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貝塚かいづか

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
モーリタニアバン・ダルガン国立こくりつ公園こうえん(アルガン礁国立こくりつ公園こうえんないにある貝塚かいづかどう国立こくりつ公園こうえん中核ちゅうかく地域ちいきユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろく物件ぶっけん
アルゼンチンサンタクルスしゅうにある貝塚かいづか
米国べいこくサウスカロライナしゅうのエディストとう (en) にある貝塚かいづか「スパニッシュマウントポイント (en)」/エディストビーチ州立しゅうりつ公園こうえん (en) ないアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国家こっか歴史れきし登録とうろくざい指定してい物件ぶっけん
米国べいこくメインしゅうダマリスコッタにあるホエールバック貝塚かいづか英語えいごばん牡蠣かきからおもとする。
イギリスりょうヴァージン諸島しょとうアネガダとうにある貝塚かいづか巻貝まきがいであるソデボラの1しゅ Aliger gigas [* 1]貝殻かいがらでできている。

貝塚かいづか(かいづか)とは[1]貝類かいるい常食じょうしょくてきした居住きょじゅうする先史せんし時代じだい人々ひとびとが、日々ひびごみとして大量たいりょう貝殻かいがら様々さまざま生活せいかつ廃棄はいきぶつとも長年ながねんわたって投棄とうきつづけることで、それらが累積るいせきした特定とくてい場所ばしょをいう[2][3]貝殻かいがら場所ばしょとする以外いがいに、かい加工かこうじょう、あるいはしお生産せいさんじょう役割やくわりたした場所ばしょとする解釈かいしゃくもある[4]

概要がいよう[編集へんしゅう]

おかづか形容けいようおおきなものがあるため、日本語にほんご中国ちゅうごくでは「貝塚かいづか」とばれるが、そのような規模きぼのものばかりではない。日本語にほんごでは当初とうしょは「かい(かいきょ)」ともいった(れい大森おおもりかい)。英語えいご事実じじつじょう国際こくさい共通きょうつう)では様々さまざま名称めいしょう通用つうようしているが、"shell midden日本語にほんごおとうつしれい:シェル ミドゥン。貝殻かいがらのごみやま)" と "shellmound日本語にほんごおんうつしれい:シェルマウンド。貝殻かいがらづか)" [* 2]が、優勢ゆうせいかつ正確せいかくである。

貝殻かいがら以外いがいにも、鳥獣ちょうじゅうぎょほねなど食料しょくりょう残滓ざんし[1]破損はそんした土器どき石器せっきほねかくなどの道具どうぐるい[1]しょうはいなどもてられていることがおおく、また、人骨じんこつ発見はっけんされることもある[5][6][7]貝塚かいづか狭義きょうぎでいう場合ばあいは、うえげたような貝殻かいがら以外いがい投棄とうきぶつをほとんどもしくはまったふくまないもの、すなわち「かいそう」をす。

最終さいしゅうごおり終焉しゅうえんには、ながらく寒冷かんれいであった地球ちきゅう環境かんきょう急速きゅうそくかつ大幅おおはば温暖おんだんしていった。その影響えいきょう当然とうぜんながら人類じんるいにもおよんでいる。影響えいきょう食料しょくりょう資源しげんにもあらわれ、もっと顕著けんちょ変化へんかとして世界せかい各地かくちメガファウナ英語えいごばん大型おおがた動物どうぶつ動物どうぶつしょう。この時代じだいでは、ゾウるいサイるいオオツノジカるいバイソンけんとらなど)がおおきな衰退すいたいせ、なかには動物どうぶつしょうごと消滅しょうめつしてしまう地域ちいきまであった[8]。マンモス動物どうぶつぐんマンモスヘラジカ、バイソンなどで構成こうせいされる寒冷かんれい適応てきおうがたメガファウナ)とナウマンゾウ・ヤベオオツノジカ動物どうぶつぐんナウマンゾウヤベオオツノジカおもとする温暖おんだん適応てきおうがたメガファウナ[* 3])が姿すがたした日本にっぽん列島れっとう[8]はその代表だいひょうれいである[* 4][8]

