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小川おがわひろしショー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
小川おがわひろしショー
ジャンル ワイドショー情報じょうほう番組ばんぐみ
司会しかいしゃ 小川おがわひろし
木元きもと教子きょうこ
露木つゆきしげる
芳村よしむら真理まり
田代たしろ美代子みよこ
山川やまかわ建夫たけお
藤田ふじた弓子ゆみこ
はま美枝みえ
松倉まつくら悦郎えつろう
三上みかみ彩子あやこ
芦川あしかわよしみ
新井あらい春美はるみ
頼近よりちか美津子みつこ
陣内じんないまこと
出演しゅつえんしゃ 出演しゅつえんしゃ参照さんしょう
くに地域ちいき 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本の旗日本語にほんご
製作せいさく
制作せいさく フジテレビジョン
放送ほうそう
放送ほうそうチャンネルフジテレビ系列けいれつ
音声おんせい形式けいしきモノラル放送ほうそう
放送ほうそうこく地域ちいき日本の旗 日本にっぽん
放送ほうそう期間きかん1965ねん5月1にち - 1982ねん3月31にち
放送ほうそう時間じかん平日へいじつ 9:00 - 10:30
→8:30 - 9:55
放送ほうそうわくフジテレビ系列けいれつ平日へいじつ午前ごぜんのワイドショーわく
放送ほうそうぶん90ふん→85ふん
回数かいすう4451かい
番組ばんぐみ年表ねんぴょう
つぎさくおはよう!ナイスディ

特記とっき事項じこう
開始かいしから1966ねん11月までは土曜日どようびでも放送ほうそうされていた。
1967ねん3月1にち[1]1969ねん12月31にち放送ほうそうぶん[2]およ1970ねん4がつ1にち放送ほうそうぶん以降いこうからカラー放送ほうそう[3]
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小川おがわひろしショー』(おがわひろしショー)は、1965ねん5月1にちから1982ねん3月31にちまでの17年間ねんかんにわたりフジテレビ系列けいれつ生放送なまほうそうされた平日へいじつあさワイドショー情報じょうほう番組ばんぐみで、小川おがわひろしかんむり番組ばんぐみである。ぜん4451かい

概要がいよう

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番組ばんぐみ開始かいしから1966ねん11月までは、毎週まいしゅうがつ - 土曜日どようび放送ほうそうで、その番組ばんぐみ終了しゅうりょうまでは、毎週まいしゅうがつ - 金曜日きんようび放送ほうそうとなる。

この企画きかくは、NET(げんテレビ朝日てれびあさひ)が『モーニングショー』(当時とうじ木島きしま則夫のりお司会しかい)を1964ねん4がつ1にちはじめたことに刺激しげきけ、当時とうじのフジテレビ制作せいさく部内ぶない検討けんとうかさね、企画きかくをまとめたもの[4]企画きかく段階だんかいでのコーナーは全国ぜんこく5きょくからの中継ちゅうけいや、「どもの広場ひろば」をれていたものの、問題もんだい総合そうごう司会しかいで、フジテレビ内部ないぶには人材じんざいがいなかった[4]。そこで、もとNHKアナウンサーで当時とうじ営業えいぎょう部長ぶちょうげた4にんのNHKのアナウンサーのうち1人ひとり小川おがわひろしだった[4]

その小川おがわとフジテレビがわとのはないが1965ねん1がつおこなわれ、担当たんとうしゃが「フジの看板かんばんとなるようなニュースショーをやりたいが、なにとか協力きょうりょくしてくれないか」というと小川おがわが、「わたし是非ぜひやりたいが、相談そうだんするひとがいるので若干じゃっかん時間じかんを」とこの時点じてんでまとまらなかったのだが、3かいはないで、契約けいやくきんについてフジテレビがわからすと、小川おがわは「それで結構けっこうです。ただし、契約けいやくは1ねんごとということですが、最初さいしょは2ねんにしてください」と発言はつげんした[4]。こうして小川おがわをNHKからフジテレビにきょく契約けいやく嘱託しょくたくしょく)として移籍いせきさせたうえで起用きよう、1965ねん5がつ3にち主婦しゅふけワイドショー番組ばんぐみとして放送ほうそう開始かいし

当初とうしょおもだったコーナーはなく、ニュースや電話でんわによる相談そうだんコーナー、それに、「どもの広場ひろば」のコーナーで、構成こうせいされていたが、番組ばんぐみ開始かいしから2年間ねんかん視聴しちょうりつ劣勢れっせいつづいていた[4]。そこで、企画きかく検討けんとう結果けっか、「個性こせいある番組ばんぐみづくり」をおこなうため、「曜日ようびごとのテーマ」の企画きかく方針ほうしん一新いっしんした[4]。そのなかで、スタート2ねんあきよりスタートした「初恋はつこい談義だんぎ」が話題わだいとなり、以後いご、「ご存知ぞんじですかこのひとを」、「金曜きんよう編集へんしゅうしつ」、「わたしのふるさと」、「いたずら談義だんぎとうのトークコーナーを中心ちゅうしんとしたサロントークがたワイドショーとして人気にんきはく一方いっぽう、アシスタントやく露木つゆきしげる話題わだい事件じけん事象じしょう独自どくじ徹底てってい取材しゅざいする「露木つゆきレポート」や生放送なまほうそう利点りてんかした現場げんば中継ちゅうけい多用たようによりニュースショーとしてもたか定評ていひょう獲得かくとくし、あさ人気にんき番組ばんぐみへと躍進やくしんしたばかりでなく、モーニングショーにいでネットきょくおお番組ばんぐみとなった。

