(Translated by https://www.hiragana.jp/)
改革連盟 - Wikipedia コンテンツにスキップ

改革かいかく連盟れんめい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
改革かいかく連盟れんめい
改革かいかく連盟れんめい会長かいちょうエドマンド・ビールズ英語えいごばん
前身ぜんしん 成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん協会きょうかい労働ろうどうしゃ物質ぶっしつてき向上こうじょう統一とういつ連盟れんめい英語えいごばん
後継こうけい 労働ろうどうしゃ議会ぎかい代表だいひょう連盟れんめい英語えいごばん
設立せつりつ 1865ねん
解散かいさん 1868ねん
種類しゅるい 熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ労働ろうどう貴族きぞく)による政治せいじ団体だんたい
目的もくてき 成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん実現じつげん
本部ほんぶ ロンドンアデルフィ英語えいごばん
貢献こうけん地域ちいき イングランドだい選挙せんきょほう改正かいせい英語えいごばん実現じつげん貢献こうけんし、やく100まんにん労働ろうどうしゃあらたに選挙せんきょけん獲得かくとくする
会長かいちょう 会長かいちょうエドマンド・ビールズ英語えいごばん書記しょきジョージ・ハウエル英語えいごばん
予算よさん 自由党じゆうとう急進きゅうしん議員ぎいんであったピーター・アルフレッド・テイラー英語えいごばん MP、サミュエル・モーリー英語えいごばん MP、ウィリアム・ローソン英語えいごばん MP からの政治せいじ献金けんきんによって運営うんえい
テンプレートを表示ひょうじ

改革かいかく連盟れんめい(かいかくれんめい、えい: Reform League)とは、イングランドにおける労働ろうどうしゃ選挙せんきょけん獲得かくとく目指めざして1865ねん組織そしきされたイングランドにおける急進きゅうしん英語えいごばん政治せいじ団体だんたいである。ロンドンの熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ支持しじあつめて、だい選挙せんきょほう改正かいせい運動うんどう主導しゅどうした。

活動かつどう目標もくひょう1832ねん選挙せんきょほう改正かいせいし、1)成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん、2)秘密ひみつ投票とうひょう制度せいど導入どうにゅう、3)議席ぎせきさい配分はいぶん実現じつげんさせることとさだめていた。弁護士べんごしエドマンド・ビールズ英語えいごばん会長かいちょうつとめ、建築けんちくこうジョージ・ハウエル英語えいごばん書記しょきつとめていた。執行しっこう委員いいんかい労働ろうどう運動うんどう指導しどうしゃめられ、会員かいいん労働ろうどうしゃ階級かいきゅう構成こうせいされていた。だい選挙せんきょほう改正かいせい運動うんどうでは、中産ちゅうさん階級かいきゅう中心ちゅうしん改革かいかく連合れんごう英語えいごばんやロンドン労働ろうどうしゃ協会きょうかいえい: London Working Men's Association)といった組織そしきもあったが、ここでは自由じゆう労働ろうどう主義しゅぎ英語えいごばん旗印はたじるし活動かつどうした改革かいかく連盟れんめい中心ちゅうしんだい選挙せんきょほう改正かいせい英語えいごばんという問題もんだい全体ぜんたいげる。

前史ぜんし

[編集へんしゅう]

だいいち選挙せんきょほう改正かいせい

[編集へんしゅう]

19世紀せいき、イングランドは産業さんぎょう革命かくめい時代じだいはい繁栄はんえいげていたが、すうおおくの矛盾むじゅん存在そんざいしていた。そのひとつが選挙せんきょほう問題もんだいである。

19世紀せいき初頭しょとう有権者ゆうけんしゃすうぜん国民こくみんで3%程度ていどにとどまり、その大半たいはん貴族きぞくジェントリによってめられた。制限せいげん選挙せんきょ工業こうぎょうによる国内こくない人口じんこう分布ぶんぷ変化へんかによっておおくの都市とし選挙せんきょバラ (行政ぎょうせい区画くかく)過疎かそして「腐敗ふはい選挙せんきょ」とし、またマンチェスターのようにしゅう選挙せんきょ一部いちぶ工業こうぎょう都市とし変貌へんぼうしてもなお十分じゅうぶん議席ぎせき割振わりふられず人口じんこう似合にあ代表だいひょうがなされないという状況じょうきょうおちいったため議会ぎかい腐敗ふはいと寡頭が深刻しんこくしていた。18世紀せいき議会ぎかい政治せいじにおける選挙せんきょは、有力ゆうりょくしゃ有権者ゆうけんしゃ屋敷やしき招待しょうたいして接待せったいするもので買収ばいしゅう通例つうれいであり、19世紀せいき初期しょきのち腐敗ふはい行為こういばれた行為こうい処罰しょばつ対象たいしょうではなく、腐敗ふはいとして認識にんしきされることはなかった。

だが、こうした状況じょうきょうアメリカ独立どくりつ革命かくめいフランス革命かくめい、そしてナポレオン戦争せんそうて、急激きゅうげき国内こくない工業こうぎょう都市とし機械きかい進展しんてんすると、1830年代ねんだいはいころには状況じょうきょう一変いっぺんしていた。急進きゅうしんてき民主みんしゅ主義しゅぎ思想しそう台頭たいとうして改革かいかく要求ようきゅうたかまっていたのである。1832ねんだいいち選挙せんきょほう改正かいせいおこなわれて都市とし選挙せんきょにおいて地方ちほうぜい評価ひょうかがくじゅうポンド住宅じゅうたく保有ほゆうしゃ選挙せんきょけんあたえられ、中産ちゅうさん階級かいきゅう対象たいしょうとして商店しょうてんぬしなどプチブルそう戸主こしゅにまで選挙せんきょけんひろげられた(じゅうポンド戸主こしゅ選挙せんきょけん)。さらに、南部なんぶ農村のうそんから北部ほくぶ工業こうぎょう都市とし議席ぎせきさい配分はいぶんされ、選挙せんきょ区画くかく見直みなおしもおこなわれた結果けっか有権者ゆうけんしゃすうは3%から4.5%へと微増びぞうした[1]

チャーティスト運動うんどう

[編集へんしゅう]

しかし、この段階だんかいでも資格しかくとどかない労働ろうどうしゃ選挙せんきょけんてずにいた。時代じだいは「労働ろうどうしゃ時代じだい」となっていたが、一向いっこう社会しゃかい変革へんかくれられていなかった。1840年代ねんだい、この状況じょうきょう打開だかいするため労働ろうどうしゃ選挙せんきょけん獲得かくとく要求ようきゅうするチャーティスト運動うんどう展開てんかいされる。

この運動うんどう失敗しっぱいわるが、1850年代ねんだい以降いこうグレート・ブリテン王国おうこくなが好景気こうけいきはいり、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ中心ちゅうしん生活せいかつ水準すいじゅん向上こうじょうられた。熟練じゅくれんそう一般いっぱん労働ろうどうしゃくらべ2ばい収入しゅうにゅうており活発かっぱつ組合くみあい運動うんどう展開てんかいするなど労働ろうどうしゃ階級かいきゅう社会しゃかいてき影響えいきょうりょく確実かくじつたかまっていた[注釈ちゅうしゃく 1]。ここにだい選挙せんきょほう改正かいせい運動うんどうさかんになる契機けいきしょうじた。

発端ほったん

[編集へんしゅう]

しんモデル労働ろうどう組合くみあい

[編集へんしゅう]
1873ねんウィリアム・アラン英語えいごばん

チャーティスト運動うんどう失敗しっぱいしたが、労働ろうどう運動うんどういちじるしい進展しんてんせていた。 1851ねんウィリアム・アラン英語えいごばんによって機械きかいこう合同ごうどう組合くみあい英語えいごばん(以下いか、ASEと略記りゃっき)が組織そしきされた。

ASEは1)時間じかんがい労働ろうどう禁止きんし、2)出来高できだかばらいの廃止はいし、3)厳格げんかくいれしょく制限せいげん要求ようきゅうしてがった。アランは実現じつげんのためにさんヶ月かげつにわたって闘争とうそうするが、やとぬしによるロックアウトに直面ちょくめんしてこれに敗北はいぼくしている。敗北はいぼくしたとはいえ、この組合くみあいはこれまでのたんなるストライキ組合くみあいではなかった。アランはASEを職人しょくにん同士どうしてき組合くみあいとして位置いちづけており、相互そうご扶助ふじょのために疾病しっぺい労災ろうさい退職たいしょく葬儀そうぎ給付きゅうふきん拠出きょしゅつ共済きょうさい制度せいど整備せいびして組合くみあい新生しんせいさせた。ASEはあたらしい組合くみあいモデルを構築こうちくしていく。こうした方針ほうしん名目めいもくてき会費かいひ徴収ちょうしゅうしてストライキの参加さんかしゃつのるだけのきゅう組合くみあい体質たいしつとは根本こんぽんてきことなるものであり、雑多ざった労働ろうどうしゃあつめて基金ききん運営うんえいするだけの友愛ゆうあい組合くみあいくらべると結束けっそくりょくめんでもすぐれた特徴とくちょうゆうしていた。組織そしき次第しだい強力きょうりょく財政ざいせい基盤きばんきずいて華々はなばなしい経済けいざいてき成功せいこうおさめていった。1865ねんまでに組合くみあい基金ききんとして14まんポンドをてたほか、1867ねんには組合くみあい員数いんずうが3まん3せんにんへと増加ぞうかするなどきゅう成長せいちょうげていた[3]

1850年代ねんだい好景気こうけいきによりロンドンでは建築けんちくラッシュをむかえたが、1857ねん経済けいざい恐慌きょうこうによって1859ねんのロンドン建築けんちくこうストライキ英語えいごばんこる[4][5]。1860ねん5がつロンドン労働ろうどうしゃ協会きょうかい英語えいごばん(えい: London Trades Council 以下いか、LTCと表記ひょうき)が発足ほっそくし、おおくの都市とし労働ろうどう運動うんどう結集けっしゅう進展しんてんした。LTCはのち各地かくちでつくられた同種どうしゅの「地区ちくろう」をむすびつけて労働ろうどう組合くみあい会議かいぎ(えい: Trades Union Congress)を開催かいさいし、その母体ぼたいにもなっていった。

