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富山とやま売薬ばいやく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

富山とやま売薬ばいやく(とやまのばいやく)とは、ふるくから富山とやまけんきゅうえつ中国ちゅうごく)を拠点きょてんとしてきた医薬品いやくひん配置はいち販売はんばいぎょう通称つうしょうである。「越中えっちゅう富山とやまくすりり」ともばれる[1]

歴史れきし

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富山とやま本社ほんしゃがあるこうぬきどうくすり

薬種やくしゅしょうはじまり

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薬種やくしゅしょうはじまりは室町むろまち時代ときよとされる。中原なかはらやすしとみの『かんとみ』(1455ねん)の1453ねん5月2にち6月17にち)のじょうに「しょくすりしょうかいせんひつもうあいだごと談合だんごうとするなり。くすりるもの施薬せやくいんしょうはかところなり」といてある。また、『文書ぶんしょ』には1460ねん京都きょうとの四府賀興丁座のなか薬品やくひんるいあきないする商人しょうにんがいたことがしるされている。

富山とやま薬種やくしゅしょうはじまったのは16世紀せいき中頃なかごろ越中えっちゅう薬種やくしゅしょう唐人とうじんができたことである。17世紀せいき初期しょきから中頃なかごろにかけてまるざい散剤さんざい製薬せいやくする専業せんぎょうてんあらわれる。開業かいぎょう当時とうじ薬種やくしゅ販売はんばいのみをおこない、それから製薬せいやくぎょううつったとおもわれる。

創業そうぎょう発達はったつ

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1639ねん加賀かがはんからぶんはんした富山とやまはんおおくの家臣かしん参勤交代さんきんこうたい江戸えど幕府ばくふからめいじられた委託いたく事業じぎょう手伝てつだえ普請ふしんなど)、生産せいさんせいひく領地りょうちといった要因よういん財政難ざいせいなんくるしめられていた。そこで富山とやまはん本家ほんけ加賀かがはん依存いぞんしない経済けいざい基盤きばんをつくるために産業さんぎょう奨励しょうれいした。そのひとつに製薬せいやく売薬ばいやく商法しょうほう)があった。

17世紀せいき終期しゅうき富山とやまはんだい2だい藩主はんしゅ前田まえだただしはじめくすり興味きょうみいてごうやく研究けんきゅうをし、富山とやまではもっと有名ゆうめいごうやく富山とやまはんたましい」が開発かいはつされた。これが富山とやま売薬ばいやく創業そうぎょうとされることがおおいが、実際じっさいはこのころすではんたましい存在そんざいしており、生産せいさん中心ちゅうしん和泉いずみこく現在げんざい大阪おおさか南部なんぶ)であった。 富山とやま本社ほんしゃがある医薬品いやくひん会社かいしゃこうぬきどうによると、せいはじめ腹痛はらいた持病じびょうがあったため胃腸いちょうやくはんたましい関心かんしんっており、富山とやまへは岡山おかやまはん医師いしからつたわっていたという[2]

1690ねん江戸城えどじょう腹痛はらいたになった三春みはるはんおも秋田あきたあきらせいはじめはんたましい服用ふくようさせたところ腹痛はらいた驚異きょういてき回復かいふくした、とされる「江戸城えどじょう腹痛はらいた事件じけん」という巷談こうだんがある。このことにおどろいた諸国しょこく大名だいみょう富山とやま売薬ばいやく行商ぎょうしょう懇請こんせいしたことで富山とやま売薬ばいやく有名ゆうめいになった、とするが、この腹痛はらいた事件じけん史料しりょうてき裏付うらづけはい。ともあれせいはじめ領地りょうちから全国ぜんこくどこでも商売しょうばいができる『りょう商売しょうばい勝手かって』を発布はっぷした。さらに富山とやまじょうした製薬せいやくてん薬種やくしゅ業者ぎょうしゃ自主じしゅてき商売しょうばい保護ほごし、産業さんぎょう奨励しょうれい一環いっかんとして売薬ばいやく奨励しょうれいした。このことがえつちゅう売薬ばいやく発生はっせいおおきな契機けいきとなった。

