全日空 ぜんにっくう 機 き 雫石 しずくいし 衝突 しょうとつ 事故 じこ (ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)は、1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )7月 がつ 30日 にち (金曜日 きんようび )に日本 にっぽん で発生 はっせい した航空 こうくう 事故 じこ である。
岩手 いわて 県 けん 岩手 いわて 郡 ぐん 雫石 しずくいし 町 まち 上空 じょうくう を飛行 ひこう 中 ちゅう の全日本空輸 ぜんにほんくうゆ (全日空 ぜんにっくう )の旅客機 りょかくき と航空 こうくう 自衛隊 じえいたい の戦闘 せんとう 機 き が空中 くうちゅう 衝突 しょうとつ し、双方 そうほう とも墜落 ついらく した。自衛隊 じえいたい 機 き の乗員 じょういん は脱出 だっしゅつ に成功 せいこう したが、機体 きたい に損傷 そんしょう を受 う けた旅客機 りょかくき は空中 くうちゅう 分解 ぶんかい し、乗客 じょうきゃく 155名 めい と乗員 じょういん 7名 めい の計 けい 162名 めい 全員 ぜんいん が死亡 しぼう した。当時 とうじ 日本 にっぽん 国内 こくない の航空 こうくう 事故 じこ としては最大 さいだい の犠牲 ぎせい 者 しゃ 数 すう を出 だ した事故 じこ であり、ANAの三 さん 大 だい 事故 じこ [ 注釈 ちゅうしゃく 2] に数 かぞ えられる。
58便 びん に使用 しよう されたボーイング727 -281(機体 きたい 記号 きごう :JA8329、製造 せいぞう 番号 ばんごう :20436)は1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )3月2日 にち に製造 せいぞう された。総 そう 飛行 ひこう 時間 じかん は865時 じ 間 あいだ 56分 ふん であった。
機長 きちょう は41歳 さい 男性 だんせい で、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい を経 へ て1961年 ねん (昭和 しょうわ 36年 ねん )9月16日 にち に全日空 ぜんにっくう に入社 にゅうしゃ した。総 そう 飛行 ひこう 時間 じかん は8,033時 じ 間 あいだ 44分 ふん で、そのうち242時 じ 間 あいだ 5分 ふん がB727の飛行 ひこう である。ダグラスDC-3、コンベアCV-440、フォッカーF-27、ボーイング727の運行 うんこう 資格 しかく を保有 ほゆう していた。
副 ふく 操縦 そうじゅう 士 し は27歳 さい の男性 だんせい で、1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )10月 がつ 11日 にち に全日空 ぜんにっくう に入社 にゅうしゃ した。総 そう 飛行 ひこう 時間 じかん は2,237時 じ 間 あいだ 55分 ふん で、そのうち624時 じ 間 あいだ 50分 ふん がボーイング727での飛行 ひこう である。YS-11およびボーイング727の運行 うんこう 資格 しかく を保有 ほゆう していた。
航空 こうくう 機関 きかん 士 し は30歳 さい のアメリカ人 じん 男性 だんせい で、1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )2月 がつ 19日 にち に全日空 ぜんにっくう に入社 にゅうしゃ した。総 そう 飛行 ひこう 時間 じかん は2,489時 じ 間 あいだ 30分 ふん であった。
3人 にん のコックピットクルーは、50便 びん 、57便 びん に続 つづ く当日 とうじつ 3回 かい 目 め のフライトだった。
4名 めい の女性 じょせい 客室 きゃくしつ 乗務 じょうむ 員 いん が乗務 じょうむ していた。
1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )7月 がつ 30日 にち 、千歳空港 ちとせくうこう 0時 じ 45分 ふん 発 はつ 羽田 はた 行 くだり の全日空 ぜんにっくう 58便 びん [ 4] は、折 お り返 かえ し当 とう 便 びん となる全日空 ぜんにっくう 57便 びん の到着 とうちゃく が既 すで に45分 ふん 遅 おく れていたため13時 じ 25分 ふん に定時 ていじ より45分 ふん 遅 おく れて地上 ちじょう 滑走 かっそう を開始 かいし し、13時 じ 33分 ふん に離陸 りりく した。
乗客 じょうきゃく のうち122名 めい は団体 だんたい 旅行 りょこう 客 きゃく で静岡 しずおか 県 けん 富士 ふじ 市 し の吉原 よしはら 遺族 いぞく 会 かい の北海道 ほっかいどう 旅行 りょこう 団 だん 一 いち 行 ぎょう であった。また3人 にん は旅行 りょこう 会社 かいしゃ の添乗 てんじょう 員 いん であった[ 4] 。58便 びん は函館 はこだて NDB にジェットルートJ10Lで向 む かい、13時 じ 46分 ふん に通過 つうか した。この時 とき の飛行 ひこう 高度 こうど は22,000フィート (6,700 m)であった。ここで高度 こうど を上昇 じょうしょう しながら松島 まつしま NDBに向 む けて変針 へんしん し、札幌 さっぽろ 航空 こうくう 交通 こうつう 管制 かんせい 部 ぶ 管制 かんせい 所 しょ に「松島 まつしま NDB通過 つうか は14時 じ 11分 ぶん の予定 よてい 」と通報 つうほう した。ここから巡航 じゅんこう 高度 こうど を28,000フィート (8,500 m) に上昇 じょうしょう し自動 じどう 操縦 そうじゅう で飛行 ひこう していた。
一方 いっぽう 、航空 こうくう 自衛隊 じえいたい 第 だい 1航空 こうくう 団 だん 松島 まつしま 派遣 はけん 隊 たい 所属 しょぞく のF-86F 戦闘 せんとう 機 き 2機 き (訓練 くんれん 機 き :機体 きたい 登録 とうろく 番号 ばんごう 92-7932、教官 きょうかん 機 き :同 どう 02-7983)は、編隊 へんたい 飛行 ひこう 訓練 くんれん のため有 ゆう 視界 しかい 飛行 ひこう 方式 ほうしき による飛行 ひこう 計画 けいかく で航空 こうくう 自衛隊 じえいたい 松島 まつしま 基地 きち (松島 まつしま 飛行場 ひこうじょう )を13時 じ 28分 ふん 頃 ごろ に離陸 りりく した。教官 きょうかん (1等 とう 空 そら 尉 じょう 、当時 とうじ 31歳 さい )は訓練 くんれん 生 せい (2等 とう 空 そら 曹 、当時 とうじ 22歳 さい )に対 たい し、離陸 りりく 前 まえ に、訓練 くんれん 空域 くういき は盛岡 もりおか であること、基本 きほん 隊形 たいけい (ノーマル・フォーメーション)、疎開 そかい 隊形 たいけい (スプレッド・フォーメーション)、機動 きどう 隊形 たいけい (フルイド・フォア・フォーメーション)および単 たん 縦陣 じゅうじん 隊形 たいけい (トレール・フォーメーション)の訓練 くんれん を行 おこな ったのち松島 まつしま 飛行場 ひこうじょう へ帰投 きとう し、自動 じどう 方向 ほうこう 探知 たんち 機 き (ADF) による進入 しんにゅう 訓練 くんれん を行 おこな う予定 よてい であること、編隊 へんたい の無線 むせん 電話 でんわ の呼 よ び出 だ し符号 ふごう はライラック・チャーリーであること、および訓練 くんれん 時間 じかん は1時 じ 間 あいだ 10分 ふん であることなどを指示 しじ したが、経路 けいろ と高度 こうど については説明 せつめい をしなかった。
訓練 くんれん 空域 くういき は、横手 よこて 訓練 くんれん 空域 くういき の北部 ほくぶ をその一部 いちぶ に含 ふく む臨時 りんじ の空域 くういき (秋田 あきた 県 けん 横手 よこて 市 し 付近 ふきん )であり、松島 まつしま 派遣 はけん 隊 たい は、ジェット・ルートJ11Lの中心 ちゅうしん 線 せん の両側 りょうがわ 9km、25,000フィート (7,600 m)から31,000フィート (9,400 m)の間 あいだ を飛行 ひこう 制限 せいげん 空域 くういき とし、やむを得 え ない場合 ばあい を除 のぞ き訓練 くんれん 飛行 ひこう を禁止 きんし していた。
事故 じこ までの全日空 ぜんにっくう 機 き と自衛隊 じえいたい 機 き の飛行 ひこう 経路 けいろ