一方いっぽう、1859ねんにはロンドン建築けんちくこうストライキを契機けいきあたらしいうごきがられた。

このころ1847ねん工場こうじょうほう英語えいごばんのもとでじゅうあいだ労働ろうどうせい成立せいりつしていたが、建築けんちく業界ぎょうかいにおいてのじゅうあいだせい重労働じゅうろうどうであった。石工せっこう中心ちゅうしんとなって、労働ろうどう時間じかん短縮たんしゅく出来高できだかばらいの廃止はいしなどをもとめて工場こうじょう経営けいえいしゃ親方おやかた組合くみあいたいして陳情ちんじょうはじめた。しかし、これにたいして経営けいえいがわだい規模きぼ職場しょくばし(ロックアウト)で対抗たいこうし、事態じたいはロンドンの建築けんちくこう一大いちだいストライキ発展はってんした。各々おのおの平行へいこうせんたもったまま雇用こようぬし組合くみあい双方そうほう要求ようきゅうげて闘争とうそう挫折ざせつまれる。挫折ざせつ原因げんいん労働ろうどう組合くみあい法的ほうてき地位ちい明確めいかくでなく、労使ろうしあいだ団体だんたい交渉こうしょう適切てきせつにおこなわれなかったことがげられる。

当時とうじ労働ろうどう組合くみあい法的ほうてきみとめられた組織そしきではなかったため、雇用こようぬし交渉こうしょうのぞむことに法的ほうてき拘束こうそくりょくせられていなかった。資本しほん労使ろうし交渉こうしょうおうじる責任せきにんはないがゆえに、結果けっかてき闘争とうそう勝敗しょうはい組合くみあいがわ闘争とうそうりょく、つまり無給むきゅうでも目的もくてきをやりげるという労働ろうどうしゃのやる次第しだいになっていた。労働ろうどう組合くみあい内部ないぶ支配しはいりょくよわさも問題もんだいだった。ストやぶ横行おうこうしたり、ピケット行為こうい内紛ないふん発生はっせいしたり、統一とういつてき闘争とうそうもままならなかった。これが労働ろうどう運動うんどう障壁しょうへきになっていたのである。このストライキはロンドン労働ろうどうしゃ協会きょうかい結成けっせいにつながっていく。建築けんちくこうはASEの資金しきん援助えんじょけて賃金ちんぎん安定あんてい待遇たいぐう改善かいぜんのためにはげしくあらそったが、まもなくスト委員いいんかい敗北はいぼくみとめたため闘争とうそう失敗しっぱいわった。しかし、建築けんちくこうのリーダーたちであったジョージ・ハウエル英語えいごばんジョージ・ポッター英語えいごばん抵抗ていこうあきらめていなかった[6][7]

その労働ろうどう運動うんどう目標もくひょうは1)労働ろうどう条件じょうけん改善かいぜん主要しゅようなものではじゅうあいだせいからきゅうあいだせいへの移行いこう時間じかんがい労働ろうどう禁止きんしなどの時短じたん問題もんだい出来高できだかばらいの廃止はいし一般いっぱん労働ろうどうしゃにゅう職制しょくせいげん)、2)労働ろうどうほう一種いっしゅ主従しゅうじゅうほう英語えいごばん改正かいせい、3)労働ろうどう組合くみあい合法ごうほう焦点しょうてんかれ労働ろうどう運動うんどうかべにぶつかりながらも次第しだい先鋭せんえいしていった[8]労働ろうどう運動うんどう指導しどうしゃとして頭角とうかくあらわしてきた煉瓦れんがせき職人しょくにんのジョージ・ハウエルや製靴せいかこうジョージ・オッジャー英語えいごばん熟練じゅくれん労働ろうどうしゃかかえる問題もんだい解決かいけつ意欲いよくやし議会ぎかいをターゲットに運動うんどう展開てんかいするが、はやくも議会ぎかい対応たいおうのろさに直面ちょくめんする[9]

ロバート・アップルガース英語えいごばん

1860年代ねんだいのブリテンにおける影響えいきょうりょくある労働ろうどう組合くみあい以下いかのグループがあった。

シドニー・ウェッブ上記じょうき組合くみあい指導しどうしゃ「ジャンタ」び、1860年代ねんだいブリテン労働ろうどう組合くみあい運動うんどう中核ちゅうかくとして位置いちづけた。

1860年代ねんだいブリテンの労働ろうどう組合くみあい運動うんどうは「労働ろうどう貴族きぞく」とばれる熟練じゅくれん労働ろうどうしゃそう掌握しょうあくされ、マルクス主義まるくすしゅぎ隔絶かくぜつした路線ろせんあゆんでいた。かれ熟練じゅくれん労働ろうどうしゃは、一般いっぱん労働ろうどうしゃたいして2ばい賃金ちんぎんっており、機械きかい以前いぜん技能ぎのうきるアーティザン(職人しょくにん)であった。労働ろうどう貴族きぞくは「支配しはいされる存在そんざい」ではなく、もはやヴィクトリア社会しゃかい労働ろうどうしゃ階級かいきゅうに「君臨くんりんする存在そんざい」となっていた。ASEの場合ばあい年齢ねんれいおうじて15シリングから3ポンドの入会にゅうかいきんしゅう1シリング会費かいひ、これは労働ろうどうしゃにとってかなり高額こうがく会費かいひおさめなければならず、会員かいいんになるには推薦人すいせんにん必要ひつようであった。合同ごうどう組合くみあいのメンバーになるということは「エリート労働ろうどうしゃ」となることを意味いみしていた[10]

労働ろうどう運動うんどう指導しどうしゃたちはチャーティズムにたいする反動はんどうから「ノー・ポリティクス」をんでいた[11]

とく機械きかいこう合同ごうどう組合くみあい英語えいごばん指導しどうしゃウィリアム・アラン英語えいごばんは、政治せいじ運動うんどう失敗しっぱいしたにが経験けいけんがあり政治せいじへの関与かんよつよ憂慮ゆうりょしていた。また、『労働ろうどうしゃ階級かいきゅう諸々もろもろ風習ふうしゅう様々さまざま習慣しゅうかん』、『偉大いだい下層かそうみん』、『あたらしい主人しゅじん』というしょ刊行かんこう労働ろうどうしゃ実情じつじょう紹介しょうかいした機械きかいこうトマス・ライト英語えいごばん同様どうよう反応はんのうしめした。かれはASEのイデオロギーに感化かんかされており、政治せいじ闘争とうそうへの反感はんかん表明ひょうめいしている。自身じしん著作ちょさくにおいて政治せいじ熱中ねっちゅうして自分じぶんたちの本分ほんぶんわすれた労働ろうどうしゃによる社会しゃかい運動うんどう嫌悪けんおかんしめした[12]

1860年代ねんだい時代じだい変化へんか

[編集へんしゅう]

1860年代ねんだいおおきなターニング・ポイントとなった。そのころ世界せかいおおきな変化へんか経験けいけんしていた。だいえい帝国ていこく世界せかい支配しはい完成かんせいしていく一方いっぽうで、反動はんどう主義しゅぎてき国際こくさい政治せいじ動揺どうようはじめていた。動揺どうよう周辺しゅうへんはじまった。アメリカの本格ほんかくてき産業さんぎょう革命かくめいドイツ統一とういつイタリア統一とういつ運動うんどう日本にっぽん尊王そんのう攘夷じょうい運動うんどう戊辰戦争ぼしんせんそう勃発ぼっぱつするなど後発こうはつ諸国しょこく近代きんだい国家こっか形成けいせいする段階だんかいはいっていった。

アメリカで南北戦争なんぼくせんそうはじまり、北部ほくぶ合衆国がっしゅうこく南部なんぶ連合れんごう勝利しょうりおさめ、これにより黒人こくじん奴隷どれいせい崩壊ほうかいした。あらゆる改革かいかく革命かくめい独立どくりつ反対はんたいするろう大国たいこくイギリスフランスオーストリアロシア中心ちゅうしん復古ふっこてき世界せかい秩序ちつじょほころびがしょうはじめており、新興しんこう各国かっこく(ブリテン国内こくないではアメリカ南北戦争なんぼくせんそう展開てんかいした北部ほくぶ支援しえん運動うんどう[13]・イタリア ガリバルディ支援しえん運動うんどう[11]・ポーランド・ポーランド支援しえん運動うんどうアイルランドフィニアン蜂起ほうき英語えいごばん)でナショナリズム機運きうんたかまっていた。1864ねん9月28にちにはジョージ・オッジャー英語えいごばんウィリアム・ランダル・クリーマー、フランス労働ろうどうしゃだん代表だいひょうアンリ・トラン英語えいごばんといった熟練じゅくれん労働ろうどうしゃロンドン大学だいがく教授きょうじゅエドワード・ビーズリ英語えいごばん知識ちしきじん中心ちゅうしん国際こくさい労働ろうどうしゃ協会きょうかいだいいちインターナショナル)がロンドンで設立せつりつされた。だいいちインターは各国かっこく首都しゅと次々つぎつぎ支部しぶ設置せっちして、共産きょうさん主義しゅぎちちカール・マルクス理論りろんてき政治せいじてき両面りょうめんでの指導しどうけるながら労働ろうどう運動うんどう世界中せかいじゅう活発かっぱつさせていく。自由じゆう獲得かくとくするという時代じだい雰囲気ふんいきイングランド人々ひとびと士気しき鼓舞こぶしていった[14]

国際こくさいてきなナショナリズムだか機運きうんられたほか労働ろうどう時間じかん短縮たんしゅく運動うんどう挫折ざせつ労働ろうどう条件じょうけん問題もんだい主従しゅうじゅうほう英語えいごばんなどの労働ろうどうほう問題もんだい深刻しんこくさがあらわとなった。おも石工せっこう煉瓦れんがせき職人しょくにん大工だいくなどの建築けんちく労働ろうどうしゃ炭鉱たんこう労働ろうどうしゃ中心ちゅうしん次第しだいにではあるがふたた政治せいじ接近せっきんしはじめるようになる。労働ろうどう組合くみあい運動うんどう指導しどうしゃたちは、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ待遇たいぐう改善かいぜんのためには選挙せんきょけん獲得かくとく必要ひつようであるとかんがえ、「成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん協会きょうかい」を組織そしきしていた[15]。この組織そしきはかつて知識ちしきじん貧困ひんこん労働ろうどうしゃ主体しゅたいであったチャーティズムを労働ろうどうしゃ自身じしん凌駕りょうがした歴史れきしてき瞬間しゅんかんであった。アップルガースは『レイノルズ・ニュースペーパー』英語えいごばん労働ろうどうしゃつぎのようにかたっている。