中世ちゅうせい以来いらい修験しゅげんしゃ護符ごふうしおうたからしるし諸国しょこく越境えっきょうして配布はいふすることがみとめられていたことがられており、八幡やはた神社じんじゃ富山とやまけん八尾やおまち所蔵しょぞうの『当山とうざん古記こきろく』には、富山とやま地方ちほう修験しゅげんしゃ諸国しょこく売薬ばいやくをしていたことを証明しょうめいする記述きじゅつがある[3]。また、江戸えど時代じだい香具師こうぐしみずからを修験しゅげんしゃ後裔こうえい自認じにんし、薬種やくしゅ商売しょうばいやくちかしい存在そんざいとして売薬ばいやく職業しょくぎょうてき本質ほんしつもとめていたことがられている[3]。たとえば、元禄げんろく以後いご薬種やくしゅしょう松井まつい源右衛門げんえもんつらなるものと自称じしょうし、さんげいかたわはんたましいあきなっていた香具師こうぐし集団しゅうだん松井まつい一家かずやつたわる伝説でんせつがある。浅草あさくさ香具師こうぐし松井まついはじめすい所蔵しょぞうの『越中えっちゅう富山とやまはんたましい』によれば、松井まついであり修験しゅげんしゃだった松井まついげんちょう立山たてやまおくいん参籠さんろうしていたところ、立山たてやま権現ごんげん顕現けんげんした一人ひとり老人ろうじんから薬草やくそう調合ちょうごうほうおそわったのがはじまりという。立山たてやま信仰しんこうつかさど修験しゅげんしゃと、都市とし出没しゅつぼつする香具師こうぐし活動かつどう富山とやまはん後押あとおししたことが、富山とやま売薬ばいやく発展はってんした背景はいけいにあるとかんがえられている[3][4]

18世紀せいきになると売薬ばいやくはん一大いちだい事業じぎょうになり、はんたましい商売人しょうばいにんたいする各種かくしゅ心得こころえしめされた。この商売しょうばい道徳どうとく現在げんざいまで富山とやま売薬ばいやく発展はってんさせてきた一因いちいんであるとされる。はん援助えんじょ取締とりしまりをおこなはんたましい役所やくしょ越中えっちゅう売薬ばいやく商品しょうひん種類しゅるいひろげながら次第しだい販路はんろ拡大かくだいしていった。はん監督かんとくしているという信用しんようと、使つかったぶんだけ後払あとばらいで代金だいきん回収かいしゅうする「さき用後ようご」(後述こうじゅつ)という方式ほうしき後押あとおしとなった[2]

明治めいじ以降いこう

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明治めいじになって西洋せいよう医学いがく流入りゅうにゅうし、漢方かんぽう医学いがくやそれらにもとづく和漢薬わかんやくすたれるとともに富山とやま売薬ばいやく苦境くきょうたされ、配置はいち家庭かていやく業界ぎょうかい結束けっそくしてのこりをはかろうとした。こうぬきどうは1876ねん明治めいじ9ねん)、売薬ばいやくしょう共同きょうどう出資しゅっし設立せつりつされた[2]1886ねんには輸出ゆしゅつ売薬ばいやく開始かいしした。明治めいじ末期まっきから大正たいしょうにかけて輸出ゆしゅつ売薬ばいやくおおきくび、中国ちゅうごくアメリカインドなどすうおおくのくに交流こうりゅうがあった。大正たいしょうはじめにはピークにたっし、日貨にっか排斥はいせき運動うんどう活発かっぱつだった中国ちゅうごく市場いちばの8わりきょう輸出ゆしゅつ売薬ばいやくめられた。

20世紀せいきはいると売薬ばいやくかんする制度せいど法律ほうりつ次々つぎつぎ整備せいびされた。1914ねんには売薬ばいやく調整ちょうせい販売はんばい出来できるものの資格しかく責任せきにんさだめた「売薬ばいやくほう」が施行しこうされ、1943ねん品質ひんしつ向上こうじょう確保かくほのため医薬品いやくひん製造せいぞうすべ許可きょかせいとする薬事やくじほうとなった。さらに太平洋戦争たいへいようせんそう1960ねんには薬事やくじほう改正かいせいされ、医薬品いやくひん配置はいち販売はんばいぎょう法文ほうぶんされた。昭和しょうわ20年代ねんだい後半こうはんから昭和しょうわ30年代ねんだいにかけてが配置はいちやくやく産業さんぎょう最盛さいせいで、6わり家庭かてい利用りようするほど普及ふきゅうし、けん滋賀しがけん奈良ならけん岡山おかやまけん佐賀さがけんなど)の企業きぎょう参入さんにゅうした。その国民こくみんみな保険ほけんや、現代げんだいでは医薬品いやくひんドラッグストアなどでも手軽てがる購入こうにゅうできるようになったこともあって利用りようしない家庭かていえた。富山とやまけん集計しゅうけいしている配置はいちやく従事じゅうじしゃは1961ねんの1まん1685にんから2019ねんは597にんり、医療いりょうよう医薬品いやくひん製造せいぞうへシフトする企業きぎょうえた[2]。こうした歴史れきしから、富山とやまけんには現在げんざいいたるまで製薬せいやく会社かいしゃおおい。富山とやまけん厚生こうせいに「くすり政策せいさく」をもうけて、配置はいちやくぎょうふく医薬品いやくひん産業さんぎょう振興しんこう後押あとおししている。富山とやまけん製薬せいやく会社かいしゃ後発こうはつ医薬品いやくひんふくめて各種かくしゅ医薬品いやくひん開発かいはつ生産せいさんしている[5]

