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オローニぞく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
オローニ(コスタノ)ぞく
コスタノ諸語しょごおよび主要しゅよう村落そんらく地図ちず
(1770: 10,000–20,000
1800: 3000
1852: 864–1000
2000: 1500–2000+
2010: 3,853[1])
居住きょじゅう地域ちいき
カリフォルニア: サンフランシスコ、サンタクララ盆地ぼんちイーストベイ, サンタクルーズ山地さんち、モントレーわん、サリナス盆地ぼんち
言語げんご
オローニ(コスタノ:
アワスワス、チャロン、チョチェニョ、カルキン、ムツン、ラマイトゥシュ、ラムゼン、タミェン
宗教しゅうきょう
ククスきょう

オローニぞく[2](Ohlone people [oʊˈloʊniː])は、コスタノぞく(コスタノアン[3]、Costanoan)ともび、カリフォルニアしゅう沿岸えんがん中部ちゅうぶから北部ほくぶにかけてアメリカ先住民せんじゅうみんぞくである。18世紀せいきにスペインじん探検たんけんたい宣教師せんきょうし到達とうたつしたとき、オローニぞくサンフランシスコわんからモントレーわんにかけて、およびサリナス盆地ぼんち低地ていちにかけての地域ちいきんでいた。当時とうじかれらはペヌーティだい語族ごぞくのうちウティ語族ごぞくぞくするオローニ諸語しょごのさまざまな言語げんごはなしていた[4]。「オローニ」という術語じゅつごは、「コスタノぞく」にかわって1970年代ねんだい以来いらいかれらの子孫しそん集団しゅうだん一部いちぶだい部分ぶぶん民族みんぞく学者がくしゃ歴史れきし学者がくしゃ通俗つうぞく文学ぶんがく作家さっかによって使用しようされてきた。植民しょくみん以前いぜん時代じだいにおいて、オローニぞくは50をえる土地とち所有しょゆう集団しゅうだんかれており、自分じぶんたちを区別くべつされるひとまとまりの集団しゅうだんとはなしていなかった。オローニぞくはカリフォルニアの典型てんけいてき民族みんぞくがくてき様式ようしきにしたがって、狩猟しゅりょう漁撈ぎょろう採集さいしゅうによって生活せいかつしていた。これらのさまざまな集団しゅうだん成員せいいんは、親睦しんぼく婚姻こんいん道具どうぐ交易こうえきなどの必要ひつようおうじて、たがいに自由じゆう交際こうさいし、文化ぶんかてき行事ぎょうじ参加さんかしていた。オローニぞくはククスを信仰しんこうしていた。ゴールドラッシュ以前いぜんきたカリフォルニアはメキシコ以北いほくでもっとも人口じんこう密度みつどおお地域ちいきであったが[5]、1769ねんから1833ねんにかけて、スペインじんによるカリフォルニア宣教せんきょうはオローニぞく文化ぶんか影響えいきょうおよぼした。オローニぞく人口じんこうはこの時期じき急激きゅうげき減少げんしょうした。

現在げんざいのオローニぞくは、たがいに地理ちりてきはなれた地域ちいきんでいる。それらの地域ちいき全部ぜんぶではないがだい部分ぶぶん本来ほんらい故郷こきょうである。ムウェクマ・オローニ・トライブはサンフランシスコ・ベイエリア周辺しゅうへん成員せいいんち、サンノゼ、サンタクララ、サンフランシスコの伝道でんどうしょのオローニ/コスタノぞく子孫しそんから構成こうせいされる。オローニ/コスタノアン・エセレン・ネーションは、ミッション・サン・カルロス・ボロメオのラムゼン・コスタノエセレン話者わしゃから構成こうせいされ、モントレー中心ちゅうしんとする。アマ=ムツンぞく[6]はモントレーわん内陸ないりくにあるミッション・サン・フアン・バウティスタのムツン・コスタノ話者わしゃ子孫しそんである。ラムゼンべつなグループの大半たいはん、ミッション・サン・カルロスの子孫しそんポモナ/チノのコスタノアン・ラムゼン・カーメル・トライブは現在げんざいみなみカリフォルニアにんでいる。これらの団体だんたい、およびそれ以外いがいちいさな集団しゅうだん(「現状げんじょう」のふし一覧いちらん参照さんしょう)は、それぞれ政府せいふ民族みんぞくとしての認定にんていもとめている。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

