オローニ(コスタノ)族 ぞく コスタノ諸語 しょご および主要 しゅよう な村落 そんらく の地図 ちず
(1770: 10,000–20,000 1800: 3000 1852: 864–1000 2000: 1500–2000+ 2010: 3,853 [1] ) 居住 きょじゅう 地域 ちいき カリフォルニア: サンフランシスコ 、サンタクララ盆地 ぼんち 、イーストベイ , サンタクルーズ山地 さんち 、モントレー湾 わん 、サリナス盆地 ぼんち 言語 げんご オローニ語 ご (コスタノ語 ご ) : アワスワス語 ご 、チャロン語 ご 、チョチェニョ語 ご 、カルキン語 ご 、ムツン語 ご 、ラマイトゥシュ語 ご 、ラムゼン語 ご 、タミェン語 ご 宗教 しゅうきょう ククス教 きょう
オローニ族 ぞく [2] (Ohlone people [oʊˈloʊniː] )は、コスタノ族 ぞく (コスタノアン[3] 、Costanoan)とも呼 よ び、カリフォルニア州 しゅう 沿岸 えんがん 部 ぶ の中部 ちゅうぶ から北部 ほくぶ にかけて住 す むアメリカ先住民 せんじゅうみん 族 ぞく である。18世紀 せいき にスペイン人 じん の探検 たんけん 隊 たい や宣教師 せんきょうし が到達 とうたつ したとき、オローニ族 ぞく はサンフランシスコ湾 わん からモントレー湾 わん にかけて、およびサリナス盆地 ぼんち の低地 ていち にかけての地域 ちいき に住 す んでいた。当時 とうじ 彼 かれ らはペヌーティ大 だい 語族 ごぞく のうちウティ語族 ごぞく に属 ぞく するオローニ諸語 しょご のさまざまな言語 げんご を話 はな していた[4] 。「オローニ」という術語 じゅつご は、「コスタノ族 ぞく 」にかわって1970年代 ねんだい 以来 いらい 、彼 かれ らの子孫 しそん の集団 しゅうだん の一部 いちぶ や大 だい 部分 ぶぶん の民族 みんぞく 学者 がくしゃ 、歴史 れきし 学者 がくしゃ 、通俗 つうぞく 文学 ぶんがく の作家 さっか によって使用 しよう されてきた。植民 しょくみん 地 ち 以前 いぜん の時代 じだい において、オローニ族 ぞく は50を越 こ える土地 とち 所有 しょゆう 集団 しゅうだん に分 わ かれており、自分 じぶん たちを他 た と区別 くべつ されるひとまとまりの集団 しゅうだん とは見 み なしていなかった。オローニ族 ぞく はカリフォルニアの典型 てんけい 的 てき な民族 みんぞく 学 がく 的 てき 様式 ようしき にしたがって、狩猟 しゅりょう 、漁撈 ぎょろう 、採集 さいしゅう によって生活 せいかつ していた。これらのさまざまな集団 しゅうだん の成員 せいいん は、親睦 しんぼく ・婚姻 こんいん ・道具 どうぐ の交易 こうえき などの必要 ひつよう に応 おう じて、互 たが いに自由 じゆう に交際 こうさい し、文化 ぶんか 的 てき 行事 ぎょうじ に参加 さんか していた。オローニ族 ぞく はククスを信仰 しんこう していた。ゴールドラッシュ以前 いぜん 、北 きた カリフォルニアはメキシコ以北 いほく でもっとも人口 じんこう 密度 みつど の多 おお い地域 ちいき であったが[5] 、1769年 ねん から1833年 ねん にかけて、スペイン人 じん によるカリフォルニア宣教 せんきょう はオローニ族 ぞく の文化 ぶんか に影響 えいきょう を及 およ ぼした。オローニ族 ぞく の人口 じんこう はこの時期 じき に急激 きゅうげき に減少 げんしょう した。
現在 げんざい のオローニ族 ぞく は、互 たが いに地理 ちり 的 てき に離 はな れた地域 ちいき に住 す んでいる。それらの地域 ちいき は全部 ぜんぶ ではないが大 だい 部分 ぶぶん は本来 ほんらい の故郷 こきょう である。ムウェクマ・オローニ・トライブはサンフランシスコ・ベイエリア 周辺 しゅうへん の成員 せいいん を持 も ち、サンノゼ、サンタクララ、サンフランシスコの伝道 でんどう 所 しょ のオローニ/コスタノ族 ぞく の子孫 しそん から構成 こうせい される。オローニ/コスタノアン・エセレン・ネーションは、ミッション・サン・カルロス・ボロメオのラムゼン・コスタノ語 ご とエセレン語 ご の話者 わしゃ から構成 こうせい され、モントレー を中心 ちゅうしん とする。アマ=ムツン族 ぞく [6] はモントレー湾 わん の内陸 ないりく にあるミッション・サン・フアン・バウティスタのムツン・コスタノ語 ご の話者 わしゃ の子孫 しそん である。ラムゼン語 ご の別 べつ なグループの大半 たいはん 、ミッション・サン・カルロスの子孫 しそん 、ポモナ /チノ のコスタノアン・ラムゼン・カーメル・トライブは現在 げんざい は南 みなみ カリフォルニアに住 す んでいる。これらの団体 だんたい 、およびそれ以外 いがい の小 ちい さな集団 しゅうだん (「現状 げんじょう 」の節 ふし の一覧 いちらん を参照 さんしょう )は、それぞれ政府 せいふ に民族 みんぞく としての認定 にんてい を求 もと めている。
