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れんじゅく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
れんじゅくならびにかん茶山ちゃやま旧宅きゅうたく
情報じょうほう
敷地しきち面積めんせき 2,923.36 m² [1]
文化財ぶんかざい指定してい面積めんせき
開館かいかん開所かいしょ 寛政かんせい3ねん・4ねん(1791ねん・1792ねん
所在地しょざいち 720-2123
広島ひろしまけん福山ふくやま神辺こうのえまち640
座標ざひょう 北緯ほくい3432ふん40.7びょう 東経とうけい13323ふん04.5びょう / 北緯ほくい34.544639 東経とうけい133.384583 / 34.544639; 133.384583 (れんじゅくならびにかん茶山ちゃやま旧宅きゅうたく)座標ざひょう: 北緯ほくい3432ふん40.7びょう 東経とうけい13323ふん04.5びょう / 北緯ほくい34.544639 東経とうけい133.384583 / 34.544639; 133.384583 (れんじゅくならびにかん茶山ちゃやま旧宅きゅうたく)
文化財ぶんかざい くに特別とくべつ史跡しせき
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れんじゅく(れんじゅく)は、江戸えど時代じだい備後びんごこく神辺かんべげん広島ひろしまけん福山ふくやま神辺こうのえまち)に、かん茶山ちゃやまによってひらかれた私塾しじゅくもと開校かいこうした備後びんご福山ふくやまはんさとこう

安永やすなが4ねん(1775ねんべつ場所ばしょ私塾しじゅくとしてひらくじゅく天明てんめい5ねん(1785ねんごろには「きむあわえん(きんぞくえん)」とばれていた[2][3]寛政かんせい3ねん(1791ねん)あるいは寛政かんせい4ねん(1792ねんごろ塾生じゅくせい増加ぞうかともな現在地げんざいち移転いてん、「黄葉こうよう夕陽ゆうひむらしゃ(こうようせきようそんしゃ)」あるいは「閭塾(りょじゅく)」とばれた[2][3]寛政かんせい8ねん(1796ねん福山ふくやまはんさとこうとなったことで「れんじゅく」あるいは正式せいしき名称めいしょう神辺かんべ学問がくもんしょ」とばれるようになった[2][3]廃藩置県はいはんちけんおよび学制がくせい施行しこうともな明治めいじ5ねん(1872ねん)閉塾した[4][5]

れんじゅくという柴野しばの栗山りつざん学舎がくしゃ名付なづけたものである[6]一般いっぱんには「はじめは黄葉こうよう夕陽ゆうひむらしゃといっていたが、のちに茶山ちゃやま福山ふくやまはんねがってさとこうとしれんじゅくしょうした」としている[7]。その公式こうしきには神辺かんべ学問がくもんしょばれたが一般いっぱんにはかどじゅくしょうした[8]黄葉こうよう夕陽ゆうひむらしゃごうれんじゅくしょうした[4]、など。

当時とうじ施設しせつ現存げんそんしており、ほんきょ宣長のりながたくあととともに大学だいがくしゃともわれ、江戸えど後期こうき教育きょういく環境かんきょう現在げんざいまでつたえる国内こくない唯一ゆいいつ施設しせつである[2][9]。「れんじゅくならびにかん茶山ちゃやま旧宅きゅうたく」として昭和しょうわ28ねん(1953ねんこく特別とくべつ史跡しせき指定してい[2]。2021年度ねんどから保存ほぞん整備せいび事業じぎょうはじまっている[10]

沿革えんかく

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背景はいけい

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けん重文じゅうぶん神辺かんべ本陣ほんじんけん史跡しせき神辺かんべ本陣ほんじんあと」。きゅう西本にしほんじんにあたる。
地図
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Maps: terms of use
300 m
かん茶山ちゃやま記念きねんかん
神辺かんべ城址じょうし
きゅう東本ひがしほんじん
高屋川たかやがわ
山陽さんようどう
かん茶山ちゃやまはか

きゅう西本にしほんじん
神辺かんべ本陣ほんじんあと
.
れんじゅく

れんじゅくのある神辺かんべは、江戸えど時代じだい福山ふくやまはん領内りょうないにある近世きんせい山陽さんようどう西国さいごく街道かいどう)の宿駅しゅくえきであった[11]茶山ちゃやまかどじゅくおしえていた文化ぶんか文政ぶんせい天保てんぽうそう人口じんこうは500けんほどで、近世きんせい山陽さんようどう宿駅しゅくえきとしては人口じんこうおおほうであった[12]

宿駅しゅくえきには公家くげ幕府ばくふ役人やくにんしょ大名だいみょう往来おうらいのため本陣ほんじん旅籠はたご茶屋ちゃや問屋場とんやばなどの施設しせつかれ、神辺かんべ宿やどでは正式せいしき脇本わきもとじんはなく“西本にしほんじん”“東本ひがしほんじん”と2つの本陣ほんじんもうけられ[13]西本にしもとじん尾道おのみち菅波すがなみ東本ひがしもとじんはその分家ぶんけにあたる本荘ほんじょう菅波すがなみいとなんでいた[14][12]かん茶山ちゃやまはこの菅波すがなみ一族いちぞくにあたる[14][12]茶山ちゃやまちち本荘ほんじょういでいたが、家督かとくゆずって別家べっけ農業のうぎょう酒造しゅぞうぎょういとなんでいた[14]茶山ちゃやま周辺しゅうへんには文芸ぶんげい学問がくもんたいする造詣ぞうけいふかいものが父母ちちははふくめておお存在そんざいしており、茶山ちゃやま思想しそう形成けいせいおおきな影響えいきょうあたえたとかんがえられている[15]