人類じんるいあたらしい環境かんきょうそくして生活せいかつ様式ようしき変革へんかくする必要ひつようせまられた。そのひとつがかわ湖沼こしょううみあふれる魚介ぎょかいるい利用りよう拡大かくだい開始かいしであり、貝類かいるい常食じょうしょくする人間にんげん集団しゅうだん場合ばあいにはその居住きょじゅう地域ちいきでごみじょうとして貝塚かいづか形成けいせいされるようになった。

貝塚かいづかでは、貝殻かいがら炭酸たんさんカルシウム成分せいぶんのために日本にっぽん列島れっとうのような酸性さんせい土壌どじょうであっても中和ちゅうわされ、土壌どじょう有機物ゆうきぶつ由来ゆらい考古こうこ遺物いぶつ保護ほごする作用さようつため、人骨じんこつ鳥獣ちょうじゅうぎょこつほねかくなどが比較的ひかくてき良好りょうこう保存ほぞん状態じょうたい出土しゅつどすることがおおい。貝塚かいづか文字もじたなかった社会しゃかい研究けんきゅうするうえで重要じゅうようされている。

貝塚かいづか研究けんきゅうは19世紀せいき後半こうはんデンマークはじめられた[9]。ヨーロッパ先史せんし考古学こうこがく指導しどうてき位置いちにあったデンマークじん考古こうこ学者がくしゃデンマーク国立こくりつ博物館はくぶつかん館長かんちょうイェンス・ヤコブ・アスムッセン・ウォルソー英語えいごばんは、おなじデンマークじん動物どうぶつ学者がくしゃヤペトゥス・ステーンストロップおよび地質ちしつ学者がくしゃヨハン・ゲオルク・フォルシュハーマー英語えいごばんともに、貝塚かいづか人為じんいてきなもので、居住きょじゅうともなうごみじょうであることを実証じっしょうした[9][10](■みぎれつ画像がぞうエルテベレ貝塚かいづか実証じっしょう現場げんばとなった)。貝塚かいづか世界せかい各地かくち発見はっけんされており、それまでは自然しぜん堆積たいせき現象げんしょう居住きょじゅうのいずれかとかんがえられていたが[10]貝殻かいがらのほかにも動物どうぶつほね石器せっき土器どき発見はっけんされたため、人間にんげん食物しょくもつ残滓ざんし集積しゅうせきしたものとみとめられるようになったのである。

世界せかいてきには、デンマークを中心ちゅうしんとしたヨーロッパ地域ちいきカナダブリティシュコロンビア中心ちゅうしんとした北西ほくせい海岸かいがんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくメインしゅう中心ちゅうしんとした大西おおにしひろしきしひがしアジア沿海えんかい地域ちいき日本にっぽん列島れっとうふくむ)などの、ほぼどう緯度いど地域ちいきで、ヴュルムごおり最終さいしゅうごおり終焉しゅうえん以降いこうこうこおり到来とうらい以降いこう)に貝塚かいづか出現しゅつげんしている。

極東きょくとうロシア沿海えんかい地方ちほうからひがしアジア沿海えんかい地域ちいき日本にっぽん列島れっとう朝鮮半島ちょうせんはんとう中国ちゅうごく大陸たいりく沿海えんかい地域ちいき)にかけての一帯いったいは、世界せかいてきても貝塚かいづか濃密のうみつ分布ぶんぷする地域ちいきである[11]

研究けんきゅう[編集へんしゅう]