オローニ族 ぞく の踊 おど り手 しゅ 。ミッション・サンノゼにて
オローニ族 ぞく は村落 そんらく に定住 ていじゅう 生活 せいかつ を行 おこな っていたが、ドングリ や草 くさ の実 み などの季 き 節 ぶし の食糧 しょくりょう を集 あつ めるために一時 いちじ 的 てき な移動 いどう を行 おこな った。オローニ族 ぞく は、北 きた はサンフランシスコ半島 はんとう の北端 ほくたん から、南 みなみ はビッグサー まで、西 にし は太平洋 たいへいよう 岸 がん から東 ひがし はディアブロ山脈 さんみゃく までの間 あいだ に居住 きょじゅう していた。その広大 こうだい な地域 ちいき には、サンフランシスコ半島 はんとう 、サンタクララ盆地 ぼんち 、サンタクルーズ山地 さんち 、モントレー・ベイエリア、および現在 げんざい のアラメダ郡 ぐん とサリナス盆地 ぼんち を含 ふく んでいた。スペイン人 じん と接触 せっしょく する前 まえ は、オローニ族 ぞく は約 やく 50の異 こと なる「民族 みんぞく または部族 ぶぞく 」の複雑 ふくざつ な連合体 れんごうたい を形成 けいせい しており、各 かく 民族 みんぞく または部族 ぶぞく は50人 にん から500人 にん 、平均 へいきん して200人 にん ほどから構成 こうせい されていた。50を越 こ える異 こと なるオローニ族 ぞく の部族 ぶぞく と村落 そんらく が記録 きろく に残 のこ っている。オローニ族 ぞく の村 むら は互 たが いに交易 こうえき ・通 つう 婚 こん および祭 まつり 、および時 とき には殺 ころ しあいの衝突 しょうとつ によって関係 かんけい を持 も っていた。文化 ぶんか 的 てき 芸術 げいじゅつ としてカゴを編 あ む技能 ぎのう 、季 き 節 ぶし ごとの祭 まつり の踊 おど り、女性 じょせい の入 い れ墨 ずみ 、耳 みみ と鼻 はな のピアスなどの飾 かざ りがあった[7] 。
オローニ族 ぞく は主 おも に狩猟 しゅりょう 採集 さいしゅう によって生活 せいかつ しており、ある意味 いみ では収穫 しゅうかく 者 しゃ でもあった。「原始 げんし 的 てき な農耕 のうこう の一種 いっしゅ が行 おこな われた。それは主 おも に、年 とし に一度 いちど 古 ふる い植物 しょくぶつ を焼 や いて、よりよい種 たね が実 みの るようにする、ということによっていた。あるいは、サンマテオ郡 ぐん の初期 しょき の探検 たんけん 者 しゃ にむかってオローニ族 ぞく がそう述 の べた。」彼 かれ らが常食 じょうしょく としていたのは、つぶしたドングリ、ハシバミ、草 くさ の種 たね 、草 くさ の実 み であった。それ以外 いがい の植物 しょくぶつ や、狩 か ったり罠 わな で捕 とら えた小 しょう 動物 どうぶつ 、魚 さかな や他 た の海産物 かいさんぶつ (サンフランシスコ湾 わん および太平洋 たいへいよう でとれる二枚貝 にまいがい 、巻 ま き貝 がい を含 ふく む)も彼 かれ らの食生活 しょくせいかつ に重要 じゅうよう であった。これらの食糧 しょくりょう は古 ふる くは豊富 ほうふ であり、また注意深 ちゅういぶか い作業 さぎょう を行 おこな うだけでなく、自然 しぜん 資源 しげん を積極 せっきょく 的 てき に管理 かんり することによって保 たも たれていた[8] 。
穏和 おんわ な気候 きこう に育 そだ つ動物 どうぶつ にはハイイログマ 、エルク 、プロングホーン 、およびシカ がいた。川 かわ にはサケ 、パーチ 、トゲウオ が住 す む。鳥 とり には多 おお くの鴨 かも 、雁 かり 、カンムリウズラ 、アメリカワシミミズク 、ハシボソキツツキ 、セジロコゲラ 、オウゴンヒワ 、キバシカササギ がいる。人々 ひとびと の食生活 しょくせいかつ にもっとも重要 じゅうよう だったのは水鳥 みずとり で、網 あみ やおとりを使 つか って捕 とら えた。チョチェニョの伝統 でんとう 的 てき な物語 ものがたり では鴨 かも が食物 しょくもつ として登場 とうじょう するし、フアン・クレスピ は旅行 りょこう 記 き の中 なか で雁 かり の乾物 かんぶつ に詰 つ め物 もの をしたものが「他 た の雁 かり を捕 とら えるためのおとりとして使用 しよう 」されたと記 しる す[9] 。
