丸山まるやまじょう (摂津せっつこく能勢のせぐん)

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丸山まるやましろ
大阪おおさか
丸山城の標木
丸山まるやまじょうしるべ
別名べつめい 地黄じおう古城こじょうてん王丸おうまる城山しろやまじょう能勢のせしろ
城郭じょうかく構造こうぞう 平山ひらやましろ
天守てんしゅ構造こうぞう 不明ふめい本丸ほんまるすみ想定そうていされる)
築城ちくじょうぬし 能勢のせよりゆきこく
築城ちくじょうねん ちょうはじめ年間ねんかん
おも改修かいしゅうしゃ 不明ふめい
おも城主じょうしゅ 能勢のせ
はいじょうねん 1602ねん慶長けいちょう7ねん)(地黄じおうじょう築城ちくじょうともなはいじょう
遺構いこう 本丸ほんまるまるおび曲輪くるわ)、さんまる堀切ほっきりなど
指定してい文化財ぶんかざい
再建さいけん造物ぞうぶつ
位置いち 北緯ほくい3457ふん35.146びょう 東経とうけい13527ふん32.278びょう / 北緯ほくい34.95976278 東経とうけい135.45896611 / 34.95976278; 135.45896611
地図ちず
丸山城の位置(大阪府内)
丸山城
丸山まるやましろ
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丸山まるやましろ(まるやまじょう)は、大阪おおさか豊能とよのぐん能勢のせまち地黄じおうにあった日本にっぽんしろ平山ひらやましろ)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

石造せきぞうきゅうじゅうとう/丸山まるやまじょう大手おおてのぼこう付近ふきん

摂津せっつこく能勢のせぐん丸山まるやまじょうは、地黄じおう北西ほくせいした尾根おね先端せんたん標高ひょうこう278m、だかやく40mの丸山まるやまというざん丘上おかうえ位置いちする。

ここは、摂津せっつから丹波たんばこくへとつうじる街道かいどうめんした交通こうつう要衝ようしょう耕作こうさくひろく、ちょうはじめ年間ねんかん1028ねん-1036ねん)にこの入部にゅうぶした豪族ごうぞく能勢のせ本拠地ほんきょちとなった。能勢のせは、近在きんざい産出さんしゅつしたぎんどう流通りゅうつう把握はあくして勢力せいりょく拡大かくだいし、周辺しゅうへん武士ぶしだん惣領そうりょうとして武威ぶいるったという。

丸山まるやまにはすでに平安へいあん時代じだいすえにはしろかんいとなまれたとみられ、大手おおてのぼこう付近ふきんにはおおくの平坦へいたん確認かくにんしている。能勢のせはその平坦へいたん居館きょかんをおいたとかんがえられる。

なお、鎌倉かまくら時代ときよ石造せきぞうきゅう重層じゅうそうとう南北なんぼくあさ時代じだい石造せきぞうたから篋印とう現在げんざいのこっている。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

摂津せっつ源氏げんじみなもとよりゆきこくは、ちょう元年がんねんあいだ、この入部にゅうぶして苗字みょうじとして能勢のせ名乗なのり、丸山まるやましろきずいたとわれている。その中世ちゅうせいつうじて能勢のせ本拠ほんきょとなったが、その詳細しょうさいはよくわかっていない部分ぶぶんおおい。

能勢のせ頼道よりみち丸山まるやましろ[編集へんしゅう]

1578ねん天正てんしょう6ねん)、それまで織田おだ信長のぶなが出仕しゅっししていた有岡ありおかしろ兵庫ひょうごけん伊丹いたみ)の荒木あらき村重むらしげ突然とつぜん信長のぶなが反旗はんきひるがえし、有岡ありおかじょうたたかこった。このとき、丸山まるやまじょうの21だい城主じょうしゅであった能勢のせ頼道よりみちは、高槻たかつきじょう高槻たかつき)の城主じょうしゅ高山たかやま右近うこん茨木いばらぎじょう茨木いばらぎ)の城主じょうしゅ中川なかがわ清秀きよひで同調どうちょうし、荒木あらき村重むらしげしたがった。しかし、その高山たかやま右近うこん中川なかがわ清秀きよひではともに信長のぶながかた説得せっとくおうじて開城かいじょうしている。よく天正てんしょう7ねん1579ねん)4がつ有岡ありおかじょうおさむ城中じょうちゅう織田おだ信忠のぶただ津田つだしんきよしりょう大将たいしょうに、筒井つつい順慶じゅんけい丹羽にわ長秀ながひで蜂屋はちやよりゆきたかしはらたねひろ金森かなもりちょうちか中川なかがわ清秀きよひでら1まん5,000のへい能勢のせぐんしてきた。このとき、能勢のせぐん西郷さいごうしょしろ次々つぎつぎ落城らくじょうし、織田おだ信長のぶなが支配しはいはいっていったが、東郷とうごう丸山まるやまじょうについては不明ふめいである。「能勢のせ頼道よりみちはあくまでもはん信長のぶなが態度たいど維持いじすることができたのか、そのうごきをりうる史料しりょうはない」として、このあいだ能勢のせ頼道よりみちうごきを不明ふめいとされている[1]

1579ねん天正てんしょう7ねん)、だい黒井くろいじょうたたか丹波たんばこく平定へいていした信長のぶながは、中国ちゅうごくのための補給ほきゅうせんじょうにあるとして丸山まるやましろ重要じゅうようし、やま下城げじょう兵庫ひょうごけん川西かわにし)の城主じょうしゅ信長のぶながかた塩川しおかわこくみつるつうじて織田おだ帰属きぞくするようにすすめたが、頼道よりみちはこれにおうじなかった。よく天正てんしょう8ねん1580ねん)9がつ17にちくにまん頼道よりみち山下やましたじょうまねきいれ、殺害さつがいしてしまった。