(左)オーストラリアはビクトリア州のエリザベス島(英語版)にある貝塚の発掘調査/1888年撮影。 (右)デンマークはユトランド半島北部のリムフィヨルドにあるエルテベレ文化(英語版)による貝塚(エルテベレ貝塚)[12]の発掘調査/1890撮影。規模は幅141m、高さ20m[12]。牡蠣殻を主とする自然遺物は春の獲物が集中しており、季節的居住であったことが分かる[12]。デンマーク国立博物館所蔵写真。 (左)オーストラリアはビクトリア州のエリザベス島(英語版)にある貝塚の発掘調査/1888年撮影。 (右)デンマークはユトランド半島北部のリムフィヨルドにあるエルテベレ文化(英語版)による貝塚(エルテベレ貝塚)[12]の発掘調査/1890撮影。規模は幅141m、高さ20m[12]。牡蠣殻を主とする自然遺物は春の獲物が集中しており、季節的居住であったことが分かる[12]。デンマーク国立博物館所蔵写真。
ひだりオーストラリアビクトリアしゅうエリザベスとう英語えいごばんにある貝塚かいづか発掘はっくつ調査ちょうさ/1888ねん撮影さつえい
みぎデンマークユトランド半島はんとう北部ほくぶリムフィヨルドにあるエルテベレ文化ぶんか英語えいごばんによる貝塚かいづか(エルテベレ貝塚かいづか[12]発掘はっくつ調査ちょうさ/1890撮影さつえい規模きぼはば141m、たかさ20m[12]牡蠣かきからおもとする自然しぜん遺物いぶつはる獲物えもの集中しゅうちゅうしており、ぶしてき居住きょじゅうであったことがかる[12]デンマーク国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう写真しゃしん

日本にっぽん貝塚かいづか[編集へんしゅう]

加曽利かそり貝塚かいづかきたかいそう断面だんめん

縄文じょうもん時代じだい貝塚かいづかは、日本にっぽん列島れっとうではやく2500しょ発見はっけんされている。すで発見はっけんされている箇所かしょの4ぶんの1ちかくは、東京とうきょうわんひがし沿岸えんがん一帯いったいめられるが、これは、この地域ちいきでの土地とち改変かいへんいちじるしく、分布ぶんぷ調査ちょうさおよ発掘はっくつ調査ちょうさすすんでいることがおおきな理由りゆうであり、地下ちか埋蔵まいぞうされる貝塚かいづか全国ぜんこくてき分布ぶんぷじょうきょうとはべつ問題もんだいであることには注意ちゅういようする。なお、東京とうきょうわんひがし沿岸えんがん千葉ちばけんした)でも、とりわけ千葉ちばうち分布ぶんぷ密度みつどたかいとされる。このほか貝塚かいづか集中しゅうちゅうして分布ぶんぷしている地域ちいきとしては、太平洋たいへいよう沿岸えんがんおおきな内湾ないわんであり干潟ひかたがよく発達はったつした仙台せんだいわん大阪おおさかわんなどをあげることができる。

東京とうきょう湾岸わんがんにも集中しゅうちゅうしている貝塚かいづかであるが、つくられかた時期じきによってちがう。縄文じょうもん時代じだい早期そうきでは、竪穴たてあな建物たてものちいさな調理ちょうり施設しせつであるあななかてられている場合ばあいおおく、縄文じょうもん前期ぜんきにも早期そうき同様どうよう貝塚かいづか形成けいせいされている。

縄文じょうもん中期ちゅうきになると、前期ぜんきから成立せいりつはじめた環状かんじょう集落しゅうらくがより増加ぞうかする。建物たてものがムラのほぼ中程なかほど広場ひろばかこんで配置はいちされていて、それらの建物たてものあと貝殻かいがらとう多量たりょう遺棄いき蓄積ちくせきされるようになったので(考古こうこ学者がくしゃ谷口たにぐち康浩やすひろは「廃棄はいきたい」と呼称こしょうする[13])、結果けっかとして環状かんじょう馬蹄ばていがたじょう貝塚かいづかならびが形成けいせいされたようにえる。加曽利かそり貝塚かいづかだこうら貝塚かいづかなどがこれにるいする[14]