太平洋 たいへいよう 岸 がん と湾内 わんない にはラッコ 、クジラ 、およびかつては何 なん 千 せん 頭 とう ものカリフォルニアアシカ がいた。実際 じっさい アシカがあまりにも多 おお かったために、クレスピによれば、やってきたスペイン人 じん には「舗道 ほどう のように見 み えた」という[10] 。
一般 いっぱん 的 てき に海岸 かいがん または谷 たに 沿 ぞ いでは、オローニ族 ぞく は筵 むしろ やイグサを束 たば ねて直径 ちょっけい 1.8mから6mほどのドーム形 がた の家 いえ を建 た てた。レッドウッド の木 き が使 つか える丘陵 きゅうりょう 地 ち では、木製 もくせい の枠 わく にレッドウッドの樹皮 じゅひ を加 くわ えた針葉樹 しんようじゅ の家 いえ を建 た てた。村 むら の主要 しゅよう な建物 たてもの のひとつであるスウェット・ロッジ は地下 ちか の低 ひく いところに作 つく られ、壁 かべ は土製 どせい 、屋根 やね は土 ど と粗朶 そだ でできていた。オローニ族 ぞく はイグサで舟 ふね を作 つく り、両側 りょうがわ にブレードのついた櫂 かい を使 つか って湾 わん を航行 こうこう した[11] 。
一般 いっぱん 的 てき に男性 だんせい は暖 あたた かい時期 じき には服 ふく を着 き なかった。寒 さむ い時期 じき には動物 どうぶつ の毛皮 けがわ または羽毛 うもう でできたマントを身 み につけた。女性 じょせい は通常 つうじょう 鹿 しか 革 かわ のエプロン、イグサまたは樹木 じゅもく の皮 かわ をはいで作 つく ったスカートを着 き た。寒 さむ い日 ひ には女性 じょせい も動物 どうぶつ の毛皮 けがわ のマントを着 き た。男性 だんせい ・女性 じょせい ともネックレス、貝殻 かいがら のビーズ、アワビのペンダント、貝 かい とビーズをつけた骨 ほね ・木製 もくせい のイヤリングをつけた。これらの飾 かざ りは、しばしば共同 きょうどう 体 たい の中 なか における地位 ちい を示 しめ すものだった[12] 。
考古学 こうこがく 的 てき に、紀元前 きげんぜん 4000年 ねん にさかのぼる貝塚 かいづか が残 のこ る。スタンガーによると、スペイン人 じん との接触 せっしょく 以前 いぜん のカリフォルニアの貝塚 かいづか の歴史 れきし は、紀元前 きげんぜん 4000年 ねん から紀元前 きげんぜん 1000年 ねん までの早期 そうき ホライズン、紀元 きげん 後 ご 600年 ねん までの中期 ちゅうき ホライズン、1770年代 ねんだい までの晩期 ばんき ホライズンに分 わ けられる[13] 。オローニ族 ぞく は6世紀 せいき ごろに北方 ほっぽう からやって来 き て、それまで住 す んでいたホカ大 だい 語族 ごぞく の言語 げんご を話 はな す民族 みんぞく に取 と ってかわるか、または同化 どうか したと考 かんが える学者 がくしゃ もある[14] 。
最初 さいしょ にオローニ族 ぞく が接触 せっしょく した西洋 せいよう 人 じん はスペインの探検 たんけん 家 か セバスティアン・ビスカイノ で、1602年 ねん 12月に現在 げんざい のモントレー に到達 とうたつ した。モントレーの命名 めいめい 者 しゃ もビスカイノである。しかし、その後 ご 160年 ねん 以上 いじょう にわたって西洋 せいよう 人 じん との接触 せっしょく はなかった。1769年 ねん にガスパル・デ・ポルトラ に率 ひき いられたスペインの探検 たんけん 隊 たい がやってきた。この軍事 ぐんじ 的 てき 探検 たんけん 隊 たい は、フニペロ・セラ の統率 とうそつ するフランシスコ会 かい の伝道 でんどう 師 し をともなっていた。スペインの伝道 でんどう 師 し の目的 もくてき は先住民 せんじゅうみん にキリスト教 きりすときょう をもたらすことにあった。
スペインは軍事 ぐんじ 的 てき にモントレーとサンフランシスコの2箇所 かしょ にプレシディオ(要塞 ようさい )を築 きず いた。また、伝道 でんどう 師 し はオローニ族 ぞく の地 ち に7つのミッション(伝道 でんどう 所 しょ )を築 きず いた。ミッション・サン・カルロス・ボロメオ・デ・カルメロ(1770)、ミッション・サン・フランシスコ・デ・アシス(1776)、ミッション・サンタ・クララ・デ・アシス(1777)、ミッション・サンタ・クルス(1791)、ミッション・ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・ソレダード(1791)、ミッション・サン・ホセ(1797)、ミッション・サン・フアン・バウティスタ(1797)である。