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メトロポリタン鉄道 - Wikipedia コンテンツにスキップ

メトロポリタン鉄道てつどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1862ねん12月、開業かいぎょう前月ぜんげつイラストレイテド・ロンドン・ニュースから、メトロポリタン鉄道てつどう各駅かくえきのモンタージュ

メトロポリタン鉄道てつどう(メトロポリタンてつどう、英語えいご: Metropolitan RailwayたんMetとも)は、ロンドンで1863ねんから1933ねんまで運行うんこうされていた旅客りょかく貨物かもつ鉄道てつどうである。そのきたびる本線ほんせんは、経済けいざいてき中心ちゅうしんであるシティ・オブ・ロンドンからのちミドルセックスしゅう郊外こうがいとなる地域ちいきむすんでいた。最初さいしょ路線ろせん本線ほんせん鉄道てつどうのターミナルえきである、パディントンえきユーストンえきキングス・クロスえきをシティとむすぶものであった。鉄道てつどうは、ニューロード英語えいごばんしたをパディントンからキングス・クロスまで開削かいさく工法こうほうで、そしてファリンドンロード英語えいごばんわきをキングス・クロスからシティにちかスミスフィールドまでトンネル切通きりどお建設けんせつされた。この路線ろせんが1863ねん1がつ10日とおか開通かいつうしたさいには、蒸気じょうき機関きかんしゃガス灯がすとうともした木造もくぞう客車きゃくしゃいており、世界せかい最初さいしょ地下鉄ちかてつであった[1]

この鉄道てつどうはそのすぐにりょうはしから、そしてベイカー・ストリートえきから分岐ぶんきしてきた延長えんちょうされた。ハマースミスえきまで1864ねんに、リッチモンドえき英語えいごばんまで1877ねんに、そしてサークルせんが1884ねん完成かんせいしたが、もっとも重要じゅうよう路線ろせんきたのミドルセックスしゅう郊外こうがいつうじる路線ろせんで、あたらしく郊外こうがい開発かいはつうながすことになった。ハーロー・オン・ザ・ヒルえき英語えいごばんへは1880ねん到達とうたつし、さらに路線ろせん最終さいしゅうてきバッキンガムシャーバーニー・ジャンクションえき英語えいごばんまで到達とうたつしたが、ここはロンドンの中心ちゅうしんのベイカー・ストリートえきからは50マイル(80 km以上いじょうはなれた場所ばしょであった。

1905ねん電化でんかはじまり、1907ねんにはほとんどの運行うんこう電車でんしゃもちいられるようになったが、路線ろせんもう外側そとがわでは電化でんかすうじゅうねんあとまでかかった。ロンドン地区ちくにおける鉄道てつどう会社かいしゃことなり、メトロポリタン鉄道てつどう住宅じゅうたく開発かいはつおこない、だいいち世界せかい大戦たいせんこう沿線えんせん住宅じゅうたくメトロランドのブランドで販売はんばいした。1933ねん7がつ1にちにメトロポリタン鉄道てつどうロンドン地下ちか電気でんき鉄道てつどう地下鉄ちかてつもう、ロンドンの路面ろめん電車でんしゃバスなどと合併がっぺいしてロンドン旅客りょかく運輸うんゆ公社こうしゃとなった。

こんにち、かつてのメトロポリタン鉄道てつどう線路せんろえきは、ロンドン地下鉄ちかてつメトロポリタンせんサークルせんディストリクトせんハマースミス&シティーせんピカデリーせんジュビリーせんおよびチルターン・レイルウェイズ使用しようしている。

メトロポリタン鉄道てつどう略称りゃくしょうである「Metro」は、「Tube」「Underground」を使つかうロンドン、「Subway」を使つかうアメリカ以外いがいおおくのくに言葉ことばで、「地下鉄ちかてつ」の意味いみとして定着ていちゃくしている[2]

歴史れきし[編集へんしゅう]

パディントンからシティへ、1853ねん - 1863ねん[編集へんしゅう]

設立せつりつ[編集へんしゅう]

ロンドン地下鉄ちかてつ提唱ていしょうしゃチャールズ・ピアソン

19世紀せいき前半ぜんはんには、ロンドンの人口じんこう都市としひろさは非常ひじょう拡大かくだいしていた[note 1]住民じゅうみん増加ぞうかし、そして毎日まいにち列車れっしゃ通勤つうきんするひとえたことから、道路どうろじょう大変たいへんかず荷車にぐるま馬車ばしゃくされ膨大ぼうだい交通こうつうりょうとなり、ロンドンの経済けいざいてき中心ちゅうしんであるシティ・オブ・ロンドンに毎日まいにち徒歩とほはいひとも20まんにんたっしていた[4]。1850ねんまでには、ロンドン都心としん周辺しゅうへんに7つの鉄道てつどうのターミナルえき存在そんざいしていた。南側みなみがわにはロンドン・ブリッジえきウォータールーえき東側ひがしがわにはビショップスゲートえき英語えいごばんフェンチャーチ・ストリートえき北側きたがわにはユーストンえきキングス・クロスえき西側にしがわにはパディントンえきである。フェンチャーチ・ストリートえきのみがシティ・オブ・ロンドンの範囲はんいないにあった[5]

道路どうろ混雑こんざつしており、またシティからきた西にしえきまでの距離きょりがあったことから、シティへつうじるあたらしい鉄道てつどう路線ろせん建設けんせつする議会ぎかい承認しょうにんようとするおおくのこころみがなされた。しかしどれも承認しょうにんられず、1846ねんには首都しゅと鉄道てつどうターミナルの調査ちょうさおこなった王立おうりつ委員いいんかいが、すで建設けんせつすすんだ都心としんにおけるあらたな路線ろせんえき建設けんせつきんじた[6][7][note 2]。シティ・オブ・ロンドンと鉄道てつどうのターミナルえきむす地下鉄ちかてつどうというかんがかたは、1830年代ねんだい最初さいしょ提案ていあんされていた。シティ・オブ・ロンドンで事務じむ弁護士べんごしをしていたチャールズ・ピアソンは、いくつかの提案ていあんにおける主導しゅどうしゃとなっており、1846ねんには複数ふくすう鉄道てつどう会社かいしゃ共同きょうどう利用りようする中央ちゅうおうえき提案ていあんした[8]。この提案ていあんは1846ねん王立おうりつ委員いいんかいにより却下きゃっかされたが、1852ねんにピアソンは、ファリンドンからキングス・クロスまでをむすぶそうした鉄道てつどう建設けんせつするためのシティ・ターミナス会社かいしゃ (City Terminus Company) の設立せつりつ支援しえんすることで、これをさい提案ていあんした。この計画けいかくはシティ・オブ・ロンドンには支持しじされたが、鉄道てつどう会社かいしゃ関心かんしんく、会社かいしゃ計画けいかくすすめるのに苦労くろうすることになった[9]

ベイズウォーター・パディントン・アンド・ホルボーン・ブリッジ鉄道てつどう (Bayswater, Paddington and Holborn Bridge Railway Company) は、グレート・ウェスタン鉄道てつどうのパディントンえきからピアソンの提唱ていしょう路線ろせんにあるキングス・クロスえきまでをむすぶために設立せつりつされた[9][note 3]法案ほうあんは1852ねん11月に提出ていしゅつされ[10]、1853ねん1がつはじめての取締役とりしまりやくかいひらかれてジョン・ファウラー技術ぎじゅつしゃ指名しめいした[11]政界せいかいへの工作こうさく成功せいこうし、会社かいしゃは1853ねんなつにノース・メトロポリタン鉄道てつどう (North Metropolitan Railway) という議会ぎかい承認しょうにんけた。一方いっぽうシティ・ターミナス会社かいしゃ提出ていしゅつした法案ほうあん議会ぎかい否決ひけつされてしまい、これはノース・メトロポリタン鉄道てつどうがシティへ到達とうたつすることができなくなることを意味いみした。この問題もんだい解決かいけつするために、ノース・メトロポリタン鉄道てつどうはシティ・ターミナス会社かいしゃ合併がっぺいうえで、1853ねん11月に法案ほうあんさい提出ていしゅつした。この法案ほうあんでは都心としん中央ちゅうおうえき計画けいかくけずり、また路線ろせんをファリンドンよりみなみセント・マーティンズ・ル・グランド英語えいごばんにある郵政省ゆうせいしょう本部ほんぶ英語えいごばんまえまで延長えんちょうした。また路線ろせん西側にしがわはしも、グレート・ウェスタン鉄道てつどうえきにより直接的ちょくせつてき接続せつぞくできるように修正しゅうせいされた。またロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道てつどう英語えいごばんとユーストンえきで、グレート・ノーザン鉄道てつどうとキングス・クロスえき接続せつぞくする許可きょかもとめていた。キングス・クロスでの接続せつぞくはホイストとリフトによることになっていた[12]会社かいしゃ名前なまえさい変更へんこうされ、今回こんかいはメトロポリタン鉄道てつどうとなった[9][13]。ノース・メトロポリタン鉄道てつどうほうは、1854ねん8がつ7にち国王こくおう裁可さいかけた[12][14]

メトロポリタン鉄道てつどうのキングス・クロスえきまでの建設けんせつ様子ようす、1861ねん

この鉄道てつどう建設けんせつには100まんポンドようすると見積みつもられた。クリミア戦争せんそう最中さいちゅうであったため、当初とうしょ資金しきんあつめることが困難こんなんであった[9]資金しきん調達ちょうたつこころみながら、会社かいしゃ工事こうじ期間きかん延長えんちょうもとめるしん法案ほうあん議会ぎかい提出ていしゅつした[12][note 4]。1855ねん7がつに、キングス・クロスえきでグレート・ノーザン鉄道てつどう直接ちょくせつ接続せつぞくするようにする法律ほうりつ国王こくおう裁可さいかた。計画けいかくは1856ねんのメトロポリタン(グレート・ノーザン支線しせんおよび修正しゅうせい条項じょうこうほう修正しゅうせいされ、さらに1860ねんのグレート・ノーザン・アンド・メトロポリタン・ジャンクション鉄道てつどうほうでも修正しゅうせいされた[12]

グレート・ウェスタン鉄道てつどうは175,000ポンドの出資しゅっし同意どういし、ほぼ同額どうがく出資しゅっしをグレート・ノーザン鉄道てつどう約束やくそくしたものの、1857ねんまつになっても着工ちゃっこうできるだけの十分じゅうぶん資金しきんあつまっていなかった。グレート・ウェスタン鉄道てつどうえき直接ちょくせつ接続せつぞくしなくなってしまうが、西側にしがわはし路線ろせん一部いちぶ縮小しゅくしょうし、さらにファリンドンよりみなみ部分ぶぶん省略しょうりゃくして費用ひよう節減せつげんした[15][note 5]。1858ねんにピアソンは、メトロポリタン鉄道てつどうとシティ・オブ・ロンドンのあいだで、あたらしいファリンドン・ロード周辺しゅうへん鉄道てつどう会社かいしゃ必要ひつようとしている土地とちをシティから179,000ポンドで購入こうにゅうし、一方いっぽうシティは鉄道てつどう会社かいしゃかぶを200,000ポンド購入こうにゅうするという契約けいやくをまとめた[17][note 6]路線ろせん変更へんこうは1859ねん8がつ議会ぎかい承認しょうにんけ、これによりついに会社かいしゃ建設けんせつすべき路線ろせん見合みあった資金しきん調達ちょうたつ完了かんりょうして着工ちゃっこうできることになった[18]

建設けんせつ[編集へんしゅう]

ファリンドン付近ふきんのメトロポリタン鉄道てつどう区間くかん、1852ねん6がつフリートかわ暗渠あんきょからの洪水こうずい直後ちょくご

地下ちか掘削くっさくし、また振動しんどう発生はっせいすることにより、ちかくの建物たてもの沈下ちんかしてしまうのではないかという懸念けねんがあり[19]、またトンネル掘削くっさくちゅうすうせんにんいえこわしてその補償ほしょうをしなければならなかったが[20]建設けんせつは1860ねん3がつ開始かいしされた[16]。このあたらしい鉄道てつどうはパディントンからキングス・クロスまで、ほとんどが開削かいさく工法こうほうにより建設けんせつされた。キングス・クロスからひがしでは、路線ろせんはマウント・プレザントおよびクラーケンウェルのしたを728ヤードやく666 m)のトンネルで通過つうかし、そこから暗渠あんきょされたフリートかわ沿ってファリンドン・ロードのわきをスミスフィールドにあるあたらしいにく市場いちばまで切通きりどおしでとおった[21][22]

トンネルをとおすためにられたみぞはばが33フィート6インチやく10.2 m)あり、そのなか煉瓦れんがせいようかべ構築こうちくされて、それが28フィート6インチ(やく8.7 m)はば楕円だえんかたち煉瓦れんがアーチあるいは鉄製てつせいガーダーの天井てんじょうささえた[23]。トンネルはえき部分ぶぶんではプラットホーム収容しゅうようするためによりはばひろくなっていた。原始げんしてきベルトコンベア利用りようした土砂どしゃ運搬うんぱん装置そうち掘削くっさく土砂どしゃみぞからはこすために使つかわれたものの、土砂どしゃ掘削くっさく作業さぎょうのほとんどはナヴィ英語えいごばん土木どぼく工事こうじたずさわる作業さぎょういん)によって手作業てさぎょうおこなわれた[24][note 7]

トンネルないでは、複線ふくせん軌道きどうが6フィート(やく1.8 m)の間隔かんかく敷設ふせつされた。グレート・ノーザン鉄道てつどう標準軌ひょうじゅんき列車れっしゃと、グレート・ウェスタン鉄道てつどう広軌こうき列車れっしゃ両方りょうほうはしらせるため、軌道きどうさんせん軌条きじょう方式ほうしき敷設ふせつされ、プラットホームにもっともちかレール双方そうほう軌間きかん列車れっしゃ共用きょうようした[16]信号しんごう装置そうちは、スパニョレッティ電気でんき閉塞へいそく装置そうち常置じょうち信号しんごうもちいた固定こてい閉塞へいそく方式ほうしき採用さいようされた[25]

建設けんせつ工事こうじちゅうには事故じこ発生はっせいした。1860ねん5がつには、グレート・ノーザン鉄道てつどう本線ほんせん列車れっしゃがキングス・クロスえきにてプラットホームをオーバーランし、工事こうじ現場げんば転落てんらくした。そのとし後半こうはんには、工事こうじ業者ぎょうしゃ貨車かしゃ牽引けんいんしていた機関きかんしゃのボイラーが破裂はれつし、機関きかん機関きかん助士じょし死亡しぼうした。1861ねん5がつには、ユーストンにおいて掘削くっさく現場げんば崩落ほうらくし、近隣きんりん建物たてものにかなりの被害ひがいあたえた。最後さいご事故じこは1862ねん6がつき、集中しゅうちゅう豪雨ごううによりフリートかわ暗渠あんきょあふれて、掘削くっさくしたみぞみずながんだ。メトロポリタン鉄道てつどう首都しゅと土木どぼく委員いいんかいはどうにかみずめ、みずながすことに成功せいこうし、工事こうじは2 - 3かげつほどおくれるだけでんだ[26]

建設けんせつ工事こうじがまだおこなわれていた1861ねん11月から試運転しうんてんおこなわれた。全線ぜんせんとおしてのはじめての運転うんてんは1862ねん5がつおこなわれ、このとき乗客じょうきゃく1人ひとりウィリアム・グラッドストンがいた[27]。1862ねんまつまでに工事こうじ完成かんせいし、その費用ひよう合計ごうけい130まんポンドにたっした[28][note 8]

開通かいつう[編集へんしゅう]

商務省しょうむしょうによる検査けんさが1862ねん12がつまつおこなわれ、1863ねん1がつはじめに開通かいつう承認しょうにんされた[30]信号しんごう設備せつびのわずかな変更へんこうおこなわれてそれも承認しょうにんされ、数日すうじつわたって運行うんこう試験しけんおこなわれて1863ねん1がつ9にち開通かいつうむかえることになった。このにはパディントンからの開通かいつう記念きねん列車れっしゃはしり、ファリンドンえきでは600にん株主かぶぬし来賓らいひんのためのおおきな宴会えんかいひらかれた[30]。チャールズ・ピアソンは1862ねん9がつくなっており、鉄道てつどう開通かいつうするのをることはできなかった[31]

1863ねん開通かいつう当時とうじ鉄道てつどう

この全長ぜんちょう3.75マイルやく6 km)の路線ろせんは、よく1863ねん1がつ10にち土曜日どようびから一般いっぱん営業えいぎょう開始かいしした[29]えきはパディントン(ビショップス・ロード)えき現在げんざいパディントンえき)、エッジウェア・ロードえきベイカー・ストリートえき、ポートランド・ロードえき現在げんざいグレート・ポートランド・ストリートえき)、ガワー・ストリートえき現在げんざいユーストン・スクエアえき)、キングス・クロスえき現在げんざいキングス・クロス・セント・パンクラスえき)、ファリンドン・ストリートえき現在げんざいファリンドンえき)があった[32]

鉄道てつどう歓迎かんげいされて成功せいこうし、初日しょにちには38,000にん乗客じょうきゃく輸送ゆそうして、グレート・ノーザン鉄道てつどう列車れっしゃ利用りようして臨時りんじ列車れっしゃ運転うんてんされた[33]最初さいしょの12かげつで950まんにん旅客りょかく輸送ゆそうし、さらにそのつぎの12かげつでは1200まんにんへと増加ぞうかした[34]

当初とうしょ時刻じこくひょうでは、途中とちゅうの5えき停車ていしゃして所要しょよう時間じかん18ふんであった。昼間ひるま閑散かんさん時間じかんたい運行うんこう頻度ひんどは15ふんおきで、あさラッシュには10ふんおきに増発ぞうはつされ、早朝そうちょうと20以降いこうは20ふんおきにらされた。1864ねん5がつからは、パディントンからあさの530ふんおよび540ふん列車れっしゃについては労働ろうどうしゃけの割引わりびき往復おうふく乗車じょうしゃけん片道かたみち乗車じょうしゃけんおなじ3ペンス発売はつばいされた[35]

当初とうしょは、メトロポリタン鉄道てつどうではグレート・ウェスタン鉄道てつどうから提供ていきょうされたグレート・ウェスタン鉄道てつどうメトロポリタンがた蒸気じょうき機関きかんしゃ英語えいごばん使つかって広軌こうき車両しゃりょう運転うんてんおこなわれていた。開通かいつうからあいだもなく、運行うんこう頻度ひんど増加ぞうかさせる必要ひつようせいめぐって2しゃあいだ見解けんかい相違そういこり、1863ねん8がつにグレート・ウェスタン鉄道てつどう車両しゃりょうげることになった。メトロポリタン鉄道てつどうでは、グレート・ノーザン鉄道てつどう標準軌ひょうじゅんき鉄道てつどう車両しゃりょう一時いちじてきけて運行うんこう頻度ひんどとして運行うんこうおこない、その自社じしゃ標準軌ひょうじゅんき機関きかんしゃ客車きゃくしゃ購入こうにゅうした[31][36][note 9]

