村上むらかみ雅則まさのり

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村上むらかみ 雅則まさのり
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 山梨やまなしけん大月おおつき
生年月日せいねんがっぴ (1944-05-06) 1944ねん5月6にち(80さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
183 cm
83 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき ひだりとうひだり
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1962ねん
はつ出場しゅつじょう NPB / 1963ねん6月1にち
MLB / 1964ねん9月1にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう NPB / 1982ねん10月3にち
MLB / 1965ねん10月1にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
監督かんとく・コーチれき
  • 日本にっぽんハムファイターズ (1986 - 1988)
  • 福岡ふくおかダイエーホークス (1989 - 1990)
  • 西武せいぶライオンズ (1993 - 1994)
  • チーム・エネルゲン

村上むらかみ 雅則まさのり(むらかみ まさのり、1944ねん5月6にち - )は、山梨やまなしけん大月おおつき出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ)・コーチ解説かいせつしゃ評論ひょうろん

アジアじんはつのメジャーリーガーである[1]。メジャー時代じだい愛称あいしょうは「マッシー・ムラカミ」。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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ちちきよし[2]村上むらかみまれたときにはすで満州まんしゅう召集しょうしゅうされており、終戦しゅうせんやく3年間ねんかんソ連それん捕虜ほりょ生活せいかつて、村上むらかみが5さい誕生たんじょうとき舞鶴まいづるこうかえってたため、村上むらかみちち存在そんざいかおらなかった。地元じもとでは旧家きゅうかで、男子だんしまごであるためにそれまで祖父そふをはじめ家族かぞくから少々しょうしょうあまやかされてそだったが、ちち帰郷ききょう翌日よくじつから生活せいかつは180わった。猿橋さるはし郵便ゆうびんきょくちょうとなった[2]ちちには絶対ぜったい服従ふくじゅうで、ことかないと容赦ようしゃなく平手打ひらてうちが反抗はんこう出来できず、ちちには正面しょうめんからものをねだるなど絶対ぜったい出来できなかった[3]

小学しょうがく4ねんにようやくちち許可きょかってソフトボール入部にゅうぶしたが、それは小学生しょうがくせいあいだのみ野球やきゅうをしてもいというものであり、当初とうしょ素手すででプレーしていた。「グラブがしい」と直接ちょくせつちちえない村上むらかみは、あねのアドバイスでちち寝入ねいったのを見計みはからって枕元まくらもとにそっと手紙てがみをし、やっとのことでれた[3]

猿橋さるはし中学校ちゅうがっこう[2]入学にゅうがくするとちちとおりに柔道じゅうどう入部にゅうぶさせられたが、3ヶ月かげつ退すさし、2年生ねんせいあきにはちち内緒ないしょ野球やきゅうはいった。秘密ひみつはすぐに発覚はっかくしたが、地元じもと名士めいしであったちち村上むらかみらが練習れんしゅうしているグランドを横切よこぎり、監督かんとく先生せんせいうために教員きょういんしつにまっすぐはいった。ちちは「息子むすこ勉強べんきょうをおろそかにせず、成績せいせきがらなければ野球やきゅうつづけさせてもよい。」という条件じょうけんざい許可きょかしたが、当時とうじまだわかかった先生せんせいはそのときちち少々しょうしょうふるえていた[3]戦争せんそうシベリアに抑留よくりゅうされた経験けいけんもあるちち戦地せんち何人なんにんもの負傷ふしょうへいたりにし、自身じしん戦地せんち負傷ふしょう入院にゅういんしたことがあったせいか、村上むらかみ外科げかにさせたかった[4]。そのために勉強べんきょうにはかなりうるさいちちであり、当時とうじじゅくがよいもさせられ、中学ちゅうがくで1ねんらずの野球やきゅう生活せいかつえた[3]

高校こうこう時代じだい[編集へんしゅう]

中学ちゅうがく時代じだい頭角とうかくあらわし、人伝ひとづて評判ひょうばんみみにした田丸たまるひとし監督かんとくさそわれ[2]中学ちゅうがく卒業そつぎょう1960ねん法政大学ほうせいだいがくだい高校こうこう進学しんがく村上むらかみふく新人しんじん部員ぶいんやく200めい入部にゅうぶしたため、部員ぶいんかずらすために、毎日まいにち練習れんしゅうわってから過酷かこくなランニングをされていた。3年生ねんせい筆頭ひっとうにグランドをダッシュで10しゅう以上いじょうはしる「ダービー」をやった挙句あげく、グランドを整備せいびしてわるような日々ひびつづき、毎日まいにち20~30めいずつ部員ぶいんった。やすんだものそく退すさとなったため、村上むらかみが3ねん1962ねんまでには部員ぶいんは30めい程度ていどになった[3]

2ねん1961ねんはる選抜せんばつにエース・柴田しばたいさおひか投手とうしゅとして出場しゅつじょうし、準決勝じゅんけっしょう平安へいあんせんでは柴田しばたをリリーフして登板とうばん。この大会たいかい法政ほうせいだかは、決勝けっしょう高松たかまつしょうくだし、前年ぜんねんからのなつはる連覇れんぱ達成たっせいする。1ねんなつ甲子園こうしえん出場しゅつじょうまったさいには田丸たまるが「甲子園こうしえんのベンチにはいりたいか」といてくれたが、村上むらかみは「監督かんとくさんにおまかせします」とこたえてしまい、練習れんしゅう手伝てつだいやスタンドでの応援おうえんまわされていた[2]柴田しばた以外いがいのチームメイトに的場まとばゆうつよしひさし幸彦さちひこがいた。法政ほうせいだか同年どうねんなつ甲子園こうしえんにも出場しゅつじょうするが、村上むらかみけん大会たいかい直前ちょくぜんのバッティング練習れんしゅう打球だきゅう手首てくび直撃ちょくげき骨折こっせつしたため欠場けつじょうし、左手ひだりて包帯ほうたいいて1ねんまえおなじようにスタンドで応援おうえんした[2]秋季しゅうき大会たいかい骨折こっせつ影響えいきょうけん大会たいかい敗退はいたいし、3ねんの1962ねんはる選抜せんばつ出場しゅつじょうかなわなかった。なつはエースとしてけん予選よせん準決勝じゅんけっしょうまで進出しんしゅつするが、直前ちょくぜんかかった食中毒しょくちゅうどく影響えいきょう慶應けいおうだか敗退はいたい甲子園こうしえんにはとどかなかった。

