改革 かいかく 連盟 れんめい (かいかくれんめい、英 えい : Reform League )とは、イングランド における労働 ろうどう 者 しゃ の選挙 せんきょ 権 けん 獲得 かくとく を目指 めざ して1865年 ねん に組織 そしき されたイングランドにおける急進 きゅうしん 派 は (英語 えいご 版 ばん ) の政治 せいじ 団体 だんたい である。ロンドンの熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の支持 しじ を集 あつ めて、第 だい 二 に 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 運動 うんどう を主導 しゅどう した。
活動 かつどう 目標 もくひょう を1832年 ねん の選挙 せんきょ 法 ほう を改正 かいせい し、1)成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん 、2)秘密 ひみつ 投票 とうひょう 制度 せいど の導入 どうにゅう 、3)議席 ぎせき 再 さい 配分 はいぶん を実現 じつげん させることと定 さだ めていた。弁護士 べんごし エドマンド・ビールズ (英語 えいご 版 ばん ) が会長 かいちょう を務 つと め、建築 けんちく 工 こう のジョージ・ハウエル (英語 えいご 版 ばん ) が書記 しょき を務 つと めていた。執行 しっこう 委員 いいん 会 かい は労働 ろうどう 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ で占 し められ、会員 かいいん も労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう で構成 こうせい されていた。第 だい 二 に 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 運動 うんどう では、中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう 中心 ちゅうしん の改革 かいかく 連合 れんごう (英語 えいご 版 ばん ) やロンドン労働 ろうどう 者 しゃ 協会 きょうかい (英 えい : London Working Men's Association )といった組織 そしき もあったが、ここでは自由 じゆう ・労働 ろうどう 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) を旗印 はたじるし に活動 かつどう した改革 かいかく 連盟 れんめい を中心 ちゅうしん に第 だい 二 に 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい (英語 えいご 版 ばん ) という問題 もんだい 全体 ぜんたい を取 と り上 あ げる。
19世紀 せいき 、イングランドは産業 さんぎょう 革命 かくめい の時代 じだい に入 はい り繁栄 はんえい を遂 と げていたが、数 すう 多 おお くの矛盾 むじゅん が存在 そんざい していた。そのひとつが選挙 せんきょ 法 ほう の問題 もんだい である。
19世紀 せいき 初頭 しょとう 、有権者 ゆうけんしゃ 数 すう は全 ぜん 国民 こくみん 比 ひ で3%程度 ていど にとどまり、その大半 たいはん が貴族 きぞく やジェントリ によって占 し められた。制限 せいげん 選挙 せんきょ と工業 こうぎょう 化 か による国内 こくない の人口 じんこう 分布 ぶんぷ の変化 へんか によって多 おお くの都市 とし 選挙 せんきょ 区 く バラ (行政 ぎょうせい 区画 くかく ) が過疎 かそ 化 か して「腐敗 ふはい 選挙 せんきょ 区 く 」と化 か し、またマンチェスター のように州 しゅう 選挙 せんきょ 区 く の一部 いちぶ が工業 こうぎょう 都市 とし に変貌 へんぼう してもなお十分 じゅうぶん に議席 ぎせき を割振 わりふ られず人口 じんこう に似合 にあ う代表 だいひょう がなされないという状況 じょうきょう に陥 おちい ったため議会 ぎかい の腐敗 ふはい と寡頭が深刻 しんこく 化 か していた。18世紀 せいき の議会 ぎかい 政治 せいじ における選挙 せんきょ は、有力 ゆうりょく 者 しゃ が有権者 ゆうけんしゃ を屋敷 やしき に招待 しょうたい して接待 せったい するもので買収 ばいしゅう は通例 つうれい であり、19世紀 せいき 初期 しょき に後 のち に腐敗 ふはい 行為 こうい と呼 よ ばれた行為 こうい は処罰 しょばつ 対象 たいしょう ではなく、腐敗 ふはい として認識 にんしき されることはなかった。
だが、こうした状況 じょうきょう はアメリカ独立 どくりつ 革命 かくめい やフランス革命 かくめい 、そしてナポレオン戦争 せんそう を経 へ て、急激 きゅうげき な国内 こくない の工業 こうぎょう 化 か 、都市 とし 化 か 、機械 きかい 化 か が進展 しんてん すると、1830年代 ねんだい に入 はい る頃 ころ には状況 じょうきょう は一変 いっぺん していた。急進 きゅうしん 的 てき な民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 思想 しそう が台頭 たいとう して改革 かいかく の要求 ようきゅう が高 たか まっていたのである。1832年 ねん 第 だい 一 いち 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい が行 おこな われて都市 とし 選挙 せんきょ 区 く において地方 ちほう 税 ぜい 評価 ひょうか 額 がく 十 じゅう ポンド の住宅 じゅうたく 保有 ほゆう 者 しゃ に選挙 せんきょ 権 けん が与 あた えられ、中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう を対象 たいしょう として商店 しょうてん 主 ぬし などプチブル 層 そう の戸主 こしゅ にまで選挙 せんきょ 権 けん が広 ひろ げられた(十 じゅう ポンド戸主 こしゅ 選挙 せんきょ 権 けん )。さらに、南部 なんぶ 農村 のうそん から北部 ほくぶ 工業 こうぎょう 都市 とし に議席 ぎせき が再 さい 配分 はいぶん され、選挙 せんきょ 区画 くかく の見直 みなお しも行 おこな われた結果 けっか 、有権者 ゆうけんしゃ 数 すう は3%から4.5%へと微増 びぞう した[ 1] 。
しかし、この段階 だんかい でも資格 しかく に届 とど かない労働 ろうどう 者 しゃ は選挙 せんきょ 権 けん を持 も てずにいた。時代 じだい は「労働 ろうどう 者 しゃ の時代 じだい 」となっていたが、一向 いっこう に社会 しゃかい の変革 へんかく は受 う け入 い れられていなかった。1840年代 ねんだい 、この状況 じょうきょう を打開 だかい するため労働 ろうどう 者 しゃ の選挙 せんきょ 権 けん 獲得 かくとく を要求 ようきゅう するチャーティスト運動 うんどう が展開 てんかい される。
この運動 うんどう は失敗 しっぱい に終 お わるが、1850年代 ねんだい 以降 いこう グレート・ブリテン王国 おうこく は長 なが い好景気 こうけいき に入 はい り、熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ を中心 ちゅうしん に生活 せいかつ 水準 すいじゅん の向上 こうじょう が見 み られた。熟練 じゅくれん 層 そう は一般 いっぱん 労働 ろうどう 者 しゃ に比 くら べ2倍 ばい の収入 しゅうにゅう を得 え ており活発 かっぱつ に組合 くみあい 運動 うんどう を展開 てんかい するなど労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の社会 しゃかい 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく は確実 かくじつ に高 たか まっていた[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。ここに第 だい 二 に 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 運動 うんどう が盛 さか んになる契機 けいき が生 しょう じた。
1873年 ねん のウィリアム・アラン (英語 えいご 版 ばん )
チャーティスト運動 うんどう は失敗 しっぱい したが、労働 ろうどう 運動 うんどう は著 いちじる しい進展 しんてん を見 み せていた。
1851年 ねん 、ウィリアム・アラン (英語 えいご 版 ばん ) によって機械 きかい 工 こう 合同 ごうどう 組合 くみあい (英語 えいご 版 ばん ) (以下 いか 、ASEと略記 りゃっき )が組織 そしき された。
ASEは1)時間 じかん 外 がい 労働 ろうどう の禁止 きんし 、2)出来高 できだか 払 ばら いの廃止 はいし 、3)厳格 げんかく な入 いれ 職 しょく 制限 せいげん を要求 ようきゅう して立 た ち上 あ がった。アランは実現 じつげん のために三 さん ヶ月 かげつ にわたって闘争 とうそう するが、雇 やと い主 ぬし によるロックアウトに直面 ちょくめん してこれに敗北 はいぼく している。敗北 はいぼく したとはいえ、この組合 くみあい はこれまでの単 たん なるストライキ組合 くみあい ではなかった。アランはASEを職人 しょくにん の同士 どうし 的 てき 組合 くみあい として位置 いち づけており、相互 そうご 扶助 ふじょ のために疾病 しっぺい ・労災 ろうさい 、退職 たいしょく ・葬儀 そうぎ 給付 きゅうふ 金 きん の拠出 きょしゅつ し共済 きょうさい 制度 せいど を整備 せいび して組合 くみあい を新生 しんせい させた。ASEは新 あたら しい組合 くみあい モデルを構築 こうちく していく。こうした方針 ほうしん は名目 めいもく 的 てき な会費 かいひ を徴収 ちょうしゅう してストライキの参加 さんか 者 しゃ を募 つの るだけの旧 きゅう 組合 くみあい の体質 たいしつ とは根本 こんぽん 的 てき に異 こと なるものであり、雑多 ざった の労働 ろうどう 者 しゃ を集 あつ めて基金 ききん を運営 うんえい するだけの友愛 ゆうあい 組合 くみあい に比 くら べると結束 けっそく 力 りょく の面 めん でも優 すぐ れた特徴 とくちょう を有 ゆう していた。組織 そしき は次第 しだい に強力 きょうりょく な財政 ざいせい 基盤 きばん を築 きず いて華々 はなばな しい経済 けいざい 的 てき 成功 せいこう を収 おさ めていった。1865年 ねん までに組合 くみあい 基金 ききん として14万 まん ポンドを積 つ み立 た てたほか、1867年 ねん には組合 くみあい 員数 いんずう が3万 まん 3千 せん 人 にん へと増加 ぞうか するなど急 きゅう 成長 せいちょう を遂 と げていた[ 3] 。
1850年代 ねんだい の好景気 こうけいき によりロンドン では建築 けんちく ラッシュを迎 むか えたが、1857年 ねん の経済 けいざい 恐慌 きょうこう によって1859年 ねん のロンドン建築 けんちく 工 こう ストライキ (英語 えいご 版 ばん ) が起 お こる[ 4] [ 5] 。1860年 ねん 5月 がつ 、ロンドン労働 ろうどう 者 しゃ 協会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) (英 えい : London Trades Council 以下 いか 、LTCと表記 ひょうき )が発足 ほっそく し、多 おお くの都市 とし で労働 ろうどう 運動 うんどう の結集 けっしゅう が進展 しんてん した。LTCは後 のち に各地 かくち でつくられた同種 どうしゅ の「地区 ちく 労 ろう 」を結 むす びつけて労働 ろうどう 組合 くみあい 会議 かいぎ (英 えい : Trades Union Congress )を開催 かいさい し、その母体 ぼたい にもなっていった。
一方 いっぽう 、1859年 ねん にはロンドン建築 けんちく 工 こう ストライキを契機 けいき に新 あたら しい動 うご きが見 み られた。
