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杉浦すぎうらしげる

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杉浦すぎうら しげる
本名ほんみょう 杉浦すぎうら しげる
生誕せいたん 1908ねん4がつ3にち
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう湯島ゆしま新花しんはなまちげん東京とうきょう文京ぶんきょう湯島ゆしま 2丁目ちょうめ
死没しぼつ (2000-04-23) 2000ねん4がつ23にち(92さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
職業しょくぎょう 漫画まんが
活動かつどう期間きかん 1932ねん - 1996ねん
ジャンル 子供こども漫画まんが
ギャグ漫画まんが
代表だいひょうさく 猿飛佐助さるとびさすけ
受賞じゅしょう 1989ねん - だい29かい児童じどう文化ぶんか功労こうろうしゃ
公式こうしきサイト 杉浦すぎうらしげる記念きねんさい 公式こうしきウェブサイト 日本語にほんご
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杉浦すぎうら しげる(すぎうら しげる、1908ねん4がつ3にち[注釈ちゅうしゃく 1][1] - 2000ねん4がつ23にち)は、日本にっぽん漫画まんがである。東京とうきょう東京とうきょう本郷ほんごう湯島ゆしま新花しんはなまち現在げんざい東京とうきょう文京ぶんきょう湯島ゆしま丁目ちょうめまれ。戦前せんぜんはユーモア漫画まんが教育きょういく漫画まんがおおえがいたが、戦後せんご手掛てがけたおおくの独特どくとくでナンセンスなギャグ漫画まんが熱狂ねっきょうてき人気にんきび、88さいまで執筆しっぴつ活動かつどうつづけた。初期しょき筆名ひつめい杉浦すぎうらシゲルがある。

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

杉浦すぎうら創作そうさく活動かつどうは3けられる[2]戦前せんぜんだい1ではユーモア漫画まんが教育きょういく漫画まんがを、徴兵ちょうへいはさんで終戦しゅうせん翌年よくねんからのだい2では、一転いってんしてナンセンスな子供こども漫画まんがおお手掛てがけた。この時期じきのうち、1953ねんから1958ねんまでは、その殺人さつじんてき仕事しごとりょうと、おおくの代表だいひょうさくされたことから「杉浦すぎうらしげる黄金おうごん」とされ、「奇跡きせきの5年間ねんかん」ともあらわされる[3]。その仕事しごと休止きゅうしはさんで1968ねんからのだいさんでは、シュールレアリスムをおもわせる奔放ほんぽう漫画まんがえがき、サブカルチャーブームにもってイラスト仕事しごとおこなった。

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1908ねん明治めいじ41ねん)、東京とうきょう本郷ほんごう湯島ゆじま開業医かいぎょうい三男さんなんとしてまれる。湯島ゆしま尋常じんじょう小学校しょうがっこういま文京ぶんきょう区立くりつ湯島ゆじま小学校しょうがっこう時代じだい友人ゆうじんめぐまれ、押川おしかわ春浪しゅんろうから田山たやま花袋かたい上田うえだ秋成あきなりなどの多様たよう小説しょうせつや、『猿飛佐助さるとびさすけ』をはじめとする立川たちかわ文庫ぶんこ立川たちかわ文明ふみあきどうかん)などで講談こうだん趣味しゅみおそわった。また、週末しゅうまつには本郷ほんごうだい五福ごふくたからかんや、ながじてからは新宿しんじゅく武蔵野むさしのかんなどの映画えいがかんかよい、アメリカせい喜劇きげきぶつ西部せいぶげきなどをたびたび鑑賞かんしょうした。20さいごろからはあに定期ていき購読こうどくしていた『しん青年せいねん』(博文ひろぶみかん発行はっこう)にもしたしみ[4]、これらの文物ぶんぶつこう漫画まんが創作そうさく下地したじとなった[5]

いくぶんかん中学校ちゅうがっこう旧制きゅうせい現在げんざいいくぶんかん中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう時代じだい[6][7]当時とうじ人気にんき漫画まんが北沢きたざわ楽天らくてんとその一門いちもん影響えいきょうされ、はじめての漫画まんがポンチ絵ぽんちえ)をえがく。餠を題材だいざいにしたよんページほどのこの滑稽こっけいなコマ漫画まんがは、漫画まんが人生じんせい原点げんてんになった[8]。しかし、その継続けいぞくして漫画まんがえがいていたわけではなく、杉浦すぎうらによると、漫画まんがになるまでは漫画まんがへの興味きょうみ知識ちしきとくかったという[9]父親ちちおや杉浦すぎうら眼科がんかにさせたかったが[10]杉浦すぎうらゆめはプロの西洋せいよう画家がかになることであった。中学ちゅうがく時代じだい上級生じょうきゅうせいからおしえられた藤田ふじた嗣治つぐじあこが[11]、また、趣味しゅみ日本にっぽんえがいていたちち文展ぶんてん文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかいみかどてん日展にってん)にかようことで、そのおもいをつのらせた[6]

1924ねん大正たいしょう13ねん)、ちちが、過労かろうによって当時とうじ流行りゅうこうしていた嗜眠しみんせい脳炎のうえんねむびょう)をわずら急死きゅうし[12]二人ふたりあに学校がっこう進学しんがくしたこともあって家計かけい悪化あっかし、杉浦すぎうら美術びじゅつ学校がっこう芸大げいだい)への進学しんがくみちたれる。その医者いしゃになったあに金銭きんせん援助えんじょ[13]、1926ねんから1930ねんまで太平洋たいへいよう画会がかい研究所けんきゅうじょ[注釈ちゅうしゃく 2]入所にゅうしょ西洋せいよう制作せいさくむ。人物じんぶつのモデルをやとうにはかねがかかるいうこともあり、杉浦すぎうらは、このんで西洋せいよう建築けんちくのある風景ふうけいえがいた[注釈ちゅうしゃく 3][14]外出がいしゅつして写生しゃせいをしているうちに、野獣やじゅう長谷川はせがわ利行としゆき横山よこやまじゅんこれすけうことにもなった[15]。また、研究所けんきゅうじょとはべつに1927ねん昭和しょうわ2ねん)から1931ねん昭和しょうわ6ねん)まで洋画ようが高橋たかはし虎之助とらのすけにも師事しじ。1930ねんには、日展にってん日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい)の前身ぜんしんであるだい11かいみかどてん帝国ていこく美術びじゅつ展覧てんらんかい洋画ようがに、油彩ゆさい(50ごう)の風景ふうけいなつみかどだい』で入選にゅうせんしている[注釈ちゅうしゃく 4]