これらのミッションに行 い ったオローニ族 ぞく は「ミッション・インディアン」または「新 しん 改宗 かいしゅう 者 しゃ (neophytes)」と呼 よ ばれた[15] 。洗礼 せんれい を受 う けたオローニ族 ぞく はミッションの周辺 しゅうへん に移住 いじゅう したが、人口 じんこう の集中 しゅうちゅう によって伝染 でんせん 病 びょう の蔓延 まんえん と食糧難 しょくりょうなん を引 ひ きおこした。このために故郷 こきょう へ逃 に げる者 もの が現 あらわ れたが、伝道 でんどう 師 し は新 しん 改宗 かいしゅう 者 しゃ に、そして最後 さいご の手段 しゅだん として軍隊 ぐんたい を使 つか って逃亡 とうぼう 者 しゃ を連 つ れ戻 もど させた。逃亡 とうぼう とその連 つ れ戻 もど しによって伝染 でんせん 病 びょう は周辺 しゅうへん 地域 ちいき に拡大 かくだい した[16] 。
ミッション時代 じだい には、「全部 ぜんぶ で81,000人 にん のインディアンが洗礼 せんれい を受 う け、60,000人 にん が死亡 しぼう した」[17] 。死亡 しぼう 原因 げんいん は複数 ふくすう あるが、最大 さいだい の原因 げんいん は天然痘 てんねんとう 、麻疹 ましん 、ジフテリア などのヨーロッパからの伝染 でんせん 病 びょう に抵抗 ていこう を持 も たなかったことにある。別 べつ な原因 げんいん としては狩猟 しゅりょう 採集 さいしゅう から急激 きゅうげき に生活 せいかつ 様式 ようしき が変化 へんか したことにある[17] 。
メキシコ 独立 どくりつ 後 ご 、1834年 ねん にメキシコ政府 せいふ はミッションを政治 せいじ から切 き り離 はな すように命 めい じ、フランシスコ会 かい によって管理 かんり されていた土地 とち は再 さい 分配 ぶんぱい された。土地 とち は大 だい 部分 ぶぶん がメキシコ人 じん のランチョ(大 だい 牧場 ぼくじょう )経営 けいえい 者 しゃ のものとなり、オローニ族 ぞく はランチョで労働 ろうどう 者 しゃ またはバケーロ(カウボーイ )になって働 はたら いた。
1840年代 ねんだい からアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく からの移住 いじゅう 者 しゃ が蚕食 さんしょく をはじめ、最終 さいしゅう 的 てき にカリフォルニアはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の一部 いちぶ になった(カリフォルニア征服 せいふく )。新 あたら しい移住 いじゅう 者 しゃ はオローニ族 ぞく に別 べつ の伝染 でんせん 病 びょう をもたらした[18] 。1852年 ねん にはオローニ族 ぞく の人口 じんこう は864人 にん から1000人 にん の間 あいだ にまで減 へ り、さらに減少 げんしょう し続 つづ けた。オローニ諸語 しょご の言語 げんご の最後 さいご の流暢 りゅうちょう な話者 わしゃ であるラムゼン語 ご 話者 わしゃ Isabella Meadows は1939年 ねん に死亡 しぼう した[19] 。ラムゼン語 ご 、ムツン語 ご 、チョチェニョ語 ご を復活 ふっかつ させる運動 うんどう が一部 いちぶ でなされている。
「コスタノアン」は自称 じしょう ではない(外 そと 名 めい )。1769年 ねん ごろ、スペイン人 じん の探検 たんけん 家 か や開拓 かいたく 者 しゃ はこの土地 とち の先住民 せんじゅうみん の集団 しゅうだん をまとめて「コステニョス」(Costeños 、海岸 かいがん 民 みん )と呼 よ んでいた。その後 ご 、英語 えいご を話 はな す開拓 かいたく 者 しゃ がコステニョスを英語 えいご 化 か してコスタノアンという名前 なまえ をつけた(-an は英語 えいご の接尾 せつび 辞 じ )。長年 ながねん にわたり、英語 えいご の記録 きろく ではコスタノアンと呼 よ ばれてきた[20] 。