この頃 ころ 、1847年 ねん 工場 こうじょう 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) のもとで十 じゅう 時 じ 間 あいだ 労働 ろうどう 制 せい が成立 せいりつ していたが、建築 けんちく 業界 ぎょうかい においての十 じゅう 時 じ 間 あいだ 制 せい は重労働 じゅうろうどう であった。石工 せっこう が中心 ちゅうしん となって、労働 ろうどう 時間 じかん の短縮 たんしゅく と出来高 できだか 払 ばら いの廃止 はいし などを求 もと めて工場 こうじょう 経営 けいえい 者 しゃ や親方 おやかた 組合 くみあい に対 たい して陳情 ちんじょう を始 はじ めた。しかし、これに対 たい して経営 けいえい 側 がわ は大 だい 規模 きぼ な職場 しょくば 締 し め出 だ し(ロックアウト )で対抗 たいこう し、事態 じたい はロンドンの建築 けんちく 工 こう を巻 ま き込 こ む一大 いちだい ストライキ に発展 はってん した。各々 おのおの 平行 へいこう 線 せん を保 たも ったまま雇用 こよう 主 ぬし ・組合 くみあい が双方 そうほう 要求 ようきゅう を取 と り下 さ げて闘争 とうそう は挫折 ざせつ に追 お い込 こ まれる。挫折 ざせつ の原因 げんいん は労働 ろうどう 組合 くみあい の法的 ほうてき 地位 ちい が明確 めいかく でなく、労使 ろうし 間 あいだ の団体 だんたい 交渉 こうしょう が適切 てきせつ におこなわれなかったことが挙 あ げられる。
当時 とうじ の労働 ろうどう 組合 くみあい は法的 ほうてき に認 みと められた組織 そしき ではなかったため、雇用 こよう 主 ぬし が交渉 こうしょう に臨 のぞ むことに法的 ほうてき 拘束 こうそく 力 りょく が課 か せられていなかった。資本 しほん に労使 ろうし 交渉 こうしょう に応 おう じる責任 せきにん はないが故 ゆえ に、結果 けっか 的 てき に闘争 とうそう の勝敗 しょうはい は組合 くみあい 側 がわ の闘争 とうそう 力 りょく 、つまり無給 むきゅう でも目的 もくてき をやり遂 と げるという労働 ろうどう 者 しゃ のやる気 き 次第 しだい になっていた。労働 ろうどう 組合 くみあい の内部 ないぶ 支配 しはい 力 りょく の弱 よわ さも問題 もんだい だった。スト破 やぶ り も横行 おうこう したり、ピケット 行為 こうい で内紛 ないふん が発生 はっせい したり、統一 とういつ 的 てき な闘争 とうそう もままならなかった。これが労働 ろうどう 運動 うんどう の障壁 しょうへき になっていたのである。このストライキはロンドン労働 ろうどう 者 しゃ 協会 きょうかい の結成 けっせい につながっていく。建築 けんちく 工 こう はASEの資金 しきん 援助 えんじょ を受 う けて賃金 ちんぎん の安定 あんてい 化 か と待遇 たいぐう 改善 かいぜん のために激 はげ しく争 あらそ ったが、まもなくスト委員 いいん 会 かい が敗北 はいぼく を認 みと めたため闘争 とうそう は失敗 しっぱい に終 お わった。しかし、建築 けんちく 工 こう のリーダーたちであったジョージ・ハウエル (英語 えいご 版 ばん ) やジョージ・ポッター (英語 えいご 版 ばん ) は抵抗 ていこう を諦 あきら めていなかった[ 6] [ 7] 。
その後 ご 、労働 ろうどう 運動 うんどう の目標 もくひょう は1)労働 ろうどう 条件 じょうけん の改善 かいぜん (主要 しゅよう なものでは十 じゅう 時 じ 間 あいだ 制 せい から九 きゅう 時 じ 間 あいだ 制 せい への移行 いこう や時間 じかん 外 がい 労働 ろうどう の禁止 きんし などの時短 じたん 問題 もんだい ・出来高 できだか 払 ばら いの廃止 はいし ・一般 いっぱん 労働 ろうどう 者 しゃ の入 にゅう 職制 しょくせい 限 げん )、2)労働 ろうどう 法 ほう の一種 いっしゅ 主従 しゅうじゅう 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) の改正 かいせい 、3)労働 ろうどう 組合 くみあい の合法 ごうほう 化 か に焦点 しょうてん が置 お かれ労働 ろうどう 運動 うんどう は壁 かべ にぶつかりながらも次第 しだい に先鋭 せんえい 化 か していった[ 8] 。労働 ろうどう 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ として頭角 とうかく を現 あらわ してきた煉瓦 れんが 積 せき 職人 しょくにん のジョージ・ハウエルや製靴 せいか 工 こう のジョージ・オッジャー (英語 えいご 版 ばん ) は熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ が抱 かか える問題 もんだい の解決 かいけつ に意欲 いよく を燃 も やし議会 ぎかい をターゲットに運動 うんどう を展開 てんかい するが、早 はや くも議会 ぎかい の対応 たいおう の鈍 のろ さに直面 ちょくめん する[ 9] 。
ロバート・アップルガース (英語 えいご 版 ばん )
1860年代 ねんだい のブリテンにおける影響 えいきょう 力 りょく ある労働 ろうどう 組合 くみあい は以下 いか のグループがあった。
シドニー・ウェッブ は上記 じょうき の組合 くみあい 指導 しどう 者 しゃ を「ジャンタ」 と呼 よ び、1860年代 ねんだい ブリテン労働 ろうどう 組合 くみあい 運動 うんどう の中核 ちゅうかく として位置 いち づけた。
1860年代 ねんだい ブリテンの労働 ろうどう 組合 くみあい 運動 うんどう は「労働 ろうどう 貴族 きぞく 」と呼 よ ばれる熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ 層 そう に掌握 しょうあく され、マルクス主義 まるくすしゅぎ と隔絶 かくぜつ した路線 ろせん を歩 あゆ んでいた。彼 かれ ら熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ は、一般 いっぱん 労働 ろうどう 者 しゃ に対 たい して2倍 ばい の賃金 ちんぎん を受 う け取 と っており、機械 きかい 以前 いぜん の技能 ぎのう で生 い きるアーティザン(職人 しょくにん )であった。労働 ろうどう 貴族 きぞく は「支配 しはい される存在 そんざい 」ではなく、もはやヴィクトリア社会 しゃかい の労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう に「君臨 くんりん する存在 そんざい 」となっていた。ASEの場合 ばあい 、年齢 ねんれい に応 おう じて15シリングから3ポンドの入会 にゅうかい 金 きん 、週 しゅう 1シリング の会費 かいひ 、これは労働 ろうどう 者 しゃ にとってかなり高額 こうがく な会費 かいひ を収 おさ めなければならず、会員 かいいん になるには推薦人 すいせんにん も必要 ひつよう であった。合同 ごうどう 組合 くみあい のメンバーになるということは「エリート労働 ろうどう 者 しゃ 」となることを意味 いみ していた[ 10] 。
労働 ろうどう 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ たちはチャーティズムに対 たい する反動 はんどう から「ノー・ポリティクス」を決 き め込 こ んでいた[ 11] 。
特 とく に機械 きかい 工 こう 合同 ごうどう 組合 くみあい (英語 えいご 版 ばん ) の指導 しどう 者 しゃ ウィリアム・アラン (英語 えいご 版 ばん ) は、政治 せいじ 運動 うんどう で失敗 しっぱい した苦 にが い経験 けいけん があり政治 せいじ への関与 かんよ に強 つよ く憂慮 ゆうりょ していた。また、『労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の諸々 もろもろ の風習 ふうしゅう と様々 さまざま な習慣 しゅうかん 』、『偉大 いだい な下層 かそう 民 みん 』、『新 あたら しい主人 しゅじん 』という書 しょ を刊行 かんこう し労働 ろうどう 者 しゃ の実情 じつじょう を世 よ に紹介 しょうかい した機械 きかい 工 こう のトマス・ライト (英語 えいご 版 ばん ) も同様 どうよう の反応 はんのう を示 しめ した。彼 かれ はASEのイデオロギーに感化 かんか されており、政治 せいじ 闘争 とうそう への反感 はんかん を表明 ひょうめい している。自身 じしん の著作 ちょさく において政治 せいじ に熱中 ねっちゅう して自分 じぶん たちの本分 ほんぶん を忘 わす れた労働 ろうどう 者 しゃ による社会 しゃかい 運動 うんどう に嫌悪 けんお 感 かん を示 しめ した[ 12] 。
1860年代 ねんだい は大 おお きなターニング・ポイントとなった。その頃 ころ 世界 せかい は大 おお きな変化 へんか を経験 けいけん していた。大 だい 英 えい 帝国 ていこく の世界 せかい 支配 しはい が完成 かんせい していく一方 いっぽう で、反動 はんどう 主義 しゅぎ 的 てき な国際 こくさい 政治 せいじ が動揺 どうよう し始 はじ めていた。動揺 どうよう は周辺 しゅうへん 部 ぶ で始 はじ まった。アメリカの本格 ほんかく 的 てき な産業 さんぎょう 革命 かくめい 、ドイツ統一 とういつ 、イタリア統一 とういつ 運動 うんどう 、日本 にっぽん の尊王 そんのう 攘夷 じょうい 運動 うんどう や戊辰戦争 ぼしんせんそう が勃発 ぼっぱつ するなど後発 こうはつ 諸国 しょこく も近代 きんだい 国家 こっか を形成 けいせい する段階 だんかい に入 はい っていった。
アメリカで南北戦争 なんぼくせんそう が始 はじ まり、北部 ほくぶ 合衆国 がっしゅうこく が南部 なんぶ 連合 れんごう に勝利 しょうり を収 おさ め、これにより黒人 こくじん 奴隷 どれい 制 せい は崩壊 ほうかい した。あらゆる改革 かいかく 、革命 かくめい 、独立 どくりつ に反対 はんたい する老 ろう 大国 たいこく (イギリス ・フランス ・オーストリア ・ロシア )中心 ちゅうしん の復古 ふっこ 的 てき な世界 せかい 秩序 ちつじょ に綻 ほころ びが生 しょう じ始 はじ めており、新興 しんこう 各国 かっこく (ブリテン国内 こくない ではアメリカ南北戦争 なんぼくせんそう 期 き に展開 てんかい した北部 ほくぶ 支援 しえん 運動 うんどう [ 13] ・イタリア ガリバルディ 支援 しえん 運動 うんどう [ 11] ・ポーランド・ポーランド支援 しえん 運動 うんどう 、アイルランド のフィニアン蜂起 ほうき (英語 えいご 版 ばん ) )でナショナリズム の機運 きうん が高 たか まっていた。1864年 ねん 9月28日 にち にはジョージ・オッジャー (英語 えいご 版 ばん ) 、ウィリアム・ランダル・クリーマー 、フランス労働 ろうどう 者 しゃ 団 だん 代表 だいひょう のアンリ・トラン (英語 えいご 版 ばん ) といった熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ 、ロンドン大学 だいがく 教授 きょうじゅ のエドワード・ビーズリ (英語 えいご 版 ばん ) ら知識 ちしき 人 じん を中心 ちゅうしん に国際 こくさい 労働 ろうどう 者 しゃ 協会 きょうかい (第 だい 一 いち インターナショナル )がロンドンで設立 せつりつ された。第 だい 一 いち インターは各国 かっこく 首都 しゅと に次々 つぎつぎ と支部 しぶ を設置 せっち して、共産 きょうさん 主義 しゅぎ の父 ちち カール・マルクス の理論 りろん 的 てき ・政治 せいじ 的 てき 両面 りょうめん での指導 しどう を受 う けるながら労働 ろうどう 運動 うんどう を世界中 せかいじゅう で活発 かっぱつ 化 か させていく。自由 じゆう を獲得 かくとく するという時代 じだい の雰囲気 ふんいき がイングランド の人々 ひとびと の士気 しき を鼓舞 こぶ していった[ 14] 。
