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安 やす 南 みなみ 保護 ほご 国 こく
Protectorat d'Annam Xứ bảo hộ Trung Kỳ 處 しょ 保護 ほご 中 ちゅう 圻
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1883年 ねん - 1945年 ねん
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国歌 こっか : 登壇 とうだん 宮 みや (en )安 やす 南 みなみ (紫 むらさき )
安 やす 南 みなみ (あんなん、フランス語 ふらんすご : l'Annam 、ベトナム語 ご : Trung kỳ / 中 ちゅう 圻 )は、フランス 統治 とうち 時代 じだい のベトナム 北部 ほくぶ から中部 ちゅうぶ を指 さ す歴史 れきし 的 てき 地域 ちいき 名称 めいしょう で、唐 とう 代 だい の安 やす 南都 なんと 護 まもる 府 ふ に由来 ゆらい する。ただし、これはフランス側 がわ の呼称 こしょう であって阮朝 ベトナム(大 だい 南国 なんごく )の行政 ぎょうせい 区分 くぶん における中 ちゅう 圻 (チュンキ)に相当 そうとう している。ベトナム独立 どくりつ 後 ご 、安 やす 南 みなみ に相当 そうとう する地域 ちいき を指 さ す名称 めいしょう にはミエンチュン(中部 ちゅうぶ 地方 ちほう ) (ベトナム語 ご 版 ばん ) (ベトナム語 ご :Miền Trung / 沔中 )が主 おも に用 もち いられ、アンナンは余 あま り用 もち いられない。
フランス の植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 下 か ではインドシナ連邦 れんぽう を構成 こうせい する被 ひ 保護 ほご 国 こく 、即 すなわ ち阮朝 (大 だい 南国 なんごく )支配 しはい 下 か のベトナム中部 ちゅうぶ に対 たい して安 やす 南 みなみ という呼称 こしょう が採用 さいよう された。フランス植民 しょくみん 地 ち 当局 とうきょく がトンキン (東京 とうきょう )とコーチシナ を含 ふく む越 こし 南 みなみ (ベトナム、le Vietnam )を用 もち いることを極力 きょくりょく 避 さ けたこともあって、フランス語 ふらんすご の学術 がくじゅつ 書 しょ などでは、ベトナム全域 ぜんいき の呼称 こしょう としても安 やす 南 みなみ が用 もち いられることが多 おお かった。
ベトナムの独立 どくりつ とその後 ご の歴代 れきだい 君主 くんしゅ に対 たい する中国 ちゅうごく 側 がわ からの安 やす 南国 なんごく 王 おう (一時期 いちじき は安 やす 南都 なんと 統 すべ 使 し )冊 さつ 封 ふう 等 とう に伴 ともな い、歴代 れきだい ベトナム諸 しょ 王朝 おうちょう の統治 とうち する範囲 はんい の地理 ちり 的 てき 名称 めいしょう としても用 もち いられるようになった。歴代 れきだい ベトナム諸 しょ 王朝 おうちょう も中国 ちゅうごく や日本 にっぽん などに対 たい しては安 やす 南 みなみ の国号 こくごう を用 もち いていた。阮朝は越 こし 南 みなみ 、のちに大南 おおみなみ という国号 こくごう を名乗 なの っていた。
1882年 ねん 、アンリ・リビエール (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いるフランス軍 ぐん が再 ふたた びトンキンに侵攻 しんこう した(トンキン戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) )。
フランス保護 ほご 領 りょう アンナン [ 編集 へんしゅう ]
1883年 ねん 、フエ (順化 じゅんか )の阮朝政府 せいふ は、フランスの軍事 ぐんじ 的 てき 圧力 あつりょく の下 した で癸 みずのと 未 み 条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) (第 だい 一 いち 次 じ フエ条約 じょうやく 、アルマン条約 じょうやく )を締結 ていけつ し、安 やす 南 みなみ がフランスの被 ひ 保護 ほご 国 こく であることを承認 しょうにん させられた。この条約 じょうやく はさらに南部 なんぶ のビントゥアン (平 たいら 順 じゅん )をコーチシナ植民 しょくみん 地 ち に割譲 かつじょう し、北部 ほくぶ のタインホア (清 きよし 化 か )、ゲアン (乂安)、ハティン (河 かわ 靜 せい )の3省 しょう をトンキンに編入 へんにゅう すること、安 やす 南 みなみ 地方 ちほう は関税 かんぜい 、土木 どぼく を除 のぞ き阮朝皇帝 こうてい によって統治 とうち されること、首都 しゅと フエにはフランス理事 りじ 官 かん を置 お くこと、トンキンは保護 ほご 領 りょう として実質 じっしつ 的 てき にフランスの管理 かんり 下 か に置 お くことなどを定 さだ めていた。
さらに翌 よく 1884年 ねん には甲 きのえ 申 さる 条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) (第 だい 二 に 次 じ フエ条約 じょうやく 、パトノートル条約 じょうやく )が調印 ちょういん され、フランスの代表 だいひょう である総督 そうとく が安 やす 南国 なんごく の外交 がいこう 権 けん を統括 とうかつ すること、フエ皇宮 こうぐう の一角 いっかく にフランス守備 しゅび 隊 たい を常駐 じょうちゅう させることなどが定 さだ められた。
このようなフランスのベトナムに対 たい する露骨 ろこつ な侵略 しんりゃく は、ベトナムの宗主 そうしゅ 国 こく である清 きよし の介入 かいにゅう を招 まね き、清 しん 仏 ふつ 戦争 せんそう (1884年 ねん – 1885年 ねん )が勃発 ぼっぱつ するが、天津 てんしん 条約 じょうやく によって清 きよし はベトナムに対 たい する宗主 そうしゅ 権 けん を放棄 ほうき する。また、ベトナム国内 こくない では各地 かくち に勤皇 きんのう 運動 うんどう が発生 はっせい し、対 たい 仏 ふつ レジスタンスが展開 てんかい されるが、フエの宮廷 きゅうてい を逃 のが れ、山中 さんちゅう で勤皇 きんのう 運動 うんどう を主導 しゅどう していた咸宜帝 みかど が1888年 ねん 、フランス軍 ぐん に逮捕 たいほ されたことにより、終息 しゅうそく に向 む かうこととなった。
フランス領 りょう インドシナ [ 編集 へんしゅう ]
安 やす 南 みなみ は当初 とうしょ 、フランス外務省 がいむしょう の管轄 かんかつ 下 か に置 お かれていたが、1887年 ねん の政令 せいれい によって海軍 かいぐん 植民 しょくみん 地 ち 省 しょう の管轄 かんかつ 下 か に入 はい り、同時 どうじ に新設 しんせつ されたインドシナ総督 そうとく によって統括 とうかつ されることになる。こうして安 やす 南国 なんごく はインドシナ連邦 れんぽう を構成 こうせい する一員 いちいん となるが、フエ朝廷 ちょうてい の阮朝皇帝 こうてい の下 した でベトナム人 じん 官吏 かんり が国内 こくない 行政 ぎょうせい を担当 たんとう し、1916年 ねん 頃 ごろ までは科挙 かきょ の試験 しけん も実施 じっし されていた。しかし次第 しだい にベトナム語 ご ・フランス語 ふらんすご 混成 こんせい 教育 きょういく 機関 きかん 卒業 そつぎょう 者 しゃ が公務員 こうむいん に登用 とうよう されるようになってゆく。
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