ちなみにとう番組ばんぐみは、開始かいし当初とうしょ白黒しろくろ放送ほうそうであったが、1967ねん3月1にちに、フジテレビの開局かいきょく8周年しゅうねん記念きねんとして特別とくべつにカラーで生放送なまほうそう。これが、同局どうきょく制作せいさくいてはつのカラー生放送なまほうそうとなった。このは、1967ねんのパリのニューモードのファッションショーや、「どもの広場ひろば」のコーナーでは、による子供こども性格せいかく知能ちのうテストの紹介しょうかいとう放送ほうそうされた[1]。その1969ねん12月31にち(大晦日おおみそか)放送ほうそうの「初恋はつこい談義だんぎ特集とくしゅう」がカラーで放送ほうそうされ[2]1970ねん4がつ1にちからは毎回まいかいカラー放送ほうそうとなった。[3]

番組ばんぐみ終焉しゅうえんとその

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1982ねん1がつ26にち、フジテレビは3月で番組ばんぐみ終了しゅうりょう発表はっぴょう[5]

1982ねん3がつ、フジテレビのあさ時間じかんたい編成へんせい見直みなおしにともない『ママとあそぼう!ピンポンパン』ととも終了しゅうりょう。17ねん放送ほうそうまくろした。最終さいしゅうかいではスタジオに歴代れきだいアシスタントや、だい1かいゲストの坂本さかもときゅうをはじめとする各界かくかい著名ちょめいじん小川おがわとゆかりのある人物じんぶつ集合しゅうごうした。そしてラストは、半年はんとしまえ最終さいしゅうかいむかえた『スターせんいち』でもわかれをべた森繁もりしげ久彌ひさや登場とうじょうしてわかれをべ、最後さいご坂本さかもときゅうが『さよなら さよなら』をうたってめくくった。こう番組ばんぐみは『おはよう!ナイスデイ』である。

放送ほうそう期間きかん17ねんぜん放送ほうそう回数かいすう4451かいおよ記録きろくは、おなじフジテレビの『森田もりた一義かずよしアワー わらっていいとも!』にやぶられるまで、個人こじんめいかんしたテレビ番組ばんぐみとしては世界せかい最長さいちょうで、後継こうけい番組ばんぐみの『情報じょうほうプレゼンター とくダネ!』(1999ねん4がつ1にち~2021ねん3がつ26にち)が2016ねん7がつ28にち放送ほうそうぶんやぶるまでは「どういち司会しかいしゃによる全国ぜんこくネット番組ばんぐみとしての最多さいた放送ほうそう回数かいすう」も記録きろくしていた[4]

土曜日どようびばんり、関西かんさいテレビ制作せいさく移行いこう

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1966ねん12月から土曜日どようび放送ほうそうってどうわく関西かんさいテレビ制作せいさくわく移行いこうして『ハイ!土曜日どようびです』をスタートさせた。なお、金曜日きんようび放送ほうそうでは番組ばんぐみ最後さいご小川おがわが「明日あした関西かんさいテレビからおおくりします」とげていた。その関係かんけいで、『ハイ!土曜日どようびです』のサブ司会しかいけんリポーターを桑原くわばらただしたいら[6]担当たんとう時点じてんでは同局どうきょくアナウンサー)がつとめていた時期じきには、桑原くわばらとう番組ばんぐみにも出演しゅつえんすることがあった。なお、『ハイ!土曜日どようびです』も本番ほんばんぐみ同時どうじ終了しゅうりょうしており、ほん番組ばんぐみ最終さいしゅうかい4にちまえの1982ねん3がつ27にち最終さいしゅうかいむかえ、15ねん4かげつ放送ほうそうまくろした。

番組ばんぐみタイトル

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タイトル

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  • 1965ねん5がつ1にち - 1980ねん3がつ28にち おくさまスタジオ 小川おがわひろしショー
  • 1980ねん3がつ31にち - 1982ねん3がつ31にち フレッシュワイド8:30 小川おがわひろしショー
  • 1965ねん5がつ1にち - 1980ねん3がつ28にち、1982ねん3がつ30にち - 31にち 奥様おくさまスタジオ・小川おがわひろしショー(作曲さっきょく平岡ひらおか精二せいじ
  • 1980ねん3がつ31にち - 1982ねん3がつ29にち 小川おがわひろしショーのテーマ "smiling people" (うたハイ・ファイ・セット
    • ハイ・ファイ・セットのアルバム『3 NOTES』には、「うぬぼれスマイル」として収録しゅうろくされているが、こちらはアレンジや音程おんていがややひくくなっている。

放送ほうそう時間じかん

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すべてJST

  • 1965ねん5がつ1にち - 1980ねん3がつ28にち 9:00 - 10:30
    • 1965ねん5がつから1966ねん11がつまでは月曜げつようから土曜どようまでの放送ほうそう、1966ねん12がつ以降いこう月曜げつようから金曜きんようまでの放送ほうそう
  • 1980ねん3がつ31にち - 1982ねん3がつ31にち 8:30 - 9:55