けむりさない機関きかんしゃ運転うんてんされるとかんがえていたため、エッジウェア・ロードからキングス・クロスまではながいトンネルもあるなど、最初さいしょ区間くかんはあまり換気かんきおこなわない構造こうぞう建設けんせつされた[38]えき客車きゃくしゃにはけむり充満じゅうまんしていたが、当初とうしょはそれでも乗客じょうきゃくるということはかった[39]のちにキングス・クロスとガワー・ストリートのあいだのトンネルに開放かいほうもうけたり、えき天井てんじょうのガラスをはずしたりして、換気かんき改善かいぜんされた[40]けむり問題もんだいは1880年代ねんだいになってからもつづいたため、さらにトンネルの開放かいほうやしたいメトロポリタン鉄道てつどうと、そうすればうまおどろかせ周辺しゅうへん地価ちかげると主張しゅちょうする地元じもと当局とうきょくとのあいだ論争ろんそうになった[41]。この結果けっか1897ねん商務省しょうむしょう報告ほうこくでは[note 10]、メトロポリタン鉄道てつどう利用りようして疲弊ひへいした人々ひとびと薬剤師やくざいしが「メトロポリタン処方しょほう」という薬剤やくざい処方しょほうしている、と報告ほうこくされた。この報告ほうこくでは、もっとおおくの開放かいほう設置せっちみとめられるべきだとしたが、実際じっさい建設けんせつされるまえ電化でんかされることになった[41]

延伸えんしん工事こうじとインナー・サークル、1863ねん - 1884ねん[編集へんしゅう]

ファリンドンからムーアゲートとシティ・ワイドンドせん[編集へんしゅう]

キングス・クロスとムーアゲート・ストリートのあいだのシティ・ワイドンドせんとその接続せつぞくせん東側ひがしがわのロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道てつどうへのカーブは1871ねん開通かいつうし、スノー・ヒルえきは1874ねん開業かいぎょうした

建設けんせつちゅうのグレート・ウェスタン鉄道てつどうおよびグレート・ノーザン鉄道てつどうへの接続せつぞくせんくわえて、ミッドランド鉄道てつどうおよびロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道てつどう英語えいごばんへの接続せつぞくせん計画けいかくされ、メトロポリタン鉄道てつどうは1861ねんおよび1864ねん[note 11]にムーアゲートにあるあたらしいターミナルまでひがしへ4せんでの延長えんちょうと、キングス・クロスえきからファリンドン・ストリートえきまでの2ほん追加ついか線路せんろみとめられた[43][44][45]。メトロポリタン鉄道てつどうはこのうち2ほん線路せんろ自社じしゃ運行うんこう使用しようし、のこりの2ほんおも鉄道てつどう会社かいしゃによって使用しようされて、シティ・ワイドンドせんとしてられるようになった[46]

キングス・クロスえきでグレート・ノーザン鉄道てつどうとメトロポリタン鉄道てつどうをつなぐ単線たんせんトンネル2ほんは1863ねん10がつ1にちに、地上ちじょう鉄道てつどう会社かいしゃがわ運行うんこう旅客りょかく営業えいぎょう開始かいしされ[47][note 12]同日どうじつグレート・ウェスタン鉄道てつどうもウィンザーなどからの郊外こうがい列車れっしゃ直通ちょくつう運転うんてんはじめた[48]。1864ねんあきはじめには、メトロポリタン鉄道てつどう自社じしゃ列車れっしゃ営業えいぎょうするのに十分じゅうぶん機関きかんしゃ車両しゃりょう調達ちょうたつし、運行うんこう頻度ひんどを1あいだに6ほんまで増加ぞうかさせた[49]

1866ねん1がつ1にちに、ロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道てつどうとグレート・ノーザン鉄道てつどう共同きょうどう運行うんこうで、ブラックフライアーズ・ブリッジえき英語えいごばんからスミスフィールド市場いちばしたスノー・ヒルトンネル英語えいごばんとおってファリンドンえきへ、さらにきたへグレート・ノーザン鉄道てつどうへの運行うんこう開始かいしした[50]。アルダースゲート・ストリートえきおよびムーアゲート・ストリートえき(それぞれ現在げんざいバービカンえきおよびムーアゲートえき)までの延長えんちょうは1865ねん12月23にち開通かいつう[51]、4せんすべては1866ねん3がつ1にち開通かいつうした[52]

キングス・クロスえきからファリンドン・ストリートえきまでのあたらしい線路せんろは、まず1868ねん1がつ27にちにグレート・ノーザン鉄道てつどう貨物かもつ列車れっしゃ使用しようした。ミッドランド鉄道てつどうとの分岐ぶんきてんは1868ねん7がつ13にち開業かいぎょうし、ミッドランド鉄道てつどう自身じしんのセント・パンクラスえき開業かいぎょうするよりもまえにムーアゲート・ストリートえきまでの列車れっしゃ運行うんこう開始かいしした。この線路せんろは、ミッドランド鉄道てつどう本線ほんせんのセント・ポールズ・ロードジャンクションで分岐ぶんきし、複線ふくせんのトンネルにはいってミッドランドジャンクションにおいてワイドンドせん連絡れんらくする[53]

ハマースミス&シティー鉄道てつどう[編集へんしゅう]

開通かいつうから10ねん、1873ねん時点じてんのメトロポリタン鉄道てつどう、やはりメトロポリタン鉄道てつどう運行うんこうしていたベイカー・ストリートえきからスイス・コテージえきまでのメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道てつどうしめ

1860ねん11月にメトロポリタン鉄道てつどうとグレート・ウェスタン鉄道てつどうによって、グレート・ウェスタン鉄道てつどうのパディントンえきから1マイル西にしから、発展はってんしつつある郊外こうがいであるシェパーズ・ブッシュハマースミスへ、そしてラティマー・ロードにおいてウェスト・ロンドン鉄道てつどう英語えいごばん接続せつぞくする鉄道てつどう法案ほうあん[note 13]議会ぎかい提出ていしゅつされた[55][56]。ハマースミス・アンド・シティ鉄道てつどうとして1861ねん7がつ22にち承認しょうにんされ[57]、2マイル35チェーンやく3.9 km)の路線ろせんはおおむね野原のはらなかを20フィート(やく6.1 m)のたかさの高架こうかきょう建設けんせつされ[58]、1864ねん6がつ13にちにグレート・ウェスタン鉄道てつどう広軌こうき列車れっしゃがファリンドン・ストリートえきから運行うんこう開始かいしした[59]えきはノッティング・ヒルえき現在げんざいラドブローク・グローブえき英語えいごばん)、シェパーズ・ブッシュえき(1914ねん現在げんざいシェパーズ・ブッシュ・マーケットえき移転いてん)、そしてハマースミスえきである[32]。ウェスト・ロンドン鉄道てつどうへの連絡れんらくせん同年どうねん7がつ1にち開通かいつうし、ノッティング・ヒルえきにおいて連結れんけつ解放かいほうされた車両しゃりょうによりケンジントンえき現在げんざいケンジントン・オリンピアえき)まで運行うんこうされた[59]。メトロポリタン鉄道てつどうとグレート・ウェスタン鉄道てつどう合意ごういけて、1865ねんからはメトロポリタン鉄道てつどう標準軌ひょうじゅんき列車れっしゃをハマースミスえきへ、グレート・ウェスタン鉄道てつどう広軌こうき列車れっしゃをケンジントンえき運行うんこうするようになった。1867ねんにハマースミス・アンド・シティ鉄道てつどう両社りょうしゃ共同きょうどう所有しょゆうとなった。グレート・ウェスタン鉄道てつどう標準軌ひょうじゅんき列車れっしゃ運行うんこうはじめ、1869ねんにハマースミス・アンド・シティ鉄道てつどうおよびメトロポリタン鉄道てつどうから広軌こうきようのレールが撤去てっきょされた。1871ねんにグレート・ウェスタン鉄道てつどう沿ってウェストボーン・パークえきからパディントンえきまで2ほん追加ついか線路せんろがハマースミス・アンド・シティ鉄道てつどうよう使用しよう開始かいしされ、1878ねんにはウェストボーン・パークえき平面へいめん交差こうさ立体りったい交差こうさえられた[58]。ハマースミス・アンド・シティ鉄道てつどうにさらなるえきとして、ウェストボーン・パークえき英語えいごばん(1866ねん)、ラティマー・ロードえき英語えいごばん(1868ねん)、ロイヤル・オークえき英語えいごばん(1871ねん)、ウッドレーンえき英語えいごばん(1908ねん)、ゴールドホーク・ロードえき(1914ねん)と開業かいぎょうした。1869ねんにはウェスト・ロンドン鉄道てつどうアクスブリッジ・ロードえき英語えいごばん開業かいぎょうしている[32]

1877ねん10がつ1にちから1906ねん12月31にちまでのあいだ、ハマースミス支線しせん列車れっしゃ一部いちぶロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道てつどう英語えいごばん線路せんろはしって、そのハマースミス(グローブ・ロード)えき英語えいごばん経由けいゆしてリッチモンドえき英語えいごばんまで延長えんちょうされていた[60][note 14]

インナー・サークルせん[編集へんしゅう]

メトロポリタン鉄道てつどう初期しょき成功せいこうにより、1863ねんにはロンドンにおいてあたらしい鉄道てつどう敷設ふせつしようとする申請しんせい議会ぎかい殺到さっとうし、そのおおくがたような経路けいろ競合きょうごうするものであった。最良さいりょう提案ていあん判断はんだんするために、貴族きぞくいん特別とくべつ委員いいんかい設置せっちし、委員いいんかいは1863ねん7がつに「実際じっさい接続せつぞくしないのであれば、首都しゅと主要しゅよう鉄道てつどうターミナルのほぼすべてに沿って内側うちがわ環状かんじょうむす鉄道てつどう」を推薦すいせんする報告ほうこくおこなった。1864ねん議会ぎかいには、経路けいろことなるもののおおむね推薦すいせん沿ったおおくの鉄道てつどう提案ていあんされ、上下じょうげ両院りょういん議員ぎいん構成こうせいされる合同ごうどう委員いいんかい設置せっちされて計画けいかく審査しんさした[61][note 15]

メトロポリタン鉄道てつどうからの、パディントンえきから西にしへ、そこからみなみサウス・ケンジントン英語えいごばんまで、またムーアゲートえきからひがしタワー・ヒルまで延長えんちょうする提案ていあんは、承認しょうにんされ1864ねん7がつ29にち国王こくおう裁可さいか[63]環状かんじょうせん完成かんせいさせるために、委員いいんかいではケンジントンとシティのあいだことなる経路けいろ建設けんせつする2つの提案ていあん合同ごうどうさせることを推奨すいしょうし、合同ごうどうした提案ていあん同日どうじつメトロポリタン・ディストリクト鉄道てつどう一般いっぱんてきにディストリクト鉄道てつどうとしてられる)として承認しょうにんされた[63][64][note 16]当初とうしょは、ディストリクト鉄道てつどうとメトロポリタン鉄道てつどう緊密きんみつ連携れんけいしており、すぐにも合併がっぺいすることが意図いとされていた。メトロポリタン鉄道てつどう会長かいちょうと3にん取締役とりしまりやくはディストリクト鉄道てつどう取締役とりしまりやくでもあり、技術ぎじゅつしゃ両社りょうしゃともジョン・ファウラーであり、また延長えんちょう区間くかんのすべての工事こうじは1つの契約けいやくとなっていた[65][66]。ディストリクト鉄道てつどうは、メトロポリタン鉄道てつどうとは独自どくじ資金しきんあつめられるようにするために、独立どくりつした会社かいしゃとして設立せつりつされた[65]

パディントンえきちかくのプレイド・ストリートジャンクションでビショップス・ロードへかう進路しんろはいるグレート・ウェスタン鉄道てつどう広軌こうき列車れっしゃ、この場所ばしょでノッティング・ヒルおよびブロンプトンへの延長線えんちょうせん当初とうしょせん合流ごうりゅうする

西部せいぶ延長えんちょう区間くかんは、メトロポリタン鉄道てつどう当初とうしょのパディントンえきからすこ東側ひがしがわの、プレイド・ストリートジャンクションから分岐ぶんきして、ベイズウォーターノッティング・ヒルケンジントンなどの高級こうきゅう住宅じゅうたく地区ちくとおる。この地域ちいきでは地価ちかたかく、また当初とうしょ路線ろせんことなりこちらの路線ろせんでは既存きそん道路どうろしたとおるような簡単かんたん線形せんけいではなかった。支払しはら補償ほしょうきんはかなりたかいものとなった。ベイズウォーターのレンスター・ガーデンズでは、鉄道てつどう通過つうかすることで台地だいちにできたみぞかくすために、23番地ばんちと24番地ばんちに2むねの5かい建物たてもののファサードが建築けんちくされている。この区間くかんでは適切てきせつ換気かんき確保かくほするために、路線ろせんおおくの区間くかん切通きりどおしとなっているが、キャンプデン・ヒル英語えいごばんには421ヤード (385 m) のトンネルがられた[67]。ディストリクト鉄道てつどう工事こうじはメトロポリタン鉄道てつどう工事こうじ並行へいこうすすめられ、同様どうよう地価ちかたか地域ちいき通過つうかしていた。建設けんせつ補償ほしょうがとてもたかかったことから、ディストリクト鉄道てつどう最初さいしょ区間くかんであるサウス・ケンジントンからウェストミンスターまでの費用ひようは300まんポンドにたっし、メトロポリタン鉄道てつどう当初とうしょのよりなが路線ろせんくらべてもほぼ3ばいかかった[68]

メトロポリタン鉄道てつどう延長えんちょう区間くかんのうち最初さいしょ区間くかんとしてブロンプトンまで1868ねん10がつ1にち開通かいつう[65]えきはパディントン(プレイド・ストリート)えき現在げんざいのパディントンえき)、ベイズウォーターえきノッティング・ヒル・ゲートえき、ケンジントン(ハイ・ストリート)えき現在げんざいハイ・ストリート・ケンジントンえき)、ブロンプトン(グロスター・ロード)えき現在げんざいグロスター・ロードえき)が設置せっちされた[32]。3かげつの1868ねん12月24にちに、メトロポリタン鉄道てつどうはブロンプトンからひがし延長えんちょうしてディストリクト鉄道てつどうのサウス・ケンジントンえきれ、ディストリクト鉄道てつどうはそこからウェストミンスターまで開通かいつうして、サウス・ケンジントンえきスローン・スクエアえきヴィクトリアえきセント・ジェームズ・パークえき、ウェストミンスター・ブリッジえき現在げんざいウェストミンスターえき)が開業かいぎょうした[32]

ディストリクト鉄道てつどうはさらにブロンプトン(グロスター・ロード)えきから西にし延長えんちょうする許可きょかて、1869ねん4がつ12にちにウェスト・ロンドン鉄道てつどうウェスト・ブロンプトンえきまで単線たんせん開通かいつうさせた。途中とちゅうえきはなく、当初とうしょはシャトル運転うんてんおこなわれた[69][70]。1869ねんなつまでには、サウス・ケンジントンえきからブロンプトン(グロスター・ロード)えきまで、そしてケンジントン(ハイ・ストリート)えきから分岐ぶんきてんまでとウェスト・ブロンプトンえきへの独立どくりつした線路せんろ敷設ふせつされた。1870ねん7がつ5にちよる、ディストリクト鉄道てつどうはブロンプトン(グロスター・ロード)えきとケンジントン(ハイ・ストリート)えきむす議論ぎろんんだクロムウェル・カーブ英語えいごばんをひそかに建設けんせつした[71]

ウェストミンスターよりひがしでは、ディストリクト鉄道てつどうつぎ区間くかん首都しゅと土木どぼく委員いいんかいテムズがわ北岸ほくがん沿ってあたらしく建設けんせつしたヴィクトリア堤防ていぼう英語えいごばんうえ走行そうこうした。ウェストミンスター・ブリッジえきからブラックフライアーズえきまでの区間くかんは1870ねん5がつ30にち開通かいつう[69]、チャリング・クロスえき現在げんざいエンバンクメントえき)、ザ・テンプルえき現在げんざいテンプルえき)、ブラックフライアーズえき開業かいぎょうした[32]

その開業かいぎょう以来いらい、メトロポリタン鉄道てつどうはディストリクト鉄道てつどうにおける列車れっしゃ運行うんこうし、一定いってい運行うんこう本数ほんすうたいしてそう収入しゅうにゅうの55パーセントをった。ディストリクト鉄道てつどうから追加ついか列車れっしゃ運行うんこうもとめられると、それにたいしても追加ついか費用ひよう請求せいきゅうされ、ディストリクト鉄道てつどうれる収入しゅうにゅうは40パーセントほどにがってしまった。ディストリクト鉄道てつどう負債ふさい水準すいじゅんからメトロポリタン鉄道てつどうにとって合併がっぺい魅力みりょくのあるものではなくなり、合併がっぺいはなし進行しんこうしなくなったことから、メトロポリタン鉄道てつどうがわ役員やくいんはディストリクト鉄道てつどう取締役とりしまりやく辞任じにんした。ディストリクト鉄道てつどう財務ざいむ改善かいぜんするために、メトロポリタン鉄道てつどうたいして運行うんこう契約けいやく終了しゅうりょう通告つうこくした。非常ひじょうたか建設けんせつ費用ひよう負担ふたんくるしんだディストリクト鉄道てつどうは、当初とうしょ計画けいかくであるタワー・ヒルまでののこりの区間くかん建設けんせつ続行ぞっこうすることができず、最後さいご延長えんちょうとしてわずか1えき、ブラックフライアーズえきからひがし当初とうしょ計画けいかくされていなかったターミナル、マンション・ハウスえきまでを開通かいつうさせた[72][73]

1871ねんにインナー・サークルせん運行うんこうはじまり、マンション・ハウスえきからムーアゲート・ストリートえきまで、サウス・ケンジントンえきとパディントンえきとおって運行うんこうされた。ケンジントン(ハイ・ストリート)えきとサウス・ケンジントンえきあいだでは、両社りょうしゃがそれぞれの線路せんろ保有ほゆうしていた