高校こうこう時代じだいよる、テレビでやっていた西部せいぶげきローハイド」をるのがたのしみであった[5]

高卒こうそつ新人しんじん時代じだい~フレズノ時代じだい[編集へんしゅう]

高校こうこう卒業そつぎょう医者いしゃ無理むりでも、特定とくてい郵便ゆうびんきょく[6]であった実家じっかのちぐため[4]大学だいがく進学しんがく予定よていしていたが、村上むらかみめた南海なんかいホークス監督かんとくである鶴岡つるおか一人かずとみずからが村上むらかみ訪問ほうもんし、鶴岡つるおかから「ウチへはいったらアメリカにかせてやる」と口説くどかれ[7]高校こうこう在学ざいがくちゅうの1962ねん9がつ南海なんかい契約けいやくむす[8]。1ねん1963ねんには神宮じんぐうおこなわれたジュニアオールスターゲームウェスタンリーグ選抜せんばつチーム選出せんしゅつ出場しゅつじょうするが、敗戦はいせん投手とうしゅとなる。2ねん1964ねんのキャンプ後半こうはん、いきなり球団きゅうだんフロントからパスポートを準備じゅんびをするようわれ、新人しんじん高橋たかはし博士はかせ田中たなか達彦たつひこともに3がつ10日とおか渡米とべい[4]メジャーリーグジャイアンツ傘下さんかの1Aフレズノに野球やきゅう留学りゅうがく派遣はけんされたが[9]、このとき、ジャイアンツはメジャー昇格しょうかくしゃ場合ばあい、1まんドルの金銭きんせんトレード契約けいやくできるという条項じょうこうれたが、南海なんかいがわ昇格しょうかくしゃるわけがないとこうくくっていた。当時とうじ村上むらかみはまだアメリカのことなどよくらず、羽田空港はねだくうこうからったジェット機じぇっときいちホノルル給油きゅうゆふたたサンフランシスコへとかい、サンフランシスコ上空じょうくうから地上ちじょう見下みおろしたときには「まるでうつくしいおとぎのくに」にたかのようにおもえた[3]到着とうちゃくするとすぐジャイアンツ所有しょゆうキャンドルスティック・パークき、球団きゅうだん関係かんけいしゃ挨拶あいさつしたのちにネクタイをめたままマウンドにったときには「ここでげてみたいなあ」とおもった[4]

村上むらかみ若手わかていちぎょうアリゾナから1あいだほどのフェニックスかったが、そのキャンプ砂漠さばくなかでたった一本いっぽんかよっているみちめんしていて、樹木じゅもくく、とおくに茶色ちゃいろやまがあるだけで、まるで西部せいぶげきているような環境かんきょうであった[3]。アメリカにくまではついていてくれた通訳つうやくも1週間しゅうかん帰国きこくしてしまい、言葉ことばからない3にんだけで1ヵ月かげつはんあいだもマイナーの選手せんしゅたち練習れんしゅうするという心細こころぼそ環境かんきょうであったが、単語たんごだけの会話かいわ終始しゅうし辞書じしょをポケットにグランドに選手せんしゅたち出来できるだけ会話かいわをすることこころがけた[3]村上むらかみが「いまでもわすれられない」とかたっているのは朝食ちょうしょく美味おいしかったことで、当時とうじのホークスのキャンプは米飯べいはん味噌汁みそしる目玉焼めだまやきにアジの干物ひものじゅん和風わふうであり、アメリカのオレンジジュースやフレッシュなレタスのサラダ、ハム、ベーコン、ミルクとうすべてが当時とうじ日本にっぽんではあじわえない贅沢ぜいたくかんうまさをかんじた[3]

最初さいしょ練習れんしゅうあさ10から午後ごご1ぎでわるため時間じかんつぶしに苦労くろうしたが、にちつにつれて友達ともだち出来できたのしくなり、とく日本人にっぽんじんことのない選手せんしゅおおく、こうから英語えいごやスペインはなしかけてきてたのしくごせるようになった[3]はじめはマイナーのシステムをらなかったため、昨日きのう友達ともだちとなった選手せんしゅ翌朝よくあさかけないのでひといてみて「クビになりこくかえらされた」とらされたこともあり、「マイナーの選手せんしゅはまだ契約けいやくをしていないため、実力じつりょくいとすぐそのでクビになる」とかされ、あらためて「アメリカ野球やきゅう社会しゃかいきびしいなぁ」と実感じっかんした[3]練習れんしゅうには時々ときどきヒッチハイクをして100km/hのスピードでやく20ふんもかけて近郊きんこうまちき、ものたのしんだが、練習れんしゅう試合しあいでは最初さいしょ3Aに配属はいぞくされるも途中とちゅうから1Aに降格こうかくさせられ、いつまでっても給料きゅうりょうをくれず、言葉ことばつうじないので理由りゆうくことも出来できなかった[3]。そのうちに日本にっぽんから持参じさんしたかねのこすくなくなり、まちこともやめ、キャンプもわると、村上むらかみら3にん配属はいぞくはバスで24あいだもかかるカリフォルニアしゅうフレズノであった[3]一旦いったんホテルにはいった村上むらかみらはかされていた世話せわをしてくれるという日系にっけいじん後見人こうけんにんったが、3にちってもあらわれず、かねくなってきた村上むらかみらはフレズノにある東京銀行とうきょうぎんこうんで事情じじょう説明せつめいしアパートをさがしてもらうことにしたところ、そこで偶然ぐうぜん出会であった日系にっけいせい佐伯さえきたく下宿げしゅくさせてもらうこととなり、シーズン開幕かいまく月末げつまつに1週間しゅうかんぶんほどの給料きゅうりょうもらった[3]