漫画まんがへ(だいいち[編集へんしゅう]

すべての生活せいかつかてにんあにたよっていた杉浦すぎうらは、一念いちねん発起ほっきして洋画ようがとはべつみち目指めざすことにする。知人ちじんからかわ水泡すいほうへの紹介しょうかいじょうをもらい、その3カ月かげつ勝手かってわからない漫画まんがみち目指めざすかどうかなやんだすえ、1932ねん昭和しょうわ7ねん)4がつ1にち小石川こいしかわ高級こうきゅうアパート・久世くせさんハウスをたずね、かわ門下もんかとなった。かわはこのとき、すでに『のらくろ』によりれっ作家さっかとなっており、杉浦すぎうらもその名前なまえっていた[注釈ちゅうしゃく 5]入門にゅうもん数日すうじつには、山梨やまなしから上京じょうきょうしてきた倉金くらかね虎雄とらお倉金くらかね章介しょうすけ)も門下もんかになり、それまで弟子でしがいなかったかわに、二人ふたり門下生もんかせいができた[注釈ちゅうしゃく 6]かわつま高見澤たかみざわ潤子じゅんこによれば、「弟子でしえば、杉浦すぎうらしげる一番いちばん弟子でしであり、荻窪おぎくぼいえへはときどきたずねてて、倉金くらかね章介しょうすけやそのわかひとたちと、よくいっしょにあつまっていたが、そのは、あまりなくなった。」という[16]。ただし、杉浦すぎうら戦後せんごの1947ねんにも、そのころ荻窪おぎくぼにあったかわいえおとずれており、親交しんこうまった途絶とだえたわけではなかった[17]

かわは「制作せいさく環境かんきょうせっしていれば漫画まんが自然しぜんわかるものだ」というかんがえから、指導しどうとくおこなわなかった[18][19]杉浦すぎうらは、倉金くらかねとともに原稿げんこうのベタりなどを手伝てつだいつつ、東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん(1932ねん12月18にちづけ)にいちまいものの『どうもちかごろ物騒ぶっそうでいけねえ』を執筆しっぴつ、デビューをたす[20]。そのもいくつかのたん中篇ちゅうへん作品さくひん少年しょうねん掲載けいさいされた。しかし、杉浦すぎうらはネタの引出ひきだしがすくなく、苦肉くにくさくとしてべつ雑誌ざっしおなじネタを使つかまわすこともあり[21]、この傾向けいこうはそのつづいた[22]。また、戦前せんぜん作品さくひんからは、描線や登場とうじょう人物じんぶつ表情ひょうじょう横井よこい福次郎ふくじろう影響えいきょう見受みうけられる[23]杉浦すぎうらもとには、洋画ようが岩月いわつきしんきよし栗原くりはらしん門下もんか)と日本にっぽん画家がか加藤かとう宗男むねおけん山南さんなんふう門下もんか)というおなどし2人ふたり親友しんゆうがアシスタントにはいった[注釈ちゅうしゃく 7][24]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)には、いえから独立どくりつ杉並すぎなみ高円寺こうえんじのアパートにうつんだのち、よく1934ねん音羽おとわ小石川こいしかわアパートへし、どうアパートにんでいた挿絵さしえ画家がか霜野しもの二一彦ふいひこ漫画まんが広瀬ひろせしんたいら親交しんこうる。その、1936ねんには本郷ほんごう本郷ほんごう森川もりかわまちにある徳田とくた秋声しゅうせい経営けいえいするハウスへうつった。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、かわ顧問こもん昭和しょうわ漫画まんがかい結成けっせいされ、杉浦すぎうらもその一員いちいんとなる。このころより、軍役ぐんえき召集しょうしゅうはじまり、漫画まんがにも令状れいじょうとどくようになったため、その5月よりかわ創刊そうかんした『小学しょうがく漫画まんが新聞しんぶん[注釈ちゅうしゃく 8]は、発行はっこう停止ていし余儀よぎなくされる。また、国家こっか統制とうせいかかわ漫画まんが団体だんたいとして、1939ねん宮尾みやおしげを会長かいちょう日本にっぽん児童じどう漫画まんが協会きょうかい結成けっせいされ、昭和しょうわ漫画まんが会同かいどうじん全員ぜんいんとともに杉浦すぎうら参加さんか。こののちも、1940ねんしん日本にっぽん漫画まんが協会きょうかい、1942ねん少年しょうねん文学ぶんがく作家さっか画家がか協会きょうかい発足ほっそくし、1943ねんには、しん日本にっぽん漫画まんが協会きょうかい発展はってん解消かいしょう大政たいせい翼賛よくさんかい肝煎きもいり日本にっぽんぜん漫画まんが入会にゅうかいした日本にっぽん漫画まんが奉公ほうこうかい会長かいちょう北沢きたざわ楽天らくてん[25]結成けっせいされ、杉浦すぎうらもそれらに参加さんかした。

戦争せんそう激化げきかするにつれ、政府せいふ企業きぎょうへの統制とうせいつよめた。出版しゅっぱんしゃ統廃合とうはいごうされ、雑誌ざっしかず減少げんしょう[注釈ちゅうしゃく 9][26]雑誌ざっし仕事しごと[注釈ちゅうしゃく 10]くなるにつれ、おおくの漫画まんが発表はっぴょう単行本たんこうぼんうつした。杉浦すぎうらも1941ねん昭和しょうわ16ねん)にはじめての単行本たんこうぼん『ゲンキナコグマ』を国華こっかどう書店しょてんより出版しゅっぱん。その啓蒙けいもうてき教育きょういく作品さくひん制作せいさくし、単行本たんこうぼんでの発表はっぴょうつづけた。戦前せんぜん杉浦すぎうらは、おも国華こっかどう書店しょてんから10さつの描ろし単行たんこうほん出版しゅっぱんした。

