(Translated by https://www.hiragana.jp/)
奥都城 - Wikipedia コンテンツにスキップ

おく都城みやこのじょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

おく都城みやこのじょう(おくつき)とは、上代じょうだいはかのこと。またそこから神道しんとうしきはかのこと。神道しんとうしき墓石はかいしきざまれる文字もじでもある。奥津城おくつきおくじょうともく。

言葉ことば意味いみ

[編集へんしゅう]

(つ)」は、上代じょうだいかく助詞じょし」にてた万葉仮名まんようがなで、「~の」の意味いみになる。「」は、神官しんかん氏子うじこなどをつとめたひとはか使つかわれる漢字かんじで、「」は一般いっぱん信徒しんとはか使つかわれる。ただし、先祖せんぞ神官しんかん氏子うじこやく従事じゅうじしたひとがいる場合ばあいには「」が使つかわれることがある。またこれとはべつに、地域ちいきにより、どちらかの文字もじひろもちいられることもあり、一概いちがいではない。

おく(おく)」とは、奥深おくふかの「おく」や「く」を意味いみするといわれる。「しろ(き)」は、古代こだいの「胆沢いさわしろ」の「しろ」の用例ようれいにみるようにたなかべなどでよんへんかこんだ一郭いっかく場所ばしょをいい、また「ひつぎ(ひつぎ)」の意味いみもあるとされる。全体ぜんたい意味いみとしては、「奥深おくふかところにあって外部がいぶからさえぎられた境域きょういき」ということであり、また「ひつぎ場所ばしょ」のとなる。

文献ぶんけんじょうれいとして、『万葉集まんようしゅう』に「おく都城みやこのじょう」、『日本書紀にほんしょき神代かみしろまきに「奥津おくつ棄戸(おくつ すたへ)」としるされている。本来ほんらいは、死体したい遺棄いきによるそうほうあらわしているものであり[1]一般いっぱん民衆みんしゅう死体したい遺棄いきされていたことによる(考古学こうこがくじょうにおいても、古代こだい日本にっぽんにおいて一般人いっぱんじんはかきずいた形跡けいせきはなく、遺棄いきされた状態じょうたいである[2])。『伊呂波いろはるいしょう』、『秦山じんざんしゅう』、『伊勢物語いせものがたり』、『古事記こじきでん』などの文献ぶんけんちゅう葬式そうしきことを「はふる」としるしているが、これも遺棄いき意味いみするものであり、おく都城みやこのじょう同様どうよう意味いみであるとされる(『古事記こじきでん』での表記ひょうきは「なみおっとさと(はふり)」としるす)。神道しんとう形成けいせいは、後世こうせい神道しんとうによって大成たいせいされたものである。なお、縄文じょうもん時代じだい貝塚かいづか遺骸いがいてる風習ふうしゅうがあるが、これは一説いっせつに、貝塚かいづか自体じたいすべての生物せいぶつ霊魂れいこん他界たかいおくかえすためのまつりであり、たんなるゴミ捨ごみすではなく、埋葬まいそうじょうとしてもちいられたとするものがある[3]

神道しんとう

[編集へんしゅう]

基本きほんてき構成こうせいは、仏式ぶっしきおなじであるが、神道しんとうでは焼香しょうこうおこなわないので、香炉こうろらない。また玉串たまぐしたてまつげるためはちそくだいる。 墓石はかいしかたちは、細長ほそなが角柱かくちゅうかたで、いただき上部じょうぶよん角錐かくすいになっている。このかたち三種さんしゅ神器じんぎひとてん叢雲むらくもけんあらわしているとされる。

墓石はかいしには「○○家奥いえおく都城みやこのじょうあるいは「○○いえ奥津城おくつき」ときざむ。墓石はかいしがない場合ばあい墓標ぼひょうに「○○大人おとな刀自とじいのちおく都城みやこのじょう」とく。神道しんとうでは戒名かいみょうはなく、姓名せいめいしたに、これれいいのちいのちれい霊位れいいなどをける。

神社じんじゃでは通常つうじょう墓地ぼち所有しょゆうしていない。神式しんしきでおはか建立こんりゅうする場合ばあい公営こうえい民営みんえい霊園れいえん墓地ぼちわなければならない。

大日本帝国だいにっぽんていこく軍人ぐんじん先祖せんぞおなにははいらず神道しんとうまつられることがおおかった。とくだい大戦たいせんちゅう戦死せんししゃ日当ひあたりの場所ばしょてられた[4]将校しょうこう墓石はかいし姓名せいめいまえ所属しょぞく陸軍りくぐん海軍かいぐん)と最終さいしゅう階級かいきゅうられていることもある。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 藤井ふじい正雄まさお仏事ぶつじ基礎きそ知識ちしき講談社こうだんしゃ 初版しょはん1985ねん ISBN 4-06-201068-2 p.116参考さんこう
  2. ^ 吾妻あづまきょうひろちょう元年がんねん1261ねん)2がつ29にちじょうには、幕府ばくふ関東かんとう諸侯しょこうにおいて、「~死屍しし(しし)を路地ろじに弃(す)つるごと禁制きんせいすべし」とさだめていることからも、死体したい遺棄いき中世ちゅうせい前半ぜんはん庶民しょみんにとっても一般いっぱんてきおこないであったことかる。
  3. ^ 渡辺わたなべまこと縄文じょうもん時代じだい知識ちしき 考古学こうこがくシリーズ4』 東京とうきょう美術びじゅつ ISBN 4-8087-0190-1 1983ねん p.132.河野こうの広道ひろみちアイヌ習俗しゅうぞくをヒントにせつで、このため、親子おやこ兄弟きょうだい遺骸いがいてたとする。
  4. ^ 鵜飼うかい秀徳ひでのり (ちょ) 『寺院じいん消滅しょうめつ』 日経にっけいBPしゃ ISBN 978-4822279172 p205

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]