1871ねん7がつ1にち土曜日どようび開通かいつう記念きねん式典しきてんが、当時とうじ首相しゅしょう株主かぶぬしでもあった、ウィリアム・グラッドストンが出席しゅっせきして開催かいさいされた。つぎ月曜日げつようびにマンション・ハウスえき開業かいぎょうし、ディストリクト鉄道てつどう自社じしゃ列車れっしゃ運行うんこう開始かいしした[74]。このから、両社りょうしゃ共同きょうどうでインナー・サークルせんをマンション・ハウスえきからムーアゲート・ストリートえきまで、サウス・ケンジントンえきとエッジウェア・ロードえき経由けいゆして10ふん間隔かんかく運行うんこう開始かいし[note 17]、そしてマンション・ハウスえきからウェスト・ブロンプトンえきまでディストリクト鉄道てつどう列車れっしゃが10ふんおきに、またハマースミス・アンド・シティ鉄道てつどうとグレート・ウェスタン鉄道てつどう郊外こうがい列車れっしゃがエッジウェア・ストリートえきとムーアゲート・ストリートえきあいだ運転うんてんされた[75]。マンション・ハウスえきより東側ひがしがわ鉄道てつどう建設けんせつ許可きょか失効しっこうした[76]。また路線ろせん反対はんたいがわで、ディストリクト鉄道てつどうがわのサウス・ケンジントンえきは1871ねん7がつ10日とおか開業かいぎょう[77][note 18]、ウェスト・ブロンプトン支線しせんじょうアールズ・コートえきが1871ねん10がつ30にち開業かいぎょうした[32]

1868ねんから1869ねんにかけて、メトロポリタン鉄道てつどうたいするおおくの審問しんもんひらかれて、本来ほんらい支払しはら能力のうりょく以上いじょう配当はいとうきんはらっていたり、資本しほん勘定かんじょうからの支出ししゅつおこなわれていたりといった、財務ざいむじょう不正ふせいつかった。1870ねん会社かいしゃ取締役とりしまりやくたちが背任はいにん有罪ゆうざいとなり、会社かいしゃたいして賠償ばいしょうおこなうようめいじられた[79]全員ぜんいん不服ふふくもうてをおこない、1874ねんにかなりひくがく妥結だけつみとめられたが[80]株主かぶぬし信頼しんらい回復かいふくするために1872ねん10がつ取締役とりしまりやく全員ぜんいん入替いれかわとなり、エドワード・ワトキン英語えいごばん会長かいちょう任命にんめいされた[81]。ワトキンは経験けいけんんだ鉄道てつどう業界ぎょうかいじんで、サウス・イースタン鉄道てつどう英語えいごばんなどいくつかの鉄道てつどう会社かいしゃすで取締役とりしまりやくつとめており、きたからロンドンをつらぬいてサウス・イースタン鉄道てつどう路線ろせん接続せつぞくしたいという願望がんぼうっていた[82][note 19]

土地とち購入こうにゅう費用ひよう問題もんだいから、メトロポリタン鉄道てつどうのムーアゲート・ストリートえきからひがしへの延長えんちょう工事こうじはゆっくりとしかすすまず、1869ねん法律ほうりつさだめられた期限きげん延長えんちょうなければならなかった。延長えんちょう工事こうじは1873ねん開始かいしされたが、建設けんせつ工事こうじがローマカトリック教会きょうかい地下ちか埋葬まいそうしょしてしまったのち契約けいやく業者ぎょうしゃ作業さぎょういん工事こうじ従事じゅうじさせつづけるのはむずかしいと報告ほうこくしてきた。最初さいしょ区間くかんは、グレート・イースタン鉄道てつどう英語えいごばん最近さいきん開業かいぎょうさせたターミナルえきであるリバプール・ストリートえきまで1875ねん2がつ1にち開通かいつうした。メトロポリタン鉄道てつどう自身じしんえき建設けんせつされているみじか期間きかんちゅう列車れっしゃ半径はんけい3.5チェーン(やく70 m)の曲線きょくせんとおってグレート・イースタン鉄道てつどうがわえきれており、同年どうねん7がつ12にち自社じしゃえき開業かいぎょうして、それ以降いこう通常つうじょう運行うんこうにこの曲線きょくせん使用しようされることはかった。アルドゲイトえきまでの延長えんちょう工事こうじちゅうには、貨車かしゃにしてなにひゃく両分りょうぶんものうしかく表土ひょうどから20フィート(やく6.1 m)した発見はっけんされた。アルドゲイトえきは1876ねん11月18にち開業かいぎょうし、当初とうしょはビショップスゲートえきまでのシャトル列車れっしゃ運行うんこうし、12月4にちからメトロポリタン鉄道てつどうおよびディストリクト鉄道てつどうぜん列車れっしゃ直通ちょくつう運転うんてん開始かいしした[85]

あおせんしめされているのがインナー・サークルせんを1884ねん完成かんせいさせた共同きょうどうせん区間くかんで、またこれによりメトロポリタン鉄道てつどうとディストリクト鉄道てつどうをイースト・ロンドン鉄道てつどう接続せつぞくした。メトロポリタン鉄道てつどうのタワー・オブ・ロンドンえき開業かいぎょうしばらくしてから廃止はいしとなった。ディストリクト鉄道てつどう列車れっしゃは、1902ねんホワイトチャペル・アンド・バウ鉄道てつどう英語えいごばんとおってホワイトチャペルえきよりひがしまで延長えんちょうされた[86]

メトロポリタン鉄道てつどうとディストリクト鉄道てつどうあいだあらそいと建設けんせつ費用ひよう問題もんだいにより、インナー・サークルせん完成かんせいはさらにおくれることになった。イライラさせられていたシティの金融きんゆう業者ぎょうしゃたちは、1874ねんにメトロポリタン・インナー・サークル完成かんせい鉄道てつどう会社かいしゃ (Metropolitan Inner Circle Completion Railway Company) をのこりの区間くかん完成かんせいさせる目的もくてき設立せつりつした。この会社かいしゃはディストリクト鉄道てつどう支持しじされ、議会ぎかいから許可きょかを1874ねん8がつ7にち[87][88]。この会社かいしゃ資金しきん調達ちょうたつくるしみ、工事こうじ期限きげん延長えんちょうを1876ねん許可きょかされた[87]。メトロポリタン鉄道てつどうとディストリクト鉄道てつどうあいだでの会合かいごうが1877ねんひらかれ、メトロポリタン鉄道てつどうイースト・ロンドン鉄道てつどうつうじてサウス・イースタン鉄道てつどうれたいと表明ひょうめいした。両社りょうしゃは1879ねんにイースト・ロンドン鉄道てつどう延長えんちょうして接続せつぞくする許可きょか議会ぎかいからて、またこの法律ほうりつでは両社りょうしゃ環状かんじょうせん全体ぜんたい運行うんこう許可きょか将来しょうらいてき協調きょうちょう確実かくじつにした[note 20]当局とうきょくからはだい規模きぼ道路どうろおよび下水げすい改良かいりょうという協力きょうりょくおこなわれた。1882ねんにメトロポリタン鉄道てつどうはアルドゲイトえきからかりえきタワー・オブ・ロンドンえきまで延長えんちょうされた[90]共同きょうどうせん建設けんせつする2けん契約けいやくむすばれ、1けんは1882ねんのマンション・ハウスえきからタワー・オブ・ロンドンえきまでのもので、もう1けんは1883ねんのアルドゲイトえききたからホワイトチャペルえきとおりイースト・ロンドン鉄道てつどうれるものであった。1884ねん10がつ1にちからディストリクト鉄道てつどうとメトロポリタン鉄道てつどうは、セント・メアリーズえき英語えいごばんからせんのカーブをとおってイースト・ロンドン鉄道てつどうとおりサウス・イースタン鉄道てつどうニュー・クロスえき英語えいごばんまでの普通ふつう列車れっしゃ運行うんこう開始かいしした[91][note 21]。1884ねん9がつ17にち公式こうしき完成かんせい式典しきてんおこなわれ、10月6にち月曜日げつようびから試験しけんてき環状かんじょう運転うんてん開始かいしされた。同日どうじつメトロポリタン鉄道てつどうはハマースミス・アンド・シティせん列車れっしゃ一部いちぶをイースト・ロンドン鉄道てつどうつうじてニュー・クロスえきまでれ、途中とちゅうあらたに共同きょうどうえきとして用意よういされたアルドゲイト・イーストえき英語えいごばんとセント・メアリーズえき停車ていしゃした[91][32]環状かんじょうせんがわ開業かいぎょうした共同きょうどうえきキャノン・ストリートえき、イーストチープえき(1884ねん11月1にちからモニュメントえき)およびマークレーンえきである。ディストリクト鉄道てつどうはタワー・オブ・ロンドンえきまでの乗車じょうしゃけん販売はんばい拒否きょひしたため、メトロポリタン鉄道てつどうのタワー・オブ・ロンドンえきは1884ねん10がつ12にち廃止はいしされた[92]当初とうしょ運行うんこうは1あいだに8ほんで、13マイル(やく21 km)の環状かんじょうせんを81 - 84ふん走行そうこうしたが、これは不可能ふかのうであることがわかり、1885ねんに1あいだたり6ほん削減さくげんされ所要しょよう時間じかんは70ふんとなった。車掌しゃしょう当初とうしょ勤務きんむ時間じかんちゅう休憩きゅうけいることがみとめられていなかったが、1885ねん9がつに20分間ふんかん休憩きゅうけい3かいみとめられるようになった[93]

延長線えんちょうせん 1868ねん - 1899ねん[編集へんしゅう]

メトロポリタン鉄道てつどう延長線えんちょうせん
1933ねんLPTB継承けいしょう時点じてん
utCONTgq utABZq+r utCONTfq
ハマースミス&シティーせん接続せつぞく
utSTRe
uBHF
ベイカー・ストリート
utSTRa
utSTRe
uhKRZWae
リージェンツ運河うんが
utSTRa
utHST
セント・ジョンズ・ウッド
utHST
マールボロ・ロード
utBHF
スイス・コテージ
utSTRe CONTg
メリルボーン
uBHF STR
フィンチリー・ロード
uHST STR
ウェスト・ハムステッド
uHST STR
キルバーン・アンド・ブロンズベリー
uBHF STR
ウィルズデン・グリーン英語えいごばん
uHST STR
ドールズ・ヒル英語えいごばん
uBHF STR
ニーズデン英語えいごばん
uBHF STR
ウェンブリー・パーク
uSTR+l uABZgr STR
スタンモア分岐ぶんき
uHST uSTR STR
キングスベリー英語えいごばん
uHST uSTR STR
キャノンズ・パーク英語えいごばん
uKBHFe uSTR STR
スタンモア
uHST STR
プレストン・ロード英語えいごばん
uHST STR
ノースウィック・パーク英語えいごばん
umABZg+l STRr
uBHF
ハーロウ=オン=ザ=ヒル英語えいごばん
uABZgl uSTRq uSTR+r
アクスブリッジ分岐ぶんき
uSTR uHST
ウェスト・ハーロウ英語えいごばん
uSTR uABZg+l uCONTfq
サウス・ハーロウ(ディストリクト鉄道てつどう)
uSTR uHST
レイナーズ・レーン英語えいごばん
uSTR uHST
イーストコート英語えいごばん
uSTR uHST
ライスリップ・マナー英語えいごばん
uSTR uHST
ライスリップ英語えいごばん
uSTR uHST
イックナム英語えいごばん
uSTR uHST
ヒリンドン英語えいごばん
uSTR uDST
アクスブリッジ車両しゃりょう基地きち
uSTR uKBHFe
アクスブリッジ英語えいごばん
uHST
ノース・ハーロウ英語えいごばん
uHST
ピナーえき英語えいごばん
uHST
ノースウッド・ヒルズ英語えいごばん
uBHF
ノースウッド英語えいごばん
uHST
ムーア・パーク・アンド・サンディー・ロッジ英語えいごばん
uSTR+l uABZgr+r
ワトフォード分岐ぶんき
uHST uSTR
クロックスリー・グリーン英語えいごばん
uSTR
ワトフォード英語えいごばん
uextKBHFe uSTR
ワトフォード・セントラル英語えいごばん
uBHF
リクマンズワース英語えいごばん
uBHF
コーレイウッド・アンド・チェニーズ英語えいごばん
uBHF
チャルフォント・アンド・ラティマー英語えいごばん
uSTR+l uABZgr
uKHSTe uSTR
チェスハム英語えいごばん
uBHF
アマーシャム・アンド・チェスハム・ボイス英語えいごばん
uHST
グレート・ミスンデン英語えいごばん
uHST
ウェンドーヴァー英語えいごばん
uHST
ストーク・マンデヴィル英語えいごばん
umABZg+l CONTfq
プリンセス・リスバラ英語えいごばん
uBHF
アリスバーリー英語えいごばん
uHST
ワデスドン英語えいごばん
uXBHF-L uKXBHFa-R
クアイントン・ロード英語えいごばん
uSTR+l
uSTR
uSTR CONTf uSTR
グレート・セントラル本線ほんせん英語えいごばん
ブリル分岐ぶんき
uSTR uHST
ワデスドン・ロード英語えいごばん
uSTR uHST
ウエストコット英語えいごばん
uSTR uHST
ウォートン英語えいごばん
uSTR uHST
ウッド・サイディング英語えいごばん
uSTR uKHSTe
ブリル英語えいごばん
uHST
グランバラ・ロード英語えいごばん
uHST
ウインスロー・ロード英語えいごばん
uKHSTe
ヴェルネイ・ジャンクション英語えいごばん

ベイカー・ストリートえきからハーローえきまで[編集へんしゅう]

1868ねん4がつに、メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道てつどう (Metropolitan & St John's Wood Railway) がベイカー・ストリートえきあたらしく設置せっちしたプラットホーム(ベイカー・ストリート・イーストとばれた)からスイス・コテージえきまでトンネルで単線たんせん鉄道てつどう開通かいつうさせた[94][95]途中とちゅうには待避たいひせんそなえたセント・ジョンズ・ウッド・ロードえきマールボロ・ロードえきがあり、メトロポリタン鉄道てつどうにより20ふんおきに列車れっしゃ運行うんこうされた。ベイカー・ストリートえきにおいてインナー・サークルせんとの分岐ぶんきてんつくられたが、1869ねん以降いこう直通ちょくつう列車れっしゃ運転うんてんされていない[96]

1870年代ねんだい初頭しょとう乗客じょうきゃくすうすくなかったためメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道てつどう路線ろせん延長えんちょうしてあらたな需要じゅようそうとかんがえた。メトロポリタン鉄道てつどう着任ちゃくにんしたばかりであったワトキンは、すで市街地しがいちしていた地域ちいき建設けんせつするよりも費用ひようやす運賃うんちんたかいため、こちらのほう優先ゆうせんたかいとかんがえ、またこのせんからの乗客じょうきゃくはサークルせん利用りようしてくれるとかんがえられた[97][98]。1873ねんにメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道てつどうミドルセックスしゅう郊外こうがいであるニーズデンまでの延長えんちょう許可きょかたが[99][note 22]、ニーズデンにもっともちか人口じんこうあつまる場所ばしょはハーローであったため、さらに3.5マイル(やく5.6 km)延長えんちょうしてハーローまで路線ろせん建設けんせつすることを決定けってい[100]、1874ねん許可きょか[99][note 23]。キルバーンでひらかれたイングランド王立おうりつ農業のうぎょう協会きょうかい英語えいごばんの1879ねんのショーにわせるために、West Hampstead tube stationまでの単線たんせん路線ろせんが1879ねん6がつ30にち開通かいつうし、フィンチリー・ロードえきにはかりプラットホームがもうけられた。複線ふくせんウィルズデン・グリーンえき英語えいごばんまでの営業えいぎょうは1879ねん11月24にちはじまり、途中とちゅうにキルバーン・アンド・ブロンデスベリーえき現在げんざいキルバーンえき)が開設かいせつされた[101]路線ろせんはさらにハーロー=オン=ザ=ヒルえき英語えいごばんまで5マイル37.5チェーン(やく8.80 km)延長えんちょうされ、ベイカー・ストリートえきからの運行うんこうは1880ねん8がつ2にち開始かいしされた。途中とちゅうえきのキングスベリー・ニーズデンえき現在げんざいニーズデンえき英語えいごばん)も同日どうじつ開設かいせつされた[102]。2ねんに、ベイカー・ストリートえきとスイス・コテージえきあいだ単線たんせん複線ふくせんされ、メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道てつどうはメトロポリタン鉄道てつどう吸収きゅうしゅう合併がっぺいされた[103]

1882ねんにメトロポリタン鉄道てつどう客車きゃくしゃ工場こうじょうをエッジウェア・ロードからニーズデンに移転いてんさせた[104]機関きかんしゃ工場こうじょうは1883ねんに、そしてガス工場こうじょうは1884ねん開設かいせつされた。ロンドンから従業じゅうぎょういん収容しゅうようするために、100以上いじょういえと10けんみせよう建設けんせつされた。1883ねんにこのうち2けんみせ学校がっこう教室きょうしつ教会きょうかい転用てんようされた。2ねんには教会きょうかい建物たてもの土地とちはウェズリーアン教会きょうかい寄贈きぞうされ、学校がっこうは200にん児童じどう収容しゅうようするようになった[105][note 24]

ハーローからバーニー・ジャンクションとブリルまで[編集へんしゅう]

1868ねんバッキンガムこうが、エイルズベリーえき英語えいごばんからバッキンガムシャー鉄道てつどう英語えいごばんのブレッチリー-オックスフォードせんじょう新設しんせつしたバーニー・ジャンクションえき英語えいごばんまでの単線たんせんで12.75マイル(やく20.5 km)のエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道てつどう英語えいごばん開通かいつうさせた[107]当初とうしょは、ブレッチリー-オックスフォードせん運行うんこうしていたロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道てつどうからわずかながらも協力きょうりょくられていたが、路線ろせん建設けんせつされるまでのあいだに2しゃあいだ関係かんけい崩壊ほうかいしてしまった[note 25]ウィカム鉄道てつどう英語えいごばんプリンス・リスバラえき英語えいごばんからエイルズベリーえきまでの単線たんせん鉄道てつどう建設けんせつし、そしてグレート・ウェスタン鉄道てつどうがこの会社かいしゃ買収ばいしゅうしたさいに、プリンス・リスバラえきからエイルズベリーえきとおりクエイトン・ロードえきまで、そしてクエイトン・ロードえきからバーニー・ジャンクションえきまでのシャトル列車れっしゃ運行うんこうするようになった[109]

エイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道てつどうは、ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道てつどう傘下さんかワトフォード・アンド・リックマンズワース鉄道てつどう英語えいごばん接続せつぞくするリックマンズワースまでさらにみなみ延長えんちょうする許可きょかていた。バッキンガムこうとワトキンのあいだ協議きょうぎけて、この路線ろせんをさらにみなみばしてメトロポリタン鉄道てつどうとハーローで接続せつぞくすることが合意ごういされ、この延長えんちょう許可きょかは1874ねんられ[99][note 26]、ワトキンは1875ねんにエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道てつどう取締役とりしまりやく就任しゅうにんした[110]。これを実現じつげんする資金しきんがなかったため、メトロポリタン鉄道てつどうふたた議会ぎかいはたらきかけて、ハーローからエイルズベリーまでの路線ろせん建設けんせつする許可きょかを1880ねんと1881ねん[111][note 27]ピナーえき英語えいごばんまで1885ねん到達とうたつし、リックマンズワースえき英語えいごばんノースウッドえき英語えいごばんからベイカー・ストリートえきまでの1あいだおきの運転うんてんは1887ねん9がつ1にちはじまった[112]チェシャムえき英語えいごばん設置せっちするために地域ちいき協力きょうりょくられていたものの、この時点じてん資金しきんあつめることはとてもむずかしくなっていた[104]。1885ねん許可きょかてリックマンズワースから5マイル(やく8 km)の複線ふくせん敷設ふせつされ、そこからは単線たんせんでチェシャムまで建設けんせつされた[113]。チェシャムからの列車れっしゃは、途中とちゅうチョーリー・ウッドえき英語えいごばんとチャルフォント・ロードえき現在げんざいチャルフォント・アンド・ラティマーえき英語えいごばん)に停車ていしゃし、1889ねん7がつ8にち運行うんこう開始かいしした[114]。 メトロポリタン鉄道てつどうはエイルズベリー・アンド・バッキンガム鉄道てつどうを1891ねん7がつ1にち買収ばいしゅう[114]、エイルズベリーにかりプラットホームを設置せっちして1892ねん9がつ1にち開通かいつうした。途中とちゅう停車駅ていしゃえきアマーシャムえき英語えいごばんグレート・ミセンデンえき英語えいごばんウェンドーバーえき英語えいごばんストーク・マンデビルえき英語えいごばんであった。1894ねんにメトロポリタン鉄道てつどうとグレート・ウェスタン鉄道てつどうのエイルズベリーにおける共同きょうどうえき英語えいごばん開業かいぎょうした[115]。エイルズベリーからさきバーニー・ジャンクションまでは、路線ろせんにあるはし強度きょうどがメトロポリタン鉄道てつどう機関きかんしゃとおすためには不十分ふじゅうぶんであった。グレート・ウェスタン鉄道てつどう支援しえん拒否きょひし、2りょうDクラス英語えいごばん購入こうにゅうするまではロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道てつどうから機関きかんしゃりて運行うんこうした。路線ろせん規格きかく向上こうじょうされ、複線ふくせんされて本線ほんせん規格きかくまでえき改築かいちくされて[116]、ベイカー・ストリートえきからバーニー・ジャンクションえきまでの直通ちょくつう運転うんてんが1897ねん1がつ1にちからできるようになり、あたらしいワッデスドン・メイナーえき英語えいごばん改築かいちくされたクエイントン・ロードえき英語えいごばんグランバラ・ロードえき英語えいごばんウィンスロー・ロードえき英語えいごばん停車ていしゃした[32][117]

クエイントン・ロードえきから、バッキンガムこうブリル軌道きどう英語えいごばんという6.5マイル(やく10.5 km)の支線しせん建設けんせつしていた[118]。1899ねんにはクエイントン・ロードえきブリルえき英語えいごばんあいだを1にち片道かたみち4ほん混合こんごう列車れっしゃはしっていた。メトロポリタン鉄道てつどうにこの路線ろせんうように推奨すいしょうがあり、1899ねん11月に運行うんこう[119]毎年まいとし600ポンドでけるようになった。1903ねん線路せんろなおされ、えき改良かいりょうされた。旅客りょかく列車れっしゃAクラスおよびDクラスの機関きかんしゃとオールドベリーがたの8りん客車きゃくしゃ運行うんこうされるようになった[120][121]

1893ねんあたらしいウェンブリー・パークえき開業かいぎょうし、当初とうしょはサッカーのオールド・ウェストミンスターFCにより利用りようされたが、おもにスポーツ、レジャー、博覧はくらんかいなどにもちいられた[122]。その当時とうじ建設けんせつされたばかりであったエッフェル塔えっふぇるとうよりもたかい、1,159フィート(やく353 m)のとう計画けいかくされたが、魅力みりょく不十分ふじゅうぶんで、200フィート(やく61 m)のたかさのものがだいいち段階だんかいとして建設けんせつされた。このとうワトキンズ・タワー英語えいごばんとしてられるようになったが、かたむいていることが発見はっけんされて1907ねん解体かいたいされた[123]

1900ねんごろ、ウィルズデン・グリーンえきとベイカー・ストリートえきあいだには、1あいだに6ほん普通ふつう列車れっしゃはしっていた。1ほんはリックマンズワースから、もう1ほんはハーローからで、のこりはウィルズデン・グリーン始発しはつであった。このほかに、2あいだに1ほんバーニー・ジャンクションからの列車れっしゃがあり、ハーローまではすべてのえき停車ていしゃし、そこからはウィルズデン・グリーンとベイカー・ストリートのみに停車ていしゃした。このはや列車れっしゃは、普通ふつう列車れっしゃがウィルズデン・グリーンえき出発しゅっぱつする直前ちょくぜん出発しゅっぱつして、ベイカー・ストリートえきには1ほんまえ普通ふつう列車れっしゃ直後ちょくご到着とうちゃくするように時刻じこくひょう調整ちょうせいされていた[124]

グレート・セントラル鉄道てつどう[編集へんしゅう]

1906ねん時点じてんでは、グレート・セントラル鉄道てつどうには2とおりのロンドンへの経路けいろがあった。1つはアマーシャム経由けいゆのメトロポリタン鉄道てつどうで、もう1つはハイ・ウィカム経由けいゆのグレート・セントラル・アンド・グレート・ウェスタン・ジョイント鉄道てつどうであった

ワトキンはマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどう英語えいごばん取締役とりしまりやくでもあり、エイルズベリーのすこきたでメトロポリタン鉄道てつどう合流ごうりゅうする99マイル(やく159 km)のロンドン延長線えんちょうせん計画けいかくっていた。ベイカー・ストリートえきをロンドンにおけるターミナルとして使用しようできると提案ていあんがあったが、しかし1891ねんから1892ねんにかけてマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどうは、メリルボーン地区ちく独自どくじえき貨物かもつあつか設備せつび必要ひつようであると結論けつろんした。この鉄道てつどうかんする法律ほうりつは1893ねん議会ぎかい通過つうかしたが、ワトキンは病気びょうきにかかって1894ねん取締役とりしまりやく辞任じにんした。かれ離任りにん両社りょうしゃあいだ関係かんけいはまもなく悪化あっかした[84]

1895ねんにマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどうは、メトロポリタン鉄道てつどう普通ふつう列車れっしゃ同社どうしゃ急行きゅうこう列車れっしゃけるように、ウェンブリー・パークからフィンチリー・ロードえきちかくのキャンフィールド・プレイスまで2ほん線路せんろ建設けんせつするという法案ほうあん議会ぎかい提出ていしゅつした[125]。メトロポリタン鉄道てつどうはこれに抗議こうぎしたが、この路線ろせんはマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどう専用せんよう使用しようするということで合意ごういした[126]。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどう機関きかんしゃはしれるようにウェンブリー・パークからハーローまでの区間くかんはしえたさいに、将来しょうらい必要ひつようせいをにらんで、メトロポリタン鉄道てつどう同時どうじ複々線ふくふくせんおこない、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどうは2せん専用せんよう使用しようするようにもとめた[127]。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどうは、メリルボーンにおいてメトロポリタン鉄道てつどうのサークルせん接続せつぞくする必要ひつよう許可きょかていたのであったが、メトロポリタン鉄道てつどうがわ面倒めんどう条件じょうけんけた。当時とうじマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどう資金しきん不足ふそくしていたこともあり、この路線ろせん放棄ほうきしてしまった[128]

両社りょうしゃ関係かんけいから、マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどう自社じしゃのロンドンへの列車れっしゃ完全かんぜんにメトロポリタン鉄道てつどうたよらなければならないということに不満ふまんであり、また自社じしゃきたへの路線ろせんことなり、エイルズベリーよりみなみでは速度そくど制限せいげんなんしょかあり、90ぶんの1のなが勾配こうばい区間くかんもあった。1898ねんにマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどうとグレート・ウェスタン鉄道てつどう共同きょうどうで、クエイントン・ロードのきたグレンドン・アンダーウッド英語えいごばんから分岐ぶんきしてアシェンドンまでのみじか連絡れんらくせんと、ノーソルトからニーズデンまでの路線ろせん建設けんせつしてグレート・ウェスタン・アンド・グレート・セントラル・ジョイント鉄道てつどう英語えいごばんとする法案ほうあん議会ぎかい提出ていしゅつした。メトロポリタン鉄道てつどうは、この法案ほうあんはメトロポリタン鉄道てつどうとマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどうあいだむすばれた合意ごうい精神せいしん条件じょうけんはんしていると抗議こうぎした。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどうはこの路線ろせん許可きょかたが、メトロポリタン鉄道てつどうには補償ほしょう権利けんりあたえられた[129]。1898ねん7がつ26にちに、メトロポリタン鉄道てつどう路線ろせんにマンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどう石炭せきたん列車れっしゃを1にち4ほん運転うんてんする暫定ざんてい合意ごういおこなわれた。マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどうはこうした列車れっしゃをエイルズベリーからグレート・ウェスタン鉄道てつどう線路せんろでプリンセス・リスバラを経由けいゆしてロンドンへ運転うんてんすることものぞんでいたが、メトロポリタン鉄道てつどうではこれは合意ごうい範囲はんいがいであるとかんがえていた。グレート・ウェスタン鉄道てつどうはい予定よていとなっていた列車れっしゃは1898ねん7がつ30にち早朝そうちょう、クエイントン・ロードえきにおいてメトロポリタン鉄道てつどう線路せんろはいることを拒否きょひされた。その裁判所さいばんしょでの聴取ちょうしゅでは、これが一時いちじてき合意ごういであったとしてメトロポリタン鉄道てつどう有利ゆうり判断はんだんされた[130]

マンチェスター・シェフィールド・アンド・リンカンシャー鉄道てつどうは1897ねんグレート・セントラル鉄道てつどう英語えいごばん改称かいしょうし、1899ねん3がつ15にちグレート・セントラル本線ほんせん英語えいごばん旅客りょかく輸送ゆそうけに開通かいつうした[118]。グレート・セントラル鉄道てつどうとメトロポリタン鉄道てつどうあいだでのこの路線ろせんかんする交渉こうしょうすうねんようし、1906ねんにキャンフィールド・プレイスからハーローまでの2せん年間ねんかん20,000ポンドでグレート・セントラル鉄道てつどうされ、メトロポリタン・アンド・グレート・セントラル・ジョイント鉄道てつどう英語えいごばん設立せつりつし、ハーローからバーニー・ジャンクションまでとブリル支線しせん年間ねんかん44,000ポンドでして、グレート・セントラル鉄道てつどうすくなくともこの路線ろせん年間ねんかん45,000ポンドの交通こうつうりょう保証ほしょうすることで合意ごういされた[131]。グレート・ウェスタン鉄道てつどうとメトロポリタン鉄道てつどう共同きょうどう運営うんえいするエイルズベリーえきには、グレート・ウェスタン・アンド・グレート・セントラル合同ごうどう委員いいんかいおよびメトロポリタン・アンド・グレート・セントラル合同ごうどう委員いいんかいかれた。一般いっぱんてきにはびづらい名前なまえであったことから、エイルズベリー共同きょうどうえきばれていた。メトロポリタン鉄道てつどうとグレート・セントラル鉄道てつどう合同ごうどう委員いいんかいえき路線ろせん営業えいぎょういだが、車両しゃりょう保有ほゆうしていなかった。メトロポリタン鉄道てつどう管理かんり担当たんとうし、グレート・セントラル鉄道てつどう会社かいしゃ役割やくわり交替こうたいするまでの最初さいしょの5年間ねんかん会計かいけい担当たんとうした。それ以降いこう1926ねんまで5ねんおきに役割やくわり交替こうたいした。メトロポリタン鉄道てつどうはグレート・ミセンデンのみなみにある28.5マイル地点ちてんより南側みなみがわ保守ほしゅおこない、グレート・セントラル鉄道てつどう北側きたがわ保守ほしゅおこなった[132]

電化でんか 1900ねん - 1914ねん[編集へんしゅう]

発展はってん[編集へんしゅう]

1900ねんに6かげつあいだ運行うんこうされた、両社りょうしゃ共同きょうどう所有しょゆう実験じっけん旅客りょかく列車れっしゃ

20世紀せいきはじまりに、ディストリクト鉄道てつどうとメトロポリタン鉄道てつどうあたらしく電気でんき運転うんてん開通かいつうした、ふか地下ちかはしるチューブとばれる路線ろせんとの競合きょうごう直面ちょくめんしていた。1900ねんセントラル・ロンドン鉄道てつどうがシェパーズ・ブッシュからシティまで、一律いちりつ2ペンスの運賃うんちん開通かいつうして以降いこう、1899ねん後半こうはんから1900ねん後半こうはんまでのあいだにディストリクト鉄道てつどうとメトロポリタン鉄道てつどうは400まんにん旅客りょかく減少げんしょうした[133]。トンネルない空気くうきよごれていたことが旅客りょかくにとって非常ひじょう不快ふかいなものとなっており、電気でんき運転うんてんえることが解決かいけつ方法ほうほうだとかんがえられた[134]。メトロポリタン鉄道てつどうでは、1880年代ねんだいには電化でんか検討けんとうされていたが、電気でんき運転うんてんはまだはじまったばかりであり、またインナー・サークルせんはディストリクト鉄道てつどうとの共同きょうどう所有しょゆうであったため、ディストリクト鉄道てつどうとの合意ごうい必要ひつようであった。両社りょうしゃ共同きょうどう所有しょゆうした6りょう電車でんしゃがアールズ・コートえきとハイ・ストリート・ケンジントンえき区間くかんで1900ねんに6かげつあいだ試験しけんてき旅客りょかく営業えいぎょうおこなった。これは成功せいこうであると判断はんだんされ、入札にゅうさつにかけられて、1901ねんにメトロポリタン鉄道てつどうとディストリクト鉄道てつどう合同ごうどう委員いいんかいガンツさんそう交流こうりゅう架空かくう電車でんしゃせん方式ほうしき推奨すいしょうした[135]両社りょうしゃによってこれはれられたが、それはロンドン地下ちか電気でんき鉄道てつどうがディストリクト鉄道てつどう買収ばいしゅうするまでであった。ロンドン地下ちか電気でんき鉄道てつどうはアメリカのチャールズ・ヤーキスひきいており、かれはアメリカでの経験けいけんからシティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道てつどうやセントラル・ロンドン鉄道てつどう使つかわれているのとおなじような、直流ちょくりゅうだいさん軌条きじょう方式ほうしきこのんだのである。商務省しょうむしょうでの調停ちょうていのちだいよん軌条きじょうまでを使つかった直流ちょくりゅう方式ほうしき採用さいようされることになり、電車でんしゃおよび電気でんき機関きかんしゃによる客車きゃくしゃ牽引けんいん前提ぜんていとして、これらの路線ろせん電化でんか開始かいしされた[136]。メトロポリタン鉄道てつどうは1904ねんにニーズデンに10.5メガワットの石炭せきたん火力かりょく発電はつでんしょ開設かいせつし、そこから11 kV 33.3 Hz電力でんりょくを5つの変電へんでんしょ送電そうでんして、そこでかい転変てんぺんりゅう使つかって直流ちょくりゅう600 Vに変換へんかんしていた[137]

一方いっぽうで、ディストリクト鉄道てつどうはイーリングからサウス・ハーローまでの路線ろせん建設けんせつしており、アクスブリッジまで延長えんちょうする許可きょかていた[138]。1899ねんに、ディストリクト鉄道てつどう資金しきんあつめに困難こんなんがあり、メトロポリタン鉄道てつどうは、ハーローからレイナーズ・レーンまでの支線しせんとアクスブリッジまでの路線ろせんをメトロポリタン鉄道てつどういで建設けんせつし、ディストリクト鉄道てつどうは1あいだに3ほんまでの列車れっしゃはしらせる権利けんり保持ほじするという救済きゅうさいさく提案ていあんした[139]。これに必要ひつよう法案ほうあんは1899ねん議会ぎかい通過つうかし、7.5マイル(やく12.1 km)の路線ろせん建設けんせつは1902ねん9がつはじまった。これには28のはしと、ハーローに71のアーチを全長ぜんちょう1.5マイル(やく2.4 km)の高架こうかきょう必要ひつようであった。この路線ろせん建設けんせつちゅうであったため、ベイカー・ストリートからハーローまでの路線ろせん[140]やインナー・サークルせん、グレート・ウェスタン鉄道てつどうとメトロポリタン鉄道てつどう共同きょうどう運行うんこうするハマースミス・アンド・シティせんとともに、電化でんかする路線ろせんふくめられた。メトロポリタン鉄道てつどうアクスブリッジえき英語えいごばんまでの路線ろせんを1904ねん6がつ30にちに、当初とうしょ蒸気じょうき機関きかんしゃ牽引けんいん開通かいつうさせた。途中とちゅうえきルイスリップえき英語えいごばんであった[138]。3両分りょうぶんながさの木造もくぞうのプラットホームにより1905ねん9がつ25にちイッケナムえき英語えいごばん開設かいせつされ、さらに同様どうよう単純たんじゅん構造こうぞうで1906ねん5がつ26にちイーストコートえき英語えいごばんレイナーズ・レーンえき英語えいごばん開設かいせつされた[141]

電気でんき運転うんてん[編集へんしゅう]

電車でんしゃ運転うんてんは1905ねん1がつ1にちはじまり、3月20にちまでにはベイカー・ストリートえきとハーローえきあいだのすべての普通ふつう列車れっしゃ電気でんき運転うんてんとなった[142]。アクスブリッジまでの閑散かんさん路線ろせんで6りょう編成へんせい列車れっしゃ運転うんてんするのは無駄むだであるとかんがえられたため、メトロポリタン鉄道てつどうはオフピークにハーローまでの3りょう編成へんせいのシャトル列車れっしゃはしらせ、1りょう電動でんどうしゃで2りょう付随ふずいしゃ牽引けんいんして商務省しょうむしょう不興ふきょうった。たん編成へんせい蒸気じょうき機関きかんしゃ列車れっしゃが3がつまつからオフピークの運行うんこうもちいられ、そのあいだにいくつかの付随ふずいしゃ運転うんてんだいける改造かいぞうおこなって、6月1にちから運行うんこう投入とうにゅうされた[141]

1905ねん7がつ1にちに、メトロポリタン鉄道てつどうとディストリクト鉄道てつどうはともに電車でんしゃをインナー・サークルせん導入どうにゅうしたが、そのおそく、メトロポリタン鉄道てつどう電車でんしゃがディストリクト鉄道てつどうせいきょくレールをたおしてしまい、メトロポリタン鉄道てつどうがわ運行うんこう中止ちゅうしされた。メトロポリタン鉄道てつどう電車でんしゃけられたしゅうでんシューとディストリクト鉄道てつどう線路せんろとのあいだ整合せいごうつかり、ディストリクト鉄道てつどうがわでの運行うんこう中止ちゅうしされて改造かいぞうされた。全面ぜんめんてき電気でんき運転うんてんは9月24にち開始かいしされ、環状かんじょうせん1しゅう所要しょよう時間じかんを70ふんから50ふん短縮たんしゅくした[143][144]