「このくに熟練じゅくれん労働ろうどうしゃとしての地位ちいは、(中略ちゅうりゃく)、わが大衆たいしゅう利益りえきおおいに促進そくしんさせる。(中略ちゅうりゃく)。我々われわれ労働ろうどう時間じかん短縮たんしゅく賃金ちんぎんげのために団結だんけつしたとき以上いじょうつよ団結だんけつしなければならない。我々われわれ社会しゃかいてき状況じょうきょう改善かいぜんするのをめないよう労働ろうどう組合くみあいのぞむが、労働ろうどう組合くみあい政治せいじ組織そしきえて社会しゃかいてき目的もくてきからはずれたものにはしたくはない。だが、我々われわれ市民しみんであり、そして市民しみんけんゆうするのだということをわすれてはならない。また、これらの権利けんり獲得かくとくすることで、より効率こうりつてき組合くみあいいんとしての正当せいとうなる要求ようきゅう獲得かくとくできることをしんきざもう。我々われわれ目的もくてき市民しみんとしての権利けんり獲得かくとくするための組織そしきをつくること、いいかえれば、政治せいじ権力けんりょく共有きょうゆうすることにある。その目的もくてき明白めいはくである。すなわち、有権者ゆうけんしゃ登録とうろくきの成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん秘密ひみつ投票とうひょうせい獲得かくとくによる政治せいじ問題もんだい解決かいけつである。」[16]

この見解けんかい改革かいかく連盟れんめいによる選挙せんきょほう改正かいせい運動うんどうへと発展はってんしていく。

建築けんちくこうストライキからすうねん経緯けいいして時短じたん運動うんどう頓挫とんざしていたが、ジョージ・ハウエル英語えいごばんジョージ・ポッター英語えいごばん長時間ちょうじかん労働ろうどうへの抵抗ていこうあきらめていなかった。LTCの復帰ふっき命令めいれい反対はんたいして復職ふくしょくするのを断念だんねんし、ふるいチャーティスト運動うんどう支援しえんけながらジャーナリズム政治せいじ運動うんどうみちはいることになる。やがて、かれ建築けんちくこうわか指導しどうしゃたちは労働ろうどう条件じょうけん改善かいぜん必死ひっし状況じょうきょうにあって、労働ろうどうしゃ次第しだい労働ろうどう条件じょうけん改善かいぜんをはかるみち政治せいじてき権利けんり獲得かくとくにしかないという自覚じかく到達とうたつするようになっていた[17]。かくしてロンドンの労働ろうどうしゃは「成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん協会きょうかい」を結成けっせいし、活動かつどう目標もくひょうを6ヶ月かげつ居住きょじゅう条件じょうけんをもつ有権者ゆうけんしゃ登録とうろくつきの「成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん」と「秘密ひみつ投票とうひょうせい」の獲得かくとくによる政治せいじ問題もんだい解決かいけつさだめるにいたる。これが改革かいかく連盟れんめい前身ぜんしんとなる。

改革かいかく連盟れんめい発足ほっそく

[編集へんしゅう]

改革かいかく連盟れんめい政治せいじてき立場たちば

[編集へんしゅう]
エドマンド・ビールズ英語えいごばん改革かいかく連盟れんめい会長かいちょう就任しゅうにんし、運動うんどうむ。
ジョージ・ハウエル英語えいごばん。このときハウエルは書記しょきつとめていた。

成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん協会きょうかい」はストライキ戦術せんじゅつをめぐる労働ろうどう組合くみあい指導しどうしゃ内紛ないふんによって崩壊ほうかいし、アップルガースの運動うんどう支持しじするグループ(ジャンタばれている[18])を中心ちゅうしんしん組織そしき結成けっせいすすめられた。1865ねん2がつジョージ・ハウエル英語えいごばんらジャンタを支持しじした労働ろうどう運動うんどう指導しどうしゃジョージ・ポッター英語えいごばん排斥はいせき決定けっていして労働ろうどうしゃ物質ぶっしつてき向上こうじょう統一とういつ連盟れんめい英語えいごばん組織そしき刷新さっしんすすめ、しん団体だんたい名称めいしょう改革かいかく連盟れんめいえい: Reform League)とした。

ジョージ・ポッターは旧来きゅうらいがた組合くみあい所属しょぞくしていたがゆえに、労働ろうどう組合くみあい労働ろうどう闘争とうそうのために存在そんざいするとかんがえており、各地かくちのストライキを積極せっきょくてき支援しえんしていた。これは合法ごうほうてき穏便おんびん組合くみあい運動うんどう志向しこうするジャンタと対立たいりつするものであった。排斥はいせきされたジョージ・ポッターはふるいチャーティズムの伝統でんとう継承けいしょうする一派いっぱ接近せっきんした。1861ねん、ポッターはろうチャーティスト指導しどうしゃロバート・ハートウェルとともに労働ろうどうしゃ『ビーハイブ』英語えいごばん発行はっこうして戦闘せんとうてき労働ろうどう闘争とうそう支持しじつづけ、1864ねんには改革かいかく連盟れんめい競合きょうごうするしん組織そしき「ロンドン労働ろうどうしゃ協会きょうかい(えい: London Working Men Association, LWMA)」を組織そしきした。成人せいじん男子だんし選挙せんきょけんくわえて間借まがじん選挙せんきょけん獲得かくとくさい優先ゆうせん課題かだいかかげて、ロンドンの労働ろうどうしゃ選挙せんきょけん獲得かくとく目標もくひょうであった[19]

一方いっぽう改革かいかく連盟れんめい中産ちゅうさん階級かいきゅう急進きゅうしん主義しゅぎ(イングランド)英語えいごばん合流ごうりゅうしてぜん組織そしきえる会員かいいんすう拡大かくだい豊富ほうふ運動うんどう資金しきん獲得かくとく目指めざした。会長かいちょう選定せんてい中産ちゅうさん階級かいきゅう知識ちしきじんなかから吟味ぎんみされた。ジャマイカ事件じけん蜂起ほうきした黒人こくじん農民のうみん擁護ようご総督そうとくエドワード・ジョン・エア弾劾だんがいした著名ちょめい弁護士べんごしエドマンド・ビールズを会長かいちょう選出せんしゅつした。改革かいかく連盟れんめいは5月2にち中央ちゅうおう事務じむきょくから発行はっこうされた通達つうたつしん組織そしき発足ほっそくとその政治せいじ目標もくひょうつぎのように表明ひょうめいした。

「グレート・ブリテンの労働ろうどうしゃ階級かいきゅうかれらは自分じぶんたち闘争とうそう遂行すいこうしている。船舶せんぱくをつくり、農地のうちたがやし、工場こうじょう建設けんせつし、商業しょうぎょう貿易ぼうえき従事じゅうじし、礼儀れいぎただしく振舞ふるまい、規則正きそくただしい習慣しゅうかんにつけ、法律ほうりつによくふくし、ぜん世界せかい文明ぶんめいささえている。そのかれ労働ろうどうしゃには市民しみんにとってもっと重要じゅうよう権利けんりあたえられていない。労働ろうどうしゃ階級かいきゅう巨額きょがくぜいはらっている。しかし、かれらは課税かぜいいられながら断固だんことして選挙せんきょ参加さんかすることを拒絶きょぜつされている。労働ろうどうしゃ階級かいきゅう法律ほうりつによくふくしている。しかし、法律ほうりつ作成さくせいする議員ぎいん選出せんしゅつするさい発言はつげんゆるされていない。」[20]

ビールズは5月13にち発足ほっそく集会しゅうかい演説えんぜつにおいて、「代表だいひょうなき課税かぜい不正ふせいである」という伝統でんとう言及げんきゅうし、課税かぜいけた労働ろうどうしゃ選挙せんきょけんがないのは公正こうせいではないと指摘してきした。ビールズは、以上いじょうてんまえて成人せいじん男子だんし選挙せんきょけんもとづく選挙せんきょけん拡大かくだい必要ひつようせいいた。また、くにたいする熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ(「労働ろうどう貴族きぞく」)の貢献こうけんおおきく、かれらは勤勉きんべん質実しつじつ生活せいかついとな自助じじょ努力どりょく生活せいかつ向上こうじょうさせ、組合くみあい加入かにゅうして組合くみあいいん役割やくわりたすなど公的こうてき責任せきにん能力のうりょくがあって有権者ゆうけんしゃになる十分じゅうぶん資質ししつ(「リスペクタビリティ[21])をそなえていることを強調きょうちょうした[20]

ちなみに、この時代じだい代表だいひょうする合同ごうどう組合くみあい(えい: Amalgamated Society)という呼称こしょうをもったしんモデル組合くみあい英語えいごばんとく重要じゅうようで、それまでの組合くみあいとは根本こんぽんてきことなるものであった。

このたね組合くみあいは、上述じょうじゅつしていることだが、ストライキなど労働ろうどう闘争とうそうよりも労使ろうし交渉こうしょう重視じゅうししていた。また、医療いりょう疾病しっぺい傷害しょうがい老齢ろうれい失業しつぎょうなど様々さまざま共済きょうさい制度せいど整備せいびして組合くみあいいん福利ふくり充実じゅうじつはかっていった。