茶山ちゃやまは16さいである明和めいわ元年がんねん(1764ねんはじめて京都きょうと遊学ゆうがくし、18さい家督かとくぐがさとせい庄屋しょうや)としての仕事しごといとい、学問がくもんこころざしその遊学ゆうがくかえした[16]茶山ちゃやま最初さいしょ文辞ぶんじがくつぎ和田東わだひがしかくからほう明和めいわ8ねん(1771ねんごろ那波なば門下もんかとなり朱子学しゅしがくまな[16]

若年じゃくねん茶山ちゃやまがいたころ神辺かんべは、身分みぶん階層かいそう分化ぶんかによって遊民ゆうみん増加ぞうかむら荒廃こうはいしていった[16]。そこで茶山ちゃやまは、当時とうじ身分みぶんせいてき社会しゃかい秩序ちつじょ回復かいふく維持いじしていくため、わかひとたちに学問がくもんおしえようとかんがえた[16][17]

ひらきじゅく

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れんじゅくには授業じゅぎょう始業しぎょうげたかねのこっている[16]寄贈きぞうしゃ茶山ちゃやま最初さいしょ弟子でしである藤井ふじいくれあん父親ちちおやであり、めいには安永やすなが4ねんきざまれている[16]くれあんは9さいのとき茶山ちゃやま入門にゅうもんしており、そのとし安永やすなが4ねん一致いっちする[6]。そこから安永やすなが4ねん(1775ねん)が茶山ちゃやま私塾しじゅく教育きょういくはじめたとしであり、くれあん師事しじしたことを記念きねんしてかねおくられたとかんがえられている[16]

ただ最初さいしょひらきじゅく名称めいしょう不明ふめいである[6]場所ばしょひがし本陣ほんじんちかく、現在げんざいかどじゅくから山陽さんようどうはさんで南側みなみがわ位置いちしていたと推定すいていされており、茶山ちゃやま居宅きょたくねていたとかんがえられている[6]当初とうしょは10さい前後ぜんこう村童そんどう対象たいしょう素読そどくおしえる寺子屋てらこやのようなものだったとかんがえられている[6][17]

この私塾しじゅくは10ねん天明てんめい5ねん(1785ねん)「きむあわえん寄宿きしゅく茶山ちゃやま先生せんせいべつじゅくナリ」と文献ぶんけんてくる[6]きむあわとはキンモクセイであり、私塾しじゅくちかくに樹木じゅもくがあったことからづけられた[6]。このころになると、じゅく門人もんじんたちへ講釈こうしゃくするとなり、居宅きょたく一部いちぶ来訪らいほうしゃ宿所しゅくしょとしその人物じんぶつ講義こうぎおこなわれていた[6][17]

塾生じゅくせいきんあわえんでは手狭てぜまとなったため北東ほくとう塾舎じゅくしゃてることになり、その造成ぞうせいのため寛政かんせい2ねん(1790ねん福山ふくやまはんたけりょう測量そくりょう)をおこなっている[6]。つまりしん塾舎じゅくしゃのちのかどじゅく建築けんちく寛政かんせい2ねんあるいは寛政かんせい3ねん(1791ねん)とかんがえられている[3]

れんじゅく

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しん塾舎じゅくしゃは「黄葉こうよう夕陽ゆうひむらしゃ」「閭塾」と名付なづけられた[6]黄葉こうようさん神辺かんべしろがあるやま)の北側きたがわにある集落しゅうらく黄葉こうよう夕陽ゆうひむら)の学舎がくしゃという意味いみである[6]

じゅく財務ざいむ管理かんり運用うんようかんする沿革えんかくをまとめた『神辺かんべ閭塾記録きろく』のなかに、茶山ちゃやま福山ふくやまはん私塾しじゅく開設かいせつねが文章ぶんしょうがあり、そこには「此度於私たく一箇月六度孝経講釈始申度奉願上候」「寛政かんせいさんとし」としるされている部分ぶぶんがある[6]。そこから寛政かんせい4ねんひらけじゅくともかんがえられ、つまり現状げんじょうせつでは黄葉こうよう夕陽ゆうひむらしゃひらきじゅく寛政かんせい3ねんあるいは寛政かんせい4ねん(1792ねん)とかんがえられている[6]

寛政かんせい4ねん茶山ちゃやま福山ふくやまはんからにん扶持ふちあたえられる[6]よりゆき山陽さんよう茶山ちゃやま先生せんせい行状ぎょうじょう』によると、福山ふくやま藩主はんしゅ阿部あべただしりんはやし大学だいがくあたまじゅつときろんじたとき当代とうだいいち詩人しじん備後びんごかん茶山ちゃやまであるというはなしになった[6]。そこでせいりん役人やくにん調しらべさせたところ、学業がくぎょうすぐれていることからあわてて茶山ちゃやま藩儒はんじゅ藩主はんしゅつかえる儒学じゅがくもの)としてかかえようとしたが、茶山ちゃやま病気びょうき理由りゆうことわり、せいりんはそのわりににん扶持ふちあたえた、という[6](このとき菅波すがなみからおさむせいしてかんとなる[6])。この時点じてんで、茶山ちゃやま詩人しじんとしても教育きょういくしゃとしてもたか評価ひょうかされていたことになる[6]

