっぺい 提案 ていあん はセルビーにより拒否 きょひ され、1912年 ねん 11月のプレスリリースで、メトロポリタン鉄道 てつどう はロンドン郊外 こうがい の地域 ちいき と、本線 ほんせん 鉄道 てつどう との関係 かんけい およびその貨物 かもつ 事業 じぎょう に関心 かんしん があると表明 ひょうめい した。
イースト・ロンドン鉄道 てつどう [ 編集 へんしゅう ]
1906年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう とディストリクト鉄道 てつどう がイースト・ロンドン鉄道 てつどう への直通 ちょくつう を打 う ち切 き って以来 いらい 、イースト・ロンドン鉄道 てつどう での運行 うんこう はサウス・イースタン鉄道 てつどう 、ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道 てつどう 、グレート・イースタン鉄道 てつどう によって行 おこな われていた。メトロポリタン鉄道 てつどう もディストリクト鉄道 てつどう も、この路線 ろせん を電化 でんか したいと思 おも っていたが、電化 でんか の費用 ひよう を正当 せいとう 化 か することができずにいた。議論 ぎろん は続 つづ けられ、1911年 ねん にイースト・ロンドン鉄道 てつどう は、ロンドン地下 ちか 電気 でんき 鉄道 てつどう からの供給 きょうきゅう 電力 でんりょく とメトロポリタン鉄道 てつどう による列車 れっしゃ 運行 うんこう で電化 でんか されることに合意 ごうい された。議会 ぎかい 承認 しょうにん は1912年 ねん に得 え られ、直通 ちょくつう 運転 うんてん は1913年 ねん 3月 がつ 31日 にち に再開 さいかい された。メトロポリタン鉄道 てつどう は、サウス・イースタン鉄道 てつどう のニュー・クロス駅 えき およびロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道 てつどう のニュー・クロス駅 えき の双方 そうほう からサウス・ケンジントン駅 えき まで1時 じ 間 あいだ に2本 ほん の列車 れっしゃ を走 はし らせ、また1時 じ 間 あいだ に8本 ほん のシャトル列車 れっしゃ を双方 そうほう のニュー・クロス駅 えき から交互 こうご にショアディッチ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) まで運行 うんこう した。
グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道 てつどう [ 編集 へんしゅう ]
グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道 てつどう は、グレート・ノーザン鉄道 てつどう からの列車 れっしゃ をフィンズベリー・パーク駅 えき からシティ・オブ・ロンドンのムーアゲート駅 えき へ直接 ちょくせつ 乗 の り入 い れられるようにするために計画 けいかく された。トンネルは本線 ほんせん の列車 れっしゃ が通 とお れるように内径 ないけい 16フィート(約 やく 4.9 m)で建設 けんせつ され、セントラル・ロンドン鉄道 てつどう の内径 ないけい 12フィート(約 やく 3.7 m)と対照 たいしょう をなしていた。グレート・ノーザン鉄道 てつどう は最終 さいしゅう 的 てき にこの計画 けいかく に反対 はんたい することになり、本線 ほんせん のフィンズベリー・パーク駅 えき の地下 ちか のトンネル内 ない を北 きた のターミナルとして1904年 ねん に開通 かいつう した。
グレート・ノーザン鉄道 てつどう が、シティ・ワイドンド線 せん を経由 けいゆ してムーアゲート駅 えき まで運転 うんてん している列車 れっしゃ を代 か わりにグレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道 てつどう 経由 けいゆ で運転 うんてん するのではないかと懸念 けねん して、メトロポリタン鉄道 てつどう はこの地下 ちか 線 せん の買収 ばいしゅう を試 こころ みた。1912年 ねん から1913年 ねん にかけて買収 ばいしゅう と、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道 てつどう をムーアゲート駅 えき とリバプール・ストリート駅 えき の間 あいだ でインナー・サークル線 せん に、そしてまたウォータールー&シティー線 せん に接続 せつぞく するように延長 えんちょう する法案 ほうあん が提出 ていしゅつ された。買収 ばいしゅう は認可 にんか されたが、シティの不動産 ふどうさん 所有 しょゆう 者 しゃ の反対 はんたい のために路線 ろせん の延長 えんちょう 工事 こうじ は法律 ほうりつ から除 のぞ かれてしまった。翌年 よくねん 、メトロポリタン鉄道 てつどう とグレート・ノーザン鉄道 てつどう が共同 きょうどう で、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道 てつどう とグレート・ノーザン鉄道 てつどう をフィンスベリー・パーク駅 えき で接続 せつぞく するように修正 しゅうせい した法案 ほうあん を提出 ていしゅつ した。しかし今回 こんかい はノース・ロンドン鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) に反対 はんたい されて、この法案 ほうあん は撤回 てっかい された。
戦争 せんそう とメトロ・ランド 1914年 ねん - 1932年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
1914年 ねん 7月 がつ 28日 にち に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ し、1914年 ねん 8月 がつ 5日 にち に鉄道 てつどう 運営 うんえい 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) を通 つう じてメトロポリタン鉄道 てつどう は政府 せいふ の管理 かんり 下 か に置 お かれた。多 おお くの職員 しょくいん が軍 ぐん に志願 しがん していなくなり、1915年 ねん からは女性 じょせい が出札 しゅっさつ 係 がかり や集 しゅう 札 さつ 係 がかり として雇 やと われるようになった。シティ・ワイドンド線 せん はイギリス海峡 かいきょう の港 みなと と北部 ほくぶ へ通 つう じる本線 ほんせん をつなぐ戦略 せんりゃく 的 てき に重要 じゅうよう な路線 ろせん とみなされ、兵員 へいいん や貨物 かもつ の輸送 ゆそう に用 もち いられた。戦争 せんそう の4年間 ねんかん でこの路線 ろせん に26,047本 ほん の軍用 ぐんよう 列車 れっしゃ が運転 うんてん され、合計 ごうけい 254,000トンにおよぶ物資 ぶっし が輸送 ゆそう されたが、急 きゅう カーブがあったため負傷 ふしょう 兵 へい を乗 の せて帰 かえ ってくる救急 きゅうきゅう 列車 れっしゃ はこの路線 ろせん を使 つか うことができなかった。政府 せいふ 管理 かんり は1921年 ねん 8月 がつ 15日 にち に終了 しゅうりょう した。
メトロ・ランドの開発 かいはつ [ 編集 へんしゅう ]
1921年 ねん に発行 はっこう されたメトロ・ランドガイドの表紙 ひょうし
余剰 よじょう の土地 とち は処分 しょぶん するように求 もと められていた他 ほか の鉄道 てつどう 会社 かいしゃ とは異 こと なり、メトロポリタン鉄道 てつどう は法律 ほうりつ の条項 じょうこう により、将来 しょうらい の鉄道 てつどう 用途 ようと に必要 ひつよう であると考 かんが える土地 とち を保持 ほじ する特権 とっけん を持 も っていた[note 30] 。当初 とうしょ は余剰 よじょう の土地 とち は、メトロポリタン鉄道 てつどう の取締役 とりしまりやく が構成 こうせい する土地 とち 委員 いいん 会 かい によって管理 かんり されていた。1880年代 ねんだい にメトロポリタン鉄道 てつどう がスイス・コテージ駅 えき より先 さき に路線 ろせん を延長 えんちょう し、ニーズデンに労働 ろうどう 者 しゃ 住宅 じゅうたく が建設 けんせつ していたのと同 どう 時期 じき に、ウィルズデン・パークの土地 とち に道路 どうろ や下水 げすい が整備 せいび され、土地 とち は建設 けんせつ 者 しゃ に売却 ばいきゃく された。同様 どうよう の開発 かいはつ はピナー近辺 きんぺん のセシル・パークでも行 おこな われ、ウェンブリーにおける塔 とう の失敗 しっぱい 後 ご 、ウェンブリー・パークの土地 とち 区画 くかく も売却 ばいきゃく された[note 31] 。
1912年 ねん に当時 とうじ ゼネラルマネージャーであったセルビーは、専門 せんもん 技術 ぎじゅつ が必要 ひつよう であると考 かんが えて、余剰 よじょう 土地 とち 委員 いいん 会 かい から土地 とち を買収 ばいしゅう して鉄道 てつどう 周辺 しゅうへん の不動産 ふどうさん を開発 かいはつ する会社 かいしゃ を設立 せつりつ する指示 しじ をした。しかし、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん のためにこの計画 けいかく は遅 おく れ、1919年 ねん に住宅 じゅうたく ブームを期待 きたい してメトロポリタン鉄道 てつどう 地方 ちほう 不動産 ふどうさん 会社 かいしゃ (Metropolitan Railway Country Estates Limited 、MRCE)が設立 せつりつ された。議会 ぎかい がメトロポリタン鉄道 てつどう の特別 とくべつ な地位 ちい を再考 さいこう することを懸念 けねん して、会社 かいしゃ は法的 ほうてき な助言 じょげん を求 もと めた。助言 じょげん によれば、メトロポリタン鉄道 てつどう は土地 とち を保有 ほゆう する権利 けんり を持 も ってはいたが、それを開発 かいはつ する権利 けんり は無 な いとされ、そのために1人 ひとり を除 のぞ くすべての取締役 とりしまりやく が鉄道 てつどう 会社 かいしゃ の取締役 とりしまりやく なのではあるが、独立 どくりつ した会社 かいしゃ が設立 せつりつ された。MRCEはニーズデン近郊 きんこう のキングズベリー・ガーデン・ビレッジやウェンブリー・パーク、セシル・パークやピナーのグレンジ・エステート、リックマンズワースのシダーズ・エステートなどの開発 かいはつ を行 おこな い、ハーロー・ガーデン・ビレッジ (英語 えいご 版 ばん ) のような場所 ばしょ を造成 ぞうせい した。