2週間しゅうかんほどして後輩こうはい2にんモンタナしゅうにあるルーキーリーグへくことになり、村上むらかみ一人ひとりとなったが、佐伯さえき日本語にほんごはなせたこと球場きゅうじょうへのおくむかえをいつもしてくれたためたすかった[3]当初とうしょ派遣はけんは6がつ中旬ちゅうじゅんまでの予定よていであったが、このとしジョー・スタンカ杉浦すぎうらただし両輪りょうりん野村のむら克也かつや広瀬ひろせ叔功よしゆきようして日本一にっぽんいちになるなど戦力せんりょく充実じゅうじつしており、帰還きかん要請ようせいはなかった。村上むらかみはクローザーとして7・8・9かいげる役目やくめまわされ、1Aフレズノは村上むらかみ好投こうとう首位しゅいぱしって8がつ中旬ちゅうじゅんには優勝ゆうしょう確実かくじつにするところまでたあるクラブハウスうち選手せんしゅたち神妙しんみょうかおをしてはなしをしていた[3]。9月1にちからメジャーのベンチわくが25めいから40めいになるということで、この1Aからもだれくかもれないというはなしであり、このチームには、首位しゅい打者だしゃとホームランおう2人ふたり、それに最多さいたしょう投手とうしゅがいるからだれかがくかもれないとうわさをしていて、そのはなしをしているなか一人ひとりに「マッシー!ひょっとしたらきみにもチャンスがあるよ」とわれ、そのとき村上むらかみは「なるほどそんなこともあるのかな~」とおもうくらいであったが、8がつ28にち監督かんとくが「どうもマッシーがメジャーに昇格しょうかくするらしい」とってきて、よく29にち試合しあいまえ村上むらかみにそっと「きみ決定けっていした。マイナーのGMがエアーチケットとホテルのアドレスをってくるからその指示しじしたがいなさい」とつたえてくれた[3]。30にちにはGMが選手せんしゅたちまえ村上むらかみがメジャーに昇格しょうかくすること発表はっぴょうし、選手せんしゅたちしんから祝福しゅくふくしてくれたが、試合しあい村上むらかみあわただしく荷物にもつをまとめて下宿げしゅくさきんでかえるも、これからが大変たいへんであった[3]。31にちあさにプロペラでサンフランシスコにび、ジェット機じぇっときえてニューヨークジョン・F・ケネディ空港くうこうへ、そこからバスでマンハッタンにあるホテルへ一人ひとりかなくてはならず、このときやく半年はんとしあいだ短期間たんきかん習得しゅうとくしたてのつたな英語えいご使つかいながら苦労くろうしてったが、サンフランシスコへだれかがむかえにてもいのではないかともおもった[3]。ホテルでようやくチェックインしようとしたら村上むらかみ名前なまえっておらず、ロビーでつこと20分間ふんかんふたた心細こころぼそくなり、球団きゅうだん職員しょくいんがやって無事ぶじチェックインすることができたが、部屋へやつ2あいだなん連絡れんらくもなくはらってきて、らないまちひょうへもられず仕方しかたなくホテルのレストランへはいった[3]。ウエイトレスに案内あんないされせきこうとすると、スパニッシュけい2人ふたりおとこから「きみはジャパニーズ・ピッチャーか?」とこえけられ、村上むらかみ即座そくざに「そうだ」とうと、2人ふたりは「ここにすわって一緒いっしょべよう」とうのでよろこんで同席どうせきしたが、この2人ふたりはジャイアンツのエースフアン・マリシャル遊撃手ゆうげきしゅホゼ・パガンであるとあとかる[3]。メニューがからずどうぶつたのんでべ、昨日きのうまでの1Aではホットドッグかハンバーグがご馳走ちそうであった村上むらかみには値段ねだんたかおどろいたが、このときでも「今日きょう同席どうせき2人ふたりわせてローストビーフでも仕方しかたないが、給料きゅうりょうやすわたしはとても明日あしたからはこんな贅沢ぜいたく出来できない」とかんがえてしまった[3]

ジャイアンツ時代じだい[編集へんしゅう]

9月1にち村上むらかみはメジャーの選手せんしゅ紹介しょうかいされてニューヨーク万博ばんぱくったのち会場かいじょうとなりにあるメッツ本拠地ほんきょちシェイ・スタジアムったが、日本にっぽん球場きゅうじょうよりも綺麗きれいで、前日ぜんじつまでいたへい薄暗うすぐら球場きゅうじょう試合しあいをしていたためか、出来できたて(このとし開場かいじょう)の球場きゅうじょう本当ほんとううつくしくおもえた[3]練習れんしゅうしていた村上むらかみはアンダーシャツのいろがジャイアンツカラーとちがったほか、そのいろがライバルのドジャースカラーで突然とつぜんしかられてしまったが、村上むらかみはすぐにそでりグランドにんで練習れんしゅうをしていると、球団きゅうだん職員しょくいん村上むらかみびにて、契約けいやくしょにサインをするようにった[3]村上むらかみはフレズノをとき契約けいやくしょには十分じゅうぶんけなさいよ」とわれていて拒否きょひつづけたが、がんとしてこば村上むらかみ球団きゅうだん職員しょくいんこまはててスタンドから日本語にほんごかるひとさがしてきて、説明せつめいいてはじめて納得なっとくしてサインをしたのは試合しあい開始かいし15ふんまえであり、GMはその契約けいやくしょつやいな電話でんわところはしっていき、ナショナル・リーグ事務じむきょく電話でんわ報告ほうこくしていた[3]