日本にっぽん列島れっとう酸性さんせい土壌どじょうであり、ほねなどの有機物ゆうきぶつのこがたい。しかし、貝塚かいづか大量たいりょう貝殻かいがら由来ゆらいする炭酸たんさんカルシウム豊富ほうふなために土壌どじょうアルカリ性あるかりせいたもち、鳥獣ちょうじゅうさかななどの骨格こっかく動物どうぶつ遺体いたい)がよく保存ほぞんされているので、当時とうじ生産せいさん海辺うみべ生活せいかつ動物どうぶつ考古学こうこがく観点かんてんから貴重きちょう遺跡いせきとなっている。

貝塚かいづか太古たいこ人々ひとびとのこしたものであるというかんがえは、奈良なら時代じだいにすでにあったとうべきかもれないが、まだまだあやしい理解りかい仕方しかたではあった。それとうのも、奈良なら時代じだい成立せいりつした『常陸ひたちこく風土記ふどき』の「那賀なが略記りゃっき」に、海岸かいがんからかなりはなれた場所ばしょでありながらだれかが海辺うみべかいってべててるをながつづけたことでできあがったとかんがえられるおかおか)についての記述きじゅつがあり、そのだれかというのは上古じょうこ住人じゅうにんで、巨人きょじんであったとかたっているからである[15][16]はこのおかむかしひとは「だいくちおおくち)」とんでいたとも言及げんきゅうしており[15][16]大量たいりょうかいちていることに由来ゆらいする地名ちめいであると理解りかいできているようにおもわれる一方いっぽうで、縄文じょうもんうみすすむによる海岸かいがんせんおおきな移動いどう[15]よしもなかった時代じだい理解りかいとして人智じんちえた“巨人きょじん”が創出そうしゅつされているのであり、したがって、奈良なら時代じだい知識ちしきじんには貝塚かいづかがある程度ていどまで理解りかいされてはいても、普通ふつう人間にんげん生活せいかつ痕跡こんせきとはおもわれていなかったことがかる。地名ちめいはまた、いまは「だいくち」からてんじた「大櫛おおくしおかおおくしのおか)」であるともかたられており[15][16]昭和しょうわ時代じだい研究けんきゅうしゃをしてこの貝塚かいづか現在げんざいの「大串おおぐし貝塚かいづかおおくし かいづか)」に比定ひていされている[15][16]くわしくは「ダイダラボッチ#常陸ひたちこく風土記ふどき」および「大串おおぐし貝塚かいづか」を参照さんしょうのこと。理解りかい度合どあいはともかくとして、上述じょうじゅつした「大櫛おおくしおか巨人きょじん伝説でんせつ」が、「貝塚かいづか遺跡いせき文献ぶんけんしるされた日本にっぽん最古さいこれい[17][18]であり、さらにえば「石器せっき時代じだい遺跡いせき記録きろくされた日本にっぽん最古さいこれい[19][20]である。

大串おおぐし貝塚かいづか
大森おおもりかい墟のいしぶみ大田おおた山王さんのう1-3に所在しょざい[gm 1]

日本にっぽんにおける貝塚かいづか本格ほんかくてき調査ちょうさ研究けんきゅうは、1877ねん明治めいじ10ねん)、アメリカじん動物どうぶつ学者がくしゃエドワード・S・モース列車れっしゃまどしに発見はっけんして同年どうねんちゅうただちにった大森おおもり貝塚かいづか大森おおもりかい墟)の発掘はっくつ調査ちょうさはじまる。大森おおもり貝塚かいづかは、東京とうきょう荏原えばらぐん大井おおいむら鹿島かしまだにcf. 荏原えばらぐん#町村ちょうそんせい以降いこう沿革えんかく現在げんざい東京とうきょう品川しながわ大井おおい6丁目ちょうめ[gm 2])にある、鉄道てつどう建設けんせつともな掘削くっさく工事こうじともなって露出ろしゅつした、貝殻かいがらじった土手どてであったが、一躍いちやく、モースの業績ぎょうせきによって貝塚かいづか研究けんきゅう分野ぶんやではひろられる遺跡いせきになった。また、日本にっぽん考古学こうこがく発祥はっしょうなされることになった。