岩手 いわて 県 けん 岩手 いわて 郡 ぐん 雫石 しずくいし 町 まち 付近 ふきん 上空 じょうくう で14時 じ 2分 ふん 39秒 びょう 頃 ごろ 、東京 とうきょう 方向 ほうこう へ190度 ど の磁針 じしん 度 ど を取 と って飛行 ひこう していた全日空 ぜんにっくう 58便 びん と、岩手山 いわてさん 付近 ふきん 上空 じょうくう を編隊 へんたい 飛行 ひこう 訓練 くんれん していた2機 き の自衛隊 じえいたい 機 き のうち1機 き が、高度 こうど 約 やく 28,000フィート (8,500 m) で空中 くうちゅう 衝突 しょうとつ した。教官 きょうかん および訓練 くんれん 生 せい 、約 やく 30分 ふん 後 ご に現場 げんば を通過 つうか した航空機 こうくうき の操縦 そうじゅう 士 し の報告 ほうこく によれば、事故 じこ 当時 とうじ 、雫石 しずくいし 町 まち 上空 じょうくう は視界 しかい は良好 りょうこう で下層 かそう 雲 くも が少 すこ しある程度 ていど であった。事故 じこ を撮影 さつえい した写真 しゃしん からもそれは確認 かくにん できる。
衝突 しょうとつ の3分 ふん 前 まえ 、全日空 ぜんにっくう 機 き は高度 こうど 28,000フィート (8,500 m)、真 ま 対 たい 気 き 速度 そくど (TAS) 487ノット (902 km/h)、機首 きしゅ 方位 ほうい 189から190度 ど で接触 せっしょく 時 じ まで水平 すいへい 定常 ていじょう 飛行 ひこう を行 おこな っていた。
同 おな じ頃 ごろ 、教官 きょうかん 機 き は高度 こうど 約 やく 25,500フィート (7,800 m) 真 ま 対 たい 気 き 速度 そくど 約 やく 445ノット (824 km/h) で右 みぎ 旋回 せんかい を約 やく 180度 ど 行 おこな った後 のち 、約 やく 15秒 びょう 直進 ちょくしん して左 ひだり 旋回 せんかい に移 うつ った。左 ひだり 旋回 せんかい 中 ちゅう に機 き の後 うし ろ側 がわ 、時計 とけい で6時半 じはん から7時 じ の方向 ほうこう に、訓練 くんれん 機 き とそのすぐ後 ご 下方 かほう に接近 せっきん している全日空 ぜんにっくう 機 き を認 みと め、直 ただ ちに訓練 くんれん 生 せい に対 たい し接触 せっしょく を回避 かいひ するよう指示 しじ し、自 みずか らは訓練 くんれん 機 き を誘導 ゆうどう する意図 いと で右 みぎ に旋回 せんかい し、続 つづ いて左 ひだり に反転 はんてん し、全日空 ぜんにっくう 機 き の下 した をくぐり抜 ぬ けた。
同 おな じ頃 ごろ 、訓練 くんれん 機 き は教官 きょうかん 機 き の右側 みぎがわ 後方 こうほう 約 やく 25度 ど の線上 せんじょう 約 やく 5,500フィート (1,700 m) の距離 きょり の地点 ちてん の上側 うわがわ 約 やく 3,000フィート (910 m) を飛行 ひこう し、教官 きょうかん 機 き の右 みぎ 旋回 せんかい と同時 どうじ に飛行 ひこう 要領 ようりょう に基 もと づいて高度 こうど を上 あ げ下 さ げして教官 きょうかん 機 き の後 のち を追 お った。次 つ いで教官 きょうかん 機 き が左 ひだり 旋回 せんかい すると、訓練 くんれん 機 き が追従 ついしょう しようと旋回 せんかい 中 ちゅう に、教官 きょうかん からの異常 いじょう 事態 じたい の通信 つうしん が入 はい り、その直後 ちょくご 自 じ 機 き の右側 みぎがわ 、時計 とけい の4時 じ から5時 じ (120度 ど -150度 ど )の方向 ほうこう 至近 しきん 距離 きょり に大 おお きな物体 ぶったい を認 みと め、直 ただ ちに回避 かいひ 操作 そうさ を行 おこな ったが追突 ついとつ された。
訓練 くんれん 機 き は左 ひだり 60度 ど バンク機動 きどう による回避 かいひ を実施 じっし したが、衝突 しょうとつ の約 やく 2秒 びょう 前 まえ (距離 きょり 約 やく 500m)からでは既 すで に手遅 ておく れであった。その上 うえ 訓練 くんれん 機 き は全日空 ぜんにっくう 機 き の進行 しんこう 方向 ほうこう に旋回 せんかい する形 かたち となってしまったため、結果 けっか として全日空 ぜんにっくう 機 き に追 お いつかれることとなった。両 りょう 機体 きたい の破損 はそん 状 じょう 況 きょう から、全日空 ぜんにっくう 機 き は機体 きたい の最 もっと も上 うえ の部分 ぶぶん にあるT字 じ 尾翼 びよく の水平 すいへい 尾翼 びよく 安定 あんてい 板 ばん 左 ひだり 先端 せんたん 付近 ふきん 前 ぜん 縁 えん を訓練 くんれん 機 き の右 みぎ 主翼 しゅよく 付 つ け根 ね 付近 ふきん に引 ひ っかけるような形 かたち で追突 ついとつ した。
全日空 ぜんにっくう 機 き にはコックピット・ボイス・レコーダー は装備 そうび されていなかったが、同機 どうき と千歳 ちとせ 飛行場 ひこうじょう 管制 かんせい 所 しょ 、千歳 ちとせ ターミナル管制 かんせい 所 しょ および札幌 さっぽろ 管制 かんせい 区 く 管制 かんせい 所 しょ との交信 こうしん は通常 つうじょう 通 どお りに行 おこな われていた。全日空 ぜんにっくう 機 き が事故 じこ 当時 とうじ に135.9MHz で発信 はっしん した音声 おんせい が付近 ふきん を飛行 ひこう 中 ちゅう の航空機 こうくうき によっても傍受 ぼうじゅ されており、これらの音声 おんせい の分析 ぶんせき により、コックピット内 ない の状況 じょうきょう が分析 ぶんせき された。これによれば、操縦 そうじゅう 輪 わ に備 そな わっている全日空 ぜんにっくう 機 き 機長 きちょう のブームマイクの送信 そうしん ボタンが、衝突 しょうとつ 7秒 びょう 前 まえ から0.3秒間 びょうかん 、衝突 しょうとつ 2.5秒 びょう 前 まえ から約 やく 8秒間 びょうかん にわたり空押 からお し(キーイング)されていることが分 わ かった。送信 そうしん ボタンを空押 からお しすると送信 そうしん される搬送波 はんそうは が他 た の交信 こうしん を妨害 ぼうがい するため、操縦 そうじゅう 士 し が意識 いしき 的 てき に空押 からお しをすることは通常 つうじょう はない。これら送信 そうしん ボタンの空押 からお しを操縦 そうじゅう 輪 わ の握 にぎ り直 なお しと捉 とら えると機長 きちょう の動作 どうさ は次 つぎ のように想定 そうてい される。
衝突 しょうとつ 7秒 びょう 前 まえ (14:02:32.1 - 14:02:32.4):自 じ 機 き の間近 まぢか に訓練 くんれん 機 き を視認 しにん 、あるいはそれ以前 いぜん より視認 しにん していた訓練 くんれん 機 き が、予期 よき に反 はん し急 きゅう 接近 せっきん してきたため、操縦 そうじゅう 輪 わ を強 つよ く握 にぎ る。
衝突 しょうとつ 2.5秒 びょう 前 まえ (14:02:36.5 - 14:02:44.8):訓練 くんれん 機 き が斜 なな め前方 ぜんぽう に接近 せっきん してきたため緊張 きんちょう 状態 じょうたい となり、再度 さいど 操縦 そうじゅう 輪 わ を強 つよ く握 にぎ る。衝突 しょうとつ 後 ご は機体 きたい の立 た て直 なお しを行 おこな う。
衝突 しょうとつ 9秒 びょう 後 ご (14:02:47.8 - 14:02:53.6):機長 きちょう は自 じ 機 き が操縦 そうじゅう 不可能 ふかのう となった事 こと を把握 はあく し、緊急 きんきゅう 通信 つうしん を発 はっ する。「エマージェンシー 、エマージェンシー」という音声 おんせい が記録 きろく されているが、後半 こうはん は絶叫 ぜっきょう と受 う け取 と れる解読 かいどく 不能 ふのう の音声 おんせい で終 お わる。ほぼ同時 どうじ に教官 きょうかん 機 き からも243.0MHzで「エマージェンシー、エマージェンシー、エマージェンシー」という緊急 きんきゅう 通信 つうしん が発信 はっしん された。
衝突 しょうとつ 後 ご 、双方 そうほう の機体 きたい はともに操縦 そうじゅう 不能 ふのう になった。全日空 ぜんにっくう 58便 びん はしばらく降下 こうか しながら飛行 ひこう していたが、水平 すいへい 安定 あんてい 板 ばん と昇降 しょうこう 舵 かじ の機能 きのう を喪失 そうしつ していたため、降下 こうか 姿勢 しせい から回復 かいふく できずに増 ぞう 速 はや し、やがて音速 おんそく を超 こ え約 やく 15,000フィート (4,600 m) 付近 ふきん で空中 くうちゅう 分解 ぶんかい して墜落 ついらく 。搭乗 とうじょう していた乗員 じょういん 乗客 じょうきゃく 162名 めい 全員 ぜんいん が死亡 しぼう した。全日空 ぜんにっくう 機 き が音速 おんそく を超 こ えた際 さい のものと思 おも われるソニックブーム による「ドーン」という衝撃 しょうげき 音 おん と閃光 せんこう が約 やく 15km離 はな れた盛岡 もりおか 市内 しない など、墜落 ついらく 地 ち から離 はな れた場所 ばしょ でも確認 かくにん されている。