国際 こくさい 的 てき なナショナリズム高 だか 陽 ひ の機運 きうん が見 み られた他 ほか 、労働 ろうどう 時間 じかん 短縮 たんしゅく 運動 うんどう の挫折 ざせつ と労働 ろうどう 条件 じょうけん 問題 もんだい 、主従 しゅうじゅう 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) などの労働 ろうどう 法 ほう 問題 もんだい の深刻 しんこく さが露 あら わとなった。主 おも に石工 せっこう や煉瓦 れんが 積 せき 職人 しょくにん 、大工 だいく などの建築 けんちく 労働 ろうどう 者 しゃ と炭鉱 たんこう 労働 ろうどう 者 しゃ を中心 ちゅうしん に次第 しだい にではあるが再 ふたた び政治 せいじ に接近 せっきん しはじめるようになる。労働 ろうどう 組合 くみあい 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ たちは、熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の待遇 たいぐう 改善 かいぜん のためには選挙 せんきょ 権 けん の獲得 かくとく が必要 ひつよう であると考 かんが え、「成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん 協会 きょうかい 」を組織 そしき していた[ 15] 。この組織 そしき はかつて知識 ちしき 人 じん や貧困 ひんこん 労働 ろうどう 者 しゃ が主体 しゅたい であったチャーティズムを労働 ろうどう 者 しゃ 自身 じしん が凌駕 りょうが した歴史 れきし 的 てき 瞬間 しゅんかん であった。アップルガースは『レイノルズ・ニュースペーパー』 (英語 えいご 版 ばん ) で労働 ろうどう 者 しゃ に次 つぎ のように語 かた っている。
「この
国 くに の
熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ としての
地位 ちい は、(
中略 ちゅうりゃく )、わが
大衆 たいしゅう の
利益 りえき を
大 おお いに
促進 そくしん させる。(
中略 ちゅうりゃく )。
我々 われわれ は
労働 ろうどう 時間 じかん の
短縮 たんしゅく や
賃金 ちんぎん 引 ひ き
上 あ げのために
団結 だんけつ した
時 とき 以上 いじょう に
強 つよ く
団結 だんけつ しなければならない。
我々 われわれ は
社会 しゃかい 的 てき 状況 じょうきょう を
改善 かいぜん するのを
止 と めないよう
労働 ろうどう 組合 くみあい に
望 のぞ むが、
労働 ろうどう 組合 くみあい を
政治 せいじ 組織 そしき に
変 か えて
社会 しゃかい 的 てき 目的 もくてき から
外 はず れたものにはしたくはない。だが、
我々 われわれ は
市民 しみん であり、そして
市民 しみん 権 けん を
有 ゆう するのだということを
忘 わす れてはならない。また、これらの
権利 けんり を
獲得 かくとく することで、より
効率 こうりつ 的 てき に
組合 くみあい 員 いん としての
正当 せいとう なる
要求 ようきゅう を
獲得 かくとく できることを
心 しん に
刻 きざ もう。
我々 われわれ の
目的 もくてき は
市民 しみん としての
権利 けんり を
獲得 かくとく するための
組織 そしき をつくること、い
換 いか えれば、
政治 せいじ 権力 けんりょく を
共有 きょうゆう することにある。その
目的 もくてき は
明白 めいはく である。すなわち、
有権者 ゆうけんしゃ 登録 とうろく 付 つ きの
成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん と
秘密 ひみつ 投票 とうひょう 制 せい の
獲得 かくとく による
政治 せいじ 問題 もんだい の
解決 かいけつ である。」
[ 16]
この見解 けんかい は改革 かいかく 連盟 れんめい による選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 運動 うんどう へと発展 はってん していく。
建築 けんちく 工 こう ストライキから数 すう 年 ねん が経緯 けいい 化 か して時短 じたん 運動 うんどう は頓挫 とんざ していたが、ジョージ・ハウエル (英語 えいご 版 ばん ) やジョージ・ポッター (英語 えいご 版 ばん ) は長時間 ちょうじかん 労働 ろうどう への抵抗 ていこう を諦 あきら めていなかった。LTCの復帰 ふっき 命令 めいれい に反対 はんたい して復職 ふくしょく するのを断念 だんねん し、古 ふる いチャーティスト運動 うんどう 家 か の支援 しえん を受 う けながらジャーナリズム や政治 せいじ 運動 うんどう の道 みち に入 はい ることになる。やがて、彼 かれ ら建築 けんちく 工 こう の若 わか い指導 しどう 者 しゃ たちは労働 ろうどう 条件 じょうけん の改善 かいぜん が必死 ひっし の状況 じょうきょう にあって、労働 ろうどう 者 しゃ は次第 しだい に労働 ろうどう 条件 じょうけん の改善 かいぜん をはかる道 みち が政治 せいじ 的 てき 権利 けんり の獲得 かくとく にしかないという自覚 じかく に到達 とうたつ するようになっていた[ 17] 。かくしてロンドンの労働 ろうどう 者 しゃ は「成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん 協会 きょうかい 」を結成 けっせい し、活動 かつどう 目標 もくひょう を6ヶ月 かげつ の居住 きょじゅう 条件 じょうけん をもつ有権者 ゆうけんしゃ 登録 とうろく つきの「成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん 」と「秘密 ひみつ 投票 とうひょう 制 せい 」の獲得 かくとく による政治 せいじ 問題 もんだい の解決 かいけつ に定 さだ めるに至 いた る。これが改革 かいかく 連盟 れんめい の前身 ぜんしん となる。
改革 かいかく 連盟 れんめい の政治 せいじ 的 てき 立場 たちば [ 編集 へんしゅう ]
エドマンド・ビールズ (英語 えいご 版 ばん ) 。改革 かいかく 連盟 れんめい の会長 かいちょう に就任 しゅうにん し、運動 うんどう に取 と り組 く む。
ジョージ・ハウエル (英語 えいご 版 ばん ) 。このときハウエルは書記 しょき を勤 つと めていた。
「成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん 協会 きょうかい 」はストライキ戦術 せんじゅつ をめぐる労働 ろうどう 組合 くみあい 指導 しどう 者 しゃ の内紛 ないふん によって崩壊 ほうかい し、アップルガースの運動 うんどう を支持 しじ するグループ(ジャンタ と呼 よ ばれている[ 18] )を中心 ちゅうしん に新 しん 組織 そしき の結成 けっせい が進 すす められた。1865年 ねん 2月 がつ 、ジョージ・ハウエル (英語 えいご 版 ばん ) らジャンタを支持 しじ した労働 ろうどう 運動 うんどう 指導 しどう 者 しゃ はジョージ・ポッター (英語 えいご 版 ばん ) の排斥 はいせき を決定 けってい して労働 ろうどう 者 しゃ 物質 ぶっしつ 的 てき 向上 こうじょう 統一 とういつ 連盟 れんめい (英語 えいご 版 ばん ) の組織 そしき 刷新 さっしん を進 すす め、新 しん 団体 だんたい の名称 めいしょう を「改革 かいかく 連盟 れんめい 」 (英 えい : Reform League )とした。
ジョージ・ポッターは旧来 きゅうらい 型 がた の組合 くみあい に所属 しょぞく していたがゆえに、労働 ろうどう 組合 くみあい は労働 ろうどう 闘争 とうそう のために存在 そんざい すると考 かんが えており、各地 かくち のストライキを積極 せっきょく 的 てき に支援 しえん していた。これは合法 ごうほう 的 てき で穏便 おんびん な組合 くみあい 運動 うんどう を志向 しこう するジャンタと対立 たいりつ するものであった。排斥 はいせき されたジョージ・ポッターは古 ふる いチャーティズムの伝統 でんとう を継承 けいしょう する一派 いっぱ と接近 せっきん した。1861年 ねん 、ポッターは老 ろう チャーティスト指導 しどう 者 しゃ ロバート・ハートウェルとともに労働 ろうどう 者 しゃ 紙 し 『ビーハイブ』 (英語 えいご 版 ばん ) を発行 はっこう して戦闘 せんとう 的 てき な労働 ろうどう 闘争 とうそう を支持 しじ し続 つづ け、1864年 ねん には改革 かいかく 連盟 れんめい と競合 きょうごう する新 しん 組織 そしき 「ロンドン労働 ろうどう 者 しゃ 協会 きょうかい (英 えい : London Working Men Association, LWMA )」を組織 そしき した。成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん に加 くわ えて間借 まが り人 じん 選挙 せんきょ 権 けん の獲得 かくとく を最 さい 優先 ゆうせん 課題 かだい に掲 かか げて、ロンドンの労働 ろうどう 者 しゃ の選挙 せんきょ 権 けん 獲得 かくとく が目標 もくひょう であった[ 19] 。
一方 いっぽう 、改革 かいかく 連盟 れんめい は中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう 急進 きゅうしん 主義 しゅぎ (イングランド)(英語 えいご 版 ばん ) と合流 ごうりゅう して前 ぜん 組織 そしき を越 こ える会員 かいいん 数 すう の拡大 かくだい と豊富 ほうふ な運動 うんどう 資金 しきん の獲得 かくとく を目指 めざ した。会長 かいちょう 選定 せんてい は中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の知識 ちしき 人 じん の中 なか から吟味 ぎんみ された。ジャマイカ事件 じけん で蜂起 ほうき した黒人 こくじん 農民 のうみん を擁護 ようご し総督 そうとく エドワード・ジョン・エア を弾劾 だんがい した著名 ちょめい な弁護士 べんごし エドマンド・ビールズを会長 かいちょう に選出 せんしゅつ した。改革 かいかく 連盟 れんめい は5月2日 にち 中央 ちゅうおう 事務 じむ 局 きょく から発行 はっこう された通達 つうたつ で新 しん 組織 そしき の発足 ほっそく とその政治 せいじ 目標 もくひょう を次 つぎ のように表明 ひょうめい した。
「グレート・ブリテンの
労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう 。
彼 かれ らは
自分 じぶん 達 たち の
闘争 とうそう を
遂行 すいこう している。
船舶 せんぱく をつくり、
農地 のうち を
耕 たがや し、
工場 こうじょう を
建設 けんせつ し、
商業 しょうぎょう と
貿易 ぼうえき に
従事 じゅうじ し、
礼儀 れいぎ 正 ただ しく
振舞 ふるま い、
規則正 きそくただ しい
習慣 しゅうかん を
身 み につけ、
法律 ほうりつ によく
服 ふく し、
全 ぜん 世界 せかい の
文明 ぶんめい を
支 ささ えている。その
彼 かれ ら
労働 ろうどう 者 しゃ には
市民 しみん にとって
最 もっと も
重要 じゅうよう な
権利 けんり が
与 あた えられていない。
労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう は
巨額 きょがく の
税 ぜい を
払 はら っている。しかし、
彼 かれ らは
課税 かぜい を
強 し いられながら
断固 だんこ として
選挙 せんきょ に
参加 さんか することを
拒絶 きょぜつ されている。
労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう は
法律 ほうりつ によく
服 ふく している。しかし、
法律 ほうりつ を
作成 さくせい する
議員 ぎいん を
選出 せんしゅつ する
際 さい 、
発言 はつげん を
許 ゆる されていない。」
[ 20]
ビールズは5月13日 にち の発足 ほっそく 集会 しゅうかい の演説 えんぜつ において、「代表 だいひょう なき課税 かぜい は不正 ふせい である」という伝統 でんとう に言及 げんきゅう し、課税 かぜい を受 う けた労働 ろうどう 者 しゃ に選挙 せんきょ 権 けん がないのは公正 こうせい ではないと指摘 してき した。ビールズは、以上 いじょう の点 てん を踏 ふ まえて「成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん 」 に基 もと づく選挙 せんきょ 権 けん の拡大 かくだい の必要 ひつよう 性 せい を説 と いた。また、国 くに に対 たい する熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ (「労働 ろうどう 貴族 きぞく 」)の貢献 こうけん は大 おお きく、彼 かれ らは勤勉 きんべん で質実 しつじつ な生活 せいかつ を営 いとな み自助 じじょ 努力 どりょく で生活 せいかつ を向上 こうじょう させ、組合 くみあい に加入 かにゅう して組合 くみあい 員 いん の役割 やくわり を果 は たすなど公的 こうてき な責任 せきにん 能力 のうりょく があって有権者 ゆうけんしゃ になる十分 じゅうぶん な資質 ししつ (「リスペクタビリティ 」[ 21] )を備 そな えていることを強調 きょうちょう した[ 20] 。