寛政かんせい8ねん(1796ねん)ここは福山ふくやまはんさとこうとなった[6]茶山ちゃやまは、じゅくおもである自身じしんおよびその後継こうけいしゃ生死せいしによってじゅく存在そんざい自体じたいあやうくならないよう、私的してきじゅくから公的こうてきじゅくとなることでこのじゅく永続えいぞくさせようと、じゅく建物たてもの付属ふぞくする田畑たはた福山ふくやまはん献上けんじょうきょうこうとなった[6][18]。ここから「れんじゅく」あるいは正式せいしき名称めいしょう神辺かんべ学問がくもんしょ」とばれるようになった[6]れんじゅくという柴野しばの栗山りつざん学舎がくしゃ名付なづけたものである[6]

とおる元年がんねん(1801ねん)、せいりん意向いこうにより茶山ちゃやま正式せいしき藩儒はんじゅとなり、藩校はんこう弘道こうどうかんこうするようになる[6]

文化ぶんか4ねん(1807ねん神辺かんべ宿やど大火たいか見舞みまわれた[19]居宅きょたくけん私塾しじゅくかねあわえん類焼るいしょうしている[20]れんじゅくひらけじゅくしたのち茶山ちゃやまはこの居宅きょたくからかよっていたが、これをじゅくない居住きょじゅうするようになる[20]

茶山ちゃやま全国ぜんこくてきられるようになったのは詩人しじんとしてである。文化ぶんか9ねん(1812ねん)『黄葉こうよう夕陽ゆうひむらしゃ』を出版しゅっぱん当時とうじベストセラーとなった[18]近世きんせい山陽さんようどう宿場しゅくば神辺かんべ宿やどにあるかどじゅく全国ぜんこくからおおくの文人ぶんじん墨客ぼっかくおとずれるようになる[18]

構成こうせい

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講師こうし

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かん茶山ちゃやま
よりゆき山陽さんよう

授業じゅぎょう講釈こうしゃくかたちおこなわれた[19]講釈こうしゃくじゅくぬし、そしてこう塾頭じゅくとう)というじゅくぬしたすけるものが担当たんとうした[19]

じゅくぬし
  • 初代しょだい : かんすすむそち茶山ちゃやま
    • 安永やすなが4ねん-(1775ねん-)きむあわえん[4][21]
    • 寛政かんせい3ねんあるいは寛政かんせい4ねん-(1791ねん・1792ねん-)黄葉こうよう夕陽ゆうひむらしゃ [4][21]
    • 寛政かんせい8ねん-文政ぶんせい10ねん(1796ねん-1827ねんれんじゅく [4][21]
  • 2だい : かんおもんみなわまきひとし
    • 文政ぶんせい10ねん-万延まんえん元年がんねん(1827ねん-1860ねん[4][21]
  • 3だい : かんすすむけん
    • 万延まんえん元年がんねん-明治めいじ5ねん(1860ねん-1872ねん[4]
こう

茶山ちゃやま当時とうじ文化ぶんか中心ちゅうしんであった京阪けいはんではなく、地方ちほうである神辺かんべじゅくをすることにこだわった[24]地方ちほうつづけることで農村のうそん荒廃こうはい社会しゃかい秩序ちつじょみだれをめ、それを学問がくもんによって是正ぜせいしようとした[24]。そしてただしい学問がくもんまなぶための教育きょういくとその施設しせつ必要ひつようであるとつよ主張しゅちょうした[24]。そうしたことからかどじゅくもっと重視じゅうししたのは「行儀ぎょうぎ」であった[18]行儀ぎょうぎについてはこうにも同様どうようのことをもとめ、徳行とっこうすぐれた人物じんぶつえらぶとしていた[18]出奔しゅっぽんしたよりゆき山陽さんようのようなれいもある)。

まず基本きほんとなる生活せいかつ習慣しゅうかんまなばせ、つぎ算術さんじゅつ手紙てがみかたまなばせ、そのから四書ししょ五経ごきょうおしえた[18][17]。そのほかに、詩文しぶん歴史れきしおしえていた[4][18]

塾生じゅくせい年齢ねんれい習熟しゅうじゅく個性こせい興味きょうみわせた授業じゅぎょう目指めざしていた[18]年少ねんしょうしゃ熟読じゅくどく指導しどうこう担当たんとうしている[25]。さらに基本きほんてき生活せいかつ態度たいど日頃ひごろ礼儀れいぎ作法さほうなど様々さまざま規約きやくもうけた[17]以下いか礼儀れいぎ規約きやく現代げんだい列挙れっきょする。

  • 読書どくしょ日々ひびかさぬこと[17]
  • 講義こうぎられないときはその理由りゆうもうること[17]
  • みだらに大声おおごえなどしてひと邪魔じゃまをしないこと[17]
  • 講義こうぎまえにそこで使つか書物しょもつをよくておくこと。ききもらしたところはあとたずねること[17]
  • 講義こうぎちゅうたがいにわらったり、にらんだりせず、中座ちゅうざ居眠いねむりはしないこと[17]
  • 詩文しぶんかいつき6かいあるから、それ以外いがいではみだりにつくらず、読書どくしょだいいちとすること。そして6かい詩文しぶんかいにはかなら出席しゅっせきすること[17]
  • 同席どうせきにいるひとったりすわったりするときかなら礼儀れいぎただし、相手あいて丁寧ていねい挨拶あいさつをすること。たがいにこのましくない言葉ことば使つかわないこと[17]
  • 後輩こうはいとしわかもの年長ねんちょうしゃはいたわり、行儀ぎょうぎおしえ、かりにもいじめたりやかしたりしないこと[17]
  • 学問がくもん機会きかいがあるのはしあわせなことで、その機会きかいあたえてくれた家族かぞく気持きもちを無駄むだにせず感謝かんしゃわすれないこと[17]