ゲーム開始かいし村上むらかみはすぐレフトがわにあるブルペンへくようわれ、試合しあいはジャイアンツがてんれずに7かいわったところで4-0とリードされていた8かいひょうのブルペンに「8かいうらマッシーがけ」と電話でんわはいり、すでにウォームアップはしていたものの、いざまるとすこ緊張きんちょうした[3]。8かいうら場内じょうないアナウンスが「ナウ・ピッチング!ナンバー・テン・マサノリ・ムラカミ」とひびき、ブルペンで最後さいごいちきゅう力一杯ちからいっぱいげレフトフェンスのとびら場内じょうないはいってくと、カクテル光線こうせんらされた緑色みどりいろ芝生しばふうえ一歩一歩いっぽいっぽめながらマウンドへかったが、4まん大観たいかんしゅなか緊張きんちょうのあまりあがってはいけないとおもって咄嗟とっさ坂本さかもときゅうの「スキヤキ・ソング」をくちずさみながらマウンドにすすみ、アルヴィン・ダーク監督かんとく捕手ほしゅ内野ないやしゅあつまり「グッドラック!」とはげましてくれたほか、スタンドのこえ言葉ことばつうじなかったのがさいわいしてかウォーミングアップは意外いがいいて出来でき[3]。1きゅうのサインはアウトコースの速球そっきゅうで、おもっていたとおりに村上むらかみ気持きもちが捕手ほしゅトム・ハラーつたわり、アウトローへパーフェクトのストライク、そして三振さんしん安打あんだ三振さんしんゆうゴロにりデビューを0におさえることができ、チームは2-4で続投ぞくとう出来できなかったもののアジアじんとしてはじめてメジャー登板とうばんたし、村上むらかみ翌朝よくあさ新聞しんぶんとき各紙かくしおおきな見出みだしで「日本人にっぽんじんはつのメジャー・リーガー」とかれてむね高鳴たかなった[3]。マイナー時代じだいから一転いってんして一流いちりゅうのホテル、一流いちりゅうのレストランと待遇たいぐうおおきくわり、ニューヨーク→フィラデルフィアヒューストン転戦てんせんして本拠地ほんきょちサンフランシスコにかえったときは、空港くうこうにアメリカじんもとより日系にっけいじん村上むらかみ快挙かいきょ祝福しゅくふくしにあつまっていた[3]。9月29にちコルト45'sせんでは9かい同点どうてん場面ばめん登板とうばんして11かいまでを失点しってんおさえ、11かいにチームがサヨナラちしたためアジアじんはつのメジャー勝利しょうり投手とうしゅとなった。同年どうねんは9試合しあいげ1しょう1セーブ・防御ぼうぎょりつ1.80の好成績こうせいせきおさめたが、当時とうじ日本にっぽん東京とうきょう五輪ごりん準備じゅんび開催かいさい只中ただなかであったため、日本にっぽんマスコミのあつかいはちいさかった。

メジャー1ねんのシーズンオフはアリゾナのウインターリーグ参加さんかし、アリゾナ州立しゅうりつ大学だいがく学長がくちょう日系にっけい2せいで、一人ひとりでは大変たいへんだろうからと、電気でんきがまやテレビをしてくれた[5]。11月にアメリカを代表だいひょうするコメディアンであるボブ・ホープのショーをハリウッドまでくと、チームの先輩せんぱいており、「今日きょうめずらしいおきゃくさまがています」と一緒いっしょ紹介しょうかいされたこともあった[5]

1965ねんもジャイアンツとの契約けいやくむすんだが、そのオフにホークス球団きゅうだん留学りゅうがくさい契約けいやく反故ほごにし村上むらかみ帰還きかんさせるよう主張しゅちょうしたことで、村上むらかみ保有ほゆうけんめぐりホークス・ジャイアンツりょう球団きゅうだんあいだ紛糾ふんきゅう勃発ぼっぱつした。はないは平行へいこうせんをたどり、また、メジャーリーグのフォード・フリックコミッショナー当然とうぜんのことながらジャイアンツを全面ぜんめん支持しじした。これにたいし、日本にっぽん野球やきゅう機構きこう内村うちむら祐之ひろゆきコミッショナーは1965ねんシーズン終了しゅうりょうをもって復帰ふっきさせるという妥協だきょうあん提示ていじ[5]、シーズン開幕かいまくの4がつまつにようやく決着けっちゃくした。このときなが時間じかんなやまされた村上むらかみは、2がつのキャンプに参加さんかして、その大阪おおさか球場きゅうじょう中百舌鳥なかもず球場きゅうじょう練習れんしゅう。たまに一軍いちぐん打撃だげき投手とうしゅ手伝てつだったりもしたが、練習れんしゅうはしていいものの、公式こうしきせん出場しゅつじょうみとめられなかったため、開幕かいまくごろ状態じょうたいとなった[5]さい渡米とべいするさい鶴岡つるおかに「この決定けっていがあと1ヶ月かげつおそければプロ野球やきゅうかいからあしあらうつもりでした」とつたえた[5]