出演しゅつえんしゃ

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メイン司会しかい・パートナー司会しかい

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期間きかん メイン司会しかい パートナー司会しかい
男性だんせい 女性じょせい
1965.5.1 1966.12.2 小川おがわひろし[7] 露木つゆきしげる 木元きもと教子きょうこ
1966.12.5 1968.3.29 芳村よしむら真理まり
1968.4.1 1968.12.31 田代たしろ美代子みよこ
1969.1.6 1970.3.31 松村まつむら満美子まみこ
1970.4.1 1971.1.29 山川やまかわ建夫たけお
1971.2.1 1972.3.31 不在ふざい
1972.4.3 1973.6.29 松倉まつくら悦郎えつろう
1973.7.2 1975.5.30 藤田ふじた弓子ゆみこ
1975.6.2 1975.10.3 はま美枝みえ
1975.10.6 1976.6.4 露木つゆきしげる
1976.6.7 1977.12.2 三上みかみ彩子あやこ
1977.12.5 1979.3.30 加賀かが富美子とみこ
1979.4.2 1980.3.31 露木つゆきしげる
本間ほんま正彦まさひこ
芦川あしかわよしみ
1980.4.1 1981.3.31 新井あらい春美はるみ
1981.4.1 1982.3.31 陣内じんないまこと[7] 頼近よりちか美津子みつこ[7]

備考びこう

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  • 小川おがわ番組ばんぐみ開始かいしから終了しゅうりょうまで出演しゅつえん
  • 男性だんせいほんあいだがフジテレビ報道局ほうどうきょく記者きしゃもとフジテレビアナウンサー本間ほんま淳子じゅんこおっとげん情報じょうほう制作せいさくきょく取材しゅざい担当たんとう局長きょくちょう)、そのはフジテレビアナウンサー。
  • 女性じょせいのうちさんじょう加賀かが頼近よりちかはフジテレビアナウンサー(当時とうじ)。
  • 1979ねん3がつまではサブ司会しかいしゃ番組ばんぐみないなまCMも担当たんとう
  • 露木つゆきは、1970ねん3がつ31にち放送ほうそう一旦いったん司会しかい降板こうばんしたが、この偶然ぐうぜんにもよどごうハイジャック事件じけん発生はっせいどう事件じけん自身じしん当時とうじっていたコーナーである「露木つゆきレポート」のなか重点的じゅうてんてきあつかことになったためにそのまま番組ばんぐみ出演しゅつえん継続けいぞく。このさい取材しゅざい・レポートりがきょく内外ないがい好評こうひょうたためにどう事件じけん報道ほうどう一段落いちだんらくいたのちもレポーターとしてそのままレギュラー出演しゅつえん継続けいぞく(1971ねん4がつ以降いこうは、レポーターあつかいながらサブ司会しかいしゃかく位置いちづけで出演しゅつえん取材しゅざいなどで遠方えんぽうおもむ必要ひつようがない場合ばあいには、山川やまかわ起用きようまえ同様どうよう小川おがわ松村まつむらのスタジオ進行しんこう補助ほじょする役回やくまわりもつとめた)。1975ねん10がつからは山川やまかわ降板こうばんからやく1ねんほど空席くうせきとなっていたあらたな男性だんせいサブ司会しかいしゃ抜擢ばってきされた松倉まつくらのちかたち正式せいしき司会しかいじん復帰ふっきすることとなった(なお、2度目どめ正式せいしきなサブ司会しかいしゃとしての出演しゅつえんは1981ねん3がつまでだが、そのもレポーター・報道ほうどうセンター担当たんとうとして番組ばんぐみへの出演しゅつえんつづけ、最終さいしゅうかい当時とうじ司会しかいトリオである小川おがわ陣内じんない頼近よりちかとともに司会しかい進行しんこう担当たんとうした)。
  • ほんあいだ上述じょうじゅつ露木つゆき同様どうようにレポーター兼任けんにんかたち司会しかいじん参加さんか露木つゆきほんあいだいずれか一方いっぽう小川おがわのパートナーを担当たんとうし、もう一方いっぽう中継ちゅうけいレポーターを担当たんとうするかたち番組ばんぐみ出演しゅつえん)。
  • 三上みかみ前任ぜんにん女性じょせいアシスタント・はま美枝みえ降板こうばんかいである1976ねん6がつ4にち放送ほうそうぶんより出演しゅつえん当日とうじつ司会しかい引継ひきつぎをねて小川おがわ露木つゆきはまさんじょうの4にん司会しかい進行しんこう担当たんとうした。

リポーター

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コーナーレギュラー

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  • 吉岡よしおかたすく(「テレビ教室きょうしつ」(1976ねん10がつより新設しんせつ)コーナー担当たんとう
  • 千家せんげ和也かずや(「あなたがつくる歌謡かようきょく」(1975ねん7がつより新設しんせつ)コーナー担当たんとう
  • 三國みくに一朗いちろう(「金曜きんよう編集へんしゅうしつ」(1970ねん4がつより新設しんせつ)コーナー担当たんとう
  • 五味ごみ康祐こうすけ(「人相にんそうがくコーナー」(1969ねん1がつより新設しんせつ担当たんとう
  • 木島きしま則夫のりお(「国会こっかいレポート」(1971ねん7がつ26にちより新設しんせつ担当たんとう[9]
  • 西川にしかわきよし(「むりやりジャンケン」(1976ねん1がつより新設しんせつ)コーナー担当たんとう

