(Translated by https://www.hiragana.jp/)
悪霊 (ドストエフスキー) - Wikipedia コンテンツにスキップ

悪霊あくりょう (ドストエフスキー)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
悪霊あくりょう
Бесы
初版本の表紙(1873年)
はつ版本はんぽん表紙ひょうし(1873ねん
作者さくしゃ フョードル・ドストエフスキー
くに ロシア帝国ていこく
言語げんご ロシア
ジャンル 長編ちょうへん小説しょうせつ
発表はっぴょう形態けいたい 雑誌ざっし掲載けいさい
初出しょしゅつ情報じょうほう
初出しょしゅつ 『ロシア報知ほうち1871ねん1がつごう-11月ごう1872ねん11月ごう-12月ごう
刊本かんぽん情報じょうほう
出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 1873ねん
日本語にほんごやく
訳者やくしゃ 森田もりた草平そうへい米川よねかわ正夫まさお
ウィキポータル 文学ぶんがく ポータル 書物しょもつ
テンプレートを表示ひょうじ

悪霊あくりょう』(あくりょう、Бесы)は、フョードル・ドストエフスキー長編ちょうへん小説しょうせつ1871ねんから翌年よくねんにかけて雑誌ざっしロシア報知ほうち英語えいごばん』(: Русскій Вѣстникъ)に連載れんさいされ、1873ねん単行本たんこうぼんとして出版しゅっぱんされた。

政府せいふ主義しゅぎかみろんニヒリズム信仰しんこう社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめいナロードニキなどをテーマにもつ深遠しんえん作品さくひんであり著者ちょしゃ代表だいひょうさく。『つみばっ』、『白痴はくち』、『未成年みせいねん』、『カラマーゾフの兄弟きょうだい』とならぶドストエフスキーの五大ごだい長編ちょうへんの1つで、3番目ばんめかれた。

題名だいめい作品さくひんエピグラフにも使つかわれているプーシキンどうだいおよび新約しんやく聖書せいしょルカによる福音ふくいんしょだい八章はっしょうさん-さんろくせつからとられている。

フリードリヒ・ニーチェは、スタヴローギン、キリーロフ、ピョートル、シャートフたちの世界せかい解釈かいしゃく注目ちゅうもくして、抜書ぬきがきをしていた[1]

登場とうじょう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

主要しゅよう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ニコライ・フセヴォロドヴィチ・スタヴローギン
るいまれ美貌びぼう並外なみはずれた知力ちりょく体力たいりょくをもつ全編ぜんぺん主人公しゅじんこう徹底てっていしたニヒリストで、キリーロフいわく「かれ自分じぶんなにしんじていないということさえしんじていない」。ピョートルの目論見もくろみ見抜みぬいたり、キリーロフとシャートフを啓蒙けいもうしたりと、主要しゅよう登場とうじょう人物じんぶつ影響えいきょうおよぼす。
ピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキー(ペトルーシャ)
ステパン息子むすこみずからを「政治せいじてき詐欺さぎ」とび、知事ちじ夫人ふじんって文学ぶんがくサークルをよそおった革命かくめい組織そしきつくり、スタヴローギンをその中心ちゅうしんまつげようと画策かくさくする。モデルは、革命かくめいセルゲイ・ネチャーエフ
キリーロフ(アレクセイ・ニーロイチ・キリーロフ)
子供こどもきの建築けんちく技師ぎし。スタヴローギンの影響えいきょうによって「かみ意志いししたがわず我意がい完全かんぜんつらぬいたとき、かみ存在そんざいしないこと、自分じぶんかみとなることが証明しょうめいされる。完全かんぜん我意がいとは、自殺じさつである」という独特どくとくひとしん思想しそうつ。ピョートルの策謀さくぼうのために、組織そしき活動かつどう遺書いしょのこ自殺じさつ一身いっしん組織そしきつみけた。徹夜てつやして思索しさくすることがかれ習慣しゅうかんであるため、よる登場とうじょうおおい。
シャートフ(イワン・パーヴロヴィチ・シャートフ)
スタヴローギン農奴のうど息子むすこ。スタヴローギンの影響えいきょうによってロシア・メシアニズム(ひろしスラヴ主義しゅぎ)の信奉しんぽうしゃとなる。ピョートルの組織そしき脱退だったいしようとしたため、秘密ひみつれることをおそれたピョートルや「人組にんぐみ」に殺害さつがいされる。組織そしき檄文げきぶん印刷いんさつあずかり、それの引渡ひきわたしとえに、組織そしき脱退だったいやくされていた。キリーロフとは親友しんゆう。ぴんととっったつむじ特徴とくちょう。モデルは、ネチャーエフに殺害さつがいされた学生がくせいイワン・イワノフ。
ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキー
ピョートルのちちもと大学だいがく教授きょうじゅで、かつてスタヴローギンの家庭かてい教師きょうしでもあったことから、ワルワーラ夫人ふじんたく食客しょっきゃくとなっている。きゅう世代せだい進歩しんぽごときで、息子むすこピョートルの領地りょうちけのかたにられる。モデルはモスクワ大学だいがく教授きょうじゅグラノフスキー
ワルワーラ夫人ふじん(ワルワーラ・ペトローヴナ・スタヴローギナ)
スタヴローギンのはは未亡人みぼうじんで、富裕ふゆう地主じぬしこうあつてきはなしこう特徴とくちょう
マリヤ・チモフェーヴナ・レビャートキナ
あしわる白痴はくち女性じょせい。スタヴローギンと極秘ごくひ結婚けっこんしていたことがのちあきらかにされる。
リザヴェータ・ニコラエヴナ・トゥシナ(リーザ)
ワルワーラ夫人ふじん旧友きゅうゆうドロズドワ夫人ふじんむすめ婚約こんやく内定ないていしているもののスタヴローキンにこいし、誘惑ゆうわくされかれいちをともにするも、かれ退廃たいはいりに幻滅げんめつる。惨殺ざんさつされたマリヤ兄妹きょうだい死体したい見学けんがくったさいきょう奮した見物人けんぶつにんらに撲殺ぼくさつされる。
カルマジーノフ
文豪ぶんごう気取きどりの俗物ぞくぶつ作家さっかツルゲーネフがモデルであり、だいさんだいいちしょうかれ朗読ろうどくする作品さくひんもツルゲーネフのパロディである。これをきっかけにドストエフスキーとツルゲーネフは絶交ぜっこうしたといわれる。