1960年代 ねんだい 以降 いこう 、「オローニ」という名前 なまえ が先住民 せんじゅうみん の一部 いちぶ と一般 いっぱん 的 てき メディアで使 つか われ、コスタノアンに取 と ってかわった。オローニという言葉 ことば は、Oljon というスペインのランチョ(大 だい 牧場 ぼくじょう )に由来 ゆらい するのかもしれない。その場合 ばあい 、ペスカデロ・クリークに近 ちか い太平洋 たいへいよう 岸 がん にある単独 たんどく の集団 しゅうだん を指 さ す言葉 ことば であったことになる。テイシェイラは、オローニという言葉 ことば がミッション・サンフランシスコの伝道 でんどう 所 しょ の記録 きろく 、バンクロフトの「Native Races」[21] 、およびベイエリア訪問 ほうもん に関 かん する1826-27年 ねん のフレデリック・ビーチーズ・ジャーナルの記事 きじ に見 み えるという。ミッション・サンフランシスコの記録 きろく では、オローニは Oljone、Olchones、Alchones のように異 こと なった綴 つづ りで記 しる されている。しかし、それが一部 いちぶ 族 ぞく に由来 ゆらい する名前 なまえ であるため、すべての先住民 せんじゅうみん がオローニの名 な を受 う け入 い れているわけではない。一部 いちぶ の人 ひと はコスタノ族 ぞく の名 な を使 つか いつづけるか、新 あら たに「ムウェクマ」の名 な を再生 さいせい しようとしている。テイシェイラの主張 しゅちょう によれば、オローニの語 かたり は歴史 れきし 的 てき にはペスカデロ・クリークの Rancho Oljon に遡 さかのぼ るが、1960年 ねん 以降 いこう 一般 いっぱん 的 てき に用 もち いられるようになった。この名前 なまえ が本来 ほんらい 指 さ したものはテイシェイラによれば「かつてサンマテオ郡 ぐん 一帯 いったい に存在 そんざい した部族 ぶぞく 」であり、ミリケンによれば「太平洋 たいへいよう 岸 がん のサングレゴリオ・クリークとペスカデロ・クリークの低地 ていち に住 す む部族 ぶぞく 」の名 な に由来 ゆらい する[22] 。オローニという名前 なまえ が有名 ゆうめい になったのは、フレデリック・ホールの『サンノゼとその周辺 しゅうへん の歴史 れきし 』(1871)に「サンフランシスコからサン・フアン・バウティスタ・ミッションに至 いた るこの大 だい (サンタクララ)バレーを放浪 ほうろう するインディアンの部族 ぶぞく は(中略 ちゅうりゃく )オローニまたは(コスタノ)である」という記述 きじゅつ によるところが大 おお きい。コスタノまたはオローニにかわる2種類 しゅるい の名称 めいしょう が知名度 ちめいど を得 え てきている。北部 ほくぶ の「ムウェクマ」と、ムツン族 ぞく の「アマ」である。ムウェクマ(Muwekma)は先住民 せんじゅうみん の言語 げんご であるチョチェニョ語 ご およびタミェン語 ご で彼 かれ ら自身 じしん を指 さ すことばであり、アマ(Amah)はムツンの人々 ひとびと を指 さ す先住民 せんじゅうみん の言葉 ことば である[23] 。
現在 げんざい 、部族 ぶぞく としての認可 にんか を求 もと めている集団 しゅうだん としてはムツン(ホリスター とワトソンビル )、ムウェクマ・オローニ・トライブ(サンフランシスコ・ベイエリア )などがある。エセレン・ネーションも自己 じこ をオローニ/コスタノ族 ぞく と規定 きてい しているが、ただし彼 かれ らは歴史 れきし 的 てき には南部 なんぶ コスタノ語 ご (ラムゼン語 ご )のほかに、まったく異 こと なるホカ大 だい 語族 ごぞく に属 ぞく するエセレン語 ご を使用 しよう していた。
現在 げんざい のオローニ集団 しゅうだん [ 編集 へんしゅう ]
先住民 せんじゅうみん 問題 もんだい 局 きょく (英語 えいご 版 ばん ) に認可 にんか を求 もと めて係争 けいそう 中 ちゅう のオローニ部族 ぶぞく には以下 いか がある[24] 。
2000年 ねん 段階 だんかい で397人 にん が参加 さんか している。ムウェクマ・オローニ・トライブは「サンフランシスコ湾岸 わんがん 地域 ちいき に土着 どちゃく のすべての現存 げんそん する先住民 せんじゅうみん であり、ミッション・ドロレス、サンタクララ、サンノゼに先祖 せんぞ を持 も つ人々 ひとびと 」、および歴史 れきし 的 てき に連邦 れんぽう が認 みと めていたアラメダ郡 ぐん のヴェローナ・バンドによって構成 こうせい される。2006年 ねん 9月 がつ 21日 にち 、彼等 かれら を連邦 れんぽう が認可 にんか する部族 ぶぞく とすることを促進 そくしん するための裁判 さいばん に関 かん して、連邦 れんぽう 地方裁判所 ちほうさいばんしょ の判事 はんじ から好意 こうい 的 てき な意見 いけん を受 う け取 と った[25] 。先住民 せんじゅうみん に関 かん するカリフォルニア政策 せいさく 顧問 こもん 団 だん が裁判 さいばん の援助 えんじょ を行 おこな った。2011年 ねん に敗訴 はいそ したが、控訴 こうそ した[26] 。
オローニ/コスタノアンインディアンのアマ=ムツン・バンド (ウッドサイド)