衝突 しょうとつ 直後 ちょくご には大 おお きな白 しろ い雲 くも 状 じょう の物 もの が発生 はっせい したのを多 おお くの者 もの が目撃 もくげき しており、金曜日 きんようび の晴天 せいてん で白昼 はくちゅう に起 お こった事故 じこ であったが、全日空 ぜんにっくう 機 き が墜落 ついらく して行 い く姿 すがた を写真 しゃしん 撮影 さつえい した者 もの も複数 ふくすう いた。事故 じこ 発生 はっせい 後 ご の写真 しゃしん に関 かん しては、毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 発行 はっこう の『サンデ さんで ー毎日 まいにち 』1971年 ねん 8月 がつ 15日 にち 発行 はっこう の緊急 きんきゅう 特別 とくべつ 号 ごう の表紙 ひょうし に「全日空 ぜんにっくう 機 き 散 ち る」との見出 みだ しとともに、自衛隊 じえいたい 機 き ・全日空 ぜんにっくう 機 き と接触 せっしょく して空中 くうちゅう 分解 ぶんかい した後 のち の全日空 ぜんにっくう 機 き が、白 しろ いジェット燃料 ねんりょう の白 しろ 煙 けむり を曳 ひ きながら墜落 ついらく していく様子 ようす を捉 とら えた写真 しゃしん が掲載 けいさい されている。
偶然 ぐうぜん 近 ちか くの青森 あおもり 県 けん 上空 じょうくう を飛行 ひこう していた東亜 とうあ 国内 こくない 航空 こうくう 114便 びん パイロット や、花巻 はなまき 上空 じょうくう を飛行 ひこう していた全日空 ぜんにっくう 61便 びん のパイロットが、状況 じょうきょう を把握 はあく できず混乱 こんらん に陥 おちい った58便 びん からの通信 つうしん を傍受 ぼうじゅ していたが、それもすぐに途絶 とだ えてしまった[ 4] 。操縦 そうじゅう 士 し らは地面 じめん に激突 げきとつ して大破 たいは した機首 きしゅ の中 なか で発見 はっけん された。
また機体 きたい が空中 くうちゅう 分解 ぶんかい したため、事件 じけん 現場 げんば の近傍 きんぼう で働 はたら いていたり通行 つうこう していたりした目撃 もくげき 者 しゃ は「黒 くろ い豆 まめ のようなものが落 お ちてきた」と証言 しょうげん している[ 13] 。乗員 じょういん 、乗客 じょうきゃく 達 たち は安 やす 庭 にわ 小学校 しょうがっこう のある西安庭 にしあにわ 地区 ちく を中心 ちゅうしん とした雫石 しずくいし 町内 ちょうない の各地 かくち に全日空 ぜんにっくう 機 き の残骸 ざんがい とともに落下 らっか し、極 きわ めて凄惨 せいさん な状況 じょうきょう で発見 はっけん された。また、全日空 ぜんにっくう 機 き の車輪 しゃりん の残骸 ざんがい が民家 みんか の屋根 やね に落下 らっか ・貫通 かんつう し、81歳 さい の住民 じゅうみん の女性 じょせい が負傷 ふしょう した[ 4] 。
墜落 ついらく の衝撃 しょうげき による火災 かさい はなかったため、比較的 ひかくてき 早 はや く犠牲 ぎせい 者 しゃ の身元 みもと が判明 はんめい したが、遺体 いたい は高速 こうそく で地上 ちじょう に叩 たた き付 つ けられたため、極 きわ めて凄惨 せいさん な状況 じょうきょう を呈 てい していた[ 4] 。また遺体 いたい を検死 けんし していた岩手 いわて 県 けん 警察 けいさつ が、犠牲 ぎせい 者 しゃ のうち1名 めい を取 と り違 ちが えるミスをしたため、身元 みもと 確認 かくにん の精度 せいど について疑問 ぎもん が持 も たれることとなった。
一方 いっぽう の訓練 くんれん 機 き は、接触 せっしょく の後 のち 、錐揉 きりも み状態 じょうたい に陥 おちい った。訓練 くんれん 生 せい は射出 しゃしゅつ 座席 ざせき 装置 そうち のレバーを引 ひ こうとしたが、機体 きたい の回転 かいてん による遠心 えんしん 力 りょく のため手 て をレバーへ動 うご かすことができず、射出 しゃしゅつ できなかった。しかし、キャノピー(風防 ふうぼう ) が離脱 りだつ していることに気 き づいたため、安全 あんぜん ベルトを外 はず して機体 きたい から自力 じりき で脱出 だっしゅつ 、パラシュート で雫石 しずくいし 駅 えき 東南 とうなん 約 やく 300mの水田 すいでん に降下 こうか して生還 せいかん した。無人 むじん となった訓練 くんれん 機 き も空中 くうちゅう 分解 ぶんかい し、田 た んぼに墜落 ついらく した[ 4] 。
また教官 きょうかん 機 き は、松島 まつしま 飛行場 ひこうじょう 管制 かんせい 所 しょ に訓練 くんれん 機 き が旅客機 りょかくき と接触 せっしょく したことを通報 つうほう し、その後 ご 、現場 げんば 上空 じょうくう を旋回 せんかい して救援 きゅうえん 機 き や管制 かんせい 所 しょ に位置 いち や状況 じょうきょう などを通報 つうほう し続 つづ けていたが、帰投 きとう 命令 めいれい を受 う けて14時 じ 59分 ふん に松島 まつしま 飛行場 ひこうじょう へ着陸 ちゃくりく した。
全日空 ぜんにっくう 機 き と自衛隊 じえいたい 機 き の残骸 ざんがい のほとんどは、東西 とうざい 約 やく 6km、南北 なんぼく 約 やく 6kmの範囲 はんい に落下 らっか していた。全日空 ぜんにっくう 機 き の残骸 ざんがい は、左 ひだり 水平 すいへい 尾翼 びよく と垂直 すいちょく 尾翼 びよく の一部 いちぶ を除 のぞ いて、雫石 しずくいし 駅 えき の東 ひがし 2kmから3.5km、南 みなみ 3.5kmから5kmの範囲 はんい に落下 らっか した。訓練 くんれん 機 き の残骸 ざんがい は、右 みぎ 主翼 しゅよく 以外 いがい は雫石 しずくいし 駅 えき の西 にし 約 やく 1kmの地点 ちてん に、翼 つばさ 付根 つけね から先 さき の右 みぎ 主翼 しゅよく は雫石 しずくいし 駅 えき の東 ひがし 1.3kmの地点 ちてん に落下 らっか した。
当時 とうじ はまだ常設 じょうせつ の航空 こうくう 事故 じこ 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい が設置 せっち されておらず、事故 じこ 調査 ちょうさ のため「全日空 ぜんにっくう 機 き 接触 せっしょく 事故 じこ 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい 」が総理府 そうりふ に設置 せっち された。この全日空 ぜんにっくう 機 き 接触 せっしょく 事故 じこ 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい が1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )7月 がつ 27日 にち に運輸 うんゆ 大臣 だいじん に提出 ていしゅつ した事故 じこ 報告 ほうこく 書 しょ では、事故 じこ の原因 げんいん は次 つぎ のように発表 はっぴょう された。
第 だい 1の原因 げんいん は、教官 きょうかん が訓練 くんれん 空域 くういき を逸脱 いつだつ してジェットルートJ11Lの中 なか に入 はい ったことに気 き づかず訓練 くんれん 飛行 ひこう を続行 ぞっこう したこと。
第 だい 2の原因 げんいん は、
全日空 ぜんにっくう 操縦 そうじゅう 者 しゃ にあっては、訓練 くんれん 機 き を少 すく なくとも接触 せっしょく 約 やく 7秒 びょう 前 まえ から視認 しにん していたと推定 すいてい されるが、接触 せっしょく 直前 ちょくぜん まで回避 かいひ 操作 そうさ が行 おこな われなかったこと。これは、全日空 ぜんにっくう 操縦 そうじゅう 者 しゃ が接触 せっしょく を予測 よそく していなかったためと考 かんが えられる。