メトロ・ランド という言葉 ことば は、1915年 ねん に「延長 えんちょう 路線 ろせん の案内 あんない 」(Guide to the Extension Line ) という冊子 さっし が「メトロ・ランドガイド」(Metro-land guide ) に改称 かいしょう して1ペニーで販売 はんばい されるようになった際 さい に、メトロポリタン鉄道 てつどう のマーケティング部門 ぶもん が造語 ぞうご したものである。この冊子 さっし により、メトロポリタン鉄道 てつどう が販売 はんばい する土地 とち を訪問 ほうもん 者 しゃ や後 ご には家 いえ を探 さが す人 ひと に対 たい して宣伝 せんでん した。メトロポリタン鉄道 てつどう が独立 どくりつ して存続 そんぞく した最後 さいご の年 とし であった1932年 ねん まで毎年 まいとし 発行 はっこう され、「チルターンの素晴 すば らしい空気 くうき 」を「メトロ・ランドを愛好 あいこう する人 ひと には、各々 おのおの の好 この む森 もり のブナの木 き や雑木林 ぞうきばやし があるかもしれません。春 はる にはすべてが緑 みどり に、10月にはあずき色 しょく におののく素晴 すば らしさがあります」といった言葉 ことば を使 つか って宣伝 せんでん した。宣伝 せんでん された夢 ゆめ は、ロンドン都心 としん 部 ぶ への高速 こうそく な鉄道 てつどう の便 びん がある美 うつく しい郊外 こうがい に建 た つ近代 きんだい 的 てき な住宅 じゅうたく であった。
1914年 ねん 頃 ごろ から会社 かいしゃ は自身 じしん を「ザ・メット」(The Met ) という名 な で宣伝 せんでん したが、1920年 ねん 以降 いこう の宣伝 せんでん 担当 たんとう 管理 かんり 者 しゃ となったジョン・ワードルは、時刻 じこく 表 ひょう やその他 た の宣伝 せんでん 品 ひん に代 か わりに「メトロ」(Metro ) という言葉 ことば を使 つか うようにした[178] [note 32] 。土地 とち の開発 かいはつ はロンドン都心 としん 部 ぶ でも行 おこな われ、1929年 ねん には大 おお きくて豪華 ごうか な集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく 「チルターン・コート」がベイカー・ストリートに開設 かいせつ された[note 33] 。設計 せっけい はメトロポリタン鉄道 てつどう の建築 けんちく 家 か 、チャールズ・W・クラークで、当時 とうじ 彼 かれ はメトロランド周辺 しゅうへん の多 おお くの駅 えき の改築 かいちく の設計 せっけい に責任 せきにん を持 も っていた。
インフラストラクチャーの改良 かいりょう [ 編集 へんしゅう ]
郊外 こうがい への旅客 りょかく 輸送 ゆそう を改善 かいぜん するために、1920年 ねん に強力 きょうりょく で75マイル毎時 まいじ (約 やく 121 km/h )のH型 がた (英語 えいご 版 ばん ) が導入 どうにゅう され、続 つづ いて1922年 ねん から1923年 ねん にかけて最高 さいこう 速度 そくど 65マイル毎時 まいじ (約 やく 105 km/h)の新型 しんがた 電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ が導入 どうにゅう された。ニーズデンの発電 はつでん 所 しょ の発電 はつでん 能力 のうりょく はおよそ35メガワットへ増強 ぞうきょう され、1925年 ねん 1月 がつ 5日 にち にリックマンズワースまで電化 でんか が延伸 えんしん されて、機関 きかん 車 しゃ 交換 こうかん 地点 ちてん がそこまで伸 の ばされた。
1924年 ねん から1925年 ねん にかけて、大 だい 英 えい 帝国 ていこく 博覧 はくらん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) がウェンブリー・パーク・エステートで開 ひら かれ、隣接 りんせつ するウェンブリー・パーク駅 えき に新 あたら しい島 しま 式 しき ホームと博覧 はくらん 会場 かいじょう へつなぐ屋根 やね つきの橋 はし が建設 けんせつ されて改良 かいりょう された。メトロポリタン鉄道 てつどう 自身 じしん も博覧 はくらん 会 かい に出展 しゅってん し、1924年 ねん には電車 でんしゃ を、1925年 ねん にはこれに加 くわ えて15号 ごう 電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ を展示 てんじ し、後 のち にこれは「ウェンブリー1924」と命名 めいめい された。ワトキンの塔 とう の跡地 あとち にはスポーツ施設 しせつ のウェンブリー・スタジアム が建設 けんせつ された。スタジアムはこけら落 お としとして、1923年 ねん 4月 がつ 28日 にち に125,000人 にん の観客 かんきゃく を集 あつ めてFAカップ 決勝 けっしょう が開 ひら かれたが、スタジアムの公式 こうしき 収容 しゅうよう 人数 にんずう を超 こ える観客 かんきゃく が殺到 さっとう したため混乱 こんらん したものとなった。1926年 ねん に刊行 かんこう されたメトロランドでは、メトロポリタン鉄道 てつどう はこの日 ひ にウェンブリー・パークへ152,000人 にん の旅客 りょかく を輸送 ゆそう したと誇 ほこ っていた。
1925年 ねん には、リックマンズワースからワトフォード駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) までの支線 しせん が開通 かいつう した。ワトフォードには1837年 ねん 以来 いらい 鉄道 てつどう 駅 えき が存在 そんざい していたのだが[note 34] 、ワトフォード商人 しょうにん 協会 きょうかい が1895年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう に対 たい して、スタンモア経由 けいゆ でワトフォードまでの路線 ろせん を建設 けんせつ するという提案 ていあん を行 おこな った。彼 かれ らは1904年 ねん にも提案 ていあん を行 おこな い、その時 とき は地域 ちいき の郡 ぐん 議会 ぎかい とともに、より短 みじか いリックマンズワースからの支線 しせん を提示 ていじ した。可能 かのう な経路 けいろ が1906年 ねん に調査 ちょうさ され、1912年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう とグレート・セントラル鉄道 てつどう が合同 ごうどう でリックマンズワースからワトフォードの中心 ちゅうしん までの路線 ろせん を、カシオベリー公園 こうえん (英語 えいご 版 ばん ) を築堤 ちくてい で通過 つうか する形 かたち で建設 けんせつ するという法案 ほうあん を提出 ていしゅつ した。しかし築堤 ちくてい には反対 はんたい があり、駅 えき と貨物 かもつ 扱 あつか い設備 せつび は公園 こうえん のすぐ手前 てまえ に設 もう けられることになった。修正 しゅうせい された法案 ほうあん は1912年 ねん 8月 がつ 7日 にち に通過 つうか し、ワトフォード合同 ごうどう 委員 いいん 会 かい が設立 せつりつ されたが、1914年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ により建設 けんせつ は遅 おく れることになった。戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 後 ご 、1921年 ねん 通商 つうしょう 施設 しせつ 法 ほう により雇用 こよう を促進 そくしん する投資 とうし 計画 けいかく に対 たい して政府 せいふ が財務 ざいむ 的 てき な保証 ほしょう を行 おこな うことになり、これを利用 りよう して建設 けんせつ は1922年 ねん に開始 かいし された。この路線 ろせん の建設 けんせつ 中 ちゅう 、1921年 ねん 鉄道 てつどう 法 ほう によるグループ化 か により、1923年 ねん にグレート・セントラル鉄道 てつどう はロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 てつどう となった。延長線 えんちょうせん と支線 しせん が交差 こうさ する地点 ちてん には2つの分岐 ぶんき 点 てん が設 もう けられ、列車 れっしゃ はリックマンズワースに対 たい しても南 みなみ へロンドンへ向 む かっても走 はし れるようになっていた。途中 とちゅう 駅 えき はクロックスリー・グリーン駅 えき (現在 げんざい のクロックスリー駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) )のみで、1925年 ねん 11月3日 にち に運行 うんこう が開始 かいし され、列車 れっしゃ はメトロポリタン鉄道 てつどう の電車 でんしゃ によりムーア・パーク駅 えき 、ベイカー・ストリート駅 えき 経由 けいゆ リバプール・ストリート駅 えき 行 い きと、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 てつどう の蒸気 じょうき 機関 きかん 車列 しゃれつ 車 しゃ によりメリルボーン駅 えき 行 い きが運転 うんてん された。メトロポリタン鉄道 てつどう はまた、ワトフォードとリックマンズワースの間 あいだ のシャトル列車 れっしゃ も運行 うんこう した。1924年 ねん から1925年 ねん にかけてハーローの北 きた の平面 へいめん 交差 こうさ は全長 ぜんちょう 1,200フィート(約 やく 370 m)の立体 りったい 交差 こうさ に置 お き換 か えられ、アクスブリッジ支線 しせん への列車 れっしゃ と本線 ほんせん への列車 れっしゃ を分離 ぶんり した。
1925年 ねん に作 つく られた、フィンチリー・ロード駅 えき とベイカー・ストリート駅 えき 間 あいだ の線路 せんろ 容量 ようりょう 緩和 かんわ のためのキルバーン・アンド・ブロンデスベリー駅 えき からエッジウェア・ロード駅 えき までの救済 きゅうさい 路線 ろせん 計画 けいかく
当初 とうしょ のメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 てつどう のベイカー・ストリート駅 えき までのトンネルへ入 はい るために、複々線 ふくふくせん の急行 きゅうこう 線 せん と緩行 かんこう 線 せん が通常 つうじょう の複線 ふくせん に合流 ごうりゅう する、フィンチリー・ロード駅 えき のボトルネックはまだ残 のこ っていた。1925年 ねん に、メトロポリタン鉄道 てつどう の車両 しゃりょう を通 とお せる大 おお きさの2本 ほん の新 あたら しい地下鉄 ちかてつ トンネルを建設 けんせつ するという計画 けいかく が作 つく られた。この路線 ろせん はキルバーン・アンド・ブロンデスベリー駅 えき の北 きた の分岐 ぶんき 点 てん で分岐 ぶんき し、キルバーン・ハイ・ストリート、マイダ・ベール・アンド・エッジウェア・ロードの下 した を通 とお ってベイカー・ストリート駅 えき へ行 い くものであった。この計画 けいかく にはクエックス・ロード、キルバーン・パーク・ロード、クリフトン・ロードの3つの新駅 しんえき が含 ふく まれていたが、運輸省 うんゆしょう が旅客 りょかく 線 せん に対 たい する要求 ようきゅう を改訂 かいてい して、地下 ちか 深 ふか いトンネルを走行 そうこう する列車 れっしゃ に対 たい しては両 りょう 端 はし に非常口 ひじょうぐち を設 もう けることを要求 ようきゅう したため、計画 けいかく は進展 しんてん しなかった。ハーローより北 きた で使用 しよう されているコンパートメント式 しき の車両 しゃりょう はこの要求 ようきゅう を満 み たさなかったのである。しかし、エッジウェア・ロード駅 えき はプラットホーム4本 ほん に改築 かいちく され、列車 れっしゃ 行先 いきさき 表示 ひょうじ 装置 そうち にバーニー・ジャンクションやアクスブリッジなどの駅名 えきめい が準備 じゅんび された。