塾生じゅくせい

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茶山ちゃやま時代じだい入塾にゅうじゅく退すさじゅくしゃ一覧いちらん[18]
こよみ いれひと 退すさひと 茶山ちゃやま年齢ねんれい
文化ぶんか8 (1811) 28 8 64
文化ぶんか9 (1812) 25 15 65
文化ぶんか10 (1813) 32 38 66
文化ぶんか11 (1814) 12 18 67
文化ぶんか12 (1815) 17 8 68
文化ぶんか13 (1816) 22 15 69
文化ぶんか14 (1817) 26 32 70
文政ぶんせいもと (1818) 28 42 71
文政ぶんせい2 (1819) 42 22 72
文政ぶんせい3 (1820) 15 15 73
文政ぶんせい4 (1821) 18 27 74
文政ぶんせい5 (1822) 24 21 75
文政ぶんせい6 (1823) 22 29 76
文政ぶんせい7 (1824) 15 13 77

れんじゅくへだてなく塾生じゅくせいれた[24][17]学問がくもんのためのおかね必要ひつようなく、貧富ひんぷ親疎しんそ差別さべつせず、どんなひとでもまな機会きかいあたえた[17]塾生じゅくせい身分みぶん武士ぶし医者いしゃ僧侶そうりょ町人ちょうにん農民のうみん幅広はばひろく、福山ふくやまはん領内りょうないをはじめちゅう四国しこく九州きゅうしゅう畿内きない東北とうほく全国ぜんこく各地かくちからあつまった[25]

寺子屋てらこやなどで初歩しょほ学習がくしゅうえた10代20だい若者わかものおおかった[25][17]。これはとしをとると仕事しごと家庭かていひまがなくなるため、学問がくもん集中しゅうちゅうできるのはわかいうちにかぎる、とかんがえた茶山ちゃやま意向いこうによる[17]

塾生じゅくせい原則げんそく入寮にゅうりょうせい月謝げっしゃ無料むりょうだったが、実費じっぴ負担ふたんとしてとし4りょう2ぶんめしりょう若干じゃっかん書物しょもつりょう支払しはらわなければならなかった[25][26][27]。4りょう2ふん当時とうじ奉公人ほうこうにん年俸ねんぽうよりはるかにたかがくになるため、はらえる塾生じゅくせい比較的ひかくてき裕福ゆうふく家庭かていであったとかんがえられている[25]江戸えど後期こうき1りょう現在げんざい価格かかくで4~6まんえん[28]とすると4りょう2ふんは18まんえん~27まんえん)。ただしまずしくめしりょうはらえないものじゅく家事かじ手伝てつだうことでまなぶことも出来でき[25]れんじゅく経営けいえいは、じゅく所有しょゆうする田畑たはたからとれるさくとくべいからられる収入しゅうにゅうまかなっていた[26][27]

おおくがざいじゅく2~3ねんえ、郷里きょうりかえっていった[25][17]じゅくには常時じょうじ20~30にんぐらい在籍ざいせきしていた[29][17]ざいじゅく経験けいけんしゃは2,000にん~3,000にん推定すいていされている[25][17]退すさじゅくはほぼ家業かぎょうものおおく、なかには藩儒はんじゅとしててたものがいた[30]

門下生もんかせいには、竹田たけだ榛斎しんさい福岡ふくおかはん[31]落合おちあい双石くらべいし飫肥おびはん儒)[31][22]門田かどたぼくひとし福山ふくやま藩儒はんじゅ[19][31]明石あかし退蔵たいぞう岡山おかやまはん[22]太田おおたはじめあきら福山ふくやま藩士はんし[22]五十川いかがわみのしゅう福山ふくやまはん[22]鈴鹿すずか秀満ひでみつてんべつゆたかひめ神社じんじゃ神官しんかん[23]みち猷(正智院しょうちいん[31]小早川こばやかわ文吾ぶんご備後びんご・儒医)[23]はなおかくもひらめ医師いしはなおかあおしゅう長男ちょうなん[22]榎本えのもとたけただし旗本はたもと榎本えのもと武揚ぶようちち[32]菅波すがなみ信道のぶみち備後びんご尾道おのみち菅波すがなみ当主とうしゅ[23]亀山かめやまつな備後びんご商人しょうにん[22]橋本はしもと竹下たけした備後びんご商人しょうにん[22]、などがいる。

交友こうゆう

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茶山ちゃやま若年じゃくねん京阪けいはんへの遊学ゆうがく後年こうねん藩主はんしゅせいせいいのち江戸えどおもむいたときに、当地とうちおおくの文人ぶんじんまじわった[25]茶山ちゃやま名声めいせいと、近世きんせい山陽さんようどう宿場しゅくば神辺かんべ宿やどきょかまえたじゅくということから、れんじゅくにはおおくの文人ぶんじん墨客ぼっかくおとずれた[25]