教官 きょうかん にあっては、訓練 くんれん 生 せい が全日空 ぜんにっくう 機 き を視認 しにん する直前 ちょくぜん に訓練 くんれん 生 せい に対 たい し行 い った接触 せっしょく 回避 かいひ の指示 しじ が遅 おそ く、訓練 くんれん 生 せい の回避 かいひ に間 ま に合 あ わなかったこと。これは、教官 きょうかん が全日空 ぜんにっくう 機 き を視認 しにん することが遅 おく れたためと考 かんが えられる。
訓練 くんれん 生 せい にあっては、接触 せっしょく 約 やく 2秒 びょう 前 まえ に、事故 じこ 機 き の右側 みぎがわ やや下方 かほう に全日空 ぜんにっくう 機 き を視認 しにん し、直 ただ ちに回避 かいひ 操作 そうさ を行 おこな ったが接触 せっしょく の回避 かいひ に間 ま に合 あ わなかったこと。これは、訓練 くんれん 生 せい が機動 きどう 隊形 たいけい の訓練 くんれん の経験 けいけん が浅 あさ く、主 しゅ として教官 きょうかん 機 き との関係 かんけい 位置 いち を維持 いじ することに専念 せんねん していて、全日空 ぜんにっくう 機 き を視認 しにん するのが遅 おく れたためと考 かんが えられる。
また、事故 じこ 報告 ほうこく 書 しょ は、事故 じこ の背景 はいけい として、航空 こうくう 交通 こうつう の急速 きゅうそく な発展 はってん に伴 ともな い種々 しゅじゅ の問題 もんだい が発生 はっせい していると指摘 してき した。早急 そうきゅう に法 ほう 制度 せいど の整備 せいび と完全 かんぜん な実施 じっし を行 おこな うべしとしたのは次 つぎ の5点 てん である。
航空機 こうくうき の姿勢 しせい を頻繁 ひんぱん に変更 へんこう する特殊 とくしゅ な飛行 ひこう は、原則 げんそく として航空 こうくう 交通 こうつう 管制 かんせい 区 く または航空 こうくう 交通 こうつう 管制 かんせい 圏 けん では行 おこな えないよう法的 ほうてき に明確 めいかく 化 か すること。また、飛行 ひこう 訓練 くんれん を行 おこな う際 さい は訓練 くんれん 空域 くういき からの逸脱 いつだつ を防 ふせ ぐため、訓練 くんれん 機 き の性質 せいしつ 、訓練 くんれん の形態 けいたい および規模 きぼ 等 とう に応 おう じ必要 ひつよう な方策 ほうさく が講 こう じられるよう措置 そち すること。
航空機 こうくうき の操縦 そうじゅう 者 しゃ は、航空 こうくう 交通 こうつう 管制 かんせい に従 したが っていてもいなくても、飛行 ひこう 中 ちゅう は他 た の航空機 こうくうき と衝突 しょうとつ しないように見張 みは りをしなければならないよう法的 ほうてき に明確 めいかく 化 か すること。
航空 こうくう 路 ろ 、ジェット・ルートに対 たい するポジティブ・コントロールの徹底 てってい を図 はか るとともに、事故 じこ を防止 ぼうし する装置 そうち を開発 かいはつ 、装備 そうび すること。
航空 こうくう 保安 ほあん 業務 ぎょうむ に関 かん して、運輸 うんゆ 、防衛 ぼうえい 両 りょう 省庁 しょうちょう はなおいっそうの協調 きょうちょう を図 はか ること。
さらに、独立 どくりつ した事故 じこ 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい を常設 じょうせつ すべきこと。
当時 とうじ の国 くに による航空 こうくう 管制 かんせい はレシプロエンジン 機 き が飛行 ひこう していた時代 じだい と基本 きほん 的 てき に変 か わっておらず、東北 とうほく 地方 ちほう を覆 くつがえ 域 いき する航空 こうくう 路 ろ 監視 かんし レーダー は設置 せっち されておらず、航空 こうくう 路 ろ 管制 かんせい は操縦 そうじゅう 士 し からの位置 いち 通報 つうほう を元 もと に地図 ちず 盤上 ばんじょう で識別 しきべつ して指示 しじ および許可 きょか を与 あた えるというノンレーダー管制 かんせい が主流 しゅりゅう であった。その上 うえ ジェットルートも1950年代 ねんだい にジェット機 じぇっとき に比 くら べ運航 うんこう 速度 そくど が低 ひく いレシプロ機 き 旅客機 りょかくき を運航 うんこう する前提 ぜんてい で制定 せいてい されてから変更 へんこう されておらず、ジェット、プロペラが混在 こんざい し大変 たいへん 危険 きけん な状態 じょうたい であり、また訓練 くんれん 空域 くういき を横断 おうだん する航空 こうくう 路 ろ が設定 せってい されていた。
また第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち になって旅客機 りょかくき と戦闘 せんとう 機 き が空中 くうちゅう 衝突 しょうとつ する事故 じこ がアメリカ では1950年代 ねんだい から1960年代 ねんだい にかけて続発 ぞくはつ していたが、日本 にっぽん においても1965年 ねん 頃 ごろ からニアミス が続発 ぞくはつ していた。
いずれにせよ、事故 じこ 調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ の勧告 かんこく のとおり航空 こうくう 行政 ぎょうせい 立 た ち遅 おく れが事故 じこ の発端 ほったん であり、現在 げんざい の様 よう に自衛隊 じえいたい レーダーサイト による訓練 くんれん 支援 しえん 、航空 こうくう 路 ろ 監視 かんし レーダーによる航空 こうくう 路 ろ 管制 かんせい 、訓練 くんれん 空域 くういき と航空 こうくう 路 ろ 等 とう の明確 めいかく な分離 ぶんり 、航空局 こうくうきょく と航空 こうくう 自衛隊 じえいたい 間 あいだ の演習 えんしゅう 訓練 くんれん 空域 くういき 使用 しよう に関 かん する連絡 れんらく 調整 ちょうせい システムが確立 かくりつ されていれば起 お こり得 え なかった事故 じこ であった。この事故 じこ 以降 いこう 、同種 どうしゅ の事故 じこ は現在 げんざい まで発生 はっせい していない。
航空 こうくう 路 ろ と訓練 くんれん 域 いき の完全 かんぜん 分離 ぶんり [ 編集 へんしゅう ]
事故 じこ 直後 ちょくご の1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )8月 がつ 7日 にち 、政府 せいふ の中央 ちゅうおう 交通 こうつう 安全 あんぜん 対策 たいさく 会議 かいぎ は、(1)自衛隊 じえいたい 訓練 くんれん 空域 くういき と航空 こうくう 路 ろ を完全 かんぜん 分離 ぶんり すること、(2)訓練 くんれん 空域 くういき は防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん と運輸 うんゆ 大臣 だいじん が協議 きょうぎ して公示 こうじ すること、(3)その域内 いきない を飛行 ひこう するすべての航空機 こうくうき に管制 かんせい を受 う けることを義務付 ぎむづ ける特別 とくべつ 管制 かんせい 空域 くういき を拡充 かくじゅう すること、などを定 さだ める「航空 こうくう 安全 あんぜん 緊急 きんきゅう 対策 たいさく 要綱 ようこう 」を発表 はっぴょう した。
1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )6月 がつ 24日 にち には改正 かいせい 航空 こうくう 法 ほう が参議院 さんぎいん で可決 かけつ 成立 せいりつ し、同年 どうねん 10月 がつ から施行 しこう された。この改正 かいせい 航空 こうくう 法 ほう には、(1)航空 こうくう 管制 かんせい 空域 くういき における曲技 きょくぎ 飛行 ひこう と訓練 くんれん 飛行 ひこう の原則 げんそく 禁止 きんし 、空港 くうこう 周辺 しゅうへん 空域 くういき における通過 つうか 飛行 ひこう の禁止 きんし と速度 そくど 制限 せいげん 、特定 とくてい 空域 くういき の高度 こうど 変更 へんこう の禁止 きんし と速度 そくど 制限 せいげん 、などの運航 うんこう ルールの厳格 げんかく 化 か 、(2)ニアミス防止 ぼうし のために見張 みは りなど安全 あんぜん 義務 ぎむ とニアミス発生 はっせい 時 じ の報告 ほうこく 義務 ぎむ 、(3)トランスポンダ とフライトレコーダー 等 ひとし の安全 あんぜん 運航 うんこう に必要 ひつよう な装置 そうち の装着 そうちゃく 義務 ぎむ が明記 めいき された。そして、(4)これらの規制 きせい はそれまで適用 てきよう されていなかった自衛隊 じえいたい 機 き にも適用 てきよう するものとした。
レーダー設備 せつび の拡充 かくじゅう と空中 くうちゅう 衝突 しょうとつ 防止 ぼうし 装置 そうち の設置 せっち 義務 ぎむ 化 か [ 編集 へんしゅう ]