1920年代 ねんだい 、オフピークにはウェンブリー・パークからベイカー・ストリートまで4 - 5分 ふん おきに列車 れっしゃ が運転 うんてん されていた。ワトフォードとアクスブリッジのそれぞれから、1時 じ 間 あいだ 当 あ たり2本 ほん の列車 れっしゃ がウェンブリー・パークからはノンストップで運転 うんてん され、レイナーズ・レーン、ウェンブリー・パーク、ニーズデンからの各駅 かくえき 停車 ていしゃ もあったが、これらのほとんどはマールバラ・ロードとセント・ジョンズ・ウッド・ロードには停車 ていしゃ しなかった。オフピークにはムーア・パーク以北 いほく の駅 えき にはメリルボーンからの列車 れっしゃ が停車 ていしゃ した。ピーク時 じ には、2.5分 ふん から3分 ふん おきにベイカー・ストリート駅 えき に列車 れっしゃ が到着 とうちゃく し、半分 はんぶん はムーアゲート、リバプール・ストリート、アルドゲートへ直通 ちょくつう した。インナー・サークル線 せん では、ハマースミスからの列車 れっしゃ はベイカー・ストリートを6分 ふん おきに通過 つうか する一方 いっぽう 、ケンジントン(アディソン・ロード)からの列車 れっしゃ はエッジウェア・ロードで打 う ち切 き られた。サークル線 せん において1時 じ 間 あいだ に10本 ほん の列車 れっしゃ 頻度 ひんど を保 たも つのは困難 こんなん であるとわかったため、ディストリクト鉄道 てつどう がプットニーとケンジントン・ハイ・ストリートの間 あいだ で運転 うんてん していた列車 れっしゃ をサークル線 せん のエッジウェア・ロードまで新 あたら しいプラットホームを利用 りよう することで延長 えんちょう し、メトロポリタン鉄道 てつどう はインナー・サークル線 せん の列車 れっしゃ を1時 じ 間 あいだ に8本 ほん 運転 うんてん することになった[note 35] 。
キャノンズ・パーク (英語 えいご 版 ばん ) での新 あたら しい住宅 じゅうたく 開発 かいはつ への便 びん を提供 ていきょう するために、ウェンブリー・パーク、からスタンモアまでの支線 しせん の建設 けんせつ が1929年 ねん に始 はじ まった。途中 とちゅう 駅 えき はキングズベリー駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、キャノンズ・パーク(エッジウェア)駅 えき (1933年 ねん にキャノンズ・パーク駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) に改称 かいしょう )、スタンモア駅 えき であった。今回 こんかい もまた政府 せいふ は、今度 こんど は開発 かいはつ 融資 ゆうし 保証 ほしょう ・供与 きょうよ 法 ほう の下 した に財務 ざいむ 保証 ほしょう を与 あた え、この計画 けいかく でまたウェンブリー・パーク、からハーローまでが複々線 ふくふくせん 化 か された。この路線 ろせん は当初 とうしょ から電化 でんか されており、またウェンブリー・パークの信号 しんごう 扱所から制御 せいぎょ される自動 じどう 色 しょく 灯 とう 式 しき 信号 しんごう 機 き を備 そな えており、1932年 ねん 12月9日 にち に開業 かいぎょう した。
ロンドン旅客 りょかく 運輸 うんゆ 公社 こうしゃ 1933年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
ロンドン地下 ちか 電気 でんき 鉄道 てつどう と異 こと なり、メトロポリタン鉄道 てつどう は沿線 えんせん のメトロランドでの住宅 じゅうたく 開発 かいはつ から直接 ちょくせつ 収益 しゅうえき を得 え ており、その設立 せつりつ 以来 いらい 株主 かぶぬし に対 たい して配当 はいとう を支払 しはら い続 つづ けていた。当初 とうしょ の会計 かいけい は信頼 しんらい できないものの、19世紀 せいき 末 まつ までには約 やく 5パーセントの配当 はいとう を支払 しはら っていた。この数値 すうち は1900年 ねん 以降 いこう 、路面 ろめん 電車 でんしゃ やセントラル・ロンドン鉄道 てつどう が旅客 りょかく を奪 うば っていったため降下 こうか し始 はじ め、1907年 ねん から1908年 ねん にかけては0.5パーセントまで低下 ていか した。電化 でんか 後 ご 旅客 りょかく が戻 もど ってきたため1911年 ねん から1913年 ねん にかけては2パーセントに戻 もど り、1914年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ で1パーセントに減 へ った。1921年 ねん までには十分 じゅうぶん 回復 かいふく して2.25パーセントの配当 はいとう を支払 しはら えるようになり、その後 ご 戦後 せんご の住宅 じゅうたく ブームにより着実 ちゃくじつ に上昇 じょうしょう して1924年 ねん から1925年 ねん にかけては5パーセントに達 たっ した。1926年 ねん イギリスゼネラルストライキ (英語 えいご 版 ばん ) により3パーセントに減少 げんしょう したが、1929年 ねん には4パーセントに回復 かいふく した。
1913年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう は、ロンドン地下 ちか 電気 でんき 鉄道 てつどう からの合併 がっぺい 提案 ていあん を拒絶 きょぜつ し、ロバート・セルビーのリーダーシップの下 した 頑固 がんこ に独立 どくりつ を保 たも ち続 つづ けていた。1921年 ねん 8月 がつ 19日 にち に成立 せいりつ した1921年 ねん 鉄道 てつどう 法 ほう では、ロンドンの地下鉄 ちかてつ 道 どう 会社 かいしゃ はグループ化 か されるべき会社 かいしゃ に含 ふく まれなかったが、法案 ほうあん の段階 だんかい ではメトロポリタン鉄道 てつどう も含 ふく まれていた。1930年 ねん に、ロンドンの公共 こうきょう 交通 こうつう を統合 とうごう するという提案 ていあん が出 だ された際 さい には、メトロポリタン鉄道 てつどう は貨物 かもつ 営業 えいぎょう をしているので、本線 ほんせん の4大 だい グループ鉄道 てつどう 会社 かいしゃ と同 おな じ地位 ちい であってロンドン地下 ちか 電気 でんき 鉄道 てつどう とは性格 せいかく が違 ちが うと主張 しゅちょう したが、政府 せいふ はメトロポリタン鉄道 てつどう がディストリクト鉄道 てつどう と共同 きょうどう でインナー・サークル線 せん を運営 うんえい していたことから、同 おな じようなものとみなしていた。主 おも に小 ちい さな独立 どくりつ バス事業 じぎょう をうまく協調 きょうちょう させることを目的 もくてき としていたロンドン旅客 りょかく 運輸 うんゆ 法 ほう が1931年 ねん 3月 がつ 13日 にち に提出 ていしゅつ されたのち、メトロポリタン鉄道 てつどう はこれに対 たい して11,000ポンドを費 つい やして反対 はんたい した。法案 ほうあん は1931年 ねん に政府 せいふ による改定 かいてい を加 くわ えられながらも残 のこ り、新 しん 政権 せいけん がサークル線 せん への走行 そうこう 用 よう 電力 でんりょく の供給 きょうきゅう を手放 てばな すならばメトロポリタン鉄道 てつどう は独立 どくりつ を維持 いじ できるという提案 ていあん を行 おこな ったが、メトロポリタン鉄道 てつどう はこれに反応 はんのう を示 しめ さなかった。経営 けいえい 者 しゃ はここで株主 かぶぬし への補償 ほしょう 交渉 こうしょう に転 てん じた。この時点 じてん ですでにバスとの競争 きょうそう や世界 せかい 恐慌 きょうこう により旅客 りょかく 数 すう が減少 げんしょう し始 はじ めていたのである。1年 ねん を通 とお して運営 うんえい した最後 さいご の年 とし である1932年 ねん には、1.625パーセントの配当 はいとう が払 はら われた。1933年 ねん 7月 がつ 1日 にち にロンドン旅客 りょかく 運輸 うんゆ 公社 こうしゃ が発足 ほっそく し、メトロポリタン鉄道 てつどう は他 た の地下鉄 ちかてつ 道 どう 会社 かいしゃ 、路面 ろめん 電車 でんしゃ 会社 かいしゃ 、バス事業 じぎょう 者 しゃ とともに吸収 きゅうしゅう 合併 がっぺい された。メトロポリタン鉄道 てつどう の株主 かぶぬし はロンドン旅客 りょかく 運輸 うんゆ 公社 こうしゃ の株式 かぶしき の形 かたち で1970万 まん ポンドを受 う け取 と った[note 36] 。
メトロポリタン鉄道 てつどう はロンドン地下鉄 ちかてつ のメトロポリタン線 せん となり、郊外 こうがい の一部 いちぶ の路線 ろせん は廃止 はいし となった。ブリル支線 しせん は1935年 ねん に、続 つづ いてクエイントン・ロード - バーニー・ジャンクション間 あいだ は1936年 ねん に廃止 はいし となった。ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 てつどう が蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ による列車 れっしゃ 運行 うんこう と貨物 かもつ 運行 うんこう を引 ひ き継 つ いだ。1936年 ねん にメトロポリタン線 せん の列車 れっしゃ がディストリクト線 せん によりホワイトチャペル駅 えき からバーキング駅 えき まで延長 えんちょう された。ニュー・ワークス・プログラム (英語 えいご 版 ばん ) により1939年 ねん にベーカールー線 せん がベイカー・ストリート駅 えき から新 あたら しい2本 ほん のトンネルでフィンチリー・ロード駅 えき まで通 つう じ、さらにウェンブリー・パーク駅 えき までの途中 とちゅう 駅 えき とスタンモア支線 しせん を引 ひ き継 つ いだ。この支線 しせん は後 のち に、ジュビリー線 せん が1979年 ねん に開通 かいつう した際 さい にジュビリー線 せん に移管 いかん された。グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道 てつどう は孤立 こりつ 路線 ろせん として残 のこ り、ノーザン線 せん として運行 うんこう されたが、1976年 ねん にイギリス国鉄 こくてつ に引 ひ き継 つ がれた。
蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ は1960年代 ねんだい 初期 しょき までリックマンズワースの北 きた で使用 しよう されたが、アマーシャムまでの路線 ろせん が電化 でんか されて電車 でんしゃ が導入 どうにゅう され、ロンドン交通 こうつう 局 きょく はアマーシャム以北 いほく の運行 うんこう からは撤退 てったい したことで蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ はなくなった。1988年 ねん にハマースミスからアルドゲートとバーキングまでの区間 くかん はハマースミス&シティー線 せん となり、ニュー・クロスからショアディッチまではイーストロンドン線 せん となって、アルドゲートからベイカー・ストリートまで、そしてそこから北 きた へハーローを通 とお る線 せん がメトロポリタン線 せん として残 のこ った。