グレート・ウェスタン鉄道てつどうがパーク・ロイヤルに6メガワットの発電はつでんしょ建設けんせつし、パディントンからハマースミスまでの路線ろせん電化でんかしたのち共同きょうどう所有しょゆう車両しゃりょうによりハマースミス・アンド・シティせんでの電気でんき運転うんてんが1906ねん11月5にち開始かいしされた[145]同年どうねん、メトロポリタン鉄道てつどうはイースト・ロンドン鉄道てつどうへのれを中断ちゅうだんし、1913ねん電化でんかされるまでのあいだ[146]ディストリクト鉄道てつどうホワイトチャペルえき英語えいごばんりとした[32]。ハマースミス・アンド・シティせん列車れっしゃは、ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道てつどう路線ろせんじょうをリッチモンドまでの運転うんてんを1906ねん12月31にちめたが、グレート・ウェスタン鉄道てつどうスチームモーター英語えいごばん列車れっしゃは、ラドブローク・グローブからリッチモンドまでの運行うんこうを1901ねん12月31にちまでつづけた[147]

ハーローよりさき路線ろせん電化でんかされなかったため、列車れっしゃはベイカー・ストリートえきから電気でんき機関きかんしゃ牽引けんいんされ、途中とちゅう蒸気じょうき機関きかんしゃ交換こうかんされていた[136]。1907ねん1がつ1にちからすべての列車れっしゃについて機関きかんしゃ交換こうかんはウェンブリー・パークで実施じっしされた[148]。1908ねん7がつ19にちからはハーローで交換こうかんされた[146]。グレート・ウェスタン鉄道てつどうのラッシュのシティへの列車れっしゃ運行うんこう継続けいぞくし、1907ねん1がつから[143]はパディントンにおいて[149]電気でんき機関きかんしゃ蒸気じょうき機関きかんしゃからぐようになったが、スミスフィールドまでの貨物かもつ列車れっしゃ蒸気じょうき機関きかんしゃとおしで牽引けんいんつづけた[150][note 28]

1908ねんにロバート・セルビー[note 29]がゼネラルマネージャーに任命にんめいされ、1930ねんまでこの地位ちいたもった[154]。1909ねん延長えんちょうされた路線ろせんからシティまでの限定げんていてき直通ちょくつう運転うんてん再開さいかいされた。ベイカー・ストリートえきは2つのしましきホームと4せん構造こうぞうに1912ねん改築かいちくされた[155]輸送ゆそうりょう増加ぞうか対応たいおうするために、ハーローよりみなみ路線ろせん複々線ふくふくせんされ、まず1913ねんにフィンチリー・ロードからキルバーンまで、そして1915ねんにはウェンブリー・パークまでが複々線ふくふくせんとなった[156]。しかしフィンチリー・ロードとベイカー・ストリートのあいだ地下ちかせん複線ふくせんのままでのこり、ボトルネックとなった[157]

ロンドン地下鉄ちかてつ[編集へんしゅう]

1908ねん発行はっこう地下鉄ちかてつ(UNDERGROUND)共通きょうつう路線ろせん、メトロポリタン鉄道てつどうあかせんしめされている

ロンドンの地下鉄ちかてつ利用りよう促進そくしんするために、共同きょうどうでのマーケティング協定きょうてい合意ごういされた。1908ねんにメトロポリタン鉄道てつどうはこの枠組わくぐみに参加さんかし、路線ろせん共同きょうどうでの宣伝せんでんとおしの乗車じょうしゃけんなどにんだ。ロンドンの中心ちゅうしんでは、えき外部がいぶにUNDERGROUNDの表示ひょうじ掲出けいしゅつされた。最終さいしゅうてきにはロンドン地下ちか電気でんき鉄道てつどうがメトロポリタン鉄道てつどうとウォータールー・アンド・シティ鉄道てつどう以外いがいのすべての地下鉄ちかてつ傘下さんかにおさめ、あか円形えんけいあおぼうそなえた駅名えきめいしるべ導入どうにゅうした。メトロポリタン鉄道てつどうはこれにたいして、あか菱形ひしがたあおぼうしめした駅名えきめいしるべ導入どうにゅうして対応たいおうした[158]。しかし、セントラル・ロンドン鉄道てつどう事前じぜんわせなしに、競合きょうごうするメトロポリタン鉄道てつどう路線ろせんよりかなりやす定期ていきけん値段ねだん設定せっていしたことから、セルビーは1911ねんにゼネラルマネージャーの会議かいぎからげ、会議かいぎつうじたさらなる協同きょうどうづまることになった[159]地下鉄ちかてつグループとの合併がっぺい提案ていあんはセルビーにより拒否きょひされ、1912ねん11月のプレスリリースで、メトロポリタン鉄道てつどうはロンドン郊外こうがい地域ちいきと、本線ほんせん鉄道てつどうとの関係かんけいおよびその貨物かもつ事業じぎょう関心かんしんがあると表明ひょうめいした[160]

イースト・ロンドン鉄道てつどう[編集へんしゅう]

1906ねんにメトロポリタン鉄道てつどうとディストリクト鉄道てつどうがイースト・ロンドン鉄道てつどうへの直通ちょくつうって以来いらい、イースト・ロンドン鉄道てつどうでの運行うんこうはサウス・イースタン鉄道てつどうロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道てつどう、グレート・イースタン鉄道てつどうによっておこなわれていた。メトロポリタン鉄道てつどうもディストリクト鉄道てつどうも、この路線ろせん電化でんかしたいとおもっていたが、電化でんか費用ひよう正当せいとうすることができずにいた。議論ぎろんつづけられ、1911ねんにイースト・ロンドン鉄道てつどうは、ロンドン地下ちか電気でんき鉄道てつどうからの供給きょうきゅう電力でんりょくとメトロポリタン鉄道てつどうによる列車れっしゃ運行うんこう電化でんかされることに合意ごういされた。議会ぎかい承認しょうにんは1912ねんられ、直通ちょくつう運転うんてんは1913ねん3がつ31にち再開さいかいされた。メトロポリタン鉄道てつどうは、サウス・イースタン鉄道てつどうのニュー・クロスえきおよびロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道てつどうのニュー・クロスえき双方そうほうからサウス・ケンジントンえきまで1あいだに2ほん列車れっしゃはしらせ、また1あいだに8ほんのシャトル列車れっしゃ双方そうほうのニュー・クロスえきから交互こうごショアディッチえき英語えいごばんまで運行うんこうした[161][32]

グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道てつどう[編集へんしゅう]

グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道てつどうは、グレート・ノーザン鉄道てつどうからの列車れっしゃフィンズベリー・パークえきからシティ・オブ・ロンドンのムーアゲートえき直接ちょくせつれられるようにするために計画けいかくされた。トンネルは本線ほんせん列車れっしゃとおれるように内径ないけい16フィート(やく4.9 m)で建設けんせつされ、セントラル・ロンドン鉄道てつどう内径ないけい12フィート(やく3.7 m)と対照たいしょうをなしていた。グレート・ノーザン鉄道てつどう最終さいしゅうてきにこの計画けいかく反対はんたいすることになり、本線ほんせんのフィンズベリー・パークえき地下ちかのトンネルないきたのターミナルとして1904ねん開通かいつうした[162]

グレート・ノーザン鉄道てつどうが、シティ・ワイドンドせん経由けいゆしてムーアゲートえきまで運転うんてんしている列車れっしゃわりにグレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道てつどう経由けいゆ運転うんてんするのではないかと懸念けねんして、メトロポリタン鉄道てつどうはこの地下ちかせん買収ばいしゅうこころみた。1912ねんから1913ねんにかけて買収ばいしゅうと、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道てつどうをムーアゲートえきとリバプール・ストリートえきあいだでインナー・サークルせんに、そしてまたウォータールー&シティーせん接続せつぞくするように延長えんちょうする法案ほうあん提出ていしゅつされた。買収ばいしゅう認可にんかされたが、シティの不動産ふどうさん所有しょゆうしゃ反対はんたいのために路線ろせん延長えんちょう工事こうじ法律ほうりつからのぞかれてしまった。翌年よくねん、メトロポリタン鉄道てつどうとグレート・ノーザン鉄道てつどう共同きょうどうで、グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道てつどうとグレート・ノーザン鉄道てつどうをフィンスベリー・パークえき接続せつぞくするように修正しゅうせいした法案ほうあん提出ていしゅつした。しかし今回こんかいノース・ロンドン鉄道てつどう英語えいごばん反対はんたいされて、この法案ほうあん撤回てっかいされた[163]

戦争せんそうとメトロ・ランド 1914ねん - 1932ねん[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

1914ねん7がつ28にちだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつし、1914ねん8がつ5にち鉄道てつどう運営うんえい委員いいんかい英語えいごばんつうじてメトロポリタン鉄道てつどう政府せいふ管理かんりかれた。おおくの職員しょくいんぐん志願しがんしていなくなり、1915ねんからは女性じょせい出札しゅっさつがかりしゅうさつがかりとしてやとわれるようになった[164]。シティ・ワイドンドせんイギリス海峡かいきょうみなと北部ほくぶつうじる本線ほんせんをつなぐ戦略せんりゃくてき重要じゅうよう路線ろせんとみなされ、兵員へいいん貨物かもつ輸送ゆそうもちいられた。戦争せんそうの4年間ねんかんでこの路線ろせんに26,047ほん軍用ぐんよう列車れっしゃ運転うんてんされ、合計ごうけい254,000トンにおよぶ物資ぶっし輸送ゆそうされたが[165]きゅうカーブがあったため負傷ふしょうへいせてかえってくる救急きゅうきゅう列車れっしゃはこの路線ろせん使つかうことができなかった[166]政府せいふ管理かんりは1921ねん8がつ15にち終了しゅうりょうした[164]

メトロ・ランドの開発かいはつ[編集へんしゅう]

1921ねん発行はっこうされたメトロ・ランドガイドの表紙ひょうし

余剰よじょう土地とち処分しょぶんするようにもとめられていたほか鉄道てつどう会社かいしゃとはことなり、メトロポリタン鉄道てつどう法律ほうりつ条項じょうこうにより、将来しょうらい鉄道てつどう用途ようと必要ひつようであるとかんがえる土地とち保持ほじする特権とっけんっていた[note 30]当初とうしょ余剰よじょう土地とちは、メトロポリタン鉄道てつどう取締役とりしまりやく構成こうせいする土地とち委員いいんかいによって管理かんりされていた[168]。1880年代ねんだいにメトロポリタン鉄道てつどうがスイス・コテージえきよりさき路線ろせん延長えんちょうし、ニーズデンに労働ろうどうしゃ住宅じゅうたく建設けんせつしていたのとどう時期じき[169]、ウィルズデン・パークの土地とち道路どうろ下水げすい整備せいびされ、土地とち建設けんせつしゃ売却ばいきゃくされた。同様どうよう開発かいはつはピナー近辺きんぺんのセシル・パークでもおこなわれ、ウェンブリーにおけるとう失敗しっぱい、ウェンブリー・パークの土地とち区画くかく売却ばいきゃくされた[170][note 31]

1912ねん当時とうじゼネラルマネージャーであったセルビーは、専門せんもん技術ぎじゅつ必要ひつようであるとかんがえて、余剰よじょう土地とち委員いいんかいから土地とち買収ばいしゅうして鉄道てつどう周辺しゅうへん不動産ふどうさん開発かいはつする会社かいしゃ設立せつりつする指示しじをした[173]。しかし、だいいち世界せかい大戦たいせんのためにこの計画けいかくおくれ、1919ねん住宅じゅうたくブームを期待きたいして[174]メトロポリタン鉄道てつどう地方ちほう不動産ふどうさん会社かいしゃMetropolitan Railway Country Estates Limited、MRCE)が設立せつりつされた。議会ぎかいがメトロポリタン鉄道てつどう特別とくべつ地位ちい再考さいこうすることを懸念けねんして、会社かいしゃ法的ほうてき助言じょげんもとめた。助言じょげんによれば、メトロポリタン鉄道てつどう土地とち保有ほゆうする権利けんりってはいたが、それを開発かいはつする権利けんりいとされ、そのために1人ひとりのぞくすべての取締役とりしまりやく鉄道てつどう会社かいしゃ取締役とりしまりやくなのではあるが、独立どくりつした会社かいしゃ設立せつりつされた[175]。MRCEはニーズデン近郊きんこうのキングズベリー・ガーデン・ビレッジやウェンブリー・パーク、セシル・パークやピナーのグレンジ・エステート、リックマンズワースのシダーズ・エステートなどの開発かいはつおこない、ハーロー・ガーデン・ビレッジ英語えいごばんのような場所ばしょ造成ぞうせいした[174][175]

メトロ・ランドという言葉ことばは、1915ねんに「延長えんちょう路線ろせん案内あんない」(Guide to the Extension Line) という冊子さっしが「メトロ・ランドガイド」(Metro-land guide) に改称かいしょうして1ペニーで販売はんばいされるようになったさいに、メトロポリタン鉄道てつどうのマーケティング部門ぶもん造語ぞうごしたものである。この冊子さっしにより、メトロポリタン鉄道てつどう販売はんばいする土地とち訪問ほうもんしゃにはいえさがひとたいして宣伝せんでんした[173]。メトロポリタン鉄道てつどう独立どくりつして存続そんぞくした最後さいごとしであった1932ねんまで毎年まいとし発行はっこうされ、「チルターンの素晴すばらしい空気くうき」を「メトロ・ランドを愛好あいこうするひとには、各々おのおのこのもりのブナの雑木林ぞうきばやしがあるかもしれません。はるにはすべてがみどりに、10月にはあずきしょくにおののく素晴すばらしさがあります」といった言葉ことば使つかって宣伝せんでんした[176]宣伝せんでんされたゆめは、ロンドン都心としんへの高速こうそく鉄道てつどう便びんがあるうつくしい郊外こうがい近代きんだいてき住宅じゅうたくであった[177]

1914ねんごろから会社かいしゃ自身じしんを「ザ・メット」(The Met) という宣伝せんでんしたが、1920ねん以降いこう宣伝せんでん担当たんとう管理かんりしゃとなったジョン・ワードルは、時刻じこくひょうやその宣伝せんでんひんわりに「メトロ」(Metro) という言葉ことば使つかうようにした[178][note 32]土地とち開発かいはつはロンドン都心としんでもおこなわれ、1929ねんにはおおきくて豪華ごうか集合しゅうごう住宅じゅうたく「チルターン・コート」がベイカー・ストリートに開設かいせつされた[177][note 33]設計せっけいはメトロポリタン鉄道てつどう建築けんちく、チャールズ・W・クラークで、当時とうじかれはメトロランド周辺しゅうへんおおくのえき改築かいちく設計せっけい責任せきにんっていた[157]

インフラストラクチャーの改良かいりょう[編集へんしゅう]

郊外こうがいへの旅客りょかく輸送ゆそう改善かいぜんするために、1920ねん強力きょうりょくで75マイル毎時まいじやく121 km/h)のHがた英語えいごばん導入どうにゅうされ[182]つづいて1922ねんから1923ねんにかけて最高さいこう速度そくど65マイル毎時まいじやく105 km/h)の新型しんがた電気でんき機関きかんしゃ導入どうにゅうされた[183]。ニーズデンの発電はつでんしょ発電はつでん能力のうりょくはおよそ35メガワットへ増強ぞうきょうされ[184]、1925ねん1がつ5にちにリックマンズワースまで電化でんか延伸えんしんされて、機関きかんしゃ交換こうかん地点ちてんがそこまでばされた[157]

1924ねんから1925ねんにかけて、だいえい帝国ていこく博覧はくらんかい英語えいごばんがウェンブリー・パーク・エステートでひらかれ、隣接りんせつするウェンブリー・パークえきあたらしいしましきホームと博覧はくらん会場かいじょうへつなぐ屋根やねつきのはし建設けんせつされて改良かいりょうされた[185]。メトロポリタン鉄道てつどう自身じしん博覧はくらんかい出展しゅってんし、1924ねんには電車でんしゃを、1925ねんにはこれにくわえて15ごう電気でんき機関きかんしゃ展示てんじし、のちにこれは「ウェンブリー1924」と命名めいめいされた[186]。ワトキンのとう跡地あとちにはスポーツ施設しせつウェンブリー・スタジアム建設けんせつされた[185]。スタジアムはこけらとしとして、1923ねん4がつ28にちに125,000にん観客かんきゃくあつめてFAカップ決勝けっしょうひらかれたが、スタジアムの公式こうしき収容しゅうよう人数にんずうえる観客かんきゃく殺到さっとうしたため混乱こんらんしたものとなった。1926ねん刊行かんこうされたメトロランドでは、メトロポリタン鉄道てつどうはこのにウェンブリー・パークへ152,000にん旅客りょかく輸送ゆそうしたとほこっていた[177]

1925ねんには、リックマンズワースからワトフォードえき英語えいごばんまでの支線しせん開通かいつうした。ワトフォードには1837ねん以来いらい鉄道てつどうえき存在そんざいしていたのだが[187][note 34]、ワトフォード商人しょうにん協会きょうかいが1895ねんにメトロポリタン鉄道てつどうたいして、スタンモア経由けいゆでワトフォードまでの路線ろせん建設けんせつするという提案ていあんおこなった。かれらは1904ねんにも提案ていあんおこない、そのとき地域ちいきぐん議会ぎかいとともに、よりみじかいリックマンズワースからの支線しせん提示ていじした[188]可能かのう経路けいろが1906ねん調査ちょうさされ、1912ねんにメトロポリタン鉄道てつどうとグレート・セントラル鉄道てつどう合同ごうどうでリックマンズワースからワトフォードの中心ちゅうしんまでの路線ろせんを、カシオベリー公園こうえん英語えいごばん築堤ちくてい通過つうかするかたち建設けんせつするという法案ほうあん提出ていしゅつした。しかし築堤ちくていには反対はんたいがあり、えき貨物かもつあつか設備せつび公園こうえんのすぐ手前てまえもうけられることになった。修正しゅうせいされた法案ほうあんは1912ねん8がつ7にち通過つうかし、ワトフォード合同ごうどう委員いいんかい設立せつりつされたが、1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつにより建設けんせつおくれることになった。戦争せんそう終結しゅうけつ、1921ねん通商つうしょう施設しせつほうにより雇用こよう促進そくしんする投資とうし計画けいかくたいして政府せいふ財務ざいむてき保証ほしょうおこなうことになり、これを利用りようして建設けんせつは1922ねん開始かいしされた。この路線ろせん建設けんせつちゅう1921ねん鉄道てつどうほうによるグループにより、1923ねんにグレート・セントラル鉄道てつどうロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道てつどうとなった。延長線えんちょうせん支線しせん交差こうさする地点ちてんには2つの分岐ぶんきてんもうけられ、列車れっしゃはリックマンズワースにたいしてもみなみへロンドンへかってもはしれるようになっていた。途中とちゅうえきはクロックスリー・グリーンえき現在げんざいクロックスリーえき英語えいごばん)のみで、1925ねん11月3にち運行うんこう開始かいしされ、列車れっしゃはメトロポリタン鉄道てつどう電車でんしゃによりムーア・パークえき、ベイカー・ストリートえき経由けいゆリバプール・ストリートえききと、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道てつどう蒸気じょうき機関きかん車列しゃれつしゃによりメリルボーンえききが運転うんてんされた[189]。メトロポリタン鉄道てつどうはまた、ワトフォードとリックマンズワースのあいだのシャトル列車れっしゃ運行うんこうした[190]。1924ねんから1925ねんにかけてハーローのきた平面へいめん交差こうさ全長ぜんちょう1,200フィート(やく370 m)の立体りったい交差こうさえられ、アクスブリッジ支線しせんへの列車れっしゃ本線ほんせんへの列車れっしゃ分離ぶんりした[191]