エピソード

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  • 平日へいじつ午前ごぜん生放送なまほうそう番組ばんぐみながら、出演しゅつえんゲストは俳優はいゆう女優じょゆうから芸人げいにん歌手かしゅ政治せいじスポーツ選手せんしゅ小説しょうせつ大学だいがく教授きょうじゅなどの文化ぶんかじんなどオールマイティーにおよび、そのゲストの人選じんせん幅広はばひろさもどう番組ばんぐみ特徴とくちょうとなっていた。なかにはとう番組ばんぐみへのゲスト出演しゅつえんにより、それまでられることのなかったいちめん紹介しょうかいされ、それがきっかけとなって仕事しごとはばひろがり、人気にんきがった出演しゅつえんしゃもいた。
  • 1966ねん12月より産休さんきゅうのため降板こうばんした木元きもと教子きょうこわって2代目だいめ女性じょせい司会しかいしゃとなった芳村よしむら真理まりは、この番組ばんぐみ司会しかい起用きよう女優じょゆうぎょう一切いっさい廃業はいぎょう司会しかいしゃ放送ほうそうタレントとしてのみちあゆはじめた。芳村よしむら起用きようされて最初さいしょ放送ほうそうさい当時とうじ流行りゅうこうきざしにあったミニスカート着用ちゃくようして司会しかいのぞんだが、これにたいして「あさ番組ばんぐみでミニスカートはけがらわしい」といった抗議こうぎ電話でんわ殺到さっとうしたという。しかし、芳村よしむらは(スタイリングをすべ自身じしんまかせてくれること条件じょうけん司会しかいけた事情じじょうもあり)そのもミニスカートを番組ばんぐみない着用ちゃくようし、それにくわ最新さいしんファッションとしてしばしば番組ばんぐみ随所ずいしょでファッションショーコーナーをもうけて宣伝せんでんしたりもした。そのうち、1967ねんはいるとツイッギー来日らいにち契機けいきにミニスカートブームがこるようになると急速きゅうそく批判ひはん下火したびとなり、番組ばんぐみりるころには「最初さいしょ下品げひんだと批判ひはんしていたけど、いまじゃわたしもほかのおくさんたちもみんなミニをいてます」とうといった投書とうしょ電話でんわ芳村よしむらてにとどくようになっていたという(これが芳村よしむらが「日本にっぽんのテレビ番組ばんぐみでミニスカートを着用ちゃくようして出演しゅつえんした女性じょせいタレントの草分くさわけ」の一人ひとりとしてがる要因よういんとなっている)。
  • 1966ねん大晦日おおみそか(12月31にち)は、通常つうじょうわく特別とくべつ番組ばんぐみ舟木ふなき一夫かずおのすべて』を放送ほうそうしたため、史上しじょう唯一ゆいいつよる放送ほうそう、それも年越としこ番組ばんぐみとして23:45 - よく0:15に放送ほうそうされた[10]当時とうじフジテレビは『ゆくとしくるとし』(民放みんぽうばん)を放送ほうそうしていなかったため、このようこと出来できた(フジテレビが『ゆくとしくるとし』を放送ほうそうするのは1971ねんから)。
  • 1967ねん12がつまつにゲスト出演しゅつえんした高峰たかみね三枝子みえこは、当日とうじつ放送ほうそう風邪かぜ欠席けっせきした小川おがわわって臨時りんじ司会しかい担当たんとう。このとき進行しんこうぶりが注目ちゅうもくされ、翌年よくねんはるにスタートした平日へいじつ午後ごごのワイドショー番組ばんぐみ3のあなた』の初代しょだいメイン司会しかいしゃへの起用きようつながったという[11]
  • 1968ねん当時とうじ放送ほうそうちゅうのドラマ「おとこはつらいよ」で主人公しゅじんこうくるま寅次郎とらじろう(渥美あつみきよし)が下着したぎ泥棒どろぼうつかまえたまち英雄えいゆうとしてなま出演しゅつえんする設定せっていかいがあった。とう番組ばんぐみのセットを利用りようし、小川おがわひろし露木つゆきしげる田代たしろ美代子みよこ本人ほんにんやく特別とくべつ出演しゅつえん調子ちょうしった寅次郎とらじろう出番でばんわったにもかかわらず、カメラのまえうつろううつろうとして番組ばんぐみをメチャクチャにする内容ないようであった。また1970ねんのドラマ「おれの義姉ぎしさん」では主人公しゅじんこうおき熊吉くまきち(渥美あつみきよし)が人気にんき女優じょゆう(黒柳くろやなぎ徹子てつこ)の初恋はつこいひととして出演しゅつえん、ただし黒柳くろやなぎまったおぼえていないと設定せっていかいがあった。こちらは小川おがわひろし露木つゆきしげる松村まつむら満美子まみこ特別とくべつ出演しゅつえんしている。どちらもおなじフジテレビのスタジオを使用しようする人気にんき番組ばんぐみ同士どうしだったために実現じつげんした企画きかくである。