ちなみに、この時代 じだい を代表 だいひょう する合同 ごうどう 組合 くみあい (英 えい : Amalgamated Society )という呼称 こしょう をもった新 しん モデル組合 くみあい (英語 えいご 版 ばん ) は特 とく に重要 じゅうよう で、それまでの組合 くみあい とは根本 こんぽん 的 てき に異 こと なるものであった。
この種 たね の組合 くみあい は、上述 じょうじゅつ していることだが、ストライキなど労働 ろうどう 闘争 とうそう よりも労使 ろうし 交渉 こうしょう を重視 じゅうし していた。また、医療 いりょう ・疾病 しっぺい 傷害 しょうがい ・老齢 ろうれい ・失業 しつぎょう など様々 さまざま な共済 きょうさい の制度 せいど を整備 せいび して組合 くみあい 員 いん の福利 ふくり の充実 じゅうじつ を図 はか っていった。
しかし、この組合 くみあい は一般 いっぱん の組合 くみあい より高額 こうがく な会費 かいひ の支払 しはら いが求 もと められた[ 22] 。当然 とうぜん 、収入 しゅうにゅう が多 おお く職場 しょくば 内 ない の地位 ちい の高 たか い職長 しょくちょう クラスや現場 げんば 監督 かんとく 者 しゃ に就 つ くようなエリート労働 ろうどう 者 しゃ 層 そう しか入 い れなかった[ 23] 。その上 うえ 、「合同 ごうどう 組合 くみあい 」の多 おお くが一般 いっぱん 労働 ろうどう 者 しゃ の入 いれ 職 しょく 制限 せいげん を要求 ようきゅう していたほか、徒弟 とてい の修行 しゅぎょう 期間 きかん (5年 ねん ほど)をこなした熟練 じゅくれん 職人 しょくにん だけを加入 かにゅう 対象 たいしょう としていて、既 すで に会員 かいいん となっている組合 くみあい 員 いん 二 に 人 にん の推薦 すいせん を受 う けて審査 しんさ を通過 つうか しなければ新 あら たに会員 かいいん になれないなど資格 しかく が厳 きび しく閉鎖 へいさ 的 てき なものであった[ 24] 。組合 くみあい 内 ない の風紀 ふうき も特徴 とくちょう 的 てき でこれまでの従来 じゅうらい 型 がた の組合 くみあい の場合 ばあい 、会合 かいごう は居酒屋 いざかや で開 ひら かれることも多 おお かったが、大工 だいく ・指物 さしもの 工 こう 合同 ごうどう 組合 くみあい (英語 えいご 版 ばん ) の場合 ばあい は読書 どくしょ 室 しつ に会合 かいごう の場 ば が置 お かれるようになっていた[ 25] 。改革 かいかく 連盟 れんめい の支援 しえん 者 しゃ のひとりであるロバート・アップルガース (英語 えいご 版 ばん ) [ 注釈 ちゅうしゃく 2] が総 そう 書記 しょき を務 つと めて以降 いこう 、このASCJは零細 れいさい な組合 くみあい から建築 けんちく 業界 ぎょうかい で代表 だいひょう 的 てき かつ屈指 くっし の組織 そしき となる。1867年 ねん には17000ポンドの基金 ききん を築 きず き豊富 ほうふ な財政 ざいせい 力 りょく を有 ゆう する強力 きょうりょく な組合 くみあい へと急 きゅう 成長 せいちょう を遂 と げていった[ 28] [ 29] 。
このように19世紀 せいき の道徳 どうとく 改革 かいかく の影響 えいきょう が労働 ろうどう 組合 くみあい にも達 たっ し、これが労働 ろうどう 組合 くみあい 内部 ないぶ の構造 こうぞう 改革 かいかく を促 うなが していった。こうした新 あたら しい労働 ろうどう 組合 くみあい 運動 うんどう の型 かた が熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の経済 けいざい 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき 、社会 しゃかい 的 てき な底上 そこあ げの原動力 げんどうりょく になっていく。まさに改革 かいかく 連盟 れんめい の選挙 せんきょ 権 けん 拡大 かくだい の要求 ようきゅう は、こうした高 たか い技術 ぎじゅつ 力 りょく に収入 しゅうにゅう 、高 たか い知的 ちてき レベルに職人 しょくにん 的 てき プライド、強力 きょうりょく な団結 だんけつ 力 りょく と有効 ゆうこう な戦略 せんりゃく を持 も った労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう のトップグループをより上 うえ に向 む かって引 ひ き上 あ げていくことに焦点 しょうてん を置 お くものだった。
一方 いっぽう で、ビールズは下層 かそう 労働 ろうどう 者 しゃ を「性質 せいしつ が悪 わる くまったく値打 ねう ちのない他 ほか の階級 かいきゅう 」と位置付 いちづ け、彼 かれ らを政治 せいじ 的 てき に排除 はいじょ すべきとする認識 にんしき を示 しめ した。
ビールズの演説 えんぜつ では、改革 かいかく 連盟 れんめい は選挙 せんきょ 権 けん を与 あた えるべき人々 ひとびと (男性 だんせい 熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ )と与 あた えるべきではない人々 ひとびと (未 み 熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ ・明言 めいげん はしていないものの女性 じょせい )が存在 そんざい するということが指摘 してき されている。この認識 にんしき は当時 とうじ 珍 めずら しい考 かんが えではなく、保守党 ほしゅとう はおろか自由党 じゆうとう のグラッドストン も急進 きゅうしん 主義 しゅぎ 者 しゃ (イングランド)(英語 えいご 版 ばん ) のジョン・ブライト も『英国 えいこく 憲政 けんせい 論 ろん (英語 えいご 版 ばん ) 』を執筆 しっぴつ したウォルター・バジョット も、J.S.ミル [ 注釈 ちゅうしゃく 3] でさえ優秀 ゆうしゅう な人間 にんげん が政治 せいじ をするべきと見 み ており[ 30] 、ビールズも同 おな じ考 かんが えを示 しめ そうとしていた。この時代 じだい の労働 ろうどう 貴族 きぞく 層 そう の人々 ひとびと は中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の支援 しえん と賛同 さんどう を重視 じゅうし しており、労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の政治 せいじ 利害 りがい を中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の良識 りょうしき 者 しゃ たち(出自 しゅつじ にかかわらず個人 こじん の力量 りきりょう や責任 せきにん を重 おも んじるが故 ゆえ に有権者 ゆうけんしゃ 資格 しかく の無 む 制限 せいげん の拡大 かくだい に反対 はんたい している自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ )に代弁 だいべん してもらおうと期待 きたい していた[ 31] 。ビールズは労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の目覚 めざ ましい社会 しゃかい 上昇 じょうしょう を指摘 してき し、以下 いか のように明言 めいげん した。
「
熟練 じゅくれん した
労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう には
素晴 すば らしい
成果 せいか が
見 み られる。
慎重 しんちょう な
気質 きしつ 、
禁欲 きんよく 的 てき 倹約 けんやく 、そして、
社会 しゃかい 的 てき かつクリスチャン
的 てき 生活 せいかつ とその
美徳 びとく 、
財産 ざいさん 、
住居 じゅうきょ 、
協同 きょうどう 組合 くみあい 、
自制心 じせいしん 、
社会 しゃかい 性 せい 、すぐれた
慣行 かんこう 、
身 み なり、
資産 しさん 運用 うんよう 能力 のうりょく 、(
中略 ちゅうりゃく )、
克己 こっき 心 しん と
自己 じこ 管理 かんり 能力 のうりょく が
見 み られる。(
中略 ちゅうりゃく )。
労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう 自体 じたい が、
法 ほう と
秩序 ちつじょ 、
資本 しほん と
所有 しょゆう の
権利 けんり 、わが
国 くに の
名誉 めいよ と
権力 けんりょく と
富 とみ 、これらの
原理 げんり の
維持 いじ に
深 ふか い
関心 かんしん を
持 も っている。
彼 かれ らは
協同 きょうどう 組合 くみあい や
建築 けんちく 組合 くみあい 、その
他 た の
組合 くみあい 員 いん として、
日々 ひび 、
自 みずか ら
資本 しほん 家 か や
地主 じぬし になりつつある。」
[ 32]
以上 いじょう のことから、改革 かいかく 連盟 れんめい は労働 ろうどう 者 しゃ の改革 かいかく 団体 だんたい ではあったが、彼 かれ らの運動 うんどう 理念 りねん は自由 じゆう ・労働 ろうどう 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) という特殊 とくしゅ な立場 たちば に基 もと づくものであった。
改革 かいかく 連盟 れんめい は「人民 じんみん 主権 しゅけん 」や「民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」によって急進 きゅうしん 的 てき な社会 しゃかい 変革 へんかく を目指 めざ したチャーティズム 、オウエン主義 しゅぎ (空想 くうそう 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の一 ひと つ)とは異 こと なり、体制 たいせい のイデオロギー を受 う け入 い れて「個人 こじん 主義 しゅぎ 」・「自由 じゆう 主義 しゅぎ 」の伝統 でんとう を支持 しじ しており、保守 ほしゅ 的 てき で男性 だんせい 主義 しゅぎ 的 てき で資本 しほん 主義 しゅぎ の下 した での労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の両極 りょうきょく 分解 ぶんかい の状況 じょうきょう を是認 ぜにん し、社会 しゃかい で成功 せいこう を収 おさ めようと志 こころざ す男性 だんせい 熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の社会 しゃかい 的 てき 上昇 じょうしょう を強 つよ く志向 しこう するグループであった。改革 かいかく 連盟 れんめい 執行 しっこう 部 ぶ を構成 こうせい していたハウエルやオッジャーらの権利 けんり 観 かん もビールズの見解 けんかい と差異 さい は少 すく なく、選挙 せんきょ 権 けん を社会 しゃかい 的 てき ステータスとして位置 いち づけ、これを手 て にすることで労働 ろうどう 問題 もんだい を有利 ゆうり な条件 じょうけん で解決 かいけつ するという点 てん で同様 どうよう のものであった[ 33] [ 34] [ 32] 。このことは選挙 せんきょ 権 けん を普遍 ふへん 的 てき な「権利 けんり 」として捉 とら えるのではなく、階級 かいきゅう 社会 しゃかい における一種 いっしゅ の「特権 とっけん 」であるとする認識 にんしき が支配 しはい 的 てき だったことを示唆 しさ しており、改革 かいかく 連盟 れんめい は成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん を掲 かか げていたものの、指導 しどう 部 ぶ と会員 かいいん となった熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の内心 ないしん は下層 かそう 労働 ろうどう 者 しゃ との差別 さべつ 化 か に必死 ひっし だったと推測 すいそく できる[ 32] 。
