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上野うえの長野ながの

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
上野うえの長野ながの
家紋
檜扇ひおうぎ
本姓ほんせい しょう在原ありわらせい業平なりひらりゅう
物部ものべせい石上いしがみ?
種別しゅべつ 武家ぶけ
出身しゅっしん 上野うえのこく
おも根拠地こんきょち 上野うえのこく
著名ちょめい人物じんぶつ 長野ながのぎょうただし
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

上野うえの長野ながの(こうづけながのし)は、戦国せんごく時代じだいまで上野うえのこく西部せいぶ支配しはいしていた大身たいしん武士ぶしである。うえしゅう長野ながのとも。家紋かもん檜扇ひおうぎ(ひおうぎ)[注釈ちゅうしゃく 1]

出自しゅつじ

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本姓ほんせい在原ありわら。『伊勢物語いせものがたり』の主人公しゅじんこうであるとされる在原業平ありわらのなりひらが、関東かんとう下向げこうしたことがはじまりであるとつたわるが、もとより伝説でんせついきない。ただ物部ものべけい石上いしがみせい名乗なのっていたともつたわることから、当初とうしょ石上いしがみせいだったとみられる。また在庁ざいちょうかんじん出身しゅっしんとも指摘してきされる[1]

長野ながの一族いちぞく菩提寺ぼだいじ長年ながねんてら居城きょじょう箕輪みのわしろふくむことから、上野うえのこく群馬ぐんまぐん長野郷ながのごうげん群馬ぐんまけん高崎たかさき浜川はまがわまち周辺しゅうへん)が本拠地ほんきょちとみられている。なおどう上野うえのこく吾妻あづまぐん長野原ながのはらかんんで長野ながのしょうしたとする「長年ながねんてら系図けいず」などの伝承でんしょうもあるが、内容ないよう問題もんだいおおく、また長野ながのきょう戦国せんごく江戸えど以降いこうえているため、長野原ながのはら由来ゆらいせつ長野ながのきょうわすられた後世こうせいにこじつけでつくられた誤伝ごでんとされる[2]

歴史れきし

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長野ながの人物じんぶつ史料しりょうじょうにみられるのは、長尾ながお景春かげはるらん最中さいちゅう文明ぶんめい9ねん1477ねん)5がつ7にち武蔵むさしはり谷原やはら山内やまうち扇谷おうぎやりょう上杉うえすぎ長尾ながお景春かげはるたたかったときの記録きろくで、このときうえしゅう一揆いっき(いっき)旗頭はたがしらとして景春かげはるかたにあった長野ながの為兼ためかね討死うちじにしている[3]。またえいただし元年がんねん1504ねん)の立河たちかわげんたたかで、長野ながのまごろくろうぼうけん上杉うえすぎ顕定あきさだかた参加さんか戦死せんししている[3]。ただしぼうけん為兼ためかね現存げんそんする系譜けいふるいにみえず、かれらの血縁けつえん関係かんけいしょうである。また、「けん」の長野ながのつうである「ぎょう」の誤記ごき誤読ごどくとして、まさしくはぼうぎょうためぎょうとするせつもある[4][5]

戦国せんごく時代じだい中期ちゅうきまで上野うえのこく関東かんとう管領かんりょう山内やまうち上杉うえすぎ領国りょうごくであり、守護しゅごだい長尾ながお白井しらい長尾ちょうび総社そうじゃ長尾ちょうび)の本拠地ほんきょち上野うえの存在そんざいしたため、長野ながのはその上杉うえすぎした上野うえのこく西部せいぶ豪族ごうぞくりまとめて「箕輪みのわしゅう」を結成けっせいし、上杉うえすぎ長尾ながおつかえていた。