  • 1969ねん10がつ、「ご存知ぞんじですかこのひとを」コーナーに田中たなか角栄かくえい自民党じみんとう幹事かんじちょう当時とうじ)がゲスト出演しゅつえん田中たなかは1972ねん総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんするまで、テレビ・ラジオへも積極せっきょく出演しゅつえんする姿勢しせいっており、大蔵おおくら大臣だいじん就任しゅうにん当時とうじには日本にほんテレビけい自身じしん司会しかいつとめる『大蔵おおくら大臣だいじんアワー』やNET(げんテレビ朝日てれびあさひけいで『ふたりではなそう 幹事かんじちょう書記しょきちょう』が編成へんせい放送ほうそうされたほか、『みっつのうた』(NHK)、『NHK紅白こうはく歌合戦うたがっせん』、『ひと歴史れきしあり』(東京とうきょう12チャンネル)などにもゲストとして出演しゅつえんした経験けいけんっている。 
  • 1970ねん4がつより2代目だいめ男性だんせいアシスタントとして起用きようされた山川やまかわ建夫たけおは、当時とうじ『3のあなた』のしゅう後半こうはんのメイン司会しかいつとめていた山口やまぐち淑子としこ番組ばんぐみベトナム戦争せんそう現地げんち取材しゅざいレポートをおこなったけんれ、「2週間しゅうかん程度ていど取材しゅざい戦争せんそう実体じったいがわかるのか」とこれを猛烈もうれつ批判ひはん。これががねとなってわずか10ヶ月かげつ番組ばんぐみ降板こうばんさせられた(降板こうばん当日とうじつ山川やまかわ小川おがわから視聴しちょうしゃへの一言ひとこともとめられ、「番組ばんぐみめるのではない、めさせられるのだ」とこの降板こうばん処分しょぶん抗議こうぎ発言はつげんをした[12]。なお番組ばんぐみサイドでは山川やまかわ短期たんき降板こうばんにつき、「番組ばんぐみリニューアルの一環いっかんとして男女だんじょペアの司会しかい体制たいせいにしたかったので山川やまかわ降板こうばんさせざるをえなくなった」と説明せつめいしていた)。その男性だんせいアシスタントはしばらく空席くうせきのままだったが、1972ねんからは山川やまかわ同期どうきでスポーツアナの松倉まつくら悦郎えつろうあらたに司会しかいじんくわわり、従前じゅうぜんのトリオ司会しかい体制たいせいもどされた(なお露木つゆきはレポーターとしての出演しゅつえんつづけたのち、1975ねんより松倉まつくら後任こうにんとしてふたたびサブ司会しかいしゃ復帰ふっき)。
  • 1974ねん6がつ戦時せんじちゅう実父じっぷ夭折ようせつによって一家いっか離散りさんとなった大村崑おおむらこんわかれとなっていた実弟じってい当時とうじ名古屋なごや在住ざいじゅう)とやく25ねんぶりの再会さいかいたす。元々もともと、1968ねん大村おおむらから番組ばんぐみ製作せいさくサイドに「戦時せんじちゅうわかれになったおとうとさがしてほしい」との依頼いらいがあり、実弟じってい所在しょざい自体じたい調査ちょうさ開始かいしからすうヶ月かげつしかたない段階だんかいすで判明はんめいしていたが、その時点じてんでは実弟じっていがわ事情じじょう当時とうじ実弟じってい自身じしん養子ようしされたであることをまったらなかったこと養親ようしん病臥びょうがにあったことなど)を考慮こうりょして、「いま再会さいかいもうけるべき時期じきではない」と製作せいさくサイドが判断はんだん一旦いったん企画きかく自体じたい保留ほりゅうされていた。しかし、1974ねんごろじつおやくなり、スタッフが実弟じってい接触せっしょくこころみ、そこでわされたスタッフとの交渉こうしょう内容ないようもと実弟じってい親族しんぞくらにきまわった結果けっか自身じしん大村おおむら血縁けつえん関係かんけいにあることを確信かくしん番組ばんぐみへの出演しゅつえん受諾じゅだく。そして大村おおむら依頼いらいから6ねんにして両者りょうしゃはようやく再会さいかいたすこととなった[11]
  • 1975ねん6月3にち放送ほうそうは、当時とうじ同時どうじあいだたい(9だい時間じかん重複じゅうふく)していたニッポン放送にっぽんほうそうのラジオ番組ばんぐみあさはおまかせアンコーです!』との二元にげん放送ほうそうおこなわれた。小川おがわひろしのこの番組ばんぐみ生放送なまほうそうちゅうこえがニッポン放送ほうそうでもながれた一方いっぽうで、ニッポン放送にっぽんほうそうのスタジオに出演しゅつえんちゅう斉藤さいとう安弘やすひろ姿すがたもテレビにうつされていた[13]
  • 1976ねん10がつ5にちおなじくフジあさ番組ばんぐみママとあそぼう!ピンポンパン』が放送ほうそう10周年しゅうねんむかえ、初代しょだいおねえさん・渡辺わたなべ直子なおこ、2代目だいめおねえさん:石毛いしげ恭子きょうこ、そして3代目だいめおねえさんの酒井さかいゆきえが、『ピンポンパン』同年どうねん10がつ18にち・10月19にち放送ほうそうぶん先駆さきがけてとう番組ばんぐみにゲスト出演しゅつえんした。この『ピンポンパン』は、酒井さかい時代じだいの1975ねん5がつ2にちに、小川おがわひろしがフジのぜん番組ばんぐみ出演しゅつえんする企画きかく5・2小川おがわひろしのテレビアタック24あいだ!!』の一環いっかんとして、小川おがわ参加さんかしたこともあった。