その芳名ほうめいろく菅家すがや往問ろく』がのこっている。おも来訪らいほうしゃは、よりゆき春水しゅんすい広島ひろしまはん儒・よりゆき山陽さんようちち[25]よりゆきあんずつぼ広島ひろしま藩儒はんじゅ[25]中村なかむら圃公岡山おかやまはん儒)[25]浦上うらかみ玉堂きょくどう備中びっちゅうじん[25]亀井かめいあきら福岡ふくおかはん儒)[25]佐々木ささきくも高松たかまつじん[25]土屋つちやつぼせき会津あいづはん[25]きょいずみゆう陸奥みちのく白河しらかわじん[25]樺島かばしまいしはり久留くるべいはん教授きょうじゅ[25]古賀こがこくどう佐賀さがはん儒)[25]田能たのうむら竹田たけだ豊後ぶんごじん[25]梁川はしかわ星巌せいがん紅蘭こうらん夫妻ふさい美濃みの詩人しじん[25]広瀬ひろせあさひそう豊後ぶんご儒者じゅしゃ[25]中島なかじま棕隠そういん京都きょうと儒者じゅしゃ[25]。また伊能いのう忠敬ちゅうけい測量そくりょうたび途中とちゅう同地どうちおとずれている[32]

ただ茶山ちゃやまぼっしてからはいちじるしくっている[33]

れんじゅく来訪らいほうしゃ一覧いちらんひと[34]
茶山ちゃやま まきひとし
文化ぶんか2(1805) 16 文化ぶんか14(1817) 28 文政ぶんせい11(1828) 3 天保てんぽう11(1840) 6
文化ぶんか3(1806) 19 文化ぶんか15
文政ぶんせい1(1818)
25 文政ぶんせい12(1829) 0 天保てんぽう12(1841) 9
文化ぶんか4(1807) 12 文政ぶんせい2(1819) 35 天保てんぽう1(1830) 0 天保てんぽう13(1842) 2
文化ぶんか5(1808) 15 文政ぶんせい3(1820) 22 天保てんぽう2(1831) 2 天保てんぽう14(1843) 1
文化ぶんか6(1809) 18 文政ぶんせい4(1821) 20 天保てんぽう3(1832) 4 ひろし1(1844) 0
文化ぶんか7(1810) 13 文政ぶんせい5(1822) 21 天保てんぽう4(1833) 9 ひろし2(1845) 0
文化ぶんか8(1811) 24 文政ぶんせい6(1823) 15 天保てんぽう5(1834) 4 ひろし3(1846) 1
文化ぶんか9(1812) 20 文政ぶんせい7(1824) 18 天保てんぽう6(1835) 2 ひろし4(1847) 3
文化ぶんか10(1813) 19 文政ぶんせい8(1825) 26 天保てんぽう7(1836) 3 よしみなが1(1848) 1
文化ぶんか11(1814) 5 文政ぶんせい9(1826) 26 天保てんぽう8(1837) 0 よしみなが2(1849) 2
文化ぶんか12(1815) 2 文政ぶんせい10(1827) 18 天保てんぽう9(1838) 2 よしみなが3(1850) 2
文化ぶんか13(1816) 21 天保てんぽう10(1839) 2 よしみなが4(1851) 0

施設しせつ

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映像えいぞう外部がいぶリンク
ピース!ピース!ふくやま(RCC放送ほうそう広報こうほう番組ばんぐみ
だい30かいれんじゅくならびにかん茶山ちゃやま旧宅きゅうたく魅力みりょく

敷地しきち表側おもてがわ近世きんせい山陽さんようどうめんし、裏側うらがわ高屋川たかやがわせっする。山陽さんようどうはさんで南側みなみがわ茶山ちゃやま実家じっかであり安永やすなが4ねんごろ茶山ちゃやま最初さいしょひらいた居宅きょたくけん私塾しじゅくきむあわえん」があったと推定すいていされている[35][20][36]きむあわえん西側にしがわ東本ひがしほんじん本荘ほんじょうがあった[36]

れんじゅくならびにかん茶山ちゃやま旧宅きゅうたく」はおおきくけると建築けんちくぶつうえ栽・畑地はたちからなる[37]表門おもてもん中門ちゅうもんとくぐり、東西とうざいびる水路すいろわたるとかどじゅく塾舎じゅくしゃ)がある[37]。この東西とうざい水路すいろ北側きたがわ教育きょういく南側みなみがわ日常にちじょう生活せいかつであった[24]

従来じゅうらいじゅくない景観けいかん形成けいせい茶山ちゃやま影響えいきょうつよいとわれていたが、代目だいめじゅくぬしまきひとしおなじぐらいの年数ねんすうじゅくぬしをつとめていたことから、まきひとし景観けいかん形成けいせい影響えいきょうあたえているとかんがえられている[20]。閉塾昭和しょうわ9ねん(1939ねん史跡しせき指定してい旧法きゅうほうくわえられており、はい小屋こや納屋なやとう一部いちぶ施設しせつがなくなり、植生しょくせい一部いちぶわっているが、全体ぜんたいてきにはほぼ当時とうじ状況じょうきょうおなじである[38]。また高屋川たかやがわ堤防ていぼうかさじょうともない、北側きたがわ敷地しきち当時とうじよりけずられている[20]

昭和しょうわ28ねん(1953ねんこく特別とくべつ史跡しせき指定してい[39]広島ひろしま県内けんないでの特別とくべつ史跡しせきは、ここと厳島いつくしま宮島みやじま)の2箇所かしょのみ。