1943ねん昭和しょうわ18ねん)に結婚けっこんし、横浜よこはま港北こうほく妙蓮寺みょうれんじから江戸川えどがわ小岩こいわまちうつむ。しかし、結婚けっこん披露宴ひろうえん費用ひよう貯金ちょきんついやし[27]単行本たんこうぼん仕事しごとくなり[注釈ちゅうしゃく 11]漫画まんが生活せいかつあきらめる寸前すんぜんにまでおちいってしまう。前年ぜんねんした『コドモ南海なんかい』(国華こっかどう書店しょてん)の印税いんぜいたよりで、仕事しごとつくえ本棚ほんだな結婚けっこんいわいの柱時計はしらどけい古道具ふるどうぐってしまうほどだった[28][29]。そんなとき電車でんしゃないで、通勤つうきん途中とちゅうであった旧友きゅうゆう漫画まんが岡田おかだあきら倉金くらかね同郷どうきょう親友しんゆう)と偶然ぐうぜん出会であい、そのままつとさきである映画えいが会社かいしゃ茂原しげはら映画えいが研究所けんきゅうじょ同行どうこうし、就職しゅうしょくさせてもらう[注釈ちゅうしゃく 12]杉浦すぎうらのちに、仕事しごとこまっていた旧知きゅうち漫画まんが帷子かたびらすすむもここではたらいた。杉浦すぎうらぐん関連かんれん教材きょうざい映画えいがセル仕事しごと担当たんとうした[30]

元来がんらい病弱びょうじゃく杉浦すぎうらは、徴兵ちょうへい検査けんさへいしゅとされていたたが、1945ねん昭和しょうわ20ねん)7がつ召集しょうしゅうけ、世田谷せたがや砲兵ほうへい連隊れんたい入隊にゅうたい熊本くまもとけん派兵はへいされる。アメリカぐん有明海ありあけかい上陸じょうりくそなえ、玉名たまなぐん梅林うめばやしむら梅林ばいりん国民こくみん学校がっこう[注釈ちゅうしゃく 13]駐屯ちゅうとんし、くびからるした火薬かやくばこ両手りょうてかかえて人間にんげんばくだんとして突撃とつげきするための訓練くんれんなどをけたが[31]きゅう環境かんきょう変化へんか[32]栄養失調えいようしっちょう[33]により下痢げりこし、はん病人びょうにんとなった。

戦後せんご黄金おうごんだい[編集へんしゅう]

終戦しゅうせん杉浦すぎうらは1945ねん昭和しょうわ20ねん)9がつまつ復員ふくいんしたが、翌年よくねんまで漫画まんが仕事しごとく、食料しょくりょうさつまいも)の確保かくほれる。戦中せんちゅうつとさきであった茂原しげはら映画えいが研究所けんきゅうじょは、日本にっぽん映画えいがしゃうつ)に吸収きゅうしゅうされてアニメ映画えいがせんもん会社かいしゃとなり、のち漫画まんがとなる福井ふくい英一ひでかずえたものの、杉浦すぎうら同僚どうりょう帷子かたびらはアニメ映画えいが大嫌だいきらいだったことから、とも会社かいしゃめることになる[34]

1946ねん昭和しょうわ21ねん)、杉浦すぎうらは、帷子かたびらたく出版しゅっぱんしゃ新生しんせいかく社長しゃちょう鈴木すずき省三しょうぞう紹介しょうかいされる[33]小学館しょうがくかん出身しゅっしん鈴木すずきは、新生しんせいかく当時とうじだい流行りゅうこうしていたこども漫画まんが注力ちゅうりょくしていた。杉浦すぎうらは、単行本たんこうぼん冒険ぼうけんベンちゃん』をえがろし、これが戦後せんごはつ漫画まんが仕事しごととなった。その新生しんせいかくでは西部せいぶげき中心ちゅうしん執筆しっぴつし、同社どうしゃ発行はっこうの『少年しょうねん少女しょうじょ漫画まんが読物よみもの』には『冒険ぼうけんベンちゃん』や『弾丸だんがんトミー』、『コッペパンタロー』(のちに『ピストルボーイ』に改題かいだい)を連載れんさいした。

鈴木すずきは、経営けいえい不振ふしん責任せきにんって新生しんせいかく社長しゃちょう辞任じにん、1953ねん小学館しょうがくかん出版しゅっぱん部長ぶちょう復帰ふっきし、おな一ツ橋ひとつばしグループ集英社しゅうえいしゃ出版しゅっぱん部長ぶちょう兼任けんにん集英社しゅうえいしゃで『おもしろ漫画まんが文庫ぶんこ』を創刊そうかんした。杉浦すぎうら代表だいひょうさくとなる『猿飛佐助さるとびさすけ』は、その21かんとしてえがかれた。どうさくは12まん4せんられ、どう文庫ぶんこなか一番いちばん売上うりあげ記録きろく[35]。このだい好評こうひょうけ、『猿飛佐助さるとびさすけ』は雑誌ざっしおもしろブック』(集英社しゅうえいしゃ)に連載れんさいとなる(1954ねん3がつ - 1955ねん12がつ[注釈ちゅうしゃく 14]。また、これをきっかけに杉浦すぎうら仕事しごと大幅おおはばえ、1958ねんまでの 5年間ねんかんあいだ(46さい - 50さい)に、代表だいひょうさくとなる様々さまざま長編ちょうへん漫画まんがされた[3]忍術にんじゅつぶつの『猿飛佐助さるとびさすけ』、『少年しょうねん児雷也じらいや』、完全かんぜんオリジナルの『ドロンちびまる』。西部せいぶげきでは、背景はいけいえがかたとうにアメコミの影響えいきょう見受みうけられる『弾丸だんがんトミー』[36]、『ピストルボーイ』、SFぶつの『かいぼしガイガー』(改題かいだい改稿かいこうして『0にんあいだ』)などである。また、コミカライズ作品さくひんでは『モヒカンぞく最後さいご[注釈ちゅうしゃく 15]、『ゴジラ』[注釈ちゅうしゃく 16]、『だいあばれゴジラ』[注釈ちゅうしゃく 17]がある。この時期じき作品さくひんテーマは、冒険ぼうけんぶつ(1950ねんまで)から西部せいぶげき(1953ねんまで)にうつり、さらに時代物じだいものへとわっていったが、それぞれの作品さくひんに、戦前せんぜん小説しょうせつ映画えいがさかんに経験けいけんかされている[37]。1958ねんには、集英社しゅうえいしゃから、描ろし作品さくひん杉浦すぎうらしげる傑作けっさく漫画まんが全集ぜんしゅう』がぜん 8かん刊行かんこうされた。しかし、対応たいおうしきれないほどの仕事しごと殺到さっとうし、ひるよる仕事しごとをしつづけた杉浦すぎうら体調たいちょうくずしてしまう。1959ねんというとしは『週刊しゅうかん少年しょうねんサンデー』(小学館しょうがくかん)と『週刊しゅうかん少年しょうねんマガジン』(講談社こうだんしゃ)のふたつの漫画まんが創刊そうかんされ、有力ゆうりょく漫画まんが仕事しごと月刊げっかんから週刊しゅうかん移行いこうしていった時期じきだが、杉浦すぎうらは、とてもやりきれないと週刊しゅうかん依頼いらいっている[38][39]