オローニぞくおどしゅ。ミッション・サンノゼにて

オローニぞく村落そんらく定住ていじゅう生活せいかつおこなっていたが、ドングリくさなどのぶし食糧しょくりょうあつめるために一時いちじてき移動いどうおこなった。オローニぞくは、きたはサンフランシスコ半島はんとう北端ほくたんから、みなみビッグサーまで、西にし太平洋たいへいようがんからひがしはディアブロ山脈さんみゃくまでのあいだ居住きょじゅうしていた。その広大こうだい地域ちいきには、サンフランシスコ半島はんとう、サンタクララ盆地ぼんち、サンタクルーズ山地さんち、モントレー・ベイエリア、および現在げんざいアラメダぐんとサリナス盆地ぼんちふくんでいた。スペインじん接触せっしょくするまえは、オローニぞくやく50のことなる「民族みんぞくまたは部族ぶぞく」の複雑ふくざつ連合体れんごうたい形成けいせいしており、かく民族みんぞくまたは部族ぶぞくは50にんから500にん平均へいきんして200にんほどから構成こうせいされていた。50をえることなるオローニぞく部族ぶぞく村落そんらく記録きろくのこっている。オローニぞくむらたがいに交易こうえきつうこんおよびまつり、およびときにはころしあいの衝突しょうとつによって関係かんけいっていた。文化ぶんかてき芸術げいじゅつとしてカゴを技能ぎのうぶしごとのまつりおどり、女性じょせいずみみみはなのピアスなどのかざりがあった[7]

オローニぞくおも狩猟しゅりょう採集さいしゅうによって生活せいかつしており、ある意味いみでは収穫しゅうかくしゃでもあった。「原始げんしてき農耕のうこう一種いっしゅおこなわれた。それはおもに、とし一度いちどふる植物しょくぶついて、よりよいたねみのるようにする、ということによっていた。あるいは、サンマテオぐん初期しょき探検たんけんしゃにむかってオローニぞくがそうべた。」かれらが常食じょうしょくとしていたのは、つぶしたドングリ、ハシバミ、くさたねくさであった。それ以外いがい植物しょくぶつや、ったりわなとらえたしょう動物どうぶつさかな海産物かいさんぶつサンフランシスコわんおよび太平洋たいへいようでとれる二枚貝にまいがいがいふくむ)もかれらの食生活しょくせいかつ重要じゅうようであった。これらの食糧しょくりょうふるくは豊富ほうふであり、また注意深ちゅういぶか作業さぎょうおこなうだけでなく、自然しぜん資源しげん積極せっきょくてき管理かんりすることによってたもたれていた[8]

穏和おんわ気候きこうそだ動物どうぶつにはハイイログマエルクプロングホーン、およびシカがいた。かわにはサケパーチトゲウオむ。とりにはおおくのかもかりカンムリウズラアメリカワシミミズクハシボソキツツキセジロコゲラオウゴンヒワキバシカササギがいる。人々ひとびと食生活しょくせいかつにもっとも重要じゅうようだったのは水鳥みずとりで、あみやおとりを使つかってとらえた。チョチェニョの伝統でんとうてき物語ものがたりではかも食物しょくもつとして登場とうじょうするし、フアン・クレスピ旅行りょこうなかかり乾物かんぶつものをしたものが「かりとらえるためのおとりとして使用しよう」されたとしる[9]

太平洋たいへいようがん湾内わんないにはラッコクジラ、およびかつてはなんせんとうものカリフォルニアアシカがいた。実際じっさいアシカがあまりにもおおかったために、クレスピによれば、やってきたスペインじんには「舗道ほどうのようにえた」という[10]

一般いっぱんてき海岸かいがんまたはたに沿いでは、オローニぞくむしろやイグサをたばねて直径ちょっけい1.8mから6mほどのドームがたいえてた。レッドウッド使つかえる丘陵きゅうりょうでは、木製もくせいわくにレッドウッドの樹皮じゅひくわえた針葉樹しんようじゅいえてた。むら主要しゅよう建物たてもののひとつであるスウェット・ロッジ地下ちかひくいところにつくられ、かべ土製どせい屋根やね粗朶そだでできていた。オローニぞくはイグサでふねつくり、両側りょうがわにブレードのついたかい使つかってわん航行こうこうした[11]