1925ねんつくられた、フィンチリー・ロードえきとベイカー・ストリートえきあいだ線路せんろ容量ようりょう緩和かんわのためのキルバーン・アンド・ブロンデスベリーえきからエッジウェア・ロードえきまでの救済きゅうさい路線ろせん計画けいかく

当初とうしょのメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道てつどうのベイカー・ストリートえきまでのトンネルへはいるために、複々線ふくふくせん急行きゅうこうせん緩行かんこうせん通常つうじょう複線ふくせん合流ごうりゅうする、フィンチリー・ロードえきのボトルネックはまだのこっていた。1925ねんに、メトロポリタン鉄道てつどう車両しゃりょうとおせるおおきさの2ほんあたらしい地下鉄ちかてつトンネルを建設けんせつするという計画けいかくつくられた。この路線ろせんはキルバーン・アンド・ブロンデスベリーえききた分岐ぶんきてん分岐ぶんきし、キルバーン・ハイ・ストリート、マイダ・ベール・アンド・エッジウェア・ロードのしたとおってベイカー・ストリートえきくものであった[192][193]。この計画けいかくにはクエックス・ロード、キルバーン・パーク・ロード、クリフトン・ロードの3つの新駅しんえきふくまれていたが[194]運輸省うんゆしょう旅客りょかくせんたいする要求ようきゅう改訂かいていして、地下ちかふかいトンネルを走行そうこうする列車れっしゃたいしてはりょうはし非常口ひじょうぐちもうけることを要求ようきゅうしたため、計画けいかく進展しんてんしなかった。ハーローよりきた使用しようされているコンパートメントしき車両しゃりょうはこの要求ようきゅうたさなかったのである[195]。しかし、エッジウェア・ロードえきはプラットホーム4ほん改築かいちくされ、列車れっしゃ行先いきさき表示ひょうじ装置そうちにバーニー・ジャンクションやアクスブリッジなどの駅名えきめい準備じゅんびされた[196]

1920年代ねんだい、オフピークにはウェンブリー・パークからベイカー・ストリートまで4 - 5ふんおきに列車れっしゃ運転うんてんされていた。ワトフォードとアクスブリッジのそれぞれから、1あいだたり2ほん列車れっしゃがウェンブリー・パークからはノンストップで運転うんてんされ、レイナーズ・レーン、ウェンブリー・パーク、ニーズデンからの各駅かくえき停車ていしゃもあったが、これらのほとんどはマールバラ・ロードとセント・ジョンズ・ウッド・ロードには停車ていしゃしなかった。オフピークにはムーア・パーク以北いほくえきにはメリルボーンからの列車れっしゃ停車ていしゃした。ピークには、2.5ふんから3ふんおきにベイカー・ストリートえき列車れっしゃ到着とうちゃくし、半分はんぶんはムーアゲート、リバプール・ストリート、アルドゲートへ直通ちょくつうした[197]。インナー・サークルせんでは、ハマースミスからの列車れっしゃはベイカー・ストリートを6ふんおきに通過つうかする一方いっぽう、ケンジントン(アディソン・ロード)からの列車れっしゃはエッジウェア・ロードでられた[198]。サークルせんにおいて1あいだに10ほん列車れっしゃ頻度ひんどたもつのは困難こんなんであるとわかったため、ディストリクト鉄道てつどうがプットニーとケンジントン・ハイ・ストリートのあいだ運転うんてんしていた列車れっしゃをサークルせんのエッジウェア・ロードまであたらしいプラットホームを利用りようすることで延長えんちょうし、メトロポリタン鉄道てつどうはインナー・サークルせん列車れっしゃを1あいだに8ほん運転うんてんすることになった[199][note 35]

キャノンズ・パーク英語えいごばんでのあたらしい住宅じゅうたく開発かいはつへの便びん提供ていきょうするために、ウェンブリー・パーク、からスタンモアまでの支線しせん建設けんせつが1929ねんはじまった[184]途中とちゅうえきキングズベリーえき英語えいごばん、キャノンズ・パーク(エッジウェア)えき(1933ねんキャノンズ・パークえき英語えいごばん改称かいしょう)、スタンモアえきであった[32]今回こんかいもまた政府せいふは、今度こんど開発かいはつ融資ゆうし保証ほしょう供与きょうよほうした財務ざいむ保証ほしょうあたえ、この計画けいかくでまたウェンブリー・パーク、からハーローまでが複々線ふくふくせんされた。この路線ろせん当初とうしょから電化でんかされており、またウェンブリー・パークの信号しんごう扱所から制御せいぎょされる自動じどうしょくとうしき信号しんごうそなえており、1932ねん12月9にち開業かいぎょうした[184][200]

ロンドン旅客りょかく運輸うんゆ公社こうしゃ 1933ねん[編集へんしゅう]

ロンドン地下ちか電気でんき鉄道てつどうことなり、メトロポリタン鉄道てつどう沿線えんせんのメトロランドでの住宅じゅうたく開発かいはつから直接ちょくせつ収益しゅうえきており[174]、その設立せつりつ以来いらい株主かぶぬしたいして配当はいとう支払しはらつづけていた[201]当初とうしょ会計かいけい信頼しんらいできないものの、19世紀せいきまつまでにはやく5パーセントの配当はいとう支払しはらっていた。この数値すうちは1900ねん以降いこう路面ろめん電車でんしゃやセントラル・ロンドン鉄道てつどう旅客りょかくうばっていったため降下こうかはじ[202]、1907ねんから1908ねんにかけては0.5パーセントまで低下ていかした。電化でんか旅客りょかくもどってきたため1911ねんから1913ねんにかけては2パーセントにもどり、1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつで1パーセントにった[201]。1921ねんまでには十分じゅうぶん回復かいふくして2.25パーセントの配当はいとう支払しはらえるようになり、その戦後せんご住宅じゅうたくブームにより着実ちゃくじつ上昇じょうしょうして1924ねんから1925ねんにかけては5パーセントにたっした。1926ねんイギリスゼネラルストライキ英語えいごばんにより3パーセントに減少げんしょうしたが、1929ねんには4パーセントに回復かいふくした[201][174]

1913ねんにメトロポリタン鉄道てつどうは、ロンドン地下ちか電気でんき鉄道てつどうからの合併がっぺい提案ていあん拒絶きょぜつし、ロバート・セルビーのリーダーシップのした頑固がんこ独立どくりつたもつづけていた[174]。1921ねん8がつ19にち成立せいりつした1921ねん鉄道てつどうほうでは、ロンドンの地下鉄ちかてつどう会社かいしゃはグループされるべき会社かいしゃふくまれなかったが、法案ほうあん段階だんかいではメトロポリタン鉄道てつどうふくまれていた[203]。1930ねんに、ロンドンの公共こうきょう交通こうつう統合とうごうするという提案ていあんされたさいには、メトロポリタン鉄道てつどう貨物かもつ営業えいぎょうをしているので、本線ほんせんの4だいグループ鉄道てつどう会社かいしゃおな地位ちいであってロンドン地下ちか電気でんき鉄道てつどうとは性格せいかくちがうと主張しゅちょうしたが、政府せいふはメトロポリタン鉄道てつどうがディストリクト鉄道てつどう共同きょうどうでインナー・サークルせん運営うんえいしていたことから、おなじようなものとみなしていた。おもちいさな独立どくりつバス事業じぎょうをうまく協調きょうちょうさせることを目的もくてきとしていた[204]ロンドン旅客りょかく運輸うんゆほうが1931ねん3がつ13にち提出ていしゅつされたのち、メトロポリタン鉄道てつどうはこれにたいして11,000ポンドをついやして反対はんたいした[205]法案ほうあんは1931ねん政府せいふによる改定かいていくわえられながらものこり、しん政権せいけんがサークルせんへの走行そうこうよう電力でんりょく供給きょうきゅう手放てばなすならばメトロポリタン鉄道てつどう独立どくりつ維持いじできるという提案ていあんおこなったが、メトロポリタン鉄道てつどうはこれに反応はんのうしめさなかった。経営けいえいしゃはここで株主かぶぬしへの補償ほしょう交渉こうしょうてんじた[206]。この時点じてんですでにバスとの競争きょうそう世界せかい恐慌きょうこうにより旅客りょかくすう減少げんしょうはじめていたのである[207]。1ねんとおして運営うんえいした最後さいごとしである1932ねんには、1.625パーセントの配当はいとうはらわれた[201]。1933ねん7がつ1にちロンドン旅客りょかく運輸うんゆ公社こうしゃ発足ほっそくし、メトロポリタン鉄道てつどう地下鉄ちかてつどう会社かいしゃ路面ろめん電車でんしゃ会社かいしゃ、バス事業じぎょうしゃとともに吸収きゅうしゅう合併がっぺいされた。メトロポリタン鉄道てつどう株主かぶぬしはロンドン旅客りょかく運輸うんゆ公社こうしゃ株式かぶしきかたちで1970まんポンドをった[208][note 36]

移管いかん[編集へんしゅう]

メトロポリタン鉄道てつどうはロンドン地下鉄ちかてつのメトロポリタンせんとなり、郊外こうがい一部いちぶ路線ろせん廃止はいしとなった。ブリル支線しせんは1935ねんに、つづいてクエイントン・ロード - バーニー・ジャンクションあいだは1936ねん廃止はいしとなった。ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道てつどう蒸気じょうき機関きかんしゃによる列車れっしゃ運行うんこう貨物かもつ運行うんこういだ。1936ねんにメトロポリタンせん列車れっしゃがディストリクトせんによりホワイトチャペルえきからバーキングえきまで延長えんちょうされた。ニュー・ワークス・プログラム英語えいごばんにより1939ねんベーカールーせんがベイカー・ストリートえきからあたらしい2ほんのトンネルでフィンチリー・ロードえきまでつうじ、さらにウェンブリー・パークえきまでの途中とちゅうえきとスタンモア支線しせんいだ[209]。この支線しせんのちに、ジュビリーせんが1979ねん開通かいつうしたさいにジュビリーせん移管いかんされた[32]。グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道てつどう孤立こりつ路線ろせんとしてのこり、ノーザンせんとして運行うんこうされたが、1976ねんイギリス国鉄こくてつがれた。

蒸気じょうき機関きかんしゃは1960年代ねんだい初期しょきまでリックマンズワースのきた使用しようされたが、アマーシャムまでの路線ろせん電化でんかされて電車でんしゃ導入どうにゅうされ、ロンドン交通こうつうきょくはアマーシャム以北いほく運行うんこうからは撤退てったいしたことで蒸気じょうき機関きかんしゃはなくなった[210]。1988ねんにハマースミスからアルドゲートとバーキングまでの区間くかんはハマースミス&シティーせんとなり、ニュー・クロスからショアディッチまではイーストロンドンせんとなって、アルドゲートからベイカー・ストリートまで、そしてそこからきたへハーローをとおせんがメトロポリタンせんとしてのこった。

1933ねん統合とうごう、メトロランドというブランドは急速きゅうそく使つかわれなくなった[177]。20世紀せいきなかばころには、メトロランドの精神せいしんは1954ねん発行はっこうされた詩集ししゅうなんほんかのばんきく」に収録しゅうろくされたジョン・ベチェマン英語えいごばん「メトロポリタン鉄道てつどう」などで記憶きおくされ[211]のちに1973ねん2がつ26にちはじめて放送ほうそうされたテレビドキュメンタリー「メトロランド英語えいごばん」でさらにひろられるようになった[212]。メトロランドの郊外こうがいは、1980ねんはじめて発行はっこうされたジュリアン・バーンズ教養きょうよう小説しょうせつメトロランド英語えいごばん」の舞台ぶたいとなった[213]。この小説しょうせつもとづくやはりメトロランド英語えいごばんという映画えいがは1997ねん公開こうかいされた[214]

貨物かもつ輸送ゆそう[編集へんしゅう]

1880ねんまでメトロポリタン鉄道てつどう自社じしゃでは貨物かもつ列車れっしゃ運行うんこうしておらず、1866ねん2がつ20日はつかからグレート・ノーザン鉄道てつどうがファリンドン・ストリートえき経由けいゆしてロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道てつどうまでの貨物かもつ列車れっしゃをメトロポリタン鉄道てつどう線路せんろ使用しようして運転うんてん開始かいしした。つづいてミッドランド鉄道てつどうからの貨物かもつ列車れっしゃも1868ねん7がつ運行うんこう開始かいしした。グレート・ノーザン鉄道てつどう、グレート・ウェスタン鉄道てつどう、ミッドランド鉄道てつどうともファリンドン地区ちく貨物かもつあつか設備せつび開設かいせつし、シティ・ワイドンドせんからこの施設しせつつうじるようになっていた。しかし、メトロポリタン鉄道てつどうがベイカー・ストリートえきからそとけて路線ろせん拡張かくちょうしていくと、貨物かもつ列車れっしゃ重要じゅうようなものとなっていった。1880ねんにメトロポリタン鉄道てつどうはハーロー・ディトリクトガス会社かいしゃから石炭せきたん輸送ゆそう獲得かくとくし、フィンチリー・ロードえきもうけたミッドランド鉄道てつどうとのわた側線そくせんからハーローの石炭せきたんヤードまでの輸送ゆそうおこなった。延長えんちょう路線ろせん建設けんせつされるさいには、ほとんどのえき貨物かもつあつか設備せつび石炭せきたん基地きち併設へいせつされた[215]。ロンドンけの貨物かもつ当初とうしょはウィルズデンであつかわれ、そこから道路どうろ配送はいそうされるか[216]ミッドランド鉄道てつどうわたしされた[217]。グレート・セントラル鉄道てつどう建設けんせつされたことで、きたはクエイントン・ロードで、そしてみなみへはニーズデン経由けいゆでアクトンやキューへと接続せつぞくされた[218]

ヴァイン・ストリート貨物かもつあつか施設しせつへの入口いりくち、1910年代ねんだい

1909ねんにメトロポリタン鉄道てつどうはファリンドンちかくに、貨車かしゃ7両分りょうぶん延長えんちょう側線そくせん2ほんそなえるヴァイン・ストリート貨物かもつあつか施設しせつ開設かいせつし、ウェスト・ハンプステッドから定期ていき列車れっしゃ運行うんこうした[note 37]貨物かもつ列車れっしゃ電気でんき機関きかんしゃ牽引けんいんされ、最大さいだい14りょう貨車かしゃをつなぎ、重量じゅうりょう都心としんかうときは250ロングトン(やく254メートルトン)に、郊外こうがいかうときは225ロングトン(やく229メートルトン)に制限せいげんされていた。1910ねんにはこの貨物かもつあつか施設しせつでは11,400ロングトン(やく11,600メートルトン)をあつかい、1915ねんには25,100ロングトン(やく25,500メートルトン)に増加ぞうかした[220]。1913ねんにはこの貨物かもつあつか施設しせつ容量ようりょう限界げんかいえていると報告ほうこくされていたが、だいいち世界せかい大戦たいせん自動車じどうしゃ輸送ゆそう重要じゅうよう競合きょうごうしゃとなり、1920年代ねんだいまつまでには輸送ゆそうりょう管理かんり可能かのうなレベルまで減少げんしょうした[221]

蒸気じょうき機関きかんしゃと、ニーズデンにある会社かいしゃ火力かりょく発電はつでんしょ、そして地域ちいきのガス工場こうじょうけの石炭せきたんは、クエイントン・ロードえき経由けいゆはこまれていた。牛乳ぎゅうにゅうはヴェール・オブ・エイルズベリーからロンドン郊外こうがい輸送ゆそうされ、食料しょくりょうひんはヴァイン・ストリートからアクスブリッジにあるだい規模きぼ小売こうりしょうアルフレッド・バトン・アンド・サンへと輸送ゆそうされた。ビリングスゲートぎょ市場いちば英語えいごばんへメトロポリタン鉄道てつどうとディストリクト鉄道てつどう合同ごうどうえきモニュメントえき経由けいゆしてはこばれるさかなは、えき入口いりくちを「言葉ことばあらわせないくらい不潔ふけつ状況じょうきょう」にするとして苦情くじょうけることになった。ディストリクト鉄道てつどうさかな専用せんよう出入口でいりぐちもうけることを示唆しさしたが、そうした措置そち実際じっさいこうじられることはかった。グレート・セントラル鉄道てつどうがメリルボーンまでの自動車じどうしゃ輸送ゆそう導入どうにゅうしたことで輸送ゆそうりょうはかなり減少げんしょうしたが、この問題もんだいは1936ねんまでのこり、ロンドン旅客りょかく運輸うんゆ公社こうしゃがインナー・サークルせん列車れっしゃでの小荷物こにもつ輸送ゆそう廃止はいしする1つの原因げんいんにもげられた[222]

当初とうしょ道路どうろ輸送ゆそうでの配達はいたつ業務ぎょうむ契約けいやく業者ぎょうしゃ使用しようされていたが、1919ねんからメトロポリタン鉄道てつどう自社じしゃ配送はいそう業務ぎょうむおこなうようになった[216]。ロンドン地下鉄ちかてつ一部いちぶとなるまえの1932ねんには、会社かいしゃは544りょう貨物かもつ車両しゃりょうゆうし、162,764ロングトン(やく165,376メートルトン)の石炭せきたん、2,478,212ロングトン(やく2,517,980メートルトン)の原料げんりょう、1,015,501ロングトン(やく1,031,797メートルトン)の貨物かもつ輸送ゆそうした[223]

鉄道てつどう車両しゃりょう[編集へんしゅう]

蒸気じょうき機関きかんしゃ[編集へんしゅう]