アマ=ムツン・バンドは500人 にん 以上 いじょう の参加 さんか 者 しゃ があり、「ムツン・オローニ語 ご の話者 わしゃ のさまざまな子孫 しそん の生存 せいぞん 者 しゃ 」から構成 こうせい される。大 だい 部分 ぶぶん はミッション・サン・フアン・バウティスタで洗礼 せんれい した先住民 せんじゅうみん の子孫 しそん である[27] 。
約 やく 500人 にん が参加 さんか している。部族 ぶぞく 会議 かいぎ の主張 しゅちょう によれば、ミッション・サン・カルロスとソレダードの直系 ちょっけい の子孫 しそん である13の家系 かけい に属 ぞく する約 やく 500人 にん の人々 ひとびと で構成 こうせい される。この部族 ぶぞく はかつて連邦 れんぽう によって「モントレー郡 ぐん のモントレー・バンド」として認可 にんか されていた(1906-1908)。参加 さんか 者 しゃ の約 やく 60%がモントレー郡 ぐん およびサンベニト郡 ぐん に住 す んでいる[28] 。
カーメル・ミッション・インディアンのコスタノアン・バンド (モンロビア)
コスタノアン・オローニ・ラムゼン=ムツン・トライブ (ワトソンビル )
コスタノアン=ラムゼン・カーメル・トライブ (ポモナ /チノ )
コスタノアン・ムツン・インディアンのインディアン・キャニオン・バンド (ホリスター 近辺 きんぺん )
1769年 ねん のオローニ族 ぞく の人口 じんこう : 専門 せんもん 家 か による意見 いけん の違 ちが い
人口 じんこう
出典 しゅってん
7,000
Alfred Kroeber (1925)[29]
10,000 以上 いじょう
Richard Levy (1978)[30]
26,000 (サリナス族 ぞく を含 ふく む) 「北部 ほくぶ ミッション・エリア」
Sherburne Cook (1976)[31]
オローニ/コスタノ族 ぞく の人口 じんこう の変遷 へんせん [32]
西洋 せいよう 人 じん との接触 せっしょく 前 まえ の1769年 ねん の人口 じんこう に関 かん する公表 こうひょう された推計 すいけい は、7,000人 にん とするものから[33] サリナス族 ぞく を含 ふく めて26,000人 にん というもの[34] までの幅 はば がある。カリフォルニア州 しゅう 全体 ぜんたい の先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の人口 じんこう でもそうだが、歴史 れきし 学者 がくしゃ によって推計 すいけい 人口 じんこう に大 おお きな違 ちが いがある。しかし、現代 げんだい の研究 けんきゅう 者 しゃ [誰 だれ ? ] はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の人類 じんるい 学者 がくしゃ アルフレッド・L・クローバー によるオローニ/コスタノ族 ぞく の人口 じんこう 7,000人 にん という見積 みつも りが低 ひく すぎたと考 かんが えている。リチャード・レヴィら、より新 あたら しい研究 けんきゅう 者 しゃ は10,000人 にん ないしそれ以上 いじょう のオローニ族 ぞく がいたと考 かんが えている[30] 。
公開 こうかい されたうちでもっとも人口 じんこう を多 おお く見積 みつも るのはシャーバーン・F・クックで、「北部 ほくぶ ミッション・エリア」にオローニ族 ぞく とサリナス族 ぞく あわせて26,000人 にん があったと結論 けつろん づけた。クックによれば、「北部 ほくぶ ミッション・エリア」とは、「サンフランシスコとサリナス川上 かわかみ 流 りゅう の間 あいだ の、オローニ族 ぞく とサリナス族 ぞく が住 す んでいる地域 ちいき を指 さ す。便宜上 べんぎじょう 、チュマシュ族 ぞく の土地 とち を犯 おか すことになるがサンルイスオビスポ 管轄 かんかつ 地 ち をこれに加 くわ えてもよい」という。クックのモデルでは、オローニ族 ぞく の土地 とち は「北部 ほくぶ ミッション・エリア」の半分 はんぶん にあたる。しかし、オローニ族 ぞく 地域 ちいき はサリナス族 ぞく の住 す む南部 なんぶ より人口 じんこう 密度 みつど が高 たか いことが知 し られている。クックによれば、「湾岸 わんがん 地域 ちいき のコスタノ族 ぞく の人口 じんこう 密度 みつど は1平方 へいほう マイルあたり1.8人 にん に近 ちか い。エセレン族 ぞく は約 やく 1.3人 にん 、サリナス族 ぞく はおそらくもっと低 ひく い。」クック本人 ほんにん の言 げん から、オローニ族 ぞく の人口 じんこう を約 やく 18,200人 にん (誤差 ごさ 数 すう 千 せん 人 にん )と推定 すいてい することができるものの(「北部 ほくぶ ミッション・エリア」の70%)、クックは正確 せいかく な数値 すうち をあげていない[35] 。
