(Translated by https://www.hiragana.jp/)
リチャード・ノリス・ウィリアムズ - Wikipedia コンテンツにスキップ

リチャード・ノリス・ウィリアムズ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
リチャード・ノリス・ウィリアムズ
Richard Norris Williams
リチャード・ノリス・ウィリアムズ
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
出身しゅっしん スイスの旗 スイス
ジュネーヴしゅうジュネーヴ
生年月日せいねんがっぴ (1891-01-29) 1891ねん1がつ29にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1968-06-02) 1968ねん6月2にち(77さいぼつ
死没しぼつ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ペンシルベニア州の旗 ペンシルベニアしゅうブリンモア英語えいごばん
身長しんちょう 182 cm
きて みぎ
殿堂でんどう 1957ねん
生涯しょうがい獲得かくとく賞金しょうきん なし
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・シングルス
ちょんすぐる ベスト4(1924)
全米ぜんべい 優勝ゆうしょう(1914・16)
優勝ゆうしょう回数かいすう 2(べい2)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき・ダブルス
ちょんすぐる 優勝ゆうしょう(1920)
全米ぜんべい 優勝ゆうしょう(1925・26)
優勝ゆうしょう回数かいすう 3(えい1・まい2)
4だい大会たいかい最高さいこう成績せいせき混合こんごうダブルス
全米ぜんべい 優勝ゆうしょう(1912)
優勝ゆうしょう回数かいすう 1(べい1)
獲得かくとくメダル
テニス
オリンピック
きむ 1924 パリ 混合こんごうダブルス

リチャード・ノリス・ウィリアムズRichard Norris Williams II, 1891ねん1がつ29にち - 1968ねん6月2にち)は、アメリカ男子だんしテニス選手せんしゅ。「ディック・ウィリアムズ」(Dick Williams)ともばれる。スイスジュネーヴまれ。ハーバード大学だいがく卒業そつぎょう1912ねん4がつタイタニックごう沈没ちんぼつ事故じこびたのち1910年代ねんだいから1920年代ねんだいにかけて、アメリカを代表だいひょうするテニス選手せんしゅ1人ひとりとして活動かつどうした。かれ全米ぜんべい選手権せんしゅけん男子だんしシングルス2しょう男子だんしダブルス2しょう混合こんごうダブルス1しょうげ、ウィンブルドン選手権せんしゅけんでも1920ねん男子だんしダブルス優勝ゆうしょうしゃとなり、オリンピックにおいても1924ねんパリ五輪ごりん混合こんごうダブルスのきんメダルを獲得かくとくした。

ちゅうビーナスセリーナのウィリアムズ姉妹しまい父親ちちおやであるリチャード・ウィリアムズと区別くべつするため、ほん記事きじめいはフルネームの「リチャード・ノリス・ウィリアムズ」で記述きじゅつする。

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

ウィリアムズのテニスは、非常ひじょうにテンポのはや攻撃こうげきがたのプレースタイルで、大半たいはんのボールをライジング(相手あいてボールのがりはなつこと)で返球へんきゅうし、大胆だいたんするど強打きょうだのショットをだま駆使くしした。試合しあいによってはミスの連発れんぱつにつながり、格下かくした相手あいてけることもしばしばあったという。好調こうちょう不調ふちょうはげしいひとであったが、つぼにはまったときのスピードとパワーはがつけられないつよさをほこった。かれはスイスでテニスをおぼえたことから、ラケットをコンチネンタル・グリップでにぎり、グラウンド・ストロークはバックスピン(ぎゃく回転かいてんのボール)でっていた。

