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大山新田(おおやましんでん/Ooyamashinden)は、茨城県守谷市の地名。旧北相馬郡大山新田、大木字香取谷。郵便番号は302-0103。
守谷市北部に位置する。鬼怒川に面した地域で、地域内は主に森林や畑となっているほか、古くからの家々が軒を連ねる。
東はつくばみらい市小絹・絹の台、南は松前台、西は板戸井、北は常総市内守谷町と接している。
また、常総市内守谷町きぬの里が近接している。
江戸初期には相馬郡大木村の一部であったと考えられる[3]。幕末には徳川三卿である田安領で、「旧高旧領取調帳」によると104石4斗5升であった。寛永年間(1724年~1744年)の鬼怒川新河道掘割の際に使用不能になった金具等の捨て場があったと伝えられ、当地と思われる場所は「かなくそ山」という3aの山林となっている。また、当地にある香取神社は天正年間(1573年~1592年)に相馬氏によって創建されたと伝えられる。
幕末より下総野鎮撫府、下総知事県の管轄となり、1869年(明治2年)には葛飾県、1871年(明治4年)には印旛県の管轄となり、1873年(明治6年)の大区小区制では第十四大区六小区となったが、これは本来は仮定であり、実地不便の向きもあるということを理由に第五大区七小区へと再編されている[4]。また、同年千葉県となる。1875年(明治8年)には千葉県から茨城県に移管され、第九大区二小区となる。1878年(明治11年)の郡区町村制では大区小区の区分けが廃止。同時に相馬郡が利根川を境に南相馬郡と北相馬郡に分離し、北相馬郡大山新田となる。1889年(明治22年)3月1日には同じ北相馬郡の板戸井村、大木村、立沢村と合併し、大山新田は大井沢村の大字となり、1955年(昭和30年)3月1日には同じく北相馬郡守谷町、大野村、高野村と合併し、守谷町の大字となる。1976年(昭和51年)5月より、地域の南部・東部を日本住宅公団(現:都市再生機構)が「常総ニュータウン北守谷」(開発中の名称は「公団北守谷団地」などで、開発後期より街開き後しばらくまでは「常総ニュータウン守谷」と呼ばれていた[5])として開発し、1985年(昭和60年)5月には松前台一~七丁目、久保ケ丘四丁目として分離した。2002年(平成14年)2月2日の守谷市の市制施行により、守谷市の大字となると同時に大木の飛び地であった字香取谷を編入し、現在に至る。
「大山」となった由来は、一面に杉の巨木が生い茂り、さながら大山の観をなしていたからという説、領主大山文学の功績を称えて大山とした説があるが定かではない[6]。また、江戸三大大火と言われる明和の大火の時に、幕府は江戸復興のため関東一円の大名に命じて建築資材として木材の供出を促した。この時、相馬郡大山村を領地としていた田安中納言家も幕府の要請に応じ、大山村の山林をすべて伐採して江戸に運び、その跡地に新田を開拓したので、それ以来大山村を大山新田に改称したと言われている。
実施後
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実施年月日
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実施前
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大山新田
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2002年2月2日
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大山新田、大木字香取谷
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2017年(平成29年)8月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
地域内にはバス路線はないが、隣接する松前台を守谷駅、新守谷駅までの路線バスが通過している。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
- 守谷町史(守谷町史編さん委員会 編)
- 北相馬郡志(北相馬郡志刊行會)
- 角川日本地名大辞典 9 茨城県(角川書店)
- 茨城県の地名 日本歴史地名大系8(平凡社)
- 守谷市小字名一覧(発行:守谷市税務課 2008年1月)
- ^ a b “平成29年(2017年)の人口 - 常住人口 町丁別”. 守谷市 (2017年8月3日). 2017年8月24日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ 茨城県の地名 日本歴史地名大系8(平凡社)によると、元禄郷帳に「大木村之枝郷」の記載がある。
- ^ 守谷町史(守谷町史編さん委員会 編)
- ^ 広報もりや 昭和56年12月10日発行
- ^ 守谷町合併史
- ^ 北相馬郡史(崙書房)の情報による。しかし、茨城県の地名 日本歴史地名大系8(平凡社)によると、1885年(天保5年)の天保郷帳には「大木村枝郷大山村」とある。