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ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム

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ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム
ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイム
ゼレンドルフの騎士きしりょう

ヨアヒム・フリードリヒ・フォン・シュトゥッターハイムJoachim Friedrich von Stutterheim、または「ろうシュトゥッターハイム(Alt-Stutterheim)」、1715ねん11月2にちゼレンドルフ (de:Sellendorfニーダーラウズィッツ (Lower Lusatia-1783ねん8がつ26にちケーニヒスベルク)は、プロイセン王国おうこく中将ちゅうじょうである。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

シュトゥッターハイムは偶然ぐうぜん出会であったプロイセン国王こくおうフリードリヒ・ヴィルヘルム1せい好意こういいだき、かつてザクセンせんみかどほうりょう大尉たいいであり、いま領主りょうしゅとしてらしていたちち許可きょか1729ねんベルリン士官しかん学校がっこう入学にゅうがくした。そこから1732ねん士官しかん候補こうほせい (de:Fahnenjunkerとして「クレッヒャー」歩兵ほへい連隊れんたい配属はいぞくされる。 どう連隊れんたいかれ1735ねん准尉じゅんい (de:Fähnrich、そして1739ねん少尉しょうい昇進しょうしんした。

そのままだいいちシュレージエン戦争せんそうむかえると、はやくもモルヴィッツのたたかにおいて抜群ばつぐん戦功せんこうげ、国王こくおうフリードリヒ2せい(フリードリヒ大王だいおう)からプール・ル・メリット勲章くんしょうさずかり、カミンだい聖堂せいどう (de:Dom zu Cammin (Kamień Pomorski)聖堂せいどう参事さんじ会員かいいんしょくたまわるとともに、「ラ・モット」歩兵ほへい連隊れんたいぞくする1個いっこ中隊ちゅうたい指揮しき1806ねんに「プロイセンだい17歩兵ほへい連隊れんたい(Altpreußisches Infanterieregiment Nr. 17)」に改称かいしょう)をたくされた。 こののち、シュトゥッターハイムはコトゥズィッツのたたかホーエンフリートベルクのたたかおよびゾーアのたたか参加さんかしている。なお、ゾーアのたたかいで負傷ふしょうした。

1747ねん少佐しょうさ昇進しょうしんするとロボズィッツのたたかあらためて大功たいこうて、大王だいおうから異例いれい恩給おんきゅう年額ねんがく500ターラー下賜かしされた。そして1757ねん5月、中佐ちゅうさとして連隊れんたい指揮しきかん就任しゅうにんすると同年どうねんちゅう大佐たいさ昇進しょうしんし、プラハコリンブレスラウそしてホッホキルヒたたかう。1759ねんには少将しょうしょう昇進しょうしんし、かつての「カナハー」歩兵ほへい連隊れんたい(1806ねんに「プロイセンだい30歩兵ほへい連隊れんたい」に改称かいしょう)を自身じしん指揮しきぐ。

同年どうねんプロイセン公子こうしハインリヒ指揮しきはいると公子こうしは9月13にちゲルリッツからした手紙てがみなかで、シュトゥッターハイムがフリートラントの物資ぶっし集積しゅうせきはらい、捕虜ほりょ700めいたといている。

1760ねん、シュトゥッターハイムはリーグニッツトルガウたたかった。そしてトルガウでは重傷じゅうしょうっている。1761ねん、ハインリヒ公子こうし軍団ぐんだん復帰ふっきするとへい1600めいたくされ、ブランデンブルク辺境へんきょうはくりょうスウェーデンぐんから防衛ぼうえいするため、同地どうち派遣はけんされる。1762ねん最後さいご遠征えんせいにもかれはハインリヒ公子こうししたがって参加さんかした。同年どうねん10がつ29にちフライベルクのたたかにおいてシュトゥッターハイムは左翼さよく指揮しきし、攻勢こうせいになっている。そして勝利しょうりへの貢献こうけんむくい、マクデブルクにあるひじりニコライ教会きょうかい (de:Sankt-Nikolai-Kirche (Magdeburg)司教しきょう聖堂せいどう参事さんじ会員かいいんしょくたまわった。

1763ねん講和こうわ条約じょうやく締結ていけつされると、フリードリヒ大王だいおうはシュトゥッターハイムをひがしプロイセン歩兵ほへい総監そうかんにんじ、ケーニヒスベルクへ派遣はけんした。1768ねん中将ちゅうじょう昇進しょうしんするとくろわしあきら (en:Order of the Black Eagleべつ連隊れんたい「カーニッツ」歩兵ほへい連隊れんたい (de:Regiment Kanitz zu Fuß、1806ねんに「プロイセンだい2歩兵ほへい連隊れんたい」に改称かいしょう)をたまわっている。またケーニヒスベルク、ピラウおよびメーメル総督そうとく任命にんめいされた。

1778ねんバイエルン継承けいしょう戦争せんそう勃発ぼっぱつするとシュトゥッターハイムはフリードリヒ大王だいおうぐんにおいて、うえシュレージエン (Upper Silesia軍団ぐんだん先鋒せんぽうとなり、トロッパウ占領せんりょうしている。

その、「ろうシュトゥッターハイム」がぼっするすこまえにフリードリヒ大王だいおう手紙てがみかれもとおくった[1]

貴殿きでん運命うんめいは、がものよりもゆだねられてなどいなかったと断言だんげんできる。貴殿きでん奉仕ほうししんなかに、わすれられずのこるであろう。 -フリードリヒ2せい

記念きねん[編集へんしゅう]

シュトゥッターハイムのは、ウンター・デン・リンデンにあるフリードリヒ大王だいおう騎馬きばぞう (de:Reiterstandbild Friedrichs des Großenきざまれている。

家族かぞく[編集へんしゅう]

かれはゾフィー・テレーゼ・フォン・レットウ(1719ねんあるいは1720ねん-1807ねん9月6にち、シュテッテンブルッフ)と結婚けっこんした。子息しそく

の2めいである。オットーはハインリヒ・ヴィルヘルム・フォン・アンハルト (de:Heinrich Wilhelm von Anhalt中将ちゅうじょう長女ちょうじょ、ヴィルヘルミーネ・フリーデリーケ・フォン・アンハルト(1770ねん12月16にち-1802ねんピサフランス帝国ていこく)と結婚けっこんし、1797ねん離婚りこんした。

個別こべつ典拠てんきょ[編集へんしゅう]

  1. ^ レオポルト・フォン・ツェトリッツ=ノイキルヒ(Leopold Freiherr von Zedlitz-Neukirch)ちょ:『Pantheon des preußischen Heeres』、 ベルリン、 1835ねん(ドイツ

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

(ドイツばん記事きじげられていたもので、翻訳ほんやくしゃ項目こうもく作成さくせいにあたり、閲覧えつらんしたものではありません。)