1865年 ねん 10月 がつ 、選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい に長年 ながねん 反対 はんたい していたパーマストン 首相 しゅしょう が急死 きゅうし した。
1866年 ねん 3月 がつ 、自由党 じゆうとう 内閣 ないかく の大蔵 おおくら 大臣 だいじん グラッドストン によって選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 法案 ほうあん が提出 ていしゅつ される。家賃 やちん 7ポンド戸主 こしゅ 選挙 せんきょ 権 けん と10ポンド間借 まが り人 じん 選挙 せんきょ 権 けん を都市 とし 選挙 せんきょ 区 く に導入 どうにゅう することが提案 ていあん された[ 35] 。しかし、グラッドストンは党内 とうない の掌握 しょうあく に成功 せいこう していなかったため、すぐさま反対 はんたい の声 こえ が上 あ がる。
その中 なか で最 もっと も先鋭 せんえい な反対 はんたい 論 ろん を展開 てんかい したのがロバート・ロウ (英語 えいご 版 ばん ) である。
ロウは、家賃 やちん 基準 きじゅん で設定 せってい された政府 せいふ の法案 ほうあん は選挙 せんきょ 権 けん に確 かく たる資格 しかく を設定 せってい していないことを指摘 してき した。すなわち、家賃 やちん 基準 きじゅん は物価 ぶっか 変動 へんどう に影響 えいきょう される不安定 ふあんてい なものであり、労働 ろうどう 者 しゃ の資格 しかく 切 き り下 さ げ要求 ようきゅう の突 つ き上 あ げが起 お こると拒絶 きょぜつ する道理 どうり が欠如 けつじょ していて、一旦 いったん 資格 しかく を緩和 かんわ を始 はじ めると最終 さいしゅう 的 てき に「正真正銘 しょうしんしょうめい の成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん 」(改革 かいかく 連盟 れんめい の要求 ようきゅう でさえ条件 じょうけん 付 つ き)に行 い き着 つ く可能 かのう 性 せい があると批判 ひはん したのである[ 36] 。また、ロウは有権者 ゆうけんしゃ 資格 しかく の基準 きじゅん 線 せん から高 たか ければ高 たか いほど有権者 ゆうけんしゃ としての政治 せいじ 的 てき 資質 ししつ が高 たか くなるが低 ひく ければ劣悪 れつあく になってくると論 ろん を展開 てんかい した[ 37] 。この劣悪 れつあく な人々 ひとびと が選挙 せんきょ 権 けん を持 も つと予想 よそう されるのは政治 せいじ の混乱 こんらん であった。フランス革命 かくめい やアメリカの南北戦争 なんぼくせんそう は民主 みんしゅ 主義 しゅぎ が引 ひ き起 お こした「負 まけ の産物 さんぶつ 」として見 み なされていた[ 38] 。この主張 しゅちょう は現代 げんだい では時代 じだい 錯誤 さくご なエリート 主義 しゅぎ であるが一 いち 九 きゅう 世紀 せいき では至 いた って常識 じょうしき 的 てき な見解 けんかい である。
6月 がつ 、保守党 ほしゅとう は有権者 ゆうけんしゃ 資格 しかく の根拠 こんきょ を地方 ちほう 税 ぜい 基準 きじゅん から家賃 やちん 基準 きじゅん に変更 へんこう した自由党 じゆうとう 案 あん を納税 のうぜい 義務 ぎむ など政治 せいじ 的 てき 責任 せきにん を軽視 けいし するものとして強 つよ く反発 はんぱつ し、自由党 じゆうとう の改革 かいかく 反対 はんたい 派 は (アダラム洞窟 どうくつ 党 とう と呼 よ ばれる、ホイッグ 派 は やロバート・ロウ など)と協力 きょうりょく して法案 ほうあん を廃案 はいあん に追 お い込 こ んだ[ 39] 。まもなく、首相 しゅしょう のジョン・ラッセル が内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく を決断 けつだん したためヴィクトリア女王 じょおう により第 だい 14代 だい ダービー伯爵 はくしゃく (エドワード・スミス=スタンリー )が首相 しゅしょう に指名 しめい されて少数 しょうすう 与党 よとう の保守党 ほしゅとう 政権 せいけん が成立 せいりつ した[ 40] 。
1866年 ねん ハイドパーク事件 じけん の様子 ようす
このような政局 せいきょく の変化 へんか に反発 はんぱつ した改革 かいかく 連盟 れんめい は、ハイドパーク で抗議 こうぎ 集会 しゅうかい を開催 かいさい して政府 せいふ 批判 ひはん をしようと試 こころ みる。なお、ハイドパークは集会 しゅうかい の自由 じゆう が「イングランド人 じん の権利 けんり 」として保障 ほしょう された由緒 ゆいしょ ある場所 ばしょ で、マーブル・アーチを越 こ えた所 ところ にスピーカーズ・コーナー が設 もう けられ、いかなる発言 はつげん (国王 こくおう 批判 ひはん など例外 れいがい を除 のぞ く)も尊重 そんちょう されるなど古 ふる くから抗議 こうぎ 活動 かつどう の拠点 きょてん であった[ 41] 。
しかし、ロンドン警視庁 けいしちょう 警視総監 けいしそうかん (英語 えいご 版 ばん ) リチャード・メイン (英語 えいご 版 ばん ) はハイドパークでの集会 しゅうかい に禁令 きんれい を出 だ して改革 かいかく 連盟 れんめい の動 うご きを阻止 そし しようとした。これに対 たい して、ビールズは警視総監 けいしそうかん に書簡 しょかん を提出 ていしゅつ し、「公園 こうえん は、人民 じんみん の資産 しさん で管理 かんり されている国王 こくおう の財産 ざいさん 」であって、「議会 ぎかい がこれを尊重 そんちょう する国家 こっか 財産 ざいさん である」と言及 げんきゅう して政府 せいふ に集会 しゅうかい を妨害 ぼうがい する権利 けんり はないと主張 しゅちょう し、公園 こうえん 使用 しよう を許可 きょか するよう求 もと めた[ 41] 。
1866年 ねん 7月 がつ 23日 にち 、ビールズは労働 ろうどう 者 しゃ と共 とも にハイドパークを目指 めざ して行進 こうしん し、公園 こうえん への入場 にゅうじょう 許可 きょか を求 もと めるが、ゲートは封鎖 ふうさ されており要求 ようきゅう は拒 こば まれてしまう。ビールズは国費 こくひ で運営 うんえい された公園 こうえん での集会 しゅうかい が禁 きん じられたことの「恥辱 ちじょく 」を強調 きょうちょう し、正当 せいとう な権利 けんり の主張 しゅちょう も認 みと められていないこと、労働 ろうどう 者 しゃ が市民 しみん として認 みと められていないことを皆 みな に例示 れいじ した。そして、ビールズは「もし、諸君 しょくん がいかなる努力 どりょく をもってしても正義 せいぎ を勝 か ち取 と れないのなら、市民 しみん としての正当 せいとう な特権 とっけん は、納税 のうぜい であれ、従軍 じゅうぐん であれ、いかなる国家 こっか 貢献 こうけん をなそうとも、いつまでも奪 うば い取 と られたままになるであろう」と人々 ひとびと の前 まえ で述 の べて事 こと の深刻 しんこく さを示 しめ そうとしたのである。この演説 えんぜつ は予想 よそう 以上 いじょう の作用 さよう をもたらすことになる。集会 しゅうかい 場所 ばしょ はトラファルガー広場 ひろば に移 うつ されたが、ハイドパーク前 まえ に残 のこ っていた集会 しゅうかい 参加 さんか 者 しゃ の一部 いちぶ はビールズの演説 えんぜつ と警官 けいかん 隊 たい の態度 たいど に過剰 かじょう に刺激 しげき されて暴走 ぼうそう し、多数 たすう の労働 ろうどう 者 しゃ が公園 こうえん の鉄柵 てっさく を倒 たお して警官 けいかん 隊 たい を殴 なぐ り飛 と ばし、ハイドパークを占拠 せんきょ するという事件 じけん が発生 はっせい した[ 42] 。これが1866年 ねん ハイドパーク事件 じけん (ハイドパーク鉄柵 てっさく 倒壊 とうかい 事件 じけん )である。改革 かいかく 連盟 れんめい の機関 きかん 紙 し 『コモンウェルス』はハイドパークの柵 しがらみ の内側 うちがわ が体制 たいせい 、外側 そとがわ がアウトサイダーだとする認識 にんしき が労働 ろうどう 者 しゃ を決起 けっき させたと指摘 してき している[ 43] 。
改革 かいかく 連盟 れんめい の指導 しどう 部 ぶ に自制 じせい を求 もと めるべくJ.S.ミル が仲介 ちゅうかい に入 はい ってたほか、同 どう 事件 じけん は各界 かくかい に賛否 さんぴ 両論 りょうろん の大 おお きな衝撃 しょうげき を与 あた え、ヴィクトリア女王 じょおう の姿勢 しせい にも影響 えいきょう を及 およ ぼした。マルクス はこの事件 じけん について、「柵 しがらみ を槍 やり にして警官 けいかん を殺 ころ せば、面白 おもしろ いことになっただろう」 と語 かた っている[ 44] 。このようなわけで首相 しゅしょう ダービーや大蔵 おおくら 大臣 だいじん ディズレーリ は不本意 ふほんい な改革 かいかく に嫌々 いやいや 取 と り組 く まざるを得 え なくなっていく[ 45] [ 46] 。
保守党 ほしゅとう 政権 せいけん と改革 かいかく 連盟 れんめい [ 編集 へんしゅう ]
保守 ほしゅ 改正 かいせい 法案 ほうあん と保守 ほしゅ 主義 しゅぎ [ 編集 へんしゅう ]
ディズレーリ は、クランボーン をはじめとする保守党 ほしゅとう 内部 ないぶ のトーリー 派 は の頑強 がんきょう な抵抗 ていこう を排 はい して、1867年 ねん 3月 がつ 18日 にち なんとか改革 かいかく 法案 ほうあん を提出 ていしゅつ した。そこで彼 かれ は「選挙 せんきょ 権 けん を社会 しゃかい 的 てき 価値 かち と結 むす びつけて設定 せってい 」する観点 かんてん から、二 に 年 ねん 以上 いじょう の居住 きょじゅう 期間 きかん を満 み たして納税 のうぜい 台帳 だいちょう に氏名 しめい 記載 きさい された地方 ちほう 税 ぜい (英語 えいご 版 ばん ) の納税 のうぜい 者 しゃ を新 あら たに有権者 ゆうけんしゃ に定 さだ め、都市 とし 選挙 せんきょ 区 く に条件 じょうけん 付 つ きではあるが戸主 こしゅ 選挙 せんきょ 権 けん を導入 どうにゅう することを謳 うた っている[ 47] 。ディズレーリは議会 ぎかい で次 つぎ のように演説 えんぜつ している。
議会 ぎかい 内 ない での第 だい 二 に 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 問題 もんだい は、ディズレーリ・グラッドストンの直接 ちょくせつ 対決 たいけつ の様相 ようそう を呈 てい していた。
「
私 わたし は、
庶民 しょみん 院 いん における
選挙 せんきょ 制度 せいど を
以下 いか のような
主張 しゅちょう のもとに
採用 さいよう する。
(労働 ろうどう 者 しゃ に)権利 けんり を行使 こうし させる機会 きかい を与 あた えるのであれば、彼 かれ らに義務 ぎむ を担 にな わせて、多 おお くの信頼 しんらい 性 せい を証明 しょうめい させなければならないであろう。(中略 ちゅうりゃく )。したがって、私 わたし は地方 ちほう 税 ぜい を課税 かぜい され(信頼 しんらい 性 せい を証明 しょうめい した)納税 のうぜい 者 しゃ に選挙 せんきょ 権 けん が与 あた えられるべきだと考 かんが えている。(中略 ちゅうりゃく )。我々 われわれ は(選挙 せんきょ 権 けん に)普遍 ふへん 的 てき 性格 せいかく を与 あた えることのできない要素 ようそ を退 しりぞ けながら、地方 ちほう 税 ぜい を基礎 きそ とする誠意 せいい ある原則 げんそく を認 みと め、選挙 せんきょ 権 けん を社会 しゃかい 的 てき 価値 かち と結 むす びつける所存 しょぞん である。(中略 ちゅうりゃく )。(選挙 せんきょ 権 けん を拡大 かくだい するには)日常 にちじょう 生活 せいかつ での振 ふ る舞 ま いや生活 せいかつ 態度 たいど 、そして社会 しゃかい 的 てき 義務 ぎむ を負 お う能力 のうりょく などの要素 ようそ を考慮 こうりょ しながら、選挙 せんきょ 権 けん を与 あた えるかどうか吟味 ぎんみ しなければならないのである。(こうした点 てん に留意 りゅうい した結果 けっか 、私 わたし は)地方 ちほう 税 ぜい の納税 のうぜい 者 しゃ で、二 に 年間 ねんかん 継続 けいぞく して居住 きょじゅう している男子 だんし に選挙 せんきょ 権 けん を与 あた えるべきであり、選挙 せんきょ 権 けん は権利 けんり 行使 こうし の適性 てきせい が見込 みこ まれる生活 せいかつ 水準 すいじゅん に達 たっ した男子 だんし にまで広 ひろ げられるべきだとの考 かんが えに至 いた った。