人組にんぐみ[編集へんしゅう]

リプーチン
中年ちゅうねんけん役人やくにんフーリエ主義しゅぎしゃ。ステパンのサークルのさい古参こさん。シャートフ殺害さつがいは、逃亡とうぼうはかるが、逮捕たいほされる。
ヴィルギンスキー
役人やくにんでピョートルいわく「ぼくらなどのじゅうばい純粋じゅんすい」な性格せいかくつまのアリーナは産婆さんばでレビャートギンと「共有きょうゆう」している。シャートフ殺害さつがい最後さいごまで反対はんたいしたが、結局けっきょくきずりまれる。
シガリョフ
ヴィルギンスキーのつまおとうと。「人類じんるいふたつの均等きんとう部分ぶぶん分割ぶんかつし、そのじゅうぶんいちじゅうぶんきゅうたいする無限むげん権利けんり獲得かくとくする」という独自どくじユートピア思想しそうつ。シャートフ殺害さつがい反対はんたいして、直前ちょくぜん現場げんばる。
リャムシン
郵便ゆうびんきょく小役人こやくにんのユダヤじんで、ピアノの名手めいしゅ。シャートフ殺害さつがいれず警察けいさつんだのが、「人組にんぐみ」の逮捕たいほのきっかけとなった。
トルカチェンコ
よんじゅうがらみの年輩ねんぱいペテン師ぺてんし強盗ごうとう熱心ねっしんみんどおり高慢こうまん性格せいかくだがシャートフ殺害さつがいは、ピョートルにしたがった。
エルケリ
少尉しょうい少年しょうねん。「人組にんぐみ」ではないが、ピョートルに心酔しんすいしている。

その[編集へんしゅう]