5月5にちさい渡米とべいしチームに合流ごうりゅうすると、よく6にちには再会さいかいしゅくしておな誕生たんじょうであるキャプテンのウイリー・メイズ誕生たんじょうともいわったが、そのとき村上むらかみには一抹いちまつ不安ふあんがあり、練習れんしゅうはしていてもまだゲームでげたことがなく、メジャーリーガー相手あいてにどれだけのピッチングが出来できるのか自信じしんはなかった[3]最初さいしょの5試合しあいほど納得なっとくのいく内容ないようではなかったが、徐々じょじょ自分じぶんのピッチングが出来できるようになり、とくにドジャース相手あいてには内容ないようく、村上むらかみがあまりにもドジャースに好投こうとうするので、監督かんとく村上むらかみ使つかうところすという脅迫きょうはくじょう一時いちじFBI見張みはっていたということもあった[3]。シーズンちゅうには色々いろいろ出来事できごとがあり、ある試合しあいで、マウンドへやってきたハーマン・フランクス監督かんとくに「Herman!Take a hike!!」とったことがあり、翌日よくじつ新聞しんぶんに「マッシーが監督かんとくかえした」という記事きじ掲載けいさいされた[5]おどろいて調しらべると、「あっちへけ」「ていけ」という意味いみスラングであった[5]監督かんとく試合しあい勝利しょうりして機嫌きげんそこねなかったが、村上むらかみ意味いみっていたら絶対ぜったいわなかった[5]じつは、出番でばんがやってきてブルペンをようとしたら、ブルペン捕手ほしゅが「もし監督かんとく捕手ほしゅがマウンドへようとしたら、Take a hike!!とさけぶんだぞ」とったため、村上むらかみわれたとおりにしただけであった[5]。フレズノ時代じだいもチームメイトからスラングをおそわって、下宿げしゅくさき寮母りょうぼ意味いみいたところ、「絶対ぜったい白人はくじん女性じょせいかってうんじゃないよ。下手へたすりゃ刑務所けいむしょきだよ」とおびやかされた[5]

あるのドジャースせんの8かい2で、サンディー・コーファックス打順だじゅんまわったさい、ベンチからなに指示しじて、村上むらかみ最初さいしょ相手あいて投手とうしゅだけど、なかげるとたれるぞ」という意味いみだとおもった[5]凡打ぼんだ仕留しとめてベンチへもどると「どうしてアウトにしたんだ。きわどいコースをねらって、あるかせてほしかった」とかえってきた[5]つぎ打者だしゃは6ねん連続れんぞく盗塁とうるいおうモーリー・ウイルスで、つぎかい出塁しゅつるいされると盗塁とうるいされて得点とくてんされるから、一塁いちるいめて勝負しょうぶしろということであった[5]。ウイルスはつぎかいに、いちよこしまっている[5]

6月29にちのドジャースせんではコーファックスから三塁さんるいまえへバント安打あんだめてアジアじんはつはつ安打あんだ記録きろくし、8がつ15にちには「ムラカミデー」と銘打めいうたれた試合しあいで、メジャーでは最初さいしょ最後さいごとなる先発せんぱつ経験けいけんした[5]

ドジャースせん打席だせきはいったマリシャルがきざまにバットで捕手ほしゅジョン・ローズボロ頭部とうぶ一撃いちげきしたとき[10]、10分間ふんかんほど乱闘らんとうすえにプレーが再開さいかいし、3ばんのメイズはコーファックスのカーブを見事みごとに3ラン本塁打ほんるいだしてジャイアンツは勝利しょうりしたが、そのメイズのユニホームは頭部とうぶられたローズボロの鮮血せんけつまっていて、村上むらかみもこの試合しあいおさえでてセーブをった[3]。このとし中継なかつぎとして45試合しあい登板とうばんいちはクローザーをまかされるほどの活躍かつやくせ、4しょう1はい8セーブ・防御ぼうぎょりつ3.75の好成績こうせいせきのこした。

村上むらかみ都合つごう2年間ねんかんメジャーでプレーし[11]、ジャイアンツがわ1966ねん貴重きちょう戦力せんりょくとしてさい契約けいやくする意向いこうであった。日米にちべいどちらでプレーするか選択せんたくけんがあるとかんがえていた村上むらかみもメジャーでのプレーをのぞんでいたが、入団にゅうだん鶴岡つるおかとの約束やくそくである「野球やきゅう留学りゅうがく」という言葉ことば念頭ねんとうに、約束やくそくげてまで自分勝手じぶんがって決定けってい出来できないとかんがえ、あえて復帰ふっき最終さいしゅうてき1995ねんにメジャーに移籍いせきした野茂のも英雄ひでお登場とうじょう以降いこうすうおおくの日本人にっぽんじんだいリーガーの活躍かつやくによって村上むらかみのこした戦績せんせき相対そうたいてきちいさなものとなってしまったが、上記じょうきのようにまだわかく、しかも成績せいせき上昇じょうしょうちゅうなか無理矢理むりやり帰国きこくさせられたこと、二人ふたり野茂のもに30ねんさきんじていることをわせると、そのたした歴史れきしてき役割やくわり非常ひじょうおおきい。しかし村上むらかみ自身じしんは95ねん3がつ週刊しゅうかんベースボール誌上しじょうで「ベロビーチ・キャンプ・リポート! もとだいリーガー!マッシーむらじょう野茂のも<ドジャース>のあまえをしかる!!」とだいして誌上しじょう4ページを使用しようして、野茂のも批判ひはんしている[12]

メジャーリーグへの移籍いせき相談そうだん鶴岡つるおか自宅じたく出向でむいたさいに、から先輩せんぱい外野がいやしゅ大沢おおさわ啓二けいじが「こんなつめたいチームに義理立ぎりだてする必要ひつようはない」とって鶴岡つるおか口論こうろんになったという[13]一方いっぽう当時とうじ千葉ちばロッテマリーンズ前身ぜんしん東京とうきょうオリオンズ当時とうじ青木あおき一三かずみスカウト部長ぶちょうは、10ねん選手せんしゅ制度せいど移籍いせき原因げんいんであることをみとめたうえで、鶴岡つるおかみずか青木あおきに「(大沢おおさわを)ってやってくれ」という依頼いらいをしてきたと著書ちょしょしるしている

日本にっぽん球界きゅうかい復帰ふっき~SFジャイアンツ打撃だげき投手とうしゅ[編集へんしゅう]