この子供こども漫画まんが中心ちゅうしんとしただい 2活動かつどうは1966ねん昭和しょうわ41ねん[注釈ちゅうしゃく 18]までつづいた。

だいさん以降いこう[編集へんしゅう]

1960年代ねんだい以降いこうは、ストーリー漫画まんが主流しゅりゅうとなり、子供こども漫画まんがせんもん杉浦すぎうら苦戦くせんするようになる。れぬおこない、時流じりゅうよう大人おとな漫画まんがえがいた[40]

1968ねん杉浦すぎうら60さい)から漫画まんが仕事しごと再開さいかい(だい3)。この時期じきは「とにかく漫画まんが面白おもしろさが大切たいせつ」というかんがえから、さらに作風さくふう奔放ほんぽうになり、アートのような、シュールレアリスティックでサイケデリックな作品さくひんおお手掛てがけた。また、1969ねんむしコミックスむしプロ商事しょうじ)での『猿飛佐助さるとびさすけ』のさい単行本たんこうぼん以降いこう自身じしん過去かこ作品さくひんをよりはちゃめちゃに改稿かいこうするようになるが、このことにたいする読者どくしゃから抗議こうぎ投書とうしょたことにより、改稿かいこうをやめている[41]

70さいはいってからも精力せいりょくてき活動かつどうつづけた。名作めいさく杉浦すぎうらりゅう改変かいへんした『日本にっぽん名作めいさく劇場げきじょう』を『太陽たいよう (平凡社へいぼんしゃ)』(1980ねん1がつごう - 1981ねん6がつごう)に執筆しっぴつ単行本たんこうぼん『まんが聊斎こころざしこと』(上巻じょうかん 1989年刊ねんかんちゅうまき 1990年刊ねんかん)をえがろす。また、1980年代ねんだいから、杉浦すぎうらのナンセンスでシュールな作風さくふうがサブカルチャーの興隆こうりゅうともさい評価ひょうかされると、1989ねんだい29かい児童じどう文化ぶんか功労こうろうしゃ選出せんしゅつされた。さらに、杉浦すぎうら作品さくひんしゅうなんまれている[注釈ちゅうしゃく 19]。また、このほかにイラストの仕事しごと手掛てがけている。森永製菓もりながせいか「ぼうチョコ」のパッケージイラストや[42]有楽町ゆうらくちょう西武せいぶ開店かいてん宣伝せんでんするポスターと、CM のキャラクターのデザイン(1984ねん)、ソニー日立ひたち横浜よこはまドリームランドニコン[43]へのイラスト提供ていきょう[44]筒井つつい康隆やすたか『おたすけ・さん丁目ちょうめ戦争せんそうです』かねほししゃ(1986ねん)と、糸井いといしげるさとわたしうそきらいだ』ちくま文庫ぶんこ(1993ねん)の挿絵さしえなどである。

1996ねん平成へいせい8ねん)、88さいになった杉浦すぎうらは『杉浦すぎうらしげるマンガかんだい5かんのために「2901ねん宇宙うちゅうたび[注釈ちゅうしゃく 20]を描ろし、64ねんおよんだながなが画業がぎょうえた[注釈ちゅうしゃく 21]

1999ねん平成へいせい11ねん)、杉浦すぎうら交通こうつう事故じここしほねってたきりになり、その椅子いすすわれるほどには回復かいふくしたものの、2000ねん平成へいせい12ねん)4がつ23にち入院にゅういんさき病院びょういん腹膜炎ふくまくえんにより死去しきょした[45]。92さいだった。

死後しご[編集へんしゅう]

杉浦すぎうら原稿げんこう散逸さんいつがひどく[46]死後しご作品さくひん発掘はっくつすすめられている。2007ねんから中野なかの書店しょてんのものと同名どうめいの『杉浦すぎうらしげる傑作けっさく選集せんしゅう』があおりん工藝こうげいしゃより刊行かんこうされ、これまでに収録しゅうろくだった改稿かいこうばん単行本たんこうぼんされた。2013ねんには、1958ねん刊行かんこうされた『杉浦すぎうらしげる傑作けっさく漫画まんが全集ぜんしゅう』(集英社しゅうえいしゃぜん8かんうち、 4かん(2, 5, 6, 7)がえらばれ、BOXり『杉浦すぎうらしげる傑作けっさく漫画まんが選集せんしゅう 0にんあいだ』として小学館しょうがくかんクリエイティブから刊行かんこうされた。また、2002ねんに、東京とうきょう三鷹みたか三鷹みたか美術びじゅつギャラリーにて「杉浦すぎうらしげる - なんじゃらほい - の世界せかいてん」、2009ねんに、京都きょうと中京ちゅうきょう京都きょうと国際こくさいマンガミュージアムで「冒険ぼうけん奇想きそう漫画まんが杉浦すぎうらしげる101ねんさいてん、2012ねんには、東京とうきょう江東こうとう森下もりした文化ぶんかセンターかわ水泡すいほう・のらくろかんおな建物たてもの)で「びっくりどんぐり奇想天外きそうてんがい 杉浦すぎうらしげるのとと? てん」と、画業がぎょう紹介しょうかいする展覧てんらんかい開催かいさいされた。四方田よもだいぬは、著書ちょしょ日本にっぽん漫画まんがへの感謝かんしゃ』(潮出版社うしおしゅっぱんしゃ、2013ねん)のなかで、杉浦すぎうらしげる最初さいしょげている[47]

作風さくふう評価ひょうか[編集へんしゅう]