能勢のせよりゆきちょうよりゆき丸山まるやましろ[編集へんしゅう]

能勢のせよりゆき画像がぞう/せいひろしてら所蔵しょぞう
能勢のせ妙見山みょうけんさん能勢のせよりゆきぞう

能勢のせ頼道よりみちおとうと能勢のせよりゆきは、頼道よりみち謀殺ぼうさつされたとき19さいであったが、塩川しおかわ打倒だとうへいげ、大槌おおつちとうげ戦闘せんとうとなり塩川しおかわこくまんぐんやぶった。しかし、天正てんしょう8ねん9がつ19にち明智あけち光秀みつひでぐんぞくしていた河原かわはらせんしょうたい大軍たいぐんひきいて丸山まるやましろ周辺しゅうへんせまってきた。これに危機ききかんおぼえた能勢のせよりゆきは、よく1581ねん天正てんしょう9ねん丸山まるやましろてて能勢のせ妙見みょうけんどうためらく山城やましろきずき、織田おだ信長のぶながぐんそなえとした。しかしその明智あけち光秀みつひで交渉こうしょうおうじて連携れんけいし、あにである能勢のせよりゆきちょうへい500をつけその幕下まくしたとなった。よく1582ねん天正てんしょう10ねん)、本能寺ほんのうじへんさい明智あけち光秀みつひで味方みかたしたため、羽柴はしば秀吉ひでよしぐんめられふたた丸山まるやまじょう落城らくじょうした。ためらく山城やましろにいた能勢のせよりゆきしろ退去たいきょびることとなった。

能勢のせよりゆきちょうはその三宅みやけ助十郎すけじゅうろう」という変名へんめい名乗なのり、諸国しょこくまわったとつたわっている。桑田くわたぐん長沢ながさわをよせたり、ぐん山城やましろ (大和やまとこく)豊臣とよとみ秀長ひでながつかえたり、備前びぜんこくみょうしょうてら滞留たいりゅうしたとのいいつたえがのこるが、『能勢のせまち』では「諸説しょせつさまざまあるが、いずれにしてもたしかな証拠しょうこはない」としている。また、天正てんしょう14ねん1586ねん)10がつ九州きゅうしゅう征伐せいばつ出向でむいていた能勢のせよりゆき留守るすときに、積年せきねんあらそいを解決かいけつすべく塩川しおかわこくまん丸山まるやましろ田尻たじりしろ落城らくじょうさせたが、これに激怒げきどした豊臣とよとみ秀吉ひでよしは、片桐かたぎり且元池田いけだ輝政てるまさ堀尾ほりお吉晴よしはるらの討伐とうばつぐんして山下やましたじょうせまり、塩川しおかわこくまん戦闘せんとうとなるまえ切腹せっぷくして死亡しぼうした[2]

なお、『川西かわにし』ではよりゆきちょう諸国しょこく放浪ほうろうせつとはべつせつ紹介しょうかいしており、このころのよりゆきちょうくわしい行動こうどうについては不明ふめいてんおおい。

能勢のせ再興さいこう丸山まるやまはいじょう[編集へんしゅう]

慶長けいちょう4ねん1599ねん正月しょうがつ能勢のせよりゆき京都きょうと東寺とうじ滞在たいざいしていた徳川とくがわ家康いえやす拝謁はいえつし、小姓こしょうとしてかかえられた。1600ねん慶長けいちょう5ねん)の関ヶ原せきがはらたたかひがしぐん旗本はたもととして奮戦ふんせんしたために、徳川とくがわ家康いえやすより能勢のせ旧領きゅうりょうあたえられ、能勢のせ再興さいこうしたが1602ねん慶長けいちょう7ねん)に地黄じおう陣屋じんやきずいたため、丸山まるやまじょうはいじょうとなった。

城郭じょうかく[編集へんしゅう]

丸山まるやましろ推定すいてい/国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

城跡じょうせきは、南北なんぼく155m、東西とうざい30mの規模きぼゆうし、南北なんぼくいちれつ曲輪くるわならんでいる。

本丸ほんまる部分ぶぶんは、南北なんぼく41m、東西とうざい22mで南北なんぼくにややながく、北東ほくとうすみしている。

日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』によれば、本丸ほんまる北東ほくとうすみは「一段いちだんたかく、すみ存在そんざい想定そうていされ、北西ほくせいしている」としており、1箇所かしょもしくは2箇所かしょすみのような建造けんぞうぶつがあった可能かのうせい示唆しさしている。本丸ほんまる周囲しゅういにははば3mないし4mの「まる」とばれるおびきょくがあり、本丸ほんまるとのだかやく4mである。また、本丸ほんまるからみて北側きたがわには南北なんぼく27m、東西とうざい12.6mの「さんまる曲輪くるわがある。「さんまるきた一段いちだんちて空堀からぼりがあり、そのきただん曲輪くるわもうけられ、さらに、そのきたにはふか堀切ほりきりきずいて、尾根伝おねづたいにめようとするてき侵入しんにゅうふせいだ。

ギャラリー[編集へんしゅう]

城跡じょうせきへのアクセス[編集へんしゅう]

丸山まるやまじょうがある丸山まるやま
せいひろしてら境内けいだいにある能勢のせ墓地ぼち

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 能勢のせまち
  2. ^ 川西かわにし

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]