  • 1976ねん10がつに「せ!小川おがわひろしショー」とだいして広島ひろしまけん三次みつぎからに出演しゅつえんしゃ・スタッフ全員ぜんいんんでのなま中継ちゅうけい企画きかく実施じっし。この企画きかく好評こうひょうたため、よく1977ねん3がつより、原則げんそくとして毎月まいつき最終さいしゅう金曜日きんようび地方ちほうからの全編ぜんぺん生放送なまほうそう企画きかく放送ほうそうされるようになった(1979ねん3がつまで)。
  • 1977ねん3がつ18にち司会しかいしゃの「適格てきかく適格てきかく」をテーマにした特集とくしゅうで「しゃべれない司会しかいしゃ」として数日すうじつまえ降板こうばんさせられたNETテレビの『モーニングショー』のよん代目だいめ司会しかいしゃであった竹中たけなか陽一よういちがゲスト出演しゅつえんし、『モーニングショー』の初代しょだい司会しかいしゃ木島きしま則夫のりお共演きょうえんする[14]。そのさい竹中たけなかじつはおしゃべりであることが発覚はっかくした[14]
  • 1977ねんまつ新設しんせつされた「希望きぼう」コーナーないで、脳性のうせい麻痺まひ少年しょうねんが、当時とうじ通学つうがくしていた養護ようご学校がっこう教諭きょうゆ助力じょりょくりて創作そうさくした「おかあさん ごめんなさいね」がその壮絶そうぜつ製作せいさく過程かてい少年しょうねんきの出来できないほどの重度じゅうど障害しょうがいっていたため、教諭きょうゆ五十音ごじゅうおんひとつずつボディランゲージのような手法しゅほうもちいて少年しょうねんしし、そのなか少年しょうねん表情ひょうじょう視点してん変化へんかから関心かんしんしめしたとおぼしきおとひとつずつをノートにしながらいちへん作成さくせいしていくというものであった)をふくめて話題わだいとなり、のち遠藤えんどうみのるきょくをつけ、ゲスト出演しゅつえんしたもり昌子まさこうた披露ひろう放送ほうそう、100ほん以上いじょう電話でんわやく70つう手紙てがみがフジテレビにせられるなどおおきな反響はんきょうんだ[11]
  • 1979ねん2がつ休日きゅうじつ企画きかくとして当代とうだい人気にんき声優せいゆう多数たすうゲストにまねいての「人気にんきアニメ声優せいゆう勢揃せいぞろい」企画きかく実施じっし(ゲストはささきいさお山田やまだ康雄やすお小原おはら乃梨子のりこ野沢のざわ雅子まさこ松島まつしまみのり富田とみた耕生こうせい富山とみやまたかし石丸いしまる博也ひろや杉山すぎやま佳寿子かずこほか)。『銀河ぎんが鉄道てつどう999』『タイムボカンシリーズ』『SF西遊せいゆうスタージンガー』(フジテレビけい)、『キャンディ・キャンディ』『闘将とうしょうダイモス』(テレビ朝日てれびあさひけい)をはじめとして、民放みんぽう各局かくきょくで18だい〜19だい編成へんせいされたテレビアニメ番組ばんぐみ軒並のきなだか視聴しちょうりつ獲得かくとくし、テレビ情報じょうほう漫画まんが雑誌ざっしなどでそれら番組ばんぐみのメインキャラクターのこえ担当たんとうしている声優せいゆうたちにスポットをてた特集とくしゅう記事きじおおまれるようになるなど、一種いっしゅのテレビアニメブームともいうべき様相ようそうていしつつあったなかで、アニメのおも視聴しちょうしゃそうである児童じどう少年しょうねんそう在宅ざいたくりつたか休日きゅうじつねらって編成へんせいされた企画きかくだったが、当時とうじ多数たすう人気にんき声優せいゆう一堂いちどうかいして顔出かおだしでテレビに登場とうじょうすること自体じたいめずらしかったのもあって、スタッフが想像そうぞうしていた以上いじょう幅広はばひろ年代ねんだい視聴しちょうしゃからおおきな反響はんきょう獲得かくとく当時とうじ平均へいきん10%前後ぜんごであったとう番組ばんぐみ視聴しちょうりつがこのかいはほぼ2ばい数字すうじ(21.8%)にがった[11]
  • 小川おがわ訃報ふほう公表こうひょうされた翌日よくじつの2016ねん12月6にち放送ほうそうされた後継こうけい番組ばんぐみ情報じょうほうプレゼンター とくダネ!』では当時とうじ映像えいぞう一部いちぶ放送ほうそうされ、サブ司会しかいしゃ露木つゆき藤田ふじた電話でんわインタビューにおうじた。なお、当時とうじ映像えいぞうでは露木つゆき松倉まつくら藤田ふじた映像えいぞうはそのまま放送ほうそうされていたが、さい末期まっきのオープニング映像えいぞううつ陣内じんない頼近よりちかには理由りゆう不明ふめいだがかおふく全身ぜんしんにモザイク処理しょりがされていた(陣内じんないすで一般人いっぱんじん頼近よりちか死去しきょしている事情じじょう原因げんいんおもわれる。挨拶あいさつこえはそのまま放送ほうそう)。
  • 2023ねん現在げんざいは『FNS27あいだテレビないおこなっている新人しんじんアナウンサーの紹介しょうかいは、1981年度ねんど入社にゅうしゃのアナウンサーまではほん番組ばんぐみないおこなっていた。