現在げんざい所有しょゆう管理かんりは、敷地しきちないながれる用水路ようすいろのみ福山ふくやま敷地しきち建物たてものすべてかん茶山ちゃやま子孫しそんいちにん個人こじん所有しょゆう民有みんゆう)となっている[40]ひらきじゅくから200ねん以上いじょうもたち、施設しせつ国庫こっこ補助ほじょ事業じぎょう所有しょゆうしゃ負担ふたん国庫こっこ補助ほじょ事業じぎょう採択さいたくされないしょう修理しゅうり)で修理しゅうりをされてきたが、全体ぜんたいてきいたみがいちじるしく抜本ばっぽんてき復旧ふっきゅう整備せいび必要ひつようとなった[2]。そこで2017ねん福山ふくやま中心ちゅうしんに「特別とくべつ史跡しせき れんじゅくならびにかん茶山ちゃやま旧宅きゅうたく保存ほぞん活用かつよう計画けいかく」を策定さくてい[2]、2021ねんから修繕しゅうぜん工事こうじはじめている[10]

建築けんちくぶつ

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現存げんそんするおも建築けんちくぶつ北側きたがわから列挙れっきょする。

  • れんじゅく付帯ふたい施設しせつ : 敷地しきち面積めんせき263.0m2一部いちぶ2かいけん切妻きりづまづくり、桟瓦葺かわらぶき[4]敷地しきち北奥きたおくにある。
    • 塾舎じゅくしゃ寛政かんせい2ねん(1790ねんごろてられた[20]じきだいより東側ひがしがわの3しつ20じょう講堂こうどうにあたり、ふすまはずして講釈こうしゃく利用りようされた[24]じきだいとおる元年がんねん(1801ねん茶山ちゃやま藩儒はんじゅとなったことでつくられたとつたえられている[6]講堂こうどう北側きたがわ浴室よくしつ便所べんじょ西側にしがわ書見しょけんしょもうけられている[24]
    • かつて塾舎じゅくしゃ講堂こうどう西側にしがわ付帯ふたい施設しせつ)に、えんじゅりょうみなみりょうけいりょうと3むねあったとされるりょうのうちのひとつのえんじゅりょう台所だいどころ)があった[20][41][24]文化ぶんか4ねん(1807ねん神辺かんべ宿やど大火たいか居宅きょたくけん私塾しじゅくかねあわえん類焼るいしょうしたさい茶山ちゃやまえんじゅりょう生活せいかつしていた[20][41][24]。2代目だいめじゅくぬしまきひとし時代じだいかどじゅく接続せつぞくされ増築ぞうちくされた[20][24]
    • かい明治めいじ20ねん(1887ねんごろ増築ぞうちくかんがえられている[20]
  • 米蔵よねぞう : 61.4m2、2かいけん切妻きりづまづくりほん瓦葺かわらぶき[4]れんじゅく付帯ふたい施設しせつ西にしとなりにある。
  • べい小屋こや物置ものおき便所べんじょ : 36.4m2平屋ひらやけん切妻きりづまづくり、桟瓦葺かわらぶき[4]米蔵よねぞう西にしとなりにある。べい小屋こやひろし4ねん(1847ねんごろ改築かいちく推定すいていされる[20]
  • 茶山ちゃやま旧宅きゅうたく : 276.1m2、2かいけん切妻きりづまづくり、桟瓦葺かわらぶき[4]東西とうざい方向ほうこうびる用水路ようすいろ南側みなみがわ位置いちする。
    • れんじゅく塾舎じゅくしゃ)ののちてられたもので晩年ばんねん茶山ちゃやまみ、2代目だいめじゅくぬしまきひとし、3代目だいめすすむけんんだ旧宅きゅうたく[24]茶山ちゃやま時代ときよ江戸えど末期まっきまきひとし時代じだい明治めいじ20ねんすすむけん時代じだい増築ぞうちくされている[20]
    • じゅくとして機能きのうしていた時代じだいのものは、6じょう2あいだ納戸なんどと2かいの10じょう板間いたのま)・玄関げんかん玄関げんかん土間どま書斎しょさいになる[20]
  • 築山つきやま :
  • 祠堂しどう : 27.5m2平屋ひらやけん切妻きりづまづくり、桟瓦葺かわらぶき[4]旧宅きゅうたく南西なんせいがわにある。ひろし4ねん(1847ねんごろ建築けんちく推定すいていされる[41]浴室よくしつ茶室ちゃしつ位牌いはいしつからなり、茶山ちゃやま父母ちちははであるぶなたいらはん茶山ちゃやま、そしてその一族いちぞく位牌いはい安置あんちされている[41]
  • きゃくもん : いたへいかこまれた中庭なかにわへの入口いりくち祠堂しどう平行へいこう位置いちする[41]大正たいしょう12ねん(1923ねんかんあや太郎たろうしたがえよん叙勲じょくんけたとき奉幣ほうへい使むかえるためにいたべいとともにてられた[41]
  • 寮舎りょうしゃ : 48.5m2平屋ひらやけん切妻きりづまづくり、桟瓦葺かわらぶき[4]旧宅きゅうたく東側ひがしがわにある。えんじゅりょうみなみりょうけいりょうと3むねあったとされるりょうのうちみなみりょうにあたり、塾生じゅくせい生活せいかつするであった[42][41][24]。かつては中門ちゅうもん東側ひがしがわにあったが、ひろし4ねん以降いこうにそれより南側みなみがわ現在地げんざいち改築かいちくされたと推定すいていされる[42]
  • 中門ちゅうもん : 旧宅きゅうたく寮舎りょうしゃあいだにある。中門ちゅうもん北側きたがわ用水路ようすいろ位置いち元々もともと石橋いしばしがあり、そこをすすむと塾舎じゅくしゃくぐがあり、そこから塾生じゅくせいはいっていたとつたえられている[42]現在げんざい石橋いしばしがそれより東側ひがしがわにあるのは、茶山ちゃやま福山ふくやま藩儒はんじゅとなり講堂こうどうじきだいもうけられたことで石橋いしばし移設いせつしたとかんがえられている[42]
  • 米蔵よねぞう納屋なや馬小屋うまごや物置ものおき : 64.0m2平屋ひらやけん切妻きりづまづくり、桟瓦葺かわらぶき[4]敷地しきちさい西端せいたんにある。ひろし3ねん(1846ねんごろ増築ぞうちくされたものとかんがえられている[42]
  • 書庫しょこ : 24.8 m2平屋ひらやけん切妻きりづまづくりほん瓦葺かわらぶき[4]米蔵よねぞう納屋なや馬小屋うまごや物置ものおき南側みなみがわにある。文政ぶんせい10ねん(1827ねんごろ建築けんちくかんがえられている[42]
  • 養魚ようぎょ : 中庭なかにわ南側みなみがわにある。文政ぶんせい8ねん(1825ねんまつとりねん現在地げんざいちうつされたとかんがえられており、掘削くっさく残土ざんど中庭なかにわ築山つきやま利用りようしたとつたえられる[41]来客らいきゃくよう食材しょくざいとしてこいなどの淡水魚たんすいぎょわれていた[41]。それにくわえて文化ぶんか4ねん神辺かんべ宿やど大火たいか教訓きょうくんとして防火ぼうか用水ようすいとしての機能きのうわせていた[41]
  • 標識ひょうしき説明せつめいばん : 1950ねん文部省もんぶしょうおよびけん教育きょういく委員いいんかいから許可きょかけて設置せっちした[43]
  • 表門おもてもん : 平屋ひらやけん切妻きりづまづくり、桟瓦葺かわらぶき[4]元々もともとはより西側にしがわにあり、現在げんざいのものは文政ぶんせい10ねん(1827ねんごろ建築けんちくかんがえられている[42]