1925ねん貨物かもつ列車れっしゃ牽引けんいんようにメトロポリタン鉄道てつどうに6りょう導入どうにゅうされた車軸しゃじく配置はいち2-6-4のKがた蒸気じょうき機関きかんしゃ

地下ちかトンネルないでの排気はいき問題もんだいへの懸念けねんから、蒸気じょうき機関きかんしゃあたらしい設計せっけいされることになった。路線ろせん開通かいつうするまえの1861ねんに、ファウラーズ・ゴースト英語えいごばんとニックネームをけられた実験じっけん機関きかんしゃにより試験しけんおこなわれた。これは成功せいこうわり、最初さいしょ営業えいぎょう列車れっしゃはグレート・ウェスタン鉄道てつどう広軌こうきふくすいしき蒸気じょうき機関きかんしゃであるグレート・ウェスタン鉄道てつどうメトロポリタンがた蒸気じょうき機関きかんしゃ英語えいごばんにより牽引けんいんされた。これはダニエル・グーチ設計せっけいした車軸しゃじく配置はいち2-4-0のタンク機関きかんしゃであった。さらにメトロポリタン鉄道てつどう自身じしん車軸しゃじく配置はいち4-4-0のタンク機関きかんしゃ導入どうにゅうするまで、標準軌ひょうじゅんきのグレート・ノーザン鉄道てつどう蒸気じょうき機関きかんしゃもちいられた[224]。これらの機関きかんしゃはマンチェスターのベイヤー・ピーコックせいであった。設計せっけいはしばしばメトロポリタン鉄道てつどう技術ぎじゅつしゃジョン・ファウラーのものだとされるが、しかし実際じっさいには機関きかんしゃはベイヤー・ピーコックがスペインのトゥデラ・ビルバオ鉄道てつどうけに製造せいぞうした機関きかんしゃ発展形はってんけいであり、ファウラーはたん動輪どうりん直径ちょっけいじくじゅう曲線きょくせんへの対応たいおう性能せいのう指示しじしただけであった[37]。1864ねんに18りょう発注はっちゅうされ、当初とうしょ個別こべつ名前なまえけられていた[225]。1870ねんまでに合計ごうけい40りょう製造せいぞうされた。地下ちかでのけむりらすために、当初とうしょコークス燃料ねんりょうもちいられ、1869ねんにウェールズさん無煙炭むえんたんえられた[40]

1879ねんからさらに機関きかんしゃ必要ひつようとされ、設計せっけい更新こうしんされて合計ごうけい24りょう新型しんがた機関きかんしゃが1879ねんから1885ねんにかけて納入のうにゅうされた[226]当初とうしょはこの機関きかんしゃあかるいオリーブグリーンにられくろせんはいり、煙突えんとついただきどうつくられ、前部ぜんぶには真鍮しんちゅうつくられた数字すうじ機関きかんしゃ番号ばんごうしめされ、蒸気じょうきドームはみがかれた真鍮しんちゅうでできていた。1885ねん塗装とそう変更へんこうされ、ミッドケアド (Midcared) としてられるくらあかになった。これは標準ひょうじゅんしょくとしてのこり、ロンドン交通こうつうきょくによって1933ねんにメトロポリタンせんいろさだめられた[227]。1925ねんにメトロポリタン鉄道てつどう機関きかんしゃをアルファベットの文字もじ分類ぶんるいしたさいに、これらの機関きかんしゃAがたおよびBがたとなった[205]。メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道てつどう建設けんせつちゅう、AがたとBがたではこのせん勾配こうばいにはてきさないとかんがえられ、5りょう車軸しゃじく配置はいち0-6-0のタンク機関きかんしゃが1868ねん納入のうにゅうされた。しかし、AがたとBがたとく問題もんだいなく列車れっしゃ牽引けんいんすることができることが判明はんめいし、この0-6-0タンク機関きかんしゃは1873ねんと1875ねんタフ・ヴェール鉄道てつどう英語えいごばん売却ばいきゃくされた[228]

1891ねんからは、ベイカー・ストリートえきから郊外こうがいけての延長えんちょう路線ろせんでの運用うんようのためにさらなる機関きかんしゃ必要ひつようとされるようになった。サウス・イースタン鉄道てつどうQがた英語えいごばん発展形はってんけいである、車軸しゃじく配置はいち0-4-4のCがた英語えいごばんが1891ねんに4りょう導入どうにゅうされた[229][228]。1894ねんに2りょうDがた英語えいごばんがエイルズベリーとバーニー・ジャンクションあいだでの運用うんようのために導入どうにゅうされた。これらの機関きかんしゃは、フィンチリー・ロードえきよりみなみ運用うんようするために必要ひつようふくすい設備せつび搭載とうさいしていなかった[230]。1896ねん車軸しゃじく配置はいち0-4-4のEがた英語えいごばん2りょう自社じしゃのニーズデン工場こうじょう製造せいぞうされ、さらに事故じこ損傷そんしょうした当初とうしょのAがた1号機ごうき代替だいたいするために1898ねんに1りょう追加ついかされた。さらに4りょうホーソン・レスリーで1900ねんから1901ねんにかけて製造せいぞうされた[231]延長えんちょう路線ろせんにおける貨物かもつ輸送ゆそうりょう増大ぞうだい対応たいおうするために、1901ねん車軸しゃじく配置はいち0-6-2のFがた英語えいごばんが4りょう導入どうにゅうされた。これは車軸しゃじく配置はいちちが蒸気じょうき暖房だんぼう設備せつびいというてんのぞけばEがた類似るいじするものであった[232]。1897ねんと1899ねんにメトロポリタン鉄道てつどうは2りょう車軸しゃじく配置はいち0-6-0のサドルタンク機関きかんしゃを、ペケット・アンド・サンズ英語えいごばん標準ひょうじゅん設計せっけい導入どうにゅうした。これらの機関きかんしゃ正式せいしきには形式けいしき分類ぶんるいされず、ニーズデンとハーローにおけるにゅうかわおも使用しようされた[233]

1905ねんから1906ねんにかけてロンドン市内しない路線ろせんもう電化でんかされたことで、おおくの機関きかんしゃ不要ふようとなった。1907ねんまでにふるいAがた、Bがた機関きかんしゃのうち40りょう売却ばいきゃくされるか解体かいたいされ、1914ねん時点じてんではこれらの形式けいしきのうち13りょうのみが残存ざんそんしており[234]にゅうかわ、ブリル軌道きどうにおける事業じぎょうよう工事こうじよう列車れっしゃなどに使用しようされていた[235]旅客りょかくよう貨物かもつようともにさらに強力きょうりょく機関きかんしゃ必要ひつようとされ、1915ねんには4りょうGがた英語えいごばん車軸しゃじく配置はいち0-6-4)がヨークシャー・エンジンから調達ちょうたつされた[236]最高さいこう速度そくど75マイル毎時まいじやく121 km/h)のHがた英語えいごばん車軸しゃじく配置はいち4-4-4)は、1920ねんと1921ねんにかけて8りょう製造せいぞうされ、おも急行きゅうこう旅客りょかく運用うんようもちいられた[237]貨物かもつ列車れっしゃをよりながくし、高速こうそくにして列車れっしゃ本数ほんすうらすために、1925ねんに6りょう貨物かもつようKがた英語えいごばん車軸しゃじく配置はいち2-6-4)が、だいいち世界せかい大戦たいせんにウーリッジのロイヤル・アーセナル英語えいごばん製造せいぞうした車軸しゃじく配置はいち2-6-0の蒸気じょうき機関きかんしゃからの改造かいぞう導入どうにゅうされた。これらの機関きかんしゃはフィンチリー・ロードより南側みなみがわ運行うんこうすることはみとめられていなかった[238]

2りょう機関きかんしゃ保存ほぞんされている。Aがたの23ごうロンドン交通こうつう博物館はくぶつかん[239]に、Eがたの1ごうバッキンガムシャー鉄道てつどうセンター英語えいごばん保存ほぞんされている[240]。1ごうはメトロポリタン鉄道てつどうの150周年しゅうねん記念きねんイベントで2013ねん1がつ蒸気じょうきでの走行そうこうおこな[241]、2013ねん2がつ時点じてんでは2013ねん後半こうはんにもみさおむかい予定よていされている[242]

客車きゃくしゃ[編集へんしゅう]

メトロポリタン鉄道てつどう当初とうしょ自社じしゃでは車両しゃりょう保有ほゆうせず開業かいぎょうし、最初さいしょはグレート・ウェスタン鉄道てつどうが、つづいてグレート・ノーザン鉄道てつどう運行うんこうおこなった。グレート・ウェスタン鉄道てつどうチークせいの8りんコンパートメントしき客車きゃくしゃ使用しようした。1864ねんにメトロポリタン鉄道てつどうは、グレート・ウェスタン鉄道てつどう設計せっけいもとづくが標準軌ひょうじゅんき手直てなおししたものを、アシュベリー鉄道てつどう車両しゃりょう鉄工てっこうしょ英語えいごばんせい自社じしゃ車両しゃりょうとして導入どうにゅうした[224][note 38]照明しょうめいガス灯がすとうしきで、一等いっとう客室きゃくしつには2とうとうさんとう客室きゃくしつには1とうともされていた[245]。1877ねんから圧力あつりょくしき石油せきゆガスシステムが使用しようされた[246]当初とうしょ客車きゃくしゃは、列車れっしゃ前部ぜんぶ後部こうぶもうけた車掌しゃしょうしつから操作そうさする木製もくせいせいによりブレーキがかけられており、独特どくとくにおいがした[247][248]。これは1869ねんくさりですべての客車きゃくしゃのブレーキを動作どうささせる方式ほうしき変更へんこうされた。チェーンによるブレーキは突然とつぜん動作どうさし、旅客りょかく負傷ふしょうすることもあり、1876ねんには直通ちょくつう真空しんくうブレーキえられた[249][246]。1890年代ねんだいに、サークルせん列車れっしゃ一部いちぶ客車きゃくしゃで、機械きかいてきつぎえき案内あんないする表示ひょうじ試験しけんされた。これは線路せんろあいだ設置せっちされた木製もくせいのフラップによって動作どうさするものであった。信頼しんらいせいいと判断はんだんされて全面ぜんめんてき採用さいよう承認しょうにんされなかった[250]

アシュベリー1898ねんせい368ごうボギー客車きゃくしゃ、ブルーベル鉄道てつどうにおいて復元ふくげんしたもの

1870ねん固定こてい車軸しゃじく4りん固定こてい連結れんけつ客車きゃくしゃがオールドベリーでつくられた[251]。1887ねんなんけん脱線だっせん事故じここしてから、延長えんちょう路線ろせんけにジュビリー車両しゃりょうとしてられるあたらしい設計せっけい全長ぜんちょう27フィート6インチ(やく8.38 m)の固定こてい車軸しゃじく4りん客車きゃくしゃクレイブンズ英語えいごばん製造せいぞうされた。製造せいぞう当初とうしょから圧力あつりょくガスしき照明しょうめいシステムと直通ちょくつう真空しんくうブレーキが搭載とうさいされ、のち蒸気じょうき暖房だんぼう追加ついかされた。1892ねんにはさらに追加ついか導入どうにゅうされたが、1912ねんまでにすべての車両しゃりょう運行うんこう終了しゅうりょうとなった[252]。1893ねん5がつ商務省しょうむしょう命令めいれいにより、すべての機関きかんしゃ客車きゃくしゃ自動じどう真空しんくうブレーキが搭載とうさいされた[253]。ジュビリー車両しゃりょう一等いっとう客車きゃくしゃ復元ふくげんされて、2013ねん1がつのメトロポリタン鉄道てつどう150周年しゅうねん記念きねんイベントで旅客りょかくせた[254][241]

1898ねんにはアシュベリーで、1900ねんにはクレイブンズとメトロポリタン鉄道てつどうニーズデン工場こうじょうで、ボギー客車きゃくしゃ製造せいぞうされた。これは心地ごこちく、蒸気じょうき暖房だんぼう自動じどう真空しんくうブレーキ、電気でんき照明しょうめいぜん等級とうきゅうぶつのされた座席ざせきなどがあった[229][255][256]ブルーベル鉄道てつどう英語えいごばんでは1898ねんから1900ねんにかけてアシュベリーやクレイブンズで製造せいぞうされた4りょう客車きゃくしゃ保有ほゆうしており、またニーズデンせいのもう1りょうがロンドン交通こうつう博物館はくぶつかんにある[257]

近郊きんこう路線ろせんやその延長えんちょう路線ろせんでのグレート・セントラル鉄道てつどうとの競争きょうそうにより、1910ねんからさらに快適かいてきなドレッドノート車両しゃりょう導入どうにゅうはじまった[146]。この木製もくせいコンパートメントしき車両しゃりょう合計ごうけい92りょう導入どうにゅうされ、圧力あつりょくガスしき照明しょうめい蒸気じょうき暖房だんぼうそなえていた[258]。1917ねん電気でんき照明しょうめいえられ、1922ねんには電気でんき機関きかんしゃ牽引けんいんさい暖房だんぼうのために電気でんきヒーターが追加ついかされた[256]のちに5りょう・6りょうまたは7りょう編成へんせい組成そせいされ[259]先頭せんとう末尾まつび車両しゃりょうしゅうでんシューがけられて母線ぼせん接続せつぞくされ、電気でんき機関きかんしゃだいさん軌条きじょうまってしまうのをふせぐために接続せつぞくされた[258]。2編成へんせいには、追加ついか料金りょうきんでビュッフェのサービスをおこなプルマン英語えいごばん車両しゃりょう連結れんけつされていた[260][note 39]ビンテージ・キャリッジ・トラスト英語えいごばんは3りょうのドレッドノート車両しゃりょう保存ほぞんしている[262]

1906ねんから、アシュベリーせいのボギー客車きゃくしゃ一部いちぶ電車でんしゃ改造かいぞうされた[263]。ドレッドノート車両しゃりょう一部いちぶ電動でんどうしゃとして使用しようされたが、3ぶんの2は延長えんちょう路線ろせんにおいて機関きかんしゃ牽引けんいん客車きゃくしゃとして使用しようされつづけた[264]

電気でんき機関きかんしゃ[編集へんしゅう]

1920年代ねんだいのメトロポリタン鉄道てつどう電気でんき機関きかんしゃ牽引けんいん列車れっしゃ

電化でんかは、郊外こうがい路線ろせんにおいては従来じゅうらいからの客車きゃくしゃをベイカー・ストリートえきから電気でんき機関きかんしゃ牽引けんいん運転うんてんし、途中とちゅう蒸気じょうき機関きかんしゃ交換こうかんした。メトロポリタン鉄道てつどうは、メトロポリタン・アマルガメイテッドにたいして2種類しゅるい電気でんき装備そうびひんつ20りょう電気でんき機関きかんしゃ発注はっちゅうした。最初さいしょの10りょうブリティッシュ・ウェスティングハウス電気でんきひん搭載とうさいして製造せいぞうされ、1906ねん運行うんこう開始かいしした。このキャメルバックがた機関きかんしゃはセンターキャブ(中央ちゅうおう運転うんてんだいしき)を特徴とくちょうとしており[146]重量じゅうりょうは50トン[265]、215馬力ばりきやく160 kW)電動でんどう4装備そうびした[266]。2番目ばんめのものははこがた車体しゃたいブリティッシュ・トンプソン=ヒューストン英語えいごばん電気でんきひん装備そうび[266]、1919ねんにウェスティングハウスのものにえられた[266]

1920年代ねんだい初頭しょとう、メトロポリタン鉄道てつどうバロー・イン・ファーネスメトロポリタン=ヴィッカースに20りょう電気でんき機関きかんしゃ改造かいぞう注文ちゅうもんした。最初さいしょ機関きかんしゃ改造かいぞう工事こうじはじまったさい実用じつようてき不経済ふけいざいであることが判明はんめいし、注文ちゅうもんげん車両しゃりょうから回収かいしゅうしたいくつかの装備そうびひん利用りようして完全かんぜんあたらしい機関きかんしゃ製造せいぞうするものに変更へんこうされた。あたらしい機関きかんしゃは1922ねんから1923ねんにかけて製造せいぞうされ、ロンドンの有名ゆうめい住民じゅうみんにちなんでづけられた。4の300馬力ばりきやく220 kW)電動でんどう装備そうびして合計ごうけい1,200馬力ばりきやく890 kW、1あいだじょうかく)であり、最高さいこう速度そくどは65マイル毎時まいじやく105 km/h)であった[183]

5号機ごうきの「ジョン・ハムデン」ロンドン交通こうつう博物館はくぶつかん静態せいたい保存ほぞんされ[267]、12号機ごうきサラ・シドンズ」は歴史れきしてきなイベントにもちいられ、2013ねん1がつのメトロポリタン鉄道てつどう150周年しゅうねん記念きねんイベントでも走行そうこうした[242]

電車でんしゃ[編集へんしゅう]

最初さいしょ電車でんしゃ注文ちゅうもんはメトロポリタン・アマルガメイテッドにたいして1902ねんされ、ウェスティングハウスせい装備そうび搭載とうさいした50りょう付随ふずいしゃと20りょう電動でんどうしゃで、6りょう編成へんせい構成こうせいした。一等いっとうしゃさんとうしゃがオープンサルーン形式けいしき製造せいぞうされ、とうしゃはメトロポリタン鉄道てつどうでは廃止はいしされた[268]客室きゃくしつへの出入でいりはくるまはしのデッキの格子戸こうしどからで[269]閑散かんさんには3りょう編成へんせい走行そうこうできるようになっていた[270]。ハマースミス&シティーせんでの共同きょうどう運行うんこうたいしては、メトロポリタン鉄道てつどうとグレート・ウェスタン鉄道てつどうは6りょう編成へんせい12ほんをトムソン=ヒューストンせい装備そうびひん購入こうにゅうした[271]。1904ねんにメトロポリタン鉄道てつどうはさらに36りょう電動でんどうしゃと62りょう付随ふずいしゃ、オプションとしてさらに20りょう電動でんどうしゃと40りょう付随ふずいしゃ注文ちゅうもんした。ウェスティングハウスせい装備そうびひん問題もんだいがあったためオプションが実行じっこうされたさいにはトムソン=ヒューストンせい装備そうびひん指定していされ、さらに強力きょうりょく電動でんどう装備そうびされた[269]。1918ねん以前いぜんは、強力きょうりょく電動でんどう装備そうびした電動でんどうしゃが3りょう付随ふずいしゃいてサークルせん運用うんよう使つかわれた[272]くるまはしデッキの格子戸こうしど地上ちじょう走行そうこう問題もんだいであるとみなされ、すべての車両しゃりょうがベスティビュールづけに1907ねんまでに改造かいぞうされた[270]。またりょうはしのドアからのみの出入でいりは需要じゅようおおいサークルせんでの運行うんこうには問題もんだいであったため、1911ねんから中央ちゅうおう装備そうびされた[273]