上杉うえすぎ家中かちゅうでの台頭たいとう

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ぼうけん為兼ためかね没後ぼつご長野ながの勢力せいりょく一時いちじ後退こうたいしたとみられるが、長野ながのけんぎょう箕輪みのわしろ築城ちくじょうちちごうひさしによるとも)するなど、上杉うえすぎ長尾ながおとおるとくらんちょうとおるらん長尾ながお景春かげはるらんなどで衰退すいたいするのと対照たいしょうてき勢力せいりょく拡大かくだいさせた。

だいひさし7ねん1527ねん[7][注釈ちゅうしゃく 2]には、長野ながの左衛門さえもん大夫たいふかたとき[注釈ちゅうしゃく 3]厩橋うまやばし宮内くない大夫たいふとともに総社そうじゃじょうにあった総社そうじゃ長尾ながお長尾ちょうびあらわけい攻撃こうげきしている。この左衛門さえもん大夫たいふかたとき厩橋うまやばし宮内くない大夫たいふだれ諸説しょせつあってはっきりしない。

左衛門さえもん大夫たいふかたとき箕輪みのわ城主じょうしゅとみられている。『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』では箕輪みのわ城主じょうしゅ長野ながのしんぎょう[12]、『群馬ぐんましん百科ひゃっか事典じてん』(上毛新聞社じょうもうしんぶんしゃ、2008ねん)の「長野ながの」(飯森いいもり康広やすひろちょ)では長野ながのかたぎょう[13]、『箕郷みさとまち』(箕郷みさとまち、1975ねん)では長野ながのしんぎょうほうひとし[14]、『群馬ぐんまけん 通史つうしへん3』では長野ながのかたぎょうほうひとし[15]、『戦国せんごくのコミュニケーション』(山田やまだ邦明くにあきちょ[16]および黒田くろだ論文ろんぶん[9][17]ほうひとしかたぎょう誤読ごどくとする。厩橋うまやばし宮内くない大夫たいふ厩橋うまやばしじょうによった長野ながの一族いちぞくとみられるが、これも諸説しょせつある(後述こうじゅつ)。

厩橋うまやばし長野ながの

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厩橋うまやばし宮内くない大夫たいふ一族いちぞく厩橋うまやばしじょう(のち前橋まえばしじょう改称かいしょう)をきずき、総社そうじゃ長尾ながお対抗たいこうした。このうまやきょう城主じょうしゅとなった長野ながのは、『前橋まえばし風土記ふどき』に歴代れきだい城主じょうしゅとして初代しょだい固山こやまそうけん長野ながの左衛門尉さえもんのじょう)、2だい長野ながのどうやす、3だいどうけん、4だいけんただし[注釈ちゅうしゃく 4]記載きさいされる。黒田くろだ基樹もとき論文ろんぶん(「戦国せんごく上野うえの長野ながの動向どうこう」)は、固山こやまそうけん長野ながの左衛門尉さえもんのじょう)を長野ながのためぎょうとし、2だいあらわぎょうひじりなか)、3だいけんちゅうとし、実際じっさいうまやきょう本拠地ほんきょちとしたのはあらわぎょう時代じだいとする[9][17]だいなが7ねん(1527ねん)の厩橋うまやばし宮内くない大夫たいふはこのうちのだれかとみられる。『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』は長野ながのかたぎょうほうひとしけんちゅう)とみなす[19]。『箕郷みさとまち』は長野ながのかたぎょうすとし[20]、『前橋まえばし』は天文てんもん10ねん1541ねん)にみえるけんちゅう該当がいとうするといい[21]、『群馬ぐんまけん』は宮内くない大夫たいふかたぎょうほうひとし)のかとしたうえうまやきょう2だいみちやすのこととする[注釈ちゅうしゃく 5]。『箕輪みのわしろ長野ながの』はみちけんかと指摘してきする[注釈ちゅうしゃく 6][2]黒田くろだ論文ろんぶんは、宮内みやうち大夫たいふけんちゅう箕輪みのわ長野ながのいだかたぎょう実兄じっけいでもあるとする[9][17]