ウィリアムズは1891ねん1がつ29にちスイスジュネーヴでアメリカじん両親りょうしんあいだまれた。かれは21さいとき1912ねんタイタニックごうってアメリカへかった。4がつ14にちふね沈没ちんぼつしたときかれ父親ちちおやであるデュアン・ウィリアムズ船内せんないのこり、海難かいなん事故じこ犠牲ぎせいしゃとなった(ノリスの手記しゅきによるとれた煙突えんとつ下敷したじきになったという)。リチャードはふね甲板かんぱんからうみみ、必死ひっし救命きゅうめいボートまでおよいでいのちめた。かれあしはすっかりこおりついたが、船医せんいからすすめられたあし切断せつだん手術しゅじゅつことわり、九死きゅうし一生いっしょうてアメリカに到着とうちゃくした。その半年はんとし、ウィリアムズは1912ねん全米ぜんべい選手権せんしゅけんでテニス経歴けいれき開始かいしする。はつ出場しゅつじょう男子だんしシングルス4回戦かいせんモーリス・マクローリンやぶれたが、混合こんごうダブルスでメアリー・ブラウンんで優勝ゆうしょうした。ウィリアムズの初期しょき経歴けいれきでは、このマクローリンが最大さいだいのライバルになる。1913ねんから、ウィリアムズは男子だんしテニスこくべつ対抗たいこうせんデビスカップのアメリカ代表だいひょう選手せんしゅえらばれ、はじめてのイギリス遠征えんせい旅立たびだった。はつ出場しゅつじょうウィンブルドン男子だんしシングルス4回戦かいせんやぶれたが、ウィンブルドンの試合しあい会場かいじょうおこなわれたデビスカップで、アメリカは決勝けっしょうでイギリスを「3しょう2はい」でやぶって優勝ゆうしょうめた。ウィリアムズはシングルスだい2試合しあいチャールズ・ディクソン1873ねん - 1939ねん)をやぶったが、アメリカ・チームが優勝ゆうしょうめたのち最終さいしゅうだい5試合しあいジェームズ・パーク1881ねん - 1946ねん)に逆転ぎゃくてんけした。

1913ねん1914ねんの2ねん連続れんぞくで、リチャード・ウィリアムズとモーリス・マクローリンが全米ぜんべい選手権せんしゅけん男子だんしシングルス決勝けっしょうたたかった。1913ねんはマクローリンがったが、ウィリアムズは1914ねん決勝けっしょうでマクローリンを 6-3, 8-6, 10-8 のストレートで圧倒あっとうし、3度目どめ出場しゅつじょう男子だんしシングルスはつ優勝ゆうしょうめた。マクローリンは“つむじかぜのような”スピードかんあふれるプレースタイルから、当時とうじ男子だんしテニスかいで「カリフォルニアの彗星すいせい」(California Comet)とばれたひとである。そのマクローリンを上回うわまわったウィリアムズのテニスは、すさまじい爆発ばくはつりょく一気いっきに3セットを驀進ばくしんし、当時とうじ選手権せんしゅけん会場かいじょうニューポート・カジノ」に新設しんせつされたセンター・コートの観衆かんしゅう熱狂ねっきょうさせた。しかし、このとしのデビスカップ決勝けっしょうでアメリカはオーストラリアに「2しょう3はい」でやぶれ、ウィリアムズはシングルスせん2試合しあいアンソニー・ワイルディングノーマン・ブルックスりょう選手せんしゅやぶれてしまった。

だい1世界せかい大戦たいせん1914ねんなつ勃発ぼっぱつしたのち、デビスカップやウィンブルドン選手権せんしゅけん開催かいさい中止ちゅうしとなったが、全米ぜんべい選手権せんしゅけんだけは途切とぎれることなく開催かいさい続行ぞっこうされた。ウィリアムズはだい1世界せかい大戦たいせんちゅう全米ぜんべい選手権せんしゅけんで、1916ねんに2ねんぶり2度目どめ男子だんしシングルス優勝ゆうしょうたす。2度目どめ優勝ゆうしょうときは、前年ぜんねん準決勝じゅんけっしょうやぶれたビル・ジョンストンに 4-6, 6-4, 0-6, 6-2, 6-4 のフルセットでった。だい1世界せかい大戦たいせんちゅう、ウィリアムズはアメリカ陸軍りくぐん仕事しごとフランス出征しゅっせいし、フランス政府せいふの「戦功せんこうあきら」(フランス語ふらんすごCroix de Guerre)を受章じゅしょうしている。世界せかい大戦たいせん1918ねん終結しゅうけつしたのち、ウィリアムズはテニスかい復帰ふっきし、それから1935ねんまでなが経歴けいれききずくことができた。