一般いっぱんてき男性だんせいあたたかい時期じきにはふくなかった。さむ時期じきには動物どうぶつ毛皮けがわまたは羽毛うもうでできたマントをにつけた。女性じょせい通常つうじょう鹿しかかわのエプロン、イグサまたは樹木じゅもくかわをはいでつくったスカートをた。さむには女性じょせい動物どうぶつ毛皮けがわのマントをた。男性だんせい女性じょせいともネックレス、貝殻かいがらのビーズ、アワビのペンダント、かいとビーズをつけたほね木製もくせいのイヤリングをつけた。これらのかざりは、しばしば共同きょうどうたいなかにおける地位ちいしめすものだった[12]

歴史れきし[編集へんしゅう]

考古学こうこがくてきに、紀元前きげんぜん4000ねんにさかのぼる貝塚かいづかのこる。スタンガーによると、スペインじんとの接触せっしょく以前いぜんのカリフォルニアの貝塚かいづか歴史れきしは、紀元前きげんぜん4000ねんから紀元前きげんぜん1000ねんまでの早期そうきホライズン、紀元きげん600ねんまでの中期ちゅうきホライズン、1770年代ねんだいまでの晩期ばんきホライズンにけられる[13]。オローニぞくは6世紀せいきごろに北方ほっぽうからやってて、それまでんでいたホカだい語族ごぞく言語げんごはな民族みんぞくってかわるか、または同化どうかしたとかんがえる学者がくしゃもある[14]

最初さいしょにオローニぞく接触せっしょくした西洋せいようじんはスペインの探検たんけんセバスティアン・ビスカイノで、1602ねん12月に現在げんざいモントレー到達とうたつした。モントレーの命名めいめいしゃもビスカイノである。しかし、その160ねん以上いじょうにわたって西洋せいようじんとの接触せっしょくはなかった。1769ねんガスパル・デ・ポルトラひきいられたスペインの探検たんけんたいがやってきた。この軍事ぐんじてき探検たんけんたいは、フニペロ・セラ統率とうそつするフランシスコかい伝道でんどうをともなっていた。スペインの伝道でんどう目的もくてき先住民せんじゅうみんキリスト教きりすときょうをもたらすことにあった。

スペインは軍事ぐんじてきにモントレーとサンフランシスコの2箇所かしょにプレシディオ(要塞ようさい)をきずいた。また、伝道でんどうはオローニぞくに7つのミッション(伝道でんどうしょ)をきずいた。ミッション・サン・カルロス・ボロメオ・デ・カルメロ(1770)、ミッション・サン・フランシスコ・デ・アシス(1776)、ミッション・サンタ・クララ・デ・アシス(1777)、ミッション・サンタ・クルス(1791)、ミッション・ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・ソレダード(1791)、ミッション・サン・ホセ(1797)、ミッション・サン・フアン・バウティスタ(1797)である。これらのミッションにったオローニぞくは「ミッション・インディアン」または「しん改宗かいしゅうしゃ (neophytes)」とばれた[15]洗礼せんれいけたオローニぞくはミッションの周辺しゅうへん移住いじゅうしたが、人口じんこう集中しゅうちゅうによって伝染でんせんびょう蔓延まんえん食糧難しょくりょうなんきおこした。このために故郷こきょうげるものあらわれたが、伝道でんどうしん改宗かいしゅうしゃに、そして最後さいご手段しゅだんとして軍隊ぐんたい使つかって逃亡とうぼうしゃもどさせた。逃亡とうぼうとそのもどしによって伝染でんせんびょう周辺しゅうへん地域ちいき拡大かくだいした[16]

ミッション時代じだいには、「全部ぜんぶで81,000にんのインディアンが洗礼せんれいけ、60,000にん死亡しぼうした」[17]死亡しぼう原因げんいん複数ふくすうあるが、最大さいだい原因げんいん天然痘てんねんとう麻疹ましんジフテリアなどのヨーロッパからの伝染でんせんびょう抵抗ていこうたなかったことにある。べつ原因げんいんとしては狩猟しゅりょう採集さいしゅうから急激きゅうげき生活せいかつ様式ようしき変化へんかしたことにある[17]