1965ねんオフに鶴岡つるおか勇退ゆうたい予定よていが、後任こうにん蔭山かげやま和夫かずお急死きゅうしで、あらためて鶴岡つるおか復帰ふっきした[14]村上むらかみはまだアメリカで野球やきゅうつづけたかったが、鶴岡つるおかへの義理ぎりたすため[14]1966ねん復帰ふっきした[14]。アメリカでメジャーリーガーの筋肉きんにくすごさをたりにし、帰国きこくすると鍛冶たんや職人しょくにん実家じっかにあったものより2ばいくらいおもまさかりつくってもらった[15]。3kgほどのまさかりを使つかって、オフのあいだ実家じっか風呂ふろ使つかたきぎった[15]。1ねんぶんを1ヶ月かげつあいだったためたしかに筋肉きんにくはついたが、今度こんどからだれがなくなった[15]。ある有名ゆうめいなOBが新聞しんぶんに「ひだり投手とうしゅはオーバースローじゃないと大成たいせいしない」といていたため、スリークオーターであったフォームもえたが、左肩ひだりかたうしろがいたくなって、ボールがおもうようにいかなくなった[15]。そのため同年どうねんは6しょう4はい防御ぼうぎょりつ3.08を記録きろくしてリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけんするが、当初とうしょ期待きたいほどの活躍かつやくはできず不評ふひょうう。巨人きょじん敗退はいたいした日本にっぽんシリーズでは、リリーフながらぜん6戦中せんちゅう5せん登板とうばん1967ねんも41試合しあい登板とうばんするが、3しょう1はい防御ぼうぎょりつ4.03とぼしびなかった[15]1968ねんにはおおきく飛躍ひやくし、6月29にち近鉄きんてつたたかえ大阪おおさか)で日本にっぽんでのはつ先発せんぱつ完投かんとう勝利しょうりかざると、先発せんぱつにリリーフにフル回転かいてん[15]。7月9にち埼玉さいたま西武せいぶライオンズ前身ぜんしん西鉄にしてつライオンズせん大阪おおさか)から9がつ1にち東京とうきょうせん大阪おおさか)まで12連勝れんしょう記録きろくする[15]同年どうねんはじめて規定きてい投球とうきゅうかい皆川みなかわ睦雄むつおぐリーグ2防御ぼうぎょりつ2.38)にたっし、18しょう(これも皆川みなかわ睦雄むつおぐリーグ2)4はい記録きろく勝率しょうりつ.818で最高さいこう勝率しょうりつのタイトルを獲得かくとくした。ぐんげているとき渡会わたらい純男すみおが「いまのおまえうえからげているけど、ひじ位置いちげてみたらどうだ」とアドバイスし、スリークオーターにもどすと、たまれがてきたのが飛躍ひやくのきっかけであった[15]。その先発せんぱつとして活躍かつやくつづけ、1971ねんにはチーム1の14しょう1971ねんのオールスターゲーム (日本にっぽんプロ野球やきゅう)でも野村のむら捕手ほしゅとバッテリー中日ちゅうにち球場きゅうじょうでのだい2せんでは4かいうら3ばんおう貞治さだはる二塁打にるいだびたが4ばん長嶋ながしま茂雄しげお5ばん代打だいだ田淵たぶち幸一こういちり、後楽園こうらくえん球場きゅうじょうでのだい3せんでは6かいひょうオールセントラルの一番いちばん打者だしゃ高校こうこう先輩せんぱい柴田しばたゆうげきゴロにった。1973ねんには先発せんぱつじんはずれたものの、前期ぜんき優勝ゆうしょうおよ1973ねんのパシフィック・リーグプレーオフ制覇せいは貢献こうけんし、同年どうねん巨人きょじんとの日本にっぽんシリーズでも登板とうばん

1972ねんころからは選手せんしゅ兼任けんにん監督かんとくたる野村のむら自身じしん起用きようほう不満ふまんがあり[8]1974ねんには登板とうばん機会きかい減少げんしょう同年どうねんオフには相羽あいば欣厚ともに、和田わだとおる野上のかみ俊夫としおとの交換こうかんトレードで、吉田よしだ義男よしおしん監督かんとくひきいる阪神はんしんタイガース移籍いせき阪神はんしんではおも中継なかつぎとして起用きようされるが、9月14にち大洋たいようたたかえ甲子園こうしえん)で1試合しあいだけローテーションの谷間たにま先発せんぱつし、早々そうそうまれ敗戦はいせん投手とうしゅとなった。またフレズノ時代じだいのチームメイトで、前年ぜんねんから阪神はんしん在籍ざいせきしていたボビー・テーラーと11ねんぶりに再会さいかいしている。

1975ねんオフに後藤ごとう和昭かずあきとも東田ひがしだ正義まさよしとの交換こうかんトレードで、かつての同僚どうりょうである大沢新おおざわしん監督かんとくひきいる日本にっぽんハムファイターズ移籍いせき1976ねんから中継なかつぎとして復活ふっかつし、1977ねんにはリーグ最多さいた登板とうばん記録きろく1978ねんも2ねん連続れんぞくリーグ最多さいた登板とうばんで12しょう10セーブをげたが、三原みはらおさむ球団きゅうだん社長しゃちょうは「投手とうしゅというのは稲尾いなお和久かずひさみたいに、先発せんぱつ完投かんとうしないといけないんだ」とって、給料きゅうりょうげてくれなかった[15]。その安定あんていした活躍かつやくつづけ、1981ねんには日本にほんハムの後期こうき優勝ゆうしょうおよ年間ねんかん勝率しょうりつトップ、そして1981ねんのパシフィック・リーグプレーオフ制覇せいは貢献こうけん同年どうねん巨人きょじんとの日本にっぽんシリーズでは2試合しあい登板とうばん