しかし、この組合くみあい一般いっぱん組合くみあいより高額こうがく会費かいひ支払しはらいがもとめられた[22]当然とうぜん収入しゅうにゅうおお職場しょくばない地位ちいたか職長しょくちょうクラスや現場げんば監督かんとくしゃくようなエリート労働ろうどうしゃそうしかれなかった[23]。そのうえ、「合同ごうどう組合くみあい」のおおくが一般いっぱん労働ろうどうしゃいれしょく制限せいげん要求ようきゅうしていたほか、徒弟とてい修行しゅぎょう期間きかん(5ねんほど)をこなした熟練じゅくれん職人しょくにんだけを加入かにゅう対象たいしょうとしていて、すで会員かいいんとなっている組合くみあいいんにん推薦すいせんけて審査しんさ通過つうかしなければあらたに会員かいいんになれないなど資格しかくきびしく閉鎖へいさてきなものであった[24]組合くみあいない風紀ふうき特徴とくちょうてきでこれまでの従来じゅうらいがた組合くみあい場合ばあい会合かいごう居酒屋いざかやひらかれることもおおかったが、大工だいく指物さしものこう合同ごうどう組合くみあい英語えいごばん場合ばあい読書どくしょしつ会合かいごうかれるようになっていた[25]改革かいかく連盟れんめい支援しえんしゃのひとりであるロバート・アップルガース英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 2]そう書記しょきつとめて以降いこう、このASCJは零細れいさい組合くみあいから建築けんちく業界ぎょうかい代表だいひょうてきかつ屈指くっし組織そしきとなる。1867ねんには17000ポンドの基金ききんきず豊富ほうふ財政ざいせいりょくゆうする強力きょうりょく組合くみあいへときゅう成長せいちょうげていった[28][29]

このように19世紀せいき道徳どうとく改革かいかく影響えいきょう労働ろうどう組合くみあいにもたっし、これが労働ろうどう組合くみあい内部ないぶ構造こうぞう改革かいかくうながしていった。こうしたあたらしい労働ろうどう組合くみあい運動うんどうかた熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ経済けいざいてき文化ぶんかてき社会しゃかいてき底上そこあげの原動力げんどうりょくになっていく。まさに改革かいかく連盟れんめい選挙せんきょけん拡大かくだい要求ようきゅうは、こうしたたか技術ぎじゅつりょく収入しゅうにゅうたか知的ちてきレベルに職人しょくにんてきプライド、強力きょうりょく団結だんけつりょく有効ゆうこう戦略せんりゃくった労働ろうどうしゃ階級かいきゅうのトップグループをよりうえかってげていくことに焦点しょうてんくものだった。

一方いっぽうで、ビールズは下層かそう労働ろうどうしゃを「性質せいしつわるくまったく値打ねうちのないほか階級かいきゅう」と位置付いちづけ、かれらを政治せいじてき排除はいじょすべきとする認識にんしきしめした。

ビールズの演説えんぜつでは、改革かいかく連盟れんめい選挙せんきょけんあたえるべき人々ひとびと男性だんせい熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ)とあたえるべきではない人々ひとびと熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ明言めいげんはしていないものの女性じょせい)が存在そんざいするということが指摘してきされている。この認識にんしき当時とうじめずらしいかんがえではなく、保守党ほしゅとうはおろか自由党じゆうとうグラッドストン急進きゅうしん主義しゅぎしゃ(イングランド)英語えいごばんジョン・ブライトも『英国えいこく憲政けんせいろん英語えいごばん』を執筆しっぴつしたウォルター・バジョットも、J.S.ミル[注釈ちゅうしゃく 3]でさえ優秀ゆうしゅう人間にんげん政治せいじをするべきとており[30]、ビールズもおなかんがえをしめそうとしていた。この時代じだい労働ろうどう貴族きぞくそう人々ひとびと中産ちゅうさん階級かいきゅう支援しえん賛同さんどう重視じゅうししており、労働ろうどうしゃ階級かいきゅう政治せいじ利害りがい中産ちゅうさん階級かいきゅう良識りょうしきしゃたち(出自しゅつじにかかわらず個人こじん力量りきりょう責任せきにんおもんじるがゆえ有権者ゆうけんしゃ資格しかく制限せいげん拡大かくだい反対はんたいしている自由じゆう主義しゅぎしゃ)に代弁だいべんしてもらおうと期待きたいしていた[31]。ビールズは労働ろうどうしゃ階級かいきゅう目覚めざましい社会しゃかい上昇じょうしょう指摘してきし、以下いかのように明言めいげんした。

熟練じゅくれんした労働ろうどうしゃ階級かいきゅうには素晴すばらしい成果せいかられる。慎重しんちょう気質きしつ禁欲きんよくてき倹約けんやく、そして、社会しゃかいてきかつクリスチャンてき生活せいかつとその美徳びとく財産ざいさん住居じゅうきょ協同きょうどう組合くみあい自制心じせいしん社会しゃかいせい、すぐれた慣行かんこうなり、資産しさん運用うんよう能力のうりょく、(中略ちゅうりゃく)、克己こっきしん自己じこ管理かんり能力のうりょくられる。(中略ちゅうりゃく)。労働ろうどうしゃ階級かいきゅう自体じたいが、ほう秩序ちつじょ資本しほん所有しょゆう権利けんり、わがくに名誉めいよ権力けんりょくとみ、これらの原理げんり維持いじふか関心かんしんっている。かれらは協同きょうどう組合くみあい建築けんちく組合くみあい、その組合くみあいいんとして、日々ひびみずか資本しほん地主じぬしになりつつある。」[32]

以上いじょうのことから、改革かいかく連盟れんめい労働ろうどうしゃ改革かいかく団体だんたいではあったが、かれらの運動うんどう理念りねん自由じゆう労働ろうどう主義しゅぎ英語えいごばんという特殊とくしゅ立場たちばもとづくものであった。

改革かいかく連盟れんめいは「人民じんみん主権しゅけん」や「民主みんしゅ主義しゅぎ」によって急進きゅうしんてき社会しゃかい変革へんかく目指めざしたチャーティズムオウエン主義しゅぎ空想くうそうてき社会しゃかい主義しゅぎひとつ)とはことなり、体制たいせいイデオロギーれて「個人こじん主義しゅぎ」・「自由じゆう主義しゅぎ」の伝統でんとう支持しじしており、保守ほしゅてき男性だんせい主義しゅぎてき資本しほん主義しゅぎしたでの労働ろうどうしゃ階級かいきゅう両極りょうきょく分解ぶんかい状況じょうきょう是認ぜにんし、社会しゃかい成功せいこうおさめようとこころざ男性だんせい熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ社会しゃかいてき上昇じょうしょうつよ志向しこうするグループであった。改革かいかく連盟れんめい執行しっこう構成こうせいしていたハウエルやオッジャーらの権利けんりかんもビールズの見解けんかい差異さいすくなく、選挙せんきょけん社会しゃかいてきステータスとして位置いちづけ、これをにすることで労働ろうどう問題もんだい有利ゆうり条件じょうけん解決かいけつするというてん同様どうようのものであった[33][34][32]。このことは選挙せんきょけん普遍ふへんてきな「権利けんり」としてとらえるのではなく、階級かいきゅう社会しゃかいにおける一種いっしゅの「特権とっけん」であるとする認識にんしき支配しはいてきだったことを示唆しさしており、改革かいかく連盟れんめい成人せいじん男子だんし選挙せんきょけんかかげていたものの、指導しどう会員かいいんとなった熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ内心ないしん下層かそう労働ろうどうしゃとの差別さべつ必死ひっしだったと推測すいそくできる[32]

自由党じゆうとう改正かいせいあん廃案はいあん

[編集へんしゅう]

1865ねん10がつ選挙せんきょほう改正かいせい長年ながねん反対はんたいしていたパーマストン首相しゅしょう急死きゅうしした。

1866ねん3がつ自由党じゆうとう内閣ないかく大蔵おおくら大臣だいじんグラッドストンによって選挙せんきょほう改正かいせい法案ほうあん提出ていしゅつされる。家賃やちん7ポンド戸主こしゅ選挙せんきょけんと10ポンド間借まがじん選挙せんきょけん都市とし選挙せんきょ導入どうにゅうすることが提案ていあんされた[35]。しかし、グラッドストンは党内とうない掌握しょうあく成功せいこうしていなかったため、すぐさま反対はんたいこえがる。

そのなかもっと先鋭せんえい反対はんたいろん展開てんかいしたのがロバート・ロウ英語えいごばんである。

ロウは、家賃やちん基準きじゅん設定せっていされた政府せいふ法案ほうあん選挙せんきょけんかくたる資格しかく設定せっていしていないことを指摘してきした。すなわち、家賃やちん基準きじゅん物価ぶっか変動へんどう影響えいきょうされる不安定ふあんていなものであり、労働ろうどうしゃ資格しかく要求ようきゅうげがこると拒絶きょぜつする道理どうり欠如けつじょしていて、一旦いったん資格しかく緩和かんわはじめると最終さいしゅうてきに「正真正銘しょうしんしょうめい成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん」(改革かいかく連盟れんめい要求ようきゅうでさえ条件じょうけんき)に可能かのうせいがあると批判ひはんしたのである[36]。また、ロウは有権者ゆうけんしゃ資格しかく基準きじゅんせんからたかければたかいほど有権者ゆうけんしゃとしての政治せいじてき資質ししつたかくなるがひくければ劣悪れつあくになってくるとろん展開てんかいした[37]。この劣悪れつあく人々ひとびと選挙せんきょけんつと予想よそうされるのは政治せいじ混乱こんらんであった。フランス革命かくめいやアメリカの南北戦争なんぼくせんそう民主みんしゅ主義しゅぎこした「まけ産物さんぶつ」としてなされていた[38]。この主張しゅちょう現代げんだいでは時代じだい錯誤さくごエリート主義しゅぎであるがいちきゅう世紀せいきではいたって常識じょうしきてき見解けんかいである。

6がつ保守党ほしゅとう有権者ゆうけんしゃ資格しかく根拠こんきょ地方ちほうぜい基準きじゅんから家賃やちん基準きじゅん変更へんこうした自由党じゆうとうあん納税のうぜい義務ぎむなど政治せいじてき責任せきにん軽視けいしするものとしてつよ反発はんぱつし、自由党じゆうとう改革かいかく反対はんたい(アダラム洞窟どうくつとうばれる、ホイッグロバート・ロウなど)と協力きょうりょくして法案ほうあん廃案はいあんんだ[39]。まもなく、首相しゅしょうジョン・ラッセル内閣ないかくそう辞職じしょく決断けつだんしたためヴィクトリア女王じょおうによりだい14だいダービー伯爵はくしゃくエドワード・スミス=スタンリー)が首相しゅしょう指名しめいされて少数しょうすう与党よとう保守党ほしゅとう政権せいけん成立せいりつした[40]