杉浦すぎうら作品さくひんは、その独自どくじしょくつよ強烈きょうれつ作風さくふうから漫画まんが歴史れきしではかたりづらく異端いたんである[48]どう時代じだい活躍かつやくした手塚てづか治虫おさむも、戦前せんぜんから杉浦すぎうらのことをユニークな作品さくひんえが漫画まんがとして注目ちゅうもくしていたが「かわ水泡すいほう門下もんかとはつゆらず、倉金くらかね良行よしゆき章介しょうすけ)さんとは一線いっせんかくした独立独歩どくりつどっぽ作家さっかだとおもっていた」とかたっている[49]智英ともひでは、杉浦すぎうら作品さくひんを「戦後せんご復興ふっこうから高度こうど成長せいちょう開始かいしという現代げんだいマンガ成立せいりつでも特筆とくひつすべき存在そんざい」とし、全盛期ぜんせいき1950年代ねんだいでさえ、様式ようしきてきでないギャグやちょう現実げんじつてきもの横溢おういつする作風さくふう異質いしつであり、時代じだい先取さきどりするものであったとひょうする[50]米沢よねざわ嘉博よしひろは、杉浦すぎうらしげる世界せかいを「メタモルフォセスと奇人きじん変人へんじんものにあふれかえった、マンガゆえのでたらめで自由じゆう世界せかい」と表現ひょうげんした[51]山口やまぐち昌男まさお杉浦すぎうらを「へたうまのはしり」としており、杉浦すぎうら影響えいきょうけた映画えいが歌舞伎かぶきなどの世界せかいがコラージュの技法ぎほう使つかって、時間じかん空間くうかん論理ろんり制約せいやくけず、登場とうじょう人物じんぶつ飛躍ひやくするようを「カーニバルのそれにちかいイメージの祝祭しゅくさい空間くうかん」とひょうしている[52]

杉浦すぎうら作品さくひん大胆だいたんすじはこびは、杉浦すぎうら漫画まんがたいする独特どくとく姿勢しせいおおきく影響えいきょうしている。普通ふつうは、構想こうそうをまとめたのちにネームや下書したがきなどをてペンれにいたるが、杉浦すぎうらあたまなかで、大体だいたい構想こうそうをまとめたのち下書したがきをせずに一発いっぱつでペンをれ、執筆しっぴつ途中とちゅうでも「こちらのほう面白おもしろい」とおもいたったらはなしすじげるようなことを頻繁ひんぱんっていた。弟子でし斉藤さいとうによれば、杉浦すぎうらは「ぼくはね、はなしまえとつながってなくてもいいんだよ」とかたっていたという[53]。こうした奔放ほんぽうさは、杉浦すぎうら作品さくひんだいゴマでよくる、物語ものがたりすじ関係かんけいない群衆ぐんしゅうが、主要しゅよう登場とうじょう人物じんぶつ埋没まいぼつさせるほどにてんでバラバラに行動こうどうし、おしゃべりしたりうたったりするおまつさわぎのようなにぎやかさにもあらわれている。また、画家がか時代じだいうでかしたリアル調ちょうでギャグをしたり、デフォルメのとリアルの交互こうごはさんだりする奇抜きばつなセンスもられる[54]。また、杉浦すぎうら作品さくひんかせないもののひとつに、気味きみわる怪物かいぶつがある。カンブリアものさながらのもの[55]や、文化ぶんか時代じだいせいらわれないぶっんだデザインの数々かずかず怪物かいぶつあらわ[56]忍術にんじゅつぶつでは登場とうじょう人物じんぶつ忍者にんじゃたちがそういったものに変化へんか(へんげ)している。

杉浦すぎうら登場とうじょう人物じんぶつづけかた独特どくとくである。代表だいひょうさくの『猿飛佐助さるとびさすけ』をれいにとると、もの由来ゆらいした「うどんこプップのすけ」や「コロッケえんのすけ」、「おおそうじでんじろう」(大河内おおこうち傳次郎でんじろう)や「たんげぜん」(丹下たんげひだりぜん)などのダジャレ、「おもしろかおざえもん」といったなんともえないものなど、独自どくじ言語げんごセンスを発揮はっきした[57][58][59]斉藤さいとうは、杉浦すぎうら読者どくしゃ子供こどもおぼえやすさとしたしみやすさを重視じゅうししてのことだという[60]。こうした言語げんごセンスは登場とうじょう人物じんぶつ台詞回せりふまわしにもあらわれている。たとえば、杉浦すぎうらのプロレスマニアぶりが発揮はっきされた『こぶしけんふとし』や『プロレスのすけ』では、「えーい」と兇器きょうきさないはげしい挌闘かくとう暴力ぼうりょくたおされた相手あいてが、「ぱ」や「パ」、「て」などの一言ひとこと悲鳴ひめいをあげたり、「ふわ」、「ホワッ」、「ふういてえ」などと笑顔えがお断末魔だんまつまをあげたりするところは読者どくしゃ牧歌ぼっかてき印象いんしょうあたえる効果こうかている[61]。また、唐沢からさわ俊一しゅんいち登場とうじょう人物じんぶつがよく本筋ほんすじ関係かんけいなくとりとめもない無駄口むだぐちたたくことを指摘してきし、登場とうじょう人物じんぶつへのづけセンスや台詞回せりふまわしに落語らくごからの影響えいきょう指摘してきしている[62]うたうた群衆ぐんしゅうについて前述ぜんじゅつしたが、主要しゅよう人物じんぶつもよくうたうたっている。『猿飛佐助さるとびさすけ』では真田さなだじゅう勇士ゆうし一人ひとりさんこう青海あおみ入道にゅうどうが、「しらないまーにべちゃった♪」と他人たにんものをテンポよくうたって歌詞かし状況じょうきょう説明せつめいしてつまみいをするギャグを披露ひろうしている[63]

弟子でし[編集へんしゅう]