メキシコ独立どくりつ、1834ねんにメキシコ政府せいふはミッションを政治せいじからはなすようにめいじ、フランシスコかいによって管理かんりされていた土地とちさい分配ぶんぱいされた。土地とちだい部分ぶぶんがメキシコじんのランチョ(だい牧場ぼくじょう経営けいえいしゃのものとなり、オローニぞくはランチョで労働ろうどうしゃまたはバケーロ(カウボーイ)になってはたらいた。

1840年代ねんだいからアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくからの移住いじゅうしゃ蚕食さんしょくをはじめ、最終さいしゅうてきにカリフォルニアはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく一部いちぶになった(カリフォルニア征服せいふく)。あたらしい移住いじゅうしゃはオローニぞくべつ伝染でんせんびょうをもたらした[18]。1852ねんにはオローニぞく人口じんこうは864にんから1000にんあいだにまでり、さらに減少げんしょうつづけた。オローニ諸語しょご言語げんご最後さいご流暢りゅうちょう話者わしゃであるラムゼン話者わしゃ Isabella Meadows は1939ねん死亡しぼうした[19]。ラムゼン、ムツン、チョチェニョ復活ふっかつさせる運動うんどう一部いちぶでなされている。

語源ごげん[編集へんしゅう]

「コスタノアン」は自称じしょうではない(そとめい)。1769ねんごろ、スペインじん探検たんけん開拓かいたくしゃはこの土地とち先住民せんじゅうみん集団しゅうだんをまとめて「コステニョス」(Costeños海岸かいがんみん)とんでいた。その英語えいごはな開拓かいたくしゃがコステニョスを英語えいごしてコスタノアンという名前なまえをつけた(-an は英語えいご接尾せつび)。長年ながねんにわたり、英語えいご記録きろくではコスタノアンとばれてきた[20]

1960年代ねんだい以降いこう、「オローニ」という名前なまえ先住民せんじゅうみん一部いちぶ一般いっぱんてきメディアで使つかわれ、コスタノアンにってかわった。オローニという言葉ことばは、Oljon というスペインのランチョ(だい牧場ぼくじょう)に由来ゆらいするのかもしれない。その場合ばあい、ペスカデロ・クリークにちか太平洋たいへいようがんにある単独たんどく集団しゅうだん言葉ことばであったことになる。テイシェイラは、オローニという言葉ことばがミッション・サンフランシスコの伝道でんどうしょ記録きろく、バンクロフトの「Native Races」[21]、およびベイエリア訪問ほうもんかんする1826-27ねんのフレデリック・ビーチーズ・ジャーナルの記事きじえるという。ミッション・サンフランシスコの記録きろくでは、オローニは Oljone、Olchones、Alchones のようにことなったつづりでしるされている。しかし、それが一部いちぶぞく由来ゆらいする名前なまえであるため、すべての先住民せんじゅうみんがオローニのれているわけではない。一部いちぶひとはコスタノぞく使つかいつづけるか、あらたに「ムウェクマ」の再生さいせいしようとしている。テイシェイラの主張しゅちょうによれば、オローニのかたり歴史れきしてきにはペスカデロ・クリークの Rancho Oljon にさかのぼるが、1960ねん以降いこう一般いっぱんてきもちいられるようになった。この名前なまえ本来ほんらいしたものはテイシェイラによれば「かつてサンマテオぐん一帯いったい存在そんざいした部族ぶぞく」であり、ミリケンによれば「太平洋たいへいようがんのサングレゴリオ・クリークとペスカデロ・クリークの低地ていち部族ぶぞく」の由来ゆらいする[22]。オローニという名前なまえ有名ゆうめいになったのは、フレデリック・ホールの『サンノゼとその周辺しゅうへん歴史れきし』(1871)に「サンフランシスコからサン・フアン・バウティスタ・ミッションにいたるこのだい(サンタクララ)バレーを放浪ほうろうするインディアンの部族ぶぞくは(中略ちゅうりゃく)オローニまたは(コスタノ)である」という記述きじゅつによるところがおおきい。コスタノまたはオローニにかわる2種類しゅるい名称めいしょう知名度ちめいどてきている。北部ほくぶの「ムウェクマ」と、ムツンぞくの「アマ」である。ムウェクマ(Muwekma)は先住民せんじゅうみん言語げんごであるチョチェニョおよびタミェンかれ自身じしんすことばであり、アマ(Amah)はムツンの人々ひとびと先住民せんじゅうみん言葉ことばである[23]