ハイドパーク事件じけん

[編集へんしゅう]
1866ねんハイドパーク事件じけん様子ようす

このような政局せいきょく変化へんか反発はんぱつした改革かいかく連盟れんめいは、ハイドパーク抗議こうぎ集会しゅうかい開催かいさいして政府せいふ批判ひはんをしようとこころみる。なお、ハイドパークは集会しゅうかい自由じゆうが「イングランドじん権利けんり」として保障ほしょうされた由緒ゆいしょある場所ばしょで、マーブル・アーチをえたところスピーカーズ・コーナーもうけられ、いかなる発言はつげん国王こくおう批判ひはんなど例外れいがいのぞく)も尊重そんちょうされるなどふるくから抗議こうぎ活動かつどう拠点きょてんであった[41]

しかし、ロンドン警視庁けいしちょう警視総監けいしそうかん英語えいごばんリチャード・メイン英語えいごばんはハイドパークでの集会しゅうかい禁令きんれいして改革かいかく連盟れんめいうごきを阻止そししようとした。これにたいして、ビールズは警視総監けいしそうかん書簡しょかん提出ていしゅつし、「公園こうえんは、人民じんみん資産しさん管理かんりされている国王こくおう財産ざいさん」であって、「議会ぎかいがこれを尊重そんちょうする国家こっか財産ざいさんである」と言及げんきゅうして政府せいふ集会しゅうかい妨害ぼうがいする権利けんりはないと主張しゅちょうし、公園こうえん使用しよう許可きょかするようもとめた[41]

1866ねん7がつ23にち、ビールズは労働ろうどうしゃともにハイドパークを目指めざして行進こうしんし、公園こうえんへの入場にゅうじょう許可きょかもとめるが、ゲートは封鎖ふうさされており要求ようきゅうこばまれてしまう。ビールズは国費こくひ運営うんえいされた公園こうえんでの集会しゅうかいきんじられたことの「恥辱ちじょく」を強調きょうちょうし、正当せいとう権利けんり主張しゅちょうみとめられていないこと、労働ろうどうしゃ市民しみんとしてみとめられていないことをみな例示れいじした。そして、ビールズは「もし、諸君しょくんがいかなる努力どりょくをもってしても正義せいぎれないのなら、市民しみんとしての正当せいとう特権とっけんは、納税のうぜいであれ、従軍じゅうぐんであれ、いかなる国家こっか貢献こうけんをなそうとも、いつまでもうばられたままになるであろう」と人々ひとびとまえべてこと深刻しんこくさをしめそうとしたのである。この演説えんぜつ予想よそう以上いじょう作用さようをもたらすことになる。集会しゅうかい場所ばしょトラファルガー広場ひろばうつされたが、ハイドパークまえのこっていた集会しゅうかい参加さんかしゃ一部いちぶはビールズの演説えんぜつ警官けいかんたい態度たいど過剰かじょう刺激しげきされて暴走ぼうそうし、多数たすう労働ろうどうしゃ公園こうえん鉄柵てっさくたおして警官けいかんたいなぐばし、ハイドパークを占拠せんきょするという事件じけん発生はっせいした[42]。これが1866ねんハイドパーク事件じけんハイドパーク鉄柵てっさく倒壊とうかい事件じけん)である。改革かいかく連盟れんめい機関きかん『コモンウェルス』はハイドパークのしがらみ内側うちがわ体制たいせい外側そとがわがアウトサイダーだとする認識にんしき労働ろうどうしゃ決起けっきさせたと指摘してきしている[43]

改革かいかく連盟れんめい指導しどう自制じせいもとめるべくJ.S.ミル仲介ちゅうかいはいってたほか、どう事件じけん各界かくかい賛否さんぴ両論りょうろんおおきな衝撃しょうげきあたえ、ヴィクトリア女王じょおう姿勢しせいにも影響えいきょうおよぼした。マルクスはこの事件じけんについて、しがらみやりにして警官けいかんころせば、面白おもしろいことになっただろう」かたっている[44]。このようなわけで首相しゅしょうダービーや大蔵おおくら大臣だいじんディズレーリ不本意ふほんい改革かいかく嫌々いやいやまざるをなくなっていく[45][46]

保守党ほしゅとう政権せいけん改革かいかく連盟れんめい

[編集へんしゅう]

保守ほしゅ改正かいせい法案ほうあん保守ほしゅ主義しゅぎ

[編集へんしゅう]

ディズレーリは、クランボーンをはじめとする保守党ほしゅとう内部ないぶトーリー頑強がんきょう抵抗ていこうはいして、1867ねん3がつ18にちなんとか改革かいかく法案ほうあん提出ていしゅつした。そこでかれは「選挙せんきょけん社会しゃかいてき価値かちむすびつけて設定せってい」する観点かんてんから、ねん以上いじょう居住きょじゅう期間きかんたして納税のうぜい台帳だいちょう氏名しめい記載きさいされた地方ちほうぜい英語えいごばん納税のうぜいしゃあらたに有権者ゆうけんしゃさだめ、都市とし選挙せんきょ条件じょうけんきではあるが戸主こしゅ選挙せんきょけん導入どうにゅうすることをうたっている[47]。ディズレーリは議会ぎかいつぎのように演説えんぜつしている。

議会ぎかいないでのだい選挙せんきょほう改正かいせい問題もんだいは、ディズレーリ・グラッドストンの直接ちょくせつ対決たいけつ様相ようそうていしていた。
わたしは、庶民しょみんいんにおける選挙せんきょ制度せいど以下いかのような主張しゅちょうのもとに採用さいようする。

労働ろうどうしゃに)権利けんり行使こうしさせる機会きかいあたえるのであれば、かれらに義務ぎむになわせて、おおくの信頼しんらいせい証明しょうめいさせなければならないであろう。(中略ちゅうりゃく)。したがって、わたし地方ちほうぜい課税かぜいされ(信頼しんらいせい証明しょうめいした)納税のうぜいしゃ選挙せんきょけんあたえられるべきだとかんがえている。(中略ちゅうりゃく)。我々われわれは(選挙せんきょけんに)普遍ふへんてき性格せいかくあたえることのできない要素ようそ退しりぞけながら、地方ちほうぜい基礎きそとする誠意せいいある原則げんそくみとめ、選挙せんきょけん社会しゃかいてき価値かちむすびつける所存しょぞんである。(中略ちゅうりゃく)。(選挙せんきょけん拡大かくだいするには)日常にちじょう生活せいかつでのいや生活せいかつ態度たいど、そして社会しゃかいてき義務ぎむ能力のうりょくなどの要素ようそ考慮こうりょしながら、選挙せんきょけんあたえるかどうか吟味ぎんみしなければならないのである。(こうしたてん留意りゅういした結果けっかわたしは)地方ちほうぜい納税のうぜいしゃで、年間ねんかん継続けいぞくして居住きょじゅうしている男子だんし選挙せんきょけんあたえるべきであり、選挙せんきょけん権利けんり行使こうし適性てきせい見込みこまれる生活せいかつ水準すいじゅんたっした男子だんしにまでひろげられるべきだとのかんがえにいたった。

以上いじょうてんは、社会しゃかい安全あんぜん両立りょうりつでき、同時どうじ精神せいしん高潔こうけつ労働ろうどうしゃ該当がいとうする都市とし選挙せんきょ区内くないぜん戸主こしゅ選挙せんきょけんあたえるべきだとする立場たちばもとづくものである。()ない筆者ひっしゃちゅう[48]

しかし、このときディズレーリはトーリー主義しゅぎもとづく伝統でんとうてき政治せいじ体制たいせい貴族きぞく政治せいじ)と民主みんしゅせい調和ちょうわ理想りそうする復古ふっこてきレトリックトーリー・デモクラシーわれる)をもちいながら、ほん改正かいせい法案ほうあんかんして政治せいじ構造こうぞう変革へんかくともなうような文字通もじどおりの民主みんしゅではなく君主くんしゅ貴族きぞくそしてそのもとのいる資本しほん序列じょれつあらたに職人しょくにんてき労働ろうどうしゃ(アーティザンともう)がくわえられて、「イングランドの代表だいひょうせいひろ民衆みんしゅうてき基礎きそかれる」現実げんじつてき改革かいかくであるといた[48]

保守党ほしゅとう政治せいじ文脈ぶんみゃく保守ほしゅ主義しゅぎ)にもとづいた論法ろんぽう装飾そうしょくされた演説えんぜつからは、この法案ほうあんでの戸主こしゅ選挙せんきょけんたて社会しゃかいヒエラルキー労働ろうどうしゃ一部いちぶ追加ついかするという伝統でんとうてき形式けいしきまえる以上いじょう財産ざいさん階級かいきゅうによる支配しはい構造こうぞうのもとで有権者ゆうけんしゃ構成こうせい維持いじすることが前提ぜんていかれるべきとするめられていたとることができる[49]。すなわち、改革かいかくっても民主みんしゅ限定げんていてきなものにおさえるという意味いみがあり、戸主こしゅ選挙せんきょけんの「」をえら実質じっしつ改革かいかく効果こうかてるディズレーリの算段さんだんふくんだものだったのである[50]事実じじつ、その内容ないよう地方ちほうぜいの「直接ちょくせつ納税のうぜいしゃ」23まん7000にん対象たいしょうとする一方いっぽうで、「小規模しょうきぼ借家しゃくやほう」のもとで家賃やちん地方ちほうぜい大家たいかにまとめて支払しはら最大さいだい25%の控除こうじょけている「一括いっかつ納税のうぜいしゃ」48まん6000にんは、ぜい割引わりびきけていること、納税のうぜい台帳だいちょう登記とうきされていないこと、のてんから資格しかくから排除はいじょすることがあきらかにされた[51][52][48]

グラッドストンの反撃はんげき

[編集へんしゅう]

条件じょうけんだらけのこの実質じっしつのない法案ほうあんにグラッドストンはすぐさま反発はんぱつし、「小規模しょうきぼ借家しゃくやほう」は適用てきよう不完全ふかんぜん地域ちいきによってまちまちであったため納税のうぜい方法ほうほうちがいでは有権者ゆうけんしゃ選別せんべつすることはできないとして、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ選挙せんきょけん獲得かくとくみちひらいて有権者ゆうけんしゃすう保守党ほしゅとうあんよりやせ、さらに労働ろうどうしゃの「不良ふりょう部分ぶぶん」を資格しかくから排除はいじょできる地方ちほうぜい5ポンド選挙せんきょけん・10ポンド間借まがじん選挙せんきょけんじくとする修正しゅうせいあん提出ていしゅつした[53][54]