また、厩橋うまやばしひがしとなり大胡おおごきょう厩橋うまやばし長野ながの進出しんしゅつし、大胡おおごわって大胡おおご支配しはいした[22]大胡おおご一族いちぞくしたともいう[23]。ただし大胡おおご長野ながの名前なまえ不明ふめいである。

天文てんもん10ねん(1541ねん厩橋うまやばし城主じょうしゅ長野ながのけんただしは、深谷ふかや上杉うえすぎけんけん宗俊むねとし成田なりたちかしやすし佐野さのあきらつなとともに金山かなやまじょうあるじ横瀬よこせやすししげるめて敗退はいたいした。その越山こしやましてきた長尾ながお景虎かげとらしたがう。しかしその彦太郎ひこたろうえいろく3ねん1560ねん)に陣中じんちゅう誅殺ちゅうさつ(ちゅうさつ)され、けんちゅうもすぐぼっしたという。このとき彦太郎ひこたろう伯父おじ大胡おおごりょうしていたがともころされたという[24][注釈ちゅうしゃく 7]黒田くろだ論文ろんぶんけんちゅうえいろく年間ねんかんぼっしたとするのは、かれだい厩橋うまやばし長野ながのほろんだとする誤認ごにん由来ゆらいするもので、けんちゅう天文てんもん10ねん横瀬よこせ攻撃こうげきほどなくぼっし、みちやすみちけん彦九郎ひこくろう彦太郎ひこたろうふじ九郎くろうはともに彦九郎ひこくろう誤記ごき誤伝ごでんとする)と継承けいしょうされたと[9][17]えいろく4ねん1561ねん)の「関東かんとうまく注文ちゅうもん」には「厩橋うまやばししゅ」として長野ながのふじ九郎くろう[注釈ちゅうしゃく 8]彦七ひこしちろうがみえる。なお「厩橋うまやばししゅ所属しょぞく国人くにびとよりすくなすぎるため、上杉うえすぎ謙信けんしん上野うえの進攻しんこう厩橋うまやばし長野ながのこう北条ほうじょうかたにつき上杉うえすぎ攻撃こうげきけて降伏ごうぶくし、しゅう解体かいたいされたのではとも指摘してきされる。このあと厩橋うまやばし長野ながの大胡おおご長野ながの謙信けんしんにより厩橋うまやばしじょう没収ぼっしゅうされ没落ぼつらくした。

箕輪みのわ長野ながの

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箕輪みのわ城主じょうしゅとなった長野ながのは、けんぎょうのとき西上野にしうえの方面ほうめん本格ほんかくてき進出しんしゅつし、かれ次男じなん[注釈ちゅうしゃく 9]ごうただしぎょうせいのときに強大きょうだいとなった。ぎょうせい長尾ながお家督かとく継承けいしょう介入かいにゅうするなど山内やまうち上杉うえすぎちゅう台頭たいとうし、かわえつ夜戦やせん大敗たいはいした関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ憲政のりまさ北条ほうじょう氏康うじやすやぶれて上野うえのこくわれたのちも、箕輪みのわしゅうりまとめて、婚姻こんいん政策せいさくなどにより西上野にしうえの支配しはいけんをなおも維持いじした[2]

しかし山内やまうち上杉うえすぎ忠誠ちゅうせいちかっていたのは後世こうせいのイメージであり、史実しじつとはことなる。どう時代じだい史料しりょうによれば、かわえつ夜戦やせんののち北条ほうじょうぐん武蔵むさしこく最前線さいぜんせん武蔵むさし御嶽おんたけじょう落城らくじょうさせると、長野ながの安中あんなかなどとともにこう北条ほうじょうかたへと離反りはんした。これにより山内やまうち上杉うえすぎ動揺どうようし、憲政けんせい直属ちょくぞくであるうままわりしゅ裏切うらぎりとそれに起因きいんする憲政けんせい平井ひらいしろ退去たいきょまねいている。そのこう北条ほうじょう上野うえの支配しはいしたが、えいろく3ねん1560ねん)に上杉うえすぎ謙信けんしん憲政けんせいほうじて上野うえの進攻しんこうすると、箕輪みのわ長野ながの同盟どうめい状態じょうたいであった総社そうじゃ長尾ながお白井しらい長尾ながおさき謙信けんしん内応ないおうした。以後いご越後えちご上杉うえすぎ勢力せいりょく維持いじしている[26]