現状げんじょう[編集へんしゅう]

現在げんざい部族ぶぞくとしての認可にんかもとめている集団しゅうだんとしてはムツン(ホリスターワトソンビル)、ムウェクマ・オローニ・トライブ(サンフランシスコ・ベイエリア)などがある。エセレン・ネーションも自己じこをオローニ/コスタノぞく規定きていしているが、ただしかれらは歴史れきしてきには南部なんぶコスタノ(ラムゼン)のほかに、まったくことなるホカだい語族ごぞくぞくするエセレン使用しようしていた。

現在げんざいのオローニ集団しゅうだん[編集へんしゅう]

先住民せんじゅうみん問題もんだいきょく英語えいごばん認可にんかもとめて係争けいそうちゅうのオローニ部族ぶぞくには以下いかがある[24]

2000ねん段階だんかいで397にん参加さんかしている。ムウェクマ・オローニ・トライブは「サンフランシスコ湾岸わんがん地域ちいき土着どちゃくのすべての現存げんそんする先住民せんじゅうみんであり、ミッション・ドロレス、サンタクララ、サンノゼに先祖せんぞ人々ひとびと」、および歴史れきしてき連邦れんぽうみとめていたアラメダぐんのヴェローナ・バンドによって構成こうせいされる。2006ねん9がつ21にち彼等かれら連邦れんぽう認可にんかする部族ぶぞくとすることを促進そくしんするための裁判さいばんかんして、連邦れんぽう地方裁判所ちほうさいばんしょ判事はんじから好意こういてき意見いけんった[25]先住民せんじゅうみんかんするカリフォルニア政策せいさく顧問こもんだん裁判さいばん援助えんじょおこなった。2011ねん敗訴はいそしたが、控訴こうそした[26]
  • オローニ/コスタノアンインディアンのアマ=ムツン・バンド(ウッドサイド)
アマ=ムツン・バンドは500にん以上いじょう参加さんかしゃがあり、「ムツン・オローニ話者わしゃのさまざまな子孫しそん生存せいぞんしゃ」から構成こうせいされる。だい部分ぶぶんはミッション・サン・フアン・バウティスタで洗礼せんれいした先住民せんじゅうみん子孫しそんである[27]
やく500にん参加さんかしている。部族ぶぞく会議かいぎ主張しゅちょうによれば、ミッション・サン・カルロスとソレダードの直系ちょっけい子孫しそんである13の家系かけいぞくするやく500にん人々ひとびと構成こうせいされる。この部族ぶぞくはかつて連邦れんぽうによって「モントレーぐんのモントレー・バンド」として認可にんかされていた(1906-1908)。参加さんかしゃやく60%がモントレーぐんおよびサンベニトぐんんでいる[28]
  • カーメル・ミッション・インディアンのコスタノアン・バンド(モンロビア)
  • コスタノアン・オローニ・ラムゼン=ムツン・トライブワトソンビル
  • コスタノアン=ラムゼン・カーメル・トライブポモナ/チノ
  • コスタノアン・ムツン・インディアンのインディアン・キャニオン・バンドホリスター近辺きんぺん

人口じんこう[編集へんしゅう]

1769ねんのオローニぞく人口じんこう:
専門せんもんによる意見いけんちが
人口じんこう 出典しゅってん
7,000 Alfred Kroeber (1925)[29]
10,000 以上いじょう Richard Levy (1978)[30]
26,000 (サリナスぞくふくむ)
北部ほくぶミッション・エリア」
Sherburne Cook (1976)[31]
オローニ/コスタノぞく人口じんこう変遷へんせん[32]

西洋せいようじんとの接触せっしょくまえの1769ねん人口じんこうかんする公表こうひょうされた推計すいけいは、7,000にんとするものから[33]サリナスぞくふくめて26,000にんというもの[34]までのはばがある。カリフォルニアしゅう全体ぜんたい先住民せんじゅうみんぞく人口じんこうでもそうだが、歴史れきし学者がくしゃによって推計すいけい人口じんこうおおきなちがいがある。しかし、現代げんだい研究けんきゅうしゃ[だれ?]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく人類じんるい学者がくしゃアルフレッド・L・クローバーによるオローニ/コスタノぞく人口じんこう7,000にんという見積みつもりがひくすぎたとかんがえている。リチャード・レヴィら、よりあたらしい研究けんきゅうしゃは10,000にんないしそれ以上いじょうのオローニぞくがいたとかんがえている[30]