ダーリヤ・パヴロヴナ・シャートワ(ダーシャ)
シャートフのいもうとでワルワーラ夫人ふじん養女ようじょ。スタヴローギンにこいし、かれの「看護かんご」となろうとする。ワルワーラ夫人ふじんとしはなれたステパン結婚けっこんさせようとするが、沙汰さたやみとなる。
レビャートキン(イグナート・レビャートキン)
マリヤのあに自称じしょうもととう大尉たいいのち吹聴ふいちょうであることがわかった)。かなりのだい酒呑さけのみで、かねようと色々いろいろ策謀さくぼうをする。ショスタコーヴィチが、かれ台詞せりふをもとに歌曲かきょくしゅうレビャートキン大尉たいいの4つの』を作曲さっきょくしている。
アンドレイ・アントーノヴィチ・フォン・レンプケ
あたらしく着任ちゃくにんした県知事けんちじ自身じしんつまとピョートルの関係かんけいうたがって苦悩くのうする。だい火事かじさい発狂はっきょうする。
マリヤ・シャートワ(マリイ)
シャートフのもとつま。スタヴローギンと関係かんけいち、かれ身籠みごもる。
G(アントン・ラヴレンチエヴィチ)
「わたし」と名乗なの物語ものがたりかた新聞しんぶん記者きしゃである。自分じぶん経験けいけん直接ちょくせつかかわる部分ぶぶんたとえばステパンとの交流こうりゅう)については一人称いちにんしょうもちいられるが、取材しゅざいによってあきらかになったことひとしたとえばピョートルの暗躍あんやく)については、新聞しんぶん記者きしゃとしての立場たちばから三人称さんにんしょうもちいられる。新聞しんぶん記者きしゃであるという設定せっていによって、一人称いちにんしょう三人称さんにんしょう両立りょうりつさせることを、構成こうせいてき可能かのうとしている。この小説しょうせつは、アントン記者きしゃ自己じこ体験たいけんと、事件じけんについてのアントン記者きしゃによるかなり主観しゅかんてき記述きじゅつとの、じゅう構成こうせいになっている。
チホン僧正そうじょう
「スタヴローギンの告白こくはく」に登場とうじょうするもとだい主教しゅきょうザドンスクのせいティーホンがモデルとされる主教しゅきょう[2]
マトリョーシャ
「スタヴローギンの告白こくはく」に登場とうじょうする12さい少女しょうじょ。スタヴローギンの過去かこくらかげとす重要じゅうよう人物じんぶつ

あらすじ[編集へんしゅう]

だい1[編集へんしゅう]

物語ものがたりは、1869ねんあきからふゆにかけて、ロシアのとある地方ちほう都市としと、その郊外こうがいにあるスクヴォレーシニキとばれる領地りょうち舞台ぶたい展開てんかいする。

ステパンは、1840年代ねんだいのロシアを代表だいひょうする自由じゆう主義しゅぎしゃ一人ひとりで、かつては大学だいがく講壇こうだんにもったことのある知識ちしきじんだが、いまはスタヴローギンおんな主人しゅじんワルワーラ夫人ふじん世話せわけており、おな屋敷やしきない夫人ふじん熱烈ねつれつ手紙てがみかわい、平穏へいおん無事ぶじ毎日まいにちおくっていた。ワルワーラ夫人ふじんは、ある突然とつぜん自分じぶん養女ようじょであるダーシャとステパン結婚けっこんさせようとおもち、有無うむをいわさずはなしすすめるが、まないステパンはスイスにいるピョートルに自分じぶんすくしてはもらえないかと手紙てがみす。スタヴローギン一人ひとり息子むすこであるニコライは、ステパンのもとで教育きょういくけたあと学習がくしゅういん進学しんがくし、卒業そつぎょう軍務ぐんむふくしてから、にわかに放蕩ほうとうふけりだした。2にわたって決闘けっとう事件じけんこし、放蕩ほうとう三昧ざんまい生活せいかつをおくるなど、不吉ふきつうわさえなかったので、まちから放逐ほうちくされた。

4ねん日曜日にちようび、ワルワーラ夫人ふじんは、スタヴローギンとマリヤ・レビャートキナの関係かんけいをほのめかす匿名とくめい手紙てがみけとり、真偽しんぎただそうと、教会きょうかい出会であったマリヤをいえかえる。このは、ステパンとダーシャの婚約こんやく発表はっぴょうおこなわれるたっていた。ダーシャのあにシャートフやワルワーラ夫人ふじん幼馴染おさななじみむすめリーザとその婚約こんやくしゃマヴリーキーがあつまるなか、ピョートルと一緒いっしょにスタヴローギンが帰館きかんする。ワルワーラ夫人ふじんは、スタヴローギンに真相しんそうただすが、かれなにこたえずに、マリヤをいえまでおくるといってってしまう。 そのあいだにピョートルは、かつてペテルブルクにいたころ、みなからわらいものにされていたマリヤを唯一ゆいいつスタヴローギンだけが丁重ていちょうあつかっていたため、マリヤはかれ自分じぶんおっとなにかであるという妄想もうそうにとらわれてしまったというだけのはなしだと説明せつめいする。いで、ピョートルは、ステパンに、結婚けっこんさせられそうになっているのでたすけてほしいとはどういう意味いみかとうた。それをいたワルワーラ夫人ふじんは、激昂げっこうして、ステパン絶交ぜっこうをいいわたす。そこへもどってきたスタヴローギンを、なぜか突如とつじょとしてシャートフがなぐりつけて、一同いちどうおどろかせる。スタヴローギンは、だまったまま反撃はんげきしなかった。シャートフがると同時どうじに、スタヴローギンをひそかにこいするリーザは気絶きぜつした。