ネットきょく

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系列けいれつはネット終了しゅうりょう放送ほうそう終了しゅうりょうのもの。

小川おがわひろしショー」ネットきょく
放送ほうそう対象たいしょう地域ちいき 放送ほうそうきょく 系列けいれつ 備考びこう
関東かんとう広域こういきけん フジテレビ(CX) フジテレビ系列けいれつ 基幹きかん制作せいさくきょく
北海道ほっかいどう 札幌さっぽろテレビ(STV) 日本にほんテレビ系列けいれつ
フジテレビ系列けいれつ
1972ねん3がつまで
北海道文化放送ほっかいどうぶんかほうそう(UHB) フジテレビ系列けいれつ 1972ねん4がつ開局かいきょくから
岩手いわてけん 岩手いわて放送ほうそう(IBC) TBS系列けいれつ げん・IBC岩手いわて放送ほうそう
1969ねん12月1にち - 1980ねん3がつ31にち[15]
宮城みやぎけん 仙台せんだい放送ほうそう(OX) フジテレビ系列けいれつ 1967ねん4がつから[16]
秋田あきたけん 秋田あきたテレビ(AKT) 1969ねん10がつ開局かいきょくから
1981ねん4がつからテレビ朝日てれびあさひ系列けいれつとのクロスネットきょく
山形やまがたけん 山形やまがたテレビ(YTS) 1970ねん4がつ開局かいきょくから
1975ねん4がつ - 1979ねん6がつテレビ朝日てれびあさひ系列けいれつとのクロスネットきょく
新潟にいがたけん 新潟総合にいがたそうごうテレビ(NST) フジテレビ系列けいれつ
日本にほんテレビ系列けいれつ
テレビ朝日てれびあさひ系列けいれつ
げん・NST新潟総合にいがたそうごうテレビ。
1968ねん12月9にち - 1981ねん3がつ27にち[17]
長野ながのけん 長野放送ながのほうそう(NBS) フジテレビ系列けいれつ 1969ねん4がつ開局かいきょくから
静岡しずおかけん テレビ静岡てれびしずおか(SUT) 1968ねん11月開局かいきょくから
富山とやまけん 富山とやまテレビ(T34) 1969ねん4がつ開局かいきょくから[19]
石川いしかわけん 石川いしかわテレビ(ITC)
福井ふくいけん 福井ふくいテレビ(FTB) 1969ねん10がつ開局かいきょくから
中京ちゅうきょう広域こういきけん 東海とうかいテレビ(THK)
近畿きんき広域こういきけん 関西かんさいテレビ(KTV)
島根しまねけん
島根しまねけん鳥取とっとりけん
テレビしまね→
山陰さんいん中央ちゅうおうテレビ
(TSK)
1970ねん4がつ開局かいきょくから。
鳥取とっとりけんでは1972ねん9がつ22にちから放送ほうそう
岡山おかやまけん
岡山おかやまけん香川かがわけん
岡山放送おかやまほうそう(OHK) 1969ねん4がつ開局かいきょくから。
香川かがわけんでは1979ねん4がつ2にちから放送ほうそう
広島ひろしまけん 広島ひろしまテレビ(HTV) 日本にほんテレビ系列けいれつ 1966ねん4がつ1にちネット開始かいし[20]
フジテレビ系列けいれつとのクロスネットきょくだった1975ねん9がつ30にちまで
テレビしん広島ひろしま(TSS) フジテレビ系列けいれつ 1975ねん10がつ開局かいきょくから
山口やまぐちけん テレビ山口てれびやまぐち(TYS) TBS系列けいれつ
フジテレビ系列けいれつ
1970ねん4がつ開局かいきょくから
1978ねん9がつまではテレビ朝日てれびあさひ系列けいれつとのトリプルネットきょく
徳島とくしまけん 四国放送しこくほうそう(JR) 日本にほんテレビ系列けいれつ 1965ねん10がつ11にちから1966ねん7がつ2にちまで[21][22]
愛媛えひめけん 愛媛放送えひめほうそう(EBC) フジテレビ系列けいれつ げん・テレビ愛媛えひめ。1969ねん12月開局かいきょくから
福岡ふくおかけん テレビ西日本てれびにしにほん(TNC)
佐賀さがけん サガテレビ(STS) 1969ねん4がつ開局かいきょくから
長崎ながさきけん テレビ長崎てれびながさき(KTN) 日本にほんテレビ系列けいれつ
フジテレビ系列けいれつ
熊本くまもとけん テレビ熊本てれびくまもと(TKU) フジテレビ系列けいれつ
日本にほんテレビ系列けいれつ
テレビ朝日てれびあさひ系列けいれつ
大分おおいたけん テレビ大分てれびおおいた(TOS) 1970ねん4がつ開局かいきょくから
宮崎みやざきけん テレビ宮崎てれびみやざき(UMK)
鹿児島かごしまけん 鹿児島かごしまテレビ(KTS) 1969ねん4がつ開局かいきょくから
沖縄おきなわけん 沖縄おきなわテレビ(OTV) フジテレビ系列けいれつ 1970ねん10がつから