しかし、自由党じゆうとう党内とうない協議きょうぎでの状況じょうきょうはんして、このグラッドストンによるかえしは失敗しっぱいわる。グラッドストンの穏健おんけん改革かいかくあん成立せいりつすればさらなる修正しゅうせい余地よちはなくなるため、自由党じゆうとう急進きゅうしんひそかに議会ぎかい喫茶きっさしつあつまって政府せいふあん支持しじすることで結集けっしゅうした。かれらは採決さいけつになって突然とつぜん造反ぞうはんし、グラッドストンあん反対はんたいひょうとうじたのである[55][56][57]。これによって修正しゅうせいあん廃案はいあんとなり、保守党ほしゅとうあん審議しんぎ通過つうか、このまま政府せいふあんがほぼ原案げんあんちか状態じょうたい制定せいていされるかにえた。しかし、ディズレーリの優位ゆういつづかなかった。ディズレーリのあしすく機会きかいをうかがって保守党ほしゅとうばかりの戸主こしゅ選挙せんきょけん法案ほうあん正真正銘しょうしんしょうめいのものにするべく急進きゅうしん行動こうどうをはじめたのである[58]

議会ぎかいがい情勢じょうせい改革かいかく連盟れんめい

[編集へんしゅう]

一方いっぽう議会ぎかいがい改革かいかく連盟れんめい指導しどうしゃたちはハイドパーク事件じけん成功せいこう自信じしんふかめるとともにてんさんてんする政局せいきょく憤慨ふんがいし、1866ねんまつ経済けいざい危機ききコレラ流行りゅうこう恐怖きょうふ研磨けんまこう組合くみあいいん暴行ぼうこう事件じけんシェフィールド事件じけん英語えいごばん)の余波よはといった諸々もろもろ事態じたい刺激しげきされ、主流しゅりゅうメンバーを中心ちゅうしん威嚇いかくてき実力じつりょく行使こうしくわだてる過激かげき運動うんどうへの転換てんかんはかりつつあった[59][60][61]チャーティズムうちに「道徳どうとく」と「実力じつりょく」が形成けいせいされたように、改革かいかく連盟れんめい内部ないぶにも分派ぶんぱ危険きけんせいがあった[62][58]

1867ねんはる、このころ労働ろうどう運動うんどう指導しどうしゃたちは、シェフィールド事件じけんならびに労働ろうどう組合くみあい活動かつどうかんする王立おうりつ調査ちょうさ委員いいんかい英語えいごばん招集しょうしゅうされ次々つぎつぎ査問さもんにかけられていた。この委員いいんかい事件じけん真相しんそう究明きゅうめい目的もくてきとしてかかげていたが、そのじつ保守党ほしゅとう政府せいふ陰謀いんぼうひとつとして設置せっちされたものだった。このため、アップルガースをはじめとして改革かいかく連盟れんめい支援しえんしゃであった人々ひとびと労働ろうどう組合くみあい合法ごうほうせいくのに必死ひっし改革かいかく運動うんどうどころの状況じょうきょうではなくなっていた[63][64]

そんななか議論ぎろんされたのが「せい金曜日きんようび」(イエス・キリスト処刑しょけい太陰暦たいいんれきもとづいていたためこのとしは4がつ19にち)のハイドパーク集会しゅうかいであった[61]改革かいかく連盟れんめい指導しどうしゃ保守党ほしゅとう政権せいけんつぶすためにグラッドストンと会談かいだんする。改革かいかく連盟れんめい代表だいひょうだん居住きょじゅう形態けいたい納税のうぜい方法ほうほう納税のうぜいがくなどの条件じょうけん有権者ゆうけんしゃ制限せいげんしないよううったえて、成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん支持しじするようもとめた。しかし、グラッドストンの反応はんのうややかだった。群集ぐんしゅう暴発ぼうはつする可能かのうせいがあるとしてせい金曜日きんようび開催かいさいあん批判ひはんし、集会しゅうかい日程にってい変更へんこうするようにもとめた[58]。グラッドストンは明言めいげんしていないが、建築けんちくこう多数たすう参加さんかする改革かいかく連盟れんめい集会しゅうかい警官けいかんたい弾圧だんあつすれば、ハイドパーク公園こうえんエルサレム神殿しんでん改革かいかく連盟れんめい指導しどうしゃがイエス・キリストに、そしてこれをまる警官けいかんがイエスを迫害はくがいするローマぐん、ディズレーリはちちだいまでユダヤじんであったことから保守党ほしゅとう政府せいふはさしずめユダヤパリサイとする視覚しかくてきイメージとかさなって革命かくめいこるとかんがえていたと予想よそうされる[61]。グラッドストンはねてから成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん戸主こしゅ選挙せんきょけん反対はんたいしていたのだが、改革かいかく連盟れんめい自己じこコントロール能力のうりょく疑問ぎもんいていたともかんがえられ、結局けっきょく正義まさよし」を主張しゅちょうすることに方法ほうほうえらばない改革かいかく連盟れんめい要望ようぼうこばんだのである[58]

1867ねんハイドパーク集会しゅうかい

[編集へんしゅう]

このようなわけで、ビールズやハウエルら改革かいかく連盟れんめい穏健おんけん指導しどうしゃは、ふか信奉しんぽうするグラッドストンの支持しじられなかった。改革かいかくけての決定けっていはないようにおもわれたが、議会ぎかい内外ないがい保守党ほしゅとう改正かいせいあんへの不満ふまんたかまっていた。改革かいかく連盟れんめい指導しどうしゃはグラッドストンを盟友めいゆうとして、ハイドパークで平和へいわてき集会しゅうかいおこない保守党ほしゅとう圧倒あっとうして改革かいかくの「」をれようとかんがえた。改革かいかく連盟れんめい過激かげき主張しゅちょうをする一派いっぱ排斥はいせきすすめてせい金曜日きんようび開催かいさいあん撤回てっかいし、成人せいじん男子だんし選挙せんきょけん獲得かくとく困難こんなんとして、「無条件むじょうけん戸主こしゅ参政さんせいけん」と間借まがじん選挙せんきょけん目指めざして保守党ほしゅとう改正かいせいあん修正しゅうせいもとめることに目標もくひょうしぼった。1867ねん5がつ6にち改革かいかく連盟れんめいハイドパーク抗議こうぎ集会しゅうかい開催かいさいし、集会しゅうかい無血むけつ開催かいさいした。この判断はんだん時節じせつかなったもので、自由党じゆうとう急進きゅうしんはすでに保守党ほしゅとうから10ポンド間借まがじん選挙せんきょけんについて譲歩じょうほしていた。グラッドストンも改革かいかく連盟れんめい誠意せいい感銘かんめいけて、改革かいかく連盟れんめい、そして自由党じゆうとう急進きゅうしんのぞ改革かいかくあん支持しじする立場たちばへとかじ[65][66]

ここに自由党じゆうとう急進きゅうしん主義しゅぎ(イングランド)英語えいごばんというディズレーリ包囲ほういもう統一とういつされ、グラッドストンの雪辱せつじょくかなうはずであった。しかし、自由党じゆうとう無名むめい急進きゅうしん議員ぎいんホジキンソンが「一括いっかつ納入のうにゅうしゃ問題もんだい」を解決かいけつさせるべく「小規模しょうきぼ借家しゃくやほう」を廃止はいしして税込ぜいこ家賃やちん協定きょうてい支払しはらいとぜい控除こうじょ廃止はいしするよう要求ようきゅうしたとき保守党ほしゅとう改正かいせいあん骨組ほねぐみは突如とつじょ崩壊ほうかいする。ディズレーリはグラッドストン修正しゅうせいあん一括いっかつ納税のうぜいしゃ選挙せんきょけんあたえるべきだと主張しゅちょうしたヒィーバート修正しゅうせいあんったことに完全かんぜん満足まんぞくしており、つぎにくるグラッドストンのチルダーあんふうじることに関心かんしん集中しゅうちゅうしていた。そのため、これで十分じゅうぶんだとおもったのか周囲しゅうい予想よそうはんして自由党じゆうとう無名むめい議員ぎいん修正しゅうせいあんだれにも相談そうだんせず勝手かってれてしまったのである。結果けっか地方ちほうぜい支払しはら方法ほうほう有権者ゆうけんしゃ選別せんべつする相殺そうさい方法ほうほうはなくなってしまい、「直接ちょくせつ納入のうにゅうしゃ」23まん7000にんくわえて「一括いっかつ納税のうぜいしゃ」48まん6000にんべつ修正しゅうせいあんれた「間借まがじん」2まんめい資格しかく該当がいとうしゃくわわって、総計そうけい72まん3せんめい選挙せんきょけんあたえることがまった。こうして無条件むじょうけん戸主こしゅ参政さんせいけん実現じつげんされ、みの有権者ゆうけんしゃ登録とうろくあいまって実際じっさいには100まんにんちかくもの労働ろうどうしゃ有権者ゆうけんしゃとなり、ぜん有権者ゆうけんしゃ多数たすうめるにいたったのである[67][68][69]

ダービー首相しゅしょうだい選挙せんきょほう改正かいせい暗中飛躍あんちゅうひやくひょうした

法案ほうあん成立せいりつ

[編集へんしゅう]

だが、ディズレーリの独断どくだんによるだい規模きぼ保守党ほしゅとう譲歩じょうほはあくまで都市とし選挙せんきょだけのはなしで、しゅう選挙せんきょでは土地とち保有ほゆうしゃ選挙せんきょけん納税のうぜいがく15ポンドに設定せっていする予定よていであったが、10ポンドにげる修正しゅうせいあんたいして12ポンドとする譲歩じょうほがあったがほとんど保守党ほしゅとうのいいぶんかよっていった。また、議席ぎせきさい配分はいぶん地域ちいき実情じつじょう沿った政治せいじ取引とりひき材料ざいりょうになってその内容ないよう保守党ほしゅとう自由党じゆうとう政治せいじバランスがくずれないように限定げんていてきおさえられ、選挙せんきょ区画くかく死票しひょうらすため都市とし農村のうそん支持しじ政党せいとう明確めいかくになるように恣意しいてき線引せんひきされた[70][71]