日本にっぽん最古さいことされる貝塚かいづかは、千葉ちばけん西之にしのじょう貝塚かいづか神奈川かながわけん夏島なつしま貝塚かいづかであり、紀元前きげんぜん7500ねんころ縄文じょうもん時代じだい早期そうき前半ぜんはん土器どきりょう貝塚かいづかから出土しゅつどしている。

日本人にっぽんじんによってはじめて本格ほんかくてき発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくおこなわれた貝塚かいづかは、茨城いばらきけん稲敷いなしきぐん美浦みほむらりくひら貝塚かいづかである。1905ねん明治めいじ38ねん)には、横浜よこはま居留きょりゅうしていたイギリスじん医師いしニール・ゴードン・マンロー[* 5]によって、縄文じょうもん時代じだい後期こうきから弥生やよい時代じだい前期ぜんき貝塚かいづかである三ツ沢みつざわ貝塚かいづか所在地しょざいち神奈川かながわけん横浜よこはま神奈川かながわ沢渡さわわたりほか)が発見はっけんされる。

じょう以外いがい解釈かいしゃく[編集へんしゅう]

貝塚かいづか考古こうこ遺物いぶつれい図説ずせつ)/Aはデンマーク貝塚かいづかから、Bはポルトガルタホがわ沿いのむら貝塚かいづかから発見はっけんされたもので、石器せっきほねかくおおられる。