アメリカで1956年 ねん に発生 はっせい したグランドキャニオン空中 くうちゅう 衝突 しょうとつ 事故 じこ の後 のち 、全国 ぜんこく の航空 こうくう 網 もう をカバーするためにレーダー施設 しせつ の建設 けんせつ と整備 せいび が本格 ほんかく 化 か したのと同様 どうよう 、日本 にっぽん では1971年 ねん に発生 はっせい した本 ほん 事故 じこ を教訓 きょうくん として、全国 ぜんこく でレーダー網 もう や空港 くうこう の拡充 かくじゅう が本格 ほんかく 化 か した。
国 くに は航空 こうくう 路 ろ 監視 かんし レーダー (ARSR) の導入 どうにゅう を推進 すいしん 。1991年 ねん (平成 へいせい 3年 ねん )6月 がつ に日本 にっぽん 国内 こくない のほぼ全域 ぜんいき を17基 き のレーダーでカバーし、1基 き が故障 こしょう しても他 た のレーダーでバックアップが可能 かのう なレーダー管制 かんせい システムが完成 かんせい した。
また、空中 くうちゅう 衝突 しょうとつ 防止 ぼうし 装置 そうち (TCAS)が開発 かいはつ され、日本 にっぽん 国内 こくない を飛行 ひこう する最大 さいだい 離陸 りりく 重量 じゅうりょう 5,700kg または旅客 りょかく 定員 ていいん 19名 めい を超 こ えるタービン 機 き への装着 そうちゃく が航空 こうくう 法 ほう で義務 ぎむ づけられた。
防衛庁 ぼうえいちょう ・自衛隊 じえいたい 、自衛 じえい 官 かん の対応 たいおう [ 編集 へんしゅう ]
この事故 じこ の責任 せきにん を取 と る形 かたち で、当時 とうじ の増原 ますはら 惠 めぐみ 吉 きち 防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん と上田 うえだ 泰弘 やすひろ 航空 こうくう 幕僚 ばくりょう 長 ちょう が辞任 じにん した。
刑事 けいじ 裁判 さいばん における裁判 さいばん の費用 ひよう は国 くに ではなく被告人 ひこくにん 個人 こじん が負担 ふたん した。個人 こじん で賄 まかな える額 がく ではなく、航空 こうくう 自衛隊 じえいたい OB組織 そしき 「つばさ会 かい 」などからのカンパを受 う けた。有罪 ゆうざい 判決 はんけつ をい渡 いわた された元 もと 教官 きょうかん は、自衛隊 じえいたい 法 ほう の規定 きてい により失職 しっしょく した。元 もと 教官 きょうかん は再審 さいしん 請求 せいきゅう も辞退 じたい し、パイロット職 しょく に復帰 ふっき することもないまま2005年 ねん 8月 がつ に死去 しきょ した。また、訓練 くんれん 生 せい は最高裁 さいこうさい 判決 はんけつ 後 ご 、戦闘 せんとう 機 き から救難 きゅうなん 機 き パイロットに転 てん じ、2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )10月 がつ に定年 ていねん 退職 たいしょく するまで人命 じんめい 救助 きゅうじょ の任務 にんむ に当 あ たった[ 21] 。
1986年 ねん 10月 がつ 、執行 しっこう 猶予 ゆうよ 期間 きかん が満了 まんりょう した元 もと 教官 きょうかん に対 たい する「激励 げきれい 会 かい 」が、自衛隊 じえいたい パイロットの親睦 しんぼく 団体 だんたい の主催 しゅさい により福岡 ふくおか 県内 けんない で開 ひら かれた。しかし、この会 かい に出席 しゅっせき するため複数 ふくすう の自衛 じえい 官 かん が、おのおの所属 しょぞく する基地 きち から春日 しゅんじつ 基地 きち (福岡空港 ふくおかくうこう )までの移動 いどう に、訓練 くんれん 飛行 ひこう などの名目 めいもく で自衛隊 じえいたい 機 き を使用 しよう していたことが発覚 はっかく 。私的 してき 行事 ぎょうじ のために防衛 ぼうえい 装備 そうび を動 うご かしたのは著 いちじる しい公私 こうし 混同 こんどう にあたると問題 もんだい になり、当時 とうじ の矢崎 やさき 新二 しんじ 防衛 ぼうえい 事務次官 じむじかん 、大村 おおむら 平 たいら 航空 こうくう 幕僚 ばくりょう 長 ちょう 以下 いか 計 けい 40人 にん が処分 しょぶん を受 う ける事態 じたい となった。防衛庁 ぼうえいちょう の調査 ちょうさ によれば、この時 とき 私用 しよう されたのはT-33 など13機 き で、基地 きち 司令 しれい 級 きゅう の高官 こうかん を含 ふく む23人 にん が搭乗 とうじょう した(うちパイロット5人 にん は、参加 さんか が本人 ほんにん の意思 いし ではなく上官 じょうかん 命令 めいれい だったとして処分 しょぶん なしとなった一方 いっぽう 、会 かい に出席 しゅっせき しなかったが監督 かんとく 責任 せきにん を問 と われて処分 しょぶん を受 う けた者 もの もあった)[ 22] 。
2006年 ねん 8月 がつ 、墜落 ついらく 現場 げんば から数 すう 百 ひゃく メートル離 はな れた急斜面 きゅうしゃめん に窓 まど 枠 わく や座席 ざせき など事故 じこ 機 き の部品 ぶひん 10点 てん 近 ちか くが埋 う まっているのが発見 はっけん され、全日空 ぜんにっくう 社員 しゃいん によって回収 かいしゅう された。
全日空 ぜんにっくう 機 き の部品 ぶひん は、2007年 ねん (平成 へいせい 19年 ねん )1月 がつ 19日 にち から、同社 どうしゃ の研修 けんしゅう 施設 しせつ 内 ない (東京 とうきょう 都 と 大田 おおた 区 く 下丸子 しもまるこ )に全日空 ぜんにっくう 松山 まつやま 沖 おき 墜落 ついらく 事故 じこ など他 た の人身 じんしん 死亡 しぼう 事故 じこ の残存 ざんそん する遺品 いひん や資料 しりょう を保存 ほぞん ・展示 てんじ して社員 しゃいん の安全 あんぜん 教育 きょういく を行 おこな う「ANAグループ安全 あんぜん 教育 きょういく センター」で公開 こうかい されていたが、同 どう センターは2019年 ねん にパイロットやCA、整備 せいび 士 し 、地上 ちじょう 係員 かかりいん 等 とう 各種 かくしゅ トレーニングセンターの集約 しゅうやく に伴 ともな い大田 おおた 区 く 羽田旭 はねだあさひ 町 まち へ移転 いてん し、そちらへ保管 ほかん されている[ 23] (後述 こうじゅつ )。
ANAグループでは、本 ほん 事故 じこ と全日空 ぜんにっくう 61便 びん ハイジャック事件 じけん が発生 はっせい した7月 がつ を、「航空 こうくう 安全 あんぜん 推進 すいしん ・航空 こうくう 保安 ほあん 強化 きょうか 月間 げっかん 」として定 さだ めている[ 24] 。
この事故 じこ 以降 いこう 、全日空 ぜんにっくう 機 き が関係 かんけい した乗客 じょうきゃく 死亡 しぼう 事故 じこ は発生 はっせい していない。
全日空 ぜんにっくう 機 き の犠牲 ぎせい 者 しゃ を弔 とむら うため、雫石 しずくいし 地内 じない に「慰霊 いれい の森 もり 」として整備 せいび され(座標 ざひょう 座標 ざひょう : 北緯 ほくい 39度 ど 39分 ふん 25.6秒 びょう 東経 とうけい 141度 ど 0分 ふん 6.9秒 びょう )、三 さん 十 じゅう 三 さん 回忌 かいき に当 あ たる2003年 ねん まで同所 どうしょ で毎年 まいとし 慰霊 いれい 祭 さい も開催 かいさい されていた。2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )以降 いこう は遺族 いぞく らによる組織 そしき 「一般 いっぱん 財団 ざいだん 法人 ほうじん 慰霊 いれい の森 もり 」や地元 じもと 住民 じゅうみん ・全日空 ぜんにっくう 社員 しゃいん によって大切 たいせつ に維持 いじ されている。五 ご 十 じゅう 回忌 かいき を翌年 よくねん に控 ひか えた2019年 ねん (令 れい 和 わ 元年 がんねん )には大 だい 規模 きぼ に改修 かいしゅう された。犠牲 ぎせい 者 しゃ の多 おお くが静岡 しずおか 県 けん 富士 ふじ 市 し 出身 しゅっしん であったことから、新 あら たに建立 こんりゅう された「航空 こうくう 安全 あんぜん 祈念 きねん の塔 とう 」は訪問 ほうもん 者 しゃ が富士山 ふじさん の方角 ほうがく を向 む くように位置 いち している[ 25] 。2020年 ねん (令 れい 和 わ 2年 ねん )5月1日 にち より「慰霊 いれい の森 もり 」から「森 もり のしずく公園 こうえん 」に名称 めいしょう が変更 へんこう された[ 26] 。