戦後せんご黄金おうごんだい)、杉浦すぎうらには3にんのアシスタントがいた。戦前せんぜんからつづき、友人ゆうじん加藤かとう宗男むねお杉浦すぎうら手伝てつだっていたが、加藤かとうはそのはやくに逝去せいきょ。この加藤かとう以外いがい2人ふたり杉浦すぎうら弟子でしで、1人ひとり斉藤さいとうあきら、もう1人ひとり藤巻ふじまきさとるろうである。藤巻ふじまきすうねん引退いんたいしたため、なが杉浦すぎうらもとのこったのは斉藤さいとうだけだった[64]戦前せんぜん杉浦すぎうら漫画まんが素人しろうとだったにもかかわらず、師匠ししょうかわから漫画まんがについて直接ちょくせつおそわらなかったが、斉藤さいとうも1954ねん[注釈ちゅうしゃく 22]入門にゅうもん当時とうじ印刷いんさつ工場こうじょう勤務きんむかたわ定時ていじせい高校こうこうかよう10代の少年しょうねんであり、漫画まんがについては高校こうこう新聞しんぶんで1コマ漫画まんがえがいた経験けいけんがある程度ていどだった。斉藤さいとう杉浦すぎうらちかくにんでいることをってしたしみをもち、ファンレターをした。すると、杉浦すぎうらから地図ちずきの返信へんしんとどき、江戸川えどがわ小岩こいわまち自宅じたくまねかれた。訪問ほうもん当日とうじつ杉浦すぎうら談笑だんしょうしたのちきゅう杉浦すぎうらえがきかけの原稿げんこう余白よはくえがくことを指示しじした。このとき斉藤さいとう自分じぶんえがくことをつたえていなかったし、また、漫画まんがきだったものの、漫画まんがになるつもりはまったくなかった。斉藤さいとう本人ほんにん手伝てつだいはこれきりにするつもりだったのだが、また杉浦すぎうらから手伝てつだいの依頼いらいて、ついに入門にゅうもんすることになったという[65]杉浦すぎうら斉藤さいとうは、漫画まんがのアイデアのかたなど漫画まんが制作せいさく根本こんぽんかかわようなことはほぼはなわなかった。ただ、かわがそうだったように、杉浦すぎうら斉藤さいとうには仕事しごと紹介しょうかいした。斉藤さいとうは、ながじて漫画まんが技術ぎじゅつ習得しゅうとくして杉浦すぎうら以外いがいにも高野たかのよしてる手塚てづか治虫おさむ横山よこやま光輝みつてるもとでもアシスタントを経験けいけんし、独立どくりつして「ジャガープロ」を設立せつりつした。その、ジャガープロは赤塚あかつか不二夫ふじおフジオ・プロダクション斉藤さいとうはん」となり、斉藤さいとう赤塚あかつかのアシスタントもつとめたが、漫画まんがのそれと比較ひかくして杉浦すぎうら仕事しごとりの独特どくとくさにおどろいたという[66]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

アメリカ手話しゅわで「I Love You

杉浦すぎうらへの弟子入でしいにフジオ・プロにはいった斉藤さいとうかたるように、赤塚あかつか不二夫ふじお杉浦すぎうらしげるのファンで[67]登場とうじょう人物じんぶつの「レレレのおじさん」の「レレレ」は杉浦すぎうら作品さくひんからている[68]し、それ以外いがいにも「あたいのことさ」とか「いっけねえ」、「いたいのなんのって、もう」とう定番ていばん台詞せりふにも影響えいきょうあたえた[63]。また、杉浦すぎうら作品さくひん登場とうじょう人物じんぶつ頻繁ひんぱんせるのポーズに、ひろげたゆびのうち中指なかゆび薬指くすりゆびげるポーズがあるが(アメリカ手話しゅわの「I Love You」のかたち読者どくしゃかってこうけるかたいらけるかは一定いっていしない)、このポーズは手塚てづか治虫おさむ鉄腕てつわんアトム』や赤塚あかつか不二夫ふじお天才てんさいバカボン』、いしいひさいちののちゃん』でも確認かくにんできる[69][70]。もうひとつ、有名ゆうめいなポーズがあり、うでとつながっていないこぶしあたまくものだが、手塚てづか治虫おさむが『ななしょくいんこ』や『旋風せんぷうZ』(SUGIURA SHIGERU の手書てが註釈ちゅうしゃくあり)などでギャグポーズとして活用かつようしている[49][71]。また、手塚てづかの『おれはさるだ!』は杉浦すぎうらの『猿飛佐助さるとびさすけ』の自己流じこりゅう解釈かいしゃくであるとかたっている[72]

また、漫画まんが日野ひの日出ひのでこころざしみうらじゅんもと秀康ひでやす[73]いしかわじゅんみなもと太郎たろう花輪はなわ和一かずいちタイガー立石たていし[74]など[75]、グラフィックデザイナーの田名網たなあみ敬一けいいち[76]、SF作家さっかかんべむさし横田よこたじゅんわたる[77]、ミュージシャンの細野ほその晴臣はるおみ[78]杉浦すぎうらから影響えいきょうけたことをかたっている。ギャグ漫画まんが唐沢からさわなをきは、杉浦すぎうらへの追悼ついとうあらわし、自作じさくカスミでん』にていちまるまる作風さくふう絵柄えがら杉浦すぎうらせてえがいている。 アニメ監督かんとくみや﨑駿影響えいきょうけた一人ひとりであり、みや﨑によって読売新聞よみうりしんぶんのテレビCMとして、杉浦すぎうら作品さくひんのアニメ企画きかくされ[79][80]、『猿飛佐助さるとびさすけ』、『太閤たいこう』、『はちひゃくはちたぬき』などを原作げんさく[80]駿しゅん長男ちょうなんであるみや﨑吾ろう演出えんしゅつ担当たんとうし、スタジオジブリによって制作せいさくされた[79]。このテレビCMは『ふうせんガムすけ』へんだいされ、2009ねんより放送ほうそうされた[80]

作品さくひん[編集へんしゅう]

漫画まんが[編集へんしゅう]

主要しゅよう作品さくひんのみ掲載けいさいとし、たとえば新聞しんぶん雑誌ざっし掲載けいさい作品さくひん特筆とくひつすべきもの以外いがい割愛かつあいした。杉浦すぎうらしげる杉浦すぎうらしげるマンガかん:2901ねん宇宙うちゅうたびだい5かん巻末かんまつ収録しゅうろくの「杉浦すぎうらしげるぜん作品さくひんリスト」をおも参考さんこうに、ペップ出版しゅっぱん編集へんしゅうへん杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる』』ペップ出版しゅっぱん<杉浦すぎうらしげるワンダーランド>別巻べっかん収録しゅうろく小野寺おのでら正巳まさみへん完璧かんぺき作品さくひんリスト」で補足ほそくして作成さくせいした。