選挙せんきょほう改正かいせい問題もんだいはグラッドストン、ディズレーリ、改革かいかく連盟れんめいなどかく勢力せいりょく翻弄ほんろうするだけして、党派とうは対立たいりつによる混乱こんらん妥協だきょうすえ1867ねん8がつ8にちだい選挙せんきょほう改正かいせいほう英語えいごばん成立せいりつした。ようやく、ここに都市とし選挙せんきょにおける労働ろうどうしゃ選挙せんきょけんかんする問題もんだい決着けっちゃくをみる。

保守党ほしゅとう政権せいけんのもとで改正かいせいされた選挙せんきょほう民主みんしゅてきであり保守ほしゅてきであるというたとがた性質せいしつのものとしてその成立せいりつをみたのである。一方いっぽう改革かいかく連盟れんめい工業こうぎょう都市としへの議席ぎせきさい配分はいぶん都市とし選挙せんきょでの選挙せんきょけん拡大かくだい結果けっかしたが、しゅう選挙せんきょでの改革かいかくには成果せいかせなかった。その結果けっか有権者ゆうけんしゃすうは9%に倍増ばいぞう構成こうせいにおいては地方ちほうぜい納入のうにゅうしているすべての戸主こしゅ一部いちぶ間借まがじんにまで選挙せんきょけん拡大かくだいされ、都市とし労働ろうどうしゃ選挙せんきょけん一方いっぽう炭鉱たんこう労働ろうどうしゃ小作こさくじん資格しかくから排除はいじょされ地方ちほうでの拡大かくだい規模きぼ中農ちゅうのうクラスの農民のうみんまることとなった。

改革かいかく活動かつどう

[編集へんしゅう]

改革かいかく連盟れんめい保守党ほしゅとうへの攻撃こうげき姿勢しせいくずすことはなかった。ハイドパークでの集会しゅうかい自由じゆうをめぐって執拗しつよう政府せいふ批判ひはんひろげて、政府せいふ禁令きんれい違法いほうせいうったえ、改革かいかく連盟れんめい対策たいさく責任せきにんしゃである内相ないしょうスペンサー・ホレーショ・ウォルポール辞任じにんんだほか、保守党ほしゅとう集会しゅうかい規制きせい法案ほうあん廃案はいあんみちびいている。1868ねんそう選挙せんきょ英語えいごばんでは自由党じゆうとう支持しじして労働ろうどうしゃ有権者ゆうけんしゃ登録とうろくうながし、自由党じゆうとう選挙せんきょ活動かつどう支援しえん展開てんかいしてアレキサンダー・マクドナルド英語えいごばんなどはつ労働ろうどうしゃ議員ぎいん輩出はいしゅつしたほか、自由党じゆうとう労働ろうどう組合くみあい運動うんどう提携ていけい強化きょうかされ自由党じゆうとう圧倒的あっとうてき勝利しょうり演出えんしゅつした。このうごきは自由じゆう労働ろうどう主義しゅぎ英語えいごばんとしてウェストミンスター議会ぎかいまえあらわれ、自由党じゆうとうだいいちグラッドストン政権せいけん強力きょうりょく支援しえんたい発展はってんしていく[72]

やがて、改革かいかく連盟れんめい役割やくわりだいいちグラッドストン政権せいけん秘密ひみつ投票とうひょうほう英語えいごばん労働ろうどう組合くみあいほう英語えいごばん制定せいていなどの改革かいかく支持しじし、だいディズレーリ政権せいけんしたでは労働ろうどうほうさらなる整備せいび社会しゃかい改良かいりょう推進すいしんなどの政治せいじ案件あんけんかんする議会ぎかい対策たいさくげにうつっていき、やがて組織そしき労働ろうどうしゃ議会ぎかい代表だいひょう連盟れんめい英語えいごばん改組かいそされた。

近年きんねん研究けんきゅう

[編集へんしゅう]

マルクス主義まるくすしゅぎ史観しかん反対はんたいろんしゃ

[編集へんしゅう]

改革かいかく連盟れんめいかんする1960ねんごろまでの研究けんきゅうは、マルクス主義まるくすしゅぎ歴史れきしがくもとづく研究けんきゅう大勢おおぜいめていた。

その代表だいひょうしゃであるロイデン・ハリソンは1965ねん社会しゃかい主義しゅぎしゃ以前いぜん』というしょ改革かいかく連盟れんめいの「保守ほしゅせい」を指摘してきしつつ、単純たんじゅん階級かいきゅう闘争とうそう史観しかん拒絶きょぜつしているが、ハイドパーク事件じけん衝撃しょうげき改革かいかく連盟れんめい存在そんざいかんつよまったことを指摘してきしている。ハリソンは、革命かくめい危機きききつける自由党じゆうとう、そして、革命かくめい恐怖きょうふしんかれた保守党ほしゅとう、それぞれが議会ぎかい内外ないがい情勢じょうせいせまられて選挙せんきょほう改正かいせい余儀よぎなくされ、最終さいしゅうてきにはだい規模きぼ改革かいかく実現じつげん実現じつげんしていくという過程かていえがいた。1966ねん・67ねんだい選挙せんきょほう改正かいせいひゃく周年しゅうねんにあたり、スミスとコーリングによってその政治せいじ過程かてい詳細しょうさいろんじられた。とりわけ、コーリングはヴィクトリア社会しゃかい安定あんてい均衡きんこう評価ひょうかする保守ほしゅてき歴史れきしかんっており、改革かいかく実現じつげん要因よういんかんしてハリソンの労働ろうどう運動うんどうせつ反対はんたいして自由党じゆうとう保守党ほしゅとう党派とうは抗争こうそう改革かいかく主因しゅいんであるといた。選挙せんきょほう改正かいせいかんしては階級かいきゅう闘争とうそう自由党じゆうとう保守党ほしゅとう党派とうは抗争こうそうでは理解りかいしがたい複雑ふくざつ政治せいじ過程かていがあり、ブレイクもこの問題もんだいについて言及げんきゅうし、最終さいしゅうてきにはディズレーリの民主みんしゅ主義しゅぎ時代じだいへのチャレンジ精神せいしん産物さんぶつひょうしている。両者りょうしゃはディズレーリのたくみな議会ぎかい操縦そうじゅうじゅつとグラッドストンをければ改革かいかく行方ゆくえがどうなろうとかまわないという対抗心たいこうしん不可能ふかのうとされた改革かいかく可能かのうにしたのだとている。改革かいかくしん立役者たてやくしゃだれかという問題もんだいはそのむずかしい課題かだいとしてのこっていたが、もち改革かいかく連盟れんめいとグラッドストンの提携ていけい関係かんけい成立せいりつ(これがこう自由じゆう労働ろうどう主義しゅぎ英語えいごばんのスタート地点ちてんとなる)が選挙せんきょほう改正かいせい核心かくしん部分ぶぶんになっていることを指摘してきしている。

ブリッグスによる偉人いじん史観しかん

[編集へんしゅう]

マルクス主義まるくすしゅぎ歴史れきしがくやその反対はんたいしゃ論争ろんそう先立さきだって重要じゅうよう研究けんきゅう存在そんざいしている。

エイザ・ブリッグス英語えいごばんは1954ねん『ヴィクトリア時代じだい人々ひとびと』を出版しゅっぱんしており、そこでサミュエル・スマイルズをはじめとする時代じだい象徴しょうちょうする「ひと」をくちに1860年代ねんだい人々ひとびと紹介しょうかいしながら選挙せんきょほう改正かいせい契機けいきせまっていた。ブリッグスはアップルガースなど労働ろうどう組合くみあい指導しどうしゃらがきた時代じだい文化ぶんかをスマイルズの「個人こじん主義しゅぎ」や「自由じゆう主義しゅぎ」が支配しはいてき価値かちかんとなっていて「マルクス主義まるくすしゅぎ」の隆盛りゅうせいはまだない「安定あんてい時代じだい」として位置いちづけ、自由じゆう主義しゅぎ思想しそうまりながらこの時代じだいきた保守ほしゅてき熟練じゅくれん労働ろうどうしゃたちが「自助じじょ」によって選挙せんきょけん労働ろうどう組合くみあい合法ごうほう獲得かくとくしようと格闘かくとうしたてんえがしていた。そのヘンリー・ペリング英語えいごばん飯田いいだかなえは、1850年代ねんだいから次々つぎつぎ組織そしきされていった「合同ごうどう組合くみあい」が改革かいかく連盟れんめいによる選挙せんきょほう改正かいせい運動うんどう性格せいかくおおきく規定きていしているてん指摘してきした。この研究けんきゅう当時とうじシティズンシップのありかたへの関心かんしんたかめるものになった。このスタンスは1970年代ねんだい以降いこう継続けいぞくしてその研究けんきゅうしゃ労働ろうどう貴族きぞく研究けんきゅうすすめ、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ重視じゅうしした品位ひんい(「リスペクタビリティ」)という社会しゃかいてき価値かち概念がいねん分析ぶんせきした。中山なかやまあきらも「合同ごうどう組合くみあい」の会員かいいんになることが熟練じゅくれん労働ろうどうしゃにとってとりわけ重要じゅうようなステータスだったということを指摘してきしている。

直近ちょっきん研究けんきゅう

[編集へんしゅう]

こうした文化ぶんかてき視点してんれて画期的かっきてき研究けんきゅうあらわれた。

2000ねんには『ヴィクトリア国家こっか解明かいめい:階級かいきゅう人種じんしゅジェンダーと1867ねん改正かいせいほうという著作ちょさく登場とうじょうした。著者ちょしゃ一人ひとりケイス・マックルランドは、選挙せんきょほう改正かいせいにおいて労働ろうどうしゃの「資質ししつ」が議論ぎろんされたてん注目ちゅうもくし、ジェンダーろんもとづくあたらしいアプローチを導入どうにゅうした。そして、この時代じだい有権者ゆうけんしゃ資格しかくにいかなる意味いみがあるのかをろんじ、選挙せんきょけん拡大かくだい労働ろうどうしゃ階級かいきゅう経済けいざいてき実力じつりょく政治せいじてき貢献こうけんだけではなく、男性だんせい労働ろうどうしゃの「市民しみんとしての資質ししつ」が吟味ぎんみされたことを強調きょうちょうしている。このように、マックルランドによる研究けんきゅうは、1860年代ねんだい男性だんせい労働ろうどうしゃシティズンシップがもつ文化ぶんかてき側面そくめん重要じゅうようせいしめし、だい選挙せんきょほう改正かいせい研究けんきゅうあたらしい着眼ちゃくがんてんをもたらした。