1982ねん日本にほんハムは2ねん連続れんぞく後期こうき優勝ゆうしょうおよ年間ねんかん勝率しょうりつ1となったが自身じしんわずか2試合しあい登板とうばんわり、プレーオフ登板とうばん機会きかいくオフに退団たいだんし、これが現役げんえき選手せんしゅとしての引退いんたいとなった。

1983ねん、サンフランシスコ・ジャイアンツのスプリングキャンプに参加さんか選手せんしゅ契約けいやくにはいたらなかったが、ホームゲーム専用せんよう打撃だげき投手とうしゅとして契約けいやくした。

解説かいせつしゃ-コーチ時代じだい[編集へんしゅう]

帰国きこくは「マッシー・村上むらかみ名義めいぎでニッポン放送ほうそうショウアップナイター解説かいせつしゃ1984ねん - 1985ねん)をつとめ、大沢おおさわ球団きゅうだん常務じょうむ要請ようせい古巣ふるす日本にほんハムぐん投手とうしゅコーチ(1986ねん - 1988ねん[16]つとめた。

1989ねんからは杉浦すぎうらただし監督かんとく要請ようせいダイエーグループが南海電鉄なんかいでんてつから買収ばいしゅうのホークス一軍いちぐん投手とうしゅコーチ[16]就任しゅうにんし、1990ねんぐん投手とうしゅコーチをつとめるも解任かいにん[16]。ホークスぐん投手とうしゅコーチ解任かいにんNHK BS1解説かいせつしゃ1991ねん - 1992ねん)をて、もり祇晶ぎしょう監督かんとく推薦すいせん西武せいぶぐん投手とうしゅコーチ(1993ねん - 1994ねん)をつとめた[16]日本にっぽんハムコーチ時代じだいには松浦まつうら宏明ひろあき一軍いちぐんおくしたことを大沢おおさわ評価ひょうかされ、1987ねんオフに一軍いちぐん投手とうしゅコーチへの配置はいち転換てんかんはなしたが、高田たかだしげる監督かんとく村上むらかみ一軍いちぐんコーチ加入かにゅう拒否きょひ翌年よくねんぐん投手とうしゅコーチをつとめて退団たいだんするが、しくも高田たかだも1988ねんかぎりで日本にほんハムを退団たいだんしている[16]。1994ねんにはSFジャイアンツ入団にゅうだん30周年しゅうねん記念きねんもよおしを“マッシー・デー”としてサンフランシスコでひらき、西武せいぶ退団たいだんの1995ねんにはメジャーリーグOBオールスターゲームに日本人にっぽんじんとしてはじめて出場しゅつじょう

1999ねんから2000ねんには日本にっぽんはつのアマ野球やきゅう硬式こうしき全日本ぜんにほん女子じょしチーム「チーム・エネルゲン」初代しょだい監督かんとくつと[17][18]2001ねんからはゼネラル・マネージャーとなり[19]、「チーム・アミノバリュー」に改称かいしょうした2004ねんまでつとめた[20]

現在げんざい[編集へんしゅう]

そのはサンフランシスコ・ジャイアンツ極東きょくとう担当たんとうスカウト、デイリースポーツ評論ひょうろん2018ねんまでNHK-BS1「メジャーリーグ中継ちゅうけい解説かいせつしゃつとめた。2019ねんからはJ SPORTSメジャーリーグ中継ちゅうけい解説かいせつしゃとして活動かつどうプロ野球やきゅうマスターズリーグ東京とうきょうドリームスにも参加さんかしていた。

2014ねん5月15にちにサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地ほんきょちAT&Tパークおこなわれたマーリンズせん試合しあいまえ始球しきゅうしきつとめた。2015ねん6がつまつからはやく3週間しゅうかん渡米とべい[15]同年どうねんはるにアメリカで村上むらかみ半生はんせい出版しゅっぱんされたため、宣伝せんでん講演こうえんシカゴボストン→ニューヨーク→クーパーズタウンロサンゼルス→サンフランシスコなどをまわり、シンシナティオールスターゲーム観戦かんせんして帰国きこくした[15]

2024ねん5月17にち、サンフランシスコでおこなわれたロッキーズとの試合しあい始球しきゅうしきおこなった[21]

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1963 南海なんかい 3 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 10 2.0 2 1 2 0 0 2 0 0 1 1 4.50 2.00
1964 SF 9 0 0 0 0 1 0 1 -- 1.000 53 15.0 8 1 1 0 0 15 0 1 3 3 1.80 0.60
1965 45 1 0 0 0 4 1 8 -- .800 304 74.1 57 9 22 5 3 85 3 0 31 31 3.75 1.06
1966 南海なんかい 46 2 0 0 0 6 4 -- -- .600 387 96.1 80 10 25 1 8 66 1 0 34 33 3.08 1.09
1967 41 1 0 0 0 3 1 -- -- .750 340 80.1 72 11 26 0 7 60 2 0 36 36 4.03 1.22
1968 40 19 9 1 1 18 4 -- -- .818 718 177.2 141 18 40 3 10 90 1 0 54 47 2.38 1.02
1969 31 14 3 0 1 7 9 -- -- .438 513 119.0 139 19 32 1 3 47 0 0 64 60 4.54 1.44
1970 32 24 9 2 2 11 11 -- -- .500 791 191.1 167 18 52 2 14 75 1 0 79 69 3.25 1.14
1971 38 31 13 0 0 14 15 -- -- .483 992 234.2 233 36 63 3 16 78 0 0 122 107 4.10 1.26
1972 33 19 6 1 1 11 9 -- -- .550 652 147.1 156 20 46 0 20 57 3 1 79 70 4.28 1.37
1973 23 8 0 0 0 2 4 -- -- .333 295 65.2 75 8 25 0 7 27 1 0 42 38 5.21 1.52
1974 10 2 1 1 0 1 2 0 -- .333 89 24.2 13 1 3 0 3 10 0 0 7 5 1.82 0.65
1975 阪神はんしん 18 1 0 0 0 2 1 1 -- .667 89 19.1 24 4 7 0 2 8 0 0 14 11 5.12 1.60
1976 日本にほんハム 32 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 229 53.0 61 7 15 0 0 17 0 0 24 22 3.74 1.43
1977 61 0 0 0 0 7 4 6 -- .636 446 112.1 96 7 19 8 3 78 0 0 36 29 2.32 1.02
1978 57 2 0 0 0 12 11 10 -- .522 530 130.2 125 12 29 9 9 59 0 0 54 44 3.03 1.18
1979 45 0 0 0 0 5 3 11 -- .625 419 98.2 101 16 30 5 6 42 1 0 50 46 4.20 1.33
1980 37 0 0 0 0 2 3 2 -- .400 294 67.0 70 12 28 3 4 31 0 0 39 35 4.70 1.46
1981 17 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 98 20.1 28 1 9 1 1 10 0 1 13 10 4.43 1.82
1982 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 10 2.0 3 0 1 0 0 1 0 0 2 2 9.00 2.00
NPB:18ねん 566 124 41 5 5 103 82 30 -- .557 6902 1642.1 1586 201 452 36 113 758 10 2 750 665 3.64 1.24
MLB:2ねん 54 1 0 0 0 5 1 9 -- .833 357 89.1 65 10 23 5 3 100 3 1 34 34 3.43 0.99
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル[編集へんしゅう]