商法しょうほう

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さき用後ようご

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さき用後ようごは「もちいることをさきにし、利益りえきから」とした富山とやま売薬ばいやくぎょう基本きほん理念りねんである。創業そうぎょう江戸えど時代じだい元禄げんろくから現在げんざいまで脈々みゃくみゃくがれている。はじまりは富山とやまはん2だい藩主はんしゅせいはじめ訓示くんじようさきにしのちにし、医療いりょう仁恵じんけいびせざる寒村かんそん僻地へきちにまでひろ救療きゅうりょうこころざし貫通かんつうせよ」とつたえられている。

創業そうぎょう当時とうじあらたな売薬ばいやく販売はんばい市場いちばくわわる富山とやま売薬ばいやくは、売薬ばいやく同一どういつされないような販売はんばい戦略せんりゃくてなければならなかった。当時とうじは200ねんにわたる戦国せんごく騒乱そうらんわり江戸えど幕府ばくふ全国ぜんこくしょはん救国きゅうこくずみみんつとめ、とく領民りょうみん健康けんこう保持ほじちかられていた。しかし疫病えきびょう多発たはつし、医薬品いやくひん不十分ふじゅうぶんだった。室町むろまち時代ときよからつづ売薬ばいやくはあったもののみせりはすくなく、くすりあつか商人しょうにんおおくは誇大こだい効能こうのうまわ大道だいどう商人しょうにんおおかった。またこの時代じだい地方ちほう一般いっぱん庶民しょみん日常にちじょう生活せいかつでは貨幣かへい流通りゅうつう十分じゅうぶんではなかった。貨幣かへい蓄積ちくせきすくない庶民しょみんは、医薬品いやくひん家庭かてい常備じょうびすることはできず、病気びょうき都度つど商人しょうにんからもとめざるをなかった。

こうした背景はいけいした医薬品いやくひんまえもってあづけ、必要ひつようとき使用しようし、代金だいきん後日ごじつ支払しはらいのさき用後ようごのシステムは、画期的かっきてきであり、時代じだい要請ようせいにもっていた。

くすり原価げんかが10%で利益りえきが90%だ」という意味いみで「くすりきゅうそうばい」(くすりくそうばい)とも揶揄やゆされたのだが、利益りえきおおきいこと、はこぶものがかるいことなどがさき用後ようご成功せいこうさせた。

配置はいち販売はんばい

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配置はいち販売はんばい富山とやま売薬ばいやく営業えいぎょう形態けいたいとなっている。消費しょうひしゃ家庭かていあらかじ医薬品いやくひんあづけておき半年はんとしごとに巡回じゅんかい訪問ほうもんおこなって使用しようしたぶん代金だいきんり、さらにあたらしい品物しなものあづけるシステムである。医薬品いやくひん医療いりょう機器ききほうでは医薬品いやくひん小売こうり店頭てんとう販売はんばい規定きてい消費しょうひしゃ転売てんばいすることをきんじているため、「まった消費しょうひしゃのもとで配置はいちというかたち陳列ちんれつ販売はんばいをしている」と解釈かいしゃくされている。またあづける医薬品いやくひん配置はいちいん許可きょかせい代金だいきん使用しようされたのちることになっており、小売こうり販売はんばいのように現金げんきん販売はんばいはできない。

かかじょうちょう

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やく業者ぎょうしゃまわ地域ちいきを「かかじょう」(かけば)とんだ。その地域ちいき顧客こきゃく管理かんり簿得意とくいさき台帳だいちょうのことをかかじょうちょう(かけばちょう)といった[6]かかじょうちょう優良ゆうりょう顧客こきゃくれたくすりたねすう家族かぞく構成こうせいなどがしるされ[6]さい訪問ほうもんするさい服用ふくよう指導しどう情報じょうほう提供ていきょうにもやくち、商売しょうばい管理かんりかせないものであった。データベースのはしりともいえ、家庭かていのデータだけでなく、様々さまざまなデータをわすことで、お見合みあいなどの資料しりょうにもなった。業者ぎょうしゃかかじょうちょうはそれがあればだれでも業者ぎょうしゃ集金しゅうきんだかちか売上うりあげだかぬきだか)がられるため、のちにはかかじょうちょう自体じたい財産ざいさん価値かちち、業者ぎょうしゃあいだ多額たがく金額きんがく取引とりひきされるようにもなった[7][8][9][10]