前述 ぜんじゅつ の通 とお り、全日空 ぜんにっくう 機 き の機体 きたい は高度 こうど 4,600 mで空中 くうちゅう 分解 ぶんかい して、残骸 ざんがい ・遺体 いたい は雫石 しずくいし 駅 えき の東 ひがし 2kmから3.5km、南 みなみ 3.5kmから5kmの広範囲 こうはんい に落下 らっか しており、この場所 ばしょ に直接 ちょくせつ 墜落 ついらく した訳 わけ ではない。
ANAグループ安全 あんぜん 教育 きょういく センター(ASEC、東京 とうきょう 都 と 大田 おおた 区 く 羽田旭 はねだあさひ 町 まち )の2階 かい にある導入 どうにゅう 空間 くうかん には雫石 しずくいし 衝突 しょうとつ 事故 じこ の事故 じこ 機体 きたい の一部 いちぶ が展示 てんじ されている[ 23] 。このセンターでは事故 じこ 現場 げんば 近 ちか くで回収 かいしゅう した部品 ぶひん のほか、垂直 すいちょく 尾翼 びよく 下 か のエンジン空 そら 気取 きどり 入口 いりくち の一部 いちぶ や、胴体 どうたい 側面 そくめん のジュラルミン 製 せい 外 がい 板 いた などが展示 てんじ されている[ 27] 。
本 ほん 事件 じけん の裁判 さいばん で争点 そうてん とされた、あるいは問題 もんだい となった点 てん は次 つぎ の通 とお りである[ 28] 。
問題 もんだい を論 ろん ずる前提 ぜんてい としての、
注意 ちゅうい 義務 ぎむ の内容 ないよう
注意 ちゅうい 義務 ぎむ の根拠 こんきょ
可能 かのう 性 せい の程度 ていど と注意 ちゅうい 義務 ぎむ
注意 ちゅうい のメカニズム
事実 じじつ 認定 にんてい 上 じょう の問題 もんだい 点 てん
接触 せっしょく 時刻 じこく
接触 せっしょく 位置 いち
相対 そうたい 飛行 ひこう 経路 けいろ
一定 いってい 空域 くういき への進入 しんにゅう ・訓練 くんれん 等 とう の回避 かいひ 義務 ぎむ について
見張 みは り義務 ぎむ とその違反 いはん について
航空機 こうくうき 操縦 そうじゅう 者 しゃ の見張 みは り義務 ぎむ
見張 みは りの必要 ひつよう 性 せい の認識 にんしき
見張 みは るべき範囲 はんい
視認 しにん 可能 かのう となる時 とき 間 あいだ 帯 たい
その他 た の諸 しょ 問題 もんだい
事故 じこ 調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ の証拠 しょうこ 能力 のうりょく
民事 みんじ 判決 はんけつ における「責任 せきにん 制限 せいげん 」約款 やっかん の効力 こうりょく
ここでは、このうち、事実 じじつ 認定 にんてい 上 じょう の問題 もんだい についてのみ大 おお まかに触 ふ れるにとどめる。
自衛隊 じえいたい 機 き の教官 きょうかん と訓練 くんれん 生 せい が、事故 じこ 発生 はっせい 後 ご 33時 じ 間 あいだ 後 ご に岩手 いわて 県警 けんけい に逮捕 たいほ され、盛岡 もりおか 地検 ちけん に業務 ぎょうむ 上 じょう 過失 かしつ 致死 ちし と航空 こうくう 法 ほう 違反 いはん の容疑 ようぎ で起訴 きそ された。航空 こうくう 法 ほう 違反 いはん は「安全 あんぜん な飛行 ひこう を怠 おこた った」とする83条 じょう に抵触 ていしょく したとするもので、この条文 じょうぶん は個人 こじん ・法人 ほうじん の双方 そうほう に責任 せきにん が認定 にんてい される可能 かのう 性 せい のあるものであった。過去 かこ に発生 はっせい した日本 にっぽん の航空 こうくう 事故 じこ では、自衛隊 じえいたい 機 き と全日空 ぜんにっくう 機 き が滑走 かっそう 路 ろ で衝突 しょうとつ した事故 じこ として全日空 ぜんにっくう 小牧 おまき 空港 くうこう 衝突 しょうとつ 事故 じこ (1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん ))がある。この事件 じけん で逮捕 たいほ 起訴 きそ されたのは管制 かんせい 官 かん のみであり、管制 かんせい 官 かん は有罪 ゆうざい 判決 はんけつ となっているが双方 そうほう の操縦 そうじゅう 者 しゃ は責任 せきにん を問 と われていない。一方 いっぽう で検察 けんさつ が事故 じこ 責任 せきにん があると判断 はんだん した全日空 ぜんにっくう 機 き 仙台 せんだい 空港 くうこう 着陸 ちゃくりく 失敗 しっぱい 事故 じこ (1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん ))と日本航空 にほんこうくう MD11機 き 乱 らん 高下 こうげ 事故 じこ (1997年 ねん (平成 へいせい 9年 ねん ))では、裁判 さいばん の結果 けっか 、無罪 むざい 判決 はんけつ となっているが、日東 にっとう 航空 こうくう つばめ号 ごう 墜落 ついらく 事故 じこ (1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん ))では乗員 じょういん が有罪 ゆうざい となっている。これらは全 すべ て乗員 じょういん が生存 せいぞん していた航空 こうくう 事故 じこ であるが、乗員 じょういん が死亡 しぼう した鉄道 てつどう 事故 じこ の場合 ばあい は信楽 しがらき 高原 こうげん 鐵道 てつどう 列車 れっしゃ 衝突 しょうとつ 事故 じこ (1991年 ねん (平成 へいせい 3年 ねん ))とJR福知山 ふくちやま 線 せん 脱線 だっせん 事故 じこ (2005年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん ))がある。両 りょう 事故 じこ では死亡 しぼう した運転 うんてん 士 し だけでなく、鉄道 てつどう 会社 かいしゃ の運行 うんこう 管理 かんり 者 しゃ についても検察庁 けんさつちょう に書類 しょるい 送検 そうけん されており、いずれの事故 じこ も後 のち に法人 ほうじん としての事故 じこ 責任 せきにん を追及 ついきゅう されている。
第 だい 一 いち 審 しん の盛岡 もりおか 地裁 ちさい (1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )3月11日 にち )は、教官 きょうかん に禁錮 きんこ 4年 ねん 、訓練 くんれん 生 せい に禁錮 きんこ 2年 ねん 8月 がつ の実刑 じっけい 判決 はんけつ をい渡 いわた した。盛岡 もりおか 地裁 ちさい は、全日空 ぜんにっくう 機 き の飛行 ひこう 経路 けいろ については「管制 かんせい 上 じょう の保護 ほご 空域 くういき 内 ない 西側 にしがわ 」を飛行 ひこう していたとし、衝突 しょうとつ 地点 ちてん については「本件 ほんけん 全 ぜん 証拠 しょうこ によるもこれを確定 かくてい することができないし、証拠 しょうこ 裁判 さいばん 主義 しゅぎ の原則 げんそく から強 つよ いて推論 すいろん すべきでない」とした。弁護 べんご 側 がわ は全日空 ぜんにっくう 機 き 操縦 そうじゅう 者 しゃ に過失 かしつ があったと主張 しゅちょう したが、裁判所 さいばんしょ は、被告人 ひこくにん らに過失 かしつ があったことを否定 ひてい するものではないとし、さらに、信頼 しんらい の原則 げんそく についてもこれを容 い れる余地 よち はないとしている。
第 だい 二 に 審 しん の仙台 せんだい 高裁 こうさい (1978年 ねん (昭和 しょうわ 53年 ねん )5月 がつ 9日 にち )は、教官 きょうかん の控訴 こうそ は棄却 ききゃく したが、訓練 くんれん 生 せい に対 たい しては一 いち 審 しん 判決 はんけつ を破棄 はき し無罪 むざい をい渡 いわた した。訓練 くんれん 生 せい は、当日 とうじつ の臨時 りんじ の訓練 くんれん 空域 くういき の位置 いち ・範囲 はんい も、ジェットルートJ11Lの経路 けいろ も知 し らなかったため、機 き 位 い 確認 かくにん 義務 ぎむ の存在 そんざい が認 みと められず、さらに、全日空 ぜんにっくう 機 き は接触 せっしょく の29秒 びょう 前 まえ からは訓練 くんれん 生 せい の注視 ちゅうし 野外 やがい にあったため、結果 けっか の予見 よけん 可能 かのう 性 せい がなく、したがって見張 みは りの注意 ちゅうい 義務 ぎむ 違反 いはん が認 みと められないとされたからである。仙台 せんだい 高裁 こうさい は、全日空 ぜんにっくう 機 き の飛行 ひこう 経路 けいろ および接触 せっしょく 地点 ちてん については、事故 じこ 調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ の推定 すいてい に合理 ごうり 性 せい があるとして事故 じこ 調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ の通 とお りに認 みと めた。