1933年 ねん の統合 とうごう 後 ご 、メトロランドというブランドは急速 きゅうそく に使 つか われなくなった。20世紀 せいき 半 なか ばころには、メトロランドの精神 せいしん は1954年 ねん に発行 はっこう された詩集 ししゅう 「何 なん 本 ほん かの晩 ばん 菊 きく 」に収録 しゅうろく されたジョン・ベチェマン (英語 えいご 版 ばん ) の詩 し 「メトロポリタン鉄道 てつどう 」などで記憶 きおく され[211] 、後 のち に1973年 ねん 2月 がつ 26日 にち に初 はじ めて放送 ほうそう されたテレビドキュメンタリー「メトロランド (英語 えいご 版 ばん ) 」でさらに広 ひろ く知 し られるようになった[212] 。メトロランドの郊外 こうがい は、1980年 ねん に初 はじ めて発行 はっこう されたジュリアン・バーンズ の教養 きょうよう 小説 しょうせつ 「メトロランド (英語 えいご 版 ばん ) 」の舞台 ぶたい となった[213] 。この小説 しょうせつ に基 もと づくやはりメトロランド (英語 えいご 版 ばん ) という映画 えいが は1997年 ねん に公開 こうかい された[214] 。
1880年 ねん までメトロポリタン鉄道 てつどう は自社 じしゃ では貨物 かもつ 列車 れっしゃ を運行 うんこう しておらず、1866年 ねん 2月 がつ 20日 はつか からグレート・ノーザン鉄道 てつどう がファリンドン・ストリート駅 えき を経由 けいゆ してロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道 てつどう までの貨物 かもつ 列車 れっしゃ をメトロポリタン鉄道 てつどう の線路 せんろ を使用 しよう して運転 うんてん を開始 かいし した。続 つづ いてミッドランド鉄道 てつどう からの貨物 かもつ 列車 れっしゃ も1868年 ねん 7月 がつ に運行 うんこう を開始 かいし した。グレート・ノーザン鉄道 てつどう 、グレート・ウェスタン鉄道 てつどう 、ミッドランド鉄道 てつどう ともファリンドン地区 ちく に貨物 かもつ 扱 あつか い設備 せつび を開設 かいせつ し、シティ・ワイドンド線 せん からこの施設 しせつ に通 つう じるようになっていた。しかし、メトロポリタン鉄道 てつどう がベイカー・ストリート駅 えき から外 そと へ向 む けて路線 ろせん を拡張 かくちょう していくと、貨物 かもつ 列車 れっしゃ が重要 じゅうよう なものとなっていった。1880年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう はハーロー・ディトリクトガス会社 かいしゃ から石炭 せきたん 輸送 ゆそう を獲得 かくとく し、フィンチリー・ロード駅 えき に設 もう けたミッドランド鉄道 てつどう との受 う け渡 わた し側線 そくせん からハーローの石炭 せきたん ヤードまでの輸送 ゆそう を行 おこな った。延長 えんちょう 路線 ろせん が建設 けんせつ される際 さい には、ほとんどの駅 えき に貨物 かもつ 扱 あつか い設備 せつび と石炭 せきたん 基地 きち が併設 へいせつ された。ロンドン向 む けの貨物 かもつ は当初 とうしょ はウィルズデンで取 と り扱 あつか われ、そこから道路 どうろ で配送 はいそう されるかミッドランド鉄道 てつどう に受 う け渡 わたし された。グレート・セントラル鉄道 てつどう が建設 けんせつ されたことで、北 きた はクエイントン・ロードで、そして南 みなみ へはニーズデン経由 けいゆ でアクトンやキューへと接続 せつぞく された。
ヴァイン・ストリート貨物 かもつ 扱 あつか い施設 しせつ への入口 いりくち 、1910年代 ねんだい
1909年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう はファリンドン近 ちか くに、貨車 かしゃ 7両分 りょうぶん の延長 えんちょう の側線 そくせん 2本 ほん を備 そな えるヴァイン・ストリート貨物 かもつ 扱 あつか い施設 しせつ を開設 かいせつ し、ウェスト・ハンプステッドから定期 ていき 列車 れっしゃ を運行 うんこう した[note 37] 。貨物 かもつ 列車 れっしゃ は電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ で牽引 けんいん され、最大 さいだい 14両 りょう の貨車 かしゃ をつなぎ、重量 じゅうりょう は都心 としん へ向 む かう時 とき は250ロングトン(約 やく 254メートルトン)に、郊外 こうがい へ向 む かう時 とき は225ロングトン(約 やく 229メートルトン)に制限 せいげん されていた。1910年 ねん にはこの貨物 かもつ 扱 あつか い施設 しせつ では11,400ロングトン(約 やく 11,600メートルトン)を扱 あつか い、1915年 ねん には25,100ロングトン(約 やく 25,500メートルトン)に増加 ぞうか した。1913年 ねん にはこの貨物 かもつ 扱 あつか い施設 しせつ は容量 ようりょう の限界 げんかい を超 こ えていると報告 ほうこく されていたが、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 自動車 じどうしゃ 輸送 ゆそう が重要 じゅうよう な競合 きょうごう 者 しゃ となり、1920年代 ねんだい 末 まつ までには輸送 ゆそう 量 りょう は管理 かんり 可能 かのう なレベルまで減少 げんしょう した。
蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ と、ニーズデンにある会社 かいしゃ の火力 かりょく 発電 はつでん 所 しょ 、そして地域 ちいき のガス工場 こうじょう 向 む けの石炭 せきたん は、クエイントン・ロード駅 えき 経由 けいゆ で運 はこ び込 こ まれていた。牛乳 ぎゅうにゅう はヴェール・オブ・エイルズベリーからロンドン郊外 こうがい へ輸送 ゆそう され、食料 しょくりょう 品 ひん はヴァイン・ストリートからアクスブリッジにある大 だい 規模 きぼ 小売 こうり 商 しょう アルフレッド・バトン・アンド・サンへと輸送 ゆそう された。ビリングスゲート魚 ぎょ 市場 いちば (英語 えいご 版 ばん ) へメトロポリタン鉄道 てつどう とディストリクト鉄道 てつどう の合同 ごうどう 駅 えき モニュメント駅 えき を経由 けいゆ して運 はこ ばれる魚 さかな は、駅 えき 入口 いりくち を「言葉 ことば で表 あらわ せないくらい不潔 ふけつ な状況 じょうきょう 」にするとして苦情 くじょう を受 う けることになった。ディストリクト鉄道 てつどう は魚 さかな 専用 せんよう の出入口 でいりぐち を設 もう けることを示唆 しさ したが、そうした措置 そち が実際 じっさい に講 こう じられることは無 な かった。グレート・セントラル鉄道 てつどう がメリルボーンまでの自動車 じどうしゃ 輸送 ゆそう を導入 どうにゅう したことで輸送 ゆそう 量 りょう はかなり減少 げんしょう したが、この問題 もんだい は1936年 ねん まで残 のこ り、ロンドン旅客 りょかく 運輸 うんゆ 公社 こうしゃ がインナー・サークル線 せん の列車 れっしゃ での小荷物 こにもつ 輸送 ゆそう を廃止 はいし する1つの原因 げんいん にも挙 あ げられた。
当初 とうしょ は道路 どうろ 輸送 ゆそう での配達 はいたつ 業務 ぎょうむ は契約 けいやく 業者 ぎょうしゃ が使用 しよう されていたが、1919年 ねん からメトロポリタン鉄道 てつどう は自社 じしゃ で配送 はいそう 業務 ぎょうむ を行 おこな うようになった。ロンドン地下鉄 ちかてつ の一部 いちぶ となる前 まえ の1932年 ねん には、会社 かいしゃ は544両 りょう の貨物 かもつ 車両 しゃりょう を有 ゆう し、162,764ロングトン(約 やく 165,376メートルトン)の石炭 せきたん 、2,478,212ロングトン(約 やく 2,517,980メートルトン)の原料 げんりょう 、1,015,501ロングトン(約 やく 1,031,797メートルトン)の貨物 かもつ を輸送 ゆそう した。
鉄道 てつどう 車両 しゃりょう [ 編集 へんしゅう ]
蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ [ 編集 へんしゅう ]
1925年 ねん に貨物 かもつ 列車 れっしゃ 牽引 けんいん 用 よう にメトロポリタン鉄道 てつどう に6両 りょう が導入 どうにゅう された車軸 しゃじく 配置 はいち 2-6-4のK型 がた 蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ
地下 ちか トンネル内 ない での排気 はいき 問題 もんだい への懸念 けねん から、蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ の新 あたら しい設計 せっけい が生 う み出 だ されることになった。路線 ろせん が開通 かいつう する前 まえ の1861年 ねん に、ファウラーズ・ゴースト (英語 えいご 版 ばん ) とニックネームを付 つ けられた実験 じっけん 機関 きかん 車 しゃ により試験 しけん が行 おこな われた。これは不 ふ 成功 せいこう に終 お わり、最初 さいしょ の営業 えいぎょう 列車 れっしゃ はグレート・ウェスタン鉄道 てつどう の広軌 こうき の復 ふく 水 すい 式 しき 蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ であるグレート・ウェスタン鉄道 てつどう メトロポリタン型 がた 蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) により牽引 けんいん された。これはダニエル・グーチ が設計 せっけい した車軸 しゃじく 配置 はいち 2-4-0のタンク機関 きかん 車 しゃ であった。さらにメトロポリタン鉄道 てつどう が自身 じしん の車軸 しゃじく 配置 はいち 4-4-0のタンク機関 きかん 車 しゃ を導入 どうにゅう するまで、標準軌 ひょうじゅんき のグレート・ノーザン鉄道 てつどう の蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ が用 もち いられた。これらの機関 きかん 車 しゃ はマンチェスターのベイヤー・ピーコック 製 せい であった。設計 せっけい はしばしばメトロポリタン鉄道 てつどう の技術 ぎじゅつ 者 しゃ ジョン・ファウラーのものだとされるが、しかし実際 じっさい には機関 きかん 車 しゃ はベイヤー・ピーコックがスペインのトゥデラ・ビルバオ鉄道 てつどう 向 む けに製造 せいぞう した機関 きかん 車 しゃ の発展形 はってんけい であり、ファウラーは単 たん に動輪 どうりん の直径 ちょっけい 、軸 じく 重 じゅう と曲線 きょくせん への対応 たいおう 性能 せいのう を指示 しじ しただけであった。1864年 ねん に18両 りょう が発注 はっちゅう され、当初 とうしょ は個別 こべつ に名前 なまえ が付 つ けられていた。1870年 ねん までに合計 ごうけい 40両 りょう が製造 せいぞう された。地下 ちか での煙 けむり を減 へ らすために、当初 とうしょ はコークス が燃料 ねんりょう に用 もち いられ、1869年 ねん にウェールズ産 さん 無煙炭 むえんたん に切 き り替 か えられた。