だい2[編集へんしゅう]

このいちけんで、スタヴローギンはスイスにいたころリーザとひそかな関係かんけいをもっていたのではないか、またちかいうちにシャートフをころしてしまうのではないかなどといううわさひろまる。数日すうじつ有力ゆうりょくしゃ息子むすこガガーノフが、よんねんまえちちけた汚名おめいそそぐべく、スタヴローギンに決闘けっとうもうむ。シャートフの部屋へやで、スタヴローギンは、ペテルブルクでマリヤと正式せいしき結婚けっこんしたことをかれげた。それにかんづいていたシャートフは、スイス時代じだいつまをスタヴローギンに寝取ねとられた過去かこがあったが、かれへの崇拝すうはいねんてきれず、それゆえその虚偽きょぎ堕落だらくたいして、なぐりつけずにはいられなかったのだということをはなした。 そのよる、スタヴローギンはマリヤをたずね、結婚けっこん公表こうひょうしようとおもうとげるが、マリヤに「にせ公爵こうしゃくばわりされてかえることになり、その帰途きとで、ピョートルにかくまわれている懲役ちょうえきしゅうのフェージカにかねをばらき、マリヤの殺害さつがいをそれとなくそそのかした。

翌日よくじつ決闘けっとうおこなわれた。ガガーノフがそんじたのにたいして、スタヴローギンはわざとねらいをはずしてった。おなじことが3かえされたために、その厳正げんせいようからまちにおけるスタヴローギンの名望めいぼうは、一挙いっきょたかまった。おなじころ、ステパンとピョートルは完全かんぜん見解けんかいことにして決裂けつれつした。まちでは、ピョートルが、あらたに就任しゅうにんしたレンプケ県知事けんちじ夫人ふじんユリヤにり、労働ろうどうしゃたちを煽動せんどうしてまち騒乱そうらんこそうと画策かくさくしていた。その檄文げきぶんおどらされて、シュピグリーン工場こうじょうの70にんあまりが、給料きゅうりょう未払みはら問題もんだい直訴じきそけるが、レンプケはつめたく拒否きょひし、不穏ふおん空気くうきただよう。ちょうどそのとき、ステパンさえの抗議こうぎるが、途中とちゅうでユリア夫人ふじん講演こうえんをおねがいするという条件じょうけんった。

だい3[編集へんしゅう]

スタヴローギンは「告白こくはく」をたずさえ、町外まちはずれにあるボゴローツキー修道院しゅうどういんにチホン僧正そうじょうたずねた(スタヴローギンの告白こくはく)。

まつりははじまるが、運営うんえい不手際ふてぎわで、混乱こんらん次々つぎつぎこった。カルマジーノフの朗読ろうどくかいもステパン講演こうえんかいだい失敗しっぱいおわった。よる舞踏ぶとうかいいたっては参加さんかしゃすくなく、しかも胡乱うろんげな連中れんちゅうばかりではあった。一方いっぽう、リーザは、舞踏ぶとうかい混乱こんらんまぎれ、マヴリーキーを振切ふりきって、スクヴォレーシニキにはしり、スタヴローギンといちともにするが、放蕩ほうとう三昧ざんまいすえ退廃たいはいしていたかれ姿すがた失望しつぼうする。

舞踏ぶとうかいおわろうとする夜更よふけ、対岸たいがん郊外こうがい家々いえいえはなたれ、だい混乱こんらんとなる。その混乱こんらんなか、レンプケは発狂はっきょうする。翌朝よくあさ炎上えんじょうしたかわこうの一軒屋いっけんやから、マリヤとそのあにレビャートキン、そして女中じょちゅう惨殺ざんさつたい発見はっけんされる。スクヴォレーシニキの屋敷やしきから火事かじ現場げんばけつけたリーザは、狂乱きょうらんする群集ぐんしゅうたちに撲殺ぼくさつされた。その、ピョートルは、シュピグリーンの労働ろうどうしゃ使つかって、レビャートキン兄妹きょうだい殺害さつがい下手人げしゅにんフェージカを始末しまつする。