かかじょうちょうあつかった作品さくひんは、小説しょうせつ内田うちだ康夫やすお蜃気楼しんきろう[11]時代じだいげきテレビドラマに水戸黄門みとこうもんだい25だい24(1997ねん6がつ9にち放送ほうそう[12]、『はだか大将たいしょう放浪ほうろう[13][14]など、漫画まんがには石ノ森いしのもり章太郎しょうたろうかいやくかかじょうじょう 九頭竜くずりゅう』がある。おおくの映画えいがにも登場とうじょうし、推理すいり映画えいが場合ばあいは、事件じけんのヒントをあたえることがおおい。

おまけ(おみやげ)

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富山とやま売薬ばいやくひとつの特長とくちょうとしておまけ(おみやげ)をわたすことがげられ、地方ちほうへの文化ぶんか伝播でんぱやくともなった[2]江戸えど時代じだい後期こうきからおこなわれているおまけで人気にんきがあったのが、富山とやま錦絵にしきえ)とばれた売薬ばいやく版画はんが浮世絵うきよえ)で、歌舞伎かぶき役者やくしゃ名所めいしょ風景ふうけい)、ぶくなど色々いろいろ種類しゅるいこすられ全国ぜんこく家庭かていくばられた。そのほか紙風船かみふうせんをはじめ、「わせ」のひょう当時とうじ歌舞伎かぶき情報じょうほうや、紫雲英れんげそうたねなどかるいものを中心ちゅうしん日本にっぽんちゅうくばった。また上得意じょうとくいには、輪島塗わじまぬり若狭わかさぬりぬりばし九谷焼くたにやきさかずき湯飲ゆの茶碗ぢゃわんなどをおみやげとしてわたしていた。現在げんざいもおまけはわたしているが、高級こうきゅうひん進呈しんてい業界ぎょうかいめによりほぼなくなっている。

北原きたはら照久てるひさは『「おまけ」の博物はくぶつ』(PHP新書しんしょ)で「おまけ」のルーツをもとめ、「富山とやまんだ日本にっぽんはつ販促はんそくツール」という一章いっしょうもうけている。

また、「庶民しょみん哲学てつがく」のような言葉ことばひろめたとされる[15]たとえば、「たかいつもりでひくいのが教養きょうよう ひくいつもりでたかいのが気位きぐらい ふかいつもりであさいのが知識ちしき あさいつもりでふかいのがよくかわ あついつもりでうすいのが人情にんじょう うすいつもりであついのがめんかわ つよいつもりでよわ根性こんじょう よわいつもりでつよ自我じが おおいつもりですくない分別ふんべつ すくないつもりでおお無駄むだ」などである。

おもごうやく

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富山とやま売薬ばいやく紹介しょうかいする施設しせつ

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重要じゅうよう有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定してい売薬ばいやく道具どうぐ