公開こうかいされたうちでもっとも人口じんこうおお見積みつもるのはシャーバーン・F・クックで、「北部ほくぶミッション・エリア」にオローニぞくとサリナスぞくあわせて26,000にんがあったと結論けつろんづけた。クックによれば、「北部ほくぶミッション・エリア」とは、「サンフランシスコとサリナス川上かわかみりゅうあいだの、オローニぞくとサリナスぞくんでいる地域ちいきす。便宜上べんぎじょう、チュマシュぞく土地とちおかすことになるがサンルイスオビスポ管轄かんかつをこれにくわえてもよい」という。クックのモデルでは、オローニぞく土地とちは「北部ほくぶミッション・エリア」の半分はんぶんにあたる。しかし、オローニぞく地域ちいきはサリナスぞく南部なんぶより人口じんこう密度みつどたかいことがられている。クックによれば、「湾岸わんがん地域ちいきのコスタノぞく人口じんこう密度みつどは1平方へいほうマイルあたり1.8にんちかい。エセレンぞくやく1.3にん、サリナスぞくはおそらくもっとひくい。」クック本人ほんにんげんから、オローニぞく人口じんこうやく18,200にん誤差ごさすうせんにん)と推定すいていすることができるものの(「北部ほくぶミッション・エリア」の70%)、クックは正確せいかく数値すうちをあげていない[35]

1769ねんにスペインじん接触せっしょくしたのち、オローニぞく人口じんこう急激きゅうげき下降かこうした。クックは没後ぼつご出版しゅっぱんされた著書ちょしょ『カリフォルニア・インディアンの人口じんこう 1769-1970』のなかで、カリフォルニア先住民せんじゅうみんぞく人口じんこうが1769ねんから1900ねんのあいだに急速きゅうそく下降かこうしたことを記述きじゅつしている。クックによれば「危機きき明白めいはくになるまで人口じんこう数値すうち調査ちょうさおこなわれることはなかった」。1848ねん以前いぜんに、もとの人口じんこうやく10%にまでちこんだ[36]

1900ねん以降いこう人口じんこうおおきな変化へんかられず、2005ねん現在げんざいすくなくとも1,400にん部族ぶぞく会員かいいんすうがある[37]

言語げんご[編集へんしゅう]

オローニぞく語族ごぞく通常つうじょう「コスタノ語族ごぞく」とばれるが、「オローニ語族ごぞく」とばれることもある。コスタノ語族ごぞくは、仮説かせつ段階だんかい語族ごぞくであるペヌーティだい語族ごぞくぞくし、(ミーウォク諸語しょごとともに)ウティ語族ごぞく形成けいせいする。最近さいきん研究けんきゅうでは、コスタノ諸語しょご・ミウォク諸語しょごヨクツ語族ごぞくがそれぞれ単一たんいつのヨク=ウティ語族ごぞくなか一語いちごである可能かのうせいがある[38]

コスタノ語族ごぞくは、8つの方言ほうげんまたは言語げんごから構成こうせいされる:アワスワス、チャロン、チョチェニョ、カルキン、ムツン、ラマイトゥシュ、ラムゼン、タミェン