翌日よくじつ、シャートフのもとわかれたつまマリイがもどってきたが、マリイがスタヴローギンの産気さんけいていることをり、キリーロフや「人組にんぐみ」のヴィルギンスキー、リャムシンたち連絡れんらくする。結局けっきょく、ヴィルギンスキーのつまアリーナがたすけ、おとこまれた。シャートフは、おとこに「イワン」と名付なづけ、養子ようしにするとう。 ピョートルは、密告みっこくおびえる「人組にんぐみ」を使つかいうがいし、シャートフを当局とうきょく密告みっこくしゃけ、スタヴローギン公園こうえんすみおびせて、殺害さつがいする。その数時間すうじかん、ピョートルは、シャートフ殺害さつがいつみをキリーロフに請負うけおわせ自殺じさつさせる。その、リャムシンの告発こくはつによって「人組にんぐみ」とエルケリは逮捕たいほされるが、ピョートルは国外こくがい逃亡とうぼうし、二度にどもどらなかった。

一方いっぽう失意しついのうちに放浪ほうろうたびたステパンは、たび途中とちゅう熱病ねつびょうかかり、けつけたワルワーラ夫人ふじん看取みとなかかえらぬひととなる。また、スタヴローギンは、スイスのウリイしゅう出発しゅっぱつするむねをダーシャにおくるが、それをたすことなくスクヴォレーシニキの屋敷やしき屋根裏やねうらくびった。

ネチャーエフ事件じけん[編集へんしゅう]

ドストエフスキーはこの小説しょうせつ構想こうそうを1869ねんネチャーエフ事件じけんからている。架空かくう世界せかいてき革命かくめい組織そしきのロシア支部しぶ代表だいひょう名乗なのって秘密ひみつ結社けっしゃ組織そしきしたネチャーエフが、組織そしきない相互そうご不信ふしんつのなか当時とうじ学生がくせいだったイワン・イワノフをスパイ容疑ようぎにより殺害さつがいした事件じけんである。ほんさくではネチャーエフをモデルにピョートルがえがかれている。

「スタヴローギンの告白こくはく[編集へんしゅう]

当初とうしょだい2だい8しょうつづしょうとして執筆しっぴつされたが、その告白こくはく内容ないようが「少女しょうじょ陵辱りょうじょくして自殺じさついやった」という過激かげきなものであったため、連載れんさいされていた雑誌ざっし(ロシア報知ほうち)の編集へんしゅうちょうカトコフから掲載けいさい拒否きょひされた。やむをえず後半こうはん構成こうせい変更へんこうして完成かんせいさせたため、単行本たんこうぼんのさいにもこのあきら削除さくじょされたままとなり、やく50ねんあいだ原稿げんこう自体じたい所在しょざい不明ふめいとなっていた。編集へんしゅうちょうカトコフの意向いこう沿うようにドストエフスキーは悪霊あくりょう加筆かひつ修正しゅうせいくわえ、スタヴローギンの悪魔あくませい宗教しゅうきょうせいやわらげた表現ひょうげんなおした。

しかし、1921ねんから1922ねんにかけてこのしょう原稿げんこうが2つのかたち校正こうせいすりばん夫人ふじんによる筆写ひっしゃばん)で発見はっけんされ、いずれも出版しゅっぱんされることとなった。

あきらだい直訳ちょくやくすると「スタヴローギンより」となるが、これは正教せいきょうにおいては福音ふくいんしょを「ヨハネより」「マタイより」などとぶことになぞらえている(日本にっぽん正教会せいきょうかいでは「イオアン(ヨハネ)つてによるせい福音ふくいんけい」「マトフェイ(マタイ)つてによるせい福音ふくいんけい」とやくされている)。

おも訳書やくしょ[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

これまで3映画えいがされている。日本にっぽんでは、1988年版ねんばんのぞく2作品さくひん劇場げきじょう公開こうかい

また、ルキノ・ヴィスコンティ監督かんとく作品さくひん地獄じごくちたいさむものども』(1969ねん)に、上記じょうき「スタヴローギンの告白こくはく」が引用いんようされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 井桁いげた貞義さだよし『ドストエフスキー』清水しみず書院しょいん、1989年版ねんばん、179ぺーじから183ぺーじより引用いんよう
  2. ^ パーヴェル・エフドキーモフしる古谷ふるや いさおやく『ロシア思想しそうにおけるキリスト』95ぺーじ - 97ぺーじ(1983ねん12月 あかし書房しょぼうISBN 4870138093

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]