NPB

記録きろく[編集へんしゅう]

NPBはつ記録きろく
NPB節目ふしめ記録きろく
  • 100しょう:1979ねん6がつ17にちたい近鉄きんてつバファローズ前期ぜんき11回戦かいせん藤井寺ふじいでら球場きゅうじょう)、5かいうら2に2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、4かい1/3を失点しってん ※史上しじょう74にん
  • 500試合しあい登板とうばん:1979ねん8がつ29にちたい南海なんかいホークス後期こうき8回戦かいせん後楽園こうらくえん球場きゅうじょう)、6かいひょう2に3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、3かい1/3を失点しってん ※史上しじょう41にん
NPBその記録きろく

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 10 (1962ねん - 1964ねん
  • 37 (1965ねん、1976ねん - 1982ねん
  • 15 (1966ねん - 1974ねん
  • 12 (1975ねん
  • 73 (1987ねん - 1988ねん
  • 85 (1989ねん
  • 74 (1990ねん
  • 76 (1993ねん - 1994ねん

関連かんれん情報じょうほう[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

たんちょ[編集へんしゅう]

監修かんしゅう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ “【山梨やまなしけん投打とうだ中心ちゅうしんは“甲斐かいしょう天狗てんぐ”/都道府県とどうふけんべつドリームチーム”. 週刊しゅうかんベースボールONLINE. (2018ねん7がつ31にち). http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180731-10 2020ねん2がつ18にち閲覧えつらん 
  2. ^ a b c d e f わたし失敗しっぱい(1)】村上むらかみ雅則まさのり高校こうこう2ねん骨折こっせつ」 - サンスポ
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 40ねんまえ日本人にっぽんじんだいリーガーがいた!~マッシー村上むらかみ
  4. ^ a b c d わたし失敗しっぱい(2)】村上むらかみ雅則まさのり米国べいこくで…あわや一文いちぶんし - サンスポ
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p わたし失敗しっぱい(3)】村上むらかみ雅則まさのりべい残留ざんりゅう悪者わるものあつかい(1/2ページ) - サンスポ
  6. ^ 市街地しがいち住宅じゅうたく存在そんざいする窓口まどぐちせんもん郵便ゆうびんきょく
  7. ^ スポーツニッポン村上むらかみ雅則まさのりみち2016ねん7がつ9にち
  8. ^ a b スポーツニッポン村上むらかみ雅則まさのりみち2016ねん7がつ27にち
  9. ^ スポーツニッポン村上むらかみ雅則まさのりみち2016ねん7がつ12にち
  10. ^ Juan Marichal took a bat to Roseboro in 1965 fracas - ワシントン・タイムズ、2004ねん8がつ23にち
  11. ^ くわしくは日本人にっぽんじん選手せんしゅのメジャーリーグ挑戦ちょうせん参照さんしょう
  12. ^ 週刊しゅうかんベースボール1995ねん3がつ27にちごうp20~23
  13. ^ 球道きゅうどう無頼ぶらい』P91 - 92。
  14. ^ a b c スポーツニッポン村上むらかみ雅則まさのりみち2016ねん7がつ23にち
  15. ^ a b c d e f g h i j k わたし失敗しっぱい(5)】村上むらかみ雅則まさのり筋肉きんにくつけたらからだれがなくなって…(1/2ページ) - サンスポ
  16. ^ a b c d e スポーツニッポン村上むらかみ雅則まさのりみち2016ねん7がつ30にち
  17. ^ だい1 全日本ぜんにほん女子じょし硬式こうしき野球やきゅうチーム(チーム・エネルゲン)
  18. ^ だい2 全日本ぜんにほん女子じょし硬式こうしき野球やきゅうチーム(チーム・エネルゲン)
  19. ^ だい3 全日本ぜんにほん女子じょし硬式こうしき野球やきゅうチーム(チーム・エネルゲン)
  20. ^ だい6 全日本ぜんにほん女子じょし硬式こうしき野球やきゅうチーム(チーム・アミノバリュー)
  21. ^ 【MLB】村上むらかみ雅則まさのり始球しきゅうしき 日本人にっぽんじんはつだいリーガー、デビューから60ねん”. サンケイスポーツ (2024ねん5がつ18にち). 2024ねん5がつ18にち閲覧えつらん
  22. ^ 講談社こうだんしゃかん 宇佐美うさみ徹也てつやちょ日本にっぽんプロ野球やきゅう記録きろく大鑑たいかん」645ページ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]