貝殻かいがら場所ばしょとする解釈かいしゃく以外いがいに、かい工場こうじょうあるいはしお生産せいさんじょう役割やくわりたした場所ばしょとする解釈かいしゃくもある[4]。さらに干潟ひがたとともにくい出土しゅつどするれいもありカキなどの養殖ようしょくおこなわれていた可能かのうせい指摘してきされている[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ コンクガイマガキガイきんえんしゅで、食用しょくようおよ装飾そうしょくひんもちいられる
  2. ^ 後者こうしゃ有名ゆうめい用例ようれいとしてアメリカ先住民せんじゅうみんぞくオローニ貝塚かいづか「エメリービル貝塚かいづか(エメリービルシェルマウンド、 Emeryville Shellmound)をげる。また、大森おおもり貝塚かいづかの(モースによる)英語えいごめいは "Shell Mounds of Omori (シェルマウンズ オブ オーモリ)" である。
  3. ^ ただし、日本にっぽん列島れっとうにおけるナウマンゾウの衰退すいたいはこの時期じきはる以前いぜんはじまっており、この時期じきにとどめをされたとかんがえられる。
  4. ^ 北海道ほっかいどうまでは南下なんかして棲息せいそくしていたマンモス(※ヘラジカとバイソンは本州ほんしゅうまで南下なんかして寒冷かんれい地域ちいき繁栄はんえいしているが、マンモスだけは本州ほんしゅうわたった形跡けいせきい)がそうしたように、樺太からふと経由けいゆアジア大陸たいりくもどっていったのか、移動いどう機会きかいいっしてのこされたために絶滅ぜつめつしたのかはかっておらず、列島れっとうから姿すがたしたことだけがはっきりしている。
  5. ^ 日本にっぽん最初さいしょに「地層ちそうるいじゅう法則ほうそく」を適用てきようしてそう単位たんいでの発掘はっくつ導入どうにゅうした。
  1. ^ 大田おおた山王さんのう1-3(地図ちず - Google マップ…※該当がいとう地域ちいきあかせんかこ表示ひょうじされる)
  2. ^ 品川しながわ大井おおい6-21-6(地図ちず - Google マップ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 貝塚かいづか”. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  2. ^ 貝塚かいづか -『国史こくしだい辞典じてん』”. ジャパンナレッジ. 株式会社かぶしきがいしゃネットアドバンス. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  3. ^ 貝塚かいづか”. ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c 小山田おやまだ了三りょうぞう小山田おやまだ隆信たかのぶ材料ざいりょう技術ぎじゅつ概論がいろん だい3はん東京電機大学とうきょうでんきだいがく、2001ねん、32ぺーじ 
  5. ^ 貝塚かいづか”. 平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんだい2はん. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  6. ^ 貝塚かいづか”. 小学館しょうがくかん『デジタル大辞泉だいじせん. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  7. ^ 貝塚かいづか”. 三省堂さんせいどう大辞林だいじりんだい3はん. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c 冨田とみた幸光ゆきみつ (2014ねん). “だい5かい 日本にっぽんきょじゅうはなぜえた?”. ナショナルジオグラフィック日本語にほんごばん公式こうしきウェブサイト). 日経にっけいナショナルジオグラフィックしゃ. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  9. ^ a b 佐原さはらしん日本にっぽん近代きんだい考古学こうこがくはじまるころ」きむせきじょはるなり秀爾ひでじへん佐原さはらしん仕事しごと1 考古学こうこがくへの案内あんない岩波書店いわなみしょてん、2005ねん、236ぺーじ。※同書どうしょでの人名じんめい表記ひょうきは、デンマーク国立こくりつ博物館はくぶつかんちょうヴォーソー、動物どうぶつ学者がくしゃスティーンストラブ、地質ちしつ学者がくしゃフォルヒハマー。
  10. ^ a b ウォルソー”. コトバンク. 2019ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  11. ^ 貝塚かいづか-狩猟しゅりょう漁労ぎょろう樋泉ひいずみだけ 『日本にっぽん考古学こうこがく奈良なら文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ編集へんしゅう 2007ねん4がつ
  12. ^ a b c Ertebølle”. 平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんだい2はん. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  13. ^ 谷口たにぐち 2005ねん p.97-98
  14. ^ 中村なかむら 2009ねん p.49
  15. ^ a b c d e 那珂川なかがわ沿岸えんがん農業のうぎょう水利すいり事業じぎょうしょ. “さらにくわしく 大串おおぐし貝塚かいづか巨人きょじん伝説でんせつ”. 公式こうしきウェブサイト. 関東かんとう農政のうせいきょく. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  16. ^ a b c d 大串おおぐし貝塚かいづか”. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  17. ^ 大串おおぐし貝塚かいづか”. 小学しょうがくかん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ:ニッポニカ』. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  18. ^ 大串おおぐし貝塚かいづか”. 講談社こうだんしゃくに指定してい史跡しせきガイド』. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  19. ^ 大串おおぐし貝塚かいづか”. 『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  20. ^ 大串おおぐし貝塚かいづか”. 小学しょうがくかん精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん. コトバンク. 2019ねん5がつ21にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 中村なかむら, わかえだ松島まつしま, 義章よしあき野内やない, 秀明ひであき松田まつだ, 光太郎こうたろう金子かねこ, ひろしあきら剣持けんもち, 輝久てるひさむねだい, 秀明ひであき桜井さくらい, じゅん也 ほか「縄文じょうもん時代じだい中期ちゅうきから晩期ばんき-環状かんじょう集落しゅうらく貝塚かいづか中村なかむらわかえだ」『だい16かい考古学こうこがく講座こうざ貝塚かいづかとはなにか』2009ねん3がつ8にち原著げんちょ2009ねん3がつ8にち)、49-60ぺーじdoi:10.24484/sitereports.19114NCID BA89977495https://sitereports.nabunken.go.jp/19114 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]