1769年 ねん にスペイン人 じん と接触 せっしょく した後 のち 、オローニ族 ぞく の人口 じんこう は急激 きゅうげき に下降 かこう した。クックは没後 ぼつご に出版 しゅっぱん された著書 ちょしょ 『カリフォルニア・インディアンの人口 じんこう 1769-1970』の中 なか で、カリフォルニア先住民 せんじゅうみん 族 ぞく の人口 じんこう が1769年 ねん から1900年 ねん のあいだに急速 きゅうそく に下降 かこう したことを記述 きじゅつ している。クックによれば「危機 きき が明白 めいはく になるまで人口 じんこう 数値 すうち の調査 ちょうさ が行 おこな われることはなかった」。1848年 ねん 以前 いぜん に、もとの人口 じんこう の約 やく 10%にまで落 お ちこんだ[36] 。
1900年 ねん 以降 いこう は人口 じんこう に大 おお きな変化 へんか は見 み られず、2005年 ねん 現在 げんざい 少 すく なくとも1,400人 にん の部族 ぶぞく 会員 かいいん 数 すう がある[37]
。
オローニ族 ぞく の語族 ごぞく は通常 つうじょう 「コスタノ語族 ごぞく 」と呼 よ ばれるが、「オローニ語族 ごぞく 」と呼 よ ばれることもある。コスタノ語族 ごぞく は、仮説 かせつ 段階 だんかい の語族 ごぞく であるペヌーティ大 だい 語族 ごぞく に属 ぞく し、(ミーウォク諸語 しょご とともに)ウティ語族 ごぞく を形成 けいせい する。最近 さいきん の研究 けんきゅう では、コスタノ諸語 しょご ・ミウォク諸語 しょご ・ヨクツ語族 ごぞく がそれぞれ単一 たんいつ のヨク=ウティ語族 ごぞく の中 なか の一語 いちご 派 は である可能 かのう 性 せい がある[38] 。
コスタノ語族 ごぞく は、8つの方言 ほうげん または言語 げんご から構成 こうせい される:アワスワス語 ご 、チャロン語 ご 、チョチェニョ語 ご 、カルキン語 ご 、ムツン語 ご 、ラマイトゥシュ語 ご 、ラムゼン語 ご 、タミェン語 ご 。
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^ 日本語 にほんご での読 よ みは以下 いか による:マルコム・マーゴリン、マイケル・ハーニー 著 ちょ 、冨岡 とみおか 多恵子 たえこ 訳 やく 『オローニの日々 ひび ―サンフランシスコ先住民 せんじゅうみん のくらしと足跡 あしあと 』人間 にんげん 家族 かぞく 編集 へんしゅう 室 しつ 、2003年 ねん 。ISBN 4915963268 。 なお、この本 ほん の pp.5-6には、オローニの末裔 まつえい たかちがコスタノアンという名 な をひどく嫌 きら っている旨 むね が記 しる されている。原書 げんしょ が書 か かれた1970年代 ねんだい の状況 じょうきょう を示 しめ すものかも知 し れない。
^ 関 せき 俊彦 としひこ の著書 ちょしょ では「コスタノアン族 ぞく 」とする。参照 さんしょう :関 せき 俊彦 としひこ 『カリフォルニア先住民 せんじゅうみん の文化 ぶんか 』六 ろく 一 いち 書房 しょぼう 、2014年 ねん 。ISBN 4864450706 。
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^ Mutsun はムツン語 ご では /mutsun/ だが、英語 えいご では /ˈmʌt.sən/ マットサン のように発音 はつおん されることが多 おお い。ここではムツン語 ご 発音 はつおん によった
^ 居住 きょじゅう 領域 りょういき については Kroeber, 1925:462. 人口 じんこう と村落 そんらく 数 すう については Levy, 1978:485; Teixeira, 1997:1 にも引 ひ く。村落 そんらく 名 めい は Milliken, 1995:231–261, Appendix 1, "Encyclopedia of Tribal Groups". 通 どおり 婚 こん 、殺 ころ しあいの争 あらそ い、部族 ぶぞく 間 あいだ 交易 こうえき については Milliken, 1995:23–24. カゴを編 あ む技能 ぎのう や身体 しんたい の飾 かざ りと交易 こうえき については Teixeira, 1997:2–3; Milliken, 1995:18. 季 き 節 ぶし の踊 おど りの祭 まつり については Milliken, 1995:24.