えいろく4ねん1561ねん)にごうせい死去しきょし、どうながろく4ねん(1561ねん)には甲斐かいこく武田たけだ西上野にしうえの侵攻しんこうおこない、西上野にしうえのにおいて越後えちご上杉うえすぎ対立たいりつする。武田たけだ小幡おばた安中あんなか後閑ごかんなどの西上野にしうえのこくしゅ勢力せいりょくいて箕輪みのわじょう孤立こりつはかり、ごうせいぎょうえいろく9ねん1566ねん)にやぶれて自害じがい箕輪みのわ長野ながの滅亡めつぼう西上野にしうえの武田たけだ領国りょうごくされる。

たかとめ長野ながの

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ごうひさしけんぎょうのころ長野ながのたかとめじょうにあり、のち箕輪みのわじょううつったともいわれる。そのたかとめじょうぎょうなお築城ちくじょうつたえ、箕輪みのわしろ時代じだいはそのささえじょうとして機能きのうした。けんぎょうのあとたかとめじょうにはごうせいあにさん河守こうもりぎょうはいった。この子孫しそんたかとめ長野ながのという[2]

ごうえいろく5ねん1562ねん)5がつ8にちに、武田たけだかたへと離反りはんした大戸おおどじょう城主じょうしゅ大戸おおと)をめたさい戦死せんしした[注釈ちゅうしゃく 10]あと長男ちょうなんごうどおりいだ。

えいろく9ねん1566ねん)の箕輪みのわじょう落城らくじょうのときには、たかとめじょうにはごうどおりおとうと大森おおもり別当べっとうぎょうかたしょうぎょうこもっていたが、武田たけだぐん箕輪みのわじょうとの連携れんけい遮断しゃだんされ、内応ないおうよって箕輪みのわよりさき陥落かんらく城主じょうしゅごうどおり長男ちょうなんとともに越後えちごこくび、たかとめ長野ながの一族いちぞく離散りさんして没落ぼつらくした。なおぎょうかちぎょうはこのたたかいのなか死去しきょしたという[2]

箕輪みのわ落城らくじょう長野ながの一族いちぞく

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長野ながのぎょう亀寿かめじゅ落城らくじょう家臣かしん藤井ふじいただしやす阿保あほ清勝きよかつともなわれ脱出だっしゅつ、のち出家しゅっけして極楽ごくらくいん鎮良と名乗なのり、阿保あほ清勝きよかつめいつまとして5があったとつたわる[2]。なお極楽ごくらくいん鎮良は徳川とくがわからしるしじょう授与じゅよされている。またべつ長野ながの系図けいずによればぎょうにはごうちゅうというがあり、浜川はまがわぜんちょういん建立こんりゅうしたという[27]

たかとめ長野ながのでは、ごうどおり次男じなんぎょうしげる落城らくじょう仏門ぶつもんはいり、たまやまげんたからとなって和田山わだやまちょうじゅんてら住職じゅうしょく、のち井伊いいしたが移住いじゅうして彦根ひこねちょうじゅんてらひらいたとつたわる(大雲寺だいうんじ記録きろく)。ぎょう次男じなんぎょうあきらは、長野ながの健在けんざいころから和田山わだやま大雲寺だいうんじにあり、大森おおもり別当べっとうくもりろうなどという。落城らくじょう住職じゅうしょくとなり、井伊いい移動いどうしたがって彦根ひこね大雲寺だいうんじひらいた。[28]