1879年 ねん からさらに機関 きかん 車 しゃ が必要 ひつよう とされ、設計 せっけい が更新 こうしん されて合計 ごうけい 24両 りょう の新型 しんがた 機関 きかん 車 しゃ が1879年 ねん から1885年 ねん にかけて納入 のうにゅう された。当初 とうしょ はこの機関 きかん 車 しゃ は明 あか るいオリーブグリーンに塗 ぬ られ黒 くろ と黄 き の線 せん が入 はい り、煙突 えんとつ は頂 いただき 部 ぶ が銅 どう で造 つく られ、前部 ぜんぶ には真鍮 しんちゅう で作 つく られた数字 すうじ で機関 きかん 車 しゃ 番号 ばんごう が示 しめ され、蒸気 じょうき ドームは磨 みが かれた真鍮 しんちゅう でできていた。1885年 ねん に塗装 とそう が変更 へんこう され、ミッドケアド (Midcared ) として知 し られる暗 くら い赤 あか になった。これは標準 ひょうじゅん 色 しょく として残 のこ り、ロンドン交通 こうつう 局 きょく によって1933年 ねん にメトロポリタン線 せん の色 いろ と定 さだ められた。1925年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう が機関 きかん 車 しゃ をアルファベットの文字 もじ で分類 ぶんるい した際 さい に、これらの機関 きかん 車 しゃ はA型 がた およびB型 がた となった。メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 てつどう の建設 けんせつ 中 ちゅう 、A型 がた とB型 がた ではこの線 せん の勾配 こうばい には適 てき さないと考 かんが えられ、5両 りょう の車軸 しゃじく 配置 はいち 0-6-0のタンク機関 きかん 車 しゃ が1868年 ねん に納入 のうにゅう された。しかし、A型 がた とB型 がた は特 とく に問題 もんだい なく列車 れっしゃ を牽引 けんいん することができることが判明 はんめい し、この0-6-0タンク機関 きかん 車 しゃ は1873年 ねん と1875年 ねん にタフ・ヴェール鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) に売却 ばいきゃく された。
1891年 ねん からは、ベイカー・ストリート駅 えき から郊外 こうがい へ向 む けての延長 えんちょう 路線 ろせん での運用 うんよう のためにさらなる機関 きかん 車 しゃ が必要 ひつよう とされるようになった。サウス・イースタン鉄道 てつどう のQ型 がた (英語 えいご 版 ばん ) の発展形 はってんけい である、車軸 しゃじく 配置 はいち 0-4-4のC型 がた (英語 えいご 版 ばん ) が1891年 ねん に4両 りょう 導入 どうにゅう された。1894年 ねん に2両 りょう のD型 がた (英語 えいご 版 ばん ) がエイルズベリーとバーニー・ジャンクション間 あいだ での運用 うんよう のために導入 どうにゅう された。これらの機関 きかん 車 しゃ は、フィンチリー・ロード駅 えき より南 みなみ で運用 うんよう するために必要 ひつよう な復 ふく 水 すい 設備 せつび を搭載 とうさい していなかった。1896年 ねん に車軸 しゃじく 配置 はいち 0-4-4のE型 がた (英語 えいご 版 ばん ) 2両 りょう が自社 じしゃ のニーズデン工場 こうじょう で製造 せいぞう され、さらに事故 じこ で損傷 そんしょう した当初 とうしょ のA型 がた 1号機 ごうき を代替 だいたい するために1898年 ねん に1両 りょう が追加 ついか された。さらに4両 りょう がホーソン・レスリー で1900年 ねん から1901年 ねん にかけて製造 せいぞう された。延長 えんちょう 路線 ろせん における貨物 かもつ 輸送 ゆそう 量 りょう 増大 ぞうだい に対応 たいおう するために、1901年 ねん に車軸 しゃじく 配置 はいち 0-6-2のF型 がた (英語 えいご 版 ばん ) が4両 りょう 導入 どうにゅう された。これは車軸 しゃじく 配置 はいち が違 ちが い蒸気 じょうき 暖房 だんぼう の設備 せつび が無 な いという点 てん を除 のぞ けばE型 がた に類似 るいじ するものであった。1897年 ねん と1899年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう は2両 りょう の車軸 しゃじく 配置 はいち 0-6-0のサドルタンク機関 きかん 車 しゃ を、ペケット・アンド・サンズ (英語 えいご 版 ばん ) の標準 ひょうじゅん 設計 せっけい で導入 どうにゅう した。これらの機関 きかん 車 しゃ は正式 せいしき には形式 けいしき 分類 ぶんるい されず、ニーズデンとハーローにおける入 にゅう 換 かわ に主 おも に使用 しよう された。
1905年 ねん から1906年 ねん にかけてロンドン市内 しない の路線 ろせん 網 もう が電化 でんか されたことで、多 おお くの機関 きかん 車 しゃ が不要 ふよう となった。1907年 ねん までに古 ふる いA型 がた 、B型 がた の機関 きかん 車 しゃ のうち40両 りょう が売却 ばいきゃく されるか解体 かいたい され、1914年 ねん 時点 じてん ではこれらの形式 けいしき のうち13両 りょう のみが残存 ざんそん しており、入 にゅう 換 かわ 、ブリル軌道 きどう における事業 じぎょう 用 よう ・工事 こうじ 用 よう 列車 れっしゃ などに使用 しよう されていた。旅客 りょかく 用 よう ・貨物 かもつ 用 よう ともにさらに強力 きょうりょく な機関 きかん 車 しゃ が必要 ひつよう とされ、1915年 ねん には4両 りょう のG型 がた (英語 えいご 版 ばん ) (車軸 しゃじく 配置 はいち 0-6-4)がヨークシャー・エンジンから調達 ちょうたつ された。最高 さいこう 速度 そくど 75マイル毎時 まいじ (約 やく 121 km/h)のH型 がた (英語 えいご 版 ばん ) (車軸 しゃじく 配置 はいち 4-4-4)は、1920年 ねん と1921年 ねん にかけて8両 りょう 製造 せいぞう され、主 おも に急行 きゅうこう 旅客 りょかく 運用 うんよう に用 もち いられた。貨物 かもつ 列車 れっしゃ をより長 なが くし、高速 こうそく にして列車 れっしゃ 本数 ほんすう を減 へ らすために、1925年 ねん に6両 りょう の貨物 かもつ 用 よう K型 がた (英語 えいご 版 ばん ) (車軸 しゃじく 配置 はいち 2-6-4)が、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご にウーリッジのロイヤル・アーセナル (英語 えいご 版 ばん ) が製造 せいぞう した車軸 しゃじく 配置 はいち 2-6-0の蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ からの改造 かいぞう で導入 どうにゅう された。これらの機関 きかん 車 しゃ はフィンチリー・ロードより南側 みなみがわ で運行 うんこう することは認 みと められていなかった。
2両 りょう の機関 きかん 車 しゃ が保存 ほぞん されている。A型 がた の23号 ごう がロンドン交通 こうつう 博物館 はくぶつかん [239] に、E型 がた の1号 ごう がバッキンガムシャー鉄道 てつどう センター (英語 えいご 版 ばん ) に保存 ほぞん されている[240] 。1号 ごう はメトロポリタン鉄道 てつどう の150周年 しゅうねん 記念 きねん イベントで2013年 ねん 1月 がつ に蒸気 じょうき での走行 そうこう を行 おこな い[241] 、2013年 ねん 2月 がつ 時点 じてん では2013年 ねん 後半 こうはん にも操 みさお 向 むかい が予定 よてい されている[242] 。
メトロポリタン鉄道 てつどう は当初 とうしょ 自社 じしゃ では車両 しゃりょう を保有 ほゆう せず開業 かいぎょう し、最初 さいしょ はグレート・ウェスタン鉄道 てつどう が、続 つづ いてグレート・ノーザン鉄道 てつどう が運行 うんこう を行 おこな った。グレート・ウェスタン鉄道 てつどう はチーク 製 せい の8輪 りん コンパートメント式 しき 客車 きゃくしゃ を使用 しよう した。1864年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう は、グレート・ウェスタン鉄道 てつどう の設計 せっけい に基 もと づくが標準軌 ひょうじゅんき に手直 てなお ししたものを、アシュベリー鉄道 てつどう 車両 しゃりょう ・鉄工 てっこう 所 しょ (英語 えいご 版 ばん ) 製 せい の自社 じしゃ 車両 しゃりょう として導入 どうにゅう した[note 38] 。照明 しょうめい はガス灯 がすとう 式 しき で、一等 いっとう 客室 きゃくしつ には2灯 とう 、二 に 等 とう と三 さん 等 とう の客室 きゃくしつ には1灯 とう が灯 とも されていた。1877年 ねん から圧力 あつりょく 式 しき 石油 せきゆ ガスシステムが使用 しよう された。当初 とうしょ は客車 きゃくしゃ は、列車 れっしゃ の前部 ぜんぶ か後部 こうぶ に設 もう けた車掌 しゃしょう 室 しつ から手 て で操作 そうさ する木製 もくせい 制 せい 輪 わ 子 こ によりブレーキがかけられており、独特 どくとく の臭 にお いがした。これは1869年 ねん に鎖 くさり ですべての客車 きゃくしゃ のブレーキを動作 どうさ させる方式 ほうしき に変更 へんこう された。チェーンによるブレーキは突然 とつぜん 動作 どうさ し、旅客 りょかく が負傷 ふしょう することもあり、1876年 ねん には直通 ちょくつう 真空 しんくう ブレーキ に置 お き換 か えられた。1890年代 ねんだい に、サークル線 せん の列車 れっしゃ の一部 いちぶ の客車 きゃくしゃ で、機械 きかい 的 てき な次 つぎ の駅 えき を案内 あんない する表示 ひょうじ 器 き が試験 しけん された。これは線路 せんろ 間 あいだ に設置 せっち された木製 もくせい のフラップによって動作 どうさ するものであった。信頼 しんらい 性 せい が無 な いと判断 はんだん されて全面 ぜんめん 的 てき な採用 さいよう は承認 しょうにん されなかった。
アシュベリー1898年 ねん 製 せい 368号 ごう ボギー客車 きゃくしゃ 、ブルーベル鉄道 てつどう において復元 ふくげん したもの
1870年 ねん に固定 こてい 車軸 しゃじく 4輪 りん で固定 こてい 連結 れんけつ の客車 きゃくしゃ がオールドベリーで造 つく られた。1887年 ねん に何 なん 件 けん か脱線 だっせん 事故 じこ を起 お こしてから、延長 えんちょう 路線 ろせん 向 む けにジュビリー車両 しゃりょう として知 し られる新 あたら しい設計 せっけい の全長 ぜんちょう 27フィート6インチ(約 やく 8.38 m)の固定 こてい 車軸 しゃじく 4輪 りん 客車 きゃくしゃ がクレイブンズ (英語 えいご 版 ばん ) で製造 せいぞう された。製造 せいぞう 当初 とうしょ から圧力 あつりょく ガス式 しき 照明 しょうめい システムと直通 ちょくつう 真空 しんくう ブレーキが搭載 とうさい され、後 のち に蒸気 じょうき 暖房 だんぼう が追加 ついか された。1892年 ねん にはさらに追加 ついか 導入 どうにゅう されたが、1912年 ねん までにすべての車両 しゃりょう が運行 うんこう 終了 しゅうりょう となった。1893年 ねん 5月 がつ に商務省 しょうむしょう の命令 めいれい により、すべての機関 きかん 車 しゃ と客車 きゃくしゃ に自動 じどう 真空 しんくう ブレーキが搭載 とうさい された。ジュビリー車両 しゃりょう の一等 いっとう 客車 きゃくしゃ は復元 ふくげん されて、2013年 ねん 1月 がつ のメトロポリタン鉄道 てつどう 150周年 しゅうねん 記念 きねん イベントで旅客 りょかく を乗 の せた[254] [241] 。