^ 収穫 しゅうかく のために植物 しょくぶつ を焼 や くことについては Brown 1973:3,4,25; Levy 1978:491; Stanger, 1969:94; Bean and Lawton, 1973:11,30,39 (Lewis). 「原始 げんし 的 てき な農耕 のうこう の一種 いっしゅ 」の引用 いんよう は Brown 1973:4. 海産物 かいさんぶつ 、豆 まめ 、種 たね は Levy 1978:491–492. 小 しょう 動物 どうぶつ を罠 わな で捕 とら えることは Milliken, 1995:18. 食糧 しょくりょう の保全 ほぜん と自然 しぜん 資源 しげん 管理 かんり は Teixeira, 1997:2.
^ 水鳥 みずとり とウズラ以外 いがい の動物 どうぶつ については Teixeira, 1997:2. 水鳥 みずとり とウズラは Levy 1978:291. クレスピの引用 いんよう は Bean, 1994:15–16. チョチェニョ民話 みんわ の鴨 かも は Bean, 1994:106 & 119.
^ クレスピの引用 いんよう は "sea lion pavement" Teixeira, 1997:2.
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^ ムウェクマの使用 しよう と定義 ていぎ については Teixeira, 1997:4 を参照 さんしょう 。アマ(Ahmah と書 か いている)の翻訳 ほんやく については Bean (1994) に収 おさ める Ann Marie Sayers "The Story of Indian Canyon" を参照 さんしょう 。アマの使用 しよう については Leventhal and all, 1993 および Amah-Mutsun の Webサイト(2007) を参照 さんしょう
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^ Kroeber, 1925:464. クローバーは彼 かれ のモデルで各 かく 「方言 ほうげん 集団 しゅうだん 」の人口 じんこう が1000人 にん であったと一般 いっぱん 化 か し、また7つの方言 ほうげん があったという。
^ a b Levy, 1978:486.
^ Cook 1976b:42–43. クックの以前 いぜん の論文 ろんぶん では 10,000–11,000人 にん としていた(参照 さんしょう :1976a:183, 236–245)が、のちに少 すく なすぎるとして取 と り下 さ げた。
^ 西洋 せいよう 人 じん との接触 せっしょく 以前 いぜん の推計 すいけい については上記 じょうき を参照 さんしょう 。接触 せっしょく 以降 いこう の推計 すいけい については Cook, 1976a:105, 183, 236–245.
^ Kroeber, 1925:464
^ Cook 1976b:42-43. 26,000人 にん のうちにサリナス族 ぞく が含 ふく まれることに注意 ちゅうい
^ 「北部 ほくぶ ミッション・エリア」の定義 ていぎ については Cook, 1976b:20. 人口 じんこう 密度 みつど については Cook, 1976a:187.
^ 引用 いんよう については Cook, 1976b:200. 1848年 ねん の人口 じんこう については Cook, 1976a:105.
^ 会員 かいいん 数 すう について、ムウェクマ・オローニ・トライブのホームページは397人 にん 、アマ=ムツン・バンドのホームページでは500人 にん 以上 いじょう 、オローニ/コスタノ族 ぞく =エセレン・ネーションのページでは約 やく 500人 にん とする。
^ ウティ諸語 しょご とペヌーティ大 だい 語族 ごぞく については Levy, 1978:485–486 (Kroeber を引用 いんよう ), Callaghan 1997, Golla 2007 を参照 さんしょう 。ヨク=ウティ語族 ごぞく の分類 ぶんるい 範疇 はんちゅう については: Callaghan 1997, 2001; Golla 2007:76 を参照 さんしょう 。
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