改革かいかく直接的ちょくせつてき要因よういん研究けんきゅう論争ろんそうくとして、選挙せんきょけん拡大かくだい労働ろうどうしゃ如何いかとらえてていたかを考察こうさつすることも重要じゅうようであろう。直近ちょっきんにおいてもこのてんかんする研究けんきゅうられる。

改革かいかく連盟れんめいハイドパーク集会しゅうかいする権利けんり争点そうてんに、実際じっさい権利けんり侵害しんがいされる実例じつれい具体ぐたいてきしめされることで運動うんどう維持いじされていたが、これは運動うんどう精神せいしんめんでも同様どうようであって、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ権利けんりかんは「人権じんけん」や「民主みんしゅ主義しゅぎ」のような抽象ちゅうしょうてき理論りろんからではなく、熟練じゅくれん労働ろうどうしゃおおくが実際じっさい会員かいいんだった「合同ごうどう組合くみあい」のメンバーシップやハイドパークにおける集会しゅうかい自由じゆうなどの具体ぐたいてきなヴィジュアルを下敷したじきにしながらつくされたものであることが指摘してきされている。そこから改革かいかく連盟れんめい運動うんどうというものは、チャーティズムやマルクス主義まるくすしゅぎ問題もんだい解決かいけつもとめないで労働ろうどう組合くみあいイデオロギー思想しそうとして選挙せんきょほう改正かいせいこころみたが、これは労働ろうどうしゃ階級かいきゅう台頭たいとうによって登場とうじょうした当時とうじ最先端さいせんたんの「合同ごうどう組合くみあい主義しゅぎ」と旧来きゅうらい秩序ちつじょ象徴しょうちょうであった「議会ぎかい政治せいじ」との結合けつごうさせる、いわば、労働ろうどう組合くみあいアナロジー」というべき論理ろんりによって労働ろうどうしゃ立身りっしんかな社会しゃかいこころざしたものと解釈かいしゃくされている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 巻末かんまつ付録ふろくのグラフによると、1850年代ねんだい、グレート・ブリテンはいちじるしい経済けいざい成長せいちょう達成たっせいしていることがわかる。この期間きかんにおける好景気こうけいきは、賃金ちんぎん上昇じょうしょうをもたらした。失業しつぎょうりつは、1858ねん、1864ねん、1866・67ねんさんかいにわたって上昇じょうしょうしたが、まもなく雇用こよう回復かいふくしている。労働ろうどうしゃ階級かいきゅうおおいに関係かんけいしている賃金ちんぎん価格かかく雇用こようじょうきょうなどは堅調けんちょう推移すいいしていることがわかる[2]
  2. ^ アップルガースは勤勉きんべん厳格げんかく質実しつじつにして品位ひんいあるリスペクタブルな熟練じゅくれん労働ろうどうしゃ見本みほんであった[26]かれはかなりの長生ながいきでたたかえあいだまでき、その晩年ばんねんにはブライトン郊外こうがい邸宅ていたくれっきとした地主じぬしとなっていた[27]
  3. ^ J.S.ミルは『代議だいぎせい統治とうちろん』を執筆しっぴつしてイギリスの議会ぎかい政治せいじ特性とくせい世界せかい紹介しょうかいしたほか、『女性じょせい解放かいほう』を執筆しっぴつし、せいにかかわらず市民しみんけん設定せっていすべきだとかんがえて女性じょせい解放かいほう思想しそう提唱ていしょうした。また、1867ねんには婦人ふじん参政さんせいけん法案ほうあん作成さくせいし、庶民しょみんいん法案ほうあん提出ていしゅつした。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ はまりん(2009) pp.145-146
  2. ^ G.D.H.コール 1953 巻末かんまつ付録ふろくⅰ-ⅱ
  3. ^ 竜田たつた(2010) pp.102(3)-101(4)
  4. ^ Burgess, K. The Origins of British Industrial Relations: The Nineteenth Century Experience. (London, 1975) pp.109-113
  5. ^ 飯田いいだかなえ(1996) p.58
  6. ^ はまりん(2009) pp.121-123
  7. ^ 竜田たつた(2010) p.101(4)
  8. ^ はまりん(2009) pp.101-104
  9. ^ 竜田たつた(2010) pp.100(5)-99(6)
  10. ^ 竜田たつた(2010) p.101(4), pp.82(23)-81(24)
  11. ^ a b ブリッグズ(1988) pp.250-251
  12. ^ しん(2007) p.228
  13. ^ ロイデン・ハリソンちょ 田口たぐち富久ふく わけ 『近代きんだいイギリス政治せいじ労働ろうどう運動うんどう)』未来社みらいしゃ 1972ねん だいいちしょう「イギリス労働ろうどうしゃとアメリカ奴隷どれいせい参照さんしょう
  14. ^ しん(2007) p.15
  15. ^ 竜田たつた(2010) p.100(5)
  16. ^ 竜田たつた(2010) p.99(6)
  17. ^ Cole,G.D.H. & Filson,A.W. British Working Class Movements : Select Documents, 1789-1875. 1951. p.524.
  18. ^ はまりん(2009) p.119
  19. ^ 竜田たつた(2010) pp.99(6)-98(7)
  20. ^ a b 竜田たつた(2010) p.98(7)
  21. ^ はまりん(2009) p.110
  22. ^ はまりん(2009) p.125
  23. ^ ブリッグズ(1988) p.235
  24. ^ 飯田いいだかなえ(1996) pp.107-108
  25. ^ ブリッグズ(1988) p.230
  26. ^ ブリッグズ(1988) p.223
  27. ^ ブリッグズ(1988) p.229
  28. ^ ブリッグズ(1988) p.233, p.246
  29. ^ 飯田いいだかなえ(1996) pp.112-113
  30. ^ J.S.ミル 1997 pp.155-156, p.219
  31. ^ ブリッグズ(1988) p.251
  32. ^ a b c 竜田たつた(2010) p.97(8)
  33. ^ J.S.ミル 1997 pp.168-169
  34. ^ ロイデン・ハリソン 1972 pp.91-92
  35. ^ 吉瀬よしせ(1991) pp.183-184
  36. ^ 吉瀬よしせ(1991) p.185
  37. ^ 吉瀬よしせ(1991) p.294
  38. ^ 吉瀬よしせ(1991) p.295
  39. ^ ロバート・ブレイク 1992 pp.511-516
  40. ^ ロバート・ブレイク 1992 pp.518-520
  41. ^ a b 竜田たつた(2010) p.96(9)
  42. ^ 竜田たつた(2010) pp.96(9)-95(10)
  43. ^ 竜田たつた(2010) p.95(10)
  44. ^ ブリッグズ(1988) pp.254-255
  45. ^ ブリッグズ(1988) p.347
  46. ^ ロバート・ブレイク 1992 p.525
  47. ^ 吉瀬よしせ(1991) pp.196-197
  48. ^ a b c 竜田たつた(2010) pp.94(11)-92(13)
  49. ^ 吉瀬よしせ(1991) p.141, pp.268-270, pp.335-338
  50. ^ 吉瀬よしせ(1991) p.197
  51. ^ ロバート・ブレイク 1992 p.538
  52. ^ 吉瀬よしせ(1991) p.198
  53. ^ 吉瀬よしせ(1991) pp.199-200
  54. ^ 竜田たつた(2010) p.91(14)
  55. ^ ロバート・ブレイク 1992 pp.543-544
  56. ^ 吉瀬よしせ(1991) pp.202-203
  57. ^ 竜田たつた(2010) pp.91(14)-90(15)
  58. ^ a b c d 竜田たつた(2010) p.90(15)
  59. ^ ロイデン・ハリソン 1972 p.99
  60. ^ ブリッグズ(1988) p.252
  61. ^ a b c 竜田たつた(2010) p.79(26)
  62. ^ しん(2007) p.22
  63. ^ ブリッグズ(1988) pp.235-246
  64. ^ はまりん(2009) pp.137-138
  65. ^ しん(2007) pp.26-27, p.37
  66. ^ 竜田たつた(2010) pp.89(16)-88(17)
  67. ^ しん(2007) pp.35-36
  68. ^ 吉瀬よしせ(1991) pp.203-204
  69. ^ 竜田たつた(2010) pp.88(17)-87(18)
  70. ^ ロバート・ブレイク 1992 pp.551-552
  71. ^ しん(2007) pp.74-75
  72. ^ はまりん(2009) p.146

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

邦語ほうご文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外国がいこく文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • Bell.,A.D. 英語えいご: The Administration and Finance of Reform League, International Review of Social History, Vol.5, 1965.
  • Breuilly, John; Niedhart, Gottfried; Taylor, Antony (ed.). 英語えいご: The Era of the Reform League : English Labour and Radical Politics 1857-1872; Documents Selected by Gustav Mayer (Mannheimer historische Forschungen, 8). Mannheim: Palatium, 1995.
  • Cowling.,M. 英語えいご: 1867; Disraeli, Gladstone, and Revolution : The Passing of The Second Reform Bill. (Cambridge 1967)
  • Leventhal, Fred Marc. 英語えいご: Respectable Radical : George Howell and Victorian Working Class Politics. (London, 1971)
  • Hall, Catherine; McClelland, Keith; Rendall, Jane. 英語えいご: Defining the Victorian Nation : Class, Race, Gender and the British Reform Act of 1867. Cambridge, 2000.
  • Smith.,F.B. 英語えいご: The Making of the Second Reform Bill. (Cambridge 1966)
  • Richter, Donald C. 英語えいご: Riotous Victorians. (Ohio, 1981)
  • Robert Saunders (ed.). 英語えいご: Shooting Niagara – And After? The Second Reform Act And Its World (Parliamentary History Book Series) 2017.