テレビCM[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 著作ちょさくけん台帳だいちょうだいじゅうろくはん日本にっぽん著作ちょさくけん協議きょうぎかい2001ねんによれば3月31にちせい
  2. ^ こういった美術びじゅつ研究所けんきゅうじょは、経済けいざいてき事情じじょう美術びじゅつ学校がっこうけないが画家がかこころざ若者わかものざらになる施設しせつとなっていた。
  3. ^ このころのは1945ねん昭和しょうわ20ねん)の東京とうきょうだい空襲くうしゅうによりけてしまってほとんどのこっていない。
  4. ^ このあに知合しりあいで大阪おおさか病院びょういん経営けいえいする医師いし購入こうにゅうした。「杉浦すぎうらしげるインタビュー」『彷書月刊げっかん』1994ねん3がつごう、pp.5,8.
  5. ^ かわ杉浦すぎうらおなじく芸術げいじゅつ漫画まんがとなった経歴けいれきっており、村山むらやま知義ともよし主催しゅさい芸術げいじゅつ集団しゅうだんMAVO にも参加さんかしていた前衛ぜんえい芸術げいじゅつであった。
  6. ^ さらにのちには長谷川はせがわ町子まちこ同門どうもんくわわる。戦前せんぜん弟子でしはこのさんにんですべて。
  7. ^ 2人ふたり杉浦すぎうら洋画ようがみち目指めざしていたときにってからのなかだった。
  8. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる186ページには『こどもマンガ新聞しんぶん』とある。
  9. ^ 最終さいしゅうてき少年しょうねん少女しょうじょ雑誌ざっしろくだけとなった。『少年しょうねん俱楽』(だい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃげん講談社こうだんしゃ))、『少女しょうじょ俱楽』(どう)、しょう国民こくみんとも』(小学館しょうがくかん)、『とも』(どう、『日本にっぽんのコドモ』(国民こくみん図書としょ刊行かんこうかいげんチャイルド本社ほんしゃ))、『週刊しゅうかんしょう国民こくみん』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ)である。
  10. ^ 「オテツダヒブタイ」『講談社こうだんしゃ絵本えほんだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1940ねん11月15日刊にっかん最後さいご
  11. ^ 1943ねん出版しゅっぱんの『きた人達ひとたち国華こっかどうわらわしゃかん最後さいご
  12. ^ ここでは線画せんが部長ぶちょうとして山本やまもと早苗さなえ山本やまもと善次郎ぜんじろう)が、次長じちょうとして西倉にしくら喜代治きよじはたらいていた。
  13. ^ 2014ねん現在げんざい玉名たまな市立しりつ梅林ばいりん小学校しょうがっこう
  14. ^ この連載れんさいは、『ぞく猿飛佐助さるとびさすけ』として『おもしろ漫画まんが文庫ぶんこ』の 1かんにまとめられた。
  15. ^ 原作げんさくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく作家さっかジェイムズ・フェニモア・クーパー1826ねん発表はっぴょうした同名どうめい小説しょうせつ
  16. ^ 原作げんさくは1954ねん東宝とうほう映画えいがゴジラ』(本多ほんだいの四郎しろう監督かんとく)。
  17. ^ 原作げんさくは『ゴジラ』の続編ぞくへんにあたる1955ねんの『ゴジラの逆襲ぎゃくしゅう』(小田おだ基義もとよし監督かんとく)。
  18. ^ 『スタミナドンちゃん』『少年しょうねんブック』1967ねん正月しょうがつ臨時りんじ増刊ぞうかんごう)。
  19. ^ 1981ねんには、中野なかの書店しょてんから『杉浦すぎうらしげる傑作けっさく選集せんしゅう』(ぜん 4かん別巻べっかん 1さつ)、1987ねんから1988ねんにかけて、ペップ出版しゅっぱんから『杉浦すぎうらしげるワンダーランド』(ぜん 8かん別巻べっかん 1さつ)、1993ねんから1996ねんに、筑摩書房ちくましょぼうから『杉浦すぎうらしげるマンガかん』(ぜん 5かん)がそれぞれ出版しゅっぱんされた。
  20. ^ 『マンガかんだい5かん絶版ぜっぱんだが、この描ろしは、2009ねん平成へいせい21ねん)に刊行かんこうされた選集せんしゅう、『イエローマン:杉浦すぎうらしげるシュールへんてこりん傑作けっさくせんエンターブレイン ISBN 978-4-7577-4902-3める。
  21. ^ 以降いこう年賀状ねんがじょうなどにイラストをえがいてはいる。
  22. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.86、杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる pp.188 - 189には、1952ねん斉藤さいとう藤巻ふじまき両者りょうしゃ入門にゅうもんとある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.194
  2. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.164
  3. ^ a b 杉浦すぎうらしげる摩訶不思議まかふしぎ世界せかい:へんなの p.80
  4. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる pp.136 - 139
  5. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.54 - 61
  6. ^ a b 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.196
  7. ^ 漫画まんが家人かじんめい事典じてん p.201
  8. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.77-78
  9. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる p.36
  10. ^ 度目どめ仕事しごと日本にっぽん凡人ぼんじんでん p.259
  11. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.61-63
  12. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.149
  13. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる p.147
  14. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.150
  15. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる pp.147 - 155 杉浦すぎうら画業がぎょう漫画まんがぎょう専念せんねんするようになってからも挿絵さしえ松野まつの一夫かずお霜野しもの二一彦ふいひこ親交しんこうている。
  16. ^ のらくろひとりぼっち:おっとかわ水泡すいほうともあゆんで p.135
  17. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.50-51
  18. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる p.37
  19. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.151
  20. ^ 杉浦すぎうら (2002)p.151、井上いのうえ (2002)p.167。猪瀬いのせ (1988)pp.258, 261, 262. や小野寺おのでら (1988)p.191、『漫画まんが家人かじんめい事典じてん』(2003)p.201 などでは、「おもはぬたすぶね」(『少年しょうねん俱楽』1933ねん7がつごうだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃげん講談社こうだんしゃ)と「クロ子くろこのお使つかい」(『少女しょうじょ俱楽どう)が雑誌ざっしデビューということでデビューさくとなっている。それぞれ 1ページのこの2作品さくひんは、かわ紹介しょうかい掲載けいさいされた。
  21. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.166 - 168
  22. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.182 - 183。1使つかったネタを洗練せんれんさせ、創作そうさく活動かつどうの 2、3さい利用りようすることもあった。
  23. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.170 - 173
  24. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.40
  25. ^ 杉浦すぎうら記述きじゅつには「日本にっぽん漫画まんがほう国会こっかい」(杉浦すぎうら (1988)p.187)や「日本にっぽん漫画まんがほう公会こうかい」(杉浦すぎうら (2002)p.46)とあるが、清水しみず (2005)p.38 の記述きじゅつあわせる。
  26. ^ 戦争せんそうとマンガ p.383