彦根ひこね宗安寺そうあんじ開山かいさんなるほまれてんおうたかとめ長野ながので、「大雲寺だいうんじてられきしょ」(天保てんぽう9ねん)ではくもりろう和尚おしょうぎょうあきら)の出家しゅっけまえだとされる。「宗安寺そうあんじ」ではたまやまげんたからとされる。俗名ぞくみょうごうれんとも。[28]

また彦根ひこねはん井伊いい記録きろくによると、次席じせき家老がろう長野ながのみん長野ながの一族いちぞくだという。家伝かでんではごうせいぎょうおや伝蔵でんぞうぎょうごうしん)といい、武田たけだ滅亡めつぼう生母せいぼ井伊いい直政なおまさ知己ちきだったことから井伊いいつかえて4000せきたとされる。『新編しんぺん高崎たかさき 通史つうしへん2』は、ごうおや長野ながの系図けいずにみえないため、ごうせい庶子しょし養子ようしではないかとする[29]一方いっぽう徳川とくがわ長野ながのぎょうせい子孫しそんさがしたとき長野ながの関係かんけい寺院じいん連署れんしょ天保てんぽう9ねん1838ねん)に提出ていしゅつした報告ほうこくによると、みんたまやまげんたから出家しゅっけまえにもうけた次男じなんぎょうげんのことだとされている。[28]

長野ながの一族いちぞく

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長野ながの歴代れきだい系譜けいふ複数ふくすうつたわるが、信頼しんらいせいがあるとされるのは長野ながのおつぎょうからである[2]。しかしおつぎょう以降いこう異同いどうがあるうえどう時代じだい史料しりょうじょうたしかめられる人物じんぶつすくなく、正確せいかく系譜けいふしょうである。

  • 長野ながのおつぎょう - 『箕輪みのわしろ長野ながの』によれば、系譜けいふちゅう存在そんざい比較的ひかくてき信頼しんらいされる最古さいこ人物じんぶつ[2]長野郷ながのごう浜川はまがわ居住きょじゅう。「箕輪みのわじょうこう」にひさしぎょうちちとしてみえる。『箕輪みのわしろ長野ながの』ではぎょうなお大叔父おおおじく、おとうとたかしぎょう系統けいとうつづいたとする。
  • 長野ながのぎょうなおなおぎょう[注釈ちゅうしゃく 11] - 関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ顕定あきさだ執事しつじ系図けいずつたわる。『箕郷みさとまち』ではぎょうなお[20]。『箕輪みのわしろ長野ながの』はかたぎょうとする[30]
  • 長野ながのかたぎょう固山こやまそうけんほうひとし[注釈ちゅうしゃく 12]) - 厩橋うまやばしじょう築城ちくじょうしたともわれる。『群馬ぐんまけん 通史つうしへん3』ではぎょうなおけんぎょうおとうと、かつうまやきょう長野ながのけい[31]。『箕輪みのわしろ長野ながの』はたかしぎょうごうひさしみちやすちち[30]。『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』・『群馬ぐんまけん人名じんめいだい百科ひゃっか』ではけんちゅうのこと。吉川弘文館よしかわこうぶんかん戦国せんごく人名じんめい辞典じてん』「長野ながのかたぎょうこう箕輪みのわ長野ながの家督かとくけんぎょう後継こうけいしゃごうせいあに[32]。「戦国せんごく上野うえの長野ながの動向どうこう」ではけんちゅうおとうとごうせいちち、かつけんぎょう没後ぼつごうまやきょうからはいって箕輪みのわ長野ながのいだとする[9][17]
  • 長野ながのけんぎょう - 箕輪みのわしろおも長野ながのしんぎょうとはどう一人物いちじんぶつ[2]とも別人べつじん[注釈ちゅうしゃく 13]ともされる。
  • 長野ながのぎょう - たかとめ長野ながのたかとめ城主じょうしゅぎょうせいあに
  • 長野ながのぎょうただしぎょうせい) - 「うえしゅうはん」とつたわるもうしょう
  • 長野ながのきちぎょう - ぎょうせい長子ちょうしかわえつ夜戦やせん死去しきょ
  • 長野ながのぎょうぎょうもり) - ぎょうせい後継こうけい箕輪みのわじょう討死うちじに