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b 1967ねん3がつ1にち 朝日新聞あさひしんぶん朝刊ちょうかん P.9 テレビらん 番組ばんぐみ紹介しょうかいらん(朝日新聞あさひしんぶんクロスサーチにて閲覧えつらん)、およ同日どうじつ読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん P.10 テレビらん(読売新聞よみうりしんぶんヨミダス歴史れきしかんにて閲覧えつらん)
  2. ^ a b 朝日新聞あさひしんぶん 1969ねん12月31にち 朝刊ちょうかん P.10 テレビらん(朝日新聞あさひしんぶんクロスサーチにて閲覧えつらん)
  3. ^ a b 朝日新聞あさひしんぶん 1970ねん4がつ1にち 朝刊ちょうかん P.9 テレビらん(朝日新聞あさひしんぶんクロスサーチにて閲覧えつらん)
  4. ^ a b c d e f g 『ロングラン マスコミ漂流ひょうりゅう50ねん軌跡きせき扶桑社ふそうしゃ、2005ねんISBN 4-594-04947-8 
  5. ^ 放送ほうそう」『月刊げっかんアドバタイジング』だい27かんだい3ごう電通でんつう、1982ねん2がつ25にち、78ぺーじNDLJP:2261998/41 
  6. ^ 桑原くわばらは、とう番組ばんぐみ終了しゅうりょうの1985ねん4がつから2年間ねんかん関西かんさいテレビからの出向しゅっこうあつかいで須田すだ哲夫てつお(フジテレビアナウンサー)とともに『おはよう!ナイスデイ』の司会しかいつとめた。
  7. ^ a b c 民間みんかん伝承でんしょうだい45かんだい2ごうろくにんしゃ、1981ねん8がつ1にち、2ぺーじNDLJP:2237584/2 
  8. ^ DJ名鑑めいかん 1987さんさいブックス、1987ねん2がつ15にち、128ぺーじ
  9. ^ 放送ほうそうデスクメモ」『マスコミ市民しみん : ジャーナリストと市民しみんむす情報じょうほうだい52ごう日本にっぽんマスコミ市民しみん会議かいぎ、1971ねん9がつ1にち、62 - 63ぺーじNDLJP:3463713/33 
  10. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 縮刷しゅくさつばん読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1966ねん12月31にちづけラジオ・テレビらん 
  11. ^ a b c d 小川おがわひろしちょ『あのころ』より。
  12. ^ 放送ほうそうデスクメモ」『マスコミ市民しみん : ジャーナリストと市民しみんむす情報じょうほうだい47ごう日本にっぽんマスコミ市民しみん会議かいぎ、1971ねん4がつ1にち、52 - 53ぺーじNDLJP:3463708/28 
  13. ^ 季刊きかんランラジオ(自由じゆう国民こくみんしゃ)1975ねん6がつごう p.9
  14. ^ a b 放送ほうそうデスクメモ――77・さん / 編集へんしゅう」『マスコミ市民しみん : ジャーナリストと市民しみんむす情報じょうほうだい116ごう日本にっぽんマスコミ市民しみん会議かいぎ、1977ねん7がつ1にち、54 - 57ぺーじNDLJP:3463783/29 
  15. ^ これまで放送ほうそうしていたNETテレビの『モーニングショー』をテレビ岩手てれびいわて移行いこうして(『モーニングショー』は1979ねん12がつを以って岩手いわてけんでのネットり)、本番ほんばんぐみのネットを開始かいし。これにより岩手いわて放送ほうそうつき - 土曜どようあさのワイドショーはフジテレビ系列けいれつ統一とういつされたが、1980ねん4がつテレビ岩手てれびいわてANN脱退だったいならびにNNSフルネットきょくともな番組ばんぐみ改編かいへんともなり。その所属しょぞくする系列けいれつならTBSの『モーニングジャンボおくさま8時半じはんです』をネット。
  16. ^ 福島ふくしまみんほう』1967ねん4がつ3にちづけ朝刊ちょうかんテレビらん
  17. ^ 1981ねん4がつテレビ新潟にいがた開局かいきょくともな改編かいへんり。新潟放送にいがたほうそう(BSN)からテレビ朝日てれびあさひの『モーニングショー』を移行いこうされる。1983ねん10がつテレビ朝日てれびあさひ系列けいれつ脱退だったいは『おはよう!ナイスデイ』をネット。
  18. ^ 北國きたぐに新聞しんぶん』1969ねん2がつ14にちづけ朝刊ちょうかん、テレビらん
  19. ^ 実際じっさいはサービス放送ほうそうちゅうの1969ねん2がつ時点じてんからネットされていた[18]
  20. ^ 開始かいし当時とうじ平日へいじつで10:00放送ほうそう開始かいしのためネットしていなかった(出典しゅってん産経新聞さんけいしんぶん、1965ねん9がつ1にち - 9月7にち、1966ねん4がつ1にち岡山おかやま広島ひろしま地区ちくばん番組ばんぐみひょう)。
  21. ^ 出典しゅってん:徳島とくしま新聞しんぶん、1965ねん10がつ11にち、7ページ、テレビらん
  22. ^ 1966ねん7がつ4にちより平日へいじつはNETテレビ『木島きしま則夫のりおモーニングショー』、土曜日どようびどう7がつ9にちより毎日放送まいにちほうそうウィークエンドモーニングショー』にネットえ(出典しゅってん徳島とくしま新聞しんぶん、1966ねん7がつ4にち、7ページ、テレビらん)。
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