  27. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる p.164
  28. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.47 - 48
  29. ^ 度目どめ仕事しごと日本にっぽん凡人ぼんじんでん pp.269 - 270
  30. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.164 - 166
  31. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.157 - 158
  32. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる p.167
  33. ^ a b 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる p.188
  34. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそうp.49, 50. 『少年しょうねん漫画まんが劇場げきじょうだい 8かん筑摩書房ちくましょぼう、1971ねんあとがき(『杉浦すぎうらしげるニコニコ大会たいかいあおりん工藝こうげいしゃ<杉浦すぎうらしげる傑作けっさく選集せんしゅう> 2かん、2009ねん ISBN 978-4-88379-282-5 巻末かんまつ再掲さいけい)には、兵役へいえきから復員ふくいんして、練馬ねりま南町みなみまちげん練馬ねりま桜台さくらだい)にあった漫画まんが動画どうがしゃ入社にゅうしゃ、ここで福井ふくいうもはたらきぶりがわるクビになったとある。
  35. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる pp.30 - 32
  36. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.111 - 113
  37. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.204 - 207 の「漫画まんが映画えいが 題名だいめい関連かんれんリスト」は、杉浦すぎうらがいかに映画えいがて、作品さくひんのネタにしていたかがよくあらわれている。
  38. ^ 度目どめ仕事しごと日本にっぽん凡人ぼんじんでん p.254
  39. ^ 杉浦すぎうらしげる摩訶不思議まかふしぎ世界せかい:へんなの pp.134 - 135
  40. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.117 - 118 このことを後悔こうかいし、2002ねん作品さくひんしゅう杉浦すぎうらしげるマンガかん』(筑摩書房ちくましょぼう)への収録しゅうろくっている
  41. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる p.173
  42. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.108 - 109
  43. ^ 筑摩書房ちくましょぼう編集へんしゅう (1996)p.427
  44. ^ 度目どめ仕事しごと日本にっぽん凡人ぼんじんでん pp.250 - 251
  45. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.81 - 83
  46. ^ あおりん工藝こうげいしゃ編集へんしゅう (2009)p.124
  47. ^ 四方田よもだいぬ彦『日本にっぽん漫画まんがへの感謝かんしゃ』(はつ潮出版社うしおしゅっぱんしゃ、2013ねん11がつ20日はつか、11ぺーじISBN 978-4-267-01961-6 
  48. ^ 戦後せんごギャグマンガ p.70
  49. ^ a b 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる p.63
  50. ^ 智英ともひで (1986)p.134 なお、ここでは、杉浦すぎうらすぎまさきおっととを混同こんどうし、『杉浦すぎうらは、戦前せんぜんから、すぎまさきおっと名前なまえ時評じひょう風俗ふうぞく漫画まんがえがいていたが、戦後せんご画風がふう一新いっしんして...』としているが、これは事実じじつ誤認ごにんであり、前述ぜんじゅつとおり、杉浦すぎうら戦前せんぜんより本名ほんみょう作品さくひん発表はっぴょうしており、杉浦すぎうら本人ほんにんすぎとは別人べつじんであることをべている。杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる』p.175, 178。この誤記ごき双葉ふたば文庫ぶんこはん(1997ねん)において削除さくじょされている。
  51. ^ 杉浦すぎうらまんが研究けんきゅう『まるごと杉浦すぎうらしげる pp.15 - 25
  52. ^ 山口やまぐち (1983)pp.156-159.
  53. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.99
  54. ^ 戦後せんごギャグマンガ pp.70 - 75
  55. ^ 杉浦すぎうらしげる摩訶不思議まかふしぎ世界せかい:へんなの pp.120 - 121
  56. ^ 杉浦すぎうらしげる摩訶不思議まかふしぎ世界せかい:へんなの pp.122 - 123
  57. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.183 - 188
  58. ^ 戦後せんごギャグマンガ p.73
  59. ^ 杉浦すぎうらしげる摩訶不思議まかふしぎ世界せかい:へんなの p.50
  60. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.106
  61. ^ 杉浦すぎうらしげる摩訶不思議まかふしぎ世界せかい:へんなの p.107
  62. ^ 唐澤からさわ俊一しゅんいち異端いたん饒舌じょうぜつ」『彷書月刊げっかん』1994ねん3がつごう、pp.18-20.
  63. ^ a b 戦後せんごギャグマンガ p.75
  64. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.100,102
  65. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.86 - 91
  66. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.96 - 100
  67. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.116 - 117
  68. ^ レレレのおじさんだい解剖かいぼう! - 赤塚あかつか不二夫ふじお公認こうにんサイトこれでいいのだ!!
  69. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.199
  70. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう p.202
  71. ^ 杉浦すぎうらしげる摩訶不思議まかふしぎ世界せかい:へんなの pp.76 - 79
  72. ^ 『おれはさるだ!』講談社こうだんしゃ<手塚てづか治虫おさむ漫画まんが全集ぜんしゅう>、1982ねん昭和しょうわ58ねん)のあとがき
  73. ^ 杉浦すぎうら小僧こぞう部屋へや」『This is 杉浦すぎうらしげる ~Message from杉浦すぎうら小僧こぞう~』(2003『MANGArt』特別とくべつごう)、2003ねん10がつ、pp.68,74,76.
  74. ^ 立石たていし (1988)pp.111 - 114. 初出しょしゅつペップ出版しゅっぱん<杉浦すぎうらしげるワンダーランド> 6かん解説かいせつ、1988ねん
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  76. ^ 杉浦すぎうら小僧こぞう部屋へや」『This is 杉浦すぎうらしげる ~Message from杉浦すぎうら小僧こぞう~』(2003『MANGArt』特別とくべつごう)、2003ねん10がつ、p.54
  77. ^ 横田よこた (1988)pp.96 - 99. 初出しょしゅつペップ出版しゅっぱん<杉浦すぎうらしげるワンダーランド> 1かん解説かいせつ、1987ねん昭和しょうわ62ねん
  78. ^ 細野ほその (1988)p.110 - 111 初出しょしゅつペップ出版しゅっぱん<杉浦すぎうらしげるワンダーランド>かん解説かいせつ、1988ねん
  79. ^ a b 読売新聞よみうりしんぶんのCM『ふうせんガムすけ』へん」『読売新聞よみうりしんぶんCM : YOMIURI ONLINE(読売新聞よみうりしんぶん [リンク]読売新聞よみうりしんぶん
  80. ^ a b c 「スタジオジブリ最新さいしんさく杉浦すぎうらしげる×宮崎駿みやざきはやお×宮崎みやざき吾朗ごろう」『コミックナタリー - スタジオジブリ最新さいしんさく杉浦すぎうらしげる×宮崎駿みやざきはやお×宮崎みやざき吾朗ごろうナターシャ、2009ねん平成へいせい21ねん)7がつ31にち
  81. ^ 杉浦すぎうらしげる自伝じでん回想かいそう pp.135-138

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]