1898年 ねん にはアシュベリーで、1900年 ねん にはクレイブンズとメトロポリタン鉄道 てつどう ニーズデン工場 こうじょう で、ボギー客車 きゃくしゃ が製造 せいぞう された。これは乗 の り心地 ごこち が良 よ く、蒸気 じょうき 暖房 だんぼう 、自動 じどう 真空 しんくう ブレーキ、電気 でんき 照明 しょうめい 、全 ぜん 等級 とうきゅう で貼 は り物 ぶつ のされた座席 ざせき などがあった。ブルーベル鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) では1898年 ねん から1900年 ねん にかけてアシュベリーやクレイブンズで製造 せいぞう された4両 りょう の客車 きゃくしゃ を保有 ほゆう しており、またニーズデン製 せい のもう1両 りょう がロンドン交通 こうつう 博物館 はくぶつかん にある[257] 。
近郊 きんこう 路線 ろせん やその延長 えんちょう 路線 ろせん でのグレート・セントラル鉄道 てつどう との競争 きょうそう により、1910年 ねん からさらに快適 かいてき なドレッドノート車両 しゃりょう の導入 どうにゅう が始 はじ まった。この木製 もくせい コンパートメント式 しき 車両 しゃりょう は合計 ごうけい 92両 りょう が導入 どうにゅう され、圧力 あつりょく ガス式 しき 照明 しょうめい と蒸気 じょうき 暖房 だんぼう を備 そな えていた。1917年 ねん に電気 でんき 照明 しょうめい に切 き り替 か えられ、1922年 ねん には電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ 牽引 けんいん の際 さい の暖房 だんぼう のために電気 でんき ヒーターが追加 ついか された。後 のち に5両 りょう ・6両 りょう または7両 りょう 編成 へんせい に組成 そせい され、先頭 せんとう と末尾 まつび の車両 しゃりょう に集 しゅう 電 でん シューが取 と り付 つ けられて母線 ぼせん に接続 せつぞく され、電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ が第 だい 三 さん 軌条 きじょう の切 き れ目 め で止 と まってしまうのを防 ふせ ぐために接続 せつぞく された。2編成 へんせい には、追加 ついか 料金 りょうきん でビュッフェのサービスを行 おこな うプルマン (英語 えいご 版 ばん ) の車両 しゃりょう が連結 れんけつ されていた[note 39] 。ビンテージ・キャリッジ・トラスト (英語 えいご 版 ばん ) は3両 りょう のドレッドノート車両 しゃりょう を保存 ほぞん している[262] 。
1906年 ねん から、アシュベリー製 せい のボギー客車 きゃくしゃ の一部 いちぶ が電車 でんしゃ に改造 かいぞう された。ドレッドノート車両 しゃりょう の一部 いちぶ は電動 でんどう 車 しゃ として使用 しよう されたが、3分 ぶん の2は延長 えんちょう 路線 ろせん において機関 きかん 車 しゃ 牽引 けんいん の客車 きゃくしゃ として使用 しよう され続 つづ けた。
電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ [ 編集 へんしゅう ]
1920年代 ねんだい のメトロポリタン鉄道 てつどう の電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ 牽引 けんいん の列車 れっしゃ
電化 でんか 後 ご は、郊外 こうがい 路線 ろせん においては従来 じゅうらい からの客車 きゃくしゃ をベイカー・ストリート駅 えき から電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ 牽引 けんいん で運転 うんてん し、途中 とちゅう で蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ に交換 こうかん した。メトロポリタン鉄道 てつどう は、メトロポリタン・アマルガメイテッドに対 たい して2種類 しゅるい の電気 でんき 装備 そうび 品 ひん を持 も つ20両 りょう の電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ を発注 はっちゅう した。最初 さいしょ の10両 りょう はブリティッシュ・ウェスティングハウス の電気 でんき 品 ひん を搭載 とうさい して製造 せいぞう され、1906年 ねん に運行 うんこう を開始 かいし した。このキャメルバック型 がた 機関 きかん 車 しゃ はセンターキャブ(中央 ちゅうおう 運転 うんてん 台 だい 式 しき )を特徴 とくちょう としており、重量 じゅうりょう は50トン、215馬力 ばりき (約 やく 160 kW)電動 でんどう 機 き 4基 き を装備 そうび した。2番目 ばんめ のものは箱 はこ 型 がた 車体 しゃたい でブリティッシュ・トンプソン=ヒューストン (英語 えいご 版 ばん ) の電気 でんき 品 ひん を装備 そうび し、1919年 ねん にウェスティングハウスのものに置 お き換 か えられた。
1920年代 ねんだい 初頭 しょとう 、メトロポリタン鉄道 てつどう はバロー・イン・ファーネス のメトロポリタン=ヴィッカース に20両 りょう の電気 でんき 機関 きかん 車 しゃ の改造 かいぞう の注文 ちゅうもん を出 だ した。最初 さいしょ の機関 きかん 車 しゃ の改造 かいぞう 工事 こうじ が始 はじ まった際 さい 、非 ひ 実用 じつよう 的 てき で不経済 ふけいざい であることが判明 はんめい し、注文 ちゅうもん は原 げん 車両 しゃりょう から回収 かいしゅう したいくつかの装備 そうび 品 ひん を利用 りよう して完全 かんぜん に新 あたら しい機関 きかん 車 しゃ を製造 せいぞう するものに変更 へんこう された。新 あたら しい機関 きかん 車 しゃ は1922年 ねん から1923年 ねん にかけて製造 せいぞう され、ロンドンの有名 ゆうめい な住民 じゅうみん にちなんで名 な づけられた。4基 き の300馬力 ばりき (約 やく 220 kW)電動 でんどう 機 き を装備 そうび して合計 ごうけい 1,200馬力 ばりき (約 やく 890 kW、1時 じ 間 あいだ 定 じょう 格 かく )であり、最高 さいこう 速度 そくど は65マイル毎時 まいじ (約 やく 105 km/h)であった。
5号機 ごうき の「ジョン・ハムデン 」ロンドン交通 こうつう 博物館 はくぶつかん で静態 せいたい 保存 ほぞん され[267] 、12号機 ごうき 「サラ・シドンズ 」は歴史 れきし 的 てき なイベントに用 もち いられ、2013年 ねん 1月 がつ のメトロポリタン鉄道 てつどう 150周年 しゅうねん 記念 きねん イベントでも走行 そうこう した[242] 。
最初 さいしょ の電車 でんしゃ の注文 ちゅうもん はメトロポリタン・アマルガメイテッドに対 たい して1902年 ねん に出 だ され、ウェスティングハウス製 せい の装備 そうび を搭載 とうさい した50両 りょう の付随 ふずい 車 しゃ と20両 りょう の電動 でんどう 車 しゃ で、6両 りょう 編成 へんせい を構成 こうせい した。一等 いっとう 車 しゃ と三 さん 等 とう 車 しゃ がオープンサルーン形式 けいしき で製造 せいぞう され、二 に 等 とう 車 しゃ はメトロポリタン鉄道 てつどう では廃止 はいし された。客室 きゃくしつ への出入 でい りは車 くるま 端 はし のデッキの格子戸 こうしど からで、閑散 かんさん 時 じ には3両 りょう 編成 へんせい で走行 そうこう できるようになっていた。ハマースミス&シティー線 せん での共同 きょうどう 運行 うんこう に対 たい しては、メトロポリタン鉄道 てつどう とグレート・ウェスタン鉄道 てつどう は6両 りょう 編成 へんせい 12本 ほん をトムソン=ヒューストン製 せい の装備 そうび 品 ひん で購入 こうにゅう した。1904年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう はさらに36両 りょう の電動 でんどう 車 しゃ と62両 りょう の付随 ふずい 車 しゃ 、オプションとしてさらに20両 りょう の電動 でんどう 車 しゃ と40両 りょう の付随 ふずい 車 しゃ の注文 ちゅうもん を出 だ した。ウェスティングハウス製 せい の装備 そうび 品 ひん に問題 もんだい があったためオプションが実行 じっこう された際 さい にはトムソン=ヒューストン製 せい の装備 そうび 品 ひん が指定 してい され、さらに強力 きょうりょく な電動 でんどう 機 き が装備 そうび された。1918年 ねん 以前 いぜん は、強力 きょうりょく な電動 でんどう 機 き を装備 そうび した電動 でんどう 車 しゃ が3両 りょう の付随 ふずい 車 しゃ を牽 ひ いてサークル線 せん の運用 うんよう に使 つか われた。車 くるま 端 はし デッキの格子戸 こうしど は地上 ちじょう 走行 そうこう 時 じ に問題 もんだい であるとみなされ、すべての車両 しゃりょう がベスティビュール付 づけ に1907年 ねん までに改造 かいぞう された。また両 りょう 端 はし のドアからのみの出入 でい りは需要 じゅよう の多 おお いサークル線 せん での運行 うんこう には問題 もんだい であったため、1911年 ねん から中央 ちゅうおう 部 ぶ に引 ひ き戸 ど が装備 そうび された。
1906年 ねん からは、アシュベリー製 せい のボギー客車 きゃくしゃ の一部 いちぶ に運転 うんてん 台 だい 、制御 せいぎょ 器 き 、電動 でんどう 機 き を搭載 とうさい して電車 でんしゃ に改造 かいぞう が行 おこな われた。1910年 ねん に2両 りょう の電動 でんどう 車 しゃ について両 りょう 端 はし に運転 うんてん 台 だい を取 と り付 つ ける改造 かいぞう を行 おこな った。この車両 しゃりょう はアクスブリッジ-サウス・ハーロー間 あいだ のシャトル列車 れっしゃ に使用 しよう され、1918年 ねん にアディソン・ロードのシャトル列車 れっしゃ に転用 てんよう された。1925年 ねん から1934年 ねん まではこれらの車両 しゃりょう はワトフォードとリクマンズワースの間 あいだ で運用 うんよう された。