上告 じょうこく 審 しん で、被告人 ひこくにん 弁護 べんご 側 がわ は海 うみ 法 ほう 泰治 やすじ (2審 しん 検察 けんさつ 側 がわ 鑑定 かんてい 人 じん )の鑑定 かんてい 書 しょ を根拠 こんきょ に「全日空 ぜんにっくう 機 き がジェットルートを大 おお きく外 はず れて飛行 ひこう したため、自衛隊 じえいたい 設定 せってい の訓練 くんれん 空域 くういき 内 ない で空中 くうちゅう 衝突 しょうとつ した」として、教官 きょうかん の無実 むじつ を主張 しゅちょう した。最高裁 さいこうさい (1983年 ねん 9月22日 にち 判決 はんけつ [ 34] )は、教官 きょうかん に『見張 みは り義務 ぎむ 違反 いはん 』があったことを認定 にんてい したが、被告人 ひこくにん に対 たい する量刑 りょうけい は教官 きょうかん 一 いち 人 にん にのみ刑事 けいじ 責任 せきにん を負 お わせており酷 ひど 過 す ぎるとして、2審 しん 判決 はんけつ を破棄 はき して禁錮 きんこ 3年 ねん 執行 しっこう 猶予 ゆうよ 3年 ねん の判決 はんけつ を下 くだ した。
最高裁 さいこうさい 判決 はんけつ によれば、事故 じこ 当日 とうじつ の経緯 けいい は次 つぎ のようなものであった[ 35] 。
松島 まつしま 派遣 はけん 隊 たい の飛行 ひこう 訓練 くんれん 準則 じゅんそく は、飛行 ひこう 空域 くういき 内 ない に5か所 しょ の訓練 くんれん 空域 くういき を設定 せってい し、飛行 ひこう 訓練 くんれん 毎 ごと に一 ひと つを割 わ り当 あ てるのを原則 げんそく としていた。
事故 じこ 当日 とうじつ の朝 あさ 、割 わ り当 あ て予定 よてい だった訓練 くんれん 空域 くういき が第 だい 4航空 こうくう 団 だん で使用 しよう されることが分 わ かり、飛行 ひこう 班長 はんちょう 補佐 ほさ のC三 さん 佐 さ は、飛行 ひこう 制限 せいげん 空域 くういき を考慮 こうりょ することなく臨時 りんじ に訓練 くんれん 空域 くういき を設定 せってい した。
C三 さん 佐 さ は飛行 ひこう 班長 はんちょう D三 さん 佐 さ に、ジェットルートの記載 きさい のない100万 まん 分 ぶん の1の地図 ちず を示 しめ して臨時 りんじ 訓練 くんれん 空域 くういき 「盛岡 もりおか 」の設定 せってい を進言 しんげん し、D三 さん 佐 さ はそのまま承認 しょうにん した。
C三 さん 佐 さ は主任 しゅにん 教官 きょうかん E一 いち 尉 じょう にも同様 どうよう に「盛岡 もりおか 」の設定 せってい を伝達 でんたつ した。
D三 さん 佐 さ は飛行 ひこう 隊長 たいちょう F二 に 佐 さ に「盛岡 もりおか 」の設定 せってい を報告 ほうこく し、F二 に 佐 さ もそのまま承認 しょうにん を与 あた えた。
E一 いち 尉 じょう は「盛岡 もりおか 」の正確 せいかく な位置 いち ・範囲 はんい を全 まった く確認 かくにん することなく、教官 きょうかん ・訓練 くんれん 生 せい に対 たい して訓練 くんれん 空域 くういき の指示 しじ を行 おこな った。その際 さい 「盛岡 もりおか 」の具体 ぐたい 的 てき 位置 いち ・範囲 はんい を指示 しじ ・説明 せつめい せず、特段 とくだん の注意 ちゅうい を与 あた えることもしなかった。
教官 きょうかん は「盛岡 もりおか 」との名称 めいしょう から、臨時 りんじ 訓練 くんれん 空域 くういき は盛岡 もりおか あたりを指 さ すと考 かんが えたが、ジェットルートJ11Lは盛岡 もりおか 市街 しがい 辺 あた りの上空 じょうくう をほぼ南北 なんぼく に通 かよ っているとの誤 あやま った認識 にんしき の基 もと に、その西側 にしがわ で訓練 くんれん を行 おこな えばよいと考 かんが えていた。
このような事情 じじょう から最高裁 さいこうさい は、減刑 げんけい の理由 りゆう として「航空 こうくう 路 ろ に隣接 りんせつ して訓練 くんれん 空域 くういき を設定 せってい した上 うえ に、被告人 ひこくにん らに特段 とくだん の説明 せつめい もなく」「杜撰 ずさん な計画 けいかく に基 もと づく上官 じょうかん の命令 めいれい による訓練 くんれん 」であり「被告人 ひこくにん らは訓練 くんれん 命令 めいれい を拒否 きょひ できなかった」として、上司 じょうし の自衛隊 じえいたい 基地 きち 幹部 かんぶ の怠慢 たいまん があったことを認定 にんてい した。事故 じこ 当初 とうしょ は訓練 くんれん 命令 めいれい を出 だ した部隊 ぶたい 長 ちょう も捜査 そうさ されたが、最終 さいしゅう 的 てき に起訴 きそ が見送 みおく られ、上司 じょうし の自衛隊 じえいたい 幹部 かんぶ は誰 だれ も起訴 きそ されなかった。
乗客 じょうきゃく 遺族 いぞく による民事 みんじ 裁判 さいばん は国 くに を被告 ひこく としたものが起 お こされた。例 たと えば、死亡 しぼう した大学 だいがく 助教授 じょきょうじゅ の妻子 さいし に対 たい する東京 とうきょう 地裁 ちさい 判決 はんけつ は1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )3月 がつ 1日 にち に4,823万 まん 円 えん の支払 しはら いを国 くに に命 めい じ、国 くに 側 がわ が控訴 こうそ しなかったためそのまま確定 かくてい した。
全日空 ぜんにっくう 側 がわ (全日空 ぜんにっくう 及 およ び全日空 ぜんにっくう に機体 きたい の保険 ほけん 金 きん を支払 しはら った保険 ほけん 会社 かいしゃ 10社 しゃ )が、国 くに に対 たい して国家 こっか 賠償 ばいしょう 法 ほう 第 だい 1条 じょう による損害 そんがい 賠償 ばいしょう 等 とう を求 もと める訴訟 そしょう を提起 ていき したところ、国 くに が全日空 ぜんにっくう に対 たい し民法 みんぽう 715条 じょう に基 もと づく損害 そんがい 賠償 ばいしょう を求 もと める反訴 はんそ を提起 ていき し、全日空 ぜんにっくう 側 がわ と国 くに 側 がわ の双方 そうほう が、互 たが いに損害 そんがい 賠償 ばいしょう を請求 せいきゅう しあって争 あらそ うことになった。全日空 ぜんにっくう は事故 じこ による営業 えいぎょう 損失 そんしつ など18億 おく 円 えん 、保険 ほけん 会社 かいしゃ は全日空 ぜんにっくう に支払 しはら った全壊 ぜんかい した旅客機 りょかくき の航空 こうくう 保険 ほけん 金 きん 25億 おく 円 えん 、国 くに は事故 じこ で喪失 そうしつ した戦闘 せんとう 機 き と被害 ひがい 者 しゃ 遺族 いぞく に「立 た て替 か えて」支払 しはら った賠償金 ばいしょうきん など19億 おく 円 えん をそれぞれ請求 せいきゅう するものであった。
第 だい 一 いち 審 しん の東京 とうきょう 地裁 ちさい (1978年 ねん 9月 がつ 20日 はつか 判決 はんけつ )は、教官 きょうかん 機 き は接触 せっしょく の44秒 びょう 前 まえ から14秒 びょう 前 まえ の間 あいだ に全日空 ぜんにっくう 機 き を視認 しにん し、訓練 くんれん 生 せい 機 き に適切 てきせつ な回避 かいひ 操作 そうさ の指示 しじ を与 あた えれば、また、訓練 くんれん 生 せい 機 き は同 どう 44秒 びょう 前 まえ から30秒 びょう 前 まえ の間 あいだ に全日空 ぜんにっくう 機 き を視認 しにん し適切 てきせつ な回避 かいひ 操作 そうさ を行 おこな っていれば、事故 じこ の発生 はっせい を十分 じゅうぶん 回避 かいひ でき、全日空 ぜんにっくう 機 き は同 どう 30秒 びょう 前 まえ から10秒 びょう 前 まえ の間 あいだ に訓練 くんれん 生 せい 機 き を視認 しにん し適切 てきせつ な回避 かいひ 操作 そうさ をしていれば事故 じこ の発生 はっせい を十分 じゅうぶん 回避 かいひ できたと認定 にんてい し、双方 そうほう の過失 かしつ を対比 たいひ すると過失 かしつ 割合 わりあい は6対 たい 4であるとした。そして、この過失 かしつ 割合 わりあい に従 したが い国 くに は全日空 ぜんにっくう へ2.7億 おく 円 えん 、保険 ほけん 会社 かいしゃ に13.2億 おく 円 えん を支払 しはら うよう命令 めいれい し、全日空 ぜんにっくう は国 くに に7.1億 おく 円 えん 支払 しはら うよう命令 めいれい した[ 40] 。