現状げんじょう一番いちばんふる建物たてものは、れんじゅく講堂こうどうおよび台所だいどころ米蔵よねぞうべい小屋こや物置ものおき便所べんじょ茶山ちゃやま旧宅きゅうたく一部いちぶになる[20]

畑地はたち水路すいろ

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みなみには菜園さいえんひろがっている。面積めんせきは、東側ひがしがわが564.03 m2中央ちゅうおうが249.90 m2 [44]当時とうじとれた野菜やさい塾生じゅくせい食卓しょくたくされた[20]東側ひがしがわ畑地はたちにはかつて長屋ながや貸家かしやがあった[20]

水路すいろ高屋川たかやがわからみず敷地しきちない北東ほくとう東西とうざい方向ほうこう南北なんぼく方向ほうこうかれ[24]東西とうざい水路すいろかどじゅく旧宅きゅうたく寮舎りょうしゃけ、南北なんぼく水路すいろ敷地しきちひがしはしながれる。東西とうざい水路すいろ天和てんわ3ねん(1683ねん)の絵図えず現状げんじょうおなじようにえがかれており[3]れんじゅくができるまえからあった。南北なんぼく水路すいろおな絵図えずえがかれているが、りゅうちが現在げんざい敷地しきちななめにはしっている[3]みなみ川北かわきたむら西にし川南かわみなみむらへの農業のうぎょう用水ようすいとして利用りようされていた[24]れんじゅくてたさい、そのまえ水路すいろ石段いしだんきずかれた[24]茶山ちゃやま黄葉こうよう夕陽ゆうひむらしゃ』のなかで、

たれ楊交かげ掩前楹(たれ楊影をまじえてぜん楹を掩う)
しもゆうみぞ徹底てっていきよししたみぞ徹底てっていしてきよらかなるり)
童子どうじ倦来閑洗すずり童子どうじたって閑にすずりあらう)
奔流ほんりゅう触手しょくしゅべつなりごえ奔流ほんりゅうしゅれてべつこえす)

— 「即事そくじ」、かん茶山ちゃやま黄葉こうよう夕陽ゆうひむらしゃ後編こうへんまきよん[45]

とあるがそれがこの石段いしだん情景じょうけいである。文政ぶんせい7ねん(1824ねん時点じてん南北なんぼく水路すいろはほぼ現状げんじょうどうりゅうになる[20][3]

うえ

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敷地しきち北側きたがわ建築けんちくぶつかこみ、おおうように高木たかぎ存在そんざいする[46]ぎゃく敷地しきち南側みなみがわ畑地はたちがあることからオープンな空間くうかんとなる[46]

南側みなみがわ山陽さんようどうせっする付近ふきんクスノキ大木たいぼくが3ほんあり、一種いっしゅランドマークてき役割やくわりになっている[46]

塾舎じゅくしゃ北東ほくとうがわ水路すいろより北側きたがわ竹林ちくりんひろがる。その水路すいろより南側みなみがわさん角地かどちは、かつてかん茶山ちゃやま医師いしをしていたとき薬園やくえんあとつたえられている[46]現在げんざい敷地しきちないにあるエンジュクチナシイボタノキ薬用やくようえられたものである[46]現在げんざいはなくなっているが、モモナツミカンザクロユズアオギリマツなどもえられていた[46]