1906ねんからは、アシュベリーせいのボギー客車きゃくしゃ一部いちぶ運転うんてんだい制御せいぎょ電動でんどう搭載とうさいして電車でんしゃ改造かいぞうおこなわれた[263]。1910ねんに2りょう電動でんどうしゃについてりょうはし運転うんてんだいける改造かいぞうおこなった。この車両しゃりょうはアクスブリッジ-サウス・ハーローあいだのシャトル列車れっしゃ使用しようされ、1918ねんにアディソン・ロードのシャトル列車れっしゃ転用てんようされた。1925ねんから1934ねんまではこれらの車両しゃりょうはワトフォードとリクマンズワースのあいだ運用うんようされた[274]

1913ねんに23りょう電動でんどうしゃと20りょう付随ふずいしゃ発注はっちゅうされ、これはりょうはし中央ちゅうおうそなえたオープンサルーン客車きゃくしゃであった。これらの車両しゃりょうはサークルせんと、あたらしく電車でんしゃ運転うんてんされるようになった、イースト・ロンドン鉄道てつどう経由けいゆのニュー・クロスえきまでの運用うんようもちいられた[275]。1921ねんに20りょう電動でんどうしゃ、33りょう付随ふずいしゃ、6りょう一等いっとう制御せいぎょしゃが3つのりょうそなえたかたち納入のうにゅうされた。これらもサークルせん投入とうにゅうされた[276]

ニーズデンにて、Tがた電車でんしゃ

1927ねんから1933ねんにかけて、メオロポリタン・キャリッジ・アンド・ワゴンバーミンガム・レールウェイ・キャリッジ・アンド・ワゴン英語えいごばんによって順次じゅんじコンパートメントしき電車でんしゃがベイカー・ストリートえきとシティからワトフォードおよびリックマンズワースへの運用うんようもちいるために製造せいぞうされた。最初さいしょ注文ちゅうもん電動でんどうしゃのみで、半分はんぶんはウェスティングハウスブレーキとメトロポリタン=ヴィッカースの制御せいぎょ、4のMV153電動でんどう装備そうびし、ボギー客車きゃくしゃ付随ふずいしゃ牽引けんいんしていた電動でんどうしゃえた。のこりの電動でんどうしゃおな電動でんどう装備そうびしていたが真空しんくうブレーキを装備そうびしており、1920ねんから1923ねんにかけて改造かいぞうされたドレッドノート客車きゃくしゃとともにMV車両しゃりょう構成こうせいした。1929ねんにMW車両しゃりょう発注はっちゅうされ、MV車両しゃりょうていたがウェスティングハウスブレーキを装備そうびする30りょう電動でんどうしゃと25りょう付随ふずいしゃであった。さらにMW車両しゃりょう発注はっちゅうが1931ねんに、今度こんどはバーミンガム・レールウェイ・アンド・キャリッジにたいしてされた。これは7ほんの8りょう編成へんせい構成こうせいするためのもので、またこれまでのMW車両しゃりょうを8りょう編成へんせい増強ぞうきょうするための追加ついか付随ふずいしゃふくんでいた。この車両しゃりょうゼネラル・エレクトリック・カンパニーせいのWT545電動でんどう装備そうびしており、MV153電動でんどう装備そうび車両しゃりょう連結れんけつして使つかえるように設計せっけいされたのだが、実際じっさいにはうまく動作どうさしなかった。メトロポリタン鉄道てつどうがロンドン地下鉄ちかてつとなってから、MV車両しゃりょうはウェスティングハウスブレーキを装備そうびし、GECせい電動でんどう装備そうびした車両しゃりょうはMV153電動でんどう装備そうび車両しゃりょう連結れんけつして使つかえるようにギア変更へんこうされた。1938ねんに、9ほんの8りょう編成へんせいと10ほんの6りょう編成へんせいのMW車両しゃりょう形式けいしき変更へんこうされてロンドン地下鉄ちかてつTかたち電車でんしゃ英語えいごばんとなった[277]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1801ねんには現在げんざいグレーター・ロンドン範囲はんいにおよそ100まんにん人々ひとびとんでいた。1851ねんにはこれがばいになった[3]
  2. ^ 禁止きんしされた地域ちいきは、ロンドンきょう、バラ・ハイストリート、ブラックマン・ストリート、バラ・ストリート、ランベスロード、ヴォクスホール・ブリッジ、ヴォクスホール・ブリッジ・ロード、グロスベナー・プレイス、パーク・レーン、エッジウェア・ロード、ニューロード、シティロード、フィンスベリー・スクエア、ビショップスゲートでかこまれた範囲はんいである[7]
  3. ^ 経路けいろはウェストボーン・テラスの南端なんたんからグランド・ジャンクションロード(現在げんざいのサセックス・ガーデンズ)、サウサンプトンロード(現在げんざいのオールド・メリルボーン・ロード)、ニューロード(現在げんざいのメリルボーンロードとユーストンロード)のしたとおるものであった。グレート・ウェスタン鉄道てつどうのターミナルえき接続せつぞくする支線しせん計画けいかくされていた[10]
  4. ^ こうした法律ほうりつには鉄道てつどう会社かいしゃができるだけはやくその路線ろせん完成かんせいさせるよううながすために期限きげん設定せっていされていた。またこれにより、建設けんせつされなかった鉄道てつどう路線ろせん許可きょか鉄道てつどう計画けいかくさまたげないようにしていた。
  5. ^ グレート・ウェスタン鉄道てつどうのターミナルに接続せつぞくするわりに、メトロポリタン鉄道てつどうはパディントンえき北側きたがわのビショップス・ロードにパディントンえき並行へいこう自身じしんえき建設けんせつした。メトロポリタン鉄道てつどうはビショップス・ロードのえきさきでグレート・ウェスタン鉄道てつどう線路せんろ接続せつぞくしていた[16]
  6. ^ このかぶのち収益しゅうえき目的もくてき売却ばいきゃくされた[17]
  7. ^ ユーストン・スクエアより西側にしがわ建設けんせつ工事こうじ契約けいやくしゃはスミス・アンド・ナイト、東側ひがしがわではジョン・ジェイであった[16]
  8. ^ メトロポリタン鉄道てつどうによれば、高架線こうかせん建設けんせつする費用ひよう地下ちかせん建設けんせつする場合ばあいの4ばいにもなったであろうとしている[29]
  9. ^ マンチェスターのベイヤー・ピーコック製造せいぞうした機関きかんしゃは、よくメトロポリタン鉄道てつどうがわ技術ぎじゅつしゃ、ジョン・ファウラーが設計せっけいしたとされるが、実際じっさいにはスペインのトゥデラ-ビルバオ鉄道てつどうけにベイヤー・ピーコックが製造せいぞうしたものの発展形はってんけいで、ファウラーは動輪どうりん直径ちょっけいじくじゅうきゅう曲線きょくせんでの走行そうこう性能せいのうについて指示しじをしただけであった[37]
  10. ^ この報告ほうこくによれば、エッジウェア・ロードとキングス・クロスのあいだ平日へいじつは1にちに528ほん旅客りょかく列車れっしゃと14ほん貨物かもつ列車れっしゃ運行うんこうされており、ベイカー・ストリートとキングス・クロスのあいだではピーク片道かたみち19ほん列車れっしゃ運行うんこうされ、1,500ポンドやく760 kg)の石炭せきたんやされ、1,650ガロンやく7,500リットル)のみず消費しょうひされ、このうち半分はんぶんふくすいされのこりが蒸発じょうはつしていた[42]
  11. ^ メトロポリタン鉄道てつどうほう1861ねん (Metropolitan Railway Act 1861) およびメトロポリタン鉄道てつどう(フィンスベリー・サーカス延長えんちょうほう1861ねん (Metropolitan Railway (Finsbury Circus Extension) Act 1861) およびメトロポリタン鉄道てつどうほうは、1864ねん7がつ25にち国王こくおう裁可さいかて、キングス・クロスえきまでの追加ついか線路せんろ承認しょうにんされた。
  12. ^ このうちの1ほんのトンネルは1862ねん完成かんせいしており、1863ねん8がつにグレート・ウェスタン鉄道てつどう車両しゃりょうげたさいに、グレート・ノーザン鉄道てつどうからけた車両しゃりょう搬入はんにゅうするために使用しようされた[47]
  13. ^ ハマースミス・パディントン・アンド・シティ・ジャンクション鉄道てつどうという名目めいもくであった[54]
  14. ^ ロンドン・アンド・サウス・ウェスタン鉄道てつどうのリッチモンドまでの線路せんろは、現在げんざいではロンドン地下鉄ちかてつディストリクトせん一部いちぶとなっている。ハマースミスえきからリッチモンドえきまでのあいだでメトロポリタン鉄道てつどう列車れっしゃ停車ていしゃしたえきは、レイブンスコート・パークえき英語えいごばんターナム・グリーンえきガナーズベリーえき英語えいごばんキュー・ガーデンズえき英語えいごばんであった[32]
  15. ^ 1863ねん11月にタイムズかみは、つぎ議会ぎかいではおよそ30のロンドンにおける鉄道てつどう計画けいかく提出ていしゅつされて検討けんとうされるであろうとほうじた。そのおおくは「そのおもきで計画けいかくされたもので、建設けんせつ費用ひよう建設けんせつ実現じつげん可能かのうせいについてあまり考慮こうりょされていない」とかんがえられていた[62]
  16. ^ これらは、メトロポリタン鉄道てつどう(ノッティング・ヒルおよびブロンプトン延長えんちょうほう (Metropolitan Railway (Notting Hill and Brompton Extension) Act) と、メトロポリタン鉄道てつどう(タワー・ヒル延長えんちょうほう (Metropolitan Railway (Tower Hill Extension) Act)、そしてメトロポリタン・ディストリクト鉄道てつどうほう (Metropolitan District Railway Act) であった[63]
  17. ^ 初期しょきのインナー・サークルせん運行うんこうについては文献ぶんけんによってことなる。Jackson 1986, p. 56では、運行うんこう両社りょうしゃ等分とうぶんであったとし、Lee 1956, pp. 28–29ではメトロポリタン鉄道てつどうがすべてを運行うんこうしたとしている。
  18. ^ えきは1871ねん7がつ19にち完成かんせいし、メトロポリタン鉄道てつどうとディストリクト鉄道てつどう共同きょうどうで1871ねん国際こくさい博覧はくらんかいまでえきから連絡れんらくバスを運行うんこうした[78]
  19. ^ ワトキンはケントハイス英語えいごばん選出せんしゅつ議員ぎいんでもあり、サウス・イースタン鉄道てつどうたいしてイギリスとフランスをむす英仏海峡えいふつかいきょうトンネル推進すいしんするようすすめていた。1883ねんまでに、イギリスがわから直径ちょっけい7フィート(やく2.1 m)のトンネルを2,026ヤードやく1.853 km)まで、フランスがわから1,825ヤード(やく1.669 km)までられていたが、1882ねん高等法院こうとうほういんていしおせんよりした工事こうじすすめる許可きょかられていないと判断はんだんしたため中断ちゅうだんされた。その許可きょか努力どりょくがなされたが、侵略しんりゃくのリスクを強調きょうちょうするぐん主張しゅちょうにより失敗しっぱいわった[83]。ワトキンは、マンチェスターやシェフィールドからこの英仏海峡えいふつかいきょうトンネルをつうじて大陸たいりくつうじるルートを建設けんせつする野望やぼういていたとよくわれているが、これにかんする証拠しょうこなにのこされていない[84][82]
  20. ^ メトロポリタンおよびディストリクト鉄道てつどう(シティ・ラインズおよび延長えんちょうほう1879ねん (Metropolitan and District Railways (City Lines and Extensions) Act, 1879、1879ねん8がつ11にち国王こくおう裁可さいか[89]
  21. ^ イースト・ロンドン鉄道てつどう現在げんざいロンドン・オーバーグラウンド一部いちぶである。この路線ろせんはテムズがわしたを1843ねん完成かんせいテムズトンネルもぐっている。セント・メアリーズえきとニュー・クロスえきあいだでメトロポリタン鉄道てつどう列車れっしゃ停車ていしゃしたのは、シャドウェルえき英語えいごばんワッピングえき英語えいごばんロザーハイズえき英語えいごばんサーリー・クエイズえき英語えいごばんである[32]
  22. ^ メトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道てつどうほう (Metropolitan & Saint John's Wood Railway Act)、1873ねん7がつ21にち国王こくおう裁可さいか[99]
  23. ^ キングスベリー・アンド・ハーローほう (Kingsbury and Harrow Billはメトロポリタン鉄道てつどうとメトロポリタン・アンド・セント・ジョンズ・ウッド鉄道てつどう共同きょうどう推進すいしんされ、1874ねん7がつ16にち国王こくおう裁可さいか[99]
  24. ^ これらの土地とちは1989ねん保護ほご地域ちいきとなっている[106]
  25. ^ ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道てつどうはこの路線ろせんけ、1879ねん7がつ21にちにはバッキンガムシャー鉄道てつどう吸収きゅうしゅうしている[108]
  26. ^ ロンドン・アンド・エイルズベリー鉄道てつどうほう (London & Aylesbury Railway Act) は1871ねん国王こくおう裁可さいかた。リックマンズワースおよびハーロー延長えんちょうほう (Rickmansworth and Harrow Extension Act) は1874ねん7がつ16にち国王こくおう裁可さいか[99]
  27. ^ リックマンズワースまで路線ろせん延長えんちょうするリックマンズワース延長えんちょう鉄道てつどうほう (Rickmansworth Extension Railway Act) は1880ねん8がつ6にち国王こくおう裁可さいかた。エイルズベリーまでのエイルズベリー・アンド・リックマンズワース鉄道てつどうほう (Aylesbury and Rickmansworth Railway Act) は1881ねん7がつ18にち国王こくおう裁可さいか[111]
  28. ^ 蒸気じょうき機関きかんしゃ牽引けんいんのままで運転うんてんされた列車れっしゃもあった。1909ねん9がつに、バーニー・ジャンクションからラムズゲートまで往復おうふくした周遊しゅうゆう列車れっしゃは、ブラックフライアーズにおいてメトロポリタン鉄道てつどう機関きかんしゃからサウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道てつどう機関きかんしゃ交換こうかんされた[151]。1961ねん10がつ1にちに、サザン・カウンティーズ旅行りょこう協会きょうかい臨時りんじ列車れっしゃ運行うんこう企画きかくし、メトロポリタン鉄道てつどうの1ごう蒸気じょうき機関きかんしゃ当時とうじはL44とばれていた)が牽引けんいんしてスタンモアからファリンドンとイースト・ロンドンせん経由けいゆしてニュー・クロスまで運転うんてんされた[152]
  29. ^ ロバート・ホープ・セルビー CBE(1868ねん - 1930ねん)はマンチェスターのマンチェスターグラマースクール、そしてオーウェンズ・カレッジ教育きょういくけ、1883ねんランカシャー・アンド・ヨークシャー鉄道てつどう英語えいごばんはいり、ゼネラルマネージャーの秘書ひしょ主任しゅにん運行うんこう管理かんりしゃ助手じょしゅつとめた。かれは1903ねんからメトロポリタン鉄道てつどう秘書ひしょつとめ、1908ねんからゼネラルマネージャーをつとめ、1919ねんにメトロポリタン鉄道てつどう不動産ふどうさん取締役とりしまりやく任命にんめいされ、1922ねんにはメトロポリタン鉄道てつどう取締役とりしまりやくになった。かれだいえい帝国ていこく勲章くんしょうだいいち世界せかい大戦たいせんにおける商務省しょうむしょう道路どうろ交通こうつう委員いいんかい陸軍りくぐん資料しりょう委員いいんかいでの活動かつどうたいしてあたえられた。かれは1930ねんにセント・ポール教会きょうかいにおいて息子むすこけんしん儀式ぎしき参加さんかしているときにくなった[153]
  30. ^ 1845ねん土地とち条項じょうこう合同ごうどうほうでは、鉄道てつどう路線ろせん許可きょかした法律ほうりつさだめた完成かんせい期限きげんから10ねん以内いない余分よぶん土地とち売却ばいきゃくすることをさだめていた[167]
  31. ^ ニーズデンと同様どうように、セシル・パーク[171]とウィルズデン[172]はともに保護ほご地域ちいきとなっている。
  32. ^ ワードルはユーストン・スクエアえきあたらしい駅名えきめいしるべにユーストン・スクエア・メトロとするように希望きぼうしていたが、セルビーによってくつがえされて、メトロポリタン鉄道てつどうとフルスペルでかれた[179]
  33. ^ チルターン・コートはロンドンでもたか評判ひょうばんられる場所ばしょとなった。小説しょうせつアーノルド・ベネットハーバート・ジョージ・ウェルズなどが居住きょじゅうした[180]。ウェルズを記念きねんするブルー・プラークが2002ねん5がつ8にち建物たてものけられている[181]
  34. ^ 当初とうしょえきから現在げんざいワトフォード・ジャンクションえき位置いちに1858ねん移転いてんした[187]
  35. ^ ディストリクト鉄道てつどうは、乗務じょうむいん路線ろせんれさせておくために、日曜日にちようびに4ほん列車れっしゃ運転うんてんつづけた[199]
  36. ^ これは720まんポンド相当そうとうの4.5パーセントAかぶ、200まんポンド相当そうとうの5パーセントAかぶ、530まんポンド相当そうとうの5パーセントBかぶ、510まんポンド相当そうとうのCかぶからなっていた[208]
  37. ^ 他社たしゃ貨物かもつあつか設備せつびすでにファリンドンちかくのワイドンドせん開設かいせつされていた。グレート・ウェスタン鉄道てつどう運行うんこうするスミスフィールド・マーケットの側線そくせんは1869ねん5がつ1にち開設かいせつされた。グレート・ノーザン鉄道てつどうは1874ねん11月2にち自社じしゃ施設しせつ開設かいせつし、ミッドランド鉄道てつどうもホワイトクロス貨物かもつあつか施設しせつを1878ねん1がつ1にち開設かいせつした[219]
  38. ^ ケント・アンド・イーストウッド鉄道てつどう英語えいごばん保存ほぞんされている車両しゃりょうは、かつてはみじかい4りんのディストリクト鉄道てつどう車両しゃりょうかんがえられていたが、現在げんざいではメトロポリタン鉄道てつどうの8りん客車きゃくしゃめたものだとかんがえられている[243][244]
  39. ^ メイフラワー (Mayflower)、ガラティー (Galatea) の名前なまえけられた2りょうのプルマン客車きゃくしゃは19せき座席ざせきがあり、6ペンスまたは1シリングの追加ついか料金りょうきんはらうことで、朝食ちょうしょく昼食ちゅうしょく喫茶きっさ夕食ゆうしょくなどをることができた。トイレを装備そうびしており、蒸気じょうき暖房だんぼう装備そうび製造せいぞうされ1925ねん電気でんき暖房だんぼう装備そうびされた[261]

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]