以上 いじょう の
点 てん は、
社会 しゃかい の
安全 あんぜん と
両立 りょうりつ でき、
同時 どうじ に
精神 せいしん の
高潔 こうけつ な
労働 ろうどう 者 しゃ に
該当 がいとう する
都市 とし 選挙 せんきょ 区内 くない の
全 ぜん 戸主 こしゅ に
選挙 せんきょ 権 けん を
与 あた えるべきだとする
立場 たちば に
基 もと づくものである。()
内 ない 筆者 ひっしゃ 注 ちゅう 」
[ 48]
しかし、このときディズレーリはトーリー主義 しゅぎ に基 もと づく伝統 でんとう 的 てき な政治 せいじ 体制 たいせい (貴族 きぞく 政治 せいじ )と民主 みんしゅ 政 せい の調和 ちょうわ を理想 りそう 化 か する復古 ふっこ 的 てき なレトリック (トーリー・デモクラシー と言 い われる)を用 もち いながら、本 ほん 改正 かいせい 法案 ほうあん に関 かん して政治 せいじ 構造 こうぞう の変革 へんかく を伴 ともな うような文字通 もじどお りの民主 みんしゅ 化 か ではなく君主 くんしゅ ・貴族 きぞく そしてその下 もと のいる資本 しほん 家 か の序列 じょれつ に新 あら たに職人 しょくにん 的 てき 労働 ろうどう 者 しゃ (アーティザンとも言 い う)が加 くわ えられて、「イングランドの代表 だいひょう 制 せい が広 ひろ く民衆 みんしゅう 的 てき 基礎 きそ に置 お かれる」 現実 げんじつ 的 てき な改革 かいかく であると説 と いた[ 48] 。
保守党 ほしゅとう の政治 せいじ 文脈 ぶんみゃく (保守 ほしゅ 主義 しゅぎ )に基 もと づいた論法 ろんぽう に装飾 そうしょく された演説 えんぜつ からは、この法案 ほうあん での戸主 こしゅ 選挙 せんきょ 権 けん は縦 たて 社会 しゃかい のヒエラルキー に労働 ろうどう 者 しゃ の一部 いちぶ を追加 ついか するという伝統 でんとう 的 てき 形式 けいしき を踏 ふ まえる以上 いじょう 、財産 ざいさん 階級 かいきゅう による支配 しはい の構造 こうぞう のもとで有権者 ゆうけんしゃ 構成 こうせい を維持 いじ することが前提 ぜんてい に置 お かれるべきとする意 い が込 こ められていたと見 み ることができる[ 49] 。すなわち、改革 かいかく と言 い っても民主 みんしゅ 化 か を限定 げんてい 的 てき なものに抑 おさ えるという意味 いみ があり、戸主 こしゅ 選挙 せんきょ 権 けん の「名 な 」を選 えら び実質 じっしつ な改革 かいかく の効果 こうか を捨 す てるディズレーリの算段 さんだん を含 ふく んだものだったのである[ 50] 。事実 じじつ 、その内容 ないよう は地方 ちほう 税 ぜい の「直接 ちょくせつ 納税 のうぜい 者 しゃ 」23万 まん 7000人 にん を対象 たいしょう とする一方 いっぽう で、「小規模 しょうきぼ 借家 しゃくや 法 ほう 」のもとで家賃 やちん と地方 ちほう 税 ぜい を大家 たいか にまとめて支払 しはら い最大 さいだい 25%の控除 こうじょ を受 う けている「一括 いっかつ 納税 のうぜい 者 しゃ 」48万 まん 6000人 にん は、税 ぜい の割引 わりびき を受 う けていること、納税 のうぜい 台帳 だいちょう に登記 とうき されていないこと、の二 に 点 てん から資格 しかく から排除 はいじょ することが明 あき らかにされた[ 51] [ 52] [ 48] 。
条件 じょうけん だらけのこの実質 じっしつ のない法案 ほうあん にグラッドストンはすぐさま反発 はんぱつ し、「小規模 しょうきぼ 借家 しゃくや 法 ほう 」は適用 てきよう が不完全 ふかんぜん で地域 ちいき 差 さ によってまちまちであったため納税 のうぜい 方法 ほうほう の違 ちが いでは有権者 ゆうけんしゃ を選別 せんべつ することはできないとして、熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ に選挙 せんきょ 権 けん 獲得 かくとく の道 みち を開 ひら いて有権者 ゆうけんしゃ 数 すう を保守党 ほしゅとう 案 あん より増 ふ やせ、さらに労働 ろうどう 者 しゃ の「不良 ふりょう 部分 ぶぶん 」を資格 しかく から排除 はいじょ できる地方 ちほう 税 ぜい 5ポンド選挙 せんきょ 権 けん ・10ポンド間借 まが り人 じん 選挙 せんきょ 権 けん を軸 じく とする修正 しゅうせい 案 あん を提出 ていしゅつ した[ 53] [ 54] 。
しかし、自由党 じゆうとう の党内 とうない 協議 きょうぎ での状況 じょうきょう に反 はん して、このグラッドストンによる巻 ま き返 かえ しは失敗 しっぱい に終 お わる。グラッドストンの穏健 おんけん な改革 かいかく 案 あん が成立 せいりつ すれば更 さら なる修正 しゅうせい の余地 よち はなくなるため、自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は は密 ひそ かに議会 ぎかい の喫茶 きっさ 室 しつ に集 あつ まって政府 せいふ 案 あん を支持 しじ することで結集 けっしゅう した。彼 かれ らは採決 さいけつ の場 ば になって突然 とつぜん 造反 ぞうはん し、グラッドストン案 あん に反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じたのである[ 55] [ 56] [ 57] 。これによって修正 しゅうせい 案 あん は廃案 はいあん となり、保守党 ほしゅとう 案 あん が審議 しんぎ を通過 つうか 、このまま政府 せいふ 案 あん がほぼ原案 げんあん に近 ちか い状態 じょうたい で制定 せいてい されるかに見 み えた。しかし、ディズレーリの優位 ゆうい は続 つづ かなかった。ディズレーリの足 あし を掬 すく う機会 きかい をうかがって保守党 ほしゅとう の名 な ばかりの戸主 こしゅ 選挙 せんきょ 権 けん 法案 ほうあん を正真正銘 しょうしんしょうめい のものにするべく急進 きゅうしん 派 は は行動 こうどう をはじめたのである[ 58] 。
議会 ぎかい 外 がい の情勢 じょうせい と改革 かいかく 連盟 れんめい [ 編集 へんしゅう ]
一方 いっぽう 、議会 ぎかい 外 がい の改革 かいかく 連盟 れんめい 指導 しどう 者 しゃ たちはハイドパーク事件 じけん の成功 せいこう に自信 じしん を深 ふか めるとともに二 に 転 てん 三 さん 転 てん する政局 せいきょく に憤慨 ふんがい し、1866年 ねん 末 まつ の経済 けいざい 危機 きき 、コレラ 流行 りゅうこう の恐怖 きょうふ 、研磨 けんま 工 こう 組合 くみあい 員 いん の暴行 ぼうこう 事件 じけん (シェフィールド事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) )の余波 よは といった諸々 もろもろ の事態 じたい に刺激 しげき され、非 ひ 主流 しゅりゅう 派 は メンバーを中心 ちゅうしん に威嚇 いかく 的 てき で実力 じつりょく 行使 こうし を企 くわだ てる過激 かげき な運動 うんどう への転換 てんかん を図 はか りつつあった[ 59] [ 60] [ 61] 。チャーティズム 内 うち に「道徳 どうとく 派 は 」と「実力 じつりょく 派 は 」が形成 けいせい されたように、改革 かいかく 連盟 れんめい 内部 ないぶ にも分派 ぶんぱ の危険 きけん 性 せい があった[ 62] [ 58] 。
1867年 ねん 春 はる 、この頃 ころ 労働 ろうどう 運動 うんどう の指導 しどう 者 しゃ たちは、シェフィールド事件 じけん ならびに労働 ろうどう 組合 くみあい 活動 かつどう に関 かん する王立 おうりつ 調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) に招集 しょうしゅう され次々 つぎつぎ と査問 さもん にかけられていた。この委員 いいん 会 かい は事件 じけん の真相 しんそう 究明 きゅうめい を目的 もくてき として掲 かか げていたが、その実 じつ は保守党 ほしゅとう 政府 せいふ の陰謀 いんぼう の一 ひと つとして設置 せっち されたものだった。このため、アップルガースをはじめとして改革 かいかく 連盟 れんめい の支援 しえん 者 しゃ であった人々 ひとびと は労働 ろうどう 組合 くみあい の合法 ごうほう 性 せい を説 と くのに必死 ひっし で改革 かいかく 運動 うんどう どころの状況 じょうきょう ではなくなっていた[ 63] [ 64] 。
そんな中 なか で議論 ぎろん されたのが「聖 せい 金曜日 きんようび 」(イエス・キリスト の処刑 しょけい 日 び で太陰暦 たいいんれき に基 もと づいていたためこの年 とし は4月 がつ 19日 にち )のハイドパーク 集会 しゅうかい であった[ 61] 。改革 かいかく 連盟 れんめい の指導 しどう 者 しゃ は保守党 ほしゅとう 政権 せいけん を潰 つぶ すためにグラッドストンと会談 かいだん する。改革 かいかく 連盟 れんめい 代表 だいひょう 団 だん は居住 きょじゅう 形態 けいたい や納税 のうぜい 方法 ほうほう 、納税 のうぜい 額 がく などの条件 じょうけん で有権者 ゆうけんしゃ を制限 せいげん しないよう訴 うった えて、成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん を支持 しじ するよう求 もと めた。しかし、グラッドストンの反応 はんのう は冷 ひ ややかだった。群集 ぐんしゅう が暴発 ぼうはつ する可能 かのう 性 せい があるとして聖 せい 金曜日 きんようび 開催 かいさい 案 あん を批判 ひはん し、集会 しゅうかい 日程 にってい を変更 へんこう するように求 もと めた[ 58] 。グラッドストンは明言 めいげん していないが、建築 けんちく 工 こう が多数 たすう 参加 さんか する改革 かいかく 連盟 れんめい の集会 しゅうかい を警官 けいかん 隊 たい が弾圧 だんあつ すれば、ハイドパーク公園 こうえん がエルサレム の神殿 しんでん で改革 かいかく 連盟 れんめい 指導 しどう 者 しゃ がイエス・キリストに、そしてこれを取 と り締 し まる警官 けいかん がイエスを迫害 はくがい するローマ軍 ぐん 、ディズレーリは父 ちち の代 だい までユダヤ人 じん であったことから保守党 ほしゅとう 政府 せいふ はさしずめユダヤ のパリサイ派 は とする視覚 しかく 的 てき イメージと重 かさ なって革命 かくめい が起 お こると考 かんが えていたと予想 よそう される[ 61] 。グラッドストンは兼 か ねてから成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん や戸主 こしゅ 選挙 せんきょ 権 けん に反対 はんたい していたのだが、改革 かいかく 連盟 れんめい の自己 じこ コントロール能力 のうりょく に疑問 ぎもん を抱 だ いていたとも考 かんが えられ、結局 けっきょく 「正義 まさよし 」を主張 しゅちょう することに方法 ほうほう を選 えら ばない改革 かいかく 連盟 れんめい の要望 ようぼう を拒 こば んだのである[ 58] 。