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 長野ながの使つかったとされる檜扇ひおうぎは4種類しゅるいあるが、戦国せんごく時代じだい使用しようされたのは、きゅうまいひのきばんおうぎでその中央ちゅうおうまるがあり、おうぎ両端りょうたんつづり(と)じてひも(ひも)のぼうたれがあるものである。
  2. ^ なお、近年きんねん黒田くろだ基樹もときはこの事件じけん一連いちれん文書ぶんしょ年代ねんだい比定ひてい問題もんだいがあり、当時とうじ政治せいじ情勢じょうせいからこの事件じけんだいなが4ねん(1524ねん)の事件じけんとしており[8][9][10]、(久保田くぼた 2006a, 「長野ながのかたぎょう項目こうもく)もだいなが4ねんせつ採用さいようする。
  3. ^ 長尾ちょうびあらわけい書状しょじょう」には「ほうひとし」のはない。だいなが7ねん11月17にち長野ながの左衛門さえもん大夫たいふかたとき書状しょじょう[11]からの比定ひていである。なお、後述こうじゅつのように山田やまだ邦明くにあき黒田くろだ基樹もときは11月17にち書状しょじょうは「かたぎょう」とむのがただしい判読はんどくであり、「ほうひとし」は誤読ごどくであるとするせつる。
  4. ^ 前橋まえばし風土記ふどき』には長尾ながおけんちゅうとあるが、『前橋まえばし だい1かん』の考証こうしょうでこれは長野ながのけんちゅうのことだと指摘してきされている[18]
  5. ^ 前橋まえばし風土記ふどき』のみちやす名乗なのりが宮内くない大夫たいふ共通きょうつうすることからの推定すいてい
  6. ^ 箕輪みのわしろ長野ながの』は長野ながの系図けいずひとつ「長昌寺ちょうしょうじ記録きろく」を一部いちぶ採用さいようしたうえでの指摘してき
  7. ^ 群馬ぐんまけん中世ちゅうせいじょうかんあと』(群馬ぐんまけん教育きょういく委員いいんかい事務じむきょく文化財ぶんかざい保護ほごへん1989ねん)では、武蔵むさし松山まつやまじょうめに長野ながの参加さんかしなかったためけんちゅう誅殺ちゅうさつされ長野ながのほろんだとする[25]
  8. ^ 前橋まえばし』はけんちゅうかその推定すいてい、『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』はけんちゅうまごみちけんみちやす)に比定ひていし、『室町むろまち戦国せんごく上野うえの地域ちいき社会しゃかい』は彦七ひこしちろうとともに彦太郎ひこたろうけんちゅう)・大胡おおご伯父おじ後継こうけいしゃたちと推定すいていする[21][19][24]。