終戦しゅうせんのリチャード・ウィリアムズがげた最初さいしょ業績ぎょうせきは、1920ねんウィンブルドン選手権せんしゅけん男子だんしダブルス優勝ゆうしょうである。ウィリアムズはおなじアメリカのチャールズ・ガーランドみ、決勝けっしょう地元じもとイギリスペアのアルガーノン・キングスコート&ジェームズ・パークくみを 4-6, 6-4, 7-5, 6-2 でやぶって優勝ゆうしょうした。こうしてウィリアムズとガーランドは、アメリカじん選手せんしゅとして最初さいしょのウィンブルドン男子だんしダブルス優勝ゆうしょうしゃになった。4ねん1924ねん、ウィリアムズはパリ五輪ごりん出場しゅつじょうし、ヘイゼル・ホッチキス・ワイトマンんで混合こんごうダブルスのきんメダルを獲得かくとくした。ウィリアムズのはなしによれば、かれはこのとき足首あしくび捻挫ねんざしていたため、試合しあい出場しゅつじょうまえ棄権きけんかんがえていたが、ワイトマンに「あなたはネットのそばにっていればいいのよ。わたしはしってボールをひろうから」とわれたという。当時とうじウィリアムズは33さい、ワイトマンは37さいという高齢こうれいペアによるきんメダルだった。このパリ五輪ごりんのち、テニスかいに「プロ選手せんしゅ」が登場とうじょうしたことにより、1928ねんアムステルダム五輪ごりんでテニスはオリンピック競技きょうぎから除外じょがいされる。60ねん1988ねんソウル五輪ごりんでテニス競技きょうぎ復活ふっかつしたとき混合こんごうダブルスは復活ふっかつしなかった。2012ねんロンドン五輪ごりんで88ねんぶりに復活ふっかつした。

それから、ウィリアムズは1925ねん1926ねん全米ぜんべい選手権せんしゅけん男子だんしダブルスでビンセント・リチャーズんで2連覇れんぱ達成たっせいした。タイタニックごう海難かいなん事故じこびて、1912ねん全米ぜんべい選手権せんしゅけん混合こんごうダブルスでメアリー・ブラウンんで優勝ゆうしょうしたときから、すでに14ねん歳月さいげつながれていた。だい1世界せかい大戦たいせんのデビスカップでは、アメリカ・チームの選手せんしゅそうあつくなったことから、ウィリアムズはダブルスせんのみに起用きようされたが、1921ねんデ杯ではい決勝けっしょうせん日本にっぽんチームと対戦たいせんしたこともある。日本にっぽんは1921ねんにデビスカップはつ参加さんかたし、いきなり決勝けっしょうせんまで進出しんしゅつしたが、アメリカ・チームには5せん全敗ぜんぱいわった。だい3試合しあいのダブルスせんでは、ウィリアムズとワトソン・ウォッシュバーンのペアが、熊谷くまがい一弥かずや清水しみずよしづくりくみを 6-2, 7-5, 4-6, 7-5 で退しりぞけた。こうして、ウィリアムズも日本にっぽんテニス黎明れいめいかかわりをった選手せんしゅのひとりになった。

ウィリアムズは1935ねんまでテニス経歴けいれき続行ぞっこうし、そのあいだにシングルス42しょう男子だんしダブルス51しょう混合こんごうダブルス13しょう獲得かくとくした。1954ねん国際こくさいテニス殿堂でんどう設立せつりつされ、かれ1957ねんだい3かい殿堂でんどう選手せんしゅえらばれた。殿堂でんどうりから11ねん1968ねん6月2にち、リチャード・ノリス・ウィリアムズはペンシルベニアしゅうブリンモアにて77さいくなった。

おも成績せいせき

[編集へんしゅう]
  • 全米ぜんべい選手権せんしゅけん 男子だんしシングルス:2しょう(1914ねん・1916ねん)/男子だんしダブルス:2しょう(1925ねん、1926ねん)/混合こんごうダブルス:1しょう(1912ねん
  • ウィンブルドン選手権せんしゅけん 男子だんしダブルス:1しょう(1920ねん) [パートナー:チャールズ・ガーランド]
  • オリンピック 1924ねんパリ五輪ごりん混合こんごうダブルスきんメダル [パートナー:ヘイゼル・ホッチキス・ワイトマン]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書じしょ) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]