1913年 ねん に23両 りょう の電動 でんどう 車 しゃ と20両 りょう の付随 ふずい 車 しゃ が発注 はっちゅう され、これは引 ひ き戸 ど を両 りょう 端 はし と中央 ちゅうおう に備 そな えたオープンサルーン客車 きゃくしゃ であった。これらの車両 しゃりょう はサークル線 せん と、新 あたら しく電車 でんしゃ で運転 うんてん されるようになった、イースト・ロンドン鉄道 てつどう 経由 けいゆ のニュー・クロス駅 えき までの運用 うんよう に用 もち いられた。1921年 ねん に20両 りょう の電動 でんどう 車 しゃ 、33両 りょう の付随 ふずい 車 しゃ 、6両 りょう の一等 いっとう 制御 せいぎょ 車 しゃ が3つの両 りょう 引 ひ き戸 ど を備 そな えた形 かたち で納入 のうにゅう された。これらもサークル線 せん に投入 とうにゅう された。
ニーズデンにて、T型 がた 電車 でんしゃ
1927年 ねん から1933年 ねん にかけて、メオロポリタン・キャリッジ・アンド・ワゴン とバーミンガム・レールウェイ・キャリッジ・アンド・ワゴン (英語 えいご 版 ばん ) によって順次 じゅんじ コンパートメント式 しき の電車 でんしゃ がベイカー・ストリート駅 えき とシティからワトフォードおよびリックマンズワースへの運用 うんよう に用 もち いるために製造 せいぞう された。最初 さいしょ の注文 ちゅうもん は電動 でんどう 車 しゃ のみで、半分 はんぶん はウェスティングハウスブレーキとメトロポリタン=ヴィッカースの制御 せいぎょ 器 き 、4基 き のMV153電動 でんどう 機 き を装備 そうび し、ボギー客車 きゃくしゃ の付随 ふずい 車 しゃ を牽引 けんいん していた電動 でんどう 車 しゃ を置 お き換 か えた。残 のこ りの電動 でんどう 車 しゃ は同 おな じ電動 でんどう 機 き を装備 そうび していたが真空 しんくう ブレーキを装備 そうび しており、1920年 ねん から1923年 ねん にかけて改造 かいぞう されたドレッドノート客車 きゃくしゃ とともにMV車両 しゃりょう を構成 こうせい した。1929年 ねん にMW車両 しゃりょう が発注 はっちゅう され、MV車両 しゃりょう と似 に ていたがウェスティングハウスブレーキを装備 そうび する30両 りょう の電動 でんどう 車 しゃ と25両 りょう の付随 ふずい 車 しゃ であった。さらにMW車両 しゃりょう の発注 はっちゅう が1931年 ねん に、今度 こんど はバーミンガム・レールウェイ・アンド・キャリッジに対 たい して出 だ された。これは7本 ほん の8両 りょう 編成 へんせい を構成 こうせい するためのもので、またこれまでのMW車両 しゃりょう を8両 りょう 編成 へんせい に増強 ぞうきょう するための追加 ついか の付随 ふずい 車 しゃ も含 ふく んでいた。この車両 しゃりょう はゼネラル・エレクトリック・カンパニー 製 せい のWT545電動 でんどう 機 き を装備 そうび しており、MV153電動 でんどう 機 き 装備 そうび の車両 しゃりょう と連結 れんけつ して使 つか えるように設計 せっけい されたのだが、実際 じっさい にはうまく動作 どうさ しなかった。メトロポリタン鉄道 てつどう がロンドン地下鉄 ちかてつ となってから、MV車両 しゃりょう はウェスティングハウスブレーキを装備 そうび し、GEC製 せい 電動 でんどう 機 き を装備 そうび した車両 しゃりょう はMV153電動 でんどう 機 き 装備 そうび の車両 しゃりょう と連結 れんけつ して使 つか えるようにギア比 ひ を変更 へんこう された。1938年 ねん に、9本 ほん の8両 りょう 編成 へんせい と10本 ほん の6両 りょう 編成 へんせい のMW車両 しゃりょう が形式 けいしき 変更 へんこう されてロンドン地下鉄 ちかてつ T形 かたち 電車 でんしゃ (英語 えいご 版 ばん ) となった[277] 。
^ 1801年 ねん には現在 げんざい のグレーター・ロンドン の範囲 はんい におよそ100万 まん 人 にん の人々 ひとびと が住 す んでいた。1851年 ねん にはこれが倍 ばい になった[3] 。
^ 禁止 きんし された地域 ちいき は、ロンドン橋 きょう 、バラ・ハイストリート、ブラックマン・ストリート、バラ・ストリート、ランベスロード、ヴォクスホール・ブリッジ 、ヴォクスホール・ブリッジ・ロード、グロスベナー・プレイス、パーク・レーン、エッジウェア・ロード、ニューロード、シティロード、フィンスベリー・スクエア、ビショップスゲートで囲 かこ まれた範囲 はんい である[7] 。
^ 経路 けいろ はウェストボーン・テラスの南端 なんたん からグランド・ジャンクションロード(現在 げんざい のサセックス・ガーデンズ)、サウサンプトンロード(現在 げんざい のオールド・メリルボーン・ロード)、ニューロード(現在 げんざい のメリルボーンロードとユーストンロード)の下 した を通 とお るものであった。グレート・ウェスタン鉄道 てつどう のターミナル駅 えき と接続 せつぞく する支線 しせん が計画 けいかく されていた[10] 。
^ こうした法律 ほうりつ には鉄道 てつどう 会社 かいしゃ ができるだけ早 はや くその路線 ろせん を完成 かんせい させるよう促 うなが すために期限 きげん が設定 せってい されていた。またこれにより、建設 けんせつ されなかった鉄道 てつどう 路線 ろせん の許可 きょか が他 た の鉄道 てつどう 計画 けいかく を妨 さまた げないようにしていた。
^ グレート・ウェスタン鉄道 てつどう のターミナルに接続 せつぞく する代 か わりに、メトロポリタン鉄道 てつどう はパディントン駅 えき 北側 きたがわ のビショップス・ロードにパディントン駅 えき と並行 へいこう に自身 じしん の駅 えき を建設 けんせつ した。メトロポリタン鉄道 てつどう はビショップス・ロードの駅 えき の先 さき でグレート・ウェスタン鉄道 てつどう の線路 せんろ に接続 せつぞく していた。
^ この株 かぶ は後 のち に収益 しゅうえき 目的 もくてき で売却 ばいきゃく された。
^ ユーストン・スクエアより西側 にしがわ の建設 けんせつ 工事 こうじ 契約 けいやく 者 しゃ はスミス・アンド・ナイト、東側 ひがしがわ ではジョン・ジェイであった。
^ メトロポリタン鉄道 てつどう によれば、高架線 こうかせん に建設 けんせつ する費用 ひよう は地下 ちか 線 せん に建設 けんせつ する場合 ばあい の4倍 ばい にもなったであろうとしている。
^ マンチェスターのベイヤー・ピーコック が製造 せいぞう した機関 きかん 車 しゃ は、よくメトロポリタン鉄道 てつどう 側 がわ の技術 ぎじゅつ 者 しゃ 、ジョン・ファウラーが設計 せっけい したとされるが、実際 じっさい にはスペイン のトゥデラ-ビルバオ鉄道 てつどう 向 む けにベイヤー・ピーコックが製造 せいぞう したものの発展形 はってんけい で、ファウラーは動輪 どうりん 直径 ちょっけい 、軸 じく 重 じゅう 、急 きゅう 曲線 きょくせん での走行 そうこう 性能 せいのう について指示 しじ をしただけであった。
^ この報告 ほうこく によれば、エッジウェア・ロードとキングス・クロスの間 あいだ で平日 へいじつ は1日 にち に528本 ほん の旅客 りょかく 列車 れっしゃ と14本 ほん の貨物 かもつ 列車 れっしゃ が運行 うんこう されており、ベイカー・ストリートとキングス・クロスの間 あいだ ではピーク時 じ に片道 かたみち 19本 ほん の列車 れっしゃ が運行 うんこう され、1,500ポンド (約 やく 760 kg )の石炭 せきたん が燃 も やされ、1,650ガロン (約 やく 7,500リットル )の水 みず が消費 しょうひ され、このうち半分 はんぶん が復 ふく 水 すい され残 のこ りが蒸発 じょうはつ していた。
^ メトロポリタン鉄道 てつどう 法 ほう 1861年 ねん (Metropolitan Railway Act 1861 ) およびメトロポリタン鉄道 てつどう (フィンスベリー・サーカス延長 えんちょう )法 ほう 1861年 ねん (Metropolitan Railway (Finsbury Circus Extension) Act 1861 ) およびメトロポリタン鉄道 てつどう 法 ほう は、1864年 ねん 7月 がつ 25日 にち に国王 こくおう 裁可 さいか を得 え て、キングス・クロス駅 えき までの追加 ついか の線路 せんろ を承認 しょうにん された。
^ このうちの1本 ほん のトンネルは1862年 ねん に完成 かんせい しており、1863年 ねん 8月 がつ にグレート・ウェスタン鉄道 てつどう が車両 しゃりょう を引 ひ き上 あ げた際 さい に、グレート・ノーザン鉄道 てつどう から借 か り受 う けた車両 しゃりょう を搬入 はんにゅう するために使用 しよう された。
^ ハマースミス・パディントン・アンド・シティ・ジャンクション鉄道 てつどう という名目 めいもく であった[54] 。
^ ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道 てつどう のリッチモンドまでの線路 せんろ は、現在 げんざい ではロンドン地下鉄 ちかてつ ディストリクト線 せん の一部 いちぶ となっている。ハマースミス駅 えき からリッチモンド駅 えき までの間 あいだ でメトロポリタン鉄道 てつどう の列車 れっしゃ が停車 ていしゃ した駅 えき は、レイブンスコート・パーク駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、ターナム・グリーン駅 えき 、ガナーズベリー駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、キュー・ガーデンズ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) であった。
^ 1863年 ねん 11月にタイムズ 紙 かみ は、次 つぎ の議会 ぎかい ではおよそ30のロンドンにおける鉄道 てつどう 計画 けいかく が提出 ていしゅつ されて検討 けんとう されるであろうと報 ほう じた。その多 おお くは「その場 ば の思 おも い付 つ きで計画 けいかく されたもので、建設 けんせつ 費用 ひよう や建設 けんせつ の実現 じつげん 可能 かのう 性 せい についてあまり考慮 こうりょ されていない」と考 かんが えられていた[62] 。
^ これらは、メトロポリタン鉄道 てつどう (ノッティング・ヒルおよびブロンプトン延長 えんちょう )法 ほう (Metropolitan Railway (Notting Hill and Brompton Extension) Act ) と、メトロポリタン鉄道 てつどう (タワー・ヒル延長 えんちょう )法 ほう (Metropolitan Railway (Tower Hill Extension) Act )、そしてメトロポリタン・ディストリクト鉄道 てつどう 法 ほう (Metropolitan District Railway Act ) であった。
^ 初期 しょき のインナー・サークル線 せん の運行 うんこう については文献 ぶんけん によって異 こと なる。Jackson 1986 , p. 56では、運行 うんこう は両社 りょうしゃ 等分 とうぶん であったとし、Lee 1956 , pp. 28–29ではメトロポリタン鉄道 てつどう がすべてを運行 うんこう したとしている。
^ 駅 えき は1871年 ねん 7月 がつ 19日 にち に完成 かんせい し、メトロポリタン鉄道 てつどう とディストリクト鉄道 てつどう は共同 きょうどう で1871年 ねん の国際 こくさい 博覧 はくらん 会 かい まで駅 えき から連絡 れんらく バスを運行 うんこう した。