「戦国せんごく上野うえの長野ながの動向どうこう」は“ふじ”のくさ書体しょたい厩橋うまやばし長野ながのつうもちいられる“彦”のくさ書体しょたい場合ばあいがあることから、ふじ九郎くろう彦九郎ひこくろうあやまりで、さらに黒田くろだ関東かんとうまく注文ちゅうもんえいろく3ねん(1560ねんまつ作成さくせいとする立場たちばから、どう注文ちゅうもん厩橋うまやばししゅ部分ぶぶん彦太郎ひこたろう名前なまえられないことから陣中じんちゅう殺害さつがいされたとされる彦太郎ひこたろう彦九郎ひこくろうあやまり、すなわち「長野ながのけんちゅう曾孫そうそんである厩橋うまやばし長野ながの最後さいご当主とうしゅ彦九郎ひこくろう名前なまえが“ふじ九郎くろう”“彦太郎ひこたろう”という2種類しゅるいあやまった名前なまえ後世こうせいつたわった」とする[9]
  9. ^ 箕郷みさとまち』の系譜けいふではけんぎょうおいで、しんぎょうとされる[20]黒田くろだ基樹もとき戦国せんごく上野うえの長野ながの動向どうこう」ではけんぎょう没後ぼつご箕輪みのわ長野ながの上杉うえすぎあらわけんぼう内乱ないらん関連かんれんした内紛ないふんしょうじた結果けっか厩橋うまやばし長野ながのからかたぎょうにゅう嗣し、ごうせいはそのとする[9]
  10. ^ 群馬ぐんまけん 資料しりょうへん7』No.2728によると、長野ながの三河そうご入道にゅうどう戦死せんししたとある。なお日付ひづけのみで年次ねんじく、『群馬ぐんまけん』による比定ひていである。
  11. ^ 和田わだ山系さんけい」とそれを参考さんこうにした「箕輪みのわじょうこう」のみひさしぎょうの「浜川はまがわ系図けいず」などはごうひさし
  12. ^ 近藤こんどう義雄よしおは『箕輪みのわしろ長野ながの』において、かたぎょうは「はしりん文書ぶんしょ」に延徳えんとく元年がんねん1489ねん死去しきょとあるので、ほうひとしかたぎょうまごぎょうなおけんぎょうおとうと)として別人べつじんせつ主張しゅちょうしている[2]。なお一方いっぽう黒田くろだ基樹もときは「戦国せんごく上野うえの長野ながの動向どうこう」において、「はしりん文書ぶんしょ」にしるされた人物じんぶつについては“かた”と“ため”の草書そうしょにおける誤記ごきであるとするとともにどう文書ぶんしょ記述きじゅつ比定ひてい可能かのう人物じんぶつ長野ながのためぎょうしかいないことやほかにも様々さまざま事実じじつ混同こんどうされた記述きじゅつがあることを指摘してきして、ためぎょうじゅうさん回忌かいきである延徳えんとく元年がんねんはし林寺はやしじ建立こんりゅうされたことをしめすとする[9]
  13. ^ 箕郷みさとまち』の系譜けいふではけんぎょうあにで、おとうとしんじぎょうとする[20]