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 2010 Census CPH-T-6. American Indian and Alaska Native Tribes in the United States and Puerto Rico: 2010”. www.census.gov. 2015ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ 日本語にほんごでのみは以下いかによる:マルコム・マーゴリン、マイケル・ハーニー ちょ冨岡とみおか多恵子たえこ やく『オローニの日々ひび―サンフランシスコ先住民せんじゅうみんのくらしと足跡あしあと人間にんげん家族かぞく編集へんしゅうしつ、2003ねんISBN 4915963268 なお、このほんの pp.5-6には、オローニの末裔まつえいたかちがコスタノアンというをひどくきらっているむねしるされている。原書げんしょかれた1970年代ねんだい状況じょうきょうしめすものかもれない。
  3. ^ せき俊彦としひこ著書ちょしょでは「コスタノアンぞく」とする。参照さんしょうせき俊彦としひこ『カリフォルニア先住民せんじゅうみん文化ぶんかろくいち書房しょぼう、2014ねんISBN 4864450706 
  4. ^ Callaghan 1997
  5. ^ Margolin, Malcolm (1978). The Ohlone Way: Indian Life in the San Francisco-Monterey Bay Area. Berkeley, California: Heyday Books. ISBN 978-0930588014 
  6. ^ Mutsun はムツンでは /mutsun/ だが、英語えいごでは /ˈmʌt.sən/ マットサン のように発音はつおんされることがおおい。ここではムツン発音はつおんによった
  7. ^ 居住きょじゅう領域りょういきについては Kroeber, 1925:462. 人口じんこう村落そんらくすうについては Levy, 1978:485; Teixeira, 1997:1 にもく。村落そんらくめいは Milliken, 1995:231–261, Appendix 1, "Encyclopedia of Tribal Groups". どおりこんころしあいのあらそい、部族ぶぞくあいだ交易こうえきについては Milliken, 1995:23–24. カゴを技能ぎのう身体しんたいかざりと交易こうえきについては Teixeira, 1997:2–3; Milliken, 1995:18. ぶしおどりのまつりについては Milliken, 1995:24.
  8. ^ 収穫しゅうかくのために植物しょくぶつくことについては Brown 1973:3,4,25; Levy 1978:491; Stanger, 1969:94; Bean and Lawton, 1973:11,30,39 (Lewis). 「原始げんしてき農耕のうこう一種いっしゅ」の引用いんようは Brown 1973:4. 海産物かいさんぶつまめたねは Levy 1978:491–492. しょう動物どうぶつわなとらえることは Milliken, 1995:18. 食糧しょくりょう保全ほぜん自然しぜん資源しげん管理かんりは Teixeira, 1997:2.
  9. ^ 水鳥みずとりとウズラ以外いがい動物どうぶつについては Teixeira, 1997:2. 水鳥みずとりとウズラは Levy 1978:291. クレスピの引用いんようは Bean, 1994:15–16. チョチェニョ民話みんわかもは Bean, 1994:106 & 119.
  10. ^ クレスピの引用いんようは "sea lion pavement" Teixeira, 1997:2.
  11. ^ イグサのいえ、レッドウッドのいえ、スウェット・ロッジについては Teixeira, 1997:2. モントレーのレッドウッドのいえは Kroeber, 1925:468. イグサのふねは Kroeber, 1925:468.
  12. ^ 服飾ふくしょくについては Teixeira, 1997:2.
  13. ^ Stanger (1968) p.4
  14. ^ Levy (1978) p.486
  15. ^ Milliken (1995) pp.69-70
  16. ^ Milliken (1995) p.97
  17. ^ a b Bean (1994)
  18. ^ Teixeira (1997) pp.3-4
  19. ^ Hinton (2001) p.432
  20. ^ Teixeira, 1997:4, "The Term 'Costanoan/Ohlone'".
  21. ^ Bancroft, Hubert Howe (1875). The native races of the Pacific states of North America. 3. New York: D. Appleton and Company. p. 453. https://archive.org/stream/nativeraces01bancrich#page/452/mode/2up. "Ohlones (called in Spanish Costanos, or Indians of the Coast)" 
  22. ^ Opinions and quotations, Teixeira 1997:4; Milliken, 1995:249.
  23. ^ ムウェクマの使用しよう定義ていぎについては Teixeira, 1997:4 を参照さんしょう。アマ(Ahmah といている)の翻訳ほんやくについては Bean (1994) におさめる Ann Marie Sayers "The Story of Indian Canyon" を参照さんしょう。アマの使用しようについては Leventhal and all, 1993 および Amah-Mutsun の Webサイト(2007) を参照さんしょう
  24. ^ 500 Nations Web Site - Petitions for Federal Recognition; and Costanoans by Four Directions Institute引用いんようする Sunderland, Larry, Native American Historical Data Base (NAHDB)
  25. ^ Federal Court Case: Breaking News, The Muwekma Ohlone News, (2006-09-21), https://web.archive.org/web/20090509075105/http://www.muwekma.org/news/index.html  (archive.org)