このような訳 わけ で、ビールズやハウエルら改革 かいかく 連盟 れんめい の穏健 おんけん 派 は 指導 しどう 者 しゃ は、深 ふか く信奉 しんぽう するグラッドストンの支持 しじ を得 え られなかった。改革 かいかく に向 む けての決定 けってい 打 だ はないように思 おも われたが、議会 ぎかい の内外 ないがい で保守党 ほしゅとう 改正 かいせい 案 あん への不満 ふまん が高 たか まっていた。改革 かいかく 連盟 れんめい 指導 しどう 者 しゃ はグラッドストンを盟友 めいゆう として、ハイドパークで平和 へいわ 的 てき に集会 しゅうかい を行 おこ ない保守党 ほしゅとう を圧倒 あっとう して改革 かいかく の「実 み 」を手 て に入 い れようと考 かんが えた。改革 かいかく 連盟 れんめい は過激 かげき な主張 しゅちょう をする一派 いっぱ の排斥 はいせき を進 すす めて聖 せい 金曜日 きんようび 開催 かいさい 案 あん を撤回 てっかい し、成人 せいじん 男子 だんし 選挙 せんきょ 権 けん の獲得 かくとく は困難 こんなん として、「無条件 むじょうけん の戸主 こしゅ 参政 さんせい 権 けん 」と間借 まが り人 じん 選挙 せんきょ 権 けん を目指 めざ して保守党 ほしゅとう 改正 かいせい 案 あん の修正 しゅうせい を求 もと めることに目標 もくひょう を絞 しぼ った。1867年 ねん 5月 がつ 6日 にち 、改革 かいかく 連盟 れんめい はハイドパーク で抗議 こうぎ 集会 しゅうかい を開催 かいさい し、集会 しゅうかい を無血 むけつ で開催 かいさい した。この判断 はんだん は時節 じせつ に適 かな ったもので、自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は はすでに保守党 ほしゅとう から10ポンド間借 まが り人 じん 選挙 せんきょ 権 けん について譲歩 じょうほ を引 ひ き出 だ していた。グラッドストンも改革 かいかく 連盟 れんめい の誠意 せいい に感銘 かんめい を受 う けて、改革 かいかく 連盟 れんめい 、そして自由党 じゆうとう 急進 きゅうしん 派 は の望 のぞ む改革 かいかく 案 あん を支持 しじ する立場 たちば へと舵 かじ を切 き る[ 65] [ 66] 。
ここに自由党 じゆうとう は急進 きゅうしん 主義 しゅぎ (イングランド)(英語 えいご 版 ばん ) というディズレーリ包囲 ほうい 網 もう に統一 とういつ され、グラッドストンの雪辱 せつじょく が叶 かな うはずであった。しかし、自由党 じゆうとう の無名 むめい な急進 きゅうしん 派 は 議員 ぎいん ホジキンソンが「一括 いっかつ 納入 のうにゅう 者 しゃ 問題 もんだい 」を解決 かいけつ させるべく「小規模 しょうきぼ 借家 しゃくや 法 ほう 」を廃止 はいし して税込 ぜいこ み家賃 やちん の協定 きょうてい 支払 しはら いと税 ぜい の控除 こうじょ を廃止 はいし するよう要求 ようきゅう した時 とき 、保守党 ほしゅとう 改正 かいせい 案 あん の骨組 ほねぐ みは突如 とつじょ 崩壊 ほうかい する。ディズレーリはグラッドストン修正 しゅうせい 案 あん や一括 いっかつ 納税 のうぜい 者 しゃ に選挙 せんきょ 権 けん を与 あた えるべきだと主張 しゅちょう したヒィーバート修正 しゅうせい 案 あん に勝 か ったことに完全 かんぜん に満足 まんぞく しており、次 つぎ にくるグラッドストン派 は のチルダー案 あん を封 ふう じることに関心 かんしん が集中 しゅうちゅう していた。そのため、これで十分 じゅうぶん だと思 おも ったのか周囲 しゅうい の予想 よそう に反 はん して自由党 じゆうとう の無名 むめい 議員 ぎいん の修正 しゅうせい 案 あん を誰 だれ にも相談 そうだん せず勝手 かって に受 う け入 い れてしまったのである。結果 けっか 、地方 ちほう 税 ぜい の支払 しはら い方法 ほうほう で有権者 ゆうけんしゃ を選別 せんべつ する相殺 そうさい 方法 ほうほう はなくなってしまい、「直接 ちょくせつ 納入 のうにゅう 者 しゃ 」23万 まん 7000人 にん に加 くわ えて「一括 いっかつ 納税 のうぜい 者 しゃ 」48万 まん 6000人 にん と別 べつ の修正 しゅうせい 案 あん で受 う け入 い れた「間借 まが り人 じん 」2万 まん 名 めい が資格 しかく 該当 がいとう 者 しゃ に加 くわ わって、総計 そうけい 72万 まん 3千 せん 名 めい に選挙 せんきょ 権 けん を与 あた えることが決 き まった。こうして「無条件 むじょうけん の戸主 こしゅ 参政 さんせい 権 けん 」 が実現 じつげん され、駆 か け込 こ みの有権者 ゆうけんしゃ 登録 とうろく も相 あい まって実際 じっさい には100万 まん 人 にん 近 ちか くもの労働 ろうどう 者 しゃ が有権者 ゆうけんしゃ となり、全 ぜん 有権者 ゆうけんしゃ の多数 たすう 派 は を占 し めるに至 いた ったのである[ 67] [ 68] [ 69] 。
ダービー首相 しゅしょう は第 だい 二 に 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい を暗中飛躍 あんちゅうひやく と評 ひょう した
だが、ディズレーリの独断 どくだん による大 だい 規模 きぼ な保守党 ほしゅとう の譲歩 じょうほ はあくまで都市 とし 選挙 せんきょ 区 く だけの話 はなし で、州 しゅう 選挙 せんきょ 区 く では土地 とち 保有 ほゆう 者 しゃ の選挙 せんきょ 権 けん を納税 のうぜい 額 がく 15ポンドに設定 せってい する予定 よてい であったが、10ポンドに下 さ げる修正 しゅうせい 案 あん に対 たい して12ポンドとする譲歩 じょうほ があったがほとんど保守党 ほしゅとう のい分 いぶん が通 かよ っていった。また、議席 ぎせき 再 さい 配分 はいぶん は地域 ちいき 実情 じつじょう に沿 そ った政治 せいじ 取引 とりひき の材料 ざいりょう になってその内容 ないよう は保守党 ほしゅとう ・自由党 じゆうとう の政治 せいじ バランスが崩 くず れないように限定 げんてい 的 てき に抑 おさ えられ、選挙 せんきょ 区画 くかく も死票 しひょう を減 へ らすため都市 とし と農村 のうそん で支持 しじ 政党 せいとう が明確 めいかく になるように恣意 しい 的 てき に線引 せんひ きされた[ 70] [ 71] 。
選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 問題 もんだい はグラッドストン、ディズレーリ、改革 かいかく 連盟 れんめい など各 かく 勢力 せいりょく を翻弄 ほんろう するだけして、党派 とうは 対立 たいりつ による混乱 こんらん と妥協 だきょう の末 すえ 、1867年 ねん 8月 がつ 8日 にち 、第 だい 二 に 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) が成立 せいりつ した。ようやく、ここに都市 とし 選挙 せんきょ 区 く における労働 ろうどう 者 しゃ の選挙 せんきょ 権 けん に関 かん する問題 もんだい は決着 けっちゃく をみる。
保守党 ほしゅとう 政権 せいけん のもとで改正 かいせい された選挙 せんきょ 法 ほう は民主 みんしゅ 的 てき であり保守 ほしゅ 的 てき であるという例 たと え難 がた い性質 せいしつ のものとしてその成立 せいりつ をみたのである。一方 いっぽう 、改革 かいかく 連盟 れんめい は工業 こうぎょう 都市 とし への議席 ぎせき 再 さい 配分 はいぶん や都市 とし 選挙 せんきょ 区 く での選挙 せんきょ 権 けん 拡大 かくだい に結果 けっか を出 だ したが、州 しゅう 選挙 せんきょ 区 く での改革 かいかく には成果 せいか を出 だ せなかった。その結果 けっか 、有権者 ゆうけんしゃ 数 すう は9%に倍増 ばいぞう 、構成 こうせい においては地方 ちほう 税 ぜい を納入 のうにゅう しているすべての戸主 こしゅ と一部 いちぶ の間借 まが り人 じん にまで選挙 せんきょ 権 けん が拡大 かくだい され、都市 とし の労働 ろうどう 者 しゃ が選挙 せんきょ 権 けん を得 え る一方 いっぽう 、炭鉱 たんこう 労働 ろうどう 者 しゃ や小作 こさく 人 じん は資格 しかく から排除 はいじょ され地方 ちほう での拡大 かくだい 規模 きぼ は中農 ちゅうのう クラスの農民 のうみん に留 と まることとなった。
改革 かいかく 連盟 れんめい は保守党 ほしゅとう への攻撃 こうげき 姿勢 しせい を崩 くず すことはなかった。ハイドパーク での集会 しゅうかい の自由 じゆう をめぐって執拗 しつよう に政府 せいふ 批判 ひはん を繰 く り広 ひろ げて、政府 せいふ の禁令 きんれい の違法 いほう 性 せい を訴 うった え、改革 かいかく 連盟 れんめい 対策 たいさく の責任 せきにん 者 しゃ である内相 ないしょう のスペンサー・ホレーショ・ウォルポール を辞任 じにん に追 お い込 こ んだほか、保守党 ほしゅとう の集会 しゅうかい 規制 きせい 法案 ほうあん を廃案 はいあん に導 みちび いている。1868年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ (英語 えいご 版 ばん ) では自由党 じゆうとう を支持 しじ して労働 ろうどう 者 しゃ の有権者 ゆうけんしゃ 登録 とうろく を促 うなが し、自由党 じゆうとう の選挙 せんきょ 活動 かつどう の支援 しえん を展開 てんかい してアレキサンダー・マクドナルド (英語 えいご 版 ばん ) など初 はつ の労働 ろうどう 者 しゃ 議員 ぎいん を輩出 はいしゅつ したほか、自由党 じゆうとう と労働 ろうどう 組合 くみあい 運動 うんどう の提携 ていけい が強化 きょうか され自由党 じゆうとう の圧倒的 あっとうてき な勝利 しょうり を演出 えんしゅつ した。この動 うご きは自由 じゆう ・労働 ろうどう 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) としてウェストミンスター議会 ぎかい の前 まえ に立 た ち現 あら われ、自由党 じゆうとう ・第 だい 一 いち 次 じ グラッドストン政権 せいけん の強力 きょうりょく な支援 しえん 体 たい に発展 はってん していく[ 72] 。
やがて、改革 かいかく 連盟 れんめい の役割 やくわり は第 だい 一 いち 次 じ グラッドストン政権 せいけん の秘密 ひみつ 投票 とうひょう 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) や労働 ろうどう 組合 くみあい 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) の制定 せいてい などの改革 かいかく を支持 しじ し、第 だい 二 に 次 じ ディズレーリ政権 せいけん の下 した では労働 ろうどう 法 ほう の更 さら なる整備 せいび 、社会 しゃかい 改良 かいりょう の推進 すいしん などの政治 せいじ 案件 あんけん に関 かん する議会 ぎかい 対策 たいさく の練 ね り上 あ げに移 うつ っていき、やがて組織 そしき は労働 ろうどう 者 しゃ 議会 ぎかい 代表 だいひょう 連盟 れんめい (英語 えいご 版 ばん ) に改組 かいそ された。
マルクス主義 まるくすしゅぎ 史観 しかん と反対 はんたい 論 ろん 者 しゃ [ 編集 へんしゅう ]
改革 かいかく 連盟 れんめい に関 かん する1960年 ねん ごろまでの研究 けんきゅう は、マルクス主義 まるくすしゅぎ 歴史 れきし 学 がく に基 もと づく研究 けんきゅう が大勢 おおぜい を占 し めていた。