出典しゅってん

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  1. ^ 近藤こんどう 1985, p. [ようページ番号ばんごう].
  2. ^ a b c d e f g h i j 近藤こんどう 1985.
  3. ^ a b 松陰まつかげ私語しご
  4. ^ 黒田くろだ 2011, p. [ようページ番号ばんごう].
  5. ^ 黒田くろだ 2013, p. [ようページ番号ばんごう], §. 戦国せんごく上野うえの長野ながの動向どうこう.
  6. ^ 群馬ぐんまけん 1986, No.1958「長尾ちょうびあらわけい書状しょじょう」.
  7. ^ だいなが7ねん12月16にち総社そうじゃ長尾ちょうびあらわけいから越後えちご長尾ながお為景ためかげへの書状しょじょう[6]
  8. ^ 黒田くろだ 2009, p. [ようページ番号ばんごう].
  9. ^ a b c d e f g h i 黒田くろだ 2011.
  10. ^ 黒田くろだ 2013.
  11. ^ 群馬ぐんまけん 1986, No.1957「長野ながのかたとき書状しょじょう」.
  12. ^ 平井ひらいほか 1979, p. [ようページ番号ばんごう].
  13. ^ 飯森いいもり 2008, 「長野ながの」.
  14. ^ 箕郷みさとまち編纂へんさん委員いいんかい 1975, p. [ようページ番号ばんごう].
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  21. ^ a b 前橋まえばしへんさん委員いいんかい 1971.
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  30. ^ a b 長昌寺ちょうしょうじ記録きろく」より採用さいよう
  31. ^ 群馬ぐんまけんへんさん委員いいんかい 1989.
  32. ^ 久保田くぼた 2006a, §. 「長野ながのかたぎょう」.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 久保田くぼた順一じゅんいち長野ながの上杉うえすぎ守護しゅご領国りょうごく体制たいせい」『室町むろまち戦国せんごく上野うえの地域ちいき社会しゃかい岩田いわた書院しょいん中世ちゅうせい研究けんきゅう叢書そうしょ 6〉、2006ねん1がつISBN 4872944151 
  • 栗原くりはらおさむ厩橋うまやばし北条ほうじょう存在そんざい形態けいたい」『ぐんま史料しりょう研究けんきゅうだい7ごう群馬ぐんま県立けんりつ文書ぶんしょかん、1996ねん11月、27-43ぺーじNAID 40005041785 
  • 黒田くろだ基樹もとき ちょ足利あしかが長尾ながおかんする基礎きそてき考察こうさつ」、荒川あらかわ善夫よしお; 佐藤さとう博信ひろのぶ; 松本まつもと一夫かずお へん中世ちゅうせい下野げや権力けんりょく社会しゃかい岩田いわた書院しょいん中世ちゅうせい東国とうごくろん 3〉、2009ねん5がつISBN 9784872945614 
  • 黒田くろだ基樹もときちょ)、早稲田大学わせだだいがく教育きょういく学部がくぶ社会しゃかい日本にっぽん攷究かいへん)「戦国せんごく上野うえの長野ながの動向どうこう」『日本にっぽん攷究』だい35ごう早稲田大学わせだだいがく教育きょういく学部がくぶ社会しゃかい日本にっぽん攷究かい、2011ねんISSN 1883325X 
  • 黒田くろだ基樹もとき戦国せんごく山内やまうち上杉うえすぎ研究けんきゅう岩田いわた書院しょいん中世ちゅうせい研究けんきゅう叢書そうしょ 24〉、2013ねん2がつISBN 9784872947861 
  • 群馬ぐんまけん教育きょういく委員いいんかい事務じむきょく文化財ぶんかざい保護ほご へん群馬ぐんまけん中世ちゅうせいじょうかんあと群馬ぐんまけん教育きょういく委員いいんかい、1989ねん3がつNCID BN06891113 
  • 群馬ぐんまけんへんさん委員いいんかいへん群馬ぐんまけん資料しりょうへん7 (中世ちゅうせい 3 編年史へんねんしりょう 2)、群馬ぐんまけん、1986ねん3がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:86039375 
  • 群馬ぐんまけんへんさん委員いいんかいへん群馬ぐんまけん通史つうしへん3、群馬ぐんまけん、1989ねん12月。全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:90017495 
  • 木暮こぐれ英夫ひでお西上にしかみしゅう古文書こもんじょから日本にっぽん歴史れきしかんがえる』ニシ工芸こうげい、2002ねん12月。 NCID BB02482275 
  • 近藤こんどう義雄よしお箕輪みのわしろ長野ながの上毛新聞社じょうもうしんぶんしゃうえ文庫ぶんこ 4〉、1985ねん12月。 NCID BN07669813 
  • 高崎たかさきへんさん委員いいんかいへん新編しんぺん高崎たかさき通史つうしへん 2 (中世ちゅうせい)、高崎たかさき、2000ねん3がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:20100868 
  • 平井ひらいきよしほか編修へんしゅう日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけいだい4かん 茨城いばらき栃木とちぎ群馬ぐんま児玉こだまみゆき坪井つぼいきよしあし監修かんしゅう新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1979ねん11月。全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:80000234 
  • 前橋まえばしへんさん委員いいんかい へん前橋まえばしだい1、前橋まえばし、1971ねんNCID BN01313073 
  • 箕郷みさとまち編纂へんさん委員いいんかい へん箕郷みさとまち箕郷みさとまち教育きょういく委員いいんかい、1975ねん8がつNCID BN12548920 
  • 山田やまだ邦明くにあき戦国せんごくのコミュニケーション : 情報じょうほう通信つうしん吉川弘文館よしかわこうぶんかん歴史れきし文化ぶんかセレクション〉、2011ねん10がつISBN 9784642063760