第 だい 二 に 審 しん の審議 しんぎ は双方 そうほう の主張 しゅちょう が鋭 するど く対立 たいりつ したため判決 はんけつ まで10年 ねん 以上 いじょう かかった。東京 とうきょう 高裁 こうさい (1989年 ねん (平成 へいせい 元年 がんねん )5月9日 にち 判決 はんけつ )は、1審 しん よりも自衛隊 じえいたい の過失 かしつ 割合 わりあい を厳 きび しく認定 にんてい し、国 くに 2、全日空 ぜんにっくう 1であるとした。これは「訓練 くんれん 空域 くういき 設定 せってい 自体 じたい に過失 かしつ があり、自衛隊 じえいたい 機 き も航空機 こうくうき ルートの間近 まぢか で見張 みは り義務 ぎむ を怠 おこた った、全日空 ぜんにっくう 機 き も衝突 しょうとつ 7秒 びょう 前 まえ に決断 けつだん すれば衝突 しょうとつ を防 ふせ げたのに回避 かいひ 措置 そち をとらなかった過失 かしつ があるが、ジェットルートの保護 ほご 空域 くういき 内 ない であり過失 かしつ の程度 ていど は小 ちい さい」と判示 はんじ [ 41] した。そのため、自衛隊 じえいたい (国 くに )の過失 かしつ が重 おも いとされた。また、損害 そんがい 額 がく の認定 にんてい に当 あ たって航空機 こうくうき がたとえ新品 しんぴん (事故 じこ 機 き は就航 しゅうこう 3か月 げつ であった)であっても、使用 しよう した年数 ねんすう に応 おう じて減価 げんか 償却 しょうきゃく した金額 きんがく であるべきとされた。裁判 さいばん では全日空 ぜんにっくう 機 き の機体 きたい 損害 そんがい 額 がく は22億 おく 665万 まん 8,377円 えん であると認定 にんてい されたが、既 すで に航空 こうくう 保険 ほけん 金 きん でそれ以上 いじょう の支払 しはら いを受 う けたとして賠償 ばいしょう 請求 せいきゅう 権 けん は消滅 しょうめつ したとされた。その上 うえ で、東京 とうきょう 高裁 こうさい は国 くに は全日空 ぜんにっくう に7.1億 おく 円 えん 、保険 ほけん 会社 かいしゃ に15.2億 おく 円 えん 、全日空 ぜんにっくう は国 くに に6.5億 おく 円 えん を支払 しはら うように判決 はんけつ を下 くだ し、双方 そうほう が上告 じょうこく しなかったためそのまま確定 かくてい した。
東京 とうきょう 高裁 こうさい は、全日空 ぜんにっくう 機 き の飛行 ひこう 経路 けいろ を事故 じこ 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい の認定 にんてい よりもさらに西 にし よりとし、空中 くうちゅう 接触 せっしょく 地点 ちてん については、駒 こま 木野地 きのじ 区 く 矢筈 やはず 橋西 きょうせい 詰 つめ から北西 ほくせい へ1.5kmの雫石 しずくいし 町 まち 西根 にしね の八丁 はっちょう 野地 のじ 区 く 北側 きたがわ を中心 ちゅうしん とする半径 はんけい 1km以内 いない とし、その西 にし 限 げん はJ11Lの線上 せんじょう から西 にし に約 やく 6.7km離 はな れた地点 ちてん でJ11Lの保護 ほご 空域 くういき の範囲 はんい 内 ない であるとした。
『ブラック・ジャック 』第 だい 6話 わ 「雪 ゆき の夜 よる ばなし」
手塚 てづか 治虫 おさむ 作 さく 。『週刊 しゅうかん 少年 しょうねん チャンピオン 』1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )12月24号 ごう 発表 はっぴょう 。本 ほん 事故 じこ をモチーフにしている。
柳田 やなぎだ 邦男 くにお 『航空 こうくう 事故 じこ ―その証跡 しょうせき に語 かた らせる』中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 〈中公新書 ちゅうこうしんしょ 390〉、1975年 ねん 。ISBN 9784121003904 。
柳田 やなぎだ 邦男 くにお 『失速 しっそく ・事故 じこ の視角 しかく 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 〈文春 ぶんしゅん 文庫 ぶんこ 〉、1981年 ねん 7月 がつ 。ISBN 9784167240028 。
デイビット・ゲロー 著 ちょ 、清水 しみず 保 たもつ 俊 しゅん 訳 やく 『航空 こうくう 事故 じこ ―人類 じんるい は航空 こうくう 事故 じこ から何 なに を学 まな んできたか?』イカロス出版 いかろすしゅっぱん 、1997年 ねん 5月 がつ 1日 にち 。ISBN 9784871490993 。
事件 じけん 犯罪 はんざい 研究 けんきゅう 会 かい 編 へん 『明治 めいじ ・大正 たいしょう ・昭和 しょうわ ・平成 へいせい 事件 じけん ・犯罪 はんざい 大 だい 事典 じてん 』東京法経学院出版 とうきょうほうけいがくいんしゅっぱん 、2002年 ねん 7月 がつ 。ISBN 9784808940034 。
航空 こうくう 管制 かんせい 五 ご 十 じゅう 年 ねん 史 し 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい 編 へん 『航空 こうくう 管制 かんせい 五 ご 十 じゅう 年 ねん 史 し 』2003年 ねん 3月 がつ 。全国 ぜんこく 書誌 しょし 番号 ばんごう :20438389 。
災害 さいがい 情報 じょうほう センター 編 へん 『鉄道 てつどう ・航空機 こうくうき 事故 じこ 全 ちょん 史 ふみ ―シリーズ災害 さいがい ・事故 じこ 史 し 』 1巻 かん 、日 にち 外 がい 選書 せんしょ 〈Fontanaシリーズ災害 さいがい ・事故 じこ 史 し 〉、2007年 ねん 5月 がつ 1日 にち 。ISBN 9784816920431 。
佐藤 さとう 守 まもる 『自衛隊 じえいたい の「犯罪 はんざい 」雫石 しずくいし 事件 じけん の真相 しんそう !』青 あお 林堂 はやしどう 、2012年 ねん 7月 がつ 18日 にち 。ISBN 978-4792604516 。
「雫石 しずくいし 全日空 ぜんにっくう 機 き ・自衛隊 じえいたい 機 き 衝突 しょうとつ 事件 じけん 第 だい 一 いち 審 しん 判決 はんけつ (盛岡 もりおか 地 ち 判 ばん 昭和 しょうわ 50年 ねん 3月 がつ 11日 にち )」『判例 はんれい 時報 じほう 』第 だい 773号 ごう 、1975年 ねん 5月 がつ 21日 にち 、21-76頁 ぺーじ 、doi :10.11501/2794784 。
「雫石 しずくいし 全日空 ぜんにっくう ・自衛隊 じえいたい 機 き 衝突 しょうとつ 事件 じけん 控訴 こうそ 審 しん 判決 はんけつ (仙台 せんだい 高 だか 判 ばん 昭和 しょうわ 53年 ねん 5月 がつ 9日 にち )」『判例 はんれい 時報 じほう 』第 だい 890号 ごう 、1978年 ねん 8月 がつ 11日 にち 、15-51頁 ぺーじ 、doi :10.11501/2794901 。
「雫石 しずくいし 全日空 ぜんにっくう 機 き ・自衛隊 じえいたい 機 き 衝突 しょうとつ 事件 じけん 民事 みんじ 第 だい 一 いち 審 しん 判決 はんけつ (東京 とうきょう 地 ち 判 ばん 昭和 しょうわ 53年 ねん 9月 がつ 20日 はつか )」『判例 はんれい 時報 じほう 』第 だい 911号 ごう 、1979年 ねん 2月 がつ 11日 にち 、14-92頁 ぺーじ 、doi :10.11501/2794922 。
「雫石 しずくいし 全日空 ぜんにっくう 機 き ・自衛隊 じえいたい 機 き 衝突 しょうとつ 事件 じけん 民事 みんじ 控訴 こうそ 審 しん 判決 はんけつ (東京 とうきょう 高 だか 判 ばん 平成 へいせい 元年 がんねん 5月 がつ 9日 にち )」『判例 はんれい 時報 じほう 』第 だい 1308号 ごう 、1989年 ねん 6月 がつ 21日 にち 、28-108頁 ぺーじ 、doi :10.11501/2795319 。