養魚ようぎょ周囲しゅういにはかつて5ほんヤナギえられていた。これは茶山ちゃやまとうふかしあきら故事こじならい、やなぎ先生せんせい自称じしょうしたことによる[47]昭和しょうわ9ねん(1934ねん史跡しせき指定してい時点じてんで1ほんのみのこ[48]現在げんざいいけまわりには1ほんのこっていない[49][47](ヤナギは寮舎りょうしゃ北側きたがわ緑地りょくちに1ほんある[49])。

れんじゅく敷地しきちきゅう山陽さんようどうはさんで南西なんせいがわにかつてきむあわえんがあったとされ、そばにキンモクセイがあったとつたわるが[6]現存げんそんしていない。れんじゅく付属ふぞく施設しせつ南側みなみがわ茶山ちゃやま旧宅きゅうたくにわに2ほんのキンモクセイがえられている[49]

敷地しきちないにはいつごろえられたかわからない品種ひんしゅ不明ふめいバラがある。これを地元じもと住民じゅうみんが「れんじゅくバラ」と名付なづけ、普及ふきゅうつとめている[50]

交通こうつう

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道路どうろはさんでかいがわ観光かんこうボランティアガイド詰所つめしょがあり、毎週まいしゅう土日どにち祝日しゅくじつ午前ごぜん10-午後ごご4あいだはガイドが常駐じょうちゅうしている[51]

茶山ちゃやまかんする展示てんじ施設しせつはこことはべつかん茶山ちゃやま記念きねんかん広島ひろしま県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかんがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 55.
  2. ^ a b c d e f g 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 1.
  3. ^ a b c d e f g 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 78.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 69.
  5. ^ いち 幕末ばくまつ教育きょういく”. 文部もんぶ科学かがくしょう. 2023ねん1がつ8にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 107.
  7. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 63.
  8. ^ a b 広島ひろしまけん文化財ぶんかざい - れんじゅくならびにかん茶山ちゃやま旧宅きゅうたく”. 広島ひろしまけん教育きょういく委員いいんかい. 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  9. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 51.
  10. ^ a b かん茶山ちゃやまきた時代じだい 江戸えど時代じだい教育きょういく施設しせつ かどじゅく”. びんなび. 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  11. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 31.
  12. ^ a b c 八田はった茂樹しげき山陽さんようどう西国さいごく街道かいどう宿駅しゅくえきとその景観けいかん」(PDF)『交通こうつう研究けんきゅう』、交通こうつう学会がっかい、2011ねん、55-56ぺーじ2022ねん12月21にち閲覧えつらん 
  13. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 32.
  14. ^ a b c 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 101.
  15. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 102.
  16. ^ a b c d e f g 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 106.
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 教育きょういくしゃとしてのかん茶山ちゃやま”. かん茶山ちゃやま記念きねんかん. 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  18. ^ a b c d e f g h i 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 108.
  19. ^ a b c d e f 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 36.
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 71.
  21. ^ a b c d 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 79.
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m 文化ぶんか研究けんきゅうかい 2017, p. 10.
  23. ^ a b c d 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 37.
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 112.
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 109.
  26. ^ a b れんじゅく(れんじゅく)”. ひろしま文化ぶんかだい百科ひゃっか. 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  27. ^ a b れんじゅく”. コトバンク. 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  28. ^ かね歴史れきしかんするFAQ(回答かいとう”. 貨幣かへい博物館はくぶつかん. 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  29. ^ 史跡しせき詳細しょうさい”. 神辺こうのえまち観光かんこう協会きょうかい. 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  30. ^ 文化ぶんか研究けんきゅうかい 2017, p. 5.
  31. ^ a b c d 川元かわもとゆうはんみち阿闍梨あじゃり生涯しょうがい」(PDF)『密教みっきょう文化ぶんか』、密教みっきょう研究けんきゅうかい、1941ねん、74-88ぺーじ2022ねん12月21にち閲覧えつらん 
  32. ^ a b 榎本えのもと武揚ぶよう”. 龍宮りゅうぐう神社じんじゃ. 2023ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  33. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 110.
  34. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 111.
  35. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 70.
  36. ^ a b 文化ぶんか研究けんきゅうかい 2017, p. 4.
  37. ^ a b 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 49.
  38. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 68.
  39. ^ a b れんじゅくかん茶山ちゃやま旧宅きゅうたく”. ふくやま観光かんこう魅力みりょくサイト. 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  40. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 60.
  41. ^ a b c d e f g h i j 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 73.
  42. ^ a b c d e f g 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 72.
  43. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 66.
  44. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 61.
  45. ^ 文化ぶんか研究けんきゅうかい 2017, p. 2.
  46. ^ a b c d e f 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 93.
  47. ^ a b しん-よりゆき山陽さんよう史跡しせき-詩碑しひ-2022ねん”. よりゆき山陽さんようネットワーク. 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  48. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 96.
  49. ^ a b c 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 94.
  50. ^ 福山ふくやま神辺こうのえの「れんじゅくバラ」地域ちいきたからに 2025ねん世界せかい会議かいぎ”. 中国ちゅうごく新聞しんぶん (2022ねん1がつ12にち). 2023ねん1がつ11にち閲覧えつらん
  51. ^ 教育きょういく委員いいんかい 2017, p. 21.

参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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