^ ワトキンはケント のハイス (英語 えいご 版 ばん ) 選出 せんしゅつ の議員 ぎいん でもあり、サウス・イースタン鉄道 てつどう に対 たい してイギリスとフランスを結 むす ぶ英仏海峡 えいふつかいきょう トンネル を推進 すいしん するよう勧 すす めていた。1883年 ねん までに、イギリス側 がわ から直径 ちょっけい 7フィート(約 やく 2.1 m)のトンネルを2,026ヤード (約 やく 1.853 km)まで、フランス側 がわ から1,825ヤード(約 やく 1.669 km)まで掘 ほ られていたが、1882年 ねん に高等法院 こうとうほういん が低 てい 潮 しお 線 せん より下 した に工事 こうじ を進 すす める許可 きょか は得 え られていないと判断 はんだん したため中断 ちゅうだん された。その後 ご 許可 きょか を得 え る努力 どりょく がなされたが、侵略 しんりゃく のリスクを強調 きょうちょう する軍 ぐん の主張 しゅちょう により失敗 しっぱい に終 お わった。ワトキンは、マンチェスターやシェフィールドからこの英仏海峡 えいふつかいきょう トンネルを通 つう じて大陸 たいりく へ通 つう じるルートを建設 けんせつ する野望 やぼう を抱 だ いていたとよく言 い われているが、これに関 かん する証拠 しょうこ は何 なに も残 のこ されていない。
^ メトロポリタンおよびディストリクト鉄道 てつどう (シティ・ラインズおよび延長 えんちょう )法 ほう 1879年 ねん (Metropolitan and District Railways (City Lines and Extensions) Act, 1879 、1879年 ねん 8月 がつ 11日 にち 国王 こくおう 裁可 さいか [89]
^ イースト・ロンドン鉄道 てつどう は現在 げんざい はロンドン・オーバーグラウンド の一部 いちぶ である。この路線 ろせん はテムズ川 がわ の下 した を1843年 ねん 完成 かんせい のテムズトンネル で潜 もぐ っている。セント・メアリーズ駅 えき とニュー・クロス駅 えき の間 あいだ でメトロポリタン鉄道 てつどう の列車 れっしゃ が停車 ていしゃ したのは、シャドウェル駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、ワッピング駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、ロザーハイズ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) 、サーリー・クエイズ駅 えき (英語 えいご 版 ばん ) である。
^ メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 てつどう 法 ほう (Metropolitan & Saint John's Wood Railway Act )、1873年 ねん 7月 がつ 21日 にち 国王 こくおう 裁可 さいか 。
^ キングスベリー・アンド・ハーロー法 ほう (Kingsbury and Harrow Bill はメトロポリタン鉄道 てつどう とメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道 てつどう の共同 きょうどう で推進 すいしん され、1874年 ねん 7月 がつ 16日 にち に国王 こくおう 裁可 さいか を得 え た。
^ これらの土地 とち は1989年 ねん に保護 ほご 地域 ちいき となっている[106] 。
^ ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 てつどう はこの路線 ろせん を借 か り受 う け、1879年 ねん 7月 がつ 21日 にち にはバッキンガムシャー鉄道 てつどう を吸収 きゅうしゅう している。
^ ロンドン・アンド・エイルズベリー鉄道 てつどう 法 ほう (London & Aylesbury Railway Act ) は1871年 ねん に国王 こくおう 裁可 さいか を得 え た。リックマンズワースおよびハーロー延長 えんちょう 法 ほう (Rickmansworth and Harrow Extension Act ) は1874年 ねん 7月 がつ 16日 にち に国王 こくおう 裁可 さいか を得 え た。
^ リックマンズワースまで路線 ろせん を延長 えんちょう するリックマンズワース延長 えんちょう 鉄道 てつどう 法 ほう (Rickmansworth Extension Railway Act ) は1880年 ねん 8月 がつ 6日 にち に国王 こくおう 裁可 さいか を得 え た。エイルズベリーまでのエイルズベリー・アンド・リックマンズワース鉄道 てつどう 法 ほう (Aylesbury and Rickmansworth Railway Act ) は1881年 ねん 7月 がつ 18日 にち に国王 こくおう 裁可 さいか を得 え た。
^ 蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ 牽引 けんいん のままで運転 うんてん された列車 れっしゃ もあった。1909年 ねん 9月 がつ に、バーニー・ジャンクションからラムズゲートまで往復 おうふく した周遊 しゅうゆう 列車 れっしゃ は、ブラックフライアーズにおいてメトロポリタン鉄道 てつどう の機関 きかん 車 しゃ からサウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道 てつどう の機関 きかん 車 しゃ に交換 こうかん された。1961年 ねん 10月 がつ 1日 にち に、サザン・カウンティーズ旅行 りょこう 協会 きょうかい は臨時 りんじ 列車 れっしゃ の運行 うんこう を企画 きかく し、メトロポリタン鉄道 てつどう の1号 ごう 蒸気 じょうき 機関 きかん 車 しゃ (当時 とうじ はL44と呼 よ ばれていた)が牽引 けんいん してスタンモアからファリンドンとイースト・ロンドン線 せん を経由 けいゆ してニュー・クロスまで運転 うんてん された。
^ ロバート・ホープ・セルビー CBE (1868年 ねん - 1930年 ねん )はマンチェスターのマンチェスターグラマースクール 、そしてオーウェンズ・カレッジ で教育 きょういく を受 う け、1883年 ねん にランカシャー・アンド・ヨークシャー鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) に入 はい り、ゼネラルマネージャーの秘書 ひしょ や主任 しゅにん 運行 うんこう 管理 かんり 者 しゃ の助手 じょしゅ を務 つと めた。彼 かれ は1903年 ねん からメトロポリタン鉄道 てつどう で秘書 ひしょ を務 つと め、1908年 ねん からゼネラルマネージャーを務 つと め、1919年 ねん にメトロポリタン鉄道 てつどう 不動産 ふどうさん の取締役 とりしまりやく に任命 にんめい され、1922年 ねん にはメトロポリタン鉄道 てつどう の取締役 とりしまりやく になった。彼 かれ の大 だい 英 えい 帝国 ていこく 勲章 くんしょう は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん における商務省 しょうむしょう や道路 どうろ 交通 こうつう 委員 いいん 会 かい 、陸軍 りくぐん 資料 しりょう 委員 いいん 会 かい での活動 かつどう に対 たい して与 あた えられた。彼 かれ は1930年 ねん にセント・ポール教会 きょうかい において息子 むすこ の堅 けん 信 しん の儀式 ぎしき に参加 さんか しているときに亡 な くなった。
^ 1845年 ねん 土地 とち 条項 じょうこう 合同 ごうどう 法 ほう では、鉄道 てつどう 路線 ろせん を許可 きょか した法律 ほうりつ で定 さだ めた完成 かんせい 期限 きげん から10年 ねん 以内 いない に余分 よぶん の土地 とち を売却 ばいきゃく することを定 さだ めていた。
^ ニーズデンと同様 どうよう に、セシル・パーク[171] とウィルズデン[172] はともに保護 ほご 地域 ちいき となっている。
^ ワードルはユーストン・スクエア駅 えき の新 あたら しい駅名 えきめい 標 しるべ にユーストン・スクエア・メトロとするように希望 きぼう していたが、セルビーによって覆 くつがえ されて、メトロポリタン鉄道 てつどう とフルスペルで書 か かれた。
^ チルターン・コートはロンドンでも高 たか い評判 ひょうばん を得 え られる場所 ばしょ となった。小説 しょうせつ 家 か のアーノルド・ベネット やハーバート・ジョージ・ウェルズ などが居住 きょじゅう した。ウェルズを記念 きねん するブルー・プラーク が2002年 ねん 5月 がつ 8日 にち に建物 たてもの に取 と り付 つ けられている。
^ 当初 とうしょ の駅 えき から現在 げんざい のワトフォード・ジャンクション駅 えき の位置 いち に1858年 ねん に移転 いてん した。
^ ディストリクト鉄道 てつどう は、乗務 じょうむ 員 いん を路線 ろせん に慣 な れさせておくために、日曜日 にちようび に4本 ほん の列車 れっしゃ を運転 うんてん し続 つづ けた。
^ これは720万 まん ポンド相当 そうとう の4.5パーセントA株 かぶ 、200万 まん ポンド相当 そうとう の5パーセントA株 かぶ 、530万 まん ポンド相当 そうとう の5パーセントB株 かぶ 、510万 まん ポンド相当 そうとう のC株 かぶ からなっていた。
^ 他社 たしゃ の貨物 かもつ 扱 あつか い設備 せつび は既 すで にファリンドン近 ちか くのワイドンド線 せん に開設 かいせつ されていた。グレート・ウェスタン鉄道 てつどう が運行 うんこう するスミスフィールド・マーケットの側線 そくせん は1869年 ねん 5月 がつ 1日 にち に開設 かいせつ された。グレート・ノーザン鉄道 てつどう は1874年 ねん 11月2日 にち に自社 じしゃ の施設 しせつ を開設 かいせつ し、ミッドランド鉄道 てつどう もホワイトクロス貨物 かもつ 扱 あつか い施設 しせつ を1878年 ねん 1月 がつ 1日 にち に開設 かいせつ した。
^ ケント・アンド・イーストウッド鉄道 てつどう (英語 えいご 版 ばん ) で保存 ほぞん されている車両 しゃりょう は、かつては短 みじか い4輪 りん のディストリクト鉄道 てつどう の車両 しゃりょう と考 かんが えられていたが、現在 げんざい ではメトロポリタン鉄道 てつどう の8輪 りん 客車 きゃくしゃ を切 き り詰 つ めたものだと考 かんが えられている[243] [244]
^ メイフラワー (Mayflower )、ガラティー (Galatea ) の名前 なまえ が付 つ けられた2両 りょう のプルマン客車 きゃくしゃ は19席 せき の座席 ざせき があり、6ペンスまたは1シリングの追加 ついか 料金 りょうきん を払 はら うことで、朝食 ちょうしょく 、昼食 ちゅうしょく 、喫茶 きっさ 、夕食 ゆうしょく などを取 と ることができた。トイレを装備 そうび しており、蒸気 じょうき 暖房 だんぼう 装備 そうび で製造 せいぞう され1925年 ねん に電気 でんき 暖房 だんぼう が装備 そうび された。
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