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富山とやま県内けんないには富山とやま売薬ばいやく配置はいち販売はんばいぎょう)を紹介しょうかいする施設しせつ上記じょうきのようにある。そのひとつ、富山とやま売薬ばいやく資料しりょうかん収蔵しゅうぞう資料しりょうやく4,000てんうち、846てんふくぜん1,818てんが「富山とやま売薬ばいやく用具ようぐ」として、1981ねん昭和しょうわ56ねん)4がつ22にちくに重要じゅうよう有形ゆうけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい指定していされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 柴田しばたひろしとし越中えっちゅう富山とやまくすりり : 富山とやま配置はいちやく産業さんぎょうと「売薬ばいやくさん」」『専修大学せんしゅうだいがく社会しゃかい科学かがく研究所けんきゅうじょ月報げっぽう』679・680、専修大学せんしゅうだいがく社会しゃかい科学かがく研究所けんきゅうじょ、2020ねん2がつ、50-75ぺーじCRID 1390290699808152960doi:10.34360/00011384ISSN 0286-312XNAID 120006943500 
  2. ^ a b c d e 【47都道府県とどうふけんなぞ富山とやまくすりり、どうして根付ねついた?腹痛はらいたちの藩主はんしゅ商才しょうさい 後払あとばら方式ほうしきでヒット朝日新聞あさひしんぶん土曜どよう朝刊ちょうかんべつり「be」2021ねん5がつ1にち(4めん)2021ねん5がつ7にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c えのきはら雅治まさはるこう利彦としひこ安田やすだ次郎じろうへん宗教しゅうきょう社会しゃかい』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ <しん 体系たいけい日本にっぽん> 2012ねん ISBN 978-4-634-53150-5)pp.428-431.
  4. ^ 根井ねいきよし富山とやま売薬ばいやく修験しゅげんしゃについて」『印度いんどがく佛教ぶっきょうがく研究けんきゅうだい28かんだい2ごう日本にっぽん印度いんどがく仏教ぶっきょう学会がっかい、1980ねん、624-625ぺーじCRID 1390282680353340800doi:10.4259/ibk.28.624ISSN 00194344NAID 1300038298702023ねん10がつ2にち閲覧えつらん 
  5. ^ 富山とやまけんくすり政策せいさく(2018ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  6. ^ a b ひとくすりのあゆみ−かかじょう資料しりょう”. くすりの博物館はくぶつかん エーザイ株式会社かぶしきがいしゃ. 2020ねん8がつ22にち閲覧えつらん
  7. ^ 知的ちてき財産ざいさん評価ひょうか中間なかま報告ほうこく (PDF) 2003ねん7がつ16にち 日本公認会計士協会にほんこうにんかいけいしきょうかい
  8. ^ だい2かい やくさき用後ようご配置はいち制度せいどかんがかた経営けいえい理念りねんかかじょうちょうのそのなか こうぬきどう産業さんぎょう
  9. ^ 歴史れきし体験たいけんスペース こうぬきどう資料しりょうかん越中えっちゅう売薬ばいやく こうぬきどう資料しりょうかん(2021ねん5がつ7にち閲覧えつらん
  10. ^ 吉原よしはら節夫せつお慣習かんしゅうほうじょう財産ざいさんけん近代きんだいほう : 売薬ばいやくかかじょうちょう売買ばいばい担保たんぽをめぐって(いち)」『とみだい経済けいざい論集ろんしゅうだい12かんだい3-4ごう富山大学とやまだいがく経済学部けいざいがくぶ、1967ねん3がつ、691-720ぺーじCRID 1390290699783040640doi:10.15099/00001409hdl:10110/5107ISSN 0286-3642NAID 110000328681 
  11. ^ ISBN 9784101267258
  12. ^ TBS「水戸黄門みとこうもん だい25/21-25
  13. ^ サンテレビ|国内こくないドラマ「はだか大将たいしょう放浪ほうろう」11月15にち(木)もく園長えんちょう先生せんせいゴメンなさい」
  14. ^ はだか大将たいしょう(30) 園長えんちょう先生せんせいゴメンなさい FNN、1988/10/23(テレビドラマデータベース)2021ねん5がつ7にち閲覧えつらん
  15. ^ 寺田てらだスガキ『しんがシャキッとする「言葉ことば」のやく』(東邦とうほう出版しゅっぱん 2000ねん

関連かんれん項目こうもく

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  • 配置はいち販売はんばいぎょう
  • 富山とやま
  • 田代たしろ売薬ばいやく
  • 本草学ほんぞうがくハーブ医学いがく英語えいごばん
  • クアックサルバー - ヨーロッパでのくすりり。効果こうか保証ほしょうされないくすり販売はんばいしていたことから、藪医者やぶいしゃかんがえられていた。
  • Buckelapotheker ドイツばん - ドイツでリュックサックの薬屋くすりやで、Olitätドイツばん(香油こうゆ軟膏なんこう)などを販売はんばいした。
  • チェッレート・ディ・スポレート - ヨーロッパでのくすりりをおおしていた地域ちいき如何いかがわしいくすりりをして、フランス語ふらんすごなどではチェルレト出身しゅっしんしゃ変形へんけいさせシャルラタンとんだ。
  • ポーション - きちんとした医師いし薬剤師やくざいし上記じょうきのような藪医者やぶいしゃねた行商ぎょうしょうじん販売はんばいしていた。貧乏びんぼう人間にんげん魔女まじょばれるようなハーブ医学いがくしゃのほか、売春ばいしゅん助産じょさんとうからくすりていた。
  • 日本にっぽん橋本はしもとまち - 江戸えど時代じだいから薬屋くすりやのきならべ、江戸えど時代じだい以降いこう武田薬品工業たけだやくひんこうぎょう、アステラス製薬せいやくだいいち三共さんきょうなどが本社ほんしゃくことから、くすりまちとされている。
  • 道修どしょうまち - 江戸えど時代じだいに、きよしやオランダからの輸入ゆにゅうやくあつか薬種やくしゅ問屋とんやかれた。江戸えど時代じだい以降いこうすうおおくの製薬せいやく会社かいしゃ薬品やくひん会社かいしゃかれていることから、くすりまちとされている。

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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