  26. ^ Sue Dremann (2011ねん12月7にち). “Local Native American tribe seeks identity: Muwekma Ohlone lose federal court battle over official recognition of tribe”. PleasantonWeekly.com :. http://www.pleasantonweekly.com/news/show_story.php?id=8259 2012ねん7がつ25にち閲覧えつらん 
  27. ^ Amah-Mutsun Tribe Website; Leventhal and all, 1993.
  28. ^ Ohlone/Costanoan Esselen Nation Today, http://www.esselennation.com/OCENToday.html 2006ねん11月30にち閲覧えつらん 
  29. ^ Kroeber, 1925:464. クローバーはかれのモデルでかく方言ほうげん集団しゅうだん」の人口じんこうが1000にんであったと一般いっぱんし、また7つの方言ほうげんがあったという。
  30. ^ a b Levy, 1978:486.
  31. ^ Cook 1976b:42–43. クックの以前いぜん論文ろんぶんでは 10,000–11,000にんとしていた(参照さんしょう:1976a:183, 236–245)が、のちにすくなすぎるとしてげた。
  32. ^ 西洋せいようじんとの接触せっしょく以前いぜん推計すいけいについては上記じょうき参照さんしょう接触せっしょく以降いこう推計すいけいについては Cook, 1976a:105, 183, 236–245.
  33. ^ Kroeber, 1925:464
  34. ^ Cook 1976b:42-43. 26,000にんのうちにサリナスぞくふくまれることに注意ちゅうい
  35. ^ 北部ほくぶミッション・エリア」の定義ていぎについては Cook, 1976b:20. 人口じんこう密度みつどについては Cook, 1976a:187.
  36. ^ 引用いんようについては Cook, 1976b:200. 1848ねん人口じんこうについては Cook, 1976a:105.
  37. ^ 会員かいいんすうについて、ムウェクマ・オローニ・トライブのホームページは397にん、アマ=ムツン・バンドのホームページでは500にん以上いじょう、オローニ/コスタノぞく=エセレン・ネーションのページではやく500にんとする。
  38. ^ ウティ諸語しょごとペヌーティだい語族ごぞくについては Levy, 1978:485–486 (Kroeber を引用いんよう), Callaghan 1997, Golla 2007 を参照さんしょう。ヨク=ウティ語族ごぞく分類ぶんるい範疇はんちゅうについては: Callaghan 1997, 2001; Golla 2007:76 を参照さんしょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • Bean, Lowell John and Lawton, Harry. 1973. "Some Explanations for the Rise of Cultural Complexity in Native California with Comments on Proto-Agriculture and Agriculture". in Patterns of Indian Burning in California: Ecology and Ethno-history, edited by H. Lewis, pp. v-xvii. Ballena Press Anthropological Papers I. Ramona, California.
  • Brown, Alan K. 1973. Indians of San Mateo County, in La Peninsula:Journal of the San Mateo County Historical Association, Vol. XVII No. 4, Winter 1973–1974.
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  • Cook, Sherburne F. 1976a. The Conflict Between the California Indian and White Civilization. Berkeley and Los Angeles, California: University of California Press, 1976. ISBN 0-520-03143-1. Originally printed in Ibero-Americana, 1940–1943.
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  • Golla, Victor. 2007. "Linguistic Prehistory" in California Prehistory: Colonization, Culture, and Complexity, pp. 71–82. Terry L. Jones and Kathryn A. Klar, editors. New York: Altamira Press. ISBN 978-0-7591-0872-1.
  • Hinton, Leanne. 2001. The Ohlone Languages, in The Green Book of Language Revitalization in Practice, pp. 425–432. Emerald Group Publishing ISBN 0-12-349354-4.
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  • Milliken, Randall. 1995. A Time of Little Choice: The Disintegration of Tribal Culture in the San Francisco Bay Area 1769–1910. Menlo Park, California: Ballena Press Publication. ISBN 0-87919-132-5 (alk. paper)
  • Stanger, Frank M. and Alan K. Brown. 1969. Who Discovered the Golden Gate?: The Explorers' Own Accounts. San Mateo County Historical Association.
  • Teixeira, Lauren. 1997. The Costanoan/Ohlone Indians of the San Francisco and Monterey Bay Area, A Research Guide. Menlo Park, California: Ballena Press Publication. ISBN 0-87919-141-4.

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]