その代表 だいひょう 者 しゃ であるロイデン・ハリソンは1965年 ねん 『社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ 以前 いぜん 』という書 しょ で改革 かいかく 連盟 れんめい の「保守 ほしゅ 性 せい 」を指摘 してき しつつ、単純 たんじゅん な階級 かいきゅう 闘争 とうそう 史観 しかん を拒絶 きょぜつ しているが、ハイドパーク事件 じけん の衝撃 しょうげき で改革 かいかく 連盟 れんめい の存在 そんざい 感 かん が強 つよ まったことを指摘 してき している。ハリソンは、革命 かくめい の危機 きき を焚 た きつける自由党 じゆうとう 、そして、革命 かくめい の恐怖 きょうふ 心 しん に取 と り憑 つ かれた保守党 ほしゅとう 、それぞれが議会 ぎかい の内外 ないがい の情勢 じょうせい に迫 せま られて選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい を余儀 よぎ なくされ、最終 さいしゅう 的 てき には大 だい 規模 きぼ な改革 かいかく が実現 じつげん 実現 じつげん していくという過程 かてい を描 えが いた。1966年 ねん ・67年 ねん は第 だい 二 に 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい の百 ひゃく 周年 しゅうねん にあたり、スミスとコーリングによってその政治 せいじ 過程 かてい が詳細 しょうさい に論 ろん じられた。とりわけ、コーリングはヴィクトリア社会 しゃかい の安定 あんてい と均衡 きんこう を評価 ひょうか する保守 ほしゅ 的 てき な歴史 れきし 観 かん を持 も っており、改革 かいかく の実現 じつげん 要因 よういん に関 かん してハリソンの労働 ろうどう 運動 うんどう 説 せつ に反対 はんたい して自由党 じゆうとう ・保守党 ほしゅとう の党派 とうは 抗争 こうそう が改革 かいかく の主因 しゅいん であると説 と いた。選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい に関 かん しては階級 かいきゅう 闘争 とうそう や自由党 じゆうとう ・保守党 ほしゅとう の党派 とうは 抗争 こうそう では理解 りかい しがたい複雑 ふくざつ な政治 せいじ 過程 かてい があり、ブレイクもこの問題 もんだい について言及 げんきゅう し、最終 さいしゅう 的 てき にはディズレーリの民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 時代 じだい へのチャレンジ精神 せいしん の産物 さんぶつ と評 ひょう している。両者 りょうしゃ はディズレーリの巧 たく みな議会 ぎかい 操縦 そうじゅう 術 じゅつ とグラッドストンを出 だ し抜 ぬ ければ改革 かいかく の行方 ゆくえ がどうなろうと構 かま わないという対抗心 たいこうしん が不可能 ふかのう とされた改革 かいかく を可能 かのう にしたのだと見 み ている。改革 かいかく の真 しん の立役者 たてやくしゃ は誰 だれ かという問題 もんだい はその後 ご も難 むずか しい課題 かだい として残 のこ っていたが、佐 さ 喜 き 真 ま 望 もち は改革 かいかく 連盟 れんめい とグラッドストンの提携 ていけい 関係 かんけい の成立 せいりつ (これが後 こう の自由 じゆう ・労働 ろうどう 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) のスタート地点 ちてん となる)が選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい の核心 かくしん 部分 ぶぶん になっていることを指摘 してき している。
マルクス主義 まるくすしゅぎ 歴史 れきし 学 がく やその反対 はんたい 者 しゃ の論争 ろんそう に先立 さきだ って重要 じゅうよう な研究 けんきゅう も存在 そんざい している。
エイザ・ブリッグス (英語 えいご 版 ばん ) は1954年 ねん 『ヴィクトリア時代 じだい の人々 ひとびと 』を出版 しゅっぱん しており、そこでサミュエル・スマイルズ をはじめとする時代 じだい を象徴 しょうちょう する「人 ひと 」を切 き り口 くち に1860年代 ねんだい の人々 ひとびと を紹介 しょうかい しながら選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい の契機 けいき に迫 せま っていた。ブリッグスはアップルガースなど労働 ろうどう 組合 くみあい 指導 しどう 者 しゃ らが生 い きた時代 じだい の文化 ぶんか をスマイルズの「個人 こじん 主義 しゅぎ 」や「自由 じゆう 主義 しゅぎ 」が支配 しはい 的 てき 価値 かち 観 かん となっていて「マルクス主義 まるくすしゅぎ 」の隆盛 りゅうせい はまだない「安定 あんてい の時代 じだい 」として位置 いち づけ、自由 じゆう 主義 しゅぎ 思想 しそう に染 そ まりながらこの時代 じだい に生 い きた保守 ほしゅ 的 てき な熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ たちが「自助 じじょ 」によって選挙 せんきょ 権 けん と労働 ろうどう 組合 くみあい の合法 ごうほう 化 か を獲得 かくとく しようと格闘 かくとう した点 てん を描 えが き出 だ していた。その後 ご 、ヘンリー・ペリング (英語 えいご 版 ばん ) と飯田 いいだ 鼎 かなえ は、1850年代 ねんだい から次々 つぎつぎ と組織 そしき されていった「合同 ごうどう 組合 くみあい 」が改革 かいかく 連盟 れんめい による選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 運動 うんどう の性格 せいかく を大 おお きく規定 きてい している点 てん を指摘 してき した。この研究 けんきゅう は当時 とうじ のシティズンシップ のあり方 かた への関心 かんしん を高 たか めるものになった。このスタンスは1970年代 ねんだい 以降 いこう も継続 けいぞく してその後 ご の研究 けんきゅう 者 しゃ は労働 ろうどう 貴族 きぞく 研究 けんきゅう を進 すす め、熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ が重視 じゅうし した品位 ひんい (「リスペクタビリティ 」)という社会 しゃかい 的 てき な価値 かち 概念 がいねん を分析 ぶんせき した。中山 なかやま 章 あきら も「合同 ごうどう 組合 くみあい 」の会員 かいいん になることが熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ にとってとりわけ重要 じゅうよう なステータスだったということを指摘 してき している。
こうした文化 ぶんか 的 てき な視点 してん を取 と り入 い れて画期的 かっきてき な研究 けんきゅう が現 あらわ れた。
2000年 ねん には『ヴィクトリア国家 こっか の解明 かいめい :階級 かいきゅう ・人種 じんしゅ ・ジェンダー と1867年 ねん 改正 かいせい 法 ほう 』 という著作 ちょさく が登場 とうじょう した。著者 ちょしゃ の一人 ひとり ケイス・マックルランドは、選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい において労働 ろうどう 者 しゃ の「資質 ししつ 」が議論 ぎろん された点 てん に注目 ちゅうもく し、ジェンダー 論 ろん に基 もと づく新 あたら しいアプローチを導入 どうにゅう した。そして、この時代 じだい の有権者 ゆうけんしゃ 資格 しかく にいかなる意味 いみ があるのかを論 ろん じ、選挙 せんきょ 権 けん の拡大 かくだい は労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の経済 けいざい 的 てき 実力 じつりょく や政治 せいじ 的 てき 貢献 こうけん 度 ど だけではなく、男性 だんせい 労働 ろうどう 者 しゃ の「市民 しみん としての資質 ししつ 」が吟味 ぎんみ されたことを強調 きょうちょう している。このように、マックルランドによる研究 けんきゅう は、1860年代 ねんだい に男性 だんせい 労働 ろうどう 者 しゃ のシティズンシップ がもつ文化 ぶんか 的 てき 側面 そくめん の重要 じゅうよう 性 せい を示 しめ し、第 だい 二 に 次 じ 選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい 研究 けんきゅう に新 あたら しい着眼 ちゃくがん 点 てん をもたらした。
改革 かいかく の直接的 ちょくせつてき 要因 よういん や研究 けんきゅう の論争 ろんそう は置 お くとして、選挙 せんきょ 権 けん の拡大 かくだい を労働 ろうどう 者 しゃ が如何 いか に捉 とら えてていたかを考察 こうさつ することも重要 じゅうよう であろう。直近 ちょっきん においてもこの点 てん に関 かん する研究 けんきゅう が見 み られる。
改革 かいかく 連盟 れんめい はハイドパーク で集会 しゅうかい する権利 けんり を争点 そうてん に、実際 じっさい に権利 けんり が侵害 しんがい される実例 じつれい が具体 ぐたい 的 てき に示 しめ されることで運動 うんどう は維持 いじ されていたが、これは運動 うんどう の精神 せいしん 面 めん でも同様 どうよう であって、熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の権利 けんり 観 かん は「人権 じんけん 」や「民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 」のような抽象 ちゅうしょう 的 てき な理論 りろん からではなく、熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の多 おお くが実際 じっさい に会員 かいいん だった「合同 ごうどう 組合 くみあい 」のメンバーシップやハイドパーク における集会 しゅうかい の自由 じゆう などの具体 ぐたい 的 てき なヴィジュアルを下敷 したじ きにしながら作 つく り出 だ されたものであることが指摘 してき されている。そこから改革 かいかく 連盟 れんめい の運動 うんどう というものは、チャーティズムやマルクス主義 まるくすしゅぎ に問題 もんだい 解決 かいけつ を求 もと めないで労働 ろうどう 組合 くみあい のイデオロギー を思想 しそう として選挙 せんきょ 法 ほう 改正 かいせい を試 こころ みたが、これは労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の台頭 たいとう によって登場 とうじょう した当時 とうじ 最先端 さいせんたん の「合同 ごうどう 組合 くみあい 主義 しゅぎ 」と旧来 きゅうらい の秩序 ちつじょ の象徴 しょうちょう であった「議会 ぎかい 政治 せいじ 」との結合 けつごう させる、いわば、「労働 ろうどう 組合 くみあい アナロジー」 というべき論理 ろんり によって労働 ろうどう 者 しゃ の立身 りっしん が叶 かな う社会 しゃかい を志 こころざ したものと解釈 かいしゃく されている。
^ 巻末 かんまつ 付録 ふろく のグラフによると、1850年代 ねんだい 、グレート・ブリテンは著 いちじる しい経済 けいざい 成長 せいちょう を達成 たっせい していることがわかる。この期間 きかん における好景気 こうけいき は、賃金 ちんぎん の上昇 じょうしょう をもたらした。失業 しつぎょう 率 りつ は、1858年 ねん 、1864年 ねん 、1866・67年 ねん の三 さん 回 かい にわたって上昇 じょうしょう したが、まもなく雇用 こよう は回復 かいふく している。労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう に大 おお いに関係 かんけい している賃金 ちんぎん 価格 かかく ・雇用 こよう 状 じょう 況 きょう などは堅調 けんちょう に推移 すいい していることがわかる[ 2] 。
^ アップルガースは勤勉 きんべん で厳格 げんかく 、質実 しつじつ にして品位 ひんい あるリスペクタブルな熟練 じゅくれん 労働 ろうどう 者 しゃ の見本 みほん であった[ 26] 。彼 かれ はかなりの長生 ながい きで戦 たたかえ 間 あいだ 期 き まで生 い き、その晩年 ばんねん 期 き にはブライトン郊外 こうがい に邸宅 ていたく を持 も つ歴 れっき とした地主 じぬし となっていた[ 27]
^ J.S.ミル は『代議 だいぎ 制 せい 統治 とうち 論 ろん 』を執筆 しっぴつ してイギリスの議会 ぎかい 政治 せいじ の特性 とくせい を世界 せかい に紹介 しょうかい した他 ほか 、『女性 じょせい の解放 かいほう 』を執筆 しっぴつ し、性 せい にかかわらず市民 しみん 権 けん を設定 せってい すべきだと考 かんが えて女性 じょせい 解放 かいほう 思想 しそう を提唱 ていしょう した。また、1867年 ねん には婦人 ふじん 参政 さんせい 権 けん 法案 ほうあん を作成 さくせい し、庶民 しょみん 院 いん に法案 